枠を越えて(後編)
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大木先生が家に来て数日経ったころ。
カーテンの隙間から朝日が差し込んで、うっすらと目を開ける。
……夢じゃないよね?
ベッドの端から床を覗くと、白いシャツの大木先生はいつも通り仰向けでぐーぐー眠っていた。
やっぱり本当で、嬉しくてにやけるのが止まらない。毎日、朝が来るたび疑ってしまう自分に苦笑する。
大木先生は洋服もとても似合っていて、一緒にコンビニや公園に連れて行くのが楽しかった。
周りから見たら、恋人っぽくみえるかな?なんて一人でうきうきしてしまう。
そっと手を伸ばし、ボサボサの茶色い髪に触れようとして……手を引っ込めた。
「……なんだ?」
「お、起きてたんですね」
「触っても良いんだぞ?」
「バレてましたか……!」
忍者の先生だから、私が起きたことも、触れようとしたことも……全てお見通しのようだった。
大木先生がおもむろに上体を起こして、こちらをニヤリと見つめてくると、朝から恥ずかしくて完全に目が覚めてしまう。
「あの、先生。私、しばらく家で仕事なんです」
「家で仕事?内職か?」
「うーん、ちょっと違うんですけど……。仕事中は静かにしてくださいね」
「うむ。分かった」
……本当に分かってくれたのかな?
心配だから、何日か休暇を取って先生と一緒にいたけれど、もうこれ以上は休めない。
でもその間、この世界の物のことや家のこと、色々と教えてあげることが出来た。
たまにドアの開け方や水の出し方を間違えたりするけれど……大木先生はすぐに覚えてくれて、さすが元教師!頭良いっなんて思ったり。
……でも心配で、まだ一人で外には出せなかった。
身支度を済ませると、一緒に朝食を準備して二人でもぐもぐといただく。
こんな不思議で幸せなこと、なんだか怖くなる。
でも、近くにいる大木先生を見るたびに自然と嬉しくなってしまうのだ。
*
乱太郎たちに忍術の解説をしようと枠を越えてきたら、名前という女の家に来てしまった。
初対面のはずなのに、わしのことをよく知っていて驚く。
忍びだということも、ペットの存在や苦手な食べ物まで……。
一体、どこまで知っているのだろうか。
呆気に取られたが、なぜかとても居心地が良かった。
畑やラビちゃんケロちゃんが心配で、はやく戻らねばならんのに……。
彼女は華奢な可愛いおなごで、しかも甘い良い香りがする。
わしを心配してかいがいしく身の回りの世話を焼いてくれる姿に、嬉しくてついついほほが緩んでしまう。
それにしても、女のひとり暮らしとは……とても心配だ。
名前は大丈夫なんて言っていたが、ろくに食べてないようだし、着ているものもおかしい。
上衣はぶかぶかなのに下は白い脚が丸出しで……目のやり場に困る。
しかも、外に連れ出してもらうと車と呼ばれるものがごうごうと音を轟かせて走っている。
こんな危険なところで生活しているなんて考えられん。
「おい、何してんだ?」
「ちょっと、静かにっ!……今、会議中です」
「会議?ここでか?」
床掃除の手を止めて名前にちょっかいを出している。
仕事だというから家の中に籠らされて手持ち無沙汰だ。外にも出ちゃダメだと言うし。暇だと言うと、本を渡されたがそれも読み終わってしまった。
すると、長い棒の先に雑巾がついている物を渡されて……便利な道具があるものだ。
彼女は小さなテーブルに置いた薄い四角い板に向かって一所懸命に話していたが、それを覗き込むと慌ててこちらを睨んできた。
いつもとは違う、化粧を施したきちんとした身なりで。声だって普段より少し高くて、書類をまとめる所作まで美しく見える。
白い肌に上気したようなほほ、それに紅を塗って赤みの差した唇は……板の向こうのやつのためなのか?
