第58話 お揃いは折れチョーク
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カチャカチャ――
陶器がぶつかる音と水の跳ねる音。
「みんなー、洗い終わったうつわ、こっちにお願いします!」
「「「はーい!」」」
食堂の台所では、乱太郎くんたちが食器を洗ってくれていた。横長の洗い場には井戸水がなみなみと満たされ、大量のうつわが沈んでいる。そのヘリに腕まくりをした三人が並び、汚れを落として綺麗になったものから積み重ねていく。
それを手に取ると、ふきんで優しく水気をぬぐう。お手伝いしてもらったおかげか、だいぶペースが早い。残り少ないうつわの数に終わりが見えてきて、しんべヱくんがおしゃべりを始めた。
「あのね。この前、福富屋にカステーラさんがきて、」
「カステーラさんって、南蛮の貿易商だったよな?」
「そうそう! パパとお話ししてたんだけど、不思議なものをつけてたから聞いてみたんだ」
「不思議なもの?」
「えへへ、知りたいでしょ?」
乱太郎くんもきり丸くんも、私まで思わず手が止まる。しんべヱくんのつぶらな瞳が、何かを企むようにキラッと光る。
「もったいぶらずに言えよっ」
「きり丸に同意ー! 早く教えてよ」
乱太郎くんが急かすと、しんべヱくんが満足そうな顔で口を開く。みんなして、その様子をじっと見つめた。
「……指に、丸い輪っかをつけてたの! 指輪って教えてくれた」
「なんだよそれ、変なの」
「でもね、キラキラ光って綺麗だったんだ。カステーラさんは、南蛮では夫婦で身につけるって言ってた。結婚の赤い石……? だって!」
「赤い石、じゃなくて"あかし"かな?」
「名前さん、それそれー!」
「すごく素敵だね。でも、急にどうして……」
再び手を動かし、ピチャピチャと水の跳ねる音が聞こえる。しんべヱくんの言う指輪は書物で読んだことがあった。金物で作られていて、人生を共にする誓いの意味があるようだ。本の挿絵では、無機質で装飾も最低限の輪っかだったけれど……。それを見た時の、ドキンとした胸のときめきが蘇る。
「だって、名前さんと土井先生もつけるでしょっ?」
「ゆ、指輪を……!?」
そんな風に見てくれる嬉しさと、照れ臭さとで、しんべヱくんの笑顔を前に言葉がつまる。
でも、それは南蛮の風習だ。
この国ではおろか、特に忍者の先生は指輪なんてつけられない。そう頭では分かってはいるのに。好きになった人が忍びという危険で不安定なものだからか、たまに"目に見えるもの"が欲しくて切なくなる。心のどこかで、少しだけ期待してしまうのだ。
最後のうつわを拭き終わると、濡れた手をパタパタ乾かす三人へ向き直った。みんな腕をほぐして、うーんと伸びをしている。
「そんな日がくるといいけどねっ。さあ、洗い物も終わったし遊んでおいで」
「「「やったあ、終わったー!」」」
「ちゃんと宿題もするんだよ?」
「「「はーいっ」」」
そう言うないなや、勝手口から勢いよく駆け出した。小さな後ろ姿にクスッと吹き出し、割烹着で手を拭っていると、今度は食堂から女の子の声が聞こえてくる。くのたまなら、恋人同士の流行りとかに詳しいかもしれない……! ウズウズする気持ちを抑えてカウンター横の小口をくぐった。
「ユキちゃんたち、お茶でも入れようか?」
「「「名前さんっ」」」
「みんなに教えてほしいことがあって……」
座って座って!なんて急かしながらテーブルに着くよう促す。そそくさとお茶を準備して三人に差し出すと、自分の湯呑みにも余ったお茶を入れる。椅子へ軽く腰かけて口を開いた。
「じつは最近、街に行けてなくって」
「名前さん、忙しそうでしゅもの……」
「あっ、仕事は楽しいから大丈夫! なんだけど、その……。街でいま流行りの、お揃いのものとか、あるのかなって気になって」
「「「お揃いー!? それって、まさか!」」」
"お揃い"と言う言葉に反応したのか、三人とも身を乗り出し目はキラキラ輝いている。食堂には私たちだけだったけれど、誰かに聞かれたら恥ずかしいし、騒ぎになっても大変だ。慌てて口に人差し指をあて、落ち着くように身振り手振りをする。
「や、やだっ! みんな静かに……!」
「すみませんっ。でもお二人の仲、気になってー! ね、トモミちゃんにおシゲちゃん?」
「「そうそう! 土井先生との話、聞きたいです〜!」」
「だ、だからっ、それは……!」
ぐいぐい迫ってくる三人に気おされ、自分の湯呑みを握りしめる。すぐ後ろは壁になっていて、もう物理的な距離もとれない。額からは汗がたらりと流れ落ちる。
「どっちから告白したんですか!」
「どんなところが好きなんですか?」
「なんて呼び合ってるんでしゅか!?」
「え、えーっと……」
