第5話 一途はリスキー

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季節はめぐって春。

「授業を始めるぞー!」

ガラ、と戸を引き新二年生の待つ教室へと足を踏み入れる。学園の庭に咲く桜は満開で、漂う空気は柔らかだ。新学期だから、いつにも増して気合いを入れたのだが――

授業が始まるというのに走り回ったり、ケンカをしたり。一年生の時と変わらず、なんと騒がしい奴らだ、まったく……。

「大木先生〜! いけいけどんどーん!」

「小平太。朝のあいさつは"おはようございます"だろうが!? それにな、体力が有り余っているのは分かるが席につけ!」

「はい!」

「返事だけはいいな……って、仙蔵はなんだ。髪が気になるのか? 後にしろ!」

「小平太が暴れるから髪の毛に墨がかかったんだ〜!」

今度は仙蔵が黒く汚れた毛先にべそをかく。毎朝、毎朝、この混沌とした状況が繰り返される。落ち着いて授業を始められた日はない。……収拾をつけるには、これだ。

「どこんじょー!!!」

腹から声を出して出席簿を黒板に叩きつける。バシーン!と派手な音が響いて、教室が静まった。

「よーし。では、授業を始める」

忍たま達が目をぱちくりさせて、いっせいに正座する。文机の上に忍たまの友が開いているのを確認すると、ようやく授業の始まりだ。

以前に担当した、くのたま上級生の授業とは大違いで頭が痛くなった。こいつらも二年生になったとはいえ、まだまだ幼さが残る。六年になる頃にはどうなることか楽しみでもあるが。

「今日は、山彦の術を説明する! なぜ、やまびこかと言うとだな――」

忍たまの友を片手に、黒板へコツコツ軽い音を鳴らしながら術の要点を書いていく。時折り、クスッと笑う声が聞こえる。こいつら……! わしに気付かれないと思っているのか、こそこそ話しをしているのだな。

くのたまの新六年生――名前くらいに真面目に取り組んでくれたら良いのだが、などと一瞬頭をよぎって苦笑する。なぜだか、ふとした瞬間に彼女を思い出してしまう。不器用さも、一所懸命さも、屈託のない笑顔も、全てから目が離せないのだ。



くのいち教室で本日の授業が終わるころ。隣に座る友だちと「疲れたねー」とか「宿題一緒にやろうね」なんてたわいもない話をする。

六年生にもなると野外実習が増え、下級生と一緒の授業は少なくなっていた。教室いっぱいにピンクの制服が見られるのも、あと何回だろうと感慨深くなる。

名前さん、あなたはちょっと残ってくれるかしら?」

「はい……!」

教科書を片付け、友だちと教室を出ようとした時。シナ先生から思い出したように声を掛けられた。

名前、また何かやらかしたの?」
「え……!? 何もしてないって!」

ひそひそ小声でやり取りしてから、早足で先生のもとへ向かう。何の話か見当はつかないけれど、もしかして忍者のアルバイトのことかも……と内心焦る。

バイトはいたって順調だった。任された仕事を積み重ねるうち、屋敷に忍び込んだりする案件なんかもこなしている。さらに重要な忍務を……という話まで出てきたところだった。

「悪い話じゃないから安心してね。立ち話もなんだから座りましょう」

シナ先生にうながされ長机に向かい合って座る。くのたまは私だけで、がらんとした教室。先ほどの騒音が少し名残惜しい。

「先生、お話って」

「みんなに進路のこと聞いてるのよ。まだ卒業まで時間はあるし、早いんだけどね」

「進路……ですか。プロの忍者になりたいと思っているんですけど、具体的にどこの城に勤めたいとかはまだ」

「本当に、卒業後も忍びを続けたいのね。名前さんは」

「そのために忍者のバイトもしてますし!」

勢いよく言うと、先生は白い手を口にあてて小さく笑う。一流の忍者になりたいのに将来があやふやで、そのチグハグさに恥ずかしくなった。

「最近はどう? そのバイト、上手くいってるの?」

「相変わらず、街の調査だったり文を届けにいったりですけど。先日は屋敷の見取り図を作る忍務をしたところなんです! 少し先ですが、大きな案件を任せてもらえそうで」

「……大きな案件?」

「詳しい内容は知らされてないのですが……。じきに卒業ですし、最上級生としても失敗できません! 絶対に成功させてみせます」

「その意気込みはいいんだけど。最近はますます物騒になってきたから、気をつけるのよ」

先生の声は低くなって、表情がこわばる。いつも優雅で余裕な雰囲気の先生がこんな顔をするなんて。今度のバイトは危険なのかもしれない。でも心のどこかで、負けるものかと燃え上がる。