世話になっているだけなのに、嫉妬のような気持ちが湧いてくる。じれったさに参ってしまった。
「この中で会議してるんですっ。ああっ。たぶん大木先生、映っちゃいましたよ……」
「ピースしたほうが良かったか?」
「もうっ、怒りますよ!」
「すまんすまんっ」
「先生ったら」
「お前、その顔も可愛いぞ?」
「……っ!」
本当のような冗談のようなことを言ってからかうと、赤くなった顔で視線を彷徨わせる名前の姿にくつくつ笑いが出てしまう。
*
それからさらに日が過ぎて、突然大木先生がやってきてから半月ほどだろうか。
だいぶ家のことにも慣れてきて、家電なんかも使いこなしている。
通販でペットボトルの箱やお米なんかを頼むと、わしに貸せと言ってひょいと運んでくれて。
その姿が頼もしくて、男らしさを見せられるたびにときめいてしまう。
でも、お前は体力がない!なんて言われて、公園をランニングさせられるのは参ってしまった。
しかも、ヘタると「どこんじょーだ!」って発破をかけられて。
ご飯も沢山作ってくれるし……先生のおかげで、とても健康的な毎日を過ごしていた。
……いつまでこんな毎日が続けられるのだろう。
終わりがあるって、頭では分かっている。
けれど、一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど離れがたくなって……この瞬間は幸せなのに、切なくなる。
しかも明日は会社に出社しなきゃいけない。
……先生ひとりで、大丈夫だろうか?
――薄く開いたカーテンからは青白い月明かりが差し込んでいた。
暗がりの中、床で寝ている先生にベッドの上から話しかける。
「大木先生。私、明日は勤め先に行かなきゃいけないんです。……ひとりで、大丈夫ですか?」
「子どもじゃないんだ。心配いらん」
「でも……」
「名前こそ、帰りは遅いのか?暗い夜道を一人で歩くのは許さんぞ」
「……遅くなるかもです」
「じゃあ、わしが迎えにいく」
「えーっ、そんな、大変ですって!」
「構わん」
「……じゃあ、お言葉に甘えちゃいます」
こうなると、言っても聞かなさそうで。明日、大体の時間と……駅の場所を教えなきゃ。時計の見方は、分かるかな?
あと、スペアキーも渡さないと。
「……先生、おやすみなさい」
*
久しぶりの出社はやることが沢山あって疲れてしまった。
仕事が終わると急いで駅へ向かう。
電車のモーター音がゴーゴー鳴り響いて、ホームに侵入すると湿った突風が吹き抜けていった。
……大木先生、ちゃんと駅まで来れたのかな?
迷子になってたらどうしよう。
降りる駅に到着して早足でホームを歩くと、改札の向こうに会いたい人が待っていた。
先生は壁にもたれて腕組みしている。
それだけで様になっていて、しばらくその様子をこっそり眺めてしまう。
相変わらず鉢巻きを締めているけれど、電車が通り過ぎるたびにヒラヒラ揺れる紐とはらりと靡く茶色の髪に目を奪われた。
「大木先生ーっ!」
「おお、名前か。待っていたぞ!」
「ありがとうございます!だいぶ待ちました……?」
「いや、気にするな。それより、大声で先生と呼ばれるとなあ?」
「……あっ、そうですね。ま、雅之助さん」
確かに、それはそうなんだけど……。
改めて名前で呼ぶと照れくさい。
はにかみながら背の高い先生を見上げると、目尻を下げて満足そうに笑っていた。
「夕飯、作っておいたぞ」
「えーっ!やったあ。ご飯楽しみです!」
「すごい喜びようだな」
「えへへ。じゃあ、週末ですし……。お酒でも買っちゃいますか」
どんなお酒が好きか分からないから、飲みやすそうな酎ハイとかを買って家に戻る。
途中、猛スピードで走ってくる自転車からサッと守ってくれて。
よろける身体をぎゅっと包み込んでくれた、がっしりした男性の感触に鼓動が高鳴る。
……そんな事されたら、好きになっちゃうじゃないか。
仕事着から部屋着に着替えると、根菜の煮物と味噌汁とほかほかのご飯がローテーブルに並べられていた。
「大木先生すごーい!とっても美味しそうですっ」
「そうだろう?ま、わしの手にかかればこんなもんだ!」
「あー、でも鍋とか凄いことになってますね?」
「急いでたから、すまん!」
「大丈夫です!作ってくれただけで嬉しいのでっ」
調理台には鍋や菜ばしが積み重なっていたけれど……きっと一所懸命に料理してくれたのかな?と笑みが漏れる。
誰かに心配されて、想ってもらえる事に心がじんわり温かくなった。
煮物は甘辛い味付けみたいで、茶色いつやつやの照りがとても輝いてみえる。
……私より料理上手かもしれない。
二人で食事するのは、お腹だけでなく気持ちまで幸せに満たされる。
それにしても、大木先生いっぱい食べるな……お米の消費がすごいぞ。
でも、その食べっぷりがまた素敵だな、なんてニヤニヤしてしまった。
「後片付けは、私にやらせてくださいねっ」
「疲れているのに悪いな」
「いえいえ、気にしないでください!」
食べ終わると、ささっと食器や鍋を集めてシンクでじゃぶじゃぶと洗っていく。
チラリと後ろを振り向いて大木先生を見ると、私のことを見ていたみたいで視線がぶつかる。
とたんに恥ずかしくなって、慌てて顔を戻して再び洗い物の手を動かしていった。
片付けが一段落すると、グラスとお酒を手に先生の隣へ座る。
「せんせっ、お酒でも飲みます?」
「そうだったな!……どんなものか気になるぞ」
「先生の時代は日本酒ですもんね。でも、レモンの酎ハイなんて少し酸っぱくてパチパチして……美味しいですよ」
プシュっと缶を開けると、グラスにとくとくと注いでいく。中の氷がガラスとぶつかって、カランと涼しげな音を立てる。
しゅわしゅわと立ち昇る小さな泡に、気持ちまでふわふわと浮かび上がるようだった。
「かんぱーい」
恐る恐る口をつける先生が可愛くって、ごくりと飲みながら横目で眺める。
……美味しいのかな?