ユキちゃんから始まる怒涛の質問攻撃。話のきっかけは自分からだし……。逃げられなさそうだ、と諦めにも似た覚悟を決める。
「告白は私から、かも。つい言ってしまった感じかな」
「「「名前さんから!?」」」
「だからみんな、静かにってば……!」
「女の子からって言うのも素敵じゃないっ」
「詳しく聞きたいでしゅ!」
答えないという選択肢はなくて、小さな声でつぶやく。その度にキャーキャー湧き上がり、甲高い声が食堂に響いた。
嘘をつくことなく、かと言ってふんわりとぼかして話すと余計に突っ込まれる。いくつもの質問が飛んできてはかわしていく。顔から火が出るほど恥ずかしかった。
しばらくして、ユキちゃんたちのおしゃべりが落ち着いたころ。淹れたてのお茶はいつの間にかぬるくなっていた。それをごくりと飲み干し、熱くなったほほを両手ではさむ。
「もう、そろそろ街の流行りの……」
「ああっ、そうでしたぁ! トモミちゃんたち、何か知ってましゅか?」
「「うーん、なんだろう」」
「手ぬぐいとか、かしら?」
「お揃いの柄って難しいでしゅ……」
先ほどの勢いは鳴りをひそめて、三人ともうんうん唸っている。ユキちゃんが手拭いを提案すると、トモミちゃんが何かを閃いたように表情を明るくした。
「それだったら、わたし、可愛い櫛をプレゼントしてもらいたいな!」
「「きゃ〜っ!」」
「あの、三人とも。プレゼントじゃなくてお揃いを……」
「櫛なんてもらっちゃったら、おシゲとっても幸せでしゅ!」
「どんな柄がいいかなー?」
「トモミちゃんには落ち着いた柄が似合うかしら。あっ、たしか今度の週末、小間物市があるって――」
話題がどんどん違う方にずれていって、もう収拾がつかない。おすすめのお揃いを聞きたかっただけなのに……。土井先生とのことを突っ込まれ話してしまったあげくに知りたかった情報も分からずじまいだ。
焦らず、自分でちょっと考えてみようかな。櫛の話で盛り上がる三人を、頬杖をつきながらのんびりと眺めるのだった。
*
次の日。
今日も朝から食堂のお手伝いに、吉野先生から頼まれた備品の点検に大忙しだ。
そんななか、たまたま通りかかった一年は組の教室前。帳簿を胸にかかえ、ふと足を止めると中からは子ども特有の高い声が漏れ聞こえた。続いて、土井先生の少しキリッとした声が続く。いつ耳にしても、やっぱり格好いいなぁ……なんて無意識に頬がゆるんでいく。
「――と、するとだな、って喜三太! 授業中はナメクジをしまいなさい!」
「すみませ〜ん、なめ吉がお散歩したがってぇ」
「……なめくじが、散歩をしたいだと!?」
「ああっ、し、しまいますからぁ!」
大きな怒号が響き、思わず抱えた帳簿を落としそうになった。こっそりと引き戸の隙間から中を確認する。土井先生が苦虫を噛み潰したように顔を歪め、怒られた喜三太くんはいそいそと小さなツボを机の下へ仕舞い込んだ。
「……っ!?」
先生が黒板に向き直りかける時、視線が合いそうになって慌てて身体を隠す。もしかしたら、先生にはバレているかもしれないけれど……。ただでさえ遅れている授業を、さらに遅れさせるわけにもいかず。中断させるのは申し訳なくて、しばらくそのまま隠れて様子をうかがう。
「前にも教えたが、きつね隠れの術とは――」
カツン、カツン
先生の声とは別に、固くて軽い、小気味良い音が聞こえ始める。ゆっくり立ち上がり音のする方へ目を凝らすと、先生が黒板に何かを書いているようだ。
黒い忍装束の袖からすーっと伸びた腕。手甲をつけた骨張った手首、さらに指先を見つめる。真っ白の折れチョークをつまむ、その動きまで目が離せない。先生の真剣な表情と、時折り忍たま達を振り返り、向けるほほ笑みにドキンと心臓が高鳴る。
チョークの粉で汚れた長い指に、もし銀色の輪が着けられていたら。先生がふとした瞬間、無意識に指先で指輪を撫でていたら……?
その存在を確かめるような仕草を想像して、さらに鼓動が加速する。自分の指には何も着いていないのに、左の薬指に触れてしまった。
先生は術を説明しながら、手持ち無沙汰なのか手のひらでチョークをコロコロと転がして――。大事そうに、愛おしそうに白い塊へと視線を落としてから、再び忍たまへ顔を向ける。その柔らかい瞳に、私も映してほしい……なんて変なことを考え始めて、くたりとその場にしゃがみ込んだ。
――コツン
「おい、こらっ、団蔵に虎若! おしゃべりは授業のあとだ!」
「っ、いてて……」
声だけでもその表情や動きが目に浮かぶ。きっと、チョークが二人の頭に命中したのだろう。土井先生も大変だなあ……と苦笑いしつつ、武器にもなるチョークってすごい!と素直に感心してしまっていた。
いつもは土井先生の懐に収まって、授業では短くなるまで大切に使われて、時に乱定剣として使われる。まるでチョークが先生のお守りみたいだ。
あれ。
もしかして、これって……!
