第53話 離れて、近づいて
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――夜
名前さんの自室前。灯りがついているから、まだ起きているはずだ。
何度も外廊下を行ったり来たりして、目の前の障子に手をかけては思いとどまり、また歩く。寝巻き一枚だとずいぶん身体が冷えた。
出張から戻ってきたときの、きり丸の話が重くのしかかる。たしかに、食堂で見かけた名前さんは肩を落とし顔色が悪かった。
彼女の気持ち。はっきりさせるのが怖くて、どうしても一歩踏み出せない。けれど、ウジウジしてこのまま眠ることも出来なかった。
意を決して障子の引手に触れようとしたとき。中から、か細い声が聞こえてきた。
「……土井先生、ですか?」
「あ、ああ。……入ってもいいかな」
「……どうぞ」
すっと音もなく障子を開ける。
薄暗い部屋の中、布団の上にひざを抱えてうずくまる名前さんがいた。消えてしまいそうなほど小さくなって、その落ち込みようが伝わってくる。そばに腰を下ろすと、「出張で授業が進まなくて胃が痛むよ」なんて関係ない話をする。
会話は続くわけもなく、二人して黙りこむ。しばらくしてから、名前さんが震える声で切り出した。
「……土井先生。先生に、聞きたいことがあって」
「大木先生の、お嫁さんのことかい?」
「っ、な、なんでそれを……!?」
「きり丸たちから聞いたんだ。君が、元気がないって心配していてね」
「……そう、だったんですね。先生は、お嫁さんがいると知っていたのですか」
「いや、聞いたことがない」
「……え?」
うつむいた顔が、パッとこちらに向けられる。目元は赤く潤んで腫れぼったい。口を少し開いたまま、声が出せないようだった。期待するような視線に、最後の悪あがきをしたくなる。
「聞いたことがないだけで……。いらっしゃるかも知れない」
「……やっぱり、……っ、う、ぐ、……っ」
苦しそうに顔を歪め、今にも泣きじゃくりそうな姿に心が痛む。ぐっと握られたこぶしは青白く、呼吸は不規則に乱れていた。
大木先生に奥さんなんていないハズだ。それなのに、そんな酷いことを言ってしまう。
このまま、彼女が誤解したままだったら……? 私に縋りついて、頼られたら……その心まで奪ってしまえるだろうか。そんな最低な考えが浮かび、ギリッと奥歯を噛みしめた。
この気持ちをどうすることも出来ず、荒っぽく名前さんをかき抱く。
……どうして、どうして私じゃないんだ。
そんな風に力なくもたれてくるから、わずかに期待してしまうじゃないか。
それでも細い腕はだらりと落ちたままで、この気持ちに応えられないと言われているようだった。腕のなかで身じろぎする彼女を、逃げないよう強く胸に押し付ける。
「……なんて言ったら、君は私のものになってくれるか?」
「……っご、ごめん、なさい……どうしても、」
「すまない。わかっているよ」
「ごめ、ん…な、さっ……、せんせっ……」
それ以上聞きたくなくて遮るように言葉をかぶせた。小さな背中を幾度も手のひらでさする。彼女を落ち着かせようとするも、自身は苦しくなるばかりだった。
……もっと早く想いを伝えていたら。
ジジジ、と燭台の炎が音をたてる。長いこと抱きしめていたのか、灯りはもうすぐ消えそうだ。嗚咽がおさまり、呼吸が整ってくるのを感じてそっと身体を離した。
涙でぐしゃぐしゃになったほほに触れる。親指で拭ってはこぼれる雫を、どうしてあげることも出来ない。
「きちんと、大木先生と話したほうがいい」
「……はい」
「まったく、自分が嫌になるよ」
「先生。……わたし、ずっと甘えて、頼ってしまって、今だって……!」
「いいんだ。これからだって、変わらず君を守るよ」
「そんな優しいこと、言わないでください」
「……優しくなんかないさ」
「先生……?」
不思議そうな顔で覗き込んでくる。こんな時でも、その潤んだ瞳に吸い込まれそうだ。言葉のかわりにふわりと頭をなでる。
「しばらく、練り物でも食べたような気分が続きそうだなぁ」
そんな冗談を絞りだし自傷気味に笑う。精いっぱいに平常心を装い、彼女の部屋を後にした。