炭酸にびっくりしていたけれど、豪快にあおっていく姿に嬉しくなった。
「意外と美味いな」
「でしょー?よかった。もっと飲んでくださいっ」
「名前にも注いでやるぞ?」
「あはは。ありがとうございますっ」
名前は思っていたより酒が飲めるのか、頬を赤くしながらにこにこ笑ってもたれかかってくる。
酒のつまみとか言って、柔らかで鮮やかな甘い塊をもぐもぐ頬張って……グミというらしいが……楽しそうにしている。
ときどき、その菓子をつまんではわしの口に無理やり押し込んでくる。
ベトっとした甘さを消し去るように、慌てて酒をあおった。
よそ行きの名前とは違う、甘えてくるような姿に自分の女だと錯覚してしまいそうになる。
「飲み過ぎなんじゃないか?」
「そんなことないです!ぜんぜんよってないですって」
「まあ、わしが面倒みてやるから」
「そんなこといって……変なことしないでくださいよー?」
「そ、そんなことするか!」
「じょーだんです」
くすくす笑いながら腕に絡みついてくる女体の柔らかさとその火照った温度に、言葉とは裏腹なことばかり浮かんでくる。
……すり寄ってくる身体を抱き寄せてしまいたい。
その白くてもっちりとした太ももに手を滑らせて、撫で回してしまいたくなる。
……いや、それはまずい。
邪念を振り払うように酒を流し込んでは悶々と葛藤している。
そうして二人で笑い合っていると、結構な時間が過ぎていた。
酔いが回って気持ちが昂ると、心に仕舞っていたこともぽろりと漏れそうだ。
「……ぼーっとして、どうしました?」
「あ、ああ。悪いな」
「もしかして!私に見惚れてました?」
「……っ、バカ言うな」
「ひどーい!」
「いや、あのだな……。間違えてここに来てしまったが……お前に会えてよかったと思ってな。」
「なんです?急に……。いなくなっちゃうようなこと、言わないでくださいっ……!」
悲しそうな潤んだ瞳で、引き留めるように懇願されるとその視線をそらせない。
どうしようもなく触れたくなってしまう。
見つめあったまま、紅潮したほほに手を添えて、ジリジリと距離をつめていく。
名前の熱っぽい息が頬をかすめると、そっと唇を重ねる。
軽く触れるだけのつもりだったのに。
小さな身体をぴくりと跳ねさせて受け入れられると、我慢できずさらに求めてしまう。
名前の後頭部に指を差し入れると、逃げないようにぐっと引き寄せて、さらに深く舌を侵入させる。
さらりとした髪の手触りと、ぬるりとした熱く柔らかな口内がたまらない。
「ふっ、ぅん……っ……んんっ……ん」
ぎゅうっとしがみついてチロチロと小さな舌に口腔を擦られると、じゅる…と淫らな水音が静かな部屋に響く。
何度も角度を変えてはお互いに舌を絡ませあうと、飲みきれなかった唾液がたらりと口端を伝ってこぼれ落ちる。
……これ以上は、ダメだ。
押し倒して、自分のものにしてしまいたくなる。
最後に優しく下唇を食むと、繋いだ唇をゆっくりと離していく。
「んっ……。雅之助さんっ。わたし、その……」
「……すまない」
「謝らないでくださいっ。……わたし、嬉しかったですから」
性急なことをして嫌われても仕方がないのに、そんないじらしい事を言いおって。
なんとも言えない幸福感が胸に込み上げ、その細い身体を優しく抱き締めた。
「……お前、変な菓子のせいで甘ったるかったぞ」
「わたし、美味しかったでしょ?」
「また、そういうことを言うな」
無自覚なのか、煽るような事を言って。
せっかく理性を保ったと言うのに、こいつは……。
くすくすといたずらに笑う名前の頭をぽんと撫でると、ニカッと笑ってやった。
*
お酒に酔ってあんなことがあってから、大木先生との距離感がさらに近づいてしまった。
まるで恋人みたいな気持ちになって、もう離れることなんて考えられなかった。
出社した日には必ず駅まで迎えに来てくれるし、しっかり食え!なんて言って私のためにご飯まで作ってくれる。
まだまだ、そんな日々が続いていくような気がしていたのに。
それなのに、しばらくすると先生は急にいなくなってしまったのだ。
覚悟はしていたけれど……。
もうあの笑顔が見られないと思うと、胸が苦しくなって鼻の奥がツンと痛い。
忙しく働いている時でも、ふと思い出すとぽろぽろと涙が溢れそうになる。仕事が終わっても……迎えに来てくれた、わははと笑う先生の姿はない。
せっかく健康的な生活だったのに、一気に前の自分に戻ってしまった。
……何も言わないでいなくなるなんて。
勝手に期待してしまった分、なかなか立ち直れなさそうだ。
でも、どうやって戻ったんだろう……?