「あなたは知識もあるし、忍務の経験も積んでいるから進路は何とかなりそうね」

「ありがとうございます!」

「よかったら、忍術学園と繋がりのあるお城を紹介してあげるわ」

認めてもらえたようで嬉しくて、高揚した気持ちのまま頭を下げる。先生は「あらあら」なんて笑っていた。せっかくシナ先生が紹介してくれるのだから、学園の名に恥じないような忍びにならなきゃ。



六年生になってしばらく経つと、授業は実戦向けになり、裏山での鍛錬に励む日々。うどん屋や団子屋、それに忍者のバイトも掛け持ちだから文字通り休む暇がない。夏休みも家に帰らず、ずっと学園で過ごすことになりそうだ。


今日も授業が終わると団子屋でバイトだった。うどん屋と比べ、重いうつわを運んだり洗い物がないから多少は楽だけど……。ずっと立ちっぱなしは足にくる。楽な仕事はないなぁ、なんて思いながら店先の腰掛けを整えていると――

名前さん、お団子を一ついただけます?」

「あ、いい人材さん……じゃなかった! 井伊さんっ」

気を抜いていると、忍者のバイトを斡旋してくれる井伊甚左衛門さんに話しかけられた。町人風の身なりはいつもと変わらず、こうやって突然現れるのだ。井伊さんから何度も仕事を受けているのに、この現れ方だけはなかなか慣れない。

「ちょっとお待ちくださいね」

そう言って団子とお茶を用意すると井伊さんへ渡す。チラッと様子を盗み見れば、のんびりした顔をしながら団子を頬張る。その人は、やっぱり町人にしか見えない。

名前さん。お代です」

「はいっ」

「……今度は少々難しいかも知れません」

井伊さんから銭と一緒にメモを受け取る。その小さな紙に依頼内容が書かれているのだ。周りに気付かれないよう、メモだけを手のひらに隠す。

「まいど、ありがとうございました!」

「では、また来ますね」

にこやかに去っていく後ろ姿を見つめる。"また来ます"という言葉がズシンと重い。任せてもらえたという嬉しさに、忍務の責任が絡まって身が引き締まる。

そっとメモを懐に忍ばせて、何事もなかったかのようにお代を帳箱に入れた。


日が落ちて夕焼けが広がるころ。
街の人並みはまばらになって、この世に自分しかないような感覚。ゆっくりと学園への道を歩いていく。バイト終わりのこの時間は、疲れもあるけれど同じくらいに充足感があって意外と心地よい。

外で読むのは気が引けるけれど……。気になって例のメモを取り出してみる。開いてみれば、整った文字が数行並ぶ。忍務の日と、出城の特徴が簡単に書かれていた。私の他にも、忍び込む雇われ忍者がいるみたいで持ち場が分かれている。

「調査って、タソガレドキの出城……!?」

この城は優秀な忍びを揃えて、殿も冷血で有名だ。その出城が見せかけでなく、本当に機能しているのか様子を確かめるという依頼だった。想定外の忍務に緊張からゴクリと喉が鳴る。

