第51話 帰る場所
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金楽寺の事件からしばらく経ったある日。だいぶ寒さも和らぎ、ほほを掠める風も心なしか柔らかい。
「吉野先生。倉庫の帳簿、つけ終わりました!」
「ああ。名前くん、ありがとう。どれどれ……?」
吉野先生の部屋で、文机に向かい筆を走らせていた。月末の在庫を取りまとめ、必要な箇所を書き足してからパタパタと風を送り乾かす。
文机の前で書類と向き合う先生のもとへ近づき、邪魔にならないよう報告する。吉野先生は手を止め、筆を置いてからペラっと紙をめくり確認していく。不安そうに見つめると、先生の不思議な顔が少し緩んだ気がした。
「食満くんから、刃の欠けた手裏剣がいくつかあると報告を受けまして。数を修正しました。……読めますでしょうか」
「そうでしたね、しっかり付けてくれてありがとうございます。とっても読みやすいですよ」
「よかった……!」
「前とは大違いです」
学園で働き始めたとき。吉野先生を驚かせてしまうくらい字が下手だったのだ。たくさん練習したかいもあって、やっと褒められるくらいに上達した。先生が糸のような目を細めて、にこやかに頷いている。
「名前くんが正式に事務員になってくれて、本当に助かります。食堂の仕事もあるようですから、あまり無理をしないように」
「はい、お気遣いありがとうございます!」
*
食堂が慌ただしくなるお昼どき。
ぐつぐつ煮込む鍋からふわりと煮汁の甘い香りが立ち上り、食堂のおばちゃんと一緒に味見をする。
「うん、美味しくできてるわ!」
「やっぱり、おばちゃんの料理は最高ですっ」
「あら、ありがと! 名前ちゃんもずいぶん上手になったわよ。もう一人で任せてもいいくらい」
「働き始めたとき、頑張っておばちゃんの味を覚えようと思って。だから、美味しくできてたら嬉しいです」
おばちゃんの言葉に照れていると、向こうからガヤガヤ元気な声が飛び交っていた。
手を動かしながら、ここに雅之助さんに連れられやって来たことを思い出す。杭瀬村を離れ、一人で忍者の学校で生活するなんて、最初は心細くて仕方がなかった。けれど、学園のみんなに支えてもらって毎日忙しさと楽しさで過ぎ去っていったのだ。
いつも心の中で、あの豪快な笑顔を思い浮かべては気合を入れていた。少しでも成長した姿を見せたくて、褒めてほしくて……。週末、杭瀬村に帰ってみようかな。
「名前ちゃん、大丈夫? みんなにランチ渡していってちょうだい」
「あ、はいっ! すみません、ぼーっとしちゃって」
「まだ本調子じゃないのかしらねえ? ……辛かったらちゃんと言うのよ」
「大丈夫です! 元気いっぱいですから」
困った顔のおばちゃんを安心させるように、ニコッと笑顔を作る。忍たま達にランチを渡すべくカウンターへと向かった。
*
週末まであと数日。
うまくいけば、今週末こそ一年は組の補習授業を回避できるかもしれない。
山田先生と共に、教員長屋で新学期の授業計画を練っている。は組のやつらときたら、絶対に予定通り授業が進まないのだ。想像して胃が痛くなる。
名前さんが占い師に間違われ狙われていた事件は、ドクタケが戦意を喪失したせいで一段落ついた。タソガレドキもドクタケも、もう襲ってはこないだろう。
落ち着いたことだし……。
休みの日、名前さんを街へ誘ってみようか。なんて予定を思い浮かべると、少しだけ胃痛が和らぐ。
――カタッ
「山田先生、土井先生。名前です。少し、よろしいでしょうか」
「名前さんっ!? ど、どうぞ」
「半助、どうしたんだ?」
「先生方、やっぱりお忙しいですよね。私、改めますので」
「い、いや! 構わないよ。さあ座って」
彼女のことを考えていたら、ちょうどよく現れて慌ててしまう。山田先生も名前さんもクスクス笑って、なんとも居心地が悪い。場を仕切るように咳払いをすると、正座する名前さんに向き直った。
「山田先生に土井先生。今度の週末、外出を認めていただきたくて……」
