第50話 もう一度
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
厳しい寒さがすこし薄らいで、梅の花がぽつぽつ開いている。授業中だからか非常に静かだ。小鳥のさえずりが医務室の中まで届き、なんとも平和だった。
名前が金楽寺で倒れたのが数日前。
彼女は医務室に敷かれた布団に横たわったまま、目を覚さずにいる。
――あの時。
名前が叫んで倒れ込んだ瞬間。地面に叩きつけられないように抱きかかえ、ぎゅっと小さな身体を包み込むと、彼女は力なくほほ笑んだのだ。手を伸ばそうとしたのか僅かに指先が動いて、そのままだらりと弛緩した。
あれから、畑仕事とラビちゃん達の世話を済ませると忍術学園へ通う日々だ。幾度、往復しただろうか。すやすやと穏やかな顔で、静かに呼吸を繰り返す名前の姿をそばでじっと眺める。
土井先生や山田先生も授業の合間に医務室に来ては、心配そうに新野先生へ容態を尋ねていた。時折り忍たまたちがやって来て、つい立ての向こうにいる名前を気にしているようだ。保健委員も代わる代わる付き添っていた。
「大木先生、ずっと付きっきりでお疲れでしょう?」
「新野先生、邪魔でしたらすみません。名前が気になってしまいまして」
「そんなことはないですよ。……まだ、起きないですか」
「ええ。どこんじょー!と言ってやりたいところです」
「豪快な先生らしいですね。大きな傷も無いですし、気を失っているだけだと思いますが……。ご無理なさらないように」
あまりにも医務室に入り浸るからか、新野先生が困ったように笑っていた。ちら、と名前の様子を確認してから薬の置かれた文机に座り直し、再び書き物を続ける。そんな新野先生の気配を遠くに感じつつ、もう一度彼女を見つめる。
「おい、名前。はよ起きんか。……心配でたまらんじゃないか」
*
真っ暗闇の中。
くしゃみをしたあと、目の前が暗くなって……。身体は地面に打ちつけられることなく、がっしりとした温かい感触に受け止められた。なぜだか、全てが丸く収まった気がして、安堵に包まれ意識がなくなったのだ。それから、不思議な夢を見て……。
すぐ近くで私を呼ぶ声が聞こえる。
聞き慣れた、低くて、少しうるさくて、人懐っこい大好きな声だ。
どうしても、またひと目会いたくて、胸の奥がぐっと掴まれたように苦しくなる。
必死に呼びかけようとしても、喉から声が出てこない。想いが込み上げて目頭が熱くなる。そのうち、ぽろりと涙がこぼれていった。
「……名前! どうした、なんとか言え!」
「……っ、」
がくがくと身体を揺すぶられ、へばり付いたように重いまぶたをこじ開ける。
そこには、明るい茶色のボサボサ頭に鉢巻きを締めた雅之助さんがいた。余裕のない表情でこちらを見つめ、がしっと肩を掴まれて少し痛い。
「名前っ! 大丈夫か……!?」
「……ま、まさのすけ、さん……」
また会えた。
嬉しさが込み上げて、涙が溢れて止まらない。うまく舌が回らず、声も掠れたまま。思い切りその太い首に腕を巻きつけ、縋るようにぎゅっと抱きつく。それに応えるかのように、背中に手を回され掻き抱かれた。
たくましい身体に包まれて、安堵で顔がぐしゃぐしゃだ。土っぽさとラッキョの香りがふわりと漂って、その懐かしさに胸の奥がじんとする。
「名前さん、目が覚めましたか!」
「新野先生っ……! ご心配をおかけしました」
「どこか痛むところはありませんか? 苦しいとか、おかしなところは……」
「はい……大丈夫です」
つい立ての向こうからバタバタと新野先生がやって来て、とても焦っている姿に申し訳なくなる。ここは医務室なんだ……! 慌てて雅之助さんから離れると、涙を手の甲でぬぐい寝巻きの衿もとを正した。
「それは良かったです! では学園長先生に報告してきますね」
「すみませんな、よろしく頼みます」
カタンと戸を閉める音が耳に届く。
