第6話 先生がいない
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息が苦しくて、熱くて、まるで炎の渦に閉じ込められたみたいだ。目の前は真っ暗闇で、もがき足掻いてみても掴めるものは何も無い。ここが天国じゃないことは確かだ。だけど、地獄なのかは分からないし認めたくはない。
出城の偵察に行って、途中まではうまくいっていたのに。最後の最後に敵に気付かれた。必死に逃げたけれど、毒が塗られた手裏剣に腕を斬られて――
大木先生に抱き締められたのは夢だったのかな……? あの、がっしりした感触と熱い体温、激しい鼓動が忘れられない。
ぐるぐる考えているうちに、次第に焼けるような苦しさが和らいでいった。呼吸だって、息を吸えばちゃんと空気が身体に入っていく。手足の痺れが消えて、自分が自分を取り戻したようだった。
ゆさゆさと身体を揺さぶられ、私に向かって呼びかける声が聞こえる。このままでいたいのに、それは許されないほどの激しさ。
ぴたりとくっ付いたまぶたをこじ開けると、強すぎる光に目がしみる。視界が真っ白くて、モヤがかかって何も見えない。
「……っ、」
「名前さん! 名前さん!」
パチパチと何度も瞬きをしてまぶたを擦れば、茶色の天井と黒い忍装束がおぼろげに見える。赤いスカーフが揺れて印象的だった。
「名前さん! うなされていたわよ!? 新野先生、名前さんが起きましたわ!」
「シナ、先生……?」
「起き上がれるかしら? ほらっ、白湯もあるから」
シナ先生が珍しく慌てている。部屋の隅にいる新野先生を振り返りつつ、起き上がろうとする私の背中を支えてくれた。布越しに感じるその手は、ひんやりとして心地がよい。
私は寝巻き姿になっていて、医務室で眠り続けていたのだろう。汚れた忍装束はそばに畳まれていた。手裏剣に斬られた腕は包帯が巻き付けられているのか圧迫感がある。ときどきズキンと痛むのは、まだ傷が塞がっていないからだ。
先生から湯呑みを受け取ると、少しの白湯を口へと流し込む。こくんと飲み込めば、水分が渇ききった身体にすーっと吸い込まれていって生き返った気がした。そんな私の様子を、新野先生は穏やかな笑顔で眺めている。
「名前さん、意識が戻ってよかった。毒がまわって、一時はどうなることかと思いましたよ」
「私が出張から帰ったら、あなたが医務室で寝込んでいるだもの……! もう何日も、気が気じゃなかったわ」
「新野先生にシナ先生、ごめんなさい。心配をおかけしました……。それに、学園にも大きな迷惑を……! あの、私はもう元気――」
そう言いかけると、シナ先生は「ダメよ」という風に首を振った。その表情は険しくて、逆らうなんてできないとうなだれる。忍務の報告もしなければならない。それに、私が倒れたあと大きな問題が起こっていたら……どうしよう。想像するだけで冷や汗が出てきた。
「学園のことは心配しなくていいの。先生たちに任せなさい」
「っ、でも……!」
「解毒剤で毒は抜けたと思いますが、念のためしばらく休んだほうがいいでしょう。それに腕の傷も深いですから、化膿したら大変です」
「大木先生に感謝なさいね。この程度で済んだのは、毒を吸い出してもらったおかげよ」
「大木先生は……!?」
どうして、真っ先に大木先生のことを尋ねなかったのだろう。夢だと思ったから……? でも、夢じゃない。シナ先生の言葉から、出城で助けてくれたのは大木先生だと、現実だったんだと、ようやく頭が理解する。
私のことを心配して、見守ってくれて、絶体絶命の状況から救い出してくれた。そう思うと申し訳ないのにどこか嬉しくて、そんなことを思う自分が嫌になる。
「大木先生に、大木先生に会って謝りたいです! 私、先生に多大なご迷惑を……」
「大木先生は今お忙しいの。あなたはまず、療養に専念すること」
「そんな……!」