大木先生と名前さんをくっ付けるのは悔しいけれど、これ以上悲しい顔を見るのは耐えられない。
……バイトで杭瀬村を通るきり丸に、一役買ってもらうか。
おやすみ。と聞こえないほど小さな声で呟くと、自室の障子を引くのだった。
*
土井先生と話してから数日。
春の柔らかな風を感じながら、中庭を横切り廊下を駆けまわる日々。
授業で使う備品の補充や、先生方へ届く文の仕分け、それからプリントの作成。やることはいっぱいある。しかも、食堂のお手伝いだって控えているのだ。
雅之助さんのことを、少しだけ忘れられる。本当は、杭瀬村に出向いて話さなきゃいけないのに。忙しい、なんて逃げる口実ができてありがたかった。
土井先生とも平気なフリですれ違って、ぎこちなく会話して。それでも、変わらず温かさがあふれている。先生は優しくないって言っていたけれど……。とてもそんな風には思えなかった。
……この世界に残ることができる、それだけで充分だったのに。いつの間にか欲張りになっていく自分にため息がでる。
「おーいっ!」
事務仕事の報告が終わり、吉野先生の部屋から足をふみ出した瞬間。だれかを呼ぶ声が聞こえてくる。
「名前さーん!」
「……あれ、どうしたの? きり丸くん」
息を切らしたきり丸くんがパタパタとこちらに走ってきた。呼吸を整えてから、ビシッと人差し指をさされる。
「名前さんっ! まだ、返してない本があるんじゃないっすか!?」
「ええ!? ……お菓子作りの本とおまじないの本、返したはずなんだけどなぁ」
「今から図書室にきて、一緒に確認してください!」
「わ、わかったよ……!」
あまりの勢いに押され、図書室にいくと言ってしまった。本を借りっぱなしにするなんて、雅之助さんみたいなこと……。ふと頭に彼の姿がよぎり、胸がきゅっと痛む。
手を引かれるまま図書室へ向かい、文机できり丸くんと貸し出し票を確認している。
「ほらー! ちゃんと返してるよ?」
「ほんとっすね、すみませーん」
バレンタインの時。ボーロを作って忘れないうちに返したのだ。図書室で騒いで怒られたからよく覚えていた。貸し出し票をペラっとなびかせて裏側も見てみる。当然ながら何も書いていない。
……勘違いかな?
不思議に思ってきり丸くんに目をやると、バツの悪そうな顔で苦笑いしている。二人で本棚の書物を目でおって、借りた本がきちんと戻されているか確認していく。
「……本が見当たらない、とかだったの?」
「あっ、いえ、そーいうわけじゃ……」
「きり丸くんらしくないね?」
「……そ、そうっすか?」
あやしい。
なにか隠しているような、そんな予感がする。むむっと近寄って目を合わせると、キョロキョロと視線をさまよわせて焦っていた。
――カタン
「おーい、誰かいるかー? わしは本など借りとらんぞー?!」
図書室に似つかわしくない大声が響く。会いたくて、会わなくちゃいけなくて……。でも会うのがこわい人だ。
その声の主が誰かを認識すると、きり丸くんを盾にして本棚のあいだに身をひそめた。けれど、ずかずかと中に入ってくる雅之助さんは私たちを難なく見つけてしまうのだ。
「きり丸に……、そこにいるのは名前か」
「は、はいっ! あの、でも、わたし仕事に戻らないと……!」
わしわしと頭をかく雅之助さんの横をするりと抜け、出入口に向かおうとした瞬間。がしっと腕をつかまれ引き戻される。反動でよろける身体を受け止められ、ますます気まずさに顔を見られない。壁や板の間に視線をさまよわせ誤魔化した。
「まて、名前。聞いていたより元気があるな? ……それにきり丸。わしは本を借りた覚えはないぞ?」
「大木先生、すみません! おれの勘違いだったみたいで……」
「なんじゃ、せっかく杭瀬村から来たというのに」
「きり丸くん……?」
「あ、そうそう! 名前さんが、花房牧之助のはなし聞きたがってましたよ!」
「そうなのか。まったく、あいつには毎度迷惑をかけられて困ったもんだ」
いまだ腕を捕らえられたままで、二人の話をじっと聞いていた。掴まれた部分から伝わる、大きくてゴツゴツとした感触に心臓が早鐘を打つ。
花房牧之助って、たしか――
冬休みで杭瀬村に戻っていたとき、侍だーって騒いでいた人かもしれない。私と何が関係あるんだろう?
