憧れの人
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今日は突き抜けるような青空で、白い雲が少しだけ浮かんでいる。
爽やかな風が食堂の裏口から吹き込むと、調理場の暑さが和らいでほっと気持ちが落ち着く。
「すみませーん、名前さーんっ」
ランチの時間で忍たまたちがわいわいと食堂へやってきた。
慌ててカウンターへ飛び出していくと、どの定食にするか尋ねていく。
私は食堂のおばちゃんのお手伝いとして、日々奮闘していて。
……だいぶ板についてきたかな、なんて思っている。
「A定食にしようかなー?うふふー」
「虎若くん、なんだか嬉しそうだねっ」
ぷにっとしたほっぺをさらに膨らませて、夢見心地な表情の虎若くんがカウンターにやってきた。
なんだか恋する乙女のような姿にくすくす笑いを漏らしてしまう。
「だって!今日の放課後、照星さんに火縄銃を教えてもらえるんです!」
「しょうせいさん……?」
「火縄銃の名手で、僕の父率いる佐武鉄砲隊と一緒に活躍しているんです!」
「そ、そうなんだ……!すごいねえ」
虎若くんの熱い説明に気圧されてしまう。
そうそう、A定食お待たせっ!と手渡すとにこにこと浮かれたままテーブルへ向かっていった。
……そういえば、この間助けてくれたあの人も火縄銃を使いこなしていたな。
食堂のおばちゃんに頼まれて、お味噌を買い足しに街まで向かった帰り道。
もうすぐ夕方だから早く帰らなきゃ、なんて思って近道しようと普段通らない林の中を通ったのだ。
通り慣れない道に加えて人けのない所だったからか、柄の悪い男性二人組に絡まれてしまって。
怖くて怖くて立ちすくんでいると、無理やり腕を掴まれそうになり……連れ去られる寸前。
突然パァンと乾いた破裂音が鳴り響いて、ガサガサと真上の太い枝が落ちてきたのだ。
二人組の男達は足元に落下した大きな木の枝に驚いて飛び退くと、一目散に逃げ去っていった。
残された私は……。
火薬の焦げるような匂いが漂う中、呆然とその場に立ち尽くしていた。
カサカサと音がした方を見ると、火縄銃を担いだ鉛色の忍装束の男性がこちらに駆けてきて。
大丈夫か、と声をかけて……カタカタと恐怖に震える身体をふわりと包み込んでくれたのだ。
怖かったのと、安心したのと……身体を触れられた恥ずかしさと。
助けてくれたその男の人にお礼もしないで、逃げ去るように学園へ走って帰ってきてしまった。
薄暗い林の中に浮かぶような白い肌。筋肉質のがっしりとした腕。
ぱちりとした瞳に見つめられて、顔がかあっと熱くなって。
お腹に響くような低い声で……。
また、その声が聞きたいのに。
何で、逃げてしまったんだろう。
何で、名乗らずに……その人の名前も聞かずに……。
考えると、頭をぽかぽか殴りたくなる。とても失礼なことをしてしまった。
「名前さーん?大丈夫ですか?B定食、お願いしまーす!」
「あっ、ごめんごめん!はい、今準備するねっ」
庄左衛門くんに呼びかけられて、意識が引き戻される。
慌てて定食を準備して手渡すと、どぎまぎする心を紛らわせるようにほほをパシパシと叩いた。
――日が落ちて、空が赤と濃い紫とが入り混じっていく。
食堂からは煮物のいい匂いが漂い、忍たまたちが夕飯を食べに集まってくる頃。
虎若くんが火縄銃を特訓しているところ、見学しようと思ったのに。
仕事がバタバタして見そびれてしまった。
なんて言い訳で、本当は……。
もし、あの人だったらと思うと……。
だけど、違ったらそれはそれで落ち込みそうだし……なんてうじうじして結局見に行けなかったのだ。
「名前さん、今日はどうしたんですか?なんだか元気がないように見えます」
「三木ヱ門くん、心配させちゃってごめん!大丈夫だから……」
「そうですか?」
「三木ヱ門くんは、なんだか嬉しそうだね?」
「ええ、今日は照星さんに火縄銃を特訓してもらいましたから!」
「へぇ、そうなんだっ」
「しばらく学園にいらっしゃるようですよ。……あっ、食堂にいらっしゃいました!」
しばらくいらっしゃるのかあ。
三木ヱ門くんも目を輝かせて話してくれて。
……二人が憧れているしょうせいさんって、どんな人なんだろう。
やっぱり、期待してしまう。
カウンターから身体をグッとせり出して入り口を覗いてみる。
……っ!!
