第57話 お揃いが欲しい
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自室で本を読んでいる時も。吉野先生と一緒に事務室で書類の整理をしている時も。ほうきで掃きそうじしている時も、うわの空でため息を漏らす。
「はぁ、」
「あら、どうしたの? 名前ちゃん」
「食堂のおばちゃん。なんでもないんですけど……」
「そうは見えないけどねぇ」
「そんな、気にしすぎですって。最近、暑いせいかも」
夕飯の仕込みをしながら、おばちゃんとポツポツ会話を続ける。深刻な悩みがあるという訳ではなくて……。
雅之助さんと深い仲になってしまったばかりに、会えない日々がやけに淋しく感じるのだ。いままでは、慌ただしい学園生活が楽しくて仕方がなかったのに。頭の中を彼が占拠して離れてくれない。けれど、照れ臭くて誰にも相談できなかった。
まな板においたネギを、トントンと調子よく切っていく。その様子におばちゃんは苦笑いで「まあ、無理しちゃだめよ」と言うと、それ以上は詮索しなかった。
「こんにちは」
食堂の入り口から、凛とした声が控えめに聞こえてくる。その響きで、すぐさまその人物が誰か思い浮かんだ。「はぁい」と返事をして、割烹着のすそで手を拭うと小走りで向かう。
「利吉さんっ! お仕事終わりですか」
「ええ、ようやく一段落しまして」
「お疲れさまです。お茶、いれてきますね」
――コトン
テーブルに湯呑みをおくと、利吉さんが軽い会釈と共に受け取った。おぼんを抱え直しお手伝いに戻ろうかと身体を翻したとき、ふいに声がかかる。
「名前さん、」
「お腹すきました? おむすびでも……」
「違いますよ」
「……?」
頬杖をついた利吉さんに、少しイタズラっぽい視線を向けられる。わたし、また何かやらかしてしまったのかな……!? 次の言葉を息をのんで待ち構える。
「大木先生、なんですね」
「……へ? っ、わあ!」
びっくりして、おぼんを取り落としかける。その慌てた様子を、利吉さんは涼しい笑顔で楽しんでいた。
「そんなに驚かなくても。あの大木先生が貴女と、と思うと意外で」
「そ、それは! ……利吉さんも、ご存知だったんですね」
「学園で、お二人の関係を知らない人はいないんじゃないかな」
あはは……と乾いた笑で誤魔化すも、利吉さんはまだこの話を続けるみたいだ。お茶をひと口すすると面白そうに瞳が細められた。
「大木先生、名前さんといるとデレデレしてましたし」
「え、そんな風にみえました!? 全然気づかなかった……」
「相変わらず平日は学園で仕事ですよね? なかなか会えないから、きっと大木先生、淋しがってますよ」
「大木先生が、まさか」
湯呑みのふちを指でなぞりながら「名前さん、土井先生と過ごす方が多いんですから」とポツリつぶやかれ、いよいよお盆が手から滑り落ちた。カタッと床に打ちつけられる音が響き、慌てて拾いあげる。
帰ってこい、とはよく言われるけれど……。きっと冗談も含んでいるだろう。なにより全力で甘えてしまいそうで、それはダメだと無意識に歯止めをかけていた。もし、淋しいなんて思ってくれたらどうしよう。嬉しすぎて、会った時ににやけてしまいそうだ。
「……でも、私の方が淋しがっているかも。最近、ずっと考えちゃうんです、先生のこと。仕事も手につかなくって」
「ずいぶんとお熱いことで」
「もう、利吉さんが話したせいですよ!?」
ぽろっと本心が漏れると、言い出しっぺの利吉さんが茶化してくる。どれだけ想っているかをうっかり漏らしてしまい、ほほが熱くなった。
「仕事に支障をきたすのは困りますね」
「ええ、そうなんです……」
「あ、良いことを思いつきました」
利吉さんは、ぱっと閃いたように顔を輝かせ、人差し指をピンと立てた。何だろう?とお盆を抱え込んだまま、その続きを聞き逃さないように集中する。
「お揃いのものを持つ、なんてどうです?」
「おそろい、かあ……!」
「街では匂い袋なんかが流行ってますけど」
「素敵ですねっ、でも大木先生に却下されそう」
「ははは、確かに」