「名前くん、そんなに堅くならなくても。なあ、土井先生?」
「え、ええ。そうですね。名前さん、どこへ行きたいんだい? 街で買い物なら、私も一緒に……」
「土井先生。街ではなくて、杭瀬村へ行こうと思ったんです」
同じことを考えていたのか……!?なんて浮き立つ気持ちが一瞬でしぼんでいく。外出と聞いて、てっきり二人で出掛けられると思ったのに、杭瀬村とは……。
うなだれていたからか、名前さんが心配そうに覗きこんでくる。胃の辺りを押さえながら無理やり笑顔を作ると、何でもない風をよそおった。
「大木先生のところかい?」
「はい。あれから、ちゃんと帰ってなかったですし、ケロちゃん達にも会いたいなって」
「いいじゃないか、ゆっくりして来るといい」
「山田先生、ありがとうございますっ。でもきっと、草むしりとかでこき使われますよ」
山田先生と二人して、冗談を言い合っては楽しそうにしている。その様子をぼんやり眺めていると、彼女がこちらに笑みを向けた。
「でも、名前さん一人でいくのは心配だ」
「いつも、何かしらに巻き込まれちゃって……。ごめんなさい」
「名前くんらしいがね」
みんなで苦笑していると、廊下からパタパタと幾つもの足音が響いてきた。その軽さと子どもの高い声から、あの三人だなと予想する。
「土井先生、みんなの宿題を持ってきましたー!」
ガラリと開けられた障子から、乱太郎達がたくさんのプリントを腕に抱えて入ってきた。今にもばらばらと落としそうな宿題を受け取ると、きり丸がすかさず名前さんに話しかける。
「名前さんもいたんっすね!」
「うん。先生方に、週末の外出について相談していたんだよ」
「もう街に行けるんっすか!? そしたら、バイトの手伝いを、ぜひ〜!」
「きり丸っ! 名前さんをアテにするんじゃない!」
「土井先生、ありがとうございます。でも、良いんです。私も楽しいのでっ」
「あひゃあひゃ! それじゃあ、さっそく……」
目を銭にしてよだれを垂らしながら喜ぶきり丸に、名前さんは「まあまあ……」なんて困り顔だ。杭瀬村に行くことを伝えてやると一気にがっくりしていた。
「乱太郎達も、名前くんに着いて行ったらどうだ? 農作業の体験学習になるだろう」
「「「ええーっ」」」
「山田先生。体力作りになりますし、良いですね! お前たち、頑張るんだぞ」
「みんな、よろしくね!」
心配は心配だが、この三人と一緒なら何とかなるだろう。何か言いたげな乱太郎達を、名前さんが優しく目を細めて見つめている。「はーい!」と元気な声と共に、三人が部屋を出ていく寸前。
どれどれ……と手元の宿題をペラっとめくる。そこにはとんちんかんな答えが延々と並び、クラクラめまいに襲われた。
……っ、何だこのめちゃくちゃな解答は……!
「三人とも待ちなさい! 宿題はやり直しだッ!」
「「「ひぇーっ」」」
「じゃあ、杭瀬村でお手伝いしてくれるお礼に……みんなの宿題見てあげるね!」
引きつった顔でこちらを振り返る乱太郎達に、名前さんが満面の笑みで呼びかけている。彼女に加勢するようにうんうんと深くうなずくと、顔を見合わせぷっと吹き出すのだった。
*
緑あふれるじゃり道が続き、細長い雲が青空に浮かぶ。上空にはつがいの鳥達が仲睦まじく飛び回り、さわやかな風が吹き抜けていく。
通販で買った紺色の袴をはいているからか、なんだか新鮮な気分だ。大きさもぴったり、通販は大成功でそれも心を弾ませた。
杭瀬村の畑を目の前に、乱太郎くん達と足を止める。その雄大さに、胸の中いっぱい空気を吸い込んだ。
急に来ちゃったけど、雅之助さん迷惑に思わないかな……? 久しぶりの杭瀬村に、うきうきした気持ちと少しの不安がいり混じって急に緊張してくる。ははは!と大きく口を開けながら、いつもみたいに喜んでくれたら良いんだけど……。
「名前さん、どうしたのー?」
「しんべヱくん。ちょっと考え事しちゃって」
「考え事ー?」
「急に来ちゃったから、今さらだけど大丈夫かなって」
「早く行きましょう! 大木先生、わたしたちが来ることきっと喜んでくれますって」
