第53話 変わらぬ想い
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「本日の授業はこれまで!」
「「土井先生、ありがとうございましたー!」」
黒板に書かれた白い文字。それを、黒板消しでキュッキュと音をならしながら拭い去っていく。
最近、名前さんの様子がおかしい。
急な忍務のあとからずっと、まともに話せないでいた。食堂で顔をあわせても忙しそうに定食を手渡され、すぐさま次に並ぶ忍たまへ目を向けている。私など視界に入っていないようだった。笑顔は変わらないのにどこか違和感がある。
夜、名前さんの部屋へ声をかけても寝ているようだし……。まじめな彼女のことだ、正式に採用されたことで無理をしすぎているのかもしれない。
いや、意図的に避けられているとしたら……?
腕を上下に振る動きをくり返すからか、つい物思いにふけってしまう。ぼーっとして黒板消しを取り落としそうになり、あわてて握りなおした。
「土井先生ーっ」
「ん、なんだきり丸?」
後ろから呼びかけられ振り返ると、いつもの三人がぐぐっとつめ寄り覗きこんできた。少しのけぞりながらも話を聞いてやる。
「最近の名前さん、元気ないような気がするんっすけど」
「わたしたちが声をかけても、うわの空っていうか」
「……土井先生、何かしたんでしょ!?」
「しんべヱ、人聞きの悪いことを言うな! わ、私はなにも……!」
「土井先生と名前さん、なーんかぎこちないっていうか、距離があるんっすよねー」
「先生。そこのところ、どうなんですか!?」
庄左ヱ門までやってきて、ビシッと指をさしながら問い詰めてくる。その様子を見たは組のやつらがわらわらと集まって、いつの間にか取り囲まれていた。
名前さんを傷つけることをしてしまったのだろうか。責める視線を浴びるけれど思い当たる節がない。きり丸があごに手をあて、うーんと唸りながら理由を探している。
「まあ、それは私も薄々感じていたんだが……。名前さんは今まで以上に忙しくて参っているんじゃないか?」
「ぼくみたいにいっぱいご飯食べなきゃ!」
「「「しんべヱ!」」」
「ご、ごめ〜ん」
「この前、牧之助が先生のお嫁さんのフリしたじゃないっすか。先生と一緒に家に行って懲らしめましたけど、それから変な感じがするんっす」
「そうだなあ。出張から帰って書類が溜まっていたというのに。花房牧之助のヤツ、私の嫁だなんてウソをついて……!」
「隣のおばちゃんも大家さんだって、牧之助にすっかり騙されちゃって。乱太郎の母上もだぜ?」
「えーっ、わたしの母ちゃんにも違うって言っておかなきゃ!」
「変なうわさが広まってないといいんだが……」
出張を終え学園長先生へ報告して……なんてバタバタしていたから名前さんにも会えず。その翌日は、乱太郎のお母さんから身に覚えのないお祝いをされて、慌ててきり丸と家に急いだのだ。私の嫁を名乗り、大家さんにお金まで借りられ、ずいぶんひどい目にあった。
「落ち込んでる名前さんを元気にするには……バイトしかないっしょ! あひゃあひゃ」
「きり丸! そんなことを言って、また名前さんを手伝わせようなんてダメだぞ」
「ちぇーっ」
ひらめいた!と顔をぱあっと明るくするきり丸にピシャリと釘をさす。らんらんと輝いた瞳が一気に小さくなり、がっくり肩を落としていた。
「うーん。いまの話を聞くに、名前さんは何かを聞いたのかも。それで勘違いしているのかもしれないね」
「庄ちゃんってば、相変わらず冷静ねぇ……」
たしかに、きり丸や庄左ヱ門の言うとおり牧之助の騒動から名前さんとすれ違ってばかりだ。偶然だと思い込んでいたが、偶然ではないとしたら……? それが、私に嫁がいると思い込んでのことだったら?