新野先生の後ろ姿を見送ると、あぐらをかいた雅之助さんが真面目な顔をしている。整った顔をぼんやり見つめれば、お互いの視線がかち合う。その空気を破ろうと咄嗟に口を開くも、すんなり言葉が出ずに咳き込んでしまった。
「っ、けほっ、……」
「ほれ、水だ。飲みなさい」
「……ありがとうございます」
背中を支えられながら、湯呑みの水をこくこくと飲み干す。乾いた身体に潤いがすーっと吸い込まれ全身に染み渡った。
「あの、みんなは……? ケガなどされなかったですか」
「心配いらん。お前が倒れた後、ドクタケが一斉に退散したんだ」
「そう、だんったんですか。……お札、燃やしてしまってごめんなさい」
「貴重なものだから、高くつくぞー?」
「ど、どうしよう」
「なんてな! 大丈夫だ、学園長先生がなんとかしてくれるだろう」
いたずらっ子みたいに笑って、頭をわしわしとかき混ぜられる。こんな時なのに、やめて下さいってば!なんてやり取りに心がほぐれていった。
「雅之助さん。じつは、不思議な夢をみたんです」
「……というと?」
柔らかな雰囲気のなか、記憶が消えてしまわぬうちに伝えなきゃ、と唐突に切り出す。眉をひそめた雅之助さんが低い声で続きを促した。
「最初に、雅之助さんに会った時の、あの不思議な格好で……」
「そうだ! 不思議な格好で思い出したんだが……、お前に言わなきゃならんことがある」
「え……?」
「名前の身につけていたものが跡形もなく消えてしまったんだ。あの変な衣も、四角い箱みたいなものも」
「そ、そんなこと……!」
「お前まで消えてしまうかと焦ったぞ。でも、消えなかった」
「なんでだろう……?」
「心当たりはあるか?」
「私だけ……」
「うむ」
「あっ! ……もしかして、これかもしれません!」
掛け布団をぱっと捲り、寝巻きのすそをバサリと広げる。太ももにくるくる巻かれた白い鉢巻きを解いて、ひらりと落ちた紙切れをつまんだ。大事な"おまじない"だから、誰にも見られないところに隠していたのだ。
「お、おいっ名前! お前、急に何を……!?」
「え、あのっ、これは……! 誰にもバレないように身につけなきゃと思って」
太ももが露わになった姿を認識すると、自分でしたことなのに恥ずかしくて顔が熱くなる。なんて大胆なことをしてしまったんだろう。必死にすそを元に戻すと、気まずさに体を縮こめた。
「まったく、お前というやつは困ったもんだ」
「でも、雅之助さん。顔がにやけてますっ」
「言ってくれるな」
心なしか頬を染めた雅之助さんがおかしくて。いつものやり取りにクスッとしていると握った紙の存在を思い出し、彼に手渡した。
「そんしょうだらに、というおまじないです。ご存じですか……?」
「ああ、もちろんだ。災難から身を守るというものだが……」
「このおまじないの力だったりして」
「……なるほど。不思議なことだらけだ。そうあってもおかしくは無いか」
ぽんと頭に大きな手をおかれ、はははと笑った口元からは尖った歯がのぞいた。突拍子もない話なのに受け止めてくれる。その人懐っこい顔に嬉しくなって、私までつられて口元がゆるんでしまうのだ。
――ガタン
「名前さんっ!」
大きな声と共に、土井先生と山田先生そして新野先生が医務室へやってきた。つい立てを越えて、布団のヘリに正座する土井先生たちに頭を下げた。
「土井先生に山田先生……! ご迷惑をおかけしました」
「名前くんが無事で何よりだ。学園長も安心しておられた」
「君に何かあったらと気が気じゃなかったよ」
こげ茶色の長い前髪が揺れ、大きな瞳を細めている。土井先生が確かめるように手を握るから、大丈夫と伝わるようにしっかり頷いた。
「……はい、これ。落ちていたよ」
「これは……! 見つけてくれて、ありがとうございます」
「魔界之先生のおかげでもあるんだ」
「魔界之せんせ……?」
浅葱色の巾着を受け取る。少し泥のついたそれを手の中にぎゅっと握りしめると、土井先生が優しく目を細めた。