戻ったなら、また来られるのだろうか。
……また、会いに来てくれるのかな?
今度会えたら、着いて行ってしまいたいのに。
――夜
いつものように、ころんとベッドに横たわるとぼーっと天井を見上げる。大木先生がいなくなって随分経ったのに、まだダメだ。
あのとき……。
テレビを付けっぱなしで、漫画もその辺に置いて……。
そうしたらまた戻って来てくれるような気がして……。
でも、毎日その淡い期待が裏切られていく。
涙ってずっと出てくるんだな、なんて思いながらまぶたを閉じる。
ぽとりと枕に落ちる水滴の音を聞きながら、すーっと意識が遠のいていった。
――ガサガサ…
草履を脱いで懐にしまい、よいしょと枠から身を乗り出す。スッと飛び降りると、薄暗い部屋をじっと見回した。
「……おいっ、名前。いるのか?」
また迎えにくると書き置きをしたのだが、ちゃんと準備しているのだろうか?
寝台で眠る名前を横目で見つつ、自分がいない間の生活が心配になって薄灯りの部屋を色々と探ってみる。
四角い大きい板は煌々と輝いて、手元の灯りも付けっぱなしだ。冷たい箱だって中を見ると何もない。
……ちゃんと食ってるのか?!
わしがいないとダメだなぁと、布団のそばに寄って寝顔を眺める。照らされたほほには涙の跡がいくつも伝って、赤くなったまぶたが痛ましい。
……まさか、戻っている間に何かあったのか!?
「おい、名前!わしだ!」
「……ん、っ」
「起きろーっ!」
「……っ…んんっ……え……?」
ぼーっとした虚な目でこちらを見つめてくる名前をゆさゆさと揺さぶる。
「おい、どうした?!」
「え、……あの、えっと……」
「何をぼけっとしてる!」
「せ、せんせいっ……!?」
がばっと起き上がり、急に顔をくしゃくしゃにして涙を溢れさせる名前にたじろいでしまう。よしよしと抱き締めると、身体を震わせてしゃくり上げながらしがみついてきた。
「何かあったのか?!そんなに泣いて」
「きゅうに、いなくなっちゃった、から……」
「書き置きしたんだが……見てないのか?」
「……し、知らなかったっ」
「今度はちゃんと草履を脱いだぞ?ほれ」
「そんなの、どうでもいいっ……!」
首に細い腕を巻きつけられて、ぐいっと引っ張られると二人して布団に沈み込む。
ぽいっと草履を放り投げると、会えなかった時間を取り戻すかのように口付けあう。
涙が混じって塩辛い。
けれどその想いが嬉しくて止まるどころか次第に深くなっていく。
さわさわと髪の先が触れるからか、名前がくすぐったそうに身を捩り小さく笑い出した。
すこし身体を離し見つめ合うと、また唇を重ねるのだった。
(おまけ)
「さあ、行くぞ!」
「えぇっ!?……こんな夜中に、どこへ行くのですか?」
「わしの家に決まってるだろう。ラッキョ漬けも食わしてやるぞ? 善は急げだ、名前っ!ほれ、抱えてやるから!」
「……うわぁっ!」
「どこんじょーっ!」
「……ど、どこんじょーっ!」
カーテンの隙間から朝日が差し込んで、うっすらと目を開ける。
……夢じゃないよね?
