第8話 揺るぎない未来(完)

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あれから、仕事で杭瀬村の近くを通る時には大木先生のお家に顔を出していた。美味しいご飯を食べさせてくれるから……という期待もあったけれど、一番は先生に会いたいから。

卒業してから数年たっても、いまだ心の中で想い続けているなんて我ながら一途すぎる。何度も何度も忘れようとしたけれど、その度に苦しくなって忘れるどころか想いが強くなっていくのだ。

予想外の再会は、秘めた気持ちを再認識させるのに十分だった。先生の思わせぶりな言葉が頭の中を埋め尽くす。相変わらずの明るさで、何でもない風に振る舞うのだから先生はズルい。


そんな自分に苦笑いしつつ、今日も杭瀬村に向かっている。小間物屋で一目惚れした紅をさしちゃって、少し浮かれているかもしれない。

店で賑わう通りを抜けると民家がポツポツと見えてくる。活気のある声はいつの間にか鳥のさえずりや草木の擦れる音に移り変わって、そのうち田畑が広がる風景が現れると大木先生のお家はすぐそこだ。


「大木せんせー!」

大きな声で呼びかける先には、青々とした畑に身体を埋める先生。私に気が付くと立ち上がって手を振ってくれた。ケロちゃんは先生のそばで雑草を食んでいるから、今回は着物を食べられる心配はないだろう。

「おお、名前じゃないか! ちょうど人手が欲しいと思っていたんだ」

先生のそばまで駆け寄ると、待ってました!とばかりに空っぽのカゴを渡される。

「準備がいいですね」

「なんとなくお前がくる気がしてな。さっそくだが大根を収穫していってくれ」

その言葉が嬉しくて意気揚々と手伝いを始める。まずは青い葉と土をかき分け、太くて立派に育っているかを確認してから引き抜いた。土を払ってやると先生が手塩にかけた結晶が現れた。


先生と並んでしゃがみ、近況をぽつぽつ話す。それは美味しい甘味処を見つけたとか、面白い本の話だとか、たわいもないこと。先生は手は止めず楽しそうに相槌を打っていた。

緑あふれる中だからか、忍術学園の時とは違って先生がのびのびしている気がする。教師のときは厳しく、いかにも"先生"という感じだったのに。太陽に照らされる彼の笑顔を見ると、それほどまでに大変な仕事だったのかと思い知らされた。

「大木先生は最近どうです?」

「そうだなぁ、晴れの日には畑を耕して雨の日には内職をする。毎日が同じことの繰り返しだ」

「学園のときとは大違いです」

「この生活もなかなか良いぞ! ラビちゃん達もいるしな」

「あはは。先生、デレデレになってますもんね」

先生がニヤけながらうさぎとヤギに囲まれる姿を思い浮かべ、ぷっと吹き出した。教師は辞めたけれど忍者は続けているようだから、この生活が先生にとって充実していたら何よりだ。