いいことを思いついたからか、もうどうしたってニヤニヤが抑えきれない。お揃いを越えるものを見つけてしまった。胸元の帳簿をぎゅーっと抱えこんで、残りの仕事を片付けるべく廊下を急いだ。
*
「土井先生〜! 廊下が気になるんっすか」
「え、いや、そう言うわけじゃないんだが、」
一年は組の授業の終わりかけ。少し前から廊下に名前さんの気配を感じてチラチラ様子をうかがう。何かを伝えにきたのかと思ったが、そうでもなさそうだ。仕事の合間に見学でもしていたのだろうか。私にバレないようにコソコソする姿を想像すると、小動物のようでなんとも可愛らしい。
「本日の授業はこれまで! お前たち、ちゃんと宿題をやるんだぞ」
「「「はーい」」」
嬉しそうにはしゃぐ忍たま達を確認すると、手の中の小さなチョークを小箱にしまい懐へ忍ばせる。放課後がそんなに待ち遠しかったのか。まったく……と苦笑を漏らしつつ、粉だらけの手をパンパンとはらった。
「おい、廊下は走るんじゃない!」
浅葱色の制服がいっせいに教室から飛び出す。ドタドタと大きな足音をたて、その勢いのまま走っていく。いつもの通り叱ると、「分かってまーす!」と生意気な返事が返ってきた。
がらんとした教室をぐるっと見回して、教科書と出席簿を抱えると廊下へ踏みだす。授業は終わったけれど、仕事はまだまだ残っていた。テストのプリント作成に明日の授業で使う資料の準備、それから報告書――
……名前さん、まだ近くにいるだろうか。
手伝って欲しさ半分、そばにいたい気持ちが半分。いや、後者の方が大きいかもしれない。なぜ教室を覗いていたのかも聞いてみようか。彼女はきっと赤い顔で慌てて、それを私がくすっと笑う。いつものやり取りを思い出して、ふっと口元を緩ませた。
廊下を見渡し出口の方へと進む。ミシッ、と床板が軋む音が聞こえるくらいの静けさだ。向かいからパタパタと小さな足音が響いて、彼女だと気づいた。
「名前さん、探していたよ」
「わぁ、土井先生っ!?」
「そんなに驚かなくても、」
「ごめんなさい……」
「まだいてくれて良かった」
廊下の曲がり角。壁際から帳簿を抱え走ってくる名前さんに声を掛ければ、目を大きくしてピタ、と動きを止めた。ゆっくりと近づいて、ズレた頭巾を直してあげながら柔らかな頬に触れる。くすぐったそうに目を細めてはにかむ姿が、たまらなく可愛いじゃないか。
「先生。探してたって、私に何かご用でしょうか」
「君にテストのプリント作りを手伝って欲しいんだ。大丈夫かい?」
「もちろんです! 重要な忍務ですからっ」
名前さんはそう言って自慢げに腕を組んだ。こちらもそれに応えるように頷くと、二人して子どもみたいに笑う。
「備品の確認が終わったら、先生のお部屋に向かいますね」
「ああ、待っているよ」
*
ドタドタドタ――
土井先生の待つ教員長屋へと早足で急ぐ。決して走らないように心がけてはいるものの、気持ちばかりが焦る。
帳簿をつけ終わり吉野先生に報告を……!と事務室に入ったところで、小松田くんの大失敗に巻き込まれてしまったのだ。吉野先生を狙ったかのようにぶち撒けられた熱々のお茶を一緒に片付けると、想定よりもだいぶ時が過ぎていた。
「先生、遅くなりました!」
「名前さん、大変だったね。さあ、こっちにおいで」
「失礼しますっ」
カタン――
戸を引くと、先生は大量の書類に囲まれていた。こちらに柔らかな笑みを浮かべるも、先生には私に何があったかお見通しのようだった。
額の汗をぬぐって、促されるまま繋げられた机の前に正座する。
「ほんとに大変でしたっ。小松田くんが吉野先生にお茶をかけてしまって、」
「ははは、相変わらずだな」
「先生も相変わらず、すごい量のプリントですね?」
「そうなんだ。名前さんに手伝ってもらえて助かるよ。これを見本に、人数分たのむ」
「はーいっ」
見本のプリント数枚を受け取ると、何が書いてあるのか目で追っていく。デカデカと"抜き打ちテスト"と記された紙には、今日の授業で話していた内容が盛り込まれていた。左側に見本を置いて、さっそく一枚一枚写していった。
ぺら、ぺらと紙がなびく音だけが部屋に響く。しばらく二人で黙々と作業をして、合間に土井先生へ視線を向けると、それに気づいた先生が優しくほほ笑んでくれた。
右手に筆を握って、真剣に書物をする先生をぼんやり眺める。左手は紙の上にそっと置かれて……。男性の骨っぽい、すらりと伸びた指先にどうしても視線が留まってしまう。
……もしも薬指に、指輪がつけられていたら。しかも私とお揃いだったら。
いやいや、ないない!