「野菜たっぷり貰わなきゃっす! それを売って……」
乱太郎くんとしんべヱくんに手を引かれ、その前を目を輝かせたきり丸くんが歩いている。急かされ、つんのめりそうになりながらも、小走りで雅之助さんのお家へ進んでいく。
広い畑を抜け、藁葺の屋根が見えてくると「どこんじょー!」という叫び声と共にカーンと軽い音が聞こえてきた。
「「「大木先生ー! こんにちはー!」」」
「おお、お前たち! それに名前まで、よく来たなあ!」
「急に会いたくなって、みんなと来ちゃいました」
「そうか! 嬉しいぞ」
パタパタと近くへ駆け寄る。雅之助さんは大きな斧を持って、薪割りの最中のようだ。家の前には割られた木材がたくさん転がっていた。作業の手を止め、少しうるさい声で応えてくれる。
迷惑かな……?なんて不安は杞憂に終わって、いつも通りの雅之助さんにホッと胸を撫で下ろした。
「大木先生。乱太郎くん達は体力作りの一環で、畑のお手伝いをするそうですよ」
「忍者は身体が強くないと務まらんからな! いい心がけだ」
「あのー、ちゃんとお手伝いするんで、美味しい野菜いっぱい頂いてもいいっすか?」
「もちろんだ! だが、しっかり耕すんだぞ」
「「「はーい!」」」
*
ザッザッザ――
先の刃が三つに分かれている鍬で畑を掘り、土を柔らかくする動きを繰り返していく。乱太郎くんたち三人とバラバラになって、それぞれ自分の任された場所で一所懸命に耕していた。
ときどき土の中に雑草や小さい木の枝が混じっているのを見つけ、しゃがみ込んで取り除く。手元に集中していると、急に後ろから話しかけられ驚きに息が止まる。
「どうだ、大丈夫か?」
「ま、雅之助さんっ! いま、雑草を取っているところです」
「助かる。鍬の使い方も様になってるぞ」
「いっぱいお手伝いしてますからね」
「ははは、そうだな」
雅之助さんも一緒に身体を小さくして並ぶと、ほぐした土の中にある石ころや草を見つけてはつまみ上げている。
「雅之助さん」
「なんだ?」
「突然来ちゃってごめんなさい」
「なんで謝る? 気にせずいつでも帰ってこいと言っただろう?」
「……はい」
「ここはお前の家みたいなもんだ!」
「そっか。……嬉しいです」
私の家、か。
元いた場所には、もう戻ることはできない。本当に独りぼっちになってしまった。
だからこそ雅之助さんの言葉が心の中に染み入って、胸の奥から何かが込み上げてくる。
……独りじゃない。帰る家があるんだ。
隣にしゃがむ大きな身体を見つめると、視線に気づいたのか優しく目尻を下げて笑ってくれた。その姿に、気持ちが落ち着くのと同時に照れ臭くなる。
私って雅之助さんにとってどんな存在なんだろう。
最初に拾った情から?
歳の離れた妹みたい、とか……?
まさか、お嫁さんとして……?
なんて、ないない。
あんなにからかって、何とも思ってない証拠だ。
そんなことがパッと浮かんで、勝手に悲しくなる。ぐい、と着物の袖で顔を拭うと、再び盛り上がった土から小枝や石を拾い上げた。
カサカサ……
ぴょこっと、手の甲に八本足の黒い塊が飛び込んできた。
「きゃあっ! ……く、クモっ!?」
「っ、おい!」
手をブンブン払いながら立ち上がろうとするも、足がもつれてバランスを崩してしまった。真横に倒れ込むと、雅之助さんに思い切りぶつかって……。
ぎゅっと目をつむると同時に、がっしりとした温もりに包まれる。転んだのに、痛くない。隠れるようにしがみつくと、そろりと背中に腕を回されて、少しずつイヤな動悸が治まってきた。
赤い着物に手をつき上半身を起こすと、下敷きになった雅之助さんがにんまり見上げてくる。目尻も口の端も緩んでだらしない顔だ。大の大人を押し倒し、あろうことか跨ってしまっている。その姿を自覚すると、かあっと恥ずかしさが襲ってたまらない。
「……あの! こ、これは、そのっ」
「なんじゃ? こういうのも、なかなか良いもんだ」
「ええっ!? っ、良くないですってば!」
「そうかあ?」
「乱太郎くんたちに見られたら……! は、離してくださいっ」