メモを固く握り締め、早足で学園へと急いだ。



忍務まであと数日。
シナ先生に報告しなきゃと思っていたのに、ここ数日、先生は出張で不在にしていた。なんてタイミングが悪いのだろう。

いずれにせよ、先生方には許可をもらわないと外出できないのだ。シナ先生以外に事情を知っているのは大木先生しかいない。

食堂で二年生と戯れる先生を見かけたけれど、そんな中で相談できないし……。授業の質問にかこつけて、先生の部屋に行っちゃおうか。夜の見回り前なら会えるチャンスだ。

あたりは暗くなり、すっかり闇が空を覆っている。私は月明かりに照らされる外廊下を歩いていた。床板を踏むたびにギシッと音が鳴り、ざらついた気持ちに重なる。

先生の部屋は仄かな明かりが灯って、中にいることが分かった。

「大木先生、名前です」

「おう、入れ」

いつもの先生の声に少しだけ不安がやわらぐ。戸を引くと、忍装束姿の先生は文机に向かって座っていた。頭にはしっかりと赤い鉢巻きを締めて、夜遅くでも気を抜いていない様子だった。

先生の周りにはたくさんのプリントが並べられ、こそっと見てみると朱色で丸とかバツとかが書かれている。

「お仕事中にすみません」

「かまわん。こんな夜にどうした?」

「じつは、大木先生にお話がありまして……。バイトの忍務なんですが」

「うむ。まぁ、座りなさい」

失礼します、と頭を下げてから先生があごで指した場所に正座した。燭台に灯された炎が先生をゆるりと照らし、すっと通った鼻筋に影を作った。はだけた衿元は、網のシャツ越しにたくましい胸元がのぞいて――

小さな炎が作り出す陰影は、先生をより男らしく見せた。向かい合って座るから目のやり場に困る。ドキンと打つ鼓動は大きくなるばかりで、平静を保とうと呼吸を整えた。

「それで、話ってなんだ? まさか、厄介ごとじゃないだろうな〜?」

「すみません、その"まさか"です……」

「げ、そうなのか!? なんでわしなんだ」

冗談っぽく笑った先生が、「まさかです」と聞いた途端に眉間にしわを寄せ、頭をガシガシかいた。なんて説明しよう……? 「えーっと」なんて困りながら言葉を探す。

「シナ先生にも話したのですが、今度の忍務が少し重い案件なんです」

「というと?」

「優秀な忍びがいる城の……出城を調査する、という内容なんです。偽の出城じゃないか、本当に拠点にするつもりなのか……」

言葉を選んで大木先生に伝える。私だって忍者の端くれだから、忍務をつまびらかにするのは躊躇われた。先生は私を問い詰めることはなく、静かに腕を組んだ。

「……それは、万が一失敗したらマズイな。お前だけでなく、忍術学園を巻き込むことになる」

「やっぱり、受けちゃダメですよね」

「シナ先生は何と言ってるんだ?」

「出張中で、ちゃんと許可をいただいてないんです。でも、気をつけてね、と……。だから、事情を知っている大木先生に相談したくて」

「相談じゃないだろ。お前の顔に、迷いが見られない」

「……っ、」

いつになく真剣な先生にじっと見つめられ、固まったように私も先生を見つめ返す。たしかに、先生の言う通りだ。私の気持ちは決まっていて、背中を押して欲しかった。けれど、ヘマをしたら学園を巻き込みかねない案件だ。先生の視線に負けて口ごもってしまう。きっと、この気持ちだって先生に読まれているに違いない。

「学園でも昨今の不穏な動きは追っている。ちょうどいい。名前、やってみろ」

「大木先生……!?」

あぐらをかく先生は、面白そうだと言うように口の端をつり上げた。ひげ剃り傷のついたアゴをさすって、何を考えているんだろう……?

「それで、いつなんだ? そのバイトは」

「三日後の夜です。その日は城主が遠方に出かけるから警備が手薄らしいのです」

「そうか。シナ先生が出張中なのは気がかりだが」

言葉が途切れ、先生と目と目で会話するように視線を交わす。なぜだか分からないけれど、先生が見守ってくれるような、そんな心強さを感じた。



ついに、出城を調査する日がきた。
その日は一日中そわそわして、なんだか落ち着かない。シナ先生が出張だから、ここ数日の授業はずっと自習だ。忍たまの友もページは開きっぱなしでうわの空。格子窓の外を眺め、今夜の動きを何度も何度も頭の中で想像する。こんな気持ちじゃダメだ、とほほを叩いた。


名前っ、どの定食にするー?」

授業が終わり、夕飯時の食堂は忍たま達がわらわらと集まって賑やかだ。上級生になると、忍者食作りの練習がてら各自で準備することもある。そのせいか食堂は下級生の制服が目立つ。私もバイト先のまかないを食べたり、自分で作ったりもするけれど、今日はしっかり腹ごしらえをしなければ……!