シナ先生と新野先生は顔を見合わせると、困ったようにため息をついて言葉を濁した。もしかして、大木先生はとてもお怒りなのかもしれない。だから二人ともこんな反応を……。新野先生は「学園長先生に報告しますね」と医務室を後にした。
自分の力を見誤って忍務に失敗した私は、とんでもない出来損ないだ。先生を深く失望させたかもしれない。
忍術学園での数年間、ずっと大木先生に憧れて追いかけてきたのに。認めてもらいたくて必死に勉強して、頑張りを褒めてもらえた時は幸せだった。そんな積み重ねてきた時間を、自分の手で壊してしまったことに喪失感と悔しさが襲う。
「大丈夫よ。あなたが元気そうなこと、大木先生に私から伝えておくわ」
「ありがとう、ございます。……あと、こんな時に言いにくいのですが」
「もしかして、忍務の報告を心配しているの?」
「……っ、」
「図星ね」
シナ先生は呆れながら、懐から布に包んだ手裏剣を取り出した。それは刃が錆びて変色している。
「あなたが持ち帰った毒まみれの手裏剣と、書いたメモ。街に行って渡してくるわ」
「シナ先生にそこまでしていただく訳には……! 私が這ってでも行きますから!」
「いいえ、私が行きます。その代わり――」
先生の眼差しが鋭く光る。有無を言わせない圧に言葉を飲み込んだ。赤く妖艶な唇を見つめる。
「このバイトから手を引くこと。いいわね?」
「……はい」
学園を危険に晒してしまったのだから当然のことだ。後ろめたさに、絞り出すように答える。消え入りそうなほど小さな声は先生に届いただろうか。ぎゅっと布団を握る手に力が入って、こぶしが白くなる。
俯いたとたん、熱くなった瞳からポタッと涙がこぼれ落ちそうになった。バレたくなくて、荒っぽく目元をぬぐう。
*
それから、ひと月後。
すっかり回復した私は、久しぶりにくのいち教室での授業に向かっていた。六年生だというのに、忍務の失敗で授業をだいぶ休んでしまった。風呂敷に包んだ教科書を胸に抱え、足取り重く外廊下を歩く。
みんなに、どんな顔して会おう……? 想像を巡らせると、変に緊張してドキドキと嫌な動悸がしてきた。
医務室にお見舞いに来ないようシナ先生が忍たまに言ったのか、新野先生と限られた先生達としか顔を合わせることはなかった。大木先生が来てくれるかも……という淡い期待は毎日消えていって、その度に罪悪感が混じった悲しさのあと、少しだけ安堵した。こうなると、ますます大木先生に会うのが怖くてたまらない。いや、先生に叱り飛ばされた方が気が楽かもしれない。
風呂敷をぎゅっと抱え直すと、意を決してくのいち教室の戸を引いた。
「名前っ!」
「みんな、」
思い思いにおしゃべりをしていたピンクの制服が、いっせいに私を見つめる。その後すぐに「もう大丈夫なの?」とか「元気になってよかった!」と駆け寄ってきてくれた。
教室に入る前の緊張と不安はすっかり無くなって、代わりに胸がジーンと熱くなる。授業が始まるまで立ち話をして、そろそろ席に着こうとなった。
長机の上に忍たまの友や筆を出して揃えていると、隣に座る友人が私をまじまじと観察してくる。私の顔に何かついてるのだろうか。でも、それだったら笑いながら取ってくれるはずだ。
「なに〜? じっと見られると恥ずかしいよ」
「だって、名前。すっごい落ち込んでるのかと思ったら、何ともなさそうで不思議なんだもん」
「ケガはもう治ったし、休んだ分の勉強は――」
「そういうことじゃなくて……。え、もしかして……なにも知らないの!?」
目を丸くする友人に、こちらも訳が分からず小首を傾げた。見当がつかなくて、今度は私が彼女をじっと見つめる。
「……大木先生が、先生を辞めちゃったこと」
小さくつぶやかれた言葉に、ガツンと殴られたような衝撃が走る。何を言っているのかはちゃんと聞こえるのに、頭が理解することを拒絶する。
辞めたって……?