ふたりで同じものを持つ。気持ちだけでなく、物理的にもつながるなんて。ときめきも束の間、雅之助さんの姿を思い浮かべると一瞬にして思い描いた希望が崩れる。まったく想像できない……! たぶん、一蹴されて終わりそうだ。
「じゃあ、私はこれで。父上のところに顔を出してきます」
「は、はいっ」
利吉さんがすくっと立ち上がり、入り口へと向かうすれ違いざま。ぽん、と肩に触れられる。
「名前さんのお願い、私なら却下しませんけど」
「……っ!?」
思わず見上げるも、その後ろ姿はどんどん遠ざかっていく。片手をひらひらさせて、何ともなしに食堂から出て行ってしまった。茶色の結い上げた髪がさらりと揺れる。
「利吉さんってば……!」
急に変なことを言われ、その場から足が動かない。テーブルに置いたふきんを手に取ると、動揺を紛らわせるようにゴシゴシ拭くのだった。
*
緑の山が連なる平坦な道。
初夏のカラッとした日差しが降り注ぎ、足元の乾いた土から少しの埃が巻き上がる。
利吉さんとの件もあって、ひとりで期待しては悩んだ平日。そんな日々はようやく過ぎて、ついに週末がやってきた。杭瀬村の近くでバイトをするきり丸くん達三人と、途中まで一緒に歩いている。
「あ、あそこ! 杭瀬村っすね」
「みんなも寄っていく? 美味しいラッキョもあるし」
「「「遠慮しておきまーす!」」」
「だってぇ、大木先生ったら人づかい荒いんだもの」
せっかくだから誘ってみたものの、予想通り断られる。困った顔のしんべヱくんに苦笑を漏らしながら、「バイト頑張ってね」と三人の小さな背中を見送った。
もう少し歩いたら雅之助さんのお家だ。本道からそれた小道を進んでいく。しばらくすると、青々とした葉が揺れる、大きな畑が見えてきた。
「雅之助さーん!」
「おお、名前か!」
みどり一面の畑に、茶色の髪ががちらちら動く。声をかけると立ち上がり。大根を手に持ち応えてくれた。どこからかラビちゃんとケロちゃんも集まって、足にじゃれつく小さな頭を撫でてやる。
鉢巻きを締めて袖をめくると、雅之助さんのところへ小走りで向かった。
「って、なんで裸なんですか!?」
「暑いし、汚れてしまったんでな」
「そ、そうですか……! あとで、洗っておきますね」
「ああ、すまん。助かる」
袴だけで、着物をきていないのに驚いて身体が固まる。健康的な素肌は汗ばんで、まぶしく輝いていた。あつい胸板と程よく割れた腹筋が露わになって、つーっと玉の汗が落ちていく。
ひたいを腕で拭うから、鉢巻きは泥で汚れて……。太陽にさらされたその姿にドギマギして、慌てて話をそらした。
「きり丸くん達と途中まで来たんですけど……。みんな、この先でバイトがあるみたいで」
「そうか。ラッキョ漬けでも渡してやろうと思ったんだが」
「それは大丈夫みたいですっ」
不思議そうな顔の雅之助さんにクスッと吹き出す。一緒に隣り合ってしゃがみ、さっそく大根の埋まっている土を優しく手で掻いていった。
「名前。会いたかったぞ」
「えっ、きゅ、急に……!」
「そう思ったから言ったまでだ。悪いか」
「いえ、嬉しい、です」
突然、思ってもみない言葉がかけられ手が止まる。私がなかなか言えないことを、彼はなんなく言葉にしてしまうのだ。隣の雅之助さんはどこ吹く風で「うむ、良いできだ」と大根を片手に満面の笑みを浮かべていた。
「いっぱい採れましたね!」
大きなカゴいっぱいに大根が積まれ、その重さで側面がたわむ。肩にかける紐をつかむと、地面へ引きずり込まれそうなほどだ。ふぅ、とため息をついて雅之助さんを見つめる。
「大根を家まで運んでくれ。あとは休んでいなさい」
「雅之助さんは、まだ畑仕事ですか?」
「わしはラッキョ小屋を整理してから戻る。明日は一日かけて漬物作りだ」
「はーいっ」
実のところ、暑いなか杭瀬村まで歩いてからの畑仕事でヘトヘトだったのだ。子どもみたいに返事をしてカゴを背負うと、小さなお家へと歩いていった。
――ゴロ、ゴロ
土間に置いたカゴから、大根を一本ずつ取り出して板の間に積み上げる。白くてしっかりとした重さと瑞々しい葉に、雅之助さんの愛情を感じて誇らしい。
最後の一本を置くと、井戸で手足の泥汚れを落としてバタンと居間に横たわった。……板の間にじかで寝転ぶと少し痛い。起き上がって、何か枕になるものを探す。
