落書きから始まる
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私は、今日も青物屋の周りを掃きそうじしている。
ほうきを握る手には力がこもり、額は少し汗が滲む。お客さんが気持ちよく買い物できるように……。
街に並ぶ店々も開店の準備で忙しそうだった。賑やかな声があちこちから聞こえてくる。
ひと通り落ち葉や塵をかき集めると、店主のおじさん、おばさんと採れたての野菜を店先に並べていく。お付き合いのあるところから仕入れているみたいで、ちょっと色々あるみたいだ。
街の集まりに入らないとダメだったり、私はあまり詳しくないけれど……。
「おばさんっ。店の支度できましたー!」
「ありがとう。じゃあ、今日もよろしくね」
おじさんとおばさんは、身寄りのない私を住み込みで雇ってくれたのだ。それもあって、しっかり働いて恩返ししたいという気持ちが強いのかもしれない。
店先に出ると、元気よく呼び込みをする。
いつもの、一日のはじまりだ。
昼過ぎになると、人の波もだいぶ落ち着いてきた。少し休憩した後、裏口に散らかった野菜の葉や屑を片付けるためほうきを手にする。
ついでに店の裏の道も綺麗にしていくと店番の時間になって。戻らなきゃ!と慌てて振り向いた瞬間。
「え!?……っ、なにこれ……?」
裏口の壁一面に、何やらチョークでへなちょこな絵が描かれている。へのへのもへじみたいな、蝶々なのか、馬みたいなものとか……。
「ら、落書き……!?」
何でこんなところに描くんだー!と叫びたい気持ちを抑えて、おじさんおばさんに報告するべく店内へ急いだ。
……早く消さなきゃ!ここに描いても良いと思われちゃう。
「おじさんっ!おばさんっ!これ、見てください……!」
「まったく、酷いことをする奴がいたもんだ」
「あらまあ。何でこんなところに……」
みてみて!と裏口まで二人を引っ張って一緒に確認すると、みんなでガックリとする。
「私、ちゃんと綺麗にしますから。任せてください!」
桶に井戸水を汲んで、布切れでゴシゴシと壁を拭いていく。何度も何度もその作業を繰り返し、もう半刻は経つ頃だろうか。
布の水気を切るために絞る手も、拭き取るその腕も……もう限界だった。
「手伝いましょうか?」
背後から、大きな声が聞こえてびっくりする。
どこかで聞いたことのあるような……。
私に言ってくれてるのかな?
壁を拭く手を止めて振り返る。
……あ、あの、ラッキョを売っている人だ。たしか、杭瀬村で作ったと言っていたような。
今度買ってみようと思っていたけれど、すぐいなくなってしまって。商売っ気のない人だな、なんて思っていた。
快活に笑うその人は、荷車を置くとこちらに大股で歩いてくる。
「これは随分と傑作ですなあ」
「まったく、何でこんなこと……」
「上の方、あなたでは届かないでしょう」
「そうなんです。困っちゃいまして……」
困っていることを当てられたと思ったら、手に握っていた布切れをさっと奪われて。じゃぶじゃぶと桶の水につけると豪快に水気を絞っている。
捲り上げた袖から見えるその腕のたくましさと、浮き出る筋が男性を感じさせてドキドキしてしまった。
……名前も知らない人に、そんなこと考えて。恥ずかしさに隠れたくなってしまう。
背の高いその男の人は、どこんじょー!と叫ぶと高い部分の落書きも簡単に拭い去ってしまった。
その姿に見惚れてしまったけれど、どこんじょー!って……おかしな人。
「これで、きれいになっただろう!」
「あの、ありがとうございます!」
ニカっと屈託なく笑う顔に、落ち込んでいた気分がたちまち回復していく。
「そんなに手を赤くして、一人で大変だったなあ」
「あ、いえ、大丈夫ですからっ」
何回も何回も絞って拭いてを繰り返した手は赤くなってしまっていて。そんな些細なところを指摘されて驚くと同時に、頑張りを認めてくれて嬉しくなってしまう。なんだかむず痒い気持ちになって両手を隠すようにぎゅっと握った。
「わたしっ、名前と言います。いつも、あなたがラッキョを売っているのを……見かけていて」
「そうですか!私は、大木雅之助といいます。この辺でたまに売り歩いてるので、何かあったら言ってください」
……おおき、まさのすけ、さん。