気まずさよりも好奇心の方が勝り、思わず雅之助さんの様子をチラリとうかがう。目元がイタズラっぽく細められた。
「……お前と牧之助じゃあ、似てるところなど一つもないのにな?」
「大木先生に名前さんっ、おれは失礼しまーす!」
「きり丸くんっ……!」
静かな図書室にふたり残されてしまった。そっと腕を解放されると、温もりの残る部分をさする。私が元気ないって、どうして知っていたのかも気になる。それなのに、口から出るのは違う言葉だった。
「あの、もうお帰りですよね。門まで、」
「おいおい。本の返却もそうだが……きり丸から聞いたぞ。困っていることでもあるのか」
「わ、私なら大丈夫ですから!」
「どこが大丈夫じゃ。暗い顔をして」
「……してないです」
「名前。……そんなに、わしの嫁と思われたのが嫌だったのか?」
「……え?」
――どういうこと?
わたしが、雅之助さんの……?
話が見えず混乱するばかりだ。嬉しいような、恥ずかしいような。私がお嫁さんだったら嬉しいみたいな口ぶりで、真面目な顔をして……。そんな期待をしたら傷つくだけだ。
「……あ! 野村先生」
「野村だと!? どこだー! っておい、名前!」
*
「なんで逃げる!? 待てーっ!」
「いやです!」
走る名前を追いかける。
図書室を出て、廊下やその先の中庭まで駆け回っていた。すれ違う忍たま達はポカンとした顔でわしらを眺め、被害が及ばないよう端によけていく。
元はと言えば昨日。
バイトで杭瀬村に寄ったきり丸が、早く本を返却しろと言う。これにはまったく身に覚えがないものの、また能勢久作を怒らせたらマズイ。さらに、牧之助が名前の――わしの嫁のふりをしたことで彼女が落ち込んでいると言って、慌てて学園に駆けつけたのだ。
そんなに、嫁と誤解されるのが嫌だったのだろうか。周りからそう見られて、得意になっていたのは自分だけだったのか。
「わしの話を聞け!」
人けのない場所へと追い詰める。校舎の裏側にあたるそこは、木が立ちならび土塀が影を作っていた。
意外とすばしっこい名前の手首をぐいっと掴む。引っ張られたせいで、倒れかかる身体を受け止めた。それでもなおジタバタする彼女を肩に担ぎあげ、大人しくなりそうな場所まで連れていく。
「大木先生っ、離してください!」
「だめだ!」
「ひゃぁっ。なっ、なに?! ……ど、どこです!?」
担ぎながら高い木の枝にひょいっと飛びのった。怖がる名前をゆっくり座らせるも、暴れて落ちそうになる。とっさに細い腰を引き寄せた。
「は、離してっ、わぁ……!」
「落ちるぞ」
怖くなったのか、今度は大人しくわしの腕にしがみついて離れない。
「離してと言ったのはどの口だ?」
「……だって、怖いんですもん」
「じゃあ、ちゃんとつかまって……わしの話を聞くんだ」
「……はい」
不安そうに揺れる瞳をじっと見つめる。いざこうなると、何からどう話していいか困ってしまった。
「元気がないなんてお前らしくないぞ」
「……きり丸くんが、雅之助さんにお嫁さんがいるって。そう言ってたのを聞いて、それで……!」
「わしに嫁だと!? ……もしかして、花房牧之助のことを言ってるのか?」
「一体なんなんです……? 私に何の関係があるんですか、お嫁さん、いないって言ってたのに……! うそ、だったんですか!?」
小さな手がかたく握られ、声が震えている。次々と責めるような言葉がこぼれて、名前が苦しそうに息を飲み込んだ。
「牧之助はお前も以前見たはずだ。顔の大きい、自称剣豪だが……。そいつが、名前の名を語ってわしの嫁のフリをしてだな、」
「わ、わたしの名を……? え、えっと……」
「お前が、わしの嫁だと思われているんだ」
小さな両肩を掴み、逃げないように視線を合わせる。その瞳は驚きに大きく開かれ、口はパクパクと動いて言葉を探しているようだ。
「でも、どうして私が……?」
「年頃のおなごが、男の家に出入りしているんだ。うわさになってもおかしくない。……つい嬉しくてな、悪かった」