「あ、これいいかもっ」
部屋のすみに脱ぎ捨てられた、赤と水色の着物をたぐり寄せる。さっき、雅之助さんが「汚れた」と言っていたものだ。広げると、たしかに泥がついている。
……少し休んでから洗ってあげようかな。
軽くたたんで枕にすると、その上に頭をのせて横になった。土っぽさと葉っぱの青さ、それから雅之助さんの汗のにおいがする。着物に顔をうずめ、大好きな香りを胸いっぱいに吸いこむ。
なんて幸せなんだろう。
まぶたを閉じると胸の中がじんわり温かくなって、だんだん眠りに落ちていくのだった。
*
「おや、寝ているのか」
戸口をくぐると、名前は板の間にころんと横たわっていた。背をこちらに向け、ひざを抱える様は子どもみたいだ。起こさないように彼女のすぐそばに腰を下ろし、その顔をのぞいてみる。頭の下には自分の着物が敷かれ、それをぎゅっと抱き締めすやすや寝息を立てていた。
「可愛いやつめ」
着物じゃなくてわしに抱きついて欲しいんだがなあ、なんてひとり笑みをこぼす。汗でしっとりとした髪をすーっと指ですいてやる。顔にかかった毛先を耳にかけてやると「んっ、」と小さくみじろぎをする。そっと彼女から離れた。
起こしたらかわいそうだ。
そばに置いてあった野菜の本を手に取り、ペラペラ紙をめくっていく。上半身が裸だからか、戸口から入り込む風がいつもより涼しく感じられた。
文字を追う目を閉じゆっくり深呼吸すると、また隣の名前を見つめる。触ってはダメだと思いつつ、時折り彼女の頭を撫でてしまうのだ。
「……あ。雅之助、さん」
「起こしちゃったか?」
「大丈夫です」
寝返りをうって、まだぼんやりとした瞳でこちらを見上げてくる。名前は「うーん」とまぶたを擦ってから再び赤い着物をたぐり寄せた。
「その着物、汚れてるぞ」
「いいんですっ。雅之助さんのにおいがして落ち着くから」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
「えへへ、好きな人を感じられるんだもん」
今日はずいぶんと素直だ。照れ臭そうにつぶやく名前が愛おしくなって、からかうようにクシャッと柔らかな髪をかき混ぜた。名前は「やめてくださいって」と笑いながら身体を起こし、ペタリと座り込む。
「……やっぱり。おそろい、欲しいな」
「なんのことだ?」
「雅之助さんと離れているあいだ、淋しいなって思って……。利吉さんに相談したら、お揃いのものを提案されたんです」
「利吉くんが?」
「ええ。匂い袋とか、街で流行ってますよって。でも……」
ひざを抱え、自信なさそうにうずくまる名前に身体を向き直した。真正面からその姿を見つめる。
「でも、なんだ?」
「……雅之助さんに却下されそう」
名前は冗談っぽくはにかんで床へと視線を落とした。艶やかな髪からのぞく耳は真っ赤になって、彼女なりに甘えているのだろうか。希望に応えてやりたいが……。
匂いのするものは忍者に御法度だ。
名前の腕をつかんで引き寄せ、あぐらの上に向かい合って座らせる。突然のことに強ばる身体を優しく撫でると、くたっと寄りかかってくる。その心地よい重さにほほが緩んだ。
「名前。わしは農家といっても忍びだ。匂いのするものは、ちょっとなあ」
「ラッキョとか、ネギとか育ててるくせに」
「それは、野村がだな……!」
「……もちろん、分かってます」
「おい、こっちを向け」
ふっくらとした両ほほを手のひらではさみ、視線を合わせる。潤んでちらちら揺れる瞳に吸い込まれそうだ。
「それに、お前と同じ想いなら……わしはそれ以上望まん」
「雅之助さん……」
おなごには酷かもしれない。些細なことでも、忍びには命取りになるのだ。彼女は痛いほど分かっているはずで、それでも漏らした本音だろう。
たまらず小さな身体をかき抱き、その首筋に顔をうずめる。ほのかに薫る甘さに、くらっと目眩がした。そうしているうちに、腹の奥底がかあっと熱くなってたまらない。
「……お前が淋しくないように、いい考えがある」
「いい考え……?」
「あぁ。わしにしか出来ないことだ」
まわした腕の力を緩め、少しだけ身体を離した。そのまま彼女の着物に指を滑らせると、衿のふちをなぞり、軽く握って――