「わあ〜! なめツボのふたが壊れちゃったあ! 閉まらないよぉ」
「げっ! なんだよ喜三太、はやく直せよ!」
「きり丸、そんなこと言ったってぇ」
ふざけあう忍たまをぼんやり見つめ、得体のしれない期待と不安がじわじわ襲ってくるのだった。
*
事務仕事が一段落ついて、食堂のお手伝いの真っただ中。おばちゃんと調理台にならび、ザクザクと菜っぱを刻んでいる。
「……ふぅ、」
「名前ちゃん、最近ちょっと様子が変よ」
「そ、そうですか……?」
「何かあったら、わたしに相談してちょうだいね」
「ありがとうございます。あの、おばちゃん。もし知っていたら、その……」
心配してくれるおばちゃんに申し訳なくて、うじうじする自分が嫌になる。
もし、おばちゃんから「土井先生、じつはお嫁さんいるのよ、知らなかったの?」なんて言われたら、しばらく立ち直れそうにない。それでも、は組のみんなが先生と私をくっつけようと頑張ってくれたことが忘れられず、どうしても信じたかった。
包丁の柄をかたく握る。
勇気を振りしぼり、口を開いた瞬間。
「ヘムー!」
「ヘムヘム……!?」
「あらぁ、お腹すいたのかしら」
タイミングが良いのか悪いのか、白い紙をくわえたヘムヘムがカウンターの中まで入ってきた。褒めて欲しそうに足もとへ頭を擦りつけてくる。そっとしゃがんで、寄れた頭巾を直してやりながら文に視線を落とした。
「大木先生からです。……土づくりが忙しいから手伝いに来いって」
「良いじゃない! 自然のなかで身体を動かしたら、きっと気分も晴れるわよ。いってらっしゃいな」
「はいっ、ケロちゃんラビちゃんにも会いたいし……。あ、乱太郎くんたちも誘っちゃおうっと」
ヘムヘムにお礼を言うと、庵へ戻っていく姿を見つめた。思いがけない予定に少しだけ心が明るくなる。はやく三人に声をかけなくちゃ。お手伝いの見返りに野菜をねだるきり丸くんが目に浮かび、くすっと笑いを漏らした。
*
ジャリ、ジャリ。
わらじの底から小石や枝を踏みしめる感覚が伝わる。杭瀬村へ続く道は緑があふれ、流れる風が小さな花を揺らしていた。太陽の光が柔らかく降りそそぎ、春の訪れに足どりが軽くなる。
「みんな、一緒に来てくれてありがとう」
「名前さんのお願いとあらば断れないっすよー! もちろん、野菜はもらいますけど」
「でも、よかったです。最近悲しそうだったから、わたしたち心配で」
「そんなことないよ。大丈夫、元気いっぱいだよ」
歩きながらきり丸くんは目を銭にし、乱太郎くんは困ったように笑っている。しんべヱくんは鼻水をたらしながら、えへへと嬉しそうだ。
「土井先生にも言わなきゃ! 名前さんのこと気にしてたんです」
「乱太郎くん、それって……」
「先生、きっと安心するね〜!」
「ねぇ、みんな。土井先生なんて言って、」
元気だなんて言ってはみたものの、土井先生と聞いた途端に不安が押しよせ居て立ってもいられない。両隣を歩く三人に視線をやりつつ聞いてみるも、乱太郎くんたちはまるで私の声が聞こえていないようだった。いっせいに遠くへ向かって手を振り駆け出していく。
ひとり取り残され、ぼんやりその姿を眺めた。
「「「大木先生ー!」」」
「おー、待っていたぞ!」
風にのって届く楽しげな声。
目の前には野菜畑が広がり、その奥にある茅葺き屋根のあたりで雅之助さんと乱太郎くん達がじゃれあっている。トンっとふいにお尻を押され振り向くと、ケロちゃんが鼻先でつついたようだ。頭をなでてやれば満足そうに大きな瞳を細めた。
「今日はね、久しぶりに畑のお手伝いにきたんだよ」
「メェ〜!」
「わかったわかった、行こうね」
急かされるように頭を擦りつけられ、つまずきそうになりながらみんなの元へと走っていく。私の姿が見えたのか、雅之助さんたちが早く来い!とばかりに大きく手を振っていた。
「今から、種まきの前の土づくりをするぞ!」
「「「はーい」」」
「雅之助さん。この、何も植えていないところ全部ですか……?」
「もちろんだ!」
広い畑の半分、茶色の土があらわになっている。それを耕すなんて、終わりが見えない作業にめまいがする。顔をひきつらせた乱太郎くんたち。その背中をぽんとたたき元気づけると、くわを手にそれぞれの持ち場についた。
――ザクッザクッ
くわを振りあげ勢いよく畑に突きさす。グッと手前に引きよせ、えぐるように掘り返していく。まるでモヤモヤした気持ちを打ち消すように、力強くくわを振り下ろす。それでも心の中にはびこる不安は消えないまま、ため息ばかりがこぼれていった。
何度も同じ動きをしたせいか次第に体が重くなる。くわを地面におき、首や肩をほぐしていると雅之助さんが様子を見にやってきた。
「なんだ、もう疲れたのか?」
「だって、くわも重いし休みなしで耕してるんですよ!?」