「……お前から抱きついてきたと言うのに」
「す、すみません……」
パッと体を端によけて、ひとまず雅之助さんの上から飛び退いた。虫に驚いたとはいえ、私からあんな大胆なことを………! 考えれば考えるほど顔が熱くなって、全身から汗が噴き出してくる。
雅之助さんは片手を地面について起き上がった。ボサボサと頭をかいて、わははといつも通りに笑って。
いつからだろう。
目があったり、一緒に笑ったり、身体が触れたり……。その度にどきんと心臓がうるさくなって、でも気持ちとは正反対の可愛くないことを言ってしまう。認めたくはないのに、素直になってしまいたい気もする。もう、どうしたら良いのか分からない。
はあ……とため息をついてから、気を取り直そうと立ち上がる。袴についた土を払っていると雅之助さんが何かを差し出してきた。
「ほれ、大根の種だ。しっかり植えてくれ」
「は、はいっ!」
次は、空気を含ませこんもりとした畝に種を植え付けていく作業だ。手渡された種を、教えてもらった通りに撒いていった。
「おいしく育つといいですね」
「夏前には収穫できるだろう。楽しみだ」
盛り上がった土を眺めて誇らしげだ。自然と二人してほほ笑み合うと、大きな手のひらにくしゃっと頭をかき混ぜられた。
「「「大木先生ー! 種まき終わりましたー!」」」
「うむ!三人ともご苦労だった」
「みんなお疲れさま!」
広い畑に散らばった乱太郎くんたちが、私たちのところへ集まってきた。ほほは土で茶色く汚れ、ひたいには玉の汗が光っている。
「お前たち。働いた分、たらふく飯でも食べていけ!」
「わぁい! ぼくお腹ぺこぺこだったの」
「しんべヱはいつものことだろー?」
「まぁまあ、きりちゃん」
――ガサガサガサ
遠くの方に植えてある、野菜の葉がさわさわと不自然に揺れる。
みんなで一斉に視線を向け、目を凝らす。たぬきか、野生動物がお腹を空かせて食べにきているのだろうか。
「大木先生。いま、あそこが動いた気がするんすけど……」
「ああ、少し前から見かけるんだ。手を打たんとな」
「ねぇねぇ! 早くご飯食べようよー!」
「そうだね。おにぎりと、煮物と……ラッキョ漬けにしよっか」
「「「やったー!」」」
しんべヱくんが、ググーッとひときわ大きなお腹の音を鳴らして根を上げている。黒々とした頭をぽんと撫でると、乱太郎くん達に目を向ける。雅之助さんも大きな口を開けて喜んで、まるで子どもみたいだ。
不思議な音がした方を振り返りつつも、茅葺き屋根のお家へと駆けていった。
*
帰り際。
カゴに野菜を詰め込んで、よいしょと背負う。肩にずっしり食い込む重さにぐらっとふらつく。負けないよう、しっかり足裏で地面を踏みしめた。
「おおっと、名前。大丈夫か?」
「大木先生、ちょっとよろけただけですから。大丈夫です」
「お前の大丈夫は信用ならん」
雅之助さんにカゴを支えてもらって体勢を整えると、土間から表へ進んでいく。少し離れたところに乱太郎くん達が歩いていた。遠巻きに三人を眺めつつ、ぽつぽつと話しを続けた。
「なんだか、お手伝い以上に野菜をいただいちゃいましたね」
「かまわん」
「畑仕事をしてご飯を食べて。この後は、みんなと街で野菜売りです!」
「慌ただしいな。もっとゆっくりすればいいのに、お前ってやつは……」
腰に手を当て、雅之助さんに少し困ったように笑っていた。春の柔らかい風が鉢巻きの端っこをなびかせ、その揺らめきをぼんやり見つめる。
「名前さーん! 早く街に行かないと野菜売れなくなるんで! 急いでもらっていいっすかー?」
「ごめーん! 今行きますっ!」
遠くから、目を銭にしたきり丸くんに急かされ、大きく手を振り応えた。走り出そうと足を踏み出して……、そのまま立ち止まる。
……ほんの少しだけ、自覚し始めたこの気持ちを伝えたくて。振り返って、うんと背の高い彼を見上げた。
「こんどは……私ひとりで帰ろうかなっ」
雅之助さんは珍しく、少し驚いたような顔をしている。それからすぐに嬉しそうに笑うと、口の端から尖った歯がチラッとのぞく。