理解したくない。
本当であって欲しくない。
嘘だと言って欲しいのに、欲しい言葉をいつまでも言ってくれない。
彼女は気まずそうな顔で、それがさらに"先生が辞めたのは現実なんだ"と私に突きつけてくる。
「な、な、なんで……?! どうして大木先生が!」
「知らなかったんだね……。野村先生との早食い競争で負けたのが理由らしいよ」
「え、っ……?」
悲鳴にも似た声が喉から出てくる。彼女はそう教えてくれたけれど、全く納得できなかった。いくらライバルに負けたからと言って、教え子を捨てていなくなるなんて。大木先生がそんなこと……。
まさか、私が忍務でケガをした責任をとる、なんてことだったら……? たしかに大木先生に外出許可をもらった。これは先生たちしか知らないことだ。
忍たま達には、辞めた理由を誤魔化したのかもしれない。先生らしい強引な嘘がおかしくて、悲しくて、胸が押しつぶされそうに苦しい。
野村先生じゃなく、私が原因で学園を去った方が理由として違和感がない。そう思った途端、視界が涙で歪んでいく。
……私のせいで。
大木先生がどこにいるかも分からないのに、居ても立っても居られず立ち上がった時。
「はーい、みんな静かになさい。授業を始めますよ」
黒い忍装束に身を包んだシナ先生が、颯爽と教室に入ってきた。一人だけ立ち上がっている私に、先生は怪訝な顔をする。それから何事もなかったかのように黒板の前まで歩いていくと、私のケガについて簡単に説明を始めた。
もう、教室から飛び出す力も無くなって、へなへなとその場に座り込んだのだった。
*
卒業が近づく頃。
おばあちゃん姿のシナ先生と、職員室で進路の話をしていた。開け放された障子からチラッと外の様子を眺めてみる。木々の葉が赤く染まり乾いた地面には落ち葉が広がっていた。それは冷たい風が吹くたび、カラカラと軽い音を立てて転がった。
「それで、名前さん。お城の面接どうでした?」
「緊張しました。でも、私が努力してきたことや城に貢献できること、ちゃんと伝えられました」
「あらそう。それはよかった」
「お城の人たちも雰囲気が良くて、領地や領民の扱い方も尊敬できるものでした。もし採用してくれたら嬉しいです」
「学園とも長い付き合いの城ですからねぇ。推薦状も書いたし、きっと大丈夫よ。いい返事が来るわ」
「ありがとうございます!」
シナ先生にしっかりと頭を下げた。先生は「まぁまぁ」なんて笑って、部屋の空気はとても和やかだ。紹介してもらった城はとても美味しそうなキノコの名前で、それも親しみやすい感じを受けた。
一人前の忍者になる夢が、あと少しで叶う。そんな高揚感にドキドキしながら、いまここに大木先生がいたらな……と気持ちが半分曇る。忍務の失敗さえなければ。私が城勤めの忍びになると報告したら、大袈裟なくらい豪快に喜んでくれそうなのに。想像した大木先生の笑顔は、今の私にとって辛いものだった。
「どうしたの? 浮かない顔をして。安心しなさいな、名前さんは心配性ですねぇ」
「違うんです。……私があんな事にならなければ、大木先生に報告できたのにって思って」
「あんな事って何かしら。大木先生は野村先生に負けたから、教師をお辞めになったのよ」
「っ、でもそれは……!」
おばあちゃん姿のシナ先生は、穏やかな表情で静かに私を見つめる。そんな先生とは正反対に、私は気持ちが昂って抑えきれない。
野村先生に負けたからって……?