あり得ない想像をしては一人で顔を熱くして、思わず左手をグッと握りしめた。
「……名前さん? どうしたんだい、ぼーっとして」
「す、すみません、何でもないんですっ!」
「そうは見えないけど? 今日も授業を覗いてただろう? ……私に隠し事はできないと思うぞ」
「うぅ……」
眉を下げ、困ったような先生には敵わない。なぜか秘密にすることが後ろめたく感じる。それに忍びの前では、隠すことなんか無意味だと知ってるから。
筆をすずりの横に置くと、先生へと身体を向けた。観念するようにポツリと口を開く。
「しんべヱくんから、指輪のことを聞きまして」
「指輪って、南蛮の?」
「ええ。カステーラさんが、夫婦でつけるものだと教えてくれたそうなんです。だから、土井先生と名前さんにも必要だねって」
「それはまた、ずいぶん気が早いなあ」
そう言いながらも照れ臭そうな先生に、こちらまで恥ずかしさがうつってしまいそうだ。いずれ、少し先の未来は……。先生も同じことを考えているのかな、なんて思うと嬉しくなって、私は本当に単純だ。
「……でも、半助さんは忍者だから。指輪なんてもちろん、お揃いのものだって……。ダメって、分かってますからっ」
「名前さん、」
「だけど半助さんを見るたび、つい想像しちゃって。そうしたら、一人でドキドキして」
「ふつうの恋人ならできることだよな。我慢させちゃってすまない」
「いえ、そんなこと!」
そんなつもりで言ったんじゃなかったのに。悲しそうな半助さんに慌てて言葉を返す。少し重くなってしまった空気を変えようと、授業を見学した時に思いついたことを提案してみる。
「じつは、ひとつお願いがあって」
「……なんだい?」
「忍務で離れているあいだ、私が淋しくないように……」
「淋しくないように?」
「半助さん愛用のチョークが欲しいんです! 小さくなるまで使って、たまに手裏剣がわりにしてるし、想いが込められてるから」
「ちょ、チョーク、かい!? それは構わないけど……」
予想外だったのか、彼のクリッとした瞳がさらに大きくなって、口もぽかんと開いている。驚いてくれたのがおかしくて、ずずいと身体を近づけた。半助さんは「ちょっと待って」と言って、大きな手を懐へ忍び込ませゴソゴソする。
「こんなものでいいのか? 好きなだけ、取って良いが……」
「ありがとうございます!」
「あ、気をつけないと……」
「わあ、っ……!」
チョーク入れを受け取ろうとした瞬間。気が急いてしまったのか手の中から滑り落ち、なんとか掴もうと必死になれば、ポンポンとまるでお手玉みたいに踊って――
「きゃっ!」
上まで飛んだ小箱は頭に落ち、パカっとふたが開くと白い粉と小さなチョークがが降り注いできた。頭巾から、顔や肩、そして衿もとまで。白い煙のような細かい粒子があたりを包む。ゴホゴホと咳をして、片手でブンブンと空気をかき混ぜた。
「むせるぞ、と言おうと思ったのに。君は……」
「けほっ、けほ、」
「ほら、こっちにおいで。拭いてあげよう」
「ありがとう、ございます……」
半助さんのそばに寄れば、するりと頭巾を取り払われた。いつの間にか手ぬぐいを取り出していたようで、まずは顔を優しく拭いてくれる。まぶたの辺りに布が触れそうになって、ゆっくり目を閉じた。その手つきがあまりにも丁寧でむず痒い。
「っ……はんすけ、さん、ちょっと、ふふっ」
「じっとして。もっと汚れてしまうよ」
「はぁい。ん、あっ」
「こらこら、」
手ぬぐいが目元を通り過ぎ、まぶたを開く。くすぐったさに耐えられず半助さんの右手をやんわり掴むと「我慢してくれ」と困り顔だ。彼のこの顔には逆らえずに掴んだ手を放した。
「また盛大にこぼしたね」
「えへへ……」
「ほら、こんなところまで」
「あのっ、そこは……! ひゃ、っ」
肩にかかる髪を片側によけられ、露わになった首筋を手ぬぐいがそろりと撫でてくる。胸元まで入り込みそうになって、戸惑いに小さな悲鳴をあげるも半助さんはお構いなしだ。それどころか、トロンとした熱っぽい瞳にまっすぐ射抜かれる。
「……名前さん」
至近距離で、視線が絡まる。
ここは職員室で、仕事中なのに。時も思考さえも止まったかのように動けない。半助さんのカサついた手のひらにほほを包まれ、かあっと体温が上昇する。そのまま引き寄せられ、茶色の前髪が顔にかかると再び目をつぶった。
「んっ、」
唇に柔らかなものが触れる。
ちゅ、ちゅっ、と優しく吸い上げられたあと、ゆっくり離れていく。名残惜しくて忍装束の袖を握ると、身体全体を包み込むように抱き締められた。とくとくと彼の鼓動が聞こえる。
たまらず広い背中に手をまわすと、彼の香りに幸福感があふれていく。心臓がどくんと激しく脈打って、もう熱くて熱くてたまらない。
「恋しくなったら、こうして抱き締めるさ。直接触れる方が一番だろう?」
「……はい」
「どんな時だって、私は君の前から居なくならないから。安心して」
「はんすけ、さん」
「でも、こっそりとお揃いのものを身につける、なんて良いかもしれないね」
そっと身体を離して、ふたりで小さく笑い合う。いまだドキドキしながら甘い余韻に浸っていると、廊下から大きなため息が聞こえてきた。