「ははは、そうだな! ここらで休憩とするか」
「おなかも空きましたし」
雅之助さんは腰に手をあて豪快に笑っている。わしわしと頭をなでられると、いつもと変わらない温かさが心地よい。みだれた髪を整えながら、大股で家へと向かう彼を追う。
「乱太郎、しんべヱにきり丸! 飯にするぞー!」
ひときわ大きな声が畑に響いた。
*
「「「ごちそうさまでしたー!」」」
「大木先生、美味しかったです」
名前はつぶやいて、わしに小さく笑みを向けた。
採れたての野菜でつくった甘辛い煮物や、大きなおむすびを平らげると、三人とも外へ駆け出していく。ケロちゃんラビちゃんと追いかけっこが始まったようだ。
開け放しの戸口からは子どもの高い声とヤギの鳴き声が入り込んで騒がしい。その様子を土間から眺めつつ、名前とお茶をすすっている。遠くに向けられた彼女の視線は、どこか物憂げだ。
「みんな元気いっぱいですね」
「うむ。そういうお前は元気がなさそうだな?」
「そうですか……? 仕事がいそがしくて。そのせいですよ、きっと。あっ、でも楽しいから大丈夫ですので!」
「お前の大丈夫ほど信用ならんものはない」
「ええっ」
名前はとっさに手のひらでほほを隠す。誤魔化すようにはにかむと、「ひどいですー!」なんてふざけていた。畑での様子も、いつもと違っていたから気になっていたのだ。わずかな違和感が確信に変わる。
ははは笑ってから、ひと呼吸おいてあぐらを組み直す。彼女を見つめゆっくり切り出した。
「何か、あったんだろう?」
「……な、なにも」
「わしに隠し通せるとでも思ったか」
「……っ、」
揺れる瞳をじっととらえて逃がさない。動揺する彼女はなんと言い出すのか、ごくりと息をのむ。
まさか、元いた場所に戻りたいなんてことは……。いや、あの喜びようでそれはないだろう。見当もつかず沈黙だけが空間を支配する。名前はひざの上で握ったこぶしに力を込め、意を決したように口を開いた。
「街に出かけたとき、見たんです。……きれいな女性でした。私なんか、かなうわけないのに」
「一体なんの話だ?」
「……土井先生の、お嫁さん。いるって知らなくて」
なにを言うのかと思えば、今にも泣き出しそうな顔で。無理やり笑顔を作ろうとしているのか、唇がゆがみ何とも痛々しい。
土井先生に嫁がいるなど聞いたことがない。それが理由で落ち込んでいたというのか。名前の気持ちを聞くこともなく、分からぬまま過ごしていた自身の弱さにあきれる。今さら、こんなにも離しがたくなるなんて。想いを押し殺し平然をよそおった。
「わしも、土井先生に嫁がいるとは聞いたことがない」
「そうなんですか……?」
「ああ。だが、本当のところは分からん。ちゃんと土井先生に聞いたのか?」
「……いえ、怖くて」
「どこんじょーが足りん!」
自分のことは棚にあげて。名前は目に涙を浮かべ困ったように笑っている。「私ったら、だめですよね」なんていじらしいことを言って、視線を床に落とした。
彼女ににじり寄りそのほほに手を添える。つーっと流れ落ちる大きなしずくを親指でぬぐいとり、そのまま見つめあう。
「こんなに良い男が目の前にいるというのに、お前は」
「っ、ま、雅之助さん……」
「冗談ではないぞ」
本音をさらけ出したせいで心臓が激しく脈うち、全身が燃えるように熱い。言葉に表せない胸の内をどうにもできなかった。柔らかな身体を胸元へ引き寄せ、ぎゅっと腕に閉じこめる。
「……わしがいるじゃろ」
しゃくりあげるか細い声が漏れ聞こえる。最後に足掻くかのごとく呟くも、なんと情けないことか。
小さい肩は苦しそうに震え無言のまま時が過ぎた。外からは相変わらず明るい声がして、それは重い雰囲気の室内まで響く。次第に名前の呼吸が落ち着くと、そっと腕の力を緩めた。
「……ごめんなさい」
「なんで謝る。わしもどこんじょーが足りなかったな」
冗談めかして笑うと、名前の表情がいくばくか和らいだ。彼女を拾ってずっとわしの家に留め置いていたなら、今ごろ……。そんな酷い考えがちらつき、紛らわせるように艶やかな髪をぐしゃっとかき混ぜてやった。名前は赤くなった目元を弱々しく細める。
「まだ土づくりも途中でしたから。もうひと頑張りしなきゃ」
「よーし、やるか!」
二人して立ち上がり伸びをする。ケロちゃんに追い回される乱太郎たちに向かって声をかけて、草履をはいた。
*
輝く太陽のした、もくもくと土を掘りかえし整えていく。先ほど、雅之助の前で泣いてしまったから、いまだに鼻がグズつく。
「大木先生ー! まだやるんっすかあ?!」
遠くできり丸くんが根を上げて、雅之助さんは頭をかいていた。二人で何かを話しているようだ。私も、くわを持つ手はしびれ限界が近づいていた。援護するべく二人のもとへ走ると、乱太郎くんやしんべヱくんもやってきて、みんなで地べたへ座りこむ。