「違うんです! ……嫌じゃ、ないんです」
「……そうなのか?」
てっきり、誤解されて落ち込んでいるのかと思っていたのに。名前はほほを赤らめ、もじもじと恥ずかしそうに身体を縮こませる。その姿に都合よく考えてしまいそうだ。
「……お嫁さんがいなくて、よかった」
「前から言ってるだろうが」
「だって、ご自分のこと、何も教えてくれないから! ……だから、もしかしたらって、変に考えちゃって。離れて暮らしてるのかな、とか……」
「……すまない。わしの過去なんぞ、名前に背負わせるわけにはいかんのだ」
「雅之助さんっ……!」
「お前は、知らなくていい」
過去のことなど言えるはずもない。秘密にされて、どれだけ不安だろうか。涙をこらえるように顔を歪めて痛々しい。見ていられず、名前を強くかき抱く。その感触があまりにも温かく、柔らかい。おずおずと背中に腕を回され、そのつたなさに心が乱される。
「それでも、わしのそばにいてくれるか」
「私だって……何をしてきたのか、全く覚えてないんです。家族もいないし、ひとりぼっちで」
「……名前、」
「過去のことなんかより、これから、ふたりで、一緒に……」
腕の力をゆるめ、手のひらでそっと彼女のほほに触れる。潤んできらめく瞳を見つめると、自然とお互いに顔が近づく。肩から落ちた鉢巻きの端が風になびき、それは優しく名前の耳元をくすぐった。
年甲斐もなく、ずっと秘めていた想いだ。
彼女も同じ気持ちだということに、鼓動が激しく鳴り響く。
まぶたを閉じると、かすかに吐息が感じられる。引き寄せるようにきゅっと衿もとを握られ、胸が甘く締めつけられた。
唇が触れそうになる、その時。
イヤな気配を感じて動きを止める。木の上からあたりに目を凝らすと、一番現れて欲しくない人物が見え隠れしていた。
「ちょっとー! 野村先生、ダメですってば……!」
「こんな所にいたのか、大木雅之助っ! 今すぐ名前さんを離せー!」
制止するきり丸を振り切って野村がこちらへ駆けてくる。何を勘違いしているのか、いつも邪魔ばかりしおって……! 驚いて目を丸くした名前と顔を見合わせた。
「の、野村先生……!? っ、きゃぁっ……!」
「お、おい! 名前っ……!」
慌てたのだろうか、小さな両手で胸元をぐっと押しやられる。名前は勢い余って腰かけた枝からすべり落ち、背中から下へと吸い込まれていく。
カサカサと木の葉が大きく揺れ、いくつも舞い散る。
その身体を守るように包み込み、二人してかたい地面へと叩きつけられた。受身を取ったがジンジンと鈍い痛みが腰にひびく。自身が下になって受け止めたから、彼女に大きな怪我はないだろう。
「大丈夫か?!」
「はい、あのっ……ごめんなさい」
「……かまわん。無事でよかった」
下敷きになったまま、真っ赤な顔で慌てる名前を見上げ、頭をぽんと撫でてやる。彼女がはしに避けると、上体を起こして野村を睨みつけた。
「大木雅之助、早くそこから退け! 名前さんを追い回して、さらにはこんなことを……!」
「野村先生っ。わたし、大木先生のお嫁さんのことで、その……」
「名前さん……? 何を言ってるのか全く分かりませんが。コイツに嫁はおろか……好いてくれる女性などいるはずがないっ!」
「いつもいつも余計なことを……! この、キザ野郎めー!」
「なんだと!? どこんじょー馬鹿に言われたくないわ!」
さっと体勢を整えるとお互いに構えを取り、ジリジリと距離を詰めていく。どちらからともなく掴みかかると、そこからはボコボコといつもの殴り合いが始まった。
「おい、きり丸。ケンカのチケットは売るんじゃないぞー!」
「そ、そんなあー!」
「大木先生に野村先生っ。わたし、食堂のお手伝いがあるので失礼します!」
「ちょっと待て、名前!」
「名前さんっ……!」
目の前の割れたメガネ面から視線を逸らし、彼女の姿を探す。小走りで食堂へ行ってしまったではないか……!