そんな理由、シナ先生にまで本当のことみたいに言って欲しくない。"貴女のせいなんだ"って、厳しくなじられた方がどんなに良いか。
「少し前にね、大木先生から学園長先生宛に文が届いたの。今はどこかの村で畑をやっているそうよ」
「畑、ですか……?」
「野村先生の苦手なラッキョを作っているみたい。あの人らしいわねぇ」
シナ先生が少し困ったように笑った。私はわけが分からなくて、呆気に取られるばかり。いつだって、大木先生に振り回されるのは変わらなかった。
出城の偵察に行って、途中まではうまくいっていたのに。最後の最後に敵に気付かれた。必死に逃げたけれど、毒が塗られた手裏剣に腕を斬られて――
大木先生に抱き締められたのは夢だったのかな……? あの、がっしりした感触と熱い体温、激しい鼓動が忘れられない。
ぐるぐる考えているうちに、次第に焼けるような苦しさが和らいでいった。呼吸だって、息を吸えばちゃんと空気が身体に入っていく。手足の痺れが消えて、自分が自分を取り戻したようだった。
ゆさゆさと身体を揺さぶられ、私に向かって呼びかける声が聞こえる。このままでいたいのに、それは許されないほどの激しさ。
ぴたりとくっ付いたまぶたをこじ開けると、強すぎる光に目がしみる。視界が真っ白くて、モヤがかかって何も見えない。
「……っ、」
「名前さん! 名前さん!」
パチパチと何度も瞬きをしてまぶたを擦れば、茶色の天井と黒い忍装束がおぼろげに見える。赤いスカーフが揺れて印象的だった。
「名前さん! うなされていたわよ!? 新野先生、名前さんが起きましたわ!」
「シナ、先生……?」
「起き上がれるかしら? ほらっ、白湯もあるから」
シナ先生が珍しく慌てている。部屋の隅にいる新野先生を振り返りつつ、起き上がろうとする私の背中を支えてくれた。布越しに感じるその手は、ひんやりとして心地がよい。
私は寝巻き姿になっていて、医務室で眠り続けていたのだろう。汚れた忍装束はそばに畳まれていた。手裏剣に斬られた腕は包帯が巻き付けられているのか圧迫感がある。ときどきズキンと痛むのは、まだ傷が塞がっていないからだ。
先生から湯呑みを受け取ると、少しの白湯を口へと流し込む。こくんと飲み込めば、水分が渇ききった身体にすーっと吸い込まれていって生き返った気がした。そんな私の様子を、新野先生は穏やかな笑顔で眺めている。
「名前さん、意識が戻ってよかった。毒がまわって、一時はどうなることかと思いましたよ」
「私が出張から帰ったら、あなたが医務室で寝込んでいるだもの……! もう何日も、気が気じゃなかったわ」
「新野先生にシナ先生、ごめんなさい。心配をおかけしました……。それに、学園にも大きな迷惑を……! あの、私はもう元気――」
そう言いかけると、シナ先生は「ダメよ」という風に首を振った。その表情は険しくて、逆らうなんてできないとうなだれる。忍務の報告もしなければならない。それに、私が倒れたあと大きな問題が起こっていたら……どうしよう。想像するだけで冷や汗が出てきた。
「学園のことは心配しなくていいの。先生たちに任せなさい」
「っ、でも……!」
「解毒剤で毒は抜けたと思いますが、念のためしばらく休んだほうがいいでしょう。それに腕の傷も深いですから、化膿したら大変です」
「大木先生に感謝なさいね。この程度で済んだのは、毒を吸い出してもらったおかげよ」
「大木先生は……!?」
どうして、真っ先に大木先生のことを尋ねなかったのだろう。夢だと思ったから……? でも、夢じゃない。シナ先生の言葉から、出城で助けてくれたのは大木先生だと、現実だったんだと、ようやく頭が理解する。
私のことを心配して、見守ってくれて、絶体絶命の状況から救い出してくれた。そう思うと申し訳ないのにどこか嬉しくて、そんなことを思う自分が嫌になる。
「大木先生に、大木先生に会って謝りたいです! 私、先生に多大なご迷惑を……」