ぐいっと一息に押し開く。なんの抵抗もなく、名前の滑らかな肩から胸元まであらわになった。
「きゃっ、な、なんです……!?」
「大声を出すなよ」
「だ、だって、……んんっ」
暴れる手をひと纏めにして、鎖骨の下へ唇を寄せる。ちゅうっと強く吸い上げ舌先で擽れば、びくりと身体が震えた。
「……っ、いたい、です」
「ほれ、みてみろ」
「なにこれ、っ……」
白い肌に、濃く赤くにじむ痕。昼間ということもあって、くっきりと浮き出ていた。ニヤリとして名前を見つめると、ほほを赤らめて目を丸くしている。
「しばらく消えんだろうから、淋しくないだろ」
「え……、お風呂とかどうするんですかっ!?」
「ははは、そりゃまずいなあ」
「もう!」
掴まれた手首はそのままで、逃げようと身をよじるから、ずるずると着物の衿が下がっていく。名前は気づいていないのか、もう少しで胸のふくらみが見えそうだ。
「暴れると丸見えになるぞ」
その一言で、ぴた、と動きが止まる。
従順じゃないか。大人しくなった名前を組み敷くと、互いの手指を深く絡める。重力にしたがって、鉢巻きの端がたらりと床へ滑り落ちた。これから起こることを期待するような、彼女の熱っぽい瞳を見下ろす。
「そうだ。お揃いといえば、鉢巻きがあるじゃろ?」
「ありますけど、鉢巻きは、ちょっと……」
「だめか? うーん、難しいな」
「じゃあ、手裏剣はどうです? 忍びの雅之助さんにぴったりだし、私も欲しいし……!」
「いかん! そんな物騒なもの、お前に持たせられるか」
「えーっ。いい考えだと思ったの、に、っ……ん、」
まだ何か言おうとする名前の、小さな唇をふさぐ。繋いだ手に力を込めると、出かかった言葉を奪うように何度も口付けを落とすのだった。
*
またいつもの学園生活が始まった。
早起きして朝食の仕込みをすると、しばらくして忍たま達がぞろぞろと食堂へやってくる。
週末の休みは、畑の手伝いやラッキョ漬け作りに明け暮れ、雅之助さんとくっついて過ごし、あっという間に過ぎていった。ときどき、胸もとやお腹につけられた赤い痕を思い出しひとりで顔を熱くする。けれどすぐに現実に戻って、お風呂は最後に入らなきゃ……!と冷や汗をかくのだった。
「「「名前さん、おはようございまーす!」」」
「乱太郎くんたち! おはよう」
元気にカウンターへ向かってくる三人に応える。三つお茶碗を準備してご飯を盛りつけながら、週末のことをチクリとつついた。
「大木先生とふたりで、みんなが来るの待ってたんだよー?」
「そうだったんすか! でもなー、こき使われそうだし」
「旬の野菜に特製の漬け物をあげようと思ったのに。きっと、街で高く売れるんじゃないかなあ?」
「高く売れるぅ!? 次はぜったい、手伝いにいきます〜! あひゃあひゃ」
目を銭にしてはしゃぐきり丸くんに「今度、よろしくねっ」なんて調子よく言ってみると、一つ返事で手伝う気満々だ。その姿がおかしくてくすくす笑っていると、となりのしんべヱくんがよだれを垂らしていた。
「お野菜に漬け物、想像したら食べたくなっちゃった〜!」
「しんべヱったら……」
「はい、こっち向いて? 拭いてあげる」
乱太郎くんが眉を下げて、ははは……と苦笑する。子どもらしい様子に、つい手を焼いてしまいたくなって……。懐から手ぬぐいを取り出し、カウンター越しにしんべヱくんの口元を拭ってあげた。
「わあ、名前さんありがとう!」
「どういたしまして。さあ、朝食受け取ってね」
「「「はーい」」」
おぼんを手に、テーブルへ向かう三人の後ろ姿を見つめる。ふいに、しんべヱくんがこちらを振り返った。その顔は幸せに満ちあふれている。
「名前さんの手、大木先生と一緒の匂いがしました! ラッキョ漬けの、おいし〜いにおいっ」
「えっ、ほんと? うれしいな……!」
それだけ言うと、しんべヱくんは乱太郎くん達のあとを急いで着いていった。視線を手のひらにうつす。顔をおおうように鼻に近づけ、クンクンとその匂いを確かめてみる。
「……自分じゃ、分からないや」
それでも、好きな人とお揃いの香りがするなんて。匂い袋みたいな、お洒落なものではないけれど、胸がいっぱいになるほど嬉しい。両手を胸元で握りしめると、みんなにバレないように小さくほほ笑むのだった。