忘れないように、ちゃんと覚えておかなきゃ。
名前を教えてもらうと、もっと彼のことを知りたくなってしまう。うるさい鼓動を押さえつけるように、胸元にそっと手のひらを当てた。
「何かなくても……お声をかけて、いいですか」
「ええ、もちろんですとも!」
私が変なことを言ったからか少し驚いた様子だったけれど、優しく笑ってくれて。それが嬉しくて嬉しくて、思わず笑みが溢れてしまう。
雅之助さんは、帰り際にラッキョ漬けまで渡してくれた。
一つ口に運ぶと、シャキシャキとした歯応えと……じんわり広がる甘みに幸せな気持ちになった。
それからというもの、雅之助さんはたまに近くでラッキョを売りに来ることがあると、私の店にも顔を出してくれるようになって。
「あっ!雅之助さーん!」
「おお、名前か。今日も繁盛してるなあ!」
「おかげさまでっ」
お客さんのやり取りが一段落すると、おばさんをちらっと確認して……にこっとほほ笑まれたから大丈夫だ。
店先にいる雅之助さんの元へと駆け寄っていつものように挨拶する。
「ラッキョの売れ行きはいかがですか」
「まあ、ぼちぼちってところだな」
「あの……もしよかったら、うちの店に置かせてもらえませんか」
おじさんもおばさんも、いただいた漬物の味にいたく感動して街の組合に話をつけてくれたみたいで。でも、ここで移動販売できているってことは……そんなに問題は無いんじゃないかと思うのだけど。
「それはありがたい!」
「雅之助さんの作るラッキョ漬けがとても美味しかったので、みんなに食べてもらいたくてっ」
「褒めてもらえると嬉しいものだな」
大きな少年みたいに笑う姿が可愛らしくてくすくすしてしまう。美味しいラッキョをみんなに食べてもらいたい……その気持ちは本当で。
でも、それをきっかけに雅之助さんと会えることが何より嬉しかった。
*
最後に会ってからどれくらい経っただろう。
今日もいつも通り、忙しない人通りを前に呼び込みをして接客をして……。ついつい、人の流れの中に彼がいないか探してしまう。
「名前、元気にやってるか」
「雅之助さんっ!私はいつでも元気ですよ」
今日はやっと会えた。なかなか会えなくてヤキモキしていたのだ。
「今日もラッキョ漬けを持ってきたぞ。たくさん売ってくれて助かる」
「いえいえ。ちょうど売り切れそうだったので、持ってきていただいて良かったですっ」
「そうかあ? そんなに売れるのは名前のおかげだな」
店先で雅之助さんの姿を目にすると、会えなくて少し拗ねた気持ちも吹き飛んでしまった。
いつもの、なんて事ないやり取りに心がときめいてしまう。だって、会うたびに会話を重ねるたびに……少しずつ親しくなれるような気がして。
「雅之助さんってば、本当に商売っけがないんだからっ。売り逃しちゃいますよ!」
「ははは、悪いな」
名前に口を尖らせ可愛く咎められると参ってしまう。彼女には悪いが……たまに街でラッキョ漬けや野菜を売る、それは本来の目的ではなかった。
学園長先生からの依頼で、街の物価や噂、変わったことが起こっていないかなどを調査するのが本分なのだ。
――街に野菜やらを売りに行くと、青物屋で彼女を見かける。
名前という名の娘は、いつも店先で元気いっぱいに働いていた。そのハツラツとした様子は見ていて気分が良く、ついつい気になり目で追ってしまう。
看板娘という言葉がぴったりだ。
その日は、大通りの店先に彼女の姿が見当たらなくて。気になって裏道を辿ってみると、大きなため息をつきながら落書きされた壁を拭いている姿が見えた。
……よせばいいものを、つい放って置けなかった。
そこから先は転げ落ちるように、気持ちが抑えられず街に行くたびに声を掛けてしまう。
名前はわしのラッキョを気に入ってくれて、店主に掛け合って店で取り扱ってくれたり、一所懸命に売ってくれる。それは、他の得意先にも同じなのかもしれない。
その人懐っこい笑顔を独占したいと思ってしまう。
鈴を転がすような声で名前を呼んで欲しい。
時折り細い腕で額の汗を拭う、そんな仕草までずっと見ていたかった。
「どうしました?…なにか考えごとですか?」
「あ、いや何でもない」
「……こんなに美味しいラッキョに育つなんて、とても素敵な畑をお持ちなんですね」
