第52話 誤解
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昼下がりの食堂。
忍たま達がいないからか、しーんと静まりかえっている。
吉野先生から頼まれた、ちり紙の補充や障子の修理。小松田くんと力を合わせて終わらせ、夕飯の仕込みをするべくおばちゃんの元へと向かってみると――
「……あれ? 食堂のおばちゃん、どこにもいない」
調理場はもちろん、テーブルの下をのぞいてみても、勝手口やその向こうの井戸だって。まったく見当たらない。首をかしげつつ調理場横の小部屋を開けてみる。
そこには、珍しく昼寝するおばちゃんがいた。すやすやと穏やかな表情で横たわる姿に、そっと戸を閉める。音を立てずに台所を動き回り、野菜を洗ったり刻んだり……。ひたすら自分のできることを進めていった。
少し経ったころ、だれかの気配を感じてカウンター越しに食堂へ目をやる。山田先生が休憩にやってきたようだ。ふぅとため息をついて、疲れているように見える。お湯を沸かしてお茶を準備すると、先生へ湯呑みを差し出した。
「山田先生、お疲れさまです」
「名前くん、悪いねえ」
「ちょうどお茶請けもありましたので、ご一緒にどうぞっ」
「おおっ。そりゃありがたい」
お煎餅をいくつか乗せた皿をテーブルに置くと、先生は嬉しそうにあご髭をさすった。おぼんを握りながらポツリ尋ねる。
「今日は、土井先生をお見かけしてなくて……」
「突然、出張が入ってな」
「そうでしたか……」
「なぁに、心配することはない」
「はいっ。土井先生は一流の忍びですもんね」
山田先生に心の中を見透かされているようで恥ずかしい。少しおどけて返してみれば、先生もククッとのどを鳴らしていた。軽く頭を下げてから調理場に戻ると、ふたたび野菜の下ごしらえに取りかかる。
――ドタドタドタ
「山田先生〜っ!」
「なんだぁ? 乱太郎、きり丸、しんべヱ。そんなに慌てて」
入口から、大きな足音と焦った様子の三人の声が響き渡る。どうしたんだろう……? 耳はみんなの方に傾けつつ、大根をきざみ続けた。
「大木先生の畑に、野生の……」
「……荒ら…困って……んすよ!」
「美味しい…荒らす……ぼく、許せないっ!」
途切れ途切れに話し声が聞こえる。やっぱり、この前の不自然なカサカサは野生のイノシシやたぬきだったのかもしれない。私に何か出来ることはないかな……なんて頭を悩ます。
力になりたくて、畑の様子も心配で、三人に話を聞こうと包丁を置いた瞬間。勝手口から「お届け物でーす!」と男性の声が響いた。
濡れた手を割烹着で拭くと、早足で受け取りに向かう。今日は新鮮なお魚が届く予定だから……。夕飯は焼き魚定食か、それとも煮付けにしようか。忍たま達の喜ぶ顔を想像して、にこにこしながら配達の人に声をかけた。
……よいしょ、と。
魚が詰め込まれた重たい木箱を受け取り、小走りで調理場へと戻る。配達のお兄さんと世間話をしたにも関わらず、まだみんなの話し声が聞こえてきた。カウンターから食堂の様子をのぞくと、乱太郎くん達は山田先生と一緒だ。少し揉めているような、そんな様子にじっと耳をすませた。
「山田先生! 退治するの手伝ってくださいよー!」
「嫌なこった。……大木先生…捕まえたら……褒美を……言われたんだろうに」
「それは……なんすけど……」
「ほらみたことか!」
「戸部先生…断られ……です〜!」
「そりゃそうだろう」
「でも、山田先生の奥さんの……」
「な、なにぃ!?」
今度こそ……!
そう思って足を踏み出したとき。
思いがけない言葉が聞こえてきて動きが止まる。
「お願いしますよー! ……大木先生のお嫁さんだって…こまって……っすよ!」
「そりゃ許せん!」
山田先生が勢いよく立ち上がると、三人を引き連れて猛スピードで走り去ってしまった。
食堂に一人残され、ぼうぜんとする。
……大木先生の、お嫁さんって……?