「はぁ、」
「あら、どうしたの? 名前ちゃん」
「食堂のおばちゃん。なんでもないんですけど……」
「そうは見えないけどねぇ」
「そんな、気にしすぎですって。最近、暑いせいかも」
夕飯の仕込みをしながら、おばちゃんとポツポツ会話を続ける。深刻な悩みがあるという訳ではなくて……。
雅之助さんと深い仲になってしまったばかりに、会えない日々がやけに淋しく感じるのだ。いままでは、慌ただしい学園生活が楽しくて仕方がなかったのに。頭の中を彼が占拠して離れてくれない。けれど、照れ臭くて誰にも相談できなかった。
まな板においたネギを、トントンと調子よく切っていく。その様子におばちゃんは苦笑いで「まあ、無理しちゃだめよ」と言うと、それ以上は詮索しなかった。
「こんにちは」
食堂の入り口から、凛とした声が控えめに聞こえてくる。その響きで、すぐさまその人物が誰か思い浮かんだ。「はぁい」と返事をして、割烹着のすそで手を拭うと小走りで向かう。
「利吉さんっ! お仕事終わりですか」
「ええ、ようやく一段落しまして」
「お疲れさまです。お茶、いれてきますね」
――コトン
テーブルに湯呑みをおくと、利吉さんが軽い会釈と共に受け取った。おぼんを抱え直しお手伝いに戻ろうかと身体を翻したとき、ふいに声がかかる。
「名前さん、」
「お腹すきました? おむすびでも……」
「違いますよ」
「……?」
頬杖をついた利吉さんに、少しイタズラっぽい視線を向けられる。わたし、また何かやらかしてしまったのかな……!? 次の言葉を息をのんで待ち構える。
「大木先生、なんですね」
「……へ? っ、わあ!」
びっくりして、おぼんを取り落としかける。その慌てた様子を、利吉さんは涼しい笑顔で楽しんでいた。
「そんなに驚かなくても。あの大木先生が貴女と、と思うと意外で」
「そ、それは! ……利吉さんも、ご存知だったんですね」
「学園で、お二人の関係を知らない人はいないんじゃないかな」
あはは……と乾いた笑で誤魔化すも、利吉さんはまだこの話を続けるみたいだ。お茶をひと口すすると面白そうに瞳が細められた。
「大木先生、名前さんといるとデレデレしてましたし」
「え、そんな風にみえました!? 全然気づかなかった……」
「相変わらず平日は学園で仕事ですよね? なかなか会えないから、きっと大木先生、淋しがってますよ」
「大木先生が、まさか」
湯呑みのふちを指でなぞりながら「名前さん、土井先生と過ごす方が多いんですから」とポツリつぶやかれ、いよいよお盆が手から滑り落ちた。カタッと床に打ちつけられる音が響き、慌てて拾いあげる。
帰ってこい、とはよく言われるけれど……。きっと冗談も含んでいるだろう。なにより全力で甘えてしまいそうで、それはダメだと無意識に歯止めをかけていた。もし、淋しいなんて思ってくれたらどうしよう。嬉しすぎて、会った時ににやけてしまいそうだ。
「……でも、私の方が淋しがっているかも。最近、ずっと考えちゃうんです、先生のこと。仕事も手につかなくって」
「ずいぶんとお熱いことで」
「もう、利吉さんが話したせいですよ!?」
ぽろっと本心が漏れると、言い出しっぺの利吉さんが茶化してくる。どれだけ想っているかをうっかり漏らしてしまい、ほほが熱くなった。
「仕事に支障をきたすのは困りますね」
「ええ、そうなんです……」
「あ、良いことを思いつきました」
利吉さんは、ぱっと閃いたように顔を輝かせ、人差し指をピンと立てた。何だろう?とお盆を抱え込んだまま、その続きを聞き逃さないように集中する。
「お揃いのものを持つ、なんてどうです?」
「おそろい、かあ……!」
「街では匂い袋なんかが流行ってますけど」
「素敵ですねっ、でも大木先生に却下されそう」
「ははは、確かに」
ふたりで同じものを持つ。気持ちだけでなく、物理的にもつながるなんて。ときめきも束の間、雅之助さんの姿を思い浮かべると一瞬にして思い描いた希望が崩れる。まったく想像できない……! たぶん、一蹴されて終わりそうだ。
「じゃあ、私はこれで。父上のところに顔を出してきます」