「名前さんは目覚めたばかりで辛いかな? 学園長先生に医務室へ来てもらうのは後にしましょうかね」
「新野先生。先ほどお水をいただいて落ち着きました。ぜひ、庵へ向かわせてください」
「は、はあ。無理は禁物ですよ」
しっかりと新野先生に視線を合わせると、先生は根負けしたのか苦笑いをこぼす。
寝巻きの上に藤色の着物を羽織り、よろけながらも立ち上がる。雅之助さんと土井先生に支えられながらそろりと足を踏み出した。
*
庵へと続く廊下を一歩ずつ歩いていく。
すれ違う忍たま達が、口々に「体調は大丈夫ですか?!」なんて不安そうに声をかけてくれた。
心配させたことを謝りながら、もう大丈夫!なんてカラ元気で答える。幸い複雑な事情は知られておらず、買い出しの途中に倒れた、と言うことになっているようだった。
付き添ってくれている土井先生たちがうまく収めて進んでいく。久しぶりに足を動かしたからか、もつれそうになると手を差し伸べて助けてくれた。
庵では、学園長先生とヘムヘムが掛け軸の前に正座している。深く頭を下げてから中へと進み、雅之助さんたちも私の後に続いた。
「名前ちゃんや。何はともあれ無事でよかった!」
「ヘム、ヘムヘムー!」
「学園長先生にヘムヘム。この度はご心配をおかけしました。でも、もうこの通りですから」
「うむ。あんなことがあったばかりじゃ。無理はするでないぞ」
気遣う学園長先生へガッツポーズをしてみせる。私の様子に、たっぷりとした白い眉を下げてヘムヘムと頷き合っていた。
「あの、学園長先生。……貴重なお札を燃やしてしまい、申し訳ありませんでした」
「あんな事になっては、燃やすしかないじゃろうて。わしから和尚さまに話したんだがの、寺を破壊されなくて良かったと言っておった」
「……ありがとうございます」
「それにしても、名前ちゃんが倒れた後不思議なことが起こったんじゃが」
「不思議なこと……ですか?」
「君がくしゃみをして倒れたあと、ドクタケ一味が一斉に武器を投げ捨てて帰ってしまったんだ」
「何しに来たんだっけー? なんて、とぼけた事を言ってたんだぞ? 名前が叫んだ通り、忍術学園に手を出さずに終わった」
「ええっ……!?」
「名前ちゃんが叫んだこと。理由は分からんが、それが願いとして通じたのかもしれないのう」
両隣の土井先生と雅之助さんがこちらに体を向け、あの後のことを教えてくれた。山田先生も同意するようにあご髭を撫でつけている。
願い……。
お札へ、ふつうにお願いしてもダメだったのだ。それなのに叶ったというのは……。
もし、くしゃみのせいだったら。だとしたら、ここへ来た時の夢とも通ずる。あの夢の内容を思い出して、全身にぶわっと汗が吹き出すようだ。
――忍者に会いたい。
そんな子どもじみたお願いが気恥ずかしくて、こめかみの当たりをくしゃりと掻いた。
「名前、さっきから変な顔をしてどうしたんだ?」
「そ、それは……! なぜここにやって来たのか……思い出したから、です」
「「「……えっ!?」」」
先生達がすごい勢いで身を乗り出してくるから圧倒されてしまった。おずおずと、金楽寺で倒れた後に見た夢を説明する。
……庵が沈黙に包まれ居心地が悪い。
「み、みなさん、そんな顔しないでください……! 忍者の和尚さまがいたお寺だと聞いたら、会いたいなって思ってしまって」
「ははは……名前さんらしいね」
「お前、そんな理由でここに来たのか!?」
「す、すみません……。その時も、やっぱりくしゃみをしてまして」
「くしゃみが引き金になったということか。そんなおかしな話があるかねえ」
「山田先生。本当に、私も信じられないのですが……でも、それしか思い当たらなくて」
半信半疑なのももっともだ。自分でもきつねにつままれたかのようなのに。苦笑する先生達に合わせて乾いた笑いを漏らすと、学園長先生がポツリと口を開いた。
「そうじゃ、名前ちゃんの身につけていたものが消えてしまってな。返すことができなくてすまない。君の、唯一の持ち物だったのに」