そんなの、聞いたことない。
教えてもらったこともない。
以前ふざけて聞いた時に、有耶無耶にされたことを思い出す。それ以上は聞くなよ、と言われているような壁を感じて踏み込めなかった。
それなのに、乱太郎くんや山田先生達は、当然の事実かのような様子で。
私だけが知らなかったの……?
だから、は組のみんなは尊奈門さんを巻き込んで私と土井先生とくっ付けようと……?
雅之助さんだって、お嫁さんはいないって言ってたのに。うそ、だったのかな……?
震える手で湯呑みと菓子の皿を片付ける。全身から血の気がひいて、心臓がイヤな鼓動を繰り返していた。うまく呼吸ができない。空気を吸っても、肺に入った気がせず苦しくなるばかりだ。
頭の中はぐちゃぐちゃのまま、煮魚に使う長ネギの皮をむいてまな板へ並べる。いつも通りの手順で、根っこをすこし切り落とし、白い部分をザクッと切っていく。
土井先生に確認したいけれど……。
今は出張されているし、こんな話できるわけがない。そもそも、先生になんて言ったらいい?
「そんなことないさ」
そう、言って欲しいのかもしれない。優しさに甘えて、私はなんてずるい人間なんだろう。
もし恐れていたことが本当だと言われてしまったら。「じつは訳ありでお嫁さんがいるんだよ」なんて、まさかそんなこと……。怖くて怖くて、やっぱり聞けない。
ぼーっとする頭で包丁を握りなおすと、ちょうどおばちゃんが小部屋から出てきた。「あたしったら寝すぎちゃったわ!」と笑いながら支度するおばちゃんに、ぎこちなく応える。
悲しくて、不安で、怒りの気持ちとごちゃ混ぜだ。ほほがヒクついて目の前が歪んでいく。袖口で拭っても拭っても、次々と涙があふれて止まらない。
「あら、名前ちゃん大丈夫?」
「すみませんっ、煮付け用のネギが目に染みて」
「痛いわよねぇ」
なんとか平静を装って、いつも通りにすすめる。涙があふれ出そうになると、勝手口へ逃げるように走った。
きれいな空を見上げてみても、何も感じない。
こんな気持ちになるのは。
私、雅之助さんのこと……
心の奥の想いを認めたとたん、さらに苦しくなる。胸元を押さえ、精いっぱい声を我慢するのだった。
*
「いやー、腹減ったなあ! なあ、しんべヱ」
「ほんとー! もうペコペコ」
「でもきり丸。野生の牧之助、退治できてよかったじゃない」
「褒美はもらえなかったけどなー!」
「まあまあ……。わたし達は何もしてないし」
「そうそう! 牧之助が勝手に自滅しちゃったんだよね」
夕方。
おれは食堂へと続く廊下を乱太郎、しんべヱと歩いている。
たまたまバイトで杭瀬村を通ったとき、大木先生に「畑を荒らす花房牧之助を退治したら褒美をやる」と言われて。忍たまだけだと心細いから、無理やり山田先生に頼んだのだ。
イノシシ姿で畑を荒らしていた牧之助は、山田先生や後から駆けつけた戸部先生に叱られはしたものの……。いざ決闘になると自ら木にぶつかって倒れたのだ。
だから、褒美をもらえなかったんだけど。
「それにしても、きり丸〜。あの話、でまかせなのに嘘じゃなかったねぇ!」
「牧之助のやつ、本当に山田先生や大木先生のお嫁さんのフリして食い逃げしてたんだもんなー。ある意味助かったぜ」
「きりちゃんってば……。たしかに、本当だったけどさぁ」
乱太郎は眉を下げ、乾いた笑いを浮かべている。腰が重い山田先生を何とか杭瀬村に連れて行くため、嘘をついたのだ。さらに、名前さんのことまで巻き込んでしまった。
……牧之助が名前さんに扮し、大木先生のお嫁さんのフリをして大変な事になっている、と。
でも、本当だったのだ。
牧之助はどこで知ったのか名前さんの名を語って、団子を食い逃げしたと自白した。
「……あの時の大木先生の顔、みたか?」