「は、はいっ」
利吉さんがすくっと立ち上がり、入り口へと向かうすれ違いざま。ぽん、と肩に触れられる。
「名前さんのお願い、私なら却下しませんけど」
「……っ!?」
思わず見上げるも、その後ろ姿はどんどん遠ざかっていく。片手をひらひらさせて、何ともなしに食堂から出て行ってしまった。茶色の結い上げた髪がさらりと揺れる。
「利吉さんってば……!」
急に変なことを言われ、その場から足が動かない。テーブルに置いたふきんを手に取ると、動揺を紛らわせるようにゴシゴシ拭くのだった。
*
緑の山が連なる平坦な道。
初夏のカラッとした日差しが降り注ぎ、足元の乾いた土から少しの埃が巻き上がる。
利吉さんとの件もあって、ひとりで期待しては悩んだ平日。そんな日々はようやく過ぎて、ついに週末がやってきた。杭瀬村の近くでバイトをするきり丸くん達三人と、途中まで一緒に歩いている。
「あ、あそこ! 杭瀬村っすね」
「みんなも寄っていく? 美味しいラッキョもあるし」
「「「遠慮しておきまーす!」」」
「だってぇ、大木先生ったら人づかい荒いんだもの」
せっかくだから誘ってみたものの、予想通り断られる。困った顔のしんべヱくんに苦笑を漏らしながら、「バイト頑張ってね」と三人の小さな背中を見送った。
もう少し歩いたら雅之助さんのお家だ。本道からそれた小道を進んでいく。しばらくすると、青々とした葉が揺れる、大きな畑が見えてきた。
「雅之助さーん!」
「おお、名前か!」
みどり一面の畑に、茶色の髪ががちらちら動く。声をかけると立ち上がり。大根を手に持ち応えてくれた。どこからかラビちゃんとケロちゃんも集まって、足にじゃれつく小さな頭を撫でてやる。
鉢巻きを締めて袖をめくると、雅之助さんのところへ小走りで向かった。
「って、なんで裸なんですか!?」
「暑いし、汚れてしまったんでな」
「そ、そうですか……! あとで、洗っておきますね」
「ああ、すまん。助かる」
袴だけで、着物をきていないのに驚いて身体が固まる。健康的な素肌は汗ばんで、まぶしく輝いていた。あつい胸板と程よく割れた腹筋が露わになって、つーっと玉の汗が落ちていく。
ひたいを腕で拭うから、鉢巻きは泥で汚れて……。太陽にさらされたその姿にドギマギして、慌てて話をそらした。
「きり丸くん達と途中まで来たんですけど……。みんな、この先でバイトがあるみたいで」
「そうか。ラッキョ漬けでも渡してやろうと思ったんだが」
「それは大丈夫みたいですっ」
不思議そうな顔の雅之助さんにクスッと吹き出す。一緒に隣り合ってしゃがみ、さっそく大根の埋まっている土を優しく手で掻いていった。
「名前。会いたかったぞ」
「えっ、きゅ、急に……!」
「そう思ったから言ったまでだ。悪いか」
「いえ、嬉しい、です」
突然、思ってもみない言葉がかけられ手が止まる。私がなかなか言えないことを、彼はなんなく言葉にしてしまうのだ。隣の雅之助さんはどこ吹く風で「うむ、良いできだ」と大根を片手に満面の笑みを浮かべていた。
「いっぱい採れましたね!」
大きなカゴいっぱいに大根が積まれ、その重さで側面がたわむ。肩にかける紐をつかむと、地面へ引きずり込まれそうなほどだ。ふぅ、とため息をついて雅之助さんを見つめる。
「大根を家まで運んでくれ。あとは休んでいなさい」
「雅之助さんは、まだ畑仕事ですか?」
「わしはラッキョ小屋を整理してから戻る。明日は一日かけて漬物作りだ」
「はーいっ」
実のところ、暑いなか杭瀬村まで歩いてからの畑仕事でヘトヘトだったのだ。子どもみたいに返事をしてカゴを背負うと、小さなお家へと歩いていった。
――ゴロ、ゴロ
土間に置いたカゴから、大根を一本ずつ取り出して板の間に積み上げる。白くてしっかりとした重さと瑞々しい葉に、雅之助さんの愛情を感じて誇らしい。
最後の一本を置くと、井戸で手足の泥汚れを落としてバタンと居間に横たわった。……板の間にじかで寝転ぶと少し痛い。起き上がって、何か枕になるものを探す。
「あ、これいいかもっ」
部屋のすみに脱ぎ捨てられた、赤と水色の着物をたぐり寄せる。さっき、雅之助さんが「汚れた」と言っていたものだ。広げると、たしかに泥がついている。