自分で言って、恥ずかしい。
熱くなったほほを隠すように手のひらで覆うと、三人の元へ急ぐのだった。
「吉野先生。倉庫の帳簿、つけ終わりました!」
「ああ。名前くん、ありがとう。どれどれ……?」
吉野先生の部屋で、文机に向かい筆を走らせていた。月末の在庫を取りまとめ、必要な箇所を書き足してからパタパタと風を送り乾かす。
文机の前で書類と向き合う先生のもとへ近づき、邪魔にならないよう報告する。吉野先生は手を止め、筆を置いてからペラっと紙をめくり確認していく。不安そうに見つめると、先生の不思議な顔が少し緩んだ気がした。
「食満くんから、刃の欠けた手裏剣がいくつかあると報告を受けまして。数を修正しました。……読めますでしょうか」
「そうでしたね、しっかり付けてくれてありがとうございます。とっても読みやすいですよ」
「よかった……!」
「前とは大違いです」
学園で働き始めたとき。吉野先生を驚かせてしまうくらい字が下手だったのだ。たくさん練習したかいもあって、やっと褒められるくらいに上達した。先生が糸のような目を細めて、にこやかに頷いている。
「名前くんが正式に事務員になってくれて、本当に助かります。食堂の仕事もあるようですから、あまり無理をしないように」
「はい、お気遣いありがとうございます!」
*
食堂が慌ただしくなるお昼どき。
ぐつぐつ煮込む鍋からふわりと煮汁の甘い香りが立ち上り、食堂のおばちゃんと一緒に味見をする。
「うん、美味しくできてるわ!」
「やっぱり、おばちゃんの料理は最高ですっ」
「あら、ありがと! 名前ちゃんもずいぶん上手になったわよ。もう一人で任せてもいいくらい」
「働き始めたとき、頑張っておばちゃんの味を覚えようと思って。だから、美味しくできてたら嬉しいです」
おばちゃんの言葉に照れていると、向こうからガヤガヤ元気な声が飛び交っていた。
手を動かしながら、ここに雅之助さんに連れられやって来たことを思い出す。杭瀬村を離れ、一人で忍者の学校で生活するなんて、最初は心細くて仕方がなかった。けれど、学園のみんなに支えてもらって毎日忙しさと楽しさで過ぎ去っていったのだ。
いつも心の中で、あの豪快な笑顔を思い浮かべては気合を入れていた。少しでも成長した姿を見せたくて、褒めてほしくて……。週末、杭瀬村に帰ってみようかな。
「名前ちゃん、大丈夫? みんなにランチ渡していってちょうだい」
「あ、はいっ! すみません、ぼーっとしちゃって」
「まだ本調子じゃないのかしらねえ? ……辛かったらちゃんと言うのよ」
「大丈夫です! 元気いっぱいですから」
困った顔のおばちゃんを安心させるように、ニコッと笑顔を作る。忍たま達にランチを渡すべくカウンターへと向かった。
*
週末まであと数日。
うまくいけば、今週末こそ一年は組の補習授業を回避できるかもしれない。
山田先生と共に、教員長屋で新学期の授業計画を練っている。は組のやつらときたら、絶対に予定通り授業が進まないのだ。想像して胃が痛くなる。
名前さんが占い師に間違われ狙われていた事件は、ドクタケが戦意を喪失したせいで一段落ついた。タソガレドキもドクタケも、もう襲ってはこないだろう。
落ち着いたことだし……。
休みの日、名前さんを街へ誘ってみようか。なんて予定を思い浮かべると、少しだけ胃痛が和らぐ。
――カタッ
「山田先生、土井先生。名前です。少し、よろしいでしょうか」
「名前さんっ!? ど、どうぞ」
「半助、どうしたんだ?」
「先生方、やっぱりお忙しいですよね。私、改めますので」
「い、いや! 構わないよ。さあ座って」
彼女のことを考えていたら、ちょうどよく現れて慌ててしまう。山田先生も名前さんもクスクス笑って、なんとも居心地が悪い。場を仕切るように咳払いをすると、正座する名前さんに向き直った。
「山田先生に土井先生。今度の週末、外出を認めていただきたくて……」
「名前くん、そんなに堅くならなくても。なあ、土井先生?」
「え、ええ。そうですね。名前さん、どこへ行きたいんだい? 街で買い物なら、私も一緒に……」