「いや、少し変わったこともあった」

「……え?」

落ち着いた声色で先生がつぶやくから、大根を引き抜く手を止める。野菜に向けた視線を隣へと移した。先生は遠くを見つめていて表情が読み取れない。

「知り合いの農家の旦那がな、戦に駆り出されるはずだったんだ。だがその話はなくなった」

「じゃあ、その方は戦に行かなくて済んだのですね。よかった……!」

「あぁ。村人は戦がなくなり不思議がった。神や仏のおかげだと言っていたが、わしは違うと確信している」

「どういうことです?」

先生はやおら私に向き直り、口元に小さく笑みを浮かべた。

「戦を阻止した者がいるということだ」

「……っ」

「どこかに必ず、な」

そうだろう?と言わんばかりの先生に、言葉が出ない。だって、この間の忍務で敵城に忍び込み、武器をダメにしたのはこの私なのだから。

誰かを救えたこと、それから大木先生にお見通しなこと。驚きのあとに、じわじわと胸が熱くなってくる。

「忍者の仕業だったりして?」

知らないフリで、ぺろっと舌を出してふざけてみる。先生は「そりゃすごい!」なんて言って、楽しそうに話を合わせてくれた。



懐かしい深緑の並木道。
すぐ近くには裏山が丸くそびえる。

大木先生からの勧めもあって、今日は久しぶりに忍術学園へ向かっている。静かな林道を進むと立派な正門が見えてきた。

卒業から数年が経っているけれど、忍術学園へ続く道や景色は何も変わっていなかった。なんだか、くのたまに戻ったような気がする。

「こんにちは、卒業生の名前です」

「は〜い、いま開けますね!」

ギギーッと蝶番が擦れ合う音とともに、のんびりとした声が聞こえてきた。ゆっくり開かれた戸の先には、濃いねずみ色の装束を着た青年が立っている。

「初めてお会いしますね〜」

「卒業してから、学園へ来るのは久しぶりなんです。名前といいます」

「そうですかぁ。あ、名前さん。入門票にサインをお願いします!」

小松田秀作と名乗った青年に、ぐいっと入門票を差し出される。私がくのたまの頃は事務のおばちゃんだったっけ、なんて思い返していた。

「今日はどんなご用ですか?」

「山本シナ先生に会いに来たんです」

「えーっと、シナ先生なら食堂で見かけましたよ」

小松田さんは「まだいるかなぁ?」とつぶやきながら戸を閉めた。軽く頭を下げてから食堂を目指す。


少し遠回りをして学園内を歩いてみれば、知った顔の忍たまは見当たらなくて時の流れを感じる。みんな卒業して、それぞれの道へ進んだのだ。一人前の忍者になったら、きちんと学園に挨拶に行こうと思っていたんだけど……ずるずると今日まできてしまった。

私にとって一人前ってなんだろう?
城に仕える正真正銘のくノ一になったのに、それでもまだ届かない気がする。追いかけた大木先生にはほど遠くて、たどり着く気がしない。

物思いに耽りながら中庭を進んでいると、空を切る音がわずかに聞こえる。それはもの凄い速さでこちらに接近するから、咄嗟に身を翻した。

――バシン!

すんでのところでその物体をかわす。すぐ横に落ちたそれは、激しい音を鳴らし地面へとぶつかった。

「すみません! 大丈夫でしたかー!?」

ポンポンと軽い音を立てて白いボールが地面を転がる。複数の駆けよる足音、それと同時に元気な声で私を気遣う言葉がこだました。聞き覚えのある声だ。誰だっけ……?と声の方へ視線を向ける。