「大木先生は今お忙しいの。あなたはまず、療養に専念すること」
「そんな……!」
シナ先生と新野先生は顔を見合わせると、困ったようにため息をついて言葉を濁した。もしかして、大木先生はとてもお怒りなのかもしれない。だから二人ともこんな反応を……。新野先生は「学園長先生に報告しますね」と医務室を後にした。
自分の力を見誤って忍務に失敗した私は、とんでもない出来損ないだ。先生を深く失望させたかもしれない。
忍術学園での数年間、ずっと大木先生に憧れて追いかけてきたのに。認めてもらいたくて必死に勉強して、頑張りを褒めてもらえた時は幸せだった。そんな積み重ねてきた時間を、自分の手で壊してしまったことに喪失感と悔しさが襲う。
「大丈夫よ。あなたが元気そうなこと、大木先生に私から伝えておくわ」
「ありがとう、ございます。……あと、こんな時に言いにくいのですが」
「もしかして、忍務の報告を心配しているの?」
「……っ、」
「図星ね」
シナ先生は呆れながら、懐から布に包んだ手裏剣を取り出した。それは刃が錆びて変色している。
「あなたが持ち帰った毒まみれの手裏剣と、書いたメモ。街に行って渡してくるわ」
「シナ先生にそこまでしていただく訳には……! 私が這ってでも行きますから!」
「いいえ、私が行きます。その代わり――」
先生の眼差しが鋭く光る。有無を言わせない圧に言葉を飲み込んだ。赤く妖艶な唇を見つめる。
「このバイトから手を引くこと。いいわね?」
「……はい」
学園を危険に晒してしまったのだから当然のことだ。後ろめたさに、絞り出すように答える。消え入りそうなほど小さな声は先生に届いただろうか。ぎゅっと布団を握る手に力が入って、こぶしが白くなる。
俯いたとたん、熱くなった瞳からポタッと涙がこぼれ落ちそうになった。バレたくなくて、荒っぽく目元をぬぐう。
*
それから、ひと月後。
すっかり回復した私は、久しぶりにくのいち教室での授業に向かっていた。六年生だというのに、忍務の失敗で授業をだいぶ休んでしまった。風呂敷に包んだ教科書を胸に抱え、足取り重く外廊下を歩く。
みんなに、どんな顔して会おう……? 想像を巡らせると、変に緊張してドキドキと嫌な動悸がしてきた。
医務室にお見舞いに来ないようシナ先生が忍たまに言ったのか、新野先生と限られた先生達としか顔を合わせることはなかった。大木先生が来てくれるかも……という淡い期待は毎日消えていって、その度に罪悪感が混じった悲しさのあと、少しだけ安堵した。こうなると、ますます大木先生に会うのが怖くてたまらない。いや、先生に叱り飛ばされた方が気が楽かもしれない。
風呂敷をぎゅっと抱え直すと、意を決してくのいち教室の戸を引いた。
「名前っ!」
「みんな、」
思い思いにおしゃべりをしていたピンクの制服が、いっせいに私を見つめる。その後すぐに「もう大丈夫なの?」とか「元気になってよかった!」と駆け寄ってきてくれた。
教室に入る前の緊張と不安はすっかり無くなって、代わりに胸がジーンと熱くなる。授業が始まるまで立ち話をして、そろそろ席に着こうとなった。
長机の上に忍たまの友や筆を出して揃えていると、隣に座る友人が私をまじまじと観察してくる。私の顔に何かついてるのだろうか。でも、それだったら笑いながら取ってくれるはずだ。
「なに〜? じっと見られると恥ずかしいよ」
「だって、名前。すっごい落ち込んでるのかと思ったら、何ともなさそうで不思議なんだもん」
「ケガはもう治ったし、休んだ分の勉強は――」
「そういうことじゃなくて……。え、もしかして……なにも知らないの!?」
目を丸くする友人に、こちらも訳が分からず小首を傾げた。見当がつかなくて、今度は私が彼女をじっと見つめる。
「……大木先生が、先生を辞めちゃったこと」
小さくつぶやかれた言葉に、ガツンと殴られたような衝撃が走る。何を言っているのかはちゃんと聞こえるのに、頭が理解することを拒絶する。
辞めたって……?