ラッキョ漬けのつぼを大事そうに受け取り、にこにこしている。ね?と言われているような視線に、思わず顔がにやけてしまった。
「今度、畑を見にくるか?……お前が良ければだが」
「えっ、いいんですかっ。……嬉しいです」
つい、口からそんなことが溢れでてしまった。はにかんで喜ぶ姿にこちらも嬉しくなる。けれど、彼女の表情が曇ってきて変なことを言ってしまったのかと冷や汗が滲む。
「どうした?」
「いえ、ご家族みなさんの畑だと思うと、緊張しちゃって」
「ああ、わし一人でやってるんだ」
「そうなんですか……!」
「嫁さんは募集中だぞ?」
「えっ!……じゃあ、わたし立候補しまーすっ」
曇った顔が一転ぱあっと笑顔になって、冗談に冗談で返す彼女に気持ちが振り回されそうになる。
……まったく、可愛らしいことを。
嘘であっても、客や得意先にも同じようなことを言っていたとしても、どうにも舞い上がってしまう。名前は、真っ当な男と一緒になるべきだと……その方が幸せだと、頭では分かっているのに。
「また、ぼーっとしてる。今日の雅之助さん、ちょっと変です」
「……そうか?」
「畑に連れてってもらうの、楽しみにしてますね!」
顔を覗き込まれてドキリとする。
小首をかしげたせいで艶やかな髪がさらりと肩からこぼれ落ち、その姿に釘付けになってしまう。そんな自分をよそに、彼女は客に呼ばれてスッといなくなってしまった。
*
夏の日差しが降り注ぎ、爽やかな風が通り過ぎる。
おばさんとおじさんにお休みをもらって、ついに杭瀬村へ来てしまった。
雅之助さんが作る野菜畑の眺めは、本当に素敵で。ラッキョは青々とした葉が豊かな土から生き生きと伸びて、気持ちよさそうに風になびいている。
腕を広げ、土や緑の香りを胸いっぱいに吸い込む。ふぅと吐き出すと、指の先まで生き返るようだった。
「とっても素敵な畑ですね……!」
「そうだろう。わしの自慢の畑だ」
「大切に、愛情を込めて作られているのですね」
「ああ」
慈しむような眼差しで畑を見つめる雅之助さんの横顔に、つい見惚れてしまう。腰に手を当てながら、白い鉢巻きと茶色の髪が風に吹かれる様が男らしくて……ぽーっとしてしまった。
「さっそく、野菜について教えてください!大木先生っ」
「よし、どこんじょー!でしっかり学ぶんだぞ!」
「はーい。どこんじょー!でついて行きますっ」
二人でくすくす笑い合うと畑に向かっていった。
雅之助さんは、ラッキョだけではなくて野菜の育て方や収穫の方法、美味しいものの見分け方など色々な知識を教えてくれて。その見識の深さと、丁寧な説明に飽きることなく聞き入ってしまった。
……先生って、あながち間違っていないのかもしれない、なんて。
*
出会った頃の暑かった季節も過ぎて、秋めいてきた頃。
何度も店でやりとりしては、雅之助さんの畑へ手伝いに行くことが増えていった。
おばさん達は、嫁入り前なのに!と男の人の家に行くことを良く思ってないようだったけれど……。
かと言って、おばさん達と雅之助さんは色々と情報交換をしているみたいで仲は良さそうだ。
それも、彼の人柄のせいかもしれない。
私はというと、店の商売にも役立つし……なんて言い訳ばかりしてしまって。本当は、雅之助さんと一緒にいられることが嬉しくて仕方がなかった。
ペットのケロちゃんとラビちゃんともすっかり仲良しになって、私を見つけると駆け寄って来てくれる姿が可愛らしい。
今日も杭瀬村の畑で二人しゃがみこんで、もくもくと作業している。
「けっこう雑草って生えてきちゃうんですね。虫もついちゃうし」
「そうだ、ちゃんと手をかけてやらないとな」
「なんか、女の子の扱いみたい」
「ああ、わしはなかなかのモノだろう?」
「あはは。そーですね!」
手を動かしながらそんな軽口を叩いている。
顔では笑顔を作っているけれど、でも本当は……胸の奥がチクッと痛んだ。
雅之助さんは、私なんか眼中になさそうだし……もっと綺麗で何でもこなせる女性がお似合いなんだろうな。お嫁さんがいないのだって、理想が高いからかもしれない。
……いや。私には分からない、なにか深い訳があるのかもしれない。
集中していたからか、いつの間にか日が暮れそうになっていて。ずいぶん長いこと畑仕事をしていたようだ。
「よしっ。今日はこれくらいにして、夕飯にしよう」
「はいっ。お腹すいちゃいました!」