「ぶつかりませんでしたか!」

「っ、私なら大丈夫、でした」

深緑の制服の男の子は丸い目をさらに大きくして覗き込んでくる。この制服の色は六年生だ。気おされながら答えると、ニカっとご機嫌そうな顔をした。

「小平太のやつ、アタックする場所くらい考えろよな〜!?」

「すまんすまん! 長次のトスをみるとムズムズしてな」

「まぁまぁ、文次郎。そんなに怒らないで。怪我人はいないようだし……ですよね?」

茶色の髪の子が困った顔で私に反応を求めてくる。慌ててコクンと頷けば、彼らは少し居心地悪そうに笑った。

ぞろぞろと集まってきた顔ぶれにハッとする。記憶の中の一年生とそっくりで、きっと間違いない。

「君たち、一年生のとき大木先生が担任だったよね……!?」

「そうですが……、なぜそれを?」

「私、元くのたまなの! よく大木先生に質問しにいってて。君は……そのきれいな髪は、仙蔵くんでしょう?」

「よく質問してたって……。もしかして、名前先輩ですか?」

背は私より大きくなっていたけれど、艶のある紫色の髪は幼い頃の面影を残している。その肌の白さも、涼やかな目元も。

仙蔵くんが私の名前を口にした途端、みんなが「あ〜っ!」と声を上げた。一人だけモソモソ言っているのは長次くんだろうか。なかなか渋い表情をしている。

「それで思い出した、名前先輩かぁ! たしかにあの球を避けられるなんて、普通の人じゃあり得ないからな。さすがはくノ一です!」

「留三郎くん、そんな化け物みたいに言わないでよ」

「あー、俺としたことが失礼しました!」

「冗談だってば。それにしても、みんな大木先生みたいにたくましくなったね」

そう言ってクスッとすると、六年生たちはそれぞれ違う反応で面白い。小平太くんは素直に喜んでいるのに、仙蔵くんはなんとも言えない顔だ。

「一年坊主の頃が懐かしいなぁ。文次郎は名前先輩に大木先生を取られたー!ってべそかいてたよな?」

「な、なんだと!? そんな戯言を……!」

「いや、本当だろうが! 大木先生に質問やら鍛錬に付き合ってもらおうとしたら、いつも名前先輩がいるから――」

突然、留三郎くんと文次郎くんがバチバチと火花を散らす。よりによって私なんかがケンカの原因になるなんて申し訳ない。

「わ、わたしはこれで失礼しまーす……」

聞こえるか聞こえないかの声でつぶやく。争いに巻き込まれる前に、いそいそと中庭をあとにした。



シナ先生はまだ食堂にいるかな……?
懐かしさに時を忘れて散策してしまった。広い学園だけど、食堂までの道順はしっかりと覚えていて早足で急ぐ。


「こんにちは」

食堂の入り口から軽く中をのぞいてみる。おばちゃんは休憩中なのかその姿は見つけられない。

テーブルには黒い忍装束が二つ、それぞれ離れたところに座っている。一人は探していたシナ先生で、のんびりとお茶を啜っている。その様は絵になるくらい美しかった。

もう一人は、小鉢を前にうなだれている若い男性。顔が真っ青で心配になるも、その人を通り過ぎてシナ先生へと声を掛けた。

「シナ先生っ、お久しぶりです!」

「あら、名前さん! 会いたかったわ。どうしているかと思っていたのよ」

「さぁ、座って」とうながされシナ先生の前に腰かけた。先生は嬉しそうな顔で私を見つめるから少し照れ臭い。

「先生にお世話になったのに、ご無沙汰してすみません……。大木先生からお話を伺いまして」

「まぁ、大木先生から? いいのよ、便りがないのがいい便りって言うじゃない」

「シナ先生もお元気そうですね」

「そうねぇ。くのたまも増えたし、毎日忙しいけど」

学園内は忍たま達の活気にあふれている。日々この中で過ごしていたら、楽しいけれど大変そうだ。

「おかげさまで、城での仕事もうまくいってて。学園の教えがとても役に立っています」

「よかったわ。言ってなかったけど、実はあなたの仕事ぶりが気になって城から教えてもらっていたの」

「えっ、全然知りませんでした!」

「忍術学園はただの学校じゃないのは、知っているでしょう?」

ふふ、と不敵な笑みに一瞬たじろぐ。なんと言おうか迷っていると、シナ先生の顔色が柔らかくなった。

「あなたのこと、とても頼りにしているそうよ。腕は申し分ないそうね。担任として誇らしいわ」

「シナ先生にそう思ってもらえて……私、頑張ってきて良かったです」

先生の言葉にはお世辞ではない、そのままの気持ちが伝わってくる。忍務を黙々とこなして、それが認められる日が来るなんて。

心の中で浮かれていると、先生が仕切り直すように湯呑みを置いた。それから涼しげな瞳が私を貫く。

名前さん、あなたに会いたいと思ったのはね。……単刀直入に言うわ」

「な、なんでしょう」

「くのたまの教師にならない?」

「……えっ、私が、きょ、きょうし!?」

「そう、先生のこと」

「それは分かります、けど……!」

名前さんなら教科も実技も習得しているし、実戦もこなすプロの忍者でしょう? それに、色んなバイトもしてきたじゃない」

「話が急すぎて……、城にも相談しなきゃですし!」

「もちろん、話は通しているわ。あなたを手放すのは惜しいけれど、承諾してくれたのよ」

「わ、私の知らないところで……!?」

「くのたまも増えたと言ったでしょう? 一緒に教えてくれると助かるわ」