「わたしたち、もう動けませーん!」
「ははは、すまんな! だいぶ耕してくれたから助かったぞ。今日はこの辺にしよう」
「「「たすかったあ」」」
「そうだ、野菜を持って帰りなさい」
「ありがとうごさいまーすっ! あひゃひゃ」
畑にへたり込んでいたきり丸くんは、野菜をもらえると分かるとすくっと立ちあがり上機嫌だ。しんべヱくんの両わきを持って立たせてあげて、みんなで茅葺き屋根の家へと歩いていく。
――どさっ
戸口の前。大きなカゴを背負うと肩にずっしりと野菜の重さがのしかかってくる。後ろに倒れそうになりながら、なんとか足を踏ん張った。
「大木先生、いつも野菜をありがとうございます!」
「ぼく、今すぐ食べちゃいたい〜」
「やめろってば、しんべヱ! これは売り物なんだから」
大根をかじろうとしたしんべヱくんに、すかさずきり丸くんが突っ込みを入れた。そんな様子を雅之助さんが楽しげに見守っている。
「お前たち、街へ行くんだろう? 早くしないと日が暮れるぞ」
「「「はーい!」」」
きり丸くんを先頭に仲良くならんで歩く三人を見つめる。私も一歩踏みだそうとした瞬間。ゴツゴツした手に腕をつかまれ足が止まる。振り返り、その姿を見上げた。
「名前。何かあったらいつでも戻ってこい」
「……はいっ」
雅之助さんに向き直りしっかりと視線をあわせる。一番最初に出会って、問い詰めることもなく受け入れて守ってくれて。たまに子どもっぽい所もあるけれど、深い優しさに甘えていた。
こんな私のことをちゃんと一人前の女性として扱ってくれていたなんて。胸が苦しくてたまらない。精いっぱいの笑顔をつくるとカゴの肩かけを握った。
「これからも畑仕事を手伝ってもらうぞー?」
「もちろんですっ」
「さあ、乱太郎たちが待ってる」
いつもと同じ、底抜けの明るさに救われる。大きくうなずいてからみんなの所まで走っていくと、雅之助さんへぶんぶんと手を振った。
*
街で野菜を売り切って、学園へつづく道をひたすら歩いている。
「みんな、いっぱい売れて良かったね」
「手伝ってくれてありがとーございます! なんたって杭瀬村の新鮮な野菜っすからね」
「しかもきりちゃん商売上手だし」
「そうかあー? でへへ」
はしゃぐ三人が可愛らしくて、その頑張りをねぎらう。身体に重くのしかかる疲労感は、春のすこし冷たい爽やかな風にのって飛んでいく。
学園に戻ったら、きちんと土井先生と話さなくては。なにか吹っ切れたような、あとはもう砕けるしかないという気持ちになって逆にすがすがしい。深呼吸をしながら一歩一歩じゃり道を進んでいく。
「小松田くーん、戻ったよー!」
学園に着くころには空が赤く染まり、遠くの山々が黒く影のように連なっている。雲間からは沈みゆく太陽が反射してひときわ光を放つ。
正門につくと木戸を強めに叩き帰りを知らせる。カタッと潜り戸が薄く開き、中から黒い忍装束がチラリと見え隠れした。予想外の人物に心臓が止まりそうになる。
「「「土井先生ー!」」」
身体をかがませ「お前たち遅かったなあ」なんて笑いながらこちらにやって来る。さっき、決心したはずなのに。いざ先生を前にすると気持ちがぐらぐら揺らぐ。
こげ茶の髪からのぞく大きな瞳がこちらに向けられた。あたりが夕日に照らされ、まるでふたりきりの空間だと錯覚しそうになる。
「名前さんも、おいで」
そっと手を引き寄せられ、変わらぬ優しさに涙がにじむ。ひとりで落ち込んで、みんなを遠ざけて、心配させて……。久しぶりに触れた先生のぬくもりとその柔らかな香りに胸がきゅうっと締めつけられる。
やっぱり、この想いは隠しきれない。先生に大切な女性がいるかもしれない。彼の優しさを勘違いしてしまったのかもしれない。けれど、ちゃんと向き合わなければ。
願いを叶えるお札なんか、とうに燃え尽きてしまった。自分の未来を決めるのは私しかいないのだ。
「……半助さん。夜、すこしお時間ありますか」
先生は驚いたように眉をピクリとさせるも小さくうなずく。自身を奮い立たせるように、グッと唇を結んだ。
「「土井先生、ありがとうございましたー!」」
黒板に書かれた白い文字。それを、黒板消しでキュッキュと音をならしながら拭い去っていく。
最近、名前さんの様子がおかしい。
急な忍務のあとからずっと、まともに話せないでいた。食堂で顔をあわせても忙しそうに定食を手渡され、すぐさま次に並ぶ忍たまへ目を向けている。私など視界に入っていないようだった。笑顔は変わらないのにどこか違和感がある。
夜、名前さんの部屋へ声をかけても寝ているようだし……。まじめな彼女のことだ、正式に採用されたことで無理をしすぎているのかもしれない。
いや、意図的に避けられているとしたら……?