ベッドの端から床を覗くと、白いシャツの大木先生はいつも通り仰向けでぐーぐー眠っていた。
やっぱり本当で、嬉しくてにやけるのが止まらない。毎日、朝が来るたび疑ってしまう自分に苦笑する。
大木先生は洋服もとても似合っていて、一緒にコンビニや公園に連れて行くのが楽しかった。
周りから見たら、恋人っぽくみえるかな?なんて一人でうきうきしてしまう。
そっと手を伸ばし、ボサボサの茶色い髪に触れようとして……手を引っ込めた。
「……なんだ?」
「お、起きてたんですね」
「触っても良いんだぞ?」
「バレてましたか……!」
忍者の先生だから、私が起きたことも、触れようとしたことも……全てお見通しのようだった。
大木先生がおもむろに上体を起こして、こちらをニヤリと見つめてくると、朝から恥ずかしくて完全に目が覚めてしまう。
「あの、先生。私、しばらく家で仕事なんです」
「家で仕事?内職か?」
「うーん、ちょっと違うんですけど……。仕事中は静かにしてくださいね」
「うむ。分かった」
……本当に分かってくれたのかな?
心配だから、何日か休暇を取って先生と一緒にいたけれど、もうこれ以上は休めない。
でもその間、この世界の物のことや家のこと、色々と教えてあげることが出来た。
たまにドアの開け方や水の出し方を間違えたりするけれど……大木先生はすぐに覚えてくれて、さすが元教師!頭良いっなんて思ったり。
……でも心配で、まだ一人で外には出せなかった。
身支度を済ませると、一緒に朝食を準備して二人でもぐもぐといただく。
こんな不思議で幸せなこと、なんだか怖くなる。
でも、近くにいる大木先生を見るたびに自然と嬉しくなってしまうのだ。
*
乱太郎たちに忍術の解説をしようと枠を越えてきたら、名前という女の家に来てしまった。
初対面のはずなのに、わしのことをよく知っていて驚く。
忍びだということも、ペットの存在や苦手な食べ物まで……。
一体、どこまで知っているのだろうか。
呆気に取られたが、なぜかとても居心地が良かった。
畑やラビちゃんケロちゃんが心配で、はやく戻らねばならんのに……。
彼女は華奢な可愛いおなごで、しかも甘い良い香りがする。
わしを心配してかいがいしく身の回りの世話を焼いてくれる姿に、嬉しくてついついほほが緩んでしまう。
それにしても、女のひとり暮らしとは……とても心配だ。
名前は大丈夫なんて言っていたが、ろくに食べてないようだし、着ているものもおかしい。
上衣はぶかぶかなのに下は白い脚が丸出しで……目のやり場に困る。
しかも、外に連れ出してもらうと車と呼ばれるものがごうごうと音を轟かせて走っている。
こんな危険なところで生活しているなんて考えられん。
「おい、何してんだ?」
「ちょっと、静かにっ!……今、会議中です」
「会議?ここでか?」
床掃除の手を止めて名前にちょっかいを出している。
仕事だというから家の中に籠らされて手持ち無沙汰だ。外にも出ちゃダメだと言うし。暇だと言うと、本を渡されたがそれも読み終わってしまった。
すると、長い棒の先に雑巾がついている物を渡されて……便利な道具があるものだ。
彼女は小さなテーブルに置いた薄い四角い板に向かって一所懸命に話していたが、それを覗き込むと慌ててこちらを睨んできた。
いつもとは違う、化粧を施したきちんとした身なりで。声だって普段より少し高くて、書類をまとめる所作まで美しく見える。
白い肌に上気したようなほほ、それに紅を塗って赤みの差した唇は……板の向こうのやつのためなのか?