あまりの唐突な話に頭がついていかない。シナ先生の右腕となって教師をするのはとても光栄なことだ。まさか私が抜擢されるとは想像もしなかった。

「その顔は、いい返事と受け取っていいわね」

「っ、はい、驚きましたけど嬉しいです」

「そうそう。ひとつ言い忘れたんだけど――」

シナ先生がピンと人差し指を立てる。さらに重大な何かを言われるのではないかと身構える。自然と背筋が伸びて、すこし前のめりで先生の言葉を待った。

「教育実習で合格しないとダメよ?」

朗らかな笑顔の裏に、有無を言わさぬ力を感じる。さすが一流のくノ一だ。

「絶対に受かってみせます……!」

「いい心意気ね。大木先生だって合格したんだから、あなただって大丈夫よ」

「大木先生……って、シナ先生! 笑いすぎですって!」

シナ先生は白い手で口元を隠し、笑いを漏らしている。たしかに、あの大雑把で我が道をいく大木先生が……と思うと私まで吹き出しそうだ。


しばらく近況を話していると、離れた席の若い先生が気になって仕方がない。長いこと、小鉢とにらめっこしている。

「シナ先生」

「どうしたの?」

「あちらの先生は大丈夫なんですか……? ずっと困っているみたいです」

「彼は土井半助先生。練り物が苦手なの。今日はずいぶん手こずっているわね」

「初めてお見かけしました。きっと私の卒業後に採用された先生ですよね」

「えぇ。って、名前さん?」

シナ先生の言葉を聞く前に体が動き出す。カタ、と木の椅子が音を立てた。土井先生のそばまで向かうと少し屈んで声をかけてみる。

「土井先生?」

「えーっと、あなたは……」

名前といいます。忍術学園の卒業生なんです」

「そうでしたか!」

「先生。もしよかったら、それ……」

小鉢に入ったちくわを指さす。
"私が食べましょうか?"
唇の動きだけで伝えると、土井先生は困ったように頭をかいた。でもその顔は嫌ではなさそうだ。

小さくほほ笑んでから、小鉢を囲うように袖で隠してちくわをつまみ上げる。さりげなく口の中へ放りゴクンと飲み込んだ。それは一瞬で、きっと食堂のおばちゃんだって分らないはず。残念なのは、料理をちゃんと味わえなかったことくらい。

袖を直せば、空っぽになったうつわが現れる。土井先生は大きな瞳を潤ませ私を見つめた。

"ありがとう"
矢羽音で聞こえる音を読みとく。ハンサムなのに、なんだか面白い人だ。


「こちらは名前さん。卒業生で、今は城で忍者をしているのよ。くのいち教室の先生にならない?って話していてね――」

後ろから現れたシナ先生が土井先生に説明する。和やかに話していると、食堂の入り口から子供の高い声が響いてきた。

「土井先生ぇ〜!」
「あ、いらっしゃった!」
「まだ食堂にいたんっすか!?」

浅葱色の制服三人組は、土井先生を見つけると駆け寄ってきた。それから私を見て不思議そうな顔をする。

「お姉さん、シナ先生のお知り合いですか〜?」

「わたし忍術学園の卒業生でね、」

「こちらは名前さん。くのいち教室の先生になるそうだ。で、乱太郎、きり丸、しんべヱ。お前たちどうしたんだ?」

続けようとした途端、土井先生が割り込んできた。三人は「お姉さん先生になるのー!?」と無邪気にはしゃぐ。

「おれたち、外出許可をもらいに土井先生を探してたんっすけど」
「まーだおでん食べてたんですね〜!」
「でも小鉢は空っぽになってるよ」

「みんな。えーっと、それはね」

三人を集めて、食べてあげたことを耳打ちする。「ダメじゃないですか〜」という視線が土井先生に向けられた。

「お前たち、そんな目で見るな……! ほら、許可を書くから」

「「「お願いしまーす」」」

そのやり取りが微笑ましくて、シナ先生と一緒に見守っている。生徒とこんな関係が作れたらいいな、とまだ先の未来を想像するのだった。



澄み渡る青い空に小さな雲が浮かぶ。風も穏やかで最高の休日だ。山々と畑が広がる景色はのどかで心が洗われる。

今日もまた杭瀬村へ向かっていた。大木先生の手伝いもしたいし、教師の採用試験を受けることも話したかったから。

先生の家の近くまで来ると、なにやら大きなカゴを背負って戸締りしている姿が見えてきた。どこかに行くところかもしれない。慌てて声を掛ける。

「大木先生ー!」

大きく手を振ると、作業の手を止め私を振り返ってくれた。駆け足で先生の元へと向かう。

「お手伝いに来ちゃいました。これからお出かけですか?」

「いつもすまんなぁ。ちょうど街へ買い出しに行くところだったんだ」

「じゃあ、私はお留守番でも……」

「よし、お前も一緒にこい!」

そう言うや否や、先生は私の腕をつかみ引き寄せた。なかば強引に、連れられるまま街へと向かっていく。

二人で買い物なんて、どんな仲に見られるだろう……? 一歩一歩進むたびに、ドキドキが大きくなっていく。隣を歩く先生を見上げて、高鳴る気持ちを閉じ込めた。


「出来立ての豆腐はいかが?」
「ほら、よそ見してるとぶつかるよ!」
「そこ、どいたどいた!」

街はたくさんの人が行き交って活気にあふれている。いろんなお店に目移りしながら、大木先生とはぐれないように歩いている。本当はその腕を掴んでしまいたいのに、まさか出来るわけない。くノ一のはずの私が、先生の前だと普通の娘みたいだ。