腕を上下に振る動きをくり返すからか、つい物思いにふけってしまう。ぼーっとして黒板消しを取り落としそうになり、あわてて握りなおした。
「土井先生ーっ」
「ん、なんだきり丸?」
後ろから呼びかけられ振り返ると、いつもの三人がぐぐっとつめ寄り覗きこんできた。少しのけぞりながらも話を聞いてやる。
「最近の名前さん、元気ないような気がするんっすけど」
「わたしたちが声をかけても、うわの空っていうか」
「……土井先生、何かしたんでしょ!?」
「しんべヱ、人聞きの悪いことを言うな! わ、私はなにも……!」
「土井先生と名前さん、なーんかぎこちないっていうか、距離があるんっすよねー」
「先生。そこのところ、どうなんですか!?」
庄左ヱ門までやってきて、ビシッと指をさしながら問い詰めてくる。その様子を見たは組のやつらがわらわらと集まって、いつの間にか取り囲まれていた。
名前さんを傷つけることをしてしまったのだろうか。責める視線を浴びるけれど思い当たる節がない。きり丸があごに手をあて、うーんと唸りながら理由を探している。
「まあ、それは私も薄々感じていたんだが……。名前さんは今まで以上に忙しくて参っているんじゃないか?」
「ぼくみたいにいっぱいご飯食べなきゃ!」
「「「しんべヱ!」」」
「ご、ごめ〜ん」
「この前、牧之助が先生のお嫁さんのフリしたじゃないっすか。先生と一緒に家に行って懲らしめましたけど、それから変な感じがするんっす」
「そうだなあ。出張から帰って書類が溜まっていたというのに。花房牧之助のヤツ、私の嫁だなんてウソをついて……!」
「隣のおばちゃんも大家さんだって、牧之助にすっかり騙されちゃって。乱太郎の母上もだぜ?」
「えーっ、わたしの母ちゃんにも違うって言っておかなきゃ!」
「変なうわさが広まってないといいんだが……」
出張を終え学園長先生へ報告して……なんてバタバタしていたから名前さんにも会えず。その翌日は、乱太郎のお母さんから身に覚えのないお祝いをされて、慌ててきり丸と家に急いだのだ。私の嫁を名乗り、大家さんにお金まで借りられ、ずいぶんひどい目にあった。
「落ち込んでる名前さんを元気にするには……バイトしかないっしょ! あひゃあひゃ」
「きり丸! そんなことを言って、また名前さんを手伝わせようなんてダメだぞ」
「ちぇーっ」
ひらめいた!と顔をぱあっと明るくするきり丸にピシャリと釘をさす。らんらんと輝いた瞳が一気に小さくなり、がっくり肩を落としていた。
「うーん。いまの話を聞くに、名前さんは何かを聞いたのかも。それで勘違いしているのかもしれないね」
「庄ちゃんってば、相変わらず冷静ねぇ……」
たしかに、きり丸や庄左ヱ門の言うとおり牧之助の騒動から名前さんとすれ違ってばかりだ。偶然だと思い込んでいたが、偶然ではないとしたら……? それが、私に嫁がいると思い込んでのことだったら?