「うーん。焼き魚美味しそう! でもハンバーグもいいなぁ」
「迷っちゃうね!」

そんな話をしつつカウンターへ向かっていると、奥の方から大きな声がした。そこには腰掛ける大木先生と、こぶしを握り踏ん張って立つ二年生の文二郎くんがいた。

「大木先生〜! 今日は鍛錬に付き合ってくれないのですか」

「悪いなぁ。今夜は都合がつかんのだ」

「じゃあ、次の日はいかがですか!」

「明日か? いいぞ、付き合ってやる」

今夜は……?
なんで大木先生は都合がつかないのだろう。なにか用事があるのかな? それは考えすぎで、テストの採点とか宿題の確認とか、報告書の作成とかがあるのかもしれない。

大木先生は「ど根性のあるやつだ」と嬉しそうに文次郎くんの頭を撫でた。荒っぽく撫でるから、文次郎くんの頭巾がくしゃっと寄れる。それでも文次郎くんは嬉しそうに笑って、微笑ましいやり取りだった。大木先生が私の担任だったらな……なんて少し羨ましくなる。

名前ちゃんは、何にするか決まったかい?」

ぼんやりしていると、食堂のおばちゃんが目の前にいた。友だちは選んだ定食を受け取って、私だけが取り残される。

「えっと……はい! A定食で」

おばちゃんに元気よく答えて食事を受け取ると、友人の待つ席へと急いだ。



丸い月が時折り雲に隠れ、真っ暗闇が辺りを支配する。いくつかの星が揺れるように瞬いていた。

くのたま長屋は静寂に包まれている。こんな夜更けに起きているのは私くらいだ。隣で眠る友だちを確認してから静かに寝床から抜け出した。この日のために準備した、あずき色の忍装束を身に纏う。くのたまの制服では目立ちすぎるし、何より忍術学園のものだと一目で分かってしまうから。

布団の下に隠しておいた手裏剣と鉤縄を懐にしまう。朝が来る前に、無事に忍務を終えて戻って来られますように――

自身を鼓舞するように強く頷いてから、そっと部屋を抜け出す。暗闇で目を開けていたから夜目がきく。月が雲間から顔をのぞかせると眩しく感じるくらいだった。

土塀に身体を寄せ、草木に紛れながら正門まで走っていく。誰かにバレたら面倒だ。

出門票を書かなきゃと思ったけれど、事務のおばちゃんは眠っているのか人影は見えない。外出許可は懐にしまったまま出番はなかった。正門を潜らず、土塀の上にひょいと飛び上がる。そのまま音を立てずに着地すると、あえて木々が鬱蒼とする獣道をゆく。

カサカサと枝葉が身体に当たる音が聞こえる。緊張のせいか、その音は耳の中で増幅されているような気がした。誰かにつけられている気配はないし……。きっと、気のせいだ。後ろは振り返らず、ひたすら出城へと急いだ。


どれくらい走っただろう。額には汗が滲み、こめかみから大きなしずくがポタポタと落ちてくる。太い木の幹に隠れながら荒い呼吸を整えた。


……あれがタソガレドキの出城かぁ。

目の前にそびえる立派な天守台や櫓が見える。それは月明かりによってぼんやりと照らされた。地上には置かれたかがり火がほのかに揺れる。遠くからでも分かる、この出城の背後は崖になっていて正面から入るしかない。

城の虎口――小さな入り口は甲冑を身につけた見張りが数人立っている。見つからないよう茂みや木の陰に隠れ、人の配置と人数をメモに記した。

気配を殺して門まで近づく。手のひらほどの石を遠くに投げ、わざと物音を立てて注意を逸らした隙に土塀に飛び乗った。驚いたカラスが一羽、カァと鳴きながら飛び去ったのも助けになった。

内部へ降り立つと、シュルシュルと鉤縄を巻き取り懐へしまう。そこに見張りはおらず、足音を立てないように辺りを確認する。武器などは置かれてはいないが、険しい崖の鎖場となっていた。鎖を使って登れということだ。