心臓をぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなって、息ができない。
だって、ずっと……もう一度会いたいと思っていた人だったから。
しょうせいさんが、カウンターの前で立ち止まった。
私のことを見つめて、少し驚いた顔をしている。
「あのっ、その節は、お礼もできず……すみませんでした」
「……あ、ああ。あの時の」
「私っ、名前と申します!助けていただいて、ありがとうございました……!」
「照星だ。君が無事で良かった」
定食を手渡すと、すっといなくなってしまって。
照星さん……。名前を教えてもらって、それだけで頭がパンクしそうだ。
もう少し話したかったのに、そう思っているのはきっと私だけかもしれない。
彼の名前を知って、私の名前を知ってもらえて、それだけで嬉しいはずなのに。
もっと照星さんと関わりたいなんて欲張りな気持ちに溜息が出る。
明日、火縄銃の特訓を見学できるように……。残業して仕込みを片付けちゃおうかな。
カウンター越しに、食事をとる彼を見つめる。
三木ヱ門くんと虎若くんに囲まれて、少し困ったように笑いながらもぐもぐしていて。
……だめだ、またぼーっとしてしまった。
――夜。
雲ひとつない漆黒の空に、小さな星が瞬いている。細い三日月が揺れるように輝きを放っていた。
忍たま達はお風呂に入り終わって、もうすぐ眠る頃だろうか。
食堂のおばちゃんに無理を言って、明日の仕込みを今日中にさせてもらっていた。
大根の下処理をしたり、菜葉のいらない部分を取っていったり。
一心不乱に作業していたからか、見回りの山田先生に声をかけられてびっくりしてしまった。
「名前くん、随分遅いが大丈夫か?」
「あっ、はい!ご心配おかけしてすみませんっ!」
「手伝うことはあるかな?」
「いえ、もう終わりますので……!」
ただでさえ忙しい山田先生の手を煩わせる訳にはいかない。
……だって、私のわがままなんだから。
山田先生が灯りを手に見回りの足を進めていって、少し経った頃。
下ごしらえも片がついて、ふぅと額の汗を腕で拭う。
食堂の入り口あたりから足音が聞こえて……。山田先生が様子を見に戻って来られたのだろうか?
「遅くまでお疲れ様ですっ」
「……君か」
「しょ、照星さんっ……!」
「風呂を済ませて部屋に戻る所だったんだが。食堂に灯りがついていたから気になってしまった」
「そうでしたか……!あの、よかったらお部屋にお茶をお持ちしましょうか」
「すまない」
お風呂上がりでしっとりと濡れた黒髪に寝巻き姿の照星さんは、匂い立つような色気があって視線をキョロキョロさせてしまう。
……こんなに上品で綺麗な男の人、見たことない。
お茶を持っていくなんて、ついそんな事を言ってしまったけれど……夜に男性の部屋へ向かうなんて、はしたないと思われちゃったかな……?
言ってしまったことはどうしようもできないし……。
急須に茶葉を入れてお湯を注いでいく。
……何を話していいか分からず、沈黙が続いている。
照星さんは近くの椅子に座って、遠くを眺めていた。
静かすぎて、心臓の音が響いてしまいそうだ。
「お待たせしました……!お茶、入りましたっ」
「ああ」
お盆にのせると二人で教員長屋へと歩いていく。
「失礼します……」
「今、灯りをつける」
「……はい」
照星さんが使う客室の前につくと、襲ってくる緊張感に押しつぶされないようお盆を握りしめた。
端にある文机にお盆を置いて、床に正座した照星さんに湯呑みを差し出す。
ずずっと美味しそうにお茶を啜ってくれてほっとする。
「少しお話ししたくて……。よろしいですか?」
「構わないが」
ぶっきらぼうな言葉だけど、嬉しくって口元が緩んでしまった。
私も、照星さんの近くに座らせてもらう。
……暗い部屋に小さな灯りひとつで。
白い陶器のような肌がぼうっと照らされて、その厚い唇に見惚れてしまう。
急にふわりと抱きしめられた時の男らしい感触を思い出して、顔が熱くなる。
高鳴る気持ちを落ち着かせるように、膝の上でぎゅっと握った手にさらに力を込めた。
「助けていただいた時、お礼も言わず本当に申し訳なくて。……なんで、逃げちゃったんだろうって」
「いや、怖かっただろう。私も、急に触れてしまってすまない」
「いえっ!そんなこと……!」
「君に、また会えるとは思わなかった。忍術学園で働いていたんだな」
「ええ。食堂のお手伝いをしています。またお会いできて……ちゃんとお礼が言えて、本当に良かったです」
「私も、あれから君が無事に戻れたのか心配だった」
「ご心配をおかけしてすみません……」
「気にしないで良い」
「……あの、照星さん、とても格好良かったです」