「大木先生から伺いました。お気になさらないでください! ……私まで消えてしまわなくて良かったです」
「本当に、残ってくれて良かった。それも、お願いしたのかな?」
「いえ。たぶん、おまじないの効果だと思います」
「はて。それは……?」
雅之助さんが、こちらですと小さな紙を懐から取り出し学園長先生へ見せた。土井先生達もなになに?という風に覗きこんでいる。
「これは、尊勝陀羅尼……じゃな」
「なぜ、それを名前さんが……?」
「お前。忍術だけでなく、いろいろな本を読んでいるからだろう?」
「はいっ。羽丹羽石人くんにおすすめされた本に書いてあったので、試しに……」
「一年は組に、ぜひとも見習って欲しいものだなあ、土井先生?」
「ええ。あいつらには、宿題をいっぱい出してやらねばなりません……!」
山田先生と土井先生がなぜが天井をチラッと見上げながら、少し大きな声で誰かに呼びかけるようにこぼす。頭上からコトンという小さな物音が聞こえた気がして雅之助さんに目を向けると、ニヤリと意味深に口の端をつりあげていた。
「あ、あの学園長先生。これからのことですが……」
かくまう、という理由で忍術学園に置いてもらっていた。けれど、例のお札も奇妙な持ち物も無くなってしまった今、急に不安になってくる。正座したひざの上で、こぶしを強く握りしめた。
「名前ちゃんがよければ、このまま学園で働かんかね? ……正式に、事務員としてじゃ。もちろん、お給料はアップするぞ!」
「あ、ありがとうございます……! もちろん、こちらで……」
「お給料アップー!? あひゃあひゃ、銭や銭やー!」
「「うわあーっ!」」
ドスン!という音とともに、天井から浅葱色の忍装束が降ってきた。畳に折り重なるように倒れ込んで、バツの悪そうな顔でえへへ……と笑っている。
「乱太郎きり丸しんべヱ! お前ら、こんなところで何をしてるんだ」
「「「土井先生、す、すみません!」」」
「だって、お給料アップー!なんて聞いたら、居ても立っても居られないっすもん」
「きりちゃんってば……!」
相変わらずのやり取りがおかしい。近くへ寄ると、くしゃっときり丸くんの頭巾を撫でる。
「名前さん。わたしたち最初から聞いちゃいました」
「ずっと、天井にいたんだもんね?」
「それなら話が早いな。お前たち、名前さんに起こったことはくれぐれも秘密にするんだぞ」
「「「はーい、先生。ぜったい秘密にしまーす!」」」
「みんな、ありがとう!」
「ねぇねぇ、名前さん。もうずっと、ここにいられるんだよね……?」
乱太郎くんがふっと真剣な顔で見つめてくる。少しピリッとした空気に怯んでしまいそうになるけれど、みんなの目をしっかり捉えて頷いた。
「ずっと、ここにいるよ」
ぱあっと顔を綻ばせる三人をぎゅっと引き寄せ、目一杯に抱きしめる。学園長先生たちも、私たちの様子をにこやかに見守っていた。
*
空が赤く染まり、木々の間からカラスの鳴き声が聞こえてくる。門の前で立ち止まると、隣を歩く雅之助さんを見上げた。
「雅之助さん。もしかして、杭瀬村から学園をなんども行き来してくれてたんですか……?」
「そうだ。名前のことが心配でな」
「いつも気にかけてくれて、ありがとうございます」
「そうだぞー。それなのにお前は、杭瀬村に戻らんのだろ?」
向かい合って言葉を交わす。珍しく拗ねたような口ぶりに、その大きな体躯に似合わず可愛いな、なんて吹き出してしまった。
「杭瀬村は大好きです。でも、忍術学園での毎日も楽しくて」
「正式に採用されちゃったしな。忙しくてなかなか帰れないんじゃないか?」
「ちゃんと、帰りますから」
少し近づいて、雅之助さんの袖口をきゅっと握る。優しげな垂れ目に見つめられると、なぜだかドキッとしてすぐに手を離した。
……本当は、その胸元に飛び込みたいのに。
「うむ、待ってるぞ」