「すーっごい、真っ赤な顔で怒ってたよね〜!」
「そりゃそうだよ、しんべヱ。名前さんを勝手に食い逃げ犯にしたんだもの」
「いや。でもなんだか嬉しそうだったぜ?」
ぜったい、名前さんがお嫁さんだと思われて顔がにやけていた。怒りながらも、その気持ちが漏れているのが感じられたのだ。
……土井先生も大木先生も、いい大人して分かりやすいんだから。
そんな話をしていると食堂に着いてしまった。中では、名前さんがぼんやりした疲れた顔で支度をしている。慌てて乱太郎、しんべヱを引っ張りおでこをくっつけた。
「……おい、二人とも。このことは、名前さんには内緒だぞ!」
「そーだねっ! ぼく秘密にする!」
「うん。名前さんが聞いたら大変だもんね」
三人で頷きあうと、元気いっぱいにカウンターへ向かった。
――夜
春とはいえ、日が落ちると昼間の暖かさは消え去り寒さが襲う。自室の布団の上にひざを抱え座り込むと、少しでも体温を上げようと二の腕をさすった。
こんなことになるなんて。
食堂の仕事は頭が真っ白のなか、なんとかこなしたけれど……。文机に置かれた白い鉢巻きを虚ろに眺める。
杭瀬村に帰ったとき。
雅之助さんはいつでも帰ってこい、って。お前の家みたいなもんだ、って。少年みたいな顔でそう言ってくれたのに。
出会った、最初の時から。
人の話を聞いていないようで、ちゃんと見ていてくれて。一緒にご飯を作っては笑い合って。無茶をしたときには、ばかもの!と叱ってくれて。危険な目にあうと必死に助けてくれる。
辛いときには、たくましい腕で優しく抱きしめてくれた。あの、人懐っこい笑顔が頭から離れない。
……どうしても、どうしても雅之助さんじゃなきゃだめなんだ。今になって、気持ちに気づくなんて自分が嫌になる。
この世界にいたいと願ったのは、忍術学園のみんなと離れたくないから。
だけど、一番は……?
心の中が露わになると、どうしようもなさに涙が止まらない。声を押し殺し目元をつよく擦る。
暗い部屋の中、いつまでもひざを抱えているのだった。
*
――朝日がさんさんと降りそそぐ気持ちの良い朝。
「おはよーございまっす! 名前さんっ」
「……お、おはよう。きり丸くん」
「何かあったんすか?」
「っ、ううん。何でもないよ。はいっ、朝ごはん」
名前さんは昨日の夜からどんより暗い顔をしていた。春らしい暖かい気温で、お天気だって晴れなのに。思い詰めたような表情にだんだんと心配になってくる。
「ええっ!? これ、ごはんが三つもあるんすけど!」
「ほんとだ……! ご、ごめんっ」
お味噌汁もおかずもない、白米だらけの朝食に深刻度が増す。後からやってきた乱太郎としんべヱと顔を見合わせた。
「名前さん、昨日から疲れてないっすか?」
「そ、そうかな……?」
「そうですよ! わたしたちに、何かできることありますか?」
「……乱太郎くん、ありがとう。あのね、きのう、みんなが大木先生の……」
「ぼく、おかずだらけなら大丈夫だよ〜!」
「「しんべヱ!!」」
「あはは、ごめーん……」
名前さんはおれらのやり取りを見て力なく笑っている。言いかけた言葉が気になったのに、後ろからきた上級生に急かされ仕方なくテーブルへ向かった。
かちゃりと定食を置いてご飯を口へはこぶ。味はいつも通り美味しんだけど……。悲しそうな名前さんが頭をよぎり、箸のすすみが遅くなる。
「きり丸食べないのー? ぼく食べてもいい?」
「だめに決まってるだろ! ……しんべヱったら」
「名前さんのこと、わたしたちで土井先生に相談してみない? ……出張から帰ってきてからだけど」
乱太郎と一緒に、遠目から名前さんを眺める。
やっぱりいつもの元気はなくて、なぜだかおれまで落ち込んでくる。
大木先生の……
なんて言おうとしたんだろう?