低く響く声を聞いていたら、うっとりしてしまって。つい、思っていることが口から出てしまった。
突然そんなことを言って、どうしよう。
照星さんが驚いた顔をして固まっている。その様子に、自分の発言が恥ずかしくて俯く。
沈黙に耐えられずに顔を上げると、照星さんは少し赤い顔でこちらを見つめていた。
……そんな表情、見せてくれるんだ。
なかなか見られない姿に、心の中で喜んでしまった。
「明日、火縄銃の特訓を見学してもいいですか……?」
「良いが、危ないから気を付けなさい」
「はいっ」
空になった湯呑みをお盆にのせ、部屋を失礼する。
照星さんに、明日も会える。
今朝、こんなことが予想できただろうか。
……虎若くんと三木ヱ門くんの気持ち、すごく分かる。私も二人と同じように、目がキラキラしてしまっているかも。
足取り軽く、食堂へと湯呑みを戻しにいった。
*
――次の日
澄み渡るような青空が広がって、そよ風が吹いている。
「息を深く吸って……全て吐き出してから息を止めるんだ」
パアァンッ……
「そうだ、いいぞ。若太夫」
「ありがとうございますっ!」
学園の学舎よりも離れたところに、射的の練習所があって。
大きな的に向かって火縄銃を構える虎若くんと、側で指導する照星さん、その横に佇む三木ヱ門くんを幕の張られた端っこから見つめる。
あたりが火薬の焦げた匂いに包まれると、この間のことを思い出してしまう。
照星さんに包み込まれた時、ふわりと火薬の香りがして……。
「名前くん、もう少し離れないと危ない!」
「あ、はい!すみませんっ!」
急に名前を呼ばれて驚いてしまった。
よく見ようと、少し中へ入り込んでしまっていたのだ。
「君に何かあったら困る」
「……っ!はい」
こちらに振り向くと困ったように笑っていて、その表情にドキリとする。
私のこと、心配してくれるなんて。危ないから注意しただけなのに、そんな些細なことも嬉しくなってしまう。
火縄銃の特訓が一段落つくとみんなに竹筒の水を手渡していった。
「二人とも、お疲れさまっ」
「名前さん、ありがとうございます!」
「はあぁ〜生き返るーっ!」
「虎若くんったら」
「照星さんも、お疲れさまでしたっ」
「ありがとう」
照星さんが竹筒を握りしめ、水をごくりと飲み込むと、汗ばんだ首筋からちらりと覗く喉仏がゆっくり上下して……。
女性よりも白くてきめ細かな肌なのに、その仕草は男性を感じさせて。
つい目が離せないで、じっと見つめてしまっていた。
「……?」
「……っ!?」
視線がぶつかって、息ができないくらいにドキリとする。
でも、ずっとこのまま……こうしていたくなってしまう。
あなたの瞳に、私だけを映して欲しくて。
「さあ、二人とも練習に戻るぞ!」
「「はーいっ!」」
照星さんはすこし口元を緩めてくれた……気がする。
二人に発破をかけると、的の方へくるりと身体を翻してしまった。
空の竹筒を胸に抱えながら、慌てて食堂へと戻る。少し見学しすぎてしまった……!
*
名前という女性は、食堂や廊下ですれ違うとにこりと声を掛けてくる。
林の中で助けた時。
夕暮れの道で見かけた彼女は、キョロキョロと周りを見回すと、意を決したようにサッと林の中に入って行って。
……悪い予感がして、後をついて行ったのだ。
予感は的中して、彼女は危険な状況に巻き込まれていた。
二人組の男に向かって撃とうとしたが、その光景を彼女に見せたくなくて咄嗟に銃口を木の枝に向けたのだった。
火縄銃の破裂音が、さらに怖がらせてしまったのかもしれない。
恐怖に震える彼女を何とかしてあげたくて、思わずその身体を包むように触れてしまった。
小さな身体は……柔らかい感触と、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐって。
不安に揺れる瞳に見つめられてすぐに目を逸らされると、腕の中からすっと逃げ去ってしまった。
……火縄銃の扱いなら自信があるのだが。
女性となると、どうしていいか分からない。
彼女は無事に帰れたのだろうかと、そればかり気になっていた。
……まさか、忍術学園で働いていたとは。
「照星さん、おはようございますっ」
「ああ。お早う」
カウンター越しに名前くんが話しかけてくる。
にこにこと人懐っこいその笑顔に、ずっと見つめていたくなってしまう。
……まったく、私らしくない。
「今日、お帰りなんですよね……?」
「そうだ。世話になったな」
「いえ、そんなっ。あとで、お弁当をお渡ししますから」
「わざわざすまない」
「お口に合うと良いんですけどっ」
「君の作った料理だ、きっと美味いだろう」
「……っ!」
彼女は顔を赤くしてピクリとする。
そんなに、動揺させるようなことを言ってしまったのだろうか……?