……少し休んでから洗ってあげようかな。
軽くたたんで枕にすると、その上に頭をのせて横になった。土っぽさと葉っぱの青さ、それから雅之助さんの汗のにおいがする。着物に顔をうずめ、大好きな香りを胸いっぱいに吸いこむ。
なんて幸せなんだろう。
まぶたを閉じると胸の中がじんわり温かくなって、だんだん眠りに落ちていくのだった。
*
「おや、寝ているのか」
戸口をくぐると、名前は板の間にころんと横たわっていた。背をこちらに向け、ひざを抱える様は子どもみたいだ。起こさないように彼女のすぐそばに腰を下ろし、その顔をのぞいてみる。頭の下には自分の着物が敷かれ、それをぎゅっと抱き締めすやすや寝息を立てていた。
「可愛いやつめ」
着物じゃなくてわしに抱きついて欲しいんだがなあ、なんてひとり笑みをこぼす。汗でしっとりとした髪をすーっと指ですいてやる。顔にかかった毛先を耳にかけてやると「んっ、」と小さくみじろぎをする。そっと彼女から離れた。
起こしたらかわいそうだ。
そばに置いてあった野菜の本を手に取り、ペラペラ紙をめくっていく。上半身が裸だからか、戸口から入り込む風がいつもより涼しく感じられた。
文字を追う目を閉じゆっくり深呼吸すると、また隣の名前を見つめる。触ってはダメだと思いつつ、時折り彼女の頭を撫でてしまうのだ。
「……あ。雅之助、さん」
「起こしちゃったか?」
「大丈夫です」
寝返りをうって、まだぼんやりとした瞳でこちらを見上げてくる。名前は「うーん」とまぶたを擦ってから再び赤い着物をたぐり寄せた。
「その着物、汚れてるぞ」
「いいんですっ。雅之助さんのにおいがして落ち着くから」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
「えへへ、好きな人を感じられるんだもん」
今日はずいぶんと素直だ。照れ臭そうにつぶやく名前が愛おしくなって、からかうようにクシャッと柔らかな髪をかき混ぜた。名前は「やめてくださいって」と笑いながら身体を起こし、ペタリと座り込む。
「……やっぱり。おそろい、欲しいな」
「なんのことだ?」
「雅之助さんと離れているあいだ、淋しいなって思って……。利吉さんに相談したら、お揃いのものを提案されたんです」
「利吉くんが?」
「ええ。匂い袋とか、街で流行ってますよって。でも……」
ひざを抱え、自信なさそうにうずくまる名前に身体を向き直した。真正面からその姿を見つめる。
「でも、なんだ?」
「……雅之助さんに却下されそう」
名前は冗談っぽくはにかんで床へと視線を落とした。艶やかな髪からのぞく耳は真っ赤になって、彼女なりに甘えているのだろうか。希望に応えてやりたいが……。
匂いのするものは忍者に御法度だ。
名前の腕をつかんで引き寄せ、あぐらの上に向かい合って座らせる。突然のことに強ばる身体を優しく撫でると、くたっと寄りかかってくる。その心地よい重さにほほが緩んだ。
「名前。わしは農家といっても忍びだ。匂いのするものは、ちょっとなあ」
「ラッキョとか、ネギとか育ててるくせに」
「それは、野村がだな……!」
「……もちろん、分かってます」
「おい、こっちを向け」
ふっくらとした両ほほを手のひらではさみ、視線を合わせる。潤んでちらちら揺れる瞳に吸い込まれそうだ。
「それに、お前と同じ想いなら……わしはそれ以上望まん」
「雅之助さん……」
おなごには酷かもしれない。些細なことでも、忍びには命取りになるのだ。彼女は痛いほど分かっているはずで、それでも漏らした本音だろう。
たまらず小さな身体をかき抱き、その首筋に顔をうずめる。ほのかに薫る甘さに、くらっと目眩がした。そうしているうちに、腹の奥底がかあっと熱くなってたまらない。
「……お前が淋しくないように、いい考えがある」
「いい考え……?」
「あぁ。わしにしか出来ないことだ」
まわした腕の力を緩め、少しだけ身体を離した。そのまま彼女の着物に指を滑らせると、衿のふちをなぞり、軽く握って――
ぐいっと一息に押し開く。なんの抵抗もなく、名前の滑らかな肩から胸元まであらわになった。
「きゃっ、な、なんです……!?」
「大声を出すなよ」
「だ、だって、……んんっ」