「乱太郎の言う通りだ。土井先生の帰りを待とう……!」
――カーン
午後の授業が終わり、半鐘の鋭い音が中庭に響き渡る。
「本日の授業はこれまで!」
「「「ありがとうございましたー!」」」
土井先生が帰ってこないから、午前も午後も山田先生だ。うずうずして、実技の道具を片付けている先生へ駆け寄った。
「山田先生!」
「なんだきり丸?」
「土井先生はまだお帰りにならないんですか?」
「少し遠くに行っているから、今日の夕方には帰ってくるだろう」
「……そうですか」
「土井先生のことだ。心配いらんよ」
「いえ、土井先生の心配じゃなくって……」
「ん?」
「何でもないっす! ……あ、乱太郎にしんべヱ! 待てよー!」
いぶかしそうな山田先生にぺこりと頭を下げ、先を歩く二人の元へと急いだ。
放課後、木かげになっている草原へ寝転がり空を見上げていた。柔らかな風が木の葉をゆらし心地よい音を奏でる。授業が終わったあとの楽しみだ。
「ねえ、きりちゃん」
「なんだー?」
「きりちゃんまで暗い顔してる」
「むにゃむにゃ……もう、ぼく食べられない……」
寝言を言いはじめたしんべヱを横目で見つつ、ふぅとため息をつく。
おれまで落ち込んだって仕方がないのは分かっている。だけど、盗賊に襲われたときだって強かった名前さんがあんな表情をするなんて……。命がけで守ってくれた人を心配するなと言われても、やっぱりそれは出来ない。上半身を起こして、うーんと伸びをする。
通りすぎる先輩たちをしばらく眺めていると、探していた人物が目に飛び込んできた。見間違いではないかと、ゴシゴシまぶたを擦る。
「あーっ!! おい、あれ見ろよ!」
「っ、なに!? ……そんな大声だして」
「きり丸〜、まだ眠いよぉ〜」
「土井先生だぜっ!」
二人を叩き起こすと、気づいたら駆け出していた。出張帰りの土井先生はいつもの私服姿で、おれを見つけると嬉しそうに笑っている。
「きり丸ー! 遅くなって悪かったなあ」
「土井先生っ!」
「ちゃんと山田先生の言うことを聞いてたか?」
「っ、先生!」
「……ん? なんだ?」
息を整えてから、昨日からの名前さんの様子を報告する。最初は柔らかかった先生の顔が、次第に眉間のしわを寄せたものになっていった。少ししてから乱太郎たちがやってきて、みんなで何が原因か頭を悩ませる。
「きり丸。……そもそも、昨日何があったのか教えてくれないか」
「えーっと、花房牧之助が……」
言いにくいことも洗いざらい白状した。
関係あるか分からないけれど、名前さんが食堂で言いかけた言葉も。ゲンコツが落とされるかと身構えるも、その代わりに大きなため息が落ちてきた。
「もしかしたら……お前たちが食堂で『大木先生のお嫁さんだって困ってる』と言ったのを、どこかで名前さんが聞いたんじゃないか?」
「え! たしかに名前さん、いつも食堂にいる時間だったかも……。おれは、『大木先生のお嫁さんだー!って言いふらして困ってる』っていったハズなんすけど……」
「どちらにせよ! ……悲しいがその可能性が高い」
「土井先生……。いいんすか?」
「良くはない! が、そんなに落ち込んでいるんだろう……?」
「はい、そりゃもう」
土井先生は「ゔぅ……」とうめく。胃のあたりを押さえながら何とか言葉を紡いでいる状態だ。
「学園長先生に出張の報告をしたら、私が名前さんに話を聞くから。お前たちは早く宿題をやりなさい……!」
「「「はーい……」」」
三人の、小さな後ろ姿がだんだん遠ざかっていく。それを見つめ立ち尽くすしか出来なかった。
出張から帰ってくると、きり丸が切羽詰まったように駆けてきて。危険な忍務ではなかったから心配することなどなく、いじらしいヤツだなんて思ったのに。
まったく予想していなかった話が始まり頭が混乱する。
名前さんの気持ち。
今まではっきり聞くことも、言われることもなく、自分からも告げたことはなかった。このぬるま湯のような状態に甘えていたのだ。