反動で、寝巻きの上に羽織った着物が少し肩からずり落ちると、雅之助さんがそっとかけ直してくれる。その大きな手に自身の手のひらを重ね、少しだけ彼の温かさに甘えてみるのだった。
名前が金楽寺で倒れたのが数日前。
彼女は医務室に敷かれた布団に横たわったまま、目を覚さずにいる。
――あの時。
名前が叫んで倒れ込んだ瞬間。地面に叩きつけられないように抱きかかえ、ぎゅっと小さな身体を包み込むと、彼女は力なくほほ笑んだのだ。手を伸ばそうとしたのか僅かに指先が動いて、そのままだらりと弛緩した。
あれから、畑仕事とラビちゃん達の世話を済ませると忍術学園へ通う日々だ。幾度、往復しただろうか。すやすやと穏やかな顔で、静かに呼吸を繰り返す名前の姿をそばでじっと眺める。
土井先生や山田先生も授業の合間に医務室に来ては、心配そうに新野先生へ容態を尋ねていた。時折り忍たまたちがやって来て、つい立ての向こうにいる名前を気にしているようだ。保健委員も代わる代わる付き添っていた。
「大木先生、ずっと付きっきりでお疲れでしょう?」
「新野先生、邪魔でしたらすみません。名前が気になってしまいまして」
「そんなことはないですよ。……まだ、起きないですか」
「ええ。どこんじょー!と言ってやりたいところです」
「豪快な先生らしいですね。大きな傷も無いですし、気を失っているだけだと思いますが……。ご無理なさらないように」
あまりにも医務室に入り浸るからか、新野先生が困ったように笑っていた。ちら、と名前の様子を確認してから薬の置かれた文机に座り直し、再び書き物を続ける。そんな新野先生の気配を遠くに感じつつ、もう一度彼女を見つめる。
「おい、名前。はよ起きんか。……心配でたまらんじゃないか」
*
真っ暗闇の中。
くしゃみをしたあと、目の前が暗くなって……。身体は地面に打ちつけられることなく、がっしりとした温かい感触に受け止められた。なぜだか、全てが丸く収まった気がして、安堵に包まれ意識がなくなったのだ。それから、不思議な夢を見て……。
すぐ近くで私を呼ぶ声が聞こえる。
聞き慣れた、低くて、少しうるさくて、人懐っこい大好きな声だ。
どうしても、またひと目会いたくて、胸の奥がぐっと掴まれたように苦しくなる。
必死に呼びかけようとしても、喉から声が出てこない。想いが込み上げて目頭が熱くなる。そのうち、ぽろりと涙がこぼれていった。
「……名前! どうした、なんとか言え!」
「……っ、」
がくがくと身体を揺すぶられ、へばり付いたように重いまぶたをこじ開ける。
そこには、明るい茶色のボサボサ頭に鉢巻きを締めた雅之助さんがいた。余裕のない表情でこちらを見つめ、がしっと肩を掴まれて少し痛い。
「名前っ! 大丈夫か……!?」
「……ま、まさのすけ、さん……」
また会えた。
嬉しさが込み上げて、涙が溢れて止まらない。うまく舌が回らず、声も掠れたまま。思い切りその太い首に腕を巻きつけ、縋るようにぎゅっと抱きつく。それに応えるかのように、背中に手を回され掻き抱かれた。
たくましい身体に包まれて、安堵で顔がぐしゃぐしゃだ。土っぽさとラッキョの香りがふわりと漂って、その懐かしさに胸の奥がじんとする。
「名前さん、目が覚めましたか!」
「新野先生っ……! ご心配をおかけしました」
「どこか痛むところはありませんか? 苦しいとか、おかしなところは……」
「はい……大丈夫です」
つい立ての向こうからバタバタと新野先生がやって来て、とても焦っている姿に申し訳なくなる。ここは医務室なんだ……! 慌てて雅之助さんから離れると、涙を手の甲でぬぐい寝巻きの衿もとを正した。
「それは良かったです! では学園長先生に報告してきますね」
「すみませんな、よろしく頼みます」
カタンと戸を閉める音が耳に届く。
新野先生の後ろ姿を見送ると、あぐらをかいた雅之助さんが真面目な顔をしている。整った顔をぼんやり見つめれば、お互いの視線がかち合う。その空気を破ろうと咄嗟に口を開くも、すんなり言葉が出ずに咳き込んでしまった。