「何を買うか決まってるんですか?」

「魚や味噌を買おうと思っている」

「すごい、本当に一人で暮らしているんですね……!」

「はぁ〜? そりゃそうだろう」

「なんか不思議で」

ちゃんと日々の献立を考えて、一人で自炊しているんだ。テキトーそうな先生なのに、想像するとその生活を覗いてみたくなる。何か言いたげな先生を横目に小さく笑った。

「じゃあ最初は……あ、魚屋さんがあります! 行きましょ」

「おい、そう急ぐなって」

「早く早くっ」

パタパタと先に進んで先生を急かした。なぜか分からないけれど、はずむ気持ちがそうさせたのかもしれない。楽しくて楽しくて仕方がなかった。


「いらっしゃい。今日はハゼがおすすめだよ!」

魚屋のおばさんが威勢のいい調子で客を呼び込む。店先には竹ザルに乗せられた魚や貝が所狭しと並べられていた。

「わぁ、新鮮そうですね。ねっ?」

「ああ、美味そうだ! ではおすすめをいただこう」

「はいはい、準備するから待ってておくれ」

名前、ほかに食べたい魚があれば選んでくれるか」

「え、っと……! じゃあこの魚がいいな」

控えめに指をさしてみる。それって、私が先生の家に遊びに来るから……ってこと!? 先生の生活に入り込んでしまって、それが自然に受け入れられているのは夢みたいだ。

「二人とも仲良くていいねぇ!」

「ははは、そうですな」

「はーい、まいど!」

魚屋のおばさんが変なことを言うからドキッとする。歳の離れた兄妹だって思われたかもしれないけど、もしも夫婦と思われていたら……? 先生だって、心なしか照れくさそうにみえる。

「ほれ、行くぞ」

「はいっ」

「買い出しが終わったら、甘味でも食うか?」

「いいんですか!?」

「付き合ってくれたお礼だ。だからボケっとするなよ」

犬歯をのぞかせイタズラっぽく笑う先生。甘味につられて単純なヤツと思われたかもしれない。えへへ……と頬をかいてその場を誤魔化した。


「味噌も買えたし、ひと通り完了しましたね!」

「助かったぞ。ありがとうな」

「いえ、楽しかったですから」

背負ったカゴにたくさんの食材を詰め、足取り軽く甘味処へ向かう。お団子がいいかなぁ? それとも、おまんじゅうかな? なんて迷っていると、ほほにポツポツと大粒の雫が落ちてきた。冷たい風が吹き、黒い雲が青空を侵食していく。ゴロゴロという轟音とともに、あっという間にあたりが薄暗くなった。


――ザーザーザー
「わぁ……、大雨ですね」
「油断してしまった、こりゃまずいぞ」

先生はカゴの食材が濡れないように布を被せた。この土砂降りではあまり役に立たないかもしれない。それほど激しい降り方で、早くどこかで雨宿りしないと大変だ。もうすでに着物はびっしょり濡れている。

「この近くに廃寺があるんです! そこで止むのを待ちましょ」

「そうしよう。ど根性で走れ!」

雨音にかき消されないよう、先生に大きな声で提案してみると「ど根性で走れ!」ときた。こんな時まで大木先生らしくて可笑しくてたまらない。



着物の裾をギューっと絞れば、ボタボタと水が流れ落ちる。絞れるところを捻って少しでも乾かそうと必死だ。

「よくこんな廃寺を見つけたなぁ」

「忍務で通りかかったときに発見したんです。街から一本道を外れただけなのに、人目につかなくて身を隠しやすいんです」

先生と駆け込んだ先は今にも朽ち果てそうな寺。雑草は生い茂り、瓦は一部がはがれ落ちて、そこかしこに木材が積まれている。ひどい有様だったけれど、ひととき雨宿りするには使えそうだ。