……いや、まだそうと決まったわけではない。
唇を噛みしめると、重い足取りで庵へ向かうのだった。
忍たま達がいないからか、しーんと静まりかえっている。
吉野先生から頼まれた、ちり紙の補充や障子の修理。小松田くんと力を合わせて終わらせ、夕飯の仕込みをするべくおばちゃんの元へと向かってみると――
「……あれ? 食堂のおばちゃん、どこにもいない」
調理場はもちろん、テーブルの下をのぞいてみても、勝手口やその向こうの井戸だって。まったく見当たらない。首をかしげつつ調理場横の小部屋を開けてみる。
そこには、珍しく昼寝するおばちゃんがいた。すやすやと穏やかな表情で横たわる姿に、そっと戸を閉める。音を立てずに台所を動き回り、野菜を洗ったり刻んだり……。ひたすら自分のできることを進めていった。
少し経ったころ、だれかの気配を感じてカウンター越しに食堂へ目をやる。山田先生が休憩にやってきたようだ。ふぅとため息をついて、疲れているように見える。お湯を沸かしてお茶を準備すると、先生へ湯呑みを差し出した。
「山田先生、お疲れさまです」
「名前くん、悪いねえ」
「ちょうどお茶請けもありましたので、ご一緒にどうぞっ」
「おおっ。そりゃありがたい」
お煎餅をいくつか乗せた皿をテーブルに置くと、先生は嬉しそうにあご髭をさすった。おぼんを握りながらポツリ尋ねる。
「今日は、土井先生をお見かけしてなくて……」
「突然、出張が入ってな」
「そうでしたか……」
「なぁに、心配することはない」
「はいっ。土井先生は一流の忍びですもんね」
山田先生に心の中を見透かされているようで恥ずかしい。少しおどけて返してみれば、先生もククッとのどを鳴らしていた。軽く頭を下げてから調理場に戻ると、ふたたび野菜の下ごしらえに取りかかる。
――ドタドタドタ
「山田先生〜っ!」
「なんだぁ? 乱太郎、きり丸、しんべヱ。そんなに慌てて」
入口から、大きな足音と焦った様子の三人の声が響き渡る。どうしたんだろう……? 耳はみんなの方に傾けつつ、大根をきざみ続けた。
「大木先生の畑に、野生の……」
「……荒ら…困って……んすよ!」
「美味しい…荒らす……ぼく、許せないっ!」
途切れ途切れに話し声が聞こえる。やっぱり、この前の不自然なカサカサは野生のイノシシやたぬきだったのかもしれない。私に何か出来ることはないかな……なんて頭を悩ます。
力になりたくて、畑の様子も心配で、三人に話を聞こうと包丁を置いた瞬間。勝手口から「お届け物でーす!」と男性の声が響いた。
濡れた手を割烹着で拭くと、早足で受け取りに向かう。今日は新鮮なお魚が届く予定だから……。夕飯は焼き魚定食か、それとも煮付けにしようか。忍たま達の喜ぶ顔を想像して、にこにこしながら配達の人に声をかけた。
……よいしょ、と。
魚が詰め込まれた重たい木箱を受け取り、小走りで調理場へと戻る。配達のお兄さんと世間話をしたにも関わらず、まだみんなの話し声が聞こえてきた。カウンターから食堂の様子をのぞくと、乱太郎くん達は山田先生と一緒だ。少し揉めているような、そんな様子にじっと耳をすませた。
「山田先生! 退治するの手伝ってくださいよー!」
「嫌なこった。……大木先生…捕まえたら……褒美を……言われたんだろうに」
「それは……なんすけど……」
「ほらみたことか!」
「戸部先生…断られ……です〜!」
「そりゃそうだろう」
「でも、山田先生の奥さんの……」
「な、なにぃ!?」
今度こそ……!
そう思って足を踏み出したとき。
思いがけない言葉が聞こえてきて動きが止まる。
「お願いしますよー! ……大木先生のお嫁さんだって…こまって……っすよ!」
「そりゃ許せん!」
山田先生が勢いよく立ち上がると、三人を引き連れて猛スピードで走り去ってしまった。
食堂に一人残され、ぼうぜんとする。
……大木先生の、お嫁さんって……?