「土井先生。街ではなくて、杭瀬村へ行こうと思ったんです」
同じことを考えていたのか……!?なんて浮き立つ気持ちが一瞬でしぼんでいく。外出と聞いて、てっきり二人で出掛けられると思ったのに、杭瀬村とは……。
うなだれていたからか、名前さんが心配そうに覗きこんでくる。胃の辺りを押さえながら無理やり笑顔を作ると、何でもない風をよそおった。
「大木先生のところかい?」
「はい。あれから、ちゃんと帰ってなかったですし、ケロちゃん達にも会いたいなって」
「いいじゃないか、ゆっくりして来るといい」
「山田先生、ありがとうございますっ。でもきっと、草むしりとかでこき使われますよ」
山田先生と二人して、冗談を言い合っては楽しそうにしている。その様子をぼんやり眺めていると、彼女がこちらに笑みを向けた。
「でも、名前さん一人でいくのは心配だ」
「いつも、何かしらに巻き込まれちゃって……。ごめんなさい」
「名前くんらしいがね」
みんなで苦笑していると、廊下からパタパタと幾つもの足音が響いてきた。その軽さと子どもの高い声から、あの三人だなと予想する。
「土井先生、みんなの宿題を持ってきましたー!」
ガラリと開けられた障子から、乱太郎達がたくさんのプリントを腕に抱えて入ってきた。今にもばらばらと落としそうな宿題を受け取ると、きり丸がすかさず名前さんに話しかける。
「名前さんもいたんっすね!」
「うん。先生方に、週末の外出について相談していたんだよ」
「もう街に行けるんっすか!? そしたら、バイトの手伝いを、ぜひ〜!」
「きり丸っ! 名前さんをアテにするんじゃない!」
「土井先生、ありがとうございます。でも、良いんです。私も楽しいのでっ」
「あひゃあひゃ! それじゃあ、さっそく……」
目を銭にしてよだれを垂らしながら喜ぶきり丸に、名前さんは「まあまあ……」なんて困り顔だ。杭瀬村に行くことを伝えてやると一気にがっくりしていた。
「乱太郎達も、名前くんに着いて行ったらどうだ? 農作業の体験学習になるだろう」
「「「ええーっ」」」
「山田先生。体力作りになりますし、良いですね! お前たち、頑張るんだぞ」
「みんな、よろしくね!」
心配は心配だが、この三人と一緒なら何とかなるだろう。何か言いたげな乱太郎達を、名前さんが優しく目を細めて見つめている。「はーい!」と元気な声と共に、三人が部屋を出ていく寸前。
どれどれ……と手元の宿題をペラっとめくる。そこにはとんちんかんな答えが延々と並び、クラクラめまいに襲われた。
……っ、何だこのめちゃくちゃな解答は……!
「三人とも待ちなさい! 宿題はやり直しだッ!」
「「「ひぇーっ」」」
「じゃあ、杭瀬村でお手伝いしてくれるお礼に……みんなの宿題見てあげるね!」
引きつった顔でこちらを振り返る乱太郎達に、名前さんが満面の笑みで呼びかけている。彼女に加勢するようにうんうんと深くうなずくと、顔を見合わせぷっと吹き出すのだった。
*
緑あふれるじゃり道が続き、細長い雲が青空に浮かぶ。上空にはつがいの鳥達が仲睦まじく飛び回り、さわやかな風が吹き抜けていく。
通販で買った紺色の袴をはいているからか、なんだか新鮮な気分だ。大きさもぴったり、通販は大成功でそれも心を弾ませた。
杭瀬村の畑を目の前に、乱太郎くん達と足を止める。その雄大さに、胸の中いっぱい空気を吸い込んだ。
急に来ちゃったけど、雅之助さん迷惑に思わないかな……? 久しぶりの杭瀬村に、うきうきした気持ちと少しの不安がいり混じって急に緊張してくる。ははは!と大きく口を開けながら、いつもみたいに喜んでくれたら良いんだけど……。
「名前さん、どうしたのー?」
「しんべヱくん。ちょっと考え事しちゃって」
「考え事ー?」
「急に来ちゃったから、今さらだけど大丈夫かなって」
「早く行きましょう! 大木先生、わたしたちが来ることきっと喜んでくれますって」
「野菜たっぷり貰わなきゃっす! それを売って……」