朝食を受け取るとテーブルへと向かった。
相変わらず若太夫と三木ヱ門が寄ってきて、土井先生には苦笑しながら頭を下げられる。
お気になさらず、と言いながら気持ちと目線はカウンターで忙しなく働く彼女に向いていて。
「照星さん、名前さんのこと気になさっているのですか?」
「こら、虎若っ何を言っているんだ!」
「で、でも……」
「二人とも、喋ってないで早く食べるんだ」
「「……はーい」」
気になる、か。
そう聞かれたら、そうなのかもしれない。
彼女は可愛らしい人だなと思う。
しかし……その、どうして良いか分からない。
もう少し彼女と会話を重ねたら、さらに引き込まれてしまいそうだ。
また、あの揺れる瞳に見つめられたら……もう気持ちを誤魔化せないかもしれない。
林の中で見かけた時は、恐怖でこわばっていた表情だったのに。
今は、あんなに柔らかくほほ笑んでくれる。
「照星さんも早く食べないと、朝食の時間が終わってしまいます!」
「……そうだな。すまない」
*
もうそろそろ、照星さんがお帰りになる頃。
私と虎若くん三木ヱ門くんと三人で、門の前まで見送る。
……黒い頭巾は被っているけれど、白っぽい上衣に小豆色の袴の、私服姿が新鮮だった。
「私が指導したことを忘れず、練習に励むように」
「「はいっ!」」
「よろしい」
キリッとした言葉に二人とも身が引き締まったように真剣な表情をしている。
その様子を、照星さんは温かい眼差しで見ていた。
「あの、お弁当です。良かったら、食べててくださいっ」
「ありがとう」
……もう、当分会えない。
そう思うと、胸が苦しくなってお弁当を差し出す手が震えてしまう。
照星さんが大きな両手で受け取ってくれると、その白い手指にそっと私の手を重ねる。
筋張った手の甲に指を滑らせ、感触を確かめるように柔らかく握る。
緊張でしっとりとした手のひらに照星さんの熱が伝わると、さらに手のひらの汗が滲んできて。
彼の大きな瞳を見つめると、恥ずかしくてうまく笑えない。
頑張って笑顔を作ってみるけれど、きっとぎこちない顔だ。
かなり大胆かもしれない。
でも、どうしても触れたくて。
「また、いらして下さいね」
「ああ、分かった」
心なしか、照星さんのほほが赤い気がする……。
そんな小さな事で、また嬉しくなって。
出門票にサインすると、黒色の凛々しい馬に跨って颯爽と立ち去ってしまった。
その後ろ姿まで煌めいて見えて。
三人揃って、目をキラキラさせて見つめているのだった。
(おまけ)
大分遠くまで馬を走らせてきた。
去り際の、名前くんの柔らかな手の感触と潤んだ瞳に思考を奪われる。
ドキドキという鼓動の音が、馬の駆ける音と同じくらいに耳に鳴り響く。
……冷静さを失うなんて、私らしくない。
頭を冷やすために林の中にある大きな石のあたりに馬を休ませ、担いだ火縄銃を地面に置くと自身も腰を下ろす。
石のひんやりした温度が背中に伝わり、気持ちが幾分か落ち着いてくる。
……昼をとるには丁度良い時間だ。
彼女が渡してくれた弁当の包みを解いて、ふたを開けようと手をかけた瞬間。
……誰かの気配を感じる。
感覚を研ぎ澄ませ、周囲に意識を集中させる。
「照星じゃないか」
「この声は……雑渡昆奈門…!」
大きな石の裏から雑渡昆奈門がひょっこりと顔を覗かせている。
以前、この場所で休んでいたようで鉢合わせたことがあったが……今回もとは。
何て間の悪い。
「あれ、お弁当じゃないか」
「あ、ああ」
早くふたを開けろという視線が突き刺さる。まったく、人の弁当を見て何が楽しいんだか。
「……!!」
「おおっと、ずいぶんと熱々だな。ハート型の紅かぶらが入ってる。」
「お前には関係ない。」
「川のりで星の形も描いてあるぞ。照星、お前もなかなか……」
「……っ!」
「例のあの子だよねえ。彼女、可愛いし料理も上手なのか。今度私もお願いして作ってもらおうかな。」
「おいっ!……名前くんに近づくな。」
「ふぅん、名前っていうコなんだ。」
……しまった!