暴れる手をひと纏めにして、鎖骨の下へ唇を寄せる。ちゅうっと強く吸い上げ舌先で擽れば、びくりと身体が震えた。
「……っ、いたい、です」
「ほれ、みてみろ」
「なにこれ、っ……」
白い肌に、濃く赤くにじむ痕。昼間ということもあって、くっきりと浮き出ていた。ニヤリとして名前を見つめると、ほほを赤らめて目を丸くしている。
「しばらく消えんだろうから、淋しくないだろ」
「え……、お風呂とかどうするんですかっ!?」
「ははは、そりゃまずいなあ」
「もう!」
掴まれた手首はそのままで、逃げようと身をよじるから、ずるずると着物の衿が下がっていく。名前は気づいていないのか、もう少しで胸のふくらみが見えそうだ。
「暴れると丸見えになるぞ」
その一言で、ぴた、と動きが止まる。
従順じゃないか。大人しくなった名前を組み敷くと、互いの手指を深く絡める。重力にしたがって、鉢巻きの端がたらりと床へ滑り落ちた。これから起こることを期待するような、彼女の熱っぽい瞳を見下ろす。
「そうだ。お揃いといえば、鉢巻きがあるじゃろ?」
「ありますけど、鉢巻きは、ちょっと……」
「だめか? うーん、難しいな」
「じゃあ、手裏剣はどうです? 忍びの雅之助さんにぴったりだし、私も欲しいし……!」
「いかん! そんな物騒なもの、お前に持たせられるか」
「えーっ。いい考えだと思ったの、に、っ……ん、」
まだ何か言おうとする名前の、小さな唇をふさぐ。繋いだ手に力を込めると、出かかった言葉を奪うように何度も口付けを落とすのだった。
*
またいつもの学園生活が始まった。
早起きして朝食の仕込みをすると、しばらくして忍たま達がぞろぞろと食堂へやってくる。
週末の休みは、畑の手伝いやラッキョ漬け作りに明け暮れ、雅之助さんとくっついて過ごし、あっという間に過ぎていった。ときどき、胸もとやお腹につけられた赤い痕を思い出しひとりで顔を熱くする。けれどすぐに現実に戻って、お風呂は最後に入らなきゃ……!と冷や汗をかくのだった。
「「「名前さん、おはようございまーす!」」」
「乱太郎くんたち! おはよう」
元気にカウンターへ向かってくる三人に応える。三つお茶碗を準備してご飯を盛りつけながら、週末のことをチクリとつついた。
「大木先生とふたりで、みんなが来るの待ってたんだよー?」
「そうだったんすか! でもなー、こき使われそうだし」
「旬の野菜に特製の漬け物をあげようと思ったのに。きっと、街で高く売れるんじゃないかなあ?」
「高く売れるぅ!? 次はぜったい、手伝いにいきます〜! あひゃあひゃ」
目を銭にしてはしゃぐきり丸くんに「今度、よろしくねっ」なんて調子よく言ってみると、一つ返事で手伝う気満々だ。その姿がおかしくてくすくす笑っていると、となりのしんべヱくんがよだれを垂らしていた。
「お野菜に漬け物、想像したら食べたくなっちゃった〜!」
「しんべヱったら……」
「はい、こっち向いて? 拭いてあげる」
乱太郎くんが眉を下げて、ははは……と苦笑する。子どもらしい様子に、つい手を焼いてしまいたくなって……。懐から手ぬぐいを取り出し、カウンター越しにしんべヱくんの口元を拭ってあげた。
「わあ、名前さんありがとう!」
「どういたしまして。さあ、朝食受け取ってね」
「「「はーい」」」
おぼんを手に、テーブルへ向かう三人の後ろ姿を見つめる。ふいに、しんべヱくんがこちらを振り返った。その顔は幸せに満ちあふれている。
「名前さんの手、大木先生と一緒の匂いがしました! ラッキョ漬けの、おいし〜いにおいっ」
「えっ、ほんと? うれしいな……!」
それだけ言うと、しんべヱくんは乱太郎くん達のあとを急いで着いていった。視線を手のひらにうつす。顔をおおうように鼻に近づけ、クンクンとその匂いを確かめてみる。
「……自分じゃ、分からないや」
それでも、好きな人とお揃いの香りがするなんて。匂い袋みたいな、お洒落なものではないけれど、胸がいっぱいになるほど嬉しい。両手を胸元で握りしめると、みんなにバレないように小さくほほ笑むのだった。
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