「せんせっ、」
「ま、まずい!」
ドタバタと音を立てながら急いで机の前に正座し筆をとる。あたかも仕事してる風を装うやいなや、障子がカタッと開かれた。
「おぉ、名前くんも居たのか」
「山田先生、お疲れ様ですっ」
「彼女にテスト作りを手伝ってもらってまして、」
「ほぉ。って二人とも、なんでそんなに粉まみれなんだ?」
「「……っ!?」」
私を抱き締めたせいで、土井先生の忍装束は白く染まっていた。床には折れチョークが転がっている。ねずみ色の事務服も、暗い色だからか白がよく目立った。
「これは、その……」なんて二人して狼狽えながらパシパシと服を叩くと、粉が舞い散って――
「「っ、くしゅん!」」
同時に大きなくしゃみをすると、山田先生がやれやれ……と呆れたように笑うのだった。
陶器がぶつかる音と水の跳ねる音。
「みんなー、洗い終わったうつわ、こっちにお願いします!」
「「「はーい!」」」
食堂の台所では、乱太郎くんたちが食器を洗ってくれていた。横長の洗い場には井戸水がなみなみと満たされ、大量のうつわが沈んでいる。そのヘリに腕まくりをした三人が並び、汚れを落として綺麗になったものから積み重ねていく。
それを手に取ると、ふきんで優しく水気をぬぐう。お手伝いしてもらったおかげか、だいぶペースが早い。残り少ないうつわの数に終わりが見えてきて、しんべヱくんがおしゃべりを始めた。
「あのね。この前、福富屋にカステーラさんがきて、」
「カステーラさんって、南蛮の貿易商だったよな?」
「そうそう! パパとお話ししてたんだけど、不思議なものをつけてたから聞いてみたんだ」
「不思議なもの?」
「えへへ、知りたいでしょ?」
乱太郎くんもきり丸くんも、私まで思わず手が止まる。しんべヱくんのつぶらな瞳が、何かを企むようにキラッと光る。
「もったいぶらずに言えよっ」
「きり丸に同意ー! 早く教えてよ」
乱太郎くんが急かすと、しんべヱくんが満足そうな顔で口を開く。みんなして、その様子をじっと見つめた。
「……指に、丸い輪っかをつけてたの! 指輪って教えてくれた」
「なんだよそれ、変なの」
「でもね、キラキラ光って綺麗だったんだ。カステーラさんは、南蛮では夫婦で身につけるって言ってた。結婚の赤い石……? だって!」
「赤い石、じゃなくて"あかし"かな?」
「名前さん、それそれー!」
「すごく素敵だね。でも、急にどうして……」
再び手を動かし、ピチャピチャと水の跳ねる音が聞こえる。しんべヱくんの言う指輪は書物で読んだことがあった。金物で作られていて、人生を共にする誓いの意味があるようだ。本の挿絵では、無機質で装飾も最低限の輪っかだったけれど……。それを見た時の、ドキンとした胸のときめきが蘇る。
「だって、名前さんと土井先生もつけるでしょっ?」
「ゆ、指輪を……!?」
そんな風に見てくれる嬉しさと、照れ臭さとで、しんべヱくんの笑顔を前に言葉がつまる。
でも、それは南蛮の風習だ。
この国ではおろか、特に忍者の先生は指輪なんてつけられない。そう頭では分かってはいるのに。好きになった人が忍びという危険で不安定なものだからか、たまに"目に見えるもの"が欲しくて切なくなる。心のどこかで、少しだけ期待してしまうのだ。
最後のうつわを拭き終わると、濡れた手をパタパタ乾かす三人へ向き直った。みんな腕をほぐして、うーんと伸びをしている。
「そんな日がくるといいけどねっ。さあ、洗い物も終わったし遊んでおいで」
「「「やったあ、終わったー!」」」
「ちゃんと宿題もするんだよ?」
「「「はーいっ」」」
そう言うないなや、勝手口から勢いよく駆け出した。小さな後ろ姿にクスッと吹き出し、割烹着で手を拭っていると、今度は食堂から女の子の声が聞こえてくる。くのたまなら、恋人同士の流行りとかに詳しいかもしれない……! ウズウズする気持ちを抑えてカウンター横の小口をくぐった。
「ユキちゃんたち、お茶でも入れようか?」
「「「名前さんっ」」」
「みんなに教えてほしいことがあって……」
座って座って!なんて急かしながらテーブルに着くよう促す。そそくさとお茶を準備して三人に差し出すと、自分の湯呑みにも余ったお茶を入れる。椅子へ軽く腰かけて口を開いた。
「じつは最近、街に行けてなくって」
「名前さん、忙しそうでしゅもの……」
「あっ、仕事は楽しいから大丈夫! なんだけど、その……。街でいま流行りの、お揃いのものとか、あるのかなって気になって」
「「「お揃いー!? それって、まさか!」」」
"お揃い"と言う言葉に反応したのか、三人とも身を乗り出し目はキラキラ輝いている。食堂には私たちだけだったけれど、誰かに聞かれたら恥ずかしいし、騒ぎになっても大変だ。慌てて口に人差し指をあて、落ち着くように身振り手振りをする。
「や、やだっ! みんな静かに……!」
「すみませんっ。でもお二人の仲、気になってー! ね、トモミちゃんにおシゲちゃん?」
「「そうそう! 土井先生との話、聞きたいです〜!」」
「だ、だからっ、それは……!」