その後を、きり丸が必死に追いかけていくのだった。
名前さんの自室前。灯りがついているから、まだ起きているはずだ。
何度も外廊下を行ったり来たりして、目の前の障子に手をかけては思いとどまり、また歩く。寝巻き一枚だとずいぶん身体が冷えた。
出張から戻ってきたときの、きり丸の話が重くのしかかる。たしかに、食堂で見かけた名前さんは肩を落とし顔色が悪かった。
彼女の気持ち。はっきりさせるのが怖くて、どうしても一歩踏み出せない。けれど、ウジウジしてこのまま眠ることも出来なかった。
意を決して障子の引手に触れようとしたとき。中から、か細い声が聞こえてきた。
「……土井先生、ですか?」
「あ、ああ。……入ってもいいかな」
「……どうぞ」
すっと音もなく障子を開ける。
薄暗い部屋の中、布団の上にひざを抱えてうずくまる名前さんがいた。消えてしまいそうなほど小さくなって、その落ち込みようが伝わってくる。そばに腰を下ろすと、「出張で授業が進まなくて胃が痛むよ」なんて関係ない話をする。
会話は続くわけもなく、二人して黙りこむ。しばらくしてから、名前さんが震える声で切り出した。
「……土井先生。先生に、聞きたいことがあって」
「大木先生の、お嫁さんのことかい?」
「っ、な、なんでそれを……!?」
「きり丸たちから聞いたんだ。君が、元気がないって心配していてね」
「……そう、だったんですね。先生は、お嫁さんがいると知っていたのですか」
「いや、聞いたことがない」
「……え?」
うつむいた顔が、パッとこちらに向けられる。目元は赤く潤んで腫れぼったい。口を少し開いたまま、声が出せないようだった。期待するような視線に、最後の悪あがきをしたくなる。
「聞いたことがないだけで……。いらっしゃるかも知れない」
「……やっぱり、……っ、う、ぐ、……っ」
苦しそうに顔を歪め、今にも泣きじゃくりそうな姿に心が痛む。ぐっと握られたこぶしは青白く、呼吸は不規則に乱れていた。
大木先生に奥さんなんていないハズだ。それなのに、そんな酷いことを言ってしまう。
このまま、彼女が誤解したままだったら……? 私に縋りついて、頼られたら……その心まで奪ってしまえるだろうか。そんな最低な考えが浮かび、ギリッと奥歯を噛みしめた。
この気持ちをどうすることも出来ず、荒っぽく名前さんをかき抱く。
……どうして、どうして私じゃないんだ。
そんな風に力なくもたれてくるから、わずかに期待してしまうじゃないか。
それでも細い腕はだらりと落ちたままで、この気持ちに応えられないと言われているようだった。腕のなかで身じろぎする彼女を、逃げないよう強く胸に押し付ける。
「……なんて言ったら、君は私のものになってくれるか?」
「……っご、ごめん、なさい……どうしても、」
「すまない。わかっているよ」
「ごめ、ん…な、さっ……、せんせっ……」
それ以上聞きたくなくて遮るように言葉をかぶせた。小さな背中を幾度も手のひらでさする。彼女を落ち着かせようとするも、自身は苦しくなるばかりだった。
……もっと早く想いを伝えていたら。
ジジジ、と燭台の炎が音をたてる。長いこと抱きしめていたのか、灯りはもうすぐ消えそうだ。嗚咽がおさまり、呼吸が整ってくるのを感じてそっと身体を離した。
涙でぐしゃぐしゃになったほほに触れる。親指で拭ってはこぼれる雫を、どうしてあげることも出来ない。
「きちんと、大木先生と話したほうがいい」
「……はい」
「まったく、自分が嫌になるよ」
「先生。……わたし、ずっと甘えて、頼ってしまって、今だって……!」
「いいんだ。これからだって、変わらず君を守るよ」
「そんな優しいこと、言わないでください」
「……優しくなんかないさ」
「先生……?」
不思議そうな顔で覗き込んでくる。こんな時でも、その潤んだ瞳に吸い込まれそうだ。言葉のかわりにふわりと頭をなでる。
「しばらく、練り物でも食べたような気分が続きそうだなぁ」
そんな冗談を絞りだし自傷気味に笑う。精いっぱいに平常心を装い、彼女の部屋を後にした。
大木先生と名前さんをくっ付けるのは悔しいけれど、これ以上悲しい顔を見るのは耐えられない。