そんなの、聞いたことない。
教えてもらったこともない。
以前ふざけて聞いた時に、有耶無耶にされたことを思い出す。それ以上は聞くなよ、と言われているような壁を感じて踏み込めなかった。
それなのに、乱太郎くんや山田先生達は、当然の事実かのような様子で。
私だけが知らなかったの……?
だから、は組のみんなは尊奈門さんを巻き込んで私と土井先生とくっ付けようと……?
雅之助さんだって、お嫁さんはいないって言ってたのに。うそ、だったのかな……?
震える手で湯呑みと菓子の皿を片付ける。全身から血の気がひいて、心臓がイヤな鼓動を繰り返していた。うまく呼吸ができない。空気を吸っても、肺に入った気がせず苦しくなるばかりだ。
頭の中はぐちゃぐちゃのまま、煮魚に使う長ネギの皮をむいてまな板へ並べる。いつも通りの手順で、根っこをすこし切り落とし、白い部分をザクッと切っていく。
土井先生に確認したいけれど……。
今は出張されているし、こんな話できるわけがない。そもそも、先生になんて言ったらいい?
「そんなことないさ」
そう、言って欲しいのかもしれない。優しさに甘えて、私はなんてずるい人間なんだろう。
もし恐れていたことが本当だと言われてしまったら。「じつは訳ありでお嫁さんがいるんだよ」なんて、まさかそんなこと……。怖くて怖くて、やっぱり聞けない。
ぼーっとする頭で包丁を握りなおすと、ちょうどおばちゃんが小部屋から出てきた。「あたしったら寝すぎちゃったわ!」と笑いながら支度するおばちゃんに、ぎこちなく応える。
悲しくて、不安で、怒りの気持ちとごちゃ混ぜだ。ほほがヒクついて目の前が歪んでいく。袖口で拭っても拭っても、次々と涙があふれて止まらない。
「あら、名前ちゃん大丈夫?」
「すみませんっ、煮付け用のネギが目に染みて」
「痛いわよねぇ」
なんとか平静を装って、いつも通りにすすめる。涙があふれ出そうになると、勝手口へ逃げるように走った。
きれいな空を見上げてみても、何も感じない。
こんな気持ちになるのは。
私、雅之助さんのこと……
心の奥の想いを認めたとたん、さらに苦しくなる。胸元を押さえ、精いっぱい声を我慢するのだった。
*
「いやー、腹減ったなあ! なあ、しんべヱ」
「ほんとー! もうペコペコ」
「でもきり丸。野生の牧之助、退治できてよかったじゃない」
「褒美はもらえなかったけどなー!」
「まあまあ……。わたし達は何もしてないし」
「そうそう! 牧之助が勝手に自滅しちゃったんだよね」
夕方。
おれは食堂へと続く廊下を乱太郎、しんべヱと歩いている。
たまたまバイトで杭瀬村を通ったとき、大木先生に「畑を荒らす花房牧之助を退治したら褒美をやる」と言われて。忍たまだけだと心細いから、無理やり山田先生に頼んだのだ。
イノシシ姿で畑を荒らしていた牧之助は、山田先生や後から駆けつけた戸部先生に叱られはしたものの……。いざ決闘になると自ら木にぶつかって倒れたのだ。
だから、褒美をもらえなかったんだけど。
「それにしても、きり丸〜。あの話、でまかせなのに嘘じゃなかったねぇ!」
「牧之助のやつ、本当に山田先生や大木先生のお嫁さんのフリして食い逃げしてたんだもんなー。ある意味助かったぜ」
「きりちゃんってば……。たしかに、本当だったけどさぁ」
乱太郎は眉を下げ、乾いた笑いを浮かべている。腰が重い山田先生を何とか杭瀬村に連れて行くため、嘘をついたのだ。さらに、名前さんのことまで巻き込んでしまった。
……牧之助が名前さんに扮し、大木先生のお嫁さんのフリをして大変な事になっている、と。
でも、本当だったのだ。
牧之助はどこで知ったのか名前さんの名を語って、団子を食い逃げしたと自白した。
「……あの時の大木先生の顔、みたか?」