乱太郎くんとしんべヱくんに手を引かれ、その前を目を輝かせたきり丸くんが歩いている。急かされ、つんのめりそうになりながらも、小走りで雅之助さんのお家へ進んでいく。
広い畑を抜け、藁葺の屋根が見えてくると「どこんじょー!」という叫び声と共にカーンと軽い音が聞こえてきた。
「「「大木先生ー! こんにちはー!」」」
「おお、お前たち! それに名前まで、よく来たなあ!」
「急に会いたくなって、みんなと来ちゃいました」
「そうか! 嬉しいぞ」
パタパタと近くへ駆け寄る。雅之助さんは大きな斧を持って、薪割りの最中のようだ。家の前には割られた木材がたくさん転がっていた。作業の手を止め、少しうるさい声で応えてくれる。
迷惑かな……?なんて不安は杞憂に終わって、いつも通りの雅之助さんにホッと胸を撫で下ろした。
「大木先生。乱太郎くん達は体力作りの一環で、畑のお手伝いをするそうですよ」
「忍者は身体が強くないと務まらんからな! いい心がけだ」
「あのー、ちゃんとお手伝いするんで、美味しい野菜いっぱい頂いてもいいっすか?」
「もちろんだ! だが、しっかり耕すんだぞ」
「「「はーい!」」」
*
ザッザッザ――
先の刃が三つに分かれている鍬で畑を掘り、土を柔らかくする動きを繰り返していく。乱太郎くんたち三人とバラバラになって、それぞれ自分の任された場所で一所懸命に耕していた。
ときどき土の中に雑草や小さい木の枝が混じっているのを見つけ、しゃがみ込んで取り除く。手元に集中していると、急に後ろから話しかけられ驚きに息が止まる。
「どうだ、大丈夫か?」
「ま、雅之助さんっ! いま、雑草を取っているところです」
「助かる。鍬の使い方も様になってるぞ」
「いっぱいお手伝いしてますからね」
「ははは、そうだな」
雅之助さんも一緒に身体を小さくして並ぶと、ほぐした土の中にある石ころや草を見つけてはつまみ上げている。
「雅之助さん」
「なんだ?」
「突然来ちゃってごめんなさい」
「なんで謝る? 気にせずいつでも帰ってこいと言っただろう?」
「……はい」
「ここはお前の家みたいなもんだ!」
「そっか。……嬉しいです」
私の家、か。
元いた場所には、もう戻ることはできない。本当に独りぼっちになってしまった。
だからこそ雅之助さんの言葉が心の中に染み入って、胸の奥から何かが込み上げてくる。
……独りじゃない。帰る家があるんだ。
隣にしゃがむ大きな身体を見つめると、視線に気づいたのか優しく目尻を下げて笑ってくれた。その姿に、気持ちが落ち着くのと同時に照れ臭くなる。
私って雅之助さんにとってどんな存在なんだろう。
最初に拾った情から?
歳の離れた妹みたい、とか……?
まさか、お嫁さんとして……?
なんて、ないない。
あんなにからかって、何とも思ってない証拠だ。
そんなことがパッと浮かんで、勝手に悲しくなる。ぐい、と着物の袖で顔を拭うと、再び盛り上がった土から小枝や石を拾い上げた。
カサカサ……
ぴょこっと、手の甲に八本足の黒い塊が飛び込んできた。
「きゃあっ! ……く、クモっ!?」
「っ、おい!」
手をブンブン払いながら立ち上がろうとするも、足がもつれてバランスを崩してしまった。真横に倒れ込むと、雅之助さんに思い切りぶつかって……。
ぎゅっと目をつむると同時に、がっしりとした温もりに包まれる。転んだのに、痛くない。隠れるようにしがみつくと、そろりと背中に腕を回されて、少しずつイヤな動悸が治まってきた。
赤い着物に手をつき上半身を起こすと、下敷きになった雅之助さんがにんまり見上げてくる。目尻も口の端も緩んでだらしない顔だ。大の大人を押し倒し、あろうことか跨ってしまっている。その姿を自覚すると、かあっと恥ずかしさが襲ってたまらない。
「……あの! こ、これは、そのっ」
「なんじゃ? こういうのも、なかなか良いもんだ」
「ええっ!? っ、良くないですってば!」
「そうかあ?」
「乱太郎くんたちに見られたら……! は、離してくださいっ」
「……お前から抱きついてきたと言うのに」
「す、すみません……」