……バイトで杭瀬村を通るきり丸に、一役買ってもらうか。
おやすみ。と聞こえないほど小さな声で呟くと、自室の障子を引くのだった。
*
土井先生と話してから数日。
春の柔らかな風を感じながら、中庭を横切り廊下を駆けまわる日々。
授業で使う備品の補充や、先生方へ届く文の仕分け、それからプリントの作成。やることはいっぱいある。しかも、食堂のお手伝いだって控えているのだ。
雅之助さんのことを、少しだけ忘れられる。本当は、杭瀬村に出向いて話さなきゃいけないのに。忙しい、なんて逃げる口実ができてありがたかった。
土井先生とも平気なフリですれ違って、ぎこちなく会話して。それでも、変わらず温かさがあふれている。先生は優しくないって言っていたけれど……。とてもそんな風には思えなかった。
……この世界に残ることができる、それだけで充分だったのに。いつの間にか欲張りになっていく自分にため息がでる。
「おーいっ!」
事務仕事の報告が終わり、吉野先生の部屋から足をふみ出した瞬間。だれかを呼ぶ声が聞こえてくる。
「名前さーん!」
「……あれ、どうしたの? きり丸くん」
息を切らしたきり丸くんがパタパタとこちらに走ってきた。呼吸を整えてから、ビシッと人差し指をさされる。
「名前さんっ! まだ、返してない本があるんじゃないっすか!?」
「ええ!? ……お菓子作りの本とおまじないの本、返したはずなんだけどなぁ」
「今から図書室にきて、一緒に確認してください!」
「わ、わかったよ……!」
あまりの勢いに押され、図書室にいくと言ってしまった。本を借りっぱなしにするなんて、雅之助さんみたいなこと……。ふと頭に彼の姿がよぎり、胸がきゅっと痛む。
手を引かれるまま図書室へ向かい、文机できり丸くんと貸し出し票を確認している。
「ほらー! ちゃんと返してるよ?」
「ほんとっすね、すみませーん」
バレンタインの時。ボーロを作って忘れないうちに返したのだ。図書室で騒いで怒られたからよく覚えていた。貸し出し票をペラっとなびかせて裏側も見てみる。当然ながら何も書いていない。
……勘違いかな?
不思議に思ってきり丸くんに目をやると、バツの悪そうな顔で苦笑いしている。二人で本棚の書物を目でおって、借りた本がきちんと戻されているか確認していく。
「……本が見当たらない、とかだったの?」
「あっ、いえ、そーいうわけじゃ……」
「きり丸くんらしくないね?」
「……そ、そうっすか?」
あやしい。
なにか隠しているような、そんな予感がする。むむっと近寄って目を合わせると、キョロキョロと視線をさまよわせて焦っていた。
――カタン
「おーい、誰かいるかー? わしは本など借りとらんぞー?!」
図書室に似つかわしくない大声が響く。会いたくて、会わなくちゃいけなくて……。でも会うのがこわい人だ。
その声の主が誰かを認識すると、きり丸くんを盾にして本棚のあいだに身をひそめた。けれど、ずかずかと中に入ってくる雅之助さんは私たちを難なく見つけてしまうのだ。
「きり丸に……、そこにいるのは名前か」
「は、はいっ! あの、でも、わたし仕事に戻らないと……!」
わしわしと頭をかく雅之助さんの横をするりと抜け、出入口に向かおうとした瞬間。がしっと腕をつかまれ引き戻される。反動でよろける身体を受け止められ、ますます気まずさに顔を見られない。壁や板の間に視線をさまよわせ誤魔化した。
「まて、名前。聞いていたより元気があるな? ……それにきり丸。わしは本を借りた覚えはないぞ?」
「大木先生、すみません! おれの勘違いだったみたいで……」
「なんじゃ、せっかく杭瀬村から来たというのに」
「きり丸くん……?」
「あ、そうそう! 名前さんが、花房牧之助のはなし聞きたがってましたよ!」
「そうなのか。まったく、あいつには毎度迷惑をかけられて困ったもんだ」
いまだ腕を捕らえられたままで、二人の話をじっと聞いていた。掴まれた部分から伝わる、大きくてゴツゴツとした感触に心臓が早鐘を打つ。
花房牧之助って、たしか――
冬休みで杭瀬村に戻っていたとき、侍だーって騒いでいた人かもしれない。私と何が関係あるんだろう?