「っ、けほっ、……」
「ほれ、水だ。飲みなさい」
「……ありがとうございます」
背中を支えられながら、湯呑みの水をこくこくと飲み干す。乾いた身体に潤いがすーっと吸い込まれ全身に染み渡った。
「あの、みんなは……? ケガなどされなかったですか」
「心配いらん。お前が倒れた後、ドクタケが一斉に退散したんだ」
「そう、だんったんですか。……お札、燃やしてしまってごめんなさい」
「貴重なものだから、高くつくぞー?」
「ど、どうしよう」
「なんてな! 大丈夫だ、学園長先生がなんとかしてくれるだろう」
いたずらっ子みたいに笑って、頭をわしわしとかき混ぜられる。こんな時なのに、やめて下さいってば!なんてやり取りに心がほぐれていった。
「雅之助さん。じつは、不思議な夢をみたんです」
「……というと?」
柔らかな雰囲気のなか、記憶が消えてしまわぬうちに伝えなきゃ、と唐突に切り出す。眉をひそめた雅之助さんが低い声で続きを促した。
「最初に、雅之助さんに会った時の、あの不思議な格好で……」
「そうだ! 不思議な格好で思い出したんだが……、お前に言わなきゃならんことがある」
「え……?」
「名前の身につけていたものが跡形もなく消えてしまったんだ。あの変な衣も、四角い箱みたいなものも」
「そ、そんなこと……!」
「お前まで消えてしまうかと焦ったぞ。でも、消えなかった」
「なんでだろう……?」
「心当たりはあるか?」
「私だけ……」
「うむ」
「あっ! ……もしかして、これかもしれません!」
掛け布団をぱっと捲り、寝巻きのすそをバサリと広げる。太ももにくるくる巻かれた白い鉢巻きを解いて、ひらりと落ちた紙切れをつまんだ。大事な"おまじない"だから、誰にも見られないところに隠していたのだ。
「お、おいっ名前! お前、急に何を……!?」
「え、あのっ、これは……! 誰にもバレないように身につけなきゃと思って」
太ももが露わになった姿を認識すると、自分でしたことなのに恥ずかしくて顔が熱くなる。なんて大胆なことをしてしまったんだろう。必死にすそを元に戻すと、気まずさに体を縮こめた。
「まったく、お前というやつは困ったもんだ」
「でも、雅之助さん。顔がにやけてますっ」
「言ってくれるな」
心なしか頬を染めた雅之助さんがおかしくて。いつものやり取りにクスッとしていると握った紙の存在を思い出し、彼に手渡した。
「そんしょうだらに、というおまじないです。ご存じですか……?」
「ああ、もちろんだ。災難から身を守るというものだが……」
「このおまじないの力だったりして」
「……なるほど。不思議なことだらけだ。そうあってもおかしくは無いか」
ぽんと頭に大きな手をおかれ、はははと笑った口元からは尖った歯がのぞいた。突拍子もない話なのに受け止めてくれる。その人懐っこい顔に嬉しくなって、私までつられて口元がゆるんでしまうのだ。
――ガタン
「名前さんっ!」
大きな声と共に、土井先生と山田先生そして新野先生が医務室へやってきた。つい立てを越えて、布団のヘリに正座する土井先生たちに頭を下げた。
「土井先生に山田先生……! ご迷惑をおかけしました」
「名前くんが無事で何よりだ。学園長も安心しておられた」
「君に何かあったらと気が気じゃなかったよ」
こげ茶色の長い前髪が揺れ、大きな瞳を細めている。土井先生が確かめるように手を握るから、大丈夫と伝わるようにしっかり頷いた。
「……はい、これ。落ちていたよ」
「これは……! 見つけてくれて、ありがとうございます」
「魔界之先生のおかげでもあるんだ」
「魔界之せんせ……?」
浅葱色の巾着を受け取る。少し泥のついたそれを手の中にぎゅっと握りしめると、土井先生が優しく目を細めた。
「名前さんは目覚めたばかりで辛いかな? 学園長先生に医務室へ来てもらうのは後にしましょうかね」
「新野先生。先ほどお水をいただいて落ち着きました。ぜひ、庵へ向かわせてください」