雑渡昆奈門のやつめ……。
にやにや笑いながら、邪魔して悪かったなと立ち去っていく姿を呆然と見つめる。
熱くなった顔はそのままに、ハート型の紅かぶらを口に放り込む。
冷静になろうと思ったのに、さらに彼女のことを考えてしまう自分に苦笑を漏らした。
爽やかな風が食堂の裏口から吹き込むと、調理場の暑さが和らいでほっと気持ちが落ち着く。
「すみませーん、名前さーんっ」
ランチの時間で忍たまたちがわいわいと食堂へやってきた。
慌ててカウンターへ飛び出していくと、どの定食にするか尋ねていく。
私は食堂のおばちゃんのお手伝いとして、日々奮闘していて。
……だいぶ板についてきたかな、なんて思っている。
「A定食にしようかなー?うふふー」
「虎若くん、なんだか嬉しそうだねっ」
ぷにっとしたほっぺをさらに膨らませて、夢見心地な表情の虎若くんがカウンターにやってきた。
なんだか恋する乙女のような姿にくすくす笑いを漏らしてしまう。
「だって!今日の放課後、照星さんに火縄銃を教えてもらえるんです!」
「しょうせいさん……?」
「火縄銃の名手で、僕の父率いる佐武鉄砲隊と一緒に活躍しているんです!」
「そ、そうなんだ……!すごいねえ」
虎若くんの熱い説明に気圧されてしまう。
そうそう、A定食お待たせっ!と手渡すとにこにこと浮かれたままテーブルへ向かっていった。
……そういえば、この間助けてくれたあの人も火縄銃を使いこなしていたな。
食堂のおばちゃんに頼まれて、お味噌を買い足しに街まで向かった帰り道。
もうすぐ夕方だから早く帰らなきゃ、なんて思って近道しようと普段通らない林の中を通ったのだ。
通り慣れない道に加えて人けのない所だったからか、柄の悪い男性二人組に絡まれてしまって。
怖くて怖くて立ちすくんでいると、無理やり腕を掴まれそうになり……連れ去られる寸前。
突然パァンと乾いた破裂音が鳴り響いて、ガサガサと真上の太い枝が落ちてきたのだ。
二人組の男達は足元に落下した大きな木の枝に驚いて飛び退くと、一目散に逃げ去っていった。
残された私は……。
火薬の焦げるような匂いが漂う中、呆然とその場に立ち尽くしていた。
カサカサと音がした方を見ると、火縄銃を担いだ鉛色の忍装束の男性がこちらに駆けてきて。
大丈夫か、と声をかけて……カタカタと恐怖に震える身体をふわりと包み込んでくれたのだ。
怖かったのと、安心したのと……身体を触れられた恥ずかしさと。
助けてくれたその男の人にお礼もしないで、逃げ去るように学園へ走って帰ってきてしまった。
薄暗い林の中に浮かぶような白い肌。筋肉質のがっしりとした腕。
ぱちりとした瞳に見つめられて、顔がかあっと熱くなって。
お腹に響くような低い声で……。
また、その声が聞きたいのに。
何で、逃げてしまったんだろう。
何で、名乗らずに……その人の名前も聞かずに……。
考えると、頭をぽかぽか殴りたくなる。とても失礼なことをしてしまった。
「名前さーん?大丈夫ですか?B定食、お願いしまーす!」
「あっ、ごめんごめん!はい、今準備するねっ」
庄左衛門くんに呼びかけられて、意識が引き戻される。
慌てて定食を準備して手渡すと、どぎまぎする心を紛らわせるようにほほをパシパシと叩いた。
――日が落ちて、空が赤と濃い紫とが入り混じっていく。
食堂からは煮物のいい匂いが漂い、忍たまたちが夕飯を食べに集まってくる頃。
虎若くんが火縄銃を特訓しているところ、見学しようと思ったのに。
仕事がバタバタして見そびれてしまった。
なんて言い訳で、本当は……。
もし、あの人だったらと思うと……。
だけど、違ったらそれはそれで落ち込みそうだし……なんてうじうじして結局見に行けなかったのだ。
「名前さん、今日はどうしたんですか?なんだか元気がないように見えます」
「三木ヱ門くん、心配させちゃってごめん!大丈夫だから……」
「そうですか?」
「三木ヱ門くんは、なんだか嬉しそうだね?」
「ええ、今日は照星さんに火縄銃を特訓してもらいましたから!」
「へぇ、そうなんだっ」
「しばらく学園にいらっしゃるようですよ。……あっ、食堂にいらっしゃいました!」
しばらくいらっしゃるのかあ。
三木ヱ門くんも目を輝かせて話してくれて。
……二人が憧れているしょうせいさんって、どんな人なんだろう。
やっぱり、期待してしまう。
カウンターから身体をグッとせり出して入り口を覗いてみる。
……っ!!