世話になっているだけなのに、嫉妬のような気持ちが湧いてくる。じれったさに参ってしまった。
「この中で会議してるんですっ。ああっ。たぶん大木先生、映っちゃいましたよ……」
「ピースしたほうが良かったか?」
「もうっ、怒りますよ!」
「すまんすまんっ」
「先生ったら」
「お前、その顔も可愛いぞ?」
「……っ!」
本当のような冗談のようなことを言ってからかうと、赤くなった顔で視線を彷徨わせる名前の姿にくつくつ笑いが出てしまう。
*
それからさらに日が過ぎて、突然大木先生がやってきてから半月ほどだろうか。
だいぶ家のことにも慣れてきて、家電なんかも使いこなしている。
通販でペットボトルの箱やお米なんかを頼むと、わしに貸せと言ってひょいと運んでくれて。
その姿が頼もしくて、男らしさを見せられるたびにときめいてしまう。
でも、お前は体力がない!なんて言われて、公園をランニングさせられるのは参ってしまった。
しかも、ヘタると「どこんじょーだ!」って発破をかけられて。
ご飯も沢山作ってくれるし……先生のおかげで、とても健康的な毎日を過ごしていた。
……いつまでこんな毎日が続けられるのだろう。
終わりがあるって、頭では分かっている。
けれど、一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど離れがたくなって……この瞬間は幸せなのに、切なくなる。
しかも明日は会社に出社しなきゃいけない。
……先生ひとりで、大丈夫だろうか?
――薄く開いたカーテンからは青白い月明かりが差し込んでいた。
暗がりの中、床で寝ている先生にベッドの上から話しかける。
「大木先生。私、明日は勤め先に行かなきゃいけないんです。……ひとりで、大丈夫ですか?」
「子どもじゃないんだ。心配いらん」
「でも……」
「名前こそ、帰りは遅いのか?暗い夜道を一人で歩くのは許さんぞ」
「……遅くなるかもです」
「じゃあ、わしが迎えにいく」
「えーっ、そんな、大変ですって!」
「構わん」
「……じゃあ、お言葉に甘えちゃいます」
こうなると、言っても聞かなさそうで。明日、大体の時間と……駅の場所を教えなきゃ。時計の見方は、分かるかな?
あと、スペアキーも渡さないと。
「……先生、おやすみなさい」
*
久しぶりの出社はやることが沢山あって疲れてしまった。
仕事が終わると急いで駅へ向かう。
電車のモーター音がゴーゴー鳴り響いて、ホームに侵入すると湿った突風が吹き抜けていった。
……大木先生、ちゃんと駅まで来れたのかな?
迷子になってたらどうしよう。
降りる駅に到着して早足でホームを歩くと、改札の向こうに会いたい人が待っていた。
先生は壁にもたれて腕組みしている。
それだけで様になっていて、しばらくその様子をこっそり眺めてしまう。
相変わらず鉢巻きを締めているけれど、電車が通り過ぎるたびにヒラヒラ揺れる紐とはらりと靡く茶色の髪に目を奪われた。
「大木先生ーっ!」
「おお、名前か。待っていたぞ!」
「ありがとうございます!だいぶ待ちました……?」
「いや、気にするな。それより、大声で先生と呼ばれるとなあ?」
「……あっ、そうですね。ま、雅之助さん」
確かに、それはそうなんだけど……。
改めて名前で呼ぶと照れくさい。
はにかみながら背の高い先生を見上げると、目尻を下げて満足そうに笑っていた。
「夕飯、作っておいたぞ」
「えーっ!やったあ。ご飯楽しみです!」
「すごい喜びようだな」
「えへへ。じゃあ、週末ですし……。お酒でも買っちゃいますか」
どんなお酒が好きか分からないから、飲みやすそうな酎ハイとかを買って家に戻る。
途中、猛スピードで走ってくる自転車からサッと守ってくれて。
よろける身体をぎゅっと包み込んでくれた、がっしりした男性の感触に鼓動が高鳴る。
……そんな事されたら、好きになっちゃうじゃないか。
仕事着から部屋着に着替えると、根菜の煮物と味噌汁とほかほかのご飯がローテーブルに並べられていた。
「大木先生すごーい!とっても美味しそうですっ」
「そうだろう?ま、わしの手にかかればこんなもんだ!」
「あー、でも鍋とか凄いことになってますね?」
「急いでたから、すまん!」
「大丈夫です!作ってくれただけで嬉しいのでっ」
調理台には鍋や菜ばしが積み重なっていたけれど……きっと一所懸命に料理してくれたのかな?と笑みが漏れる。
誰かに心配されて、想ってもらえる事に心がじんわり温かくなった。
煮物は甘辛い味付けみたいで、茶色いつやつやの照りがとても輝いてみえる。
……私より料理上手かもしれない。
二人で食事するのは、お腹だけでなく気持ちまで幸せに満たされる。
それにしても、大木先生いっぱい食べるな……お米の消費がすごいぞ。
でも、その食べっぷりがまた素敵だな、なんてニヤニヤしてしまった。
「後片付けは、私にやらせてくださいねっ」
「疲れているのに悪いな」
「いえいえ、気にしないでください!」
食べ終わると、ささっと食器や鍋を集めてシンクでじゃぶじゃぶと洗っていく。
チラリと後ろを振り向いて大木先生を見ると、私のことを見ていたみたいで視線がぶつかる。
とたんに恥ずかしくなって、慌てて顔を戻して再び洗い物の手を動かしていった。
片付けが一段落すると、グラスとお酒を手に先生の隣へ座る。
「せんせっ、お酒でも飲みます?」
「そうだったな!……どんなものか気になるぞ」
「先生の時代は日本酒ですもんね。でも、レモンの酎ハイなんて少し酸っぱくてパチパチして……美味しいですよ」
プシュっと缶を開けると、グラスにとくとくと注いでいく。中の氷がガラスとぶつかって、カランと涼しげな音を立てる。
しゅわしゅわと立ち昇る小さな泡に、気持ちまでふわふわと浮かび上がるようだった。
「かんぱーい」
恐る恐る口をつける先生が可愛くって、ごくりと飲みながら横目で眺める。
……美味しいのかな?