「わあ〜! なめツボのふたが壊れちゃったあ! 閉まらないよぉ」
「げっ! なんだよ喜三太、はやく直せよ!」
「きり丸、そんなこと言ったってぇ」
ふざけあう忍たまをぼんやり見つめ、得体のしれない期待と不安がじわじわ襲ってくるのだった。
*
事務仕事が一段落ついて、食堂のお手伝いの真っただ中。おばちゃんと調理台にならび、ザクザクと菜っぱを刻んでいる。
「……ふぅ、」
「名前ちゃん、最近ちょっと様子が変よ」
「そ、そうですか……?」
「何かあったら、わたしに相談してちょうだいね」
「ありがとうございます。あの、おばちゃん。もし知っていたら、その……」
心配してくれるおばちゃんに申し訳なくて、うじうじする自分が嫌になる。
もし、おばちゃんから「土井先生、じつはお嫁さんいるのよ、知らなかったの?」なんて言われたら、しばらく立ち直れそうにない。それでも、は組のみんなが先生と私をくっつけようと頑張ってくれたことが忘れられず、どうしても信じたかった。
包丁の柄をかたく握る。
勇気を振りしぼり、口を開いた瞬間。
「ヘムー!」
「ヘムヘム……!?」
「あらぁ、お腹すいたのかしら」
タイミングが良いのか悪いのか、白い紙をくわえたヘムヘムがカウンターの中まで入ってきた。褒めて欲しそうに足もとへ頭を擦りつけてくる。そっとしゃがんで、寄れた頭巾を直してやりながら文に視線を落とした。
「大木先生からです。……土づくりが忙しいから手伝いに来いって」
「良いじゃない! 自然のなかで身体を動かしたら、きっと気分も晴れるわよ。いってらっしゃいな」
「はいっ、ケロちゃんラビちゃんにも会いたいし……。あ、乱太郎くんたちも誘っちゃおうっと」
ヘムヘムにお礼を言うと、庵へ戻っていく姿を見つめた。思いがけない予定に少しだけ心が明るくなる。はやく三人に声をかけなくちゃ。お手伝いの見返りに野菜をねだるきり丸くんが目に浮かび、くすっと笑いを漏らした。
*
ジャリ、ジャリ。
わらじの底から小石や枝を踏みしめる感覚が伝わる。杭瀬村へ続く道は緑があふれ、流れる風が小さな花を揺らしていた。太陽の光が柔らかく降りそそぎ、春の訪れに足どりが軽くなる。
「みんな、一緒に来てくれてありがとう」
「名前さんのお願いとあらば断れないっすよー! もちろん、野菜はもらいますけど」
「でも、よかったです。最近悲しそうだったから、わたしたち心配で」
「そんなことないよ。大丈夫、元気いっぱいだよ」
歩きながらきり丸くんは目を銭にし、乱太郎くんは困ったように笑っている。しんべヱくんは鼻水をたらしながら、えへへと嬉しそうだ。
「土井先生にも言わなきゃ! 名前さんのこと気にしてたんです」
「乱太郎くん、それって……」
「先生、きっと安心するね〜!」
「ねぇ、みんな。土井先生なんて言って、」
元気だなんて言ってはみたものの、土井先生と聞いた途端に不安が押しよせ居て立ってもいられない。両隣を歩く三人に視線をやりつつ聞いてみるも、乱太郎くんたちはまるで私の声が聞こえていないようだった。いっせいに遠くへ向かって手を振り駆け出していく。
ひとり取り残され、ぼんやりその姿を眺めた。
「「「大木先生ー!」」」
「おー、待っていたぞ!」
風にのって届く楽しげな声。
目の前には野菜畑が広がり、その奥にある茅葺き屋根のあたりで雅之助さんと乱太郎くん達がじゃれあっている。トンっとふいにお尻を押され振り向くと、ケロちゃんが鼻先でつついたようだ。頭をなでてやれば満足そうに大きな瞳を細めた。
「今日はね、久しぶりに畑のお手伝いにきたんだよ」
「メェ〜!」
「わかったわかった、行こうね」
急かされるように頭を擦りつけられ、つまずきそうになりながらみんなの元へと走っていく。私の姿が見えたのか、雅之助さんたちが早く来い!とばかりに大きく手を振っていた。
「今から、種まきの前の土づくりをするぞ!」
「「「はーい」」」
「雅之助さん。この、何も植えていないところ全部ですか……?」
「もちろんだ!」
広い畑の半分、茶色の土があらわになっている。それを耕すなんて、終わりが見えない作業にめまいがする。顔をひきつらせた乱太郎くんたち。その背中をぽんとたたき元気づけると、くわを手にそれぞれの持ち場についた。
――ザクッザクッ
くわを振りあげ勢いよく畑に突きさす。グッと手前に引きよせ、えぐるように掘り返していく。まるでモヤモヤした気持ちを打ち消すように、力強くくわを振り下ろす。それでも心の中にはびこる不安は消えないまま、ため息ばかりがこぼれていった。