心臓をぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなって、息ができない。
だって、ずっと……もう一度会いたいと思っていた人だったから。
しょうせいさんが、カウンターの前で立ち止まった。
私のことを見つめて、少し驚いた顔をしている。
「あのっ、その節は、お礼もできず……すみませんでした」
「……あ、ああ。あの時の」
「私っ、名前と申します!助けていただいて、ありがとうございました……!」
「照星だ。君が無事で良かった」
定食を手渡すと、すっといなくなってしまって。
照星さん……。名前を教えてもらって、それだけで頭がパンクしそうだ。
もう少し話したかったのに、そう思っているのはきっと私だけかもしれない。
彼の名前を知って、私の名前を知ってもらえて、それだけで嬉しいはずなのに。
もっと照星さんと関わりたいなんて欲張りな気持ちに溜息が出る。
明日、火縄銃の特訓を見学できるように……。残業して仕込みを片付けちゃおうかな。
カウンター越しに、食事をとる彼を見つめる。
三木ヱ門くんと虎若くんに囲まれて、少し困ったように笑いながらもぐもぐしていて。
……だめだ、またぼーっとしてしまった。
――夜。
雲ひとつない漆黒の空に、小さな星が瞬いている。細い三日月が揺れるように輝きを放っていた。
忍たま達はお風呂に入り終わって、もうすぐ眠る頃だろうか。
食堂のおばちゃんに無理を言って、明日の仕込みを今日中にさせてもらっていた。
大根の下処理をしたり、菜葉のいらない部分を取っていったり。
一心不乱に作業していたからか、見回りの山田先生に声をかけられてびっくりしてしまった。
「名前くん、随分遅いが大丈夫か?」
「あっ、はい!ご心配おかけしてすみませんっ!」
「手伝うことはあるかな?」
「いえ、もう終わりますので……!」
ただでさえ忙しい山田先生の手を煩わせる訳にはいかない。
……だって、私のわがままなんだから。
山田先生が灯りを手に見回りの足を進めていって、少し経った頃。
下ごしらえも片がついて、ふぅと額の汗を腕で拭う。
食堂の入り口あたりから足音が聞こえて……。山田先生が様子を見に戻って来られたのだろうか?
「遅くまでお疲れ様ですっ」
「……君か」
「しょ、照星さんっ……!」
「風呂を済ませて部屋に戻る所だったんだが。食堂に灯りがついていたから気になってしまった」
「そうでしたか……!あの、よかったらお部屋にお茶をお持ちしましょうか」
「すまない」
お風呂上がりでしっとりと濡れた黒髪に寝巻き姿の照星さんは、匂い立つような色気があって視線をキョロキョロさせてしまう。
……こんなに上品で綺麗な男の人、見たことない。
お茶を持っていくなんて、ついそんな事を言ってしまったけれど……夜に男性の部屋へ向かうなんて、はしたないと思われちゃったかな……?
言ってしまったことはどうしようもできないし……。
急須に茶葉を入れてお湯を注いでいく。
……何を話していいか分からず、沈黙が続いている。
照星さんは近くの椅子に座って、遠くを眺めていた。
静かすぎて、心臓の音が響いてしまいそうだ。
「お待たせしました……!お茶、入りましたっ」
「ああ」
お盆にのせると二人で教員長屋へと歩いていく。
「失礼します……」
「今、灯りをつける」
「……はい」
照星さんが使う客室の前につくと、襲ってくる緊張感に押しつぶされないようお盆を握りしめた。
端にある文机にお盆を置いて、床に正座した照星さんに湯呑みを差し出す。
ずずっと美味しそうにお茶を啜ってくれてほっとする。
「少しお話ししたくて……。よろしいですか?」
「構わないが」
ぶっきらぼうな言葉だけど、嬉しくって口元が緩んでしまった。
私も、照星さんの近くに座らせてもらう。
……暗い部屋に小さな灯りひとつで。
白い陶器のような肌がぼうっと照らされて、その厚い唇に見惚れてしまう。
急にふわりと抱きしめられた時の男らしい感触を思い出して、顔が熱くなる。
高鳴る気持ちを落ち着かせるように、膝の上でぎゅっと握った手にさらに力を込めた。
「助けていただいた時、お礼も言わず本当に申し訳なくて。……なんで、逃げちゃったんだろうって」
「いや、怖かっただろう。私も、急に触れてしまってすまない」
「いえっ!そんなこと……!」
「君に、また会えるとは思わなかった。忍術学園で働いていたんだな」
「ええ。食堂のお手伝いをしています。またお会いできて……ちゃんとお礼が言えて、本当に良かったです」
「私も、あれから君が無事に戻れたのか心配だった」
「ご心配をおかけしてすみません……」
「気にしないで良い」
「……あの、照星さん、とても格好良かったです」