理解したくない。
本当であって欲しくない。
嘘だと言って欲しいのに、欲しい言葉をいつまでも言ってくれない。
彼女は気まずそうな顔で、それがさらに"先生が辞めたのは現実なんだ"と私に突きつけてくる。
「な、な、なんで……?! どうして大木先生が!」
「知らなかったんだね……。野村先生との早食い競争で負けたのが理由らしいよ」
「え、っ……?」
悲鳴にも似た声が喉から出てくる。彼女はそう教えてくれたけれど、全く納得できなかった。いくらライバルに負けたからと言って、教え子を捨てていなくなるなんて。大木先生がそんなこと……。
まさか、私が忍務でケガをした責任をとる、なんてことだったら……? たしかに大木先生に外出許可をもらった。これは先生たちしか知らないことだ。
忍たま達には、辞めた理由を誤魔化したのかもしれない。先生らしい強引な嘘がおかしくて、悲しくて、胸が押しつぶされそうに苦しい。
野村先生じゃなく、私が原因で学園を去った方が理由として違和感がない。そう思った途端、視界が涙で歪んでいく。
……私のせいで。
大木先生がどこにいるかも分からないのに、居ても立っても居られず立ち上がった時。
「はーい、みんな静かになさい。授業を始めますよ」
黒い忍装束に身を包んだシナ先生が、颯爽と教室に入ってきた。一人だけ立ち上がっている私に、先生は怪訝な顔をする。それから何事もなかったかのように黒板の前まで歩いていくと、私のケガについて簡単に説明を始めた。
もう、教室から飛び出す力も無くなって、へなへなとその場に座り込んだのだった。
*
卒業が近づく頃。
おばあちゃん姿のシナ先生と、職員室で進路の話をしていた。開け放された障子からチラッと外の様子を眺めてみる。木々の葉が赤く染まり乾いた地面には落ち葉が広がっていた。それは冷たい風が吹くたび、カラカラと軽い音を立てて転がった。
「それで、名前さん。お城の面接どうでした?」
「緊張しました。でも、私が努力してきたことや城に貢献できること、ちゃんと伝えられました」
「あらそう。それはよかった」
「お城の人たちも雰囲気が良くて、領地や領民の扱い方も尊敬できるものでした。もし採用してくれたら嬉しいです」
「学園とも長い付き合いの城ですからねぇ。推薦状も書いたし、きっと大丈夫よ。いい返事が来るわ」
「ありがとうございます!」
シナ先生にしっかりと頭を下げた。先生は「まぁまぁ」なんて笑って、部屋の空気はとても和やかだ。紹介してもらった城はとても美味しそうなキノコの名前で、それも親しみやすい感じを受けた。
一人前の忍者になる夢が、あと少しで叶う。そんな高揚感にドキドキしながら、いまここに大木先生がいたらな……と気持ちが半分曇る。忍務の失敗さえなければ。私が城勤めの忍びになると報告したら、大袈裟なくらい豪快に喜んでくれそうなのに。想像した大木先生の笑顔は、今の私にとって辛いものだった。
「どうしたの? 浮かない顔をして。安心しなさいな、名前さんは心配性ですねぇ」
「違うんです。……私があんな事にならなければ、大木先生に報告できたのにって思って」
「あんな事って何かしら。大木先生は野村先生に負けたから、教師をお辞めになったのよ」
「っ、でもそれは……!」
おばあちゃん姿のシナ先生は、穏やかな表情で静かに私を見つめる。そんな先生とは正反対に、私は気持ちが昂って抑えきれない。
野村先生に負けたからって……?
そんな理由、シナ先生にまで本当のことみたいに言って欲しくない。"貴女のせいなんだ"って、厳しくなじられた方がどんなに良いか。
「少し前にね、大木先生から学園長先生宛に文が届いたの。今はどこかの村で畑をやっているそうよ」
「畑、ですか……?」
「野村先生の苦手なラッキョを作っているみたい。あの人らしいわねぇ」
シナ先生が少し困ったように笑った。私はわけが分からなくて、呆気に取られるばかり。いつだって、大木先生に振り回されるのは変わらなかった。