何度も同じ動きをしたせいか次第に体が重くなる。くわを地面におき、首や肩をほぐしていると雅之助さんが様子を見にやってきた。
「なんだ、もう疲れたのか?」
「だって、くわも重いし休みなしで耕してるんですよ!?」
「ははは、そうだな! ここらで休憩とするか」
「おなかも空きましたし」
雅之助さんは腰に手をあて豪快に笑っている。わしわしと頭をなでられると、いつもと変わらない温かさが心地よい。みだれた髪を整えながら、大股で家へと向かう彼を追う。
「乱太郎、しんべヱにきり丸! 飯にするぞー!」
ひときわ大きな声が畑に響いた。
*
「「「ごちそうさまでしたー!」」」
「大木先生、美味しかったです」
名前はつぶやいて、わしに小さく笑みを向けた。
採れたての野菜でつくった甘辛い煮物や、大きなおむすびを平らげると、三人とも外へ駆け出していく。ケロちゃんラビちゃんと追いかけっこが始まったようだ。
開け放しの戸口からは子どもの高い声とヤギの鳴き声が入り込んで騒がしい。その様子を土間から眺めつつ、名前とお茶をすすっている。遠くに向けられた彼女の視線は、どこか物憂げだ。
「みんな元気いっぱいですね」
「うむ。そういうお前は元気がなさそうだな?」
「そうですか……? 仕事がいそがしくて。そのせいですよ、きっと。あっ、でも楽しいから大丈夫ですので!」
「お前の大丈夫ほど信用ならんものはない」
「ええっ」
名前はとっさに手のひらでほほを隠す。誤魔化すようにはにかむと、「ひどいですー!」なんてふざけていた。畑での様子も、いつもと違っていたから気になっていたのだ。わずかな違和感が確信に変わる。
ははは笑ってから、ひと呼吸おいてあぐらを組み直す。彼女を見つめゆっくり切り出した。
「何か、あったんだろう?」
「……な、なにも」
「わしに隠し通せるとでも思ったか」
「……っ、」
揺れる瞳をじっととらえて逃がさない。動揺する彼女はなんと言い出すのか、ごくりと息をのむ。
まさか、元いた場所に戻りたいなんてことは……。いや、あの喜びようでそれはないだろう。見当もつかず沈黙だけが空間を支配する。名前はひざの上で握ったこぶしに力を込め、意を決したように口を開いた。
「街に出かけたとき、見たんです。……きれいな女性でした。私なんか、かなうわけないのに」
「一体なんの話だ?」
「……土井先生の、お嫁さん。いるって知らなくて」
なにを言うのかと思えば、今にも泣き出しそうな顔で。無理やり笑顔を作ろうとしているのか、唇がゆがみ何とも痛々しい。
土井先生に嫁がいるなど聞いたことがない。それが理由で落ち込んでいたというのか。名前の気持ちを聞くこともなく、分からぬまま過ごしていた自身の弱さにあきれる。今さら、こんなにも離しがたくなるなんて。想いを押し殺し平然をよそおった。
「わしも、土井先生に嫁がいるとは聞いたことがない」
「そうなんですか……?」
「ああ。だが、本当のところは分からん。ちゃんと土井先生に聞いたのか?」
「……いえ、怖くて」
「どこんじょーが足りん!」
自分のことは棚にあげて。名前は目に涙を浮かべ困ったように笑っている。「私ったら、だめですよね」なんていじらしいことを言って、視線を床に落とした。
彼女ににじり寄りそのほほに手を添える。つーっと流れ落ちる大きなしずくを親指でぬぐいとり、そのまま見つめあう。
「こんなに良い男が目の前にいるというのに、お前は」
「っ、ま、雅之助さん……」
「冗談ではないぞ」
本音をさらけ出したせいで心臓が激しく脈うち、全身が燃えるように熱い。言葉に表せない胸の内をどうにもできなかった。柔らかな身体を胸元へ引き寄せ、ぎゅっと腕に閉じこめる。
「……わしがいるじゃろ」
しゃくりあげるか細い声が漏れ聞こえる。最後に足掻くかのごとく呟くも、なんと情けないことか。
小さい肩は苦しそうに震え無言のまま時が過ぎた。外からは相変わらず明るい声がして、それは重い雰囲気の室内まで響く。次第に名前の呼吸が落ち着くと、そっと腕の力を緩めた。
「……ごめんなさい」
「なんで謝る。わしもどこんじょーが足りなかったな」
冗談めかして笑うと、名前の表情がいくばくか和らいだ。彼女を拾ってずっとわしの家に留め置いていたなら、今ごろ……。そんな酷い考えがちらつき、紛らわせるように艶やかな髪をぐしゃっとかき混ぜてやった。名前は赤くなった目元を弱々しく細める。
「まだ土づくりも途中でしたから。もうひと頑張りしなきゃ」
「よーし、やるか!」
二人して立ち上がり伸びをする。ケロちゃんに追い回される乱太郎たちに向かって声をかけて、草履をはいた。