炭酸にびっくりしていたけれど、豪快にあおっていく姿に嬉しくなった。
「意外と美味いな」
「でしょー?よかった。もっと飲んでくださいっ」
「名前にも注いでやるぞ?」
「あはは。ありがとうございますっ」
名前は思っていたより酒が飲めるのか、頬を赤くしながらにこにこ笑ってもたれかかってくる。
酒のつまみとか言って、柔らかで鮮やかな甘い塊をもぐもぐ頬張って……グミというらしいが……楽しそうにしている。
ときどき、その菓子をつまんではわしの口に無理やり押し込んでくる。
ベトっとした甘さを消し去るように、慌てて酒をあおった。
よそ行きの名前とは違う、甘えてくるような姿に自分の女だと錯覚してしまいそうになる。
「飲み過ぎなんじゃないか?」
「そんなことないです!ぜんぜんよってないですって」
「まあ、わしが面倒みてやるから」
「そんなこといって……変なことしないでくださいよー?」
「そ、そんなことするか!」
「じょーだんです」
くすくす笑いながら腕に絡みついてくる女体の柔らかさとその火照った温度に、言葉とは裏腹なことばかり浮かんでくる。
……すり寄ってくる身体を抱き寄せてしまいたい。
その白くてもっちりとした太ももに手を滑らせて、撫で回してしまいたくなる。
……いや、それはまずい。
邪念を振り払うように酒を流し込んでは悶々と葛藤している。
そうして二人で笑い合っていると、結構な時間が過ぎていた。
酔いが回って気持ちが昂ると、心に仕舞っていたこともぽろりと漏れそうだ。
「……ぼーっとして、どうしました?」
「あ、ああ。悪いな」
「もしかして!私に見惚れてました?」
「……っ、バカ言うな」
「ひどーい!」
「いや、あのだな……。間違えてここに来てしまったが……お前に会えてよかったと思ってな。」
「なんです?急に……。いなくなっちゃうようなこと、言わないでくださいっ……!」
悲しそうな潤んだ瞳で、引き留めるように懇願されるとその視線をそらせない。
どうしようもなく触れたくなってしまう。
見つめあったまま、紅潮したほほに手を添えて、ジリジリと距離をつめていく。
名前の熱っぽい息が頬をかすめると、そっと唇を重ねる。
軽く触れるだけのつもりだったのに。
小さな身体をぴくりと跳ねさせて受け入れられると、我慢できずさらに求めてしまう。
名前の後頭部に指を差し入れると、逃げないようにぐっと引き寄せて、さらに深く舌を侵入させる。
さらりとした髪の手触りと、ぬるりとした熱く柔らかな口内がたまらない。
「ふっ、ぅん……っ……んんっ……ん」
ぎゅうっとしがみついてチロチロと小さな舌に口腔を擦られると、じゅる…と淫らな水音が静かな部屋に響く。
何度も角度を変えてはお互いに舌を絡ませあうと、飲みきれなかった唾液がたらりと口端を伝ってこぼれ落ちる。
……これ以上は、ダメだ。
押し倒して、自分のものにしてしまいたくなる。
最後に優しく下唇を食むと、繋いだ唇をゆっくりと離していく。
「んっ……。雅之助さんっ。わたし、その……」
「……すまない」
「謝らないでくださいっ。……わたし、嬉しかったですから」
性急なことをして嫌われても仕方がないのに、そんないじらしい事を言いおって。
なんとも言えない幸福感が胸に込み上げ、その細い身体を優しく抱き締めた。
「……お前、変な菓子のせいで甘ったるかったぞ」
「わたし、美味しかったでしょ?」
「また、そういうことを言うな」
無自覚なのか、煽るような事を言って。
せっかく理性を保ったと言うのに、こいつは……。
くすくすといたずらに笑う名前の頭をぽんと撫でると、ニカッと笑ってやった。
*
お酒に酔ってあんなことがあってから、大木先生との距離感がさらに近づいてしまった。
まるで恋人みたいな気持ちになって、もう離れることなんて考えられなかった。
出社した日には必ず駅まで迎えに来てくれるし、しっかり食え!なんて言って私のためにご飯まで作ってくれる。
まだまだ、そんな日々が続いていくような気がしていたのに。
それなのに、しばらくすると先生は急にいなくなってしまったのだ。
覚悟はしていたけれど……。
もうあの笑顔が見られないと思うと、胸が苦しくなって鼻の奥がツンと痛い。
忙しく働いている時でも、ふと思い出すとぽろぽろと涙が溢れそうになる。仕事が終わっても……迎えに来てくれた、わははと笑う先生の姿はない。
せっかく健康的な生活だったのに、一気に前の自分に戻ってしまった。
……何も言わないでいなくなるなんて。
勝手に期待してしまった分、なかなか立ち直れなさそうだ。
でも、どうやって戻ったんだろう……?