ぐいぐい迫ってくる三人に気おされ、自分の湯呑みを握りしめる。すぐ後ろは壁になっていて、もう物理的な距離もとれない。額からは汗がたらりと流れ落ちる。
「どっちから告白したんですか!」
「どんなところが好きなんですか?」
「なんて呼び合ってるんでしゅか!?」
「え、えーっと……」
ユキちゃんから始まる怒涛の質問攻撃。話のきっかけは自分からだし……。逃げられなさそうだ、と諦めにも似た覚悟を決める。
「告白は私から、かも。つい言ってしまった感じかな」
「「「名前さんから!?」」」
「だからみんな、静かにってば……!」
「女の子からって言うのも素敵じゃないっ」
「詳しく聞きたいでしゅ!」
答えないという選択肢はなくて、小さな声でつぶやく。その度にキャーキャー湧き上がり、甲高い声が食堂に響いた。
嘘をつくことなく、かと言ってふんわりとぼかして話すと余計に突っ込まれる。いくつもの質問が飛んできてはかわしていく。顔から火が出るほど恥ずかしかった。
しばらくして、ユキちゃんたちのおしゃべりが落ち着いたころ。淹れたてのお茶はいつの間にかぬるくなっていた。それをごくりと飲み干し、熱くなったほほを両手ではさむ。
「もう、そろそろ街の流行りの……」
「ああっ、そうでしたぁ! トモミちゃんたち、何か知ってましゅか?」
「「うーん、なんだろう」」
「手ぬぐいとか、かしら?」
「お揃いの柄って難しいでしゅ……」
先ほどの勢いは鳴りをひそめて、三人ともうんうん唸っている。ユキちゃんが手拭いを提案すると、トモミちゃんが何かを閃いたように表情を明るくした。
「それだったら、わたし、可愛い櫛をプレゼントしてもらいたいな!」
「「きゃ〜っ!」」
「あの、三人とも。プレゼントじゃなくてお揃いを……」
「櫛なんてもらっちゃったら、おシゲとっても幸せでしゅ!」
「どんな柄がいいかなー?」
「トモミちゃんには落ち着いた柄が似合うかしら。あっ、たしか今度の週末、小間物市があるって――」
話題がどんどん違う方にずれていって、もう収拾がつかない。おすすめのお揃いを聞きたかっただけなのに……。土井先生とのことを突っ込まれ話してしまったあげくに知りたかった情報も分からずじまいだ。
焦らず、自分でちょっと考えてみようかな。櫛の話で盛り上がる三人を、頬杖をつきながらのんびりと眺めるのだった。
*
次の日。
今日も朝から食堂のお手伝いに、吉野先生から頼まれた備品の点検に大忙しだ。
そんななか、たまたま通りかかった一年は組の教室前。帳簿を胸にかかえ、ふと足を止めると中からは子ども特有の高い声が漏れ聞こえた。続いて、土井先生の少しキリッとした声が続く。いつ耳にしても、やっぱり格好いいなぁ……なんて無意識に頬がゆるんでいく。
「――と、するとだな、って喜三太! 授業中はナメクジをしまいなさい!」
「すみませ〜ん、なめ吉がお散歩したがってぇ」
「……なめくじが、散歩をしたいだと!?」
「ああっ、し、しまいますからぁ!」
大きな怒号が響き、思わず抱えた帳簿を落としそうになった。こっそりと引き戸の隙間から中を確認する。土井先生が苦虫を噛み潰したように顔を歪め、怒られた喜三太くんはいそいそと小さなツボを机の下へ仕舞い込んだ。
「……っ!?」
先生が黒板に向き直りかける時、視線が合いそうになって慌てて身体を隠す。もしかしたら、先生にはバレているかもしれないけれど……。ただでさえ遅れている授業を、さらに遅れさせるわけにもいかず。中断させるのは申し訳なくて、しばらくそのまま隠れて様子をうかがう。
「前にも教えたが、きつね隠れの術とは――」
カツン、カツン
先生の声とは別に、固くて軽い、小気味良い音が聞こえ始める。ゆっくり立ち上がり音のする方へ目を凝らすと、先生が黒板に何かを書いているようだ。
黒い忍装束の袖からすーっと伸びた腕。手甲をつけた骨張った手首、さらに指先を見つめる。真っ白の折れチョークをつまむ、その動きまで目が離せない。先生の真剣な表情と、時折り忍たま達を振り返り、向けるほほ笑みにドキンと心臓が高鳴る。
チョークの粉で汚れた長い指に、もし銀色の輪が着けられていたら。先生がふとした瞬間、無意識に指先で指輪を撫でていたら……?
その存在を確かめるような仕草を想像して、さらに鼓動が加速する。自分の指には何も着いていないのに、左の薬指に触れてしまった。
先生は術を説明しながら、手持ち無沙汰なのか手のひらでチョークをコロコロと転がして――。大事そうに、愛おしそうに白い塊へと視線を落としてから、再び忍たまへ顔を向ける。その柔らかい瞳に、私も映してほしい……なんて変なことを考え始めて、くたりとその場にしゃがみ込んだ。
――コツン
「おい、こらっ、団蔵に虎若! おしゃべりは授業のあとだ!」
「っ、いてて……」
声だけでもその表情や動きが目に浮かぶ。きっと、チョークが二人の頭に命中したのだろう。土井先生も大変だなあ……と苦笑いしつつ、武器にもなるチョークってすごい!と素直に感心してしまっていた。
いつもは土井先生の懐に収まって、授業では短くなるまで大切に使われて、時に乱定剣として使われる。まるでチョークが先生のお守りみたいだ。
あれ。
もしかして、これって……!