「は、はあ。無理は禁物ですよ」
しっかりと新野先生に視線を合わせると、先生は根負けしたのか苦笑いをこぼす。
寝巻きの上に藤色の着物を羽織り、よろけながらも立ち上がる。雅之助さんと土井先生に支えられながらそろりと足を踏み出した。
*
庵へと続く廊下を一歩ずつ歩いていく。
すれ違う忍たま達が、口々に「体調は大丈夫ですか?!」なんて不安そうに声をかけてくれた。
心配させたことを謝りながら、もう大丈夫!なんてカラ元気で答える。幸い複雑な事情は知られておらず、買い出しの途中に倒れた、と言うことになっているようだった。
付き添ってくれている土井先生たちがうまく収めて進んでいく。久しぶりに足を動かしたからか、もつれそうになると手を差し伸べて助けてくれた。
庵では、学園長先生とヘムヘムが掛け軸の前に正座している。深く頭を下げてから中へと進み、雅之助さんたちも私の後に続いた。
「名前ちゃんや。何はともあれ無事でよかった!」
「ヘム、ヘムヘムー!」
「学園長先生にヘムヘム。この度はご心配をおかけしました。でも、もうこの通りですから」
「うむ。あんなことがあったばかりじゃ。無理はするでないぞ」
気遣う学園長先生へガッツポーズをしてみせる。私の様子に、たっぷりとした白い眉を下げてヘムヘムと頷き合っていた。
「あの、学園長先生。……貴重なお札を燃やしてしまい、申し訳ありませんでした」
「あんな事になっては、燃やすしかないじゃろうて。わしから和尚さまに話したんだがの、寺を破壊されなくて良かったと言っておった」
「……ありがとうございます」
「それにしても、名前ちゃんが倒れた後不思議なことが起こったんじゃが」
「不思議なこと……ですか?」
「君がくしゃみをして倒れたあと、ドクタケ一味が一斉に武器を投げ捨てて帰ってしまったんだ」
「何しに来たんだっけー? なんて、とぼけた事を言ってたんだぞ? 名前が叫んだ通り、忍術学園に手を出さずに終わった」
「ええっ……!?」
「名前ちゃんが叫んだこと。理由は分からんが、それが願いとして通じたのかもしれないのう」
両隣の土井先生と雅之助さんがこちらに体を向け、あの後のことを教えてくれた。山田先生も同意するようにあご髭を撫でつけている。
願い……。
お札へ、ふつうにお願いしてもダメだったのだ。それなのに叶ったというのは……。
もし、くしゃみのせいだったら。だとしたら、ここへ来た時の夢とも通ずる。あの夢の内容を思い出して、全身にぶわっと汗が吹き出すようだ。
――忍者に会いたい。
そんな子どもじみたお願いが気恥ずかしくて、こめかみの当たりをくしゃりと掻いた。
「名前、さっきから変な顔をしてどうしたんだ?」
「そ、それは……! なぜここにやって来たのか……思い出したから、です」
「「「……えっ!?」」」
先生達がすごい勢いで身を乗り出してくるから圧倒されてしまった。おずおずと、金楽寺で倒れた後に見た夢を説明する。
……庵が沈黙に包まれ居心地が悪い。
「み、みなさん、そんな顔しないでください……! 忍者の和尚さまがいたお寺だと聞いたら、会いたいなって思ってしまって」
「ははは……名前さんらしいね」
「お前、そんな理由でここに来たのか!?」
「す、すみません……。その時も、やっぱりくしゃみをしてまして」
「くしゃみが引き金になったということか。そんなおかしな話があるかねえ」
「山田先生。本当に、私も信じられないのですが……でも、それしか思い当たらなくて」
半信半疑なのももっともだ。自分でもきつねにつままれたかのようなのに。苦笑する先生達に合わせて乾いた笑いを漏らすと、学園長先生がポツリと口を開いた。
「そうじゃ、名前ちゃんの身につけていたものが消えてしまってな。返すことができなくてすまない。君の、唯一の持ち物だったのに」
「大木先生から伺いました。お気になさらないでください! ……私まで消えてしまわなくて良かったです」