「すーっごい、真っ赤な顔で怒ってたよね〜!」
「そりゃそうだよ、しんべヱ。名前さんを勝手に食い逃げ犯にしたんだもの」
「いや。でもなんだか嬉しそうだったぜ?」
ぜったい、名前さんがお嫁さんだと思われて顔がにやけていた。怒りながらも、その気持ちが漏れているのが感じられたのだ。
……土井先生も大木先生も、いい大人して分かりやすいんだから。
そんな話をしていると食堂に着いてしまった。中では、名前さんがぼんやりした疲れた顔で支度をしている。慌てて乱太郎、しんべヱを引っ張りおでこをくっつけた。
「……おい、二人とも。このことは、名前さんには内緒だぞ!」
「そーだねっ! ぼく秘密にする!」
「うん。名前さんが聞いたら大変だもんね」
三人で頷きあうと、元気いっぱいにカウンターへ向かった。
――夜
春とはいえ、日が落ちると昼間の暖かさは消え去り寒さが襲う。自室の布団の上にひざを抱え座り込むと、少しでも体温を上げようと二の腕をさすった。
こんなことになるなんて。
食堂の仕事は頭が真っ白のなか、なんとかこなしたけれど……。文机に置かれた白い鉢巻きを虚ろに眺める。
杭瀬村に帰ったとき。
雅之助さんはいつでも帰ってこい、って。お前の家みたいなもんだ、って。少年みたいな顔でそう言ってくれたのに。
出会った、最初の時から。
人の話を聞いていないようで、ちゃんと見ていてくれて。一緒にご飯を作っては笑い合って。無茶をしたときには、ばかもの!と叱ってくれて。危険な目にあうと必死に助けてくれる。
辛いときには、たくましい腕で優しく抱きしめてくれた。あの、人懐っこい笑顔が頭から離れない。
……どうしても、どうしても雅之助さんじゃなきゃだめなんだ。今になって、気持ちに気づくなんて自分が嫌になる。
この世界にいたいと願ったのは、忍術学園のみんなと離れたくないから。
だけど、一番は……?
心の中が露わになると、どうしようもなさに涙が止まらない。声を押し殺し目元をつよく擦る。
暗い部屋の中、いつまでもひざを抱えているのだった。
*
――朝日がさんさんと降りそそぐ気持ちの良い朝。
「おはよーございまっす! 名前さんっ」
「……お、おはよう。きり丸くん」
「何かあったんすか?」
「っ、ううん。何でもないよ。はいっ、朝ごはん」
名前さんは昨日の夜からどんより暗い顔をしていた。春らしい暖かい気温で、お天気だって晴れなのに。思い詰めたような表情にだんだんと心配になってくる。
「ええっ!? これ、ごはんが三つもあるんすけど!」
「ほんとだ……! ご、ごめんっ」
お味噌汁もおかずもない、白米だらけの朝食に深刻度が増す。後からやってきた乱太郎としんべヱと顔を見合わせた。
「名前さん、昨日から疲れてないっすか?」
「そ、そうかな……?」
「そうですよ! わたしたちに、何かできることありますか?」
「……乱太郎くん、ありがとう。あのね、きのう、みんなが大木先生の……」
「ぼく、おかずだらけなら大丈夫だよ〜!」
「「しんべヱ!!」」
「あはは、ごめーん……」
名前さんはおれらのやり取りを見て力なく笑っている。言いかけた言葉が気になったのに、後ろからきた上級生に急かされ仕方なくテーブルへ向かった。
かちゃりと定食を置いてご飯を口へはこぶ。味はいつも通り美味しんだけど……。悲しそうな名前さんが頭をよぎり、箸のすすみが遅くなる。
「きり丸食べないのー? ぼく食べてもいい?」
「だめに決まってるだろ! ……しんべヱったら」
「名前さんのこと、わたしたちで土井先生に相談してみない? ……出張から帰ってきてからだけど」
乱太郎と一緒に、遠目から名前さんを眺める。
やっぱりいつもの元気はなくて、なぜだかおれまで落ち込んでくる。
大木先生の……
なんて言おうとしたんだろう?