いいことを思いついたからか、もうどうしたってニヤニヤが抑えきれない。お揃いを越えるものを見つけてしまった。胸元の帳簿をぎゅーっと抱えこんで、残りの仕事を片付けるべく廊下を急いだ。
*
「土井先生〜! 廊下が気になるんっすか」
「え、いや、そう言うわけじゃないんだが、」
一年は組の授業の終わりかけ。少し前から廊下に名前さんの気配を感じてチラチラ様子をうかがう。何かを伝えにきたのかと思ったが、そうでもなさそうだ。仕事の合間に見学でもしていたのだろうか。私にバレないようにコソコソする姿を想像すると、小動物のようでなんとも可愛らしい。
「本日の授業はこれまで! お前たち、ちゃんと宿題をやるんだぞ」
「「「はーい」」」
嬉しそうにはしゃぐ忍たま達を確認すると、手の中の小さなチョークを小箱にしまい懐へ忍ばせる。放課後がそんなに待ち遠しかったのか。まったく……と苦笑を漏らしつつ、粉だらけの手をパンパンとはらった。
「おい、廊下は走るんじゃない!」
浅葱色の制服がいっせいに教室から飛び出す。ドタドタと大きな足音をたて、その勢いのまま走っていく。いつもの通り叱ると、「分かってまーす!」と生意気な返事が返ってきた。
がらんとした教室をぐるっと見回して、教科書と出席簿を抱えると廊下へ踏みだす。授業は終わったけれど、仕事はまだまだ残っていた。テストのプリント作成に明日の授業で使う資料の準備、それから報告書――
……名前さん、まだ近くにいるだろうか。
手伝って欲しさ半分、そばにいたい気持ちが半分。いや、後者の方が大きいかもしれない。なぜ教室を覗いていたのかも聞いてみようか。彼女はきっと赤い顔で慌てて、それを私がくすっと笑う。いつものやり取りを思い出して、ふっと口元を緩ませた。
廊下を見渡し出口の方へと進む。ミシッ、と床板が軋む音が聞こえるくらいの静けさだ。向かいからパタパタと小さな足音が響いて、彼女だと気づいた。
「名前さん、探していたよ」
「わぁ、土井先生っ!?」
「そんなに驚かなくても、」
「ごめんなさい……」
「まだいてくれて良かった」
廊下の曲がり角。壁際から帳簿を抱え走ってくる名前さんに声を掛ければ、目を大きくしてピタ、と動きを止めた。ゆっくりと近づいて、ズレた頭巾を直してあげながら柔らかな頬に触れる。くすぐったそうに目を細めてはにかむ姿が、たまらなく可愛いじゃないか。
「先生。探してたって、私に何かご用でしょうか」
「君にテストのプリント作りを手伝って欲しいんだ。大丈夫かい?」
「もちろんです! 重要な忍務ですからっ」
名前さんはそう言って自慢げに腕を組んだ。こちらもそれに応えるように頷くと、二人して子どもみたいに笑う。
「備品の確認が終わったら、先生のお部屋に向かいますね」
「ああ、待っているよ」
*
ドタドタドタ――
土井先生の待つ教員長屋へと早足で急ぐ。決して走らないように心がけてはいるものの、気持ちばかりが焦る。
帳簿をつけ終わり吉野先生に報告を……!と事務室に入ったところで、小松田くんの大失敗に巻き込まれてしまったのだ。吉野先生を狙ったかのようにぶち撒けられた熱々のお茶を一緒に片付けると、想定よりもだいぶ時が過ぎていた。
「先生、遅くなりました!」
「名前さん、大変だったね。さあ、こっちにおいで」
「失礼しますっ」
カタン――
戸を引くと、先生は大量の書類に囲まれていた。こちらに柔らかな笑みを浮かべるも、先生には私に何があったかお見通しのようだった。
額の汗をぬぐって、促されるまま繋げられた机の前に正座する。
「ほんとに大変でしたっ。小松田くんが吉野先生にお茶をかけてしまって、」
「ははは、相変わらずだな」
「先生も相変わらず、すごい量のプリントですね?」
「そうなんだ。名前さんに手伝ってもらえて助かるよ。これを見本に、人数分たのむ」
「はーいっ」
見本のプリント数枚を受け取ると、何が書いてあるのか目で追っていく。デカデカと"抜き打ちテスト"と記された紙には、今日の授業で話していた内容が盛り込まれていた。左側に見本を置いて、さっそく一枚一枚写していった。
ぺら、ぺらと紙がなびく音だけが部屋に響く。しばらく二人で黙々と作業をして、合間に土井先生へ視線を向けると、それに気づいた先生が優しくほほ笑んでくれた。
右手に筆を握って、真剣に書物をする先生をぼんやり眺める。左手は紙の上にそっと置かれて……。男性の骨っぽい、すらりと伸びた指先にどうしても視線が留まってしまう。
……もしも薬指に、指輪がつけられていたら。しかも私とお揃いだったら。
いやいや、ないない!