気まずさよりも好奇心の方が勝り、思わず雅之助さんの様子をチラリとうかがう。目元がイタズラっぽく細められた。
「……お前と牧之助じゃあ、似てるところなど一つもないのにな?」
「大木先生に名前さんっ、おれは失礼しまーす!」
「きり丸くんっ……!」
静かな図書室にふたり残されてしまった。そっと腕を解放されると、温もりの残る部分をさする。私が元気ないって、どうして知っていたのかも気になる。それなのに、口から出るのは違う言葉だった。
「あの、もうお帰りですよね。門まで、」
「おいおい。本の返却もそうだが……きり丸から聞いたぞ。困っていることでもあるのか」
「わ、私なら大丈夫ですから!」
「どこが大丈夫じゃ。暗い顔をして」
「……してないです」
「名前。……そんなに、わしの嫁と思われたのが嫌だったのか?」
「……え?」
――どういうこと?
わたしが、雅之助さんの……?
話が見えず混乱するばかりだ。嬉しいような、恥ずかしいような。私がお嫁さんだったら嬉しいみたいな口ぶりで、真面目な顔をして……。そんな期待をしたら傷つくだけだ。
「……あ! 野村先生」
「野村だと!? どこだー! っておい、名前!」
*
「なんで逃げる!? 待てーっ!」
「いやです!」
走る名前を追いかける。
図書室を出て、廊下やその先の中庭まで駆け回っていた。すれ違う忍たま達はポカンとした顔でわしらを眺め、被害が及ばないよう端によけていく。
元はと言えば昨日。
バイトで杭瀬村に寄ったきり丸が、早く本を返却しろと言う。これにはまったく身に覚えがないものの、また能勢久作を怒らせたらマズイ。さらに、牧之助が名前の――わしの嫁のふりをしたことで彼女が落ち込んでいると言って、慌てて学園に駆けつけたのだ。
そんなに、嫁と誤解されるのが嫌だったのだろうか。周りからそう見られて、得意になっていたのは自分だけだったのか。
「わしの話を聞け!」
人けのない場所へと追い詰める。校舎の裏側にあたるそこは、木が立ちならび土塀が影を作っていた。
意外とすばしっこい名前の手首をぐいっと掴む。引っ張られたせいで、倒れかかる身体を受け止めた。それでもなおジタバタする彼女を肩に担ぎあげ、大人しくなりそうな場所まで連れていく。
「大木先生っ、離してください!」
「だめだ!」
「ひゃぁっ。なっ、なに?! ……ど、どこです!?」
担ぎながら高い木の枝にひょいっと飛びのった。怖がる名前をゆっくり座らせるも、暴れて落ちそうになる。とっさに細い腰を引き寄せた。
「は、離してっ、わぁ……!」
「落ちるぞ」
怖くなったのか、今度は大人しくわしの腕にしがみついて離れない。
「離してと言ったのはどの口だ?」
「……だって、怖いんですもん」
「じゃあ、ちゃんとつかまって……わしの話を聞くんだ」
「……はい」
不安そうに揺れる瞳をじっと見つめる。いざこうなると、何からどう話していいか困ってしまった。
「元気がないなんてお前らしくないぞ」
「……きり丸くんが、雅之助さんにお嫁さんがいるって。そう言ってたのを聞いて、それで……!」
「わしに嫁だと!? ……もしかして、花房牧之助のことを言ってるのか?」
「一体なんなんです……? 私に何の関係があるんですか、お嫁さん、いないって言ってたのに……! うそ、だったんですか!?」
小さな手がかたく握られ、声が震えている。次々と責めるような言葉がこぼれて、名前が苦しそうに息を飲み込んだ。
「牧之助はお前も以前見たはずだ。顔の大きい、自称剣豪だが……。そいつが、名前の名を語ってわしの嫁のフリをしてだな、」
「わ、わたしの名を……? え、えっと……」
「お前が、わしの嫁だと思われているんだ」
小さな両肩を掴み、逃げないように視線を合わせる。その瞳は驚きに大きく開かれ、口はパクパクと動いて言葉を探しているようだ。
「でも、どうして私が……?」
「年頃のおなごが、男の家に出入りしているんだ。うわさになってもおかしくない。……つい嬉しくてな、悪かった」