*
輝く太陽のした、もくもくと土を掘りかえし整えていく。先ほど、雅之助の前で泣いてしまったから、いまだに鼻がグズつく。
「大木先生ー! まだやるんっすかあ?!」
遠くできり丸くんが根を上げて、雅之助さんは頭をかいていた。二人で何かを話しているようだ。私も、くわを持つ手はしびれ限界が近づいていた。援護するべく二人のもとへ走ると、乱太郎くんやしんべヱくんもやってきて、みんなで地べたへ座りこむ。
「わたしたち、もう動けませーん!」
「ははは、すまんな! だいぶ耕してくれたから助かったぞ。今日はこの辺にしよう」
「「「たすかったあ」」」
「そうだ、野菜を持って帰りなさい」
「ありがとうごさいまーすっ! あひゃひゃ」
畑にへたり込んでいたきり丸くんは、野菜をもらえると分かるとすくっと立ちあがり上機嫌だ。しんべヱくんの両わきを持って立たせてあげて、みんなで茅葺き屋根の家へと歩いていく。
――どさっ
戸口の前。大きなカゴを背負うと肩にずっしりと野菜の重さがのしかかってくる。後ろに倒れそうになりながら、なんとか足を踏ん張った。
「大木先生、いつも野菜をありがとうございます!」
「ぼく、今すぐ食べちゃいたい〜」
「やめろってば、しんべヱ! これは売り物なんだから」
大根をかじろうとしたしんべヱくんに、すかさずきり丸くんが突っ込みを入れた。そんな様子を雅之助さんが楽しげに見守っている。
「お前たち、街へ行くんだろう? 早くしないと日が暮れるぞ」
「「「はーい!」」」
きり丸くんを先頭に仲良くならんで歩く三人を見つめる。私も一歩踏みだそうとした瞬間。ゴツゴツした手に腕をつかまれ足が止まる。振り返り、その姿を見上げた。
「名前。何かあったらいつでも戻ってこい」
「……はいっ」
雅之助さんに向き直りしっかりと視線をあわせる。一番最初に出会って、問い詰めることもなく受け入れて守ってくれて。たまに子どもっぽい所もあるけれど、深い優しさに甘えていた。
こんな私のことをちゃんと一人前の女性として扱ってくれていたなんて。胸が苦しくてたまらない。精いっぱいの笑顔をつくるとカゴの肩かけを握った。
「これからも畑仕事を手伝ってもらうぞー?」
「もちろんですっ」
「さあ、乱太郎たちが待ってる」
いつもと同じ、底抜けの明るさに救われる。大きくうなずいてからみんなの所まで走っていくと、雅之助さんへぶんぶんと手を振った。
*
街で野菜を売り切って、学園へつづく道をひたすら歩いている。
「みんな、いっぱい売れて良かったね」
「手伝ってくれてありがとーございます! なんたって杭瀬村の新鮮な野菜っすからね」
「しかもきりちゃん商売上手だし」
「そうかあー? でへへ」
はしゃぐ三人が可愛らしくて、その頑張りをねぎらう。身体に重くのしかかる疲労感は、春のすこし冷たい爽やかな風にのって飛んでいく。
学園に戻ったら、きちんと土井先生と話さなくては。なにか吹っ切れたような、あとはもう砕けるしかないという気持ちになって逆にすがすがしい。深呼吸をしながら一歩一歩じゃり道を進んでいく。
「小松田くーん、戻ったよー!」
学園に着くころには空が赤く染まり、遠くの山々が黒く影のように連なっている。雲間からは沈みゆく太陽が反射してひときわ光を放つ。
正門につくと木戸を強めに叩き帰りを知らせる。カタッと潜り戸が薄く開き、中から黒い忍装束がチラリと見え隠れした。予想外の人物に心臓が止まりそうになる。
「「「土井先生ー!」」」
身体をかがませ「お前たち遅かったなあ」なんて笑いながらこちらにやって来る。さっき、決心したはずなのに。いざ先生を前にすると気持ちがぐらぐら揺らぐ。
こげ茶の髪からのぞく大きな瞳がこちらに向けられた。あたりが夕日に照らされ、まるでふたりきりの空間だと錯覚しそうになる。
「名前さんも、おいで」
そっと手を引き寄せられ、変わらぬ優しさに涙がにじむ。ひとりで落ち込んで、みんなを遠ざけて、心配させて……。久しぶりに触れた先生のぬくもりとその柔らかな香りに胸がきゅうっと締めつけられる。
やっぱり、この想いは隠しきれない。先生に大切な女性がいるかもしれない。彼の優しさを勘違いしてしまったのかもしれない。けれど、ちゃんと向き合わなければ。
願いを叶えるお札なんか、とうに燃え尽きてしまった。自分の未来を決めるのは私しかいないのだ。
「……半助さん。夜、すこしお時間ありますか」
先生は驚いたように眉をピクリとさせるも小さくうなずく。自身を奮い立たせるように、グッと唇を結んだ。