「乱太郎の言う通りだ。土井先生の帰りを待とう……!」
――カーン
午後の授業が終わり、半鐘の鋭い音が中庭に響き渡る。
「本日の授業はこれまで!」
「「「ありがとうございましたー!」」」
土井先生が帰ってこないから、午前も午後も山田先生だ。うずうずして、実技の道具を片付けている先生へ駆け寄った。
「山田先生!」
「なんだきり丸?」
「土井先生はまだお帰りにならないんですか?」
「少し遠くに行っているから、今日の夕方には帰ってくるだろう」
「……そうですか」
「土井先生のことだ。心配いらんよ」
「いえ、土井先生の心配じゃなくって……」
「ん?」
「何でもないっす! ……あ、乱太郎にしんべヱ! 待てよー!」
いぶかしそうな山田先生にぺこりと頭を下げ、先を歩く二人の元へと急いだ。
放課後、木かげになっている草原へ寝転がり空を見上げていた。柔らかな風が木の葉をゆらし心地よい音を奏でる。授業が終わったあとの楽しみだ。
「ねえ、きりちゃん」
「なんだー?」
「きりちゃんまで暗い顔してる」
「むにゃむにゃ……もう、ぼく食べられない……」
寝言を言いはじめたしんべヱを横目で見つつ、ふぅとため息をつく。
おれまで落ち込んだって仕方がないのは分かっている。だけど、盗賊に襲われたときだって強かった名前さんがあんな表情をするなんて……。命がけで守ってくれた人を心配するなと言われても、やっぱりそれは出来ない。上半身を起こして、うーんと伸びをする。
通りすぎる先輩たちをしばらく眺めていると、探していた人物が目に飛び込んできた。見間違いではないかと、ゴシゴシまぶたを擦る。
「あーっ!! おい、あれ見ろよ!」
「っ、なに!? ……そんな大声だして」
「きり丸〜、まだ眠いよぉ〜」
「土井先生だぜっ!」
二人を叩き起こすと、気づいたら駆け出していた。出張帰りの土井先生はいつもの私服姿で、おれを見つけると嬉しそうに笑っている。
「きり丸ー! 遅くなって悪かったなあ」
「土井先生っ!」
「ちゃんと山田先生の言うことを聞いてたか?」
「っ、先生!」
「……ん? なんだ?」
息を整えてから、昨日からの名前さんの様子を報告する。最初は柔らかかった先生の顔が、次第に眉間のしわを寄せたものになっていった。少ししてから乱太郎たちがやってきて、みんなで何が原因か頭を悩ませる。
「きり丸。……そもそも、昨日何があったのか教えてくれないか」
「えーっと、花房牧之助が……」
言いにくいことも洗いざらい白状した。
関係あるか分からないけれど、名前さんが食堂で言いかけた言葉も。ゲンコツが落とされるかと身構えるも、その代わりに大きなため息が落ちてきた。
「もしかしたら……お前たちが食堂で『大木先生のお嫁さんだって困ってる』と言ったのを、どこかで名前さんが聞いたんじゃないか?」
「え! たしかに名前さん、いつも食堂にいる時間だったかも……。おれは、『大木先生のお嫁さんだー!って言いふらして困ってる』っていったハズなんすけど……」
「どちらにせよ! ……悲しいがその可能性が高い」
「土井先生……。いいんすか?」
「良くはない! が、そんなに落ち込んでいるんだろう……?」
「はい、そりゃもう」
土井先生は「ゔぅ……」とうめく。胃のあたりを押さえながら何とか言葉を紡いでいる状態だ。
「学園長先生に出張の報告をしたら、私が名前さんに話を聞くから。お前たちは早く宿題をやりなさい……!」
「「「はーい……」」」
三人の、小さな後ろ姿がだんだん遠ざかっていく。それを見つめ立ち尽くすしか出来なかった。
出張から帰ってくると、きり丸が切羽詰まったように駆けてきて。危険な忍務ではなかったから心配することなどなく、いじらしいヤツだなんて思ったのに。
まったく予想していなかった話が始まり頭が混乱する。
名前さんの気持ち。
今まではっきり聞くことも、言われることもなく、自分からも告げたことはなかった。このぬるま湯のような状態に甘えていたのだ。
……いや、まだそうと決まったわけではない。
唇を噛みしめると、重い足取りで庵へ向かうのだった。