低く響く声を聞いていたら、うっとりしてしまって。つい、思っていることが口から出てしまった。
突然そんなことを言って、どうしよう。
照星さんが驚いた顔をして固まっている。その様子に、自分の発言が恥ずかしくて俯く。
沈黙に耐えられずに顔を上げると、照星さんは少し赤い顔でこちらを見つめていた。
……そんな表情、見せてくれるんだ。
なかなか見られない姿に、心の中で喜んでしまった。
「明日、火縄銃の特訓を見学してもいいですか……?」
「良いが、危ないから気を付けなさい」
「はいっ」
空になった湯呑みをお盆にのせ、部屋を失礼する。
照星さんに、明日も会える。
今朝、こんなことが予想できただろうか。
……虎若くんと三木ヱ門くんの気持ち、すごく分かる。私も二人と同じように、目がキラキラしてしまっているかも。
足取り軽く、食堂へと湯呑みを戻しにいった。
*
――次の日
澄み渡るような青空が広がって、そよ風が吹いている。
「息を深く吸って……全て吐き出してから息を止めるんだ」
パアァンッ……
「そうだ、いいぞ。若太夫」
「ありがとうございますっ!」
学園の学舎よりも離れたところに、射的の練習所があって。
大きな的に向かって火縄銃を構える虎若くんと、側で指導する照星さん、その横に佇む三木ヱ門くんを幕の張られた端っこから見つめる。
あたりが火薬の焦げた匂いに包まれると、この間のことを思い出してしまう。
照星さんに包み込まれた時、ふわりと火薬の香りがして……。
「名前くん、もう少し離れないと危ない!」
「あ、はい!すみませんっ!」
急に名前を呼ばれて驚いてしまった。
よく見ようと、少し中へ入り込んでしまっていたのだ。
「君に何かあったら困る」
「……っ!はい」
こちらに振り向くと困ったように笑っていて、その表情にドキリとする。
私のこと、心配してくれるなんて。危ないから注意しただけなのに、そんな些細なことも嬉しくなってしまう。
火縄銃の特訓が一段落つくとみんなに竹筒の水を手渡していった。
「二人とも、お疲れさまっ」
「名前さん、ありがとうございます!」
「はあぁ〜生き返るーっ!」
「虎若くんったら」
「照星さんも、お疲れさまでしたっ」
「ありがとう」
照星さんが竹筒を握りしめ、水をごくりと飲み込むと、汗ばんだ首筋からちらりと覗く喉仏がゆっくり上下して……。
女性よりも白くてきめ細かな肌なのに、その仕草は男性を感じさせて。
つい目が離せないで、じっと見つめてしまっていた。
「……?」
「……っ!?」
視線がぶつかって、息ができないくらいにドキリとする。
でも、ずっとこのまま……こうしていたくなってしまう。
あなたの瞳に、私だけを映して欲しくて。
「さあ、二人とも練習に戻るぞ!」
「「はーいっ!」」
照星さんはすこし口元を緩めてくれた……気がする。
二人に発破をかけると、的の方へくるりと身体を翻してしまった。
空の竹筒を胸に抱えながら、慌てて食堂へと戻る。少し見学しすぎてしまった……!
*
名前という女性は、食堂や廊下ですれ違うとにこりと声を掛けてくる。
林の中で助けた時。
夕暮れの道で見かけた彼女は、キョロキョロと周りを見回すと、意を決したようにサッと林の中に入って行って。
……悪い予感がして、後をついて行ったのだ。
予感は的中して、彼女は危険な状況に巻き込まれていた。
二人組の男に向かって撃とうとしたが、その光景を彼女に見せたくなくて咄嗟に銃口を木の枝に向けたのだった。
火縄銃の破裂音が、さらに怖がらせてしまったのかもしれない。
恐怖に震える彼女を何とかしてあげたくて、思わずその身体を包むように触れてしまった。
小さな身体は……柔らかい感触と、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐって。
不安に揺れる瞳に見つめられてすぐに目を逸らされると、腕の中からすっと逃げ去ってしまった。
……火縄銃の扱いなら自信があるのだが。
女性となると、どうしていいか分からない。
彼女は無事に帰れたのだろうかと、そればかり気になっていた。
……まさか、忍術学園で働いていたとは。
「照星さん、おはようございますっ」
「ああ。お早う」
カウンター越しに名前くんが話しかけてくる。
にこにこと人懐っこいその笑顔に、ずっと見つめていたくなってしまう。
……まったく、私らしくない。
「今日、お帰りなんですよね……?」
「そうだ。世話になったな」
「いえ、そんなっ。あとで、お弁当をお渡ししますから」
「わざわざすまない」
「お口に合うと良いんですけどっ」
「君の作った料理だ、きっと美味いだろう」
「……っ!」
彼女は顔を赤くしてピクリとする。
そんなに、動揺させるようなことを言ってしまったのだろうか……?