「違うんです! ……嫌じゃ、ないんです」
「……そうなのか?」
てっきり、誤解されて落ち込んでいるのかと思っていたのに。名前はほほを赤らめ、もじもじと恥ずかしそうに身体を縮こませる。その姿に都合よく考えてしまいそうだ。
「……お嫁さんがいなくて、よかった」
「前から言ってるだろうが」
「だって、ご自分のこと、何も教えてくれないから! ……だから、もしかしたらって、変に考えちゃって。離れて暮らしてるのかな、とか……」
「……すまない。わしの過去なんぞ、名前に背負わせるわけにはいかんのだ」
「雅之助さんっ……!」
「お前は、知らなくていい」
過去のことなど言えるはずもない。秘密にされて、どれだけ不安だろうか。涙をこらえるように顔を歪めて痛々しい。見ていられず、名前を強くかき抱く。その感触があまりにも温かく、柔らかい。おずおずと背中に腕を回され、そのつたなさに心が乱される。
「それでも、わしのそばにいてくれるか」
「私だって……何をしてきたのか、全く覚えてないんです。家族もいないし、ひとりぼっちで」
「……名前、」
「過去のことなんかより、これから、ふたりで、一緒に……」
腕の力をゆるめ、手のひらでそっと彼女のほほに触れる。潤んできらめく瞳を見つめると、自然とお互いに顔が近づく。肩から落ちた鉢巻きの端が風になびき、それは優しく名前の耳元をくすぐった。
年甲斐もなく、ずっと秘めていた想いだ。
彼女も同じ気持ちだということに、鼓動が激しく鳴り響く。
まぶたを閉じると、かすかに吐息が感じられる。引き寄せるようにきゅっと衿もとを握られ、胸が甘く締めつけられた。
唇が触れそうになる、その時。
イヤな気配を感じて動きを止める。木の上からあたりに目を凝らすと、一番現れて欲しくない人物が見え隠れしていた。
「ちょっとー! 野村先生、ダメですってば……!」
「こんな所にいたのか、大木雅之助っ! 今すぐ名前さんを離せー!」
制止するきり丸を振り切って野村がこちらへ駆けてくる。何を勘違いしているのか、いつも邪魔ばかりしおって……! 驚いて目を丸くした名前と顔を見合わせた。
「の、野村先生……!? っ、きゃぁっ……!」
「お、おい! 名前っ……!」
慌てたのだろうか、小さな両手で胸元をぐっと押しやられる。名前は勢い余って腰かけた枝からすべり落ち、背中から下へと吸い込まれていく。
カサカサと木の葉が大きく揺れ、いくつも舞い散る。
その身体を守るように包み込み、二人してかたい地面へと叩きつけられた。受身を取ったがジンジンと鈍い痛みが腰にひびく。自身が下になって受け止めたから、彼女に大きな怪我はないだろう。
「大丈夫か?!」
「はい、あのっ……ごめんなさい」
「……かまわん。無事でよかった」
下敷きになったまま、真っ赤な顔で慌てる名前を見上げ、頭をぽんと撫でてやる。彼女がはしに避けると、上体を起こして野村を睨みつけた。
「大木雅之助、早くそこから退け! 名前さんを追い回して、さらにはこんなことを……!」
「野村先生っ。わたし、大木先生のお嫁さんのことで、その……」
「名前さん……? 何を言ってるのか全く分かりませんが。コイツに嫁はおろか……好いてくれる女性などいるはずがないっ!」
「いつもいつも余計なことを……! この、キザ野郎めー!」
「なんだと!? どこんじょー馬鹿に言われたくないわ!」
さっと体勢を整えるとお互いに構えを取り、ジリジリと距離を詰めていく。どちらからともなく掴みかかると、そこからはボコボコといつもの殴り合いが始まった。
「おい、きり丸。ケンカのチケットは売るんじゃないぞー!」
「そ、そんなあー!」
「大木先生に野村先生っ。わたし、食堂のお手伝いがあるので失礼します!」
「ちょっと待て、名前!」
「名前さんっ……!」
目の前の割れたメガネ面から視線を逸らし、彼女の姿を探す。小走りで食堂へ行ってしまったではないか……!
その後を、きり丸が必死に追いかけていくのだった。