戻ったなら、また来られるのだろうか。
……また、会いに来てくれるのかな?
今度会えたら、着いて行ってしまいたいのに。
――夜
いつものように、ころんとベッドに横たわるとぼーっと天井を見上げる。大木先生がいなくなって随分経ったのに、まだダメだ。
あのとき……。
テレビを付けっぱなしで、漫画もその辺に置いて……。
そうしたらまた戻って来てくれるような気がして……。
でも、毎日その淡い期待が裏切られていく。
涙ってずっと出てくるんだな、なんて思いながらまぶたを閉じる。
ぽとりと枕に落ちる水滴の音を聞きながら、すーっと意識が遠のいていった。
――ガサガサ…
草履を脱いで懐にしまい、よいしょと枠から身を乗り出す。スッと飛び降りると、薄暗い部屋をじっと見回した。
「……おいっ、名前。いるのか?」
また迎えにくると書き置きをしたのだが、ちゃんと準備しているのだろうか?
寝台で眠る名前を横目で見つつ、自分がいない間の生活が心配になって薄灯りの部屋を色々と探ってみる。
四角い大きい板は煌々と輝いて、手元の灯りも付けっぱなしだ。冷たい箱だって中を見ると何もない。
……ちゃんと食ってるのか?!
わしがいないとダメだなぁと、布団のそばに寄って寝顔を眺める。照らされたほほには涙の跡がいくつも伝って、赤くなったまぶたが痛ましい。
……まさか、戻っている間に何かあったのか!?
「おい、名前!わしだ!」
「……ん、っ」
「起きろーっ!」
「……っ…んんっ……え……?」
ぼーっとした虚な目でこちらを見つめてくる名前をゆさゆさと揺さぶる。
「おい、どうした?!」
「え、……あの、えっと……」
「何をぼけっとしてる!」
「せ、せんせいっ……!?」
がばっと起き上がり、急に顔をくしゃくしゃにして涙を溢れさせる名前にたじろいでしまう。よしよしと抱き締めると、身体を震わせてしゃくり上げながらしがみついてきた。
「何かあったのか?!そんなに泣いて」
「きゅうに、いなくなっちゃった、から……」
「書き置きしたんだが……見てないのか?」
「……し、知らなかったっ」
「今度はちゃんと草履を脱いだぞ?ほれ」
「そんなの、どうでもいいっ……!」
首に細い腕を巻きつけられて、ぐいっと引っ張られると二人して布団に沈み込む。
ぽいっと草履を放り投げると、会えなかった時間を取り戻すかのように口付けあう。
涙が混じって塩辛い。
けれどその想いが嬉しくて止まるどころか次第に深くなっていく。
さわさわと髪の先が触れるからか、名前がくすぐったそうに身を捩り小さく笑い出した。
すこし身体を離し見つめ合うと、また唇を重ねるのだった。
(おまけ)
「さあ、行くぞ!」
「えぇっ!?……こんな夜中に、どこへ行くのですか?」
「わしの家に決まってるだろう。ラッキョ漬けも食わしてやるぞ? 善は急げだ、名前っ!ほれ、抱えてやるから!」
「……うわぁっ!」
「どこんじょーっ!」
「……ど、どこんじょーっ!」
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