先生は水気を払ってから板の間にどかっと座った。私も先生の隣に正座して、破れた障子から外の様子を眺める。しばらく止みそうになかった。

「まだ降りそうですね」

「参った。女心と天気はわからん」

「あはは、先生が乙女の気持ちを理解してたら怖いです」

「言うなぁ」

野村先生ならきっと分かりますけど、という言葉は飲み込んだ。言ったら最後、面倒なことになりそうだから。

雨の音だけが響く、薄暗い閉ざされた空間にふたりきり。なんだか心まで急接近したような……。

「大木せんせ、」

「なんだ」

「この前、シナ先生に会いに学園へ行ったんです。そうしたら、くのたまの教師にならないかって。採用試験に合格したら、ですけど……」

「もちろん、試験を受けるんだろう?」

先生はあぐらをかいて頬杖をつきながら私を見つめる。先生の言う通り、もう決心していてコクンと頷いた。

「そうか。シナ先生も、お前を一人前だと認めているのだな」

「一人前……!?」

「認めんヤツを誘うことはないだろうから」

意味深な笑顔にドキンと鼓動が跳ねた。先生の肌は雨に濡れてらりと光り、濡れそぼった茶色い髪からは水滴がぽたりと落ちた。薄暗さも相まって、この雰囲気に心がかき乱される。

先生は覚えているのだろうか。前に私が言ったこと――

"一人前の忍びになったらお嫁にいきますから!"

たしか、私がそう叫んだあと……先生は「待っててやろう」と言い放ったのだ。思い出したら恥ずかしくてたまらない。雨で冷えた体がじわじわと火照っていく。

追いかけてきた大きな背中がすぐそこに、触れそうなところにあるのに。いざそうなったら、急に臆病になる。ぬるま湯のような曖昧さが壊れていく。

「大木先生……! じゃあ、私のこと、本当に先生の――」

「わしはな、もうお前の先生ではない」

――お嫁さんにしてくれるんですか。
冗談だったとかわされてもいい。半ばやけっぱちで口を開けば、途中で先生が私を遮った。

先生じゃないって……? 意図を読み取ろうと必死に頭を働かせていると先生が言葉を続けた。

「いや、違うな。"先生"と呼ばれるのは都合が悪いんだ」

「それって……!」

名前、」

先生がおもむろに手を伸ばしてくる。いつもみたいに、頭を荒っぽく撫でられるかと思ったのに。

その手は濡れて顔に張り付いた髪をよけてから、そっとほほを包んでくる。まるで、こわれものに触れるようだった。親指で目元をくすぐられると、土の香りがほのかに伝わって胸の奥が甘く満たされていく。

柔らかくて滑らかな感触とは正反対の、カサついてゴツゴツした手のひら。それなのに心地よくて、想いがあふれ出すかのように瞳が潤んでいく。

「……ずっと、好きでした」

「わしも、お前を片時も忘れたことはなかった」

初めて聞く、先生の掠れた声。彼はそうつぶやくと照れくさそうにほほ笑む。この状況が信じられなくて、ぽーっとのぼせ上がったまま見つめ続けた。


「お、雨が止んだようだな」

先生は甘い空気を断ち切るかのように立ち上がり、カゴを背負うと草履を引っかけた。ざ、ざ、と地面を擦りながら外に出て空を眺めている。

「ほれ、名前。甘味処にいくぞ!」

「わ、そうでした!」

甘いものを食べに行くところだったんだ……! お団子にしようか、おまんじゅうにしようか、まだ決めていなかった。大股で歩き始めた彼を急いで追いかける。雨は止んだけれど、道はぬかるんで泥が跳ねてしまいそうだ。

転ばぬよう、先をゆく彼の手をぎゅっと握る。握り返してくれたことが嬉しくて隣を見上げると、二人の視線がかち合う。

「なぁ、名前

「なんですか?」

「もしお前が教師になったら、"大木先生"なんて呼ばれちゃうかもな?」

「え、っと……! そっかぁ、そうかもしれません!」

先生は相変わらずの様子で、私が慌てるのを楽しんでいる。私が大木先生だなんて、どうしよう。嬉しさと気恥ずかしさに、ぽっと顔が熱くなっていく。


雨上がりの林道は、木々が日の光を浴びてきらきら煌めく。それはまるで、私たちのこれからを映しているかのようだった。希望に満ち溢れて、眩しいほどに。

隣を歩く彼に寄り添って、歩幅を合わせて進んでいく。ずっとずっと、この瞬間が続いていきますように。風になびく白い鉢巻きを見つめながら、そう願うのだった。


(完)

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