「本当に、残ってくれて良かった。それも、お願いしたのかな?」
「いえ。たぶん、おまじないの効果だと思います」
「はて。それは……?」
雅之助さんが、こちらですと小さな紙を懐から取り出し学園長先生へ見せた。土井先生達もなになに?という風に覗きこんでいる。
「これは、尊勝陀羅尼……じゃな」
「なぜ、それを名前さんが……?」
「お前。忍術だけでなく、いろいろな本を読んでいるからだろう?」
「はいっ。羽丹羽石人くんにおすすめされた本に書いてあったので、試しに……」
「一年は組に、ぜひとも見習って欲しいものだなあ、土井先生?」
「ええ。あいつらには、宿題をいっぱい出してやらねばなりません……!」
山田先生と土井先生がなぜが天井をチラッと見上げながら、少し大きな声で誰かに呼びかけるようにこぼす。頭上からコトンという小さな物音が聞こえた気がして雅之助さんに目を向けると、ニヤリと意味深に口の端をつりあげていた。
「あ、あの学園長先生。これからのことですが……」
かくまう、という理由で忍術学園に置いてもらっていた。けれど、例のお札も奇妙な持ち物も無くなってしまった今、急に不安になってくる。正座したひざの上で、こぶしを強く握りしめた。
「名前ちゃんがよければ、このまま学園で働かんかね? ……正式に、事務員としてじゃ。もちろん、お給料はアップするぞ!」
「あ、ありがとうございます……! もちろん、こちらで……」
「お給料アップー!? あひゃあひゃ、銭や銭やー!」
「「うわあーっ!」」
ドスン!という音とともに、天井から浅葱色の忍装束が降ってきた。畳に折り重なるように倒れ込んで、バツの悪そうな顔でえへへ……と笑っている。
「乱太郎きり丸しんべヱ! お前ら、こんなところで何をしてるんだ」
「「「土井先生、す、すみません!」」」
「だって、お給料アップー!なんて聞いたら、居ても立っても居られないっすもん」
「きりちゃんってば……!」
相変わらずのやり取りがおかしい。近くへ寄ると、くしゃっときり丸くんの頭巾を撫でる。
「名前さん。わたしたち最初から聞いちゃいました」
「ずっと、天井にいたんだもんね?」
「それなら話が早いな。お前たち、名前さんに起こったことはくれぐれも秘密にするんだぞ」
「「「はーい、先生。ぜったい秘密にしまーす!」」」
「みんな、ありがとう!」
「ねぇねぇ、名前さん。もうずっと、ここにいられるんだよね……?」
乱太郎くんがふっと真剣な顔で見つめてくる。少しピリッとした空気に怯んでしまいそうになるけれど、みんなの目をしっかり捉えて頷いた。
「ずっと、ここにいるよ」
ぱあっと顔を綻ばせる三人をぎゅっと引き寄せ、目一杯に抱きしめる。学園長先生たちも、私たちの様子をにこやかに見守っていた。
*
空が赤く染まり、木々の間からカラスの鳴き声が聞こえてくる。門の前で立ち止まると、隣を歩く雅之助さんを見上げた。
「雅之助さん。もしかして、杭瀬村から学園をなんども行き来してくれてたんですか……?」
「そうだ。名前のことが心配でな」
「いつも気にかけてくれて、ありがとうございます」
「そうだぞー。それなのにお前は、杭瀬村に戻らんのだろ?」
向かい合って言葉を交わす。珍しく拗ねたような口ぶりに、その大きな体躯に似合わず可愛いな、なんて吹き出してしまった。
「杭瀬村は大好きです。でも、忍術学園での毎日も楽しくて」
「正式に採用されちゃったしな。忙しくてなかなか帰れないんじゃないか?」
「ちゃんと、帰りますから」
少し近づいて、雅之助さんの袖口をきゅっと握る。優しげな垂れ目に見つめられると、なぜだかドキッとしてすぐに手を離した。
……本当は、その胸元に飛び込みたいのに。
「うむ、待ってるぞ」
反動で、寝巻きの上に羽織った着物が少し肩からずり落ちると、雅之助さんがそっとかけ直してくれる。その大きな手に自身の手のひらを重ね、少しだけ彼の温かさに甘えてみるのだった。
1/1ページ