さすがはタソガレドキの出城。一筋縄ではいかない。金属の音がしないよう、細心の注意を払って鎖を掴む。腕に力を込め、身体を引き上げながらつま先で足場を探して体重を支える。それを一歩一歩積み重ねて、とうとう鎖場を登りきった。もう一つの土塀を飛び越えると、ようやく城に到達した。

崖の上に堂々と立つ出城。
二、三のかがり火が地面に設置されているだけで、暗いのはありがたかった。城の内部に入るには、また門を潜らねばならないようだ。

塀のそばにある大きな木の枝まで飛び上がり腰を下ろすと、生い茂る葉に身体を隠す。ここでしばらく、行き交う見張りや侍、夫丸達を観察しようと懐からメモを取り出した。

夜中でも、城内は人が武器を運んだり、持ち場を交代したりと目が離せない。大きなツボに入った火薬が人馬に運ばれてきたりもした。馬に藁を被せていたが会話の様子から察する。

……この出城は見せかけではない。内部では着々と戦の準備が進められていた。状況が見えたところで、そろそろ引き上げようとした時。

目の前に、大きな黒い塊がツーッと透明な糸を伝って降りてきた。八本の細い足がぞわ、と動く。

「……っ!?」

蜘蛛だ。
仕事の終わりが見えて気が緩んだせいなのか、悲鳴にもならない小さな声を漏らす。慌てて口を押さえると、バランスを崩し腰掛けた枝から滑り落ちて行く。

ドサッ、と鈍い音がして腰に痛みが走った。歯を食いしばりながら打ちつけた部分をさすっていると、異変に気付いた見張りが「あっちだ!」と私の方を指差しながら駆け寄ってくる。

まずい……!
立ち上がると、木の陰に隠れながら小走りで見張りから距離を取る。心臓がバクバク鳴り響いて全身の血液が熱く駆けめぐる。

「曲者だ!」

その声と同時に、シュッと空を斬る音がして二の腕に鋭い痛みが走った。きらりと光った手裏剣はポトリと地面に落ちる。それは剣に何かが塗られて変色していた。

「……痛っ」

斬られた箇所は布が裂け、じわりと血が滲む。もう片方の手でその傷を押さえると落ちた手裏剣を拾う。車返しの術で相手に投げつけようとしたけれど、大木先生の言葉が脳裏によぎった。

"少しでも危険だと思ったら逃げろよ"

無事に帰って、結果を報告しなければ……! 手裏剣を握り締め、再び全速力で走った。あとは塀を越えて、崖を降りて――。すべき事は分かっているのに、傷口がズキズキと痛み身体が重くなっていく。手足が痺れて毒が身体を蝕んでいくのだ。

その間にも追手が増えて、私を探している。息が上がって力が抜け、視力も奪われたように目の前が白く霞む。……もうダメだ。毒が身体中に回ったんだ。

ガクンと膝から崩れ落ちそうになった瞬間。


「おい、しっかりしろ」

低い声がして、力強く抱きかかえられる。かたい地面にぶつかると思ったのに、包まれたのは温かくて筋肉質な腕の中。状況が理解できずにいるけれど、その声に、匂いに、感触に、心底ほっとして夢のようだった。

「おおき、せんせ……」

あえかな声でつぶやくと、先生は応える代わりにひときわ強く私を抱き締めた。不安だった気持ちが一瞬で消え去って、子どものように先生の胸元に縋りつく。

「帰るぞ」

その言葉とともに、先生は私を抱えながら軽々と塀を飛び越えた。浮遊感のあと、着地した時の衝撃が身体に響いた。私はただ先生にしがみつくのに精一杯で。赤い鉢巻きの端っこが目の前にチラついて、それをぼんやり眺める。

息がひどく苦しくなって、四肢の痺れも強くなってきた。

最期は想い人と一緒だなんて、私は最高に幸せかもしれない。夢なのか現実なのかも分からないで、まぶたを閉じる。朦朧としながら、心の奥底でずっと思っていたことが溢れた。

「……先生、好きです」


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