パッと体を端によけて、ひとまず雅之助さんの上から飛び退いた。虫に驚いたとはいえ、私からあんな大胆なことを………! 考えれば考えるほど顔が熱くなって、全身から汗が噴き出してくる。
雅之助さんは片手を地面について起き上がった。ボサボサと頭をかいて、わははといつも通りに笑って。
いつからだろう。
目があったり、一緒に笑ったり、身体が触れたり……。その度にどきんと心臓がうるさくなって、でも気持ちとは正反対の可愛くないことを言ってしまう。認めたくはないのに、素直になってしまいたい気もする。もう、どうしたら良いのか分からない。
はあ……とため息をついてから、気を取り直そうと立ち上がる。袴についた土を払っていると雅之助さんが何かを差し出してきた。
「ほれ、大根の種だ。しっかり植えてくれ」
「は、はいっ!」
次は、空気を含ませこんもりとした畝に種を植え付けていく作業だ。手渡された種を、教えてもらった通りに撒いていった。
「おいしく育つといいですね」
「夏前には収穫できるだろう。楽しみだ」
盛り上がった土を眺めて誇らしげだ。自然と二人してほほ笑み合うと、大きな手のひらにくしゃっと頭をかき混ぜられた。
「「「大木先生ー! 種まき終わりましたー!」」」
「うむ!三人ともご苦労だった」
「みんなお疲れさま!」
広い畑に散らばった乱太郎くんたちが、私たちのところへ集まってきた。ほほは土で茶色く汚れ、ひたいには玉の汗が光っている。
「お前たち。働いた分、たらふく飯でも食べていけ!」
「わぁい! ぼくお腹ぺこぺこだったの」
「しんべヱはいつものことだろー?」
「まぁまあ、きりちゃん」
――ガサガサガサ
遠くの方に植えてある、野菜の葉がさわさわと不自然に揺れる。
みんなで一斉に視線を向け、目を凝らす。たぬきか、野生動物がお腹を空かせて食べにきているのだろうか。
「大木先生。いま、あそこが動いた気がするんすけど……」
「ああ、少し前から見かけるんだ。手を打たんとな」
「ねぇねぇ! 早くご飯食べようよー!」
「そうだね。おにぎりと、煮物と……ラッキョ漬けにしよっか」
「「「やったー!」」」
しんべヱくんが、ググーッとひときわ大きなお腹の音を鳴らして根を上げている。黒々とした頭をぽんと撫でると、乱太郎くん達に目を向ける。雅之助さんも大きな口を開けて喜んで、まるで子どもみたいだ。
不思議な音がした方を振り返りつつも、茅葺き屋根のお家へと駆けていった。
*
帰り際。
カゴに野菜を詰め込んで、よいしょと背負う。肩にずっしり食い込む重さにぐらっとふらつく。負けないよう、しっかり足裏で地面を踏みしめた。
「おおっと、名前。大丈夫か?」
「大木先生、ちょっとよろけただけですから。大丈夫です」
「お前の大丈夫は信用ならん」
雅之助さんにカゴを支えてもらって体勢を整えると、土間から表へ進んでいく。少し離れたところに乱太郎くん達が歩いていた。遠巻きに三人を眺めつつ、ぽつぽつと話しを続けた。
「なんだか、お手伝い以上に野菜をいただいちゃいましたね」
「かまわん」
「畑仕事をしてご飯を食べて。この後は、みんなと街で野菜売りです!」
「慌ただしいな。もっとゆっくりすればいいのに、お前ってやつは……」
腰に手を当て、雅之助さんに少し困ったように笑っていた。春の柔らかい風が鉢巻きの端っこをなびかせ、その揺らめきをぼんやり見つめる。
「名前さーん! 早く街に行かないと野菜売れなくなるんで! 急いでもらっていいっすかー?」
「ごめーん! 今行きますっ!」
遠くから、目を銭にしたきり丸くんに急かされ、大きく手を振り応えた。走り出そうと足を踏み出して……、そのまま立ち止まる。
……ほんの少しだけ、自覚し始めたこの気持ちを伝えたくて。振り返って、うんと背の高い彼を見上げた。
「こんどは……私ひとりで帰ろうかなっ」
雅之助さんは珍しく、少し驚いたような顔をしている。それからすぐに嬉しそうに笑うと、口の端から尖った歯がチラッとのぞく。
自分で言って、恥ずかしい。
熱くなったほほを隠すように手のひらで覆うと、三人の元へ急ぐのだった。