二人してうーんと伸びをすると採れたての野菜を手に、ぽつんと佇むお家へと歩を進めた。
囲炉裏をかこんで、二人で向かい合って座っている。鍋からコトコトと魅惑的な音がこぼれ、白い湯気からは出汁のいい香りがふわりと漂う。
「雅之助さんの作ってくれるお料理、とっても美味しいです!」
「そうか、遠慮なく食べるんだぞ!」
「ありがとうございますっ」
具沢山の野菜汁と炊き立てのご飯をほおばるとお腹も心も幸せに満たされていく。
……でもこの状況が夫婦みたいだなって思うと急に恥ずかしくなって、ドキドキしてしまった。
「最近、偉い人に渡すお野菜とか飼料の大豆も増えてしまっているみたいで。……ただでさえ大変なのに、困っちゃいます」
「……そうだなあ」
恥ずかしさを消し去るように少し真面目な話をしてみたけれど、雅之助さんはあまり反応がなくて。うーん…と考え込むような様子に、どうして良いか分からず誤魔化すようにお茶をすすった。
――空が夕日に焼けて赤くなっている。じきに日が落ちて薄暗くなってしまいそうだ。
名残惜しいけれど、そろそろ家に帰らなければならない。
「いつも送ってくれてありがとうございます」
「当然のことだ」
草鞋を履いて戸締りをすると街へと並んで歩いていく。遠くに見える赤く染まった空と深い緑の山々が綺麗で切ない。
少し腕を振ると、隣を歩く雅之助さんに接してしまいそうなその近さに……まぐれで触れてしまえばいいのに。
あまり早く進みたくなくて、木々が立ち並ぶ道をゆっくり歩く。
……次は、いつ会えるんだろう。
歩幅を合わせてくれるのは、私と同じ気持ちだから……?なんて都合よく考えてしまう。
「どうした?疲れたのか?」
「いえ。……こうしているのが嬉しくて」
「辛くなったら言うんだぞ」
「はいっ」
「どこんじょー!で抱えてやるから」
「あはは、それ楽しそう」
冗談で根を上げてみようかな。
やっぱりだめだ。恥ずかしすぎて。
空を見上げると赤と紫が混じり合ってだいぶ暗くなっている。足元が見えなくて時折り雅之助さんの袖を摘んで歩くと、その度に気遣ってくれた。
街に着く手前の林道を進んでいくと、前方からこちらに向かってくる二人組の大きな人影が見えた。
太くて背の高い木々に囲まれた道は暗く、さわさわと風に揺れる葉の音も不気味に響いている。
カチャカチャと音がするのは……もしかして刀でも下げているのだろうか。たまらず雅之助さんの腕をぎゅっと掴むと、もう片方の手を恐怖にこわばる腕に重ねて頷いてくれた。
何もなくすれ違って、過ぎ去ってくれれば……と祈りながら目をつむる。
「おおい。随分とイイおなごを連れてるじゃないか」
「……お前らには関係のないことだ」
「関係ないだと?」
すれ違い様、願いも虚しく盗賊のような人達に捕まってしまった。
……怖くてどうして良いか分からず固まっていると、離れていなさいと耳打ちされて。足をもつれさせ尻餅をつきながら、なんとか道端の茂みに身をひそめた。
「大人しく女を渡したら済む話だろう!」
「きっと高く売れるぜ。まぁその前に俺達で遊んでやってもいいかもなあ」
「……ほお。言ってくれるな」
……どうしよう。
金属の擦れる音がする。刀なんか持ち出されたら、雅之助さんの命だって危ないのに。
私が大人しく出ていけば……そうすれば何とか収まるのかもしれない。
捕まってもうまく逃げ出せば……。
頭でそんなことを考えて、でも身体は小さく縮こまるばかりで。呼吸も浅くなって、心臓が飛び出そうなくらいの動悸に苦しくなる。
一際大きい怒号が飛び交う。
男の人の野太い声が響くとびくりと震えてしまった。息を殺して茂みから様子を窺う。
雅之助さんは男が刀を振り回すその動きをさらりとかわし、斬り掛かってくる相手の腕を引き込むように掴んで地面へと叩きつけていく。
倒れ込んだ男の背をぎゅうぎゅうと踏みつけながら、襲いかかってくるもう一人の男に向かってキラリと光るものを投げつけている。
男の苦しそうな……痛みに悶える呻き声が聞こえて、思わず耳を塞いでしまった。
雅之助さんが何かを呟くと、踏みつける足を退けてとどめと言わんばかりに男を蹴り上げる。捨て台詞を吐きながら、よろよろと盗賊達が逃げ去っていく様子が見える。
……やっと、呼吸ができた気がした。
冷たくなった