あり得ない想像をしては一人で顔を熱くして、思わず左手をグッと握りしめた。
「……名前さん? どうしたんだい、ぼーっとして」
「す、すみません、何でもないんですっ!」
「そうは見えないけど? 今日も授業を覗いてただろう? ……私に隠し事はできないと思うぞ」
「うぅ……」
眉を下げ、困ったような先生には敵わない。なぜか秘密にすることが後ろめたく感じる。それに忍びの前では、隠すことなんか無意味だと知ってるから。
筆をすずりの横に置くと、先生へと身体を向けた。観念するようにポツリと口を開く。
「しんべヱくんから、指輪のことを聞きまして」
「指輪って、南蛮の?」
「ええ。カステーラさんが、夫婦でつけるものだと教えてくれたそうなんです。だから、土井先生と名前さんにも必要だねって」
「それはまた、ずいぶん気が早いなあ」
そう言いながらも照れ臭そうな先生に、こちらまで恥ずかしさがうつってしまいそうだ。いずれ、少し先の未来は……。先生も同じことを考えているのかな、なんて思うと嬉しくなって、私は本当に単純だ。
「……でも、半助さんは忍者だから。指輪なんてもちろん、お揃いのものだって……。ダメって、分かってますからっ」
「名前さん、」
「だけど半助さんを見るたび、つい想像しちゃって。そうしたら、一人でドキドキして」
「ふつうの恋人ならできることだよな。我慢させちゃってすまない」
「いえ、そんなこと!」
そんなつもりで言ったんじゃなかったのに。悲しそうな半助さんに慌てて言葉を返す。少し重くなってしまった空気を変えようと、授業を見学した時に思いついたことを提案してみる。
「じつは、ひとつお願いがあって」
「……なんだい?」
「忍務で離れているあいだ、私が淋しくないように……」
「淋しくないように?」
「半助さん愛用のチョークが欲しいんです! 小さくなるまで使って、たまに手裏剣がわりにしてるし、想いが込められてるから」
「ちょ、チョーク、かい!? それは構わないけど……」
予想外だったのか、彼のクリッとした瞳がさらに大きくなって、口もぽかんと開いている。驚いてくれたのがおかしくて、ずずいと身体を近づけた。半助さんは「ちょっと待って」と言って、大きな手を懐へ忍び込ませゴソゴソする。
「こんなものでいいのか? 好きなだけ、取って良いが……」
「ありがとうございます!」
「あ、気をつけないと……」
「わあ、っ……!」
チョーク入れを受け取ろうとした瞬間。気が急いてしまったのか手の中から滑り落ち、なんとか掴もうと必死になれば、ポンポンとまるでお手玉みたいに踊って――
「きゃっ!」
上まで飛んだ小箱は頭に落ち、パカっとふたが開くと白い粉と小さなチョークがが降り注いできた。頭巾から、顔や肩、そして衿もとまで。白い煙のような細かい粒子があたりを包む。ゴホゴホと咳をして、片手でブンブンと空気をかき混ぜた。
「むせるぞ、と言おうと思ったのに。君は……」
「けほっ、けほ、」
「ほら、こっちにおいで。拭いてあげよう」
「ありがとう、ございます……」
半助さんのそばに寄れば、するりと頭巾を取り払われた。いつの間にか手ぬぐいを取り出していたようで、まずは顔を優しく拭いてくれる。まぶたの辺りに布が触れそうになって、ゆっくり目を閉じた。その手つきがあまりにも丁寧でむず痒い。
「っ……はんすけ、さん、ちょっと、ふふっ」
「じっとして。もっと汚れてしまうよ」
「はぁい。ん、あっ」
「こらこら、」
手ぬぐいが目元を通り過ぎ、まぶたを開く。くすぐったさに耐えられず半助さんの右手をやんわり掴むと「我慢してくれ」と困り顔だ。彼のこの顔には逆らえずに掴んだ手を放した。
「また盛大にこぼしたね」
「えへへ……」
「ほら、こんなところまで」
「あのっ、そこは……! ひゃ、っ」
肩にかかる髪を片側によけられ、露わになった首筋を手ぬぐいがそろりと撫でてくる。胸元まで入り込みそうになって、戸惑いに小さな悲鳴をあげるも半助さんはお構いなしだ。それどころか、トロンとした熱っぽい瞳にまっすぐ射抜かれる。
「……名前さん」
至近距離で、視線が絡まる。
ここは職員室で、仕事中なのに。時も思考さえも止まったかのように動けない。半助さんのカサついた手のひらにほほを包まれ、かあっと体温が上昇する。そのまま引き寄せられ、茶色の前髪が顔にかかると再び目をつぶった。
「んっ、」
唇に柔らかなものが触れる。
ちゅ、ちゅっ、と優しく吸い上げられたあと、ゆっくり離れていく。名残惜しくて忍装束の袖を握ると、身体全体を包み込むように抱き締められた。とくとくと彼の鼓動が聞こえる。
たまらず広い背中に手をまわすと、彼の香りに幸福感があふれていく。心臓がどくんと激しく脈打って、もう熱くて熱くてたまらない。
「恋しくなったら、こうして抱き締めるさ。直接触れる方が一番だろう?」
「……はい」
「どんな時だって、私は君の前から居なくならないから。安心して」
「はんすけ、さん」
「でも、こっそりとお揃いのものを身につける、なんて良いかもしれないね」
そっと身体を離して、ふたりで小さく笑い合う。いまだドキドキしながら甘い余韻に浸っていると、廊下から大きなため息が聞こえてきた。
「せんせっ、」
「ま、まずい!」
ドタバタと音を立てながら急いで机の前に正座し筆をとる。あたかも仕事してる風を装うやいなや、障子がカタッと開かれた。
「おぉ、名前くんも居たのか」
「山田先生、お疲れ様ですっ」
「彼女にテスト作りを手伝ってもらってまして、」
「ほぉ。って二人とも、なんでそんなに粉まみれなんだ?」
「「……っ!?」」
私を抱き締めたせいで、土井先生の忍装束は白く染まっていた。床には折れチョークが転がっている。ねずみ色の事務服も、暗い色だからか白がよく目立った。
「これは、その……」なんて二人して狼狽えながらパシパシと服を叩くと、粉が舞い散って――
「「っ、くしゅん!」」
同時に大きなくしゃみをすると、山田先生がやれやれ……と呆れたように笑うのだった。
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