朝食を受け取るとテーブルへと向かった。
相変わらず若太夫と三木ヱ門が寄ってきて、土井先生には苦笑しながら頭を下げられる。
お気になさらず、と言いながら気持ちと目線はカウンターで忙しなく働く彼女に向いていて。
「照星さん、名前さんのこと気になさっているのですか?」
「こら、虎若っ何を言っているんだ!」
「で、でも……」
「二人とも、喋ってないで早く食べるんだ」
「「……はーい」」
気になる、か。
そう聞かれたら、そうなのかもしれない。
彼女は可愛らしい人だなと思う。
しかし……その、どうして良いか分からない。
もう少し彼女と会話を重ねたら、さらに引き込まれてしまいそうだ。
また、あの揺れる瞳に見つめられたら……もう気持ちを誤魔化せないかもしれない。
林の中で見かけた時は、恐怖でこわばっていた表情だったのに。
今は、あんなに柔らかくほほ笑んでくれる。
「照星さんも早く食べないと、朝食の時間が終わってしまいます!」
「……そうだな。すまない」
*
もうそろそろ、照星さんがお帰りになる頃。
私と虎若くん三木ヱ門くんと三人で、門の前まで見送る。
……黒い頭巾は被っているけれど、白っぽい上衣に小豆色の袴の、私服姿が新鮮だった。
「私が指導したことを忘れず、練習に励むように」
「「はいっ!」」
「よろしい」
キリッとした言葉に二人とも身が引き締まったように真剣な表情をしている。
その様子を、照星さんは温かい眼差しで見ていた。
「あの、お弁当です。良かったら、食べててくださいっ」
「ありがとう」
……もう、当分会えない。
そう思うと、胸が苦しくなってお弁当を差し出す手が震えてしまう。
照星さんが大きな両手で受け取ってくれると、その白い手指にそっと私の手を重ねる。
筋張った手の甲に指を滑らせ、感触を確かめるように柔らかく握る。
緊張でしっとりとした手のひらに照星さんの熱が伝わると、さらに手のひらの汗が滲んできて。
彼の大きな瞳を見つめると、恥ずかしくてうまく笑えない。
頑張って笑顔を作ってみるけれど、きっとぎこちない顔だ。
かなり大胆かもしれない。
でも、どうしても触れたくて。
「また、いらして下さいね」
「ああ、分かった」
心なしか、照星さんのほほが赤い気がする……。
そんな小さな事で、また嬉しくなって。
出門票にサインすると、黒色の凛々しい馬に跨って颯爽と立ち去ってしまった。
その後ろ姿まで煌めいて見えて。
三人揃って、目をキラキラさせて見つめているのだった。
(おまけ)
大分遠くまで馬を走らせてきた。
去り際の、名前くんの柔らかな手の感触と潤んだ瞳に思考を奪われる。
ドキドキという鼓動の音が、馬の駆ける音と同じくらいに耳に鳴り響く。
……冷静さを失うなんて、私らしくない。
頭を冷やすために林の中にある大きな石のあたりに馬を休ませ、担いだ火縄銃を地面に置くと自身も腰を下ろす。
石のひんやりした温度が背中に伝わり、気持ちが幾分か落ち着いてくる。
……昼をとるには丁度良い時間だ。
彼女が渡してくれた弁当の包みを解いて、ふたを開けようと手をかけた瞬間。
……誰かの気配を感じる。
感覚を研ぎ澄ませ、周囲に意識を集中させる。
「照星じゃないか」
「この声は……雑渡昆奈門…!」
大きな石の裏から雑渡昆奈門がひょっこりと顔を覗かせている。
以前、この場所で休んでいたようで鉢合わせたことがあったが……今回もとは。
何て間の悪い。
「あれ、お弁当じゃないか」
「あ、ああ」
早くふたを開けろという視線が突き刺さる。まったく、人の弁当を見て何が楽しいんだか。
「……!!」
「おおっと、ずいぶんと熱々だな。ハート型の紅かぶらが入ってる。」
「お前には関係ない。」
「川のりで星の形も描いてあるぞ。照星、お前もなかなか……」
「……っ!」
「例のあの子だよねえ。彼女、可愛いし料理も上手なのか。今度私もお願いして作ってもらおうかな。」
「おいっ!……名前くんに近づくな。」
「ふぅん、名前っていうコなんだ。」
……しまった!
雑渡昆奈門のやつめ……。
にやにや笑いながら、邪魔して悪かったなと立ち去っていく姿を呆然と見つめる。
熱くなった顔はそのままに、ハート型の紅かぶらを口に放り込む。
冷静になろうと思ったのに、さらに彼女のことを考えてしまう自分に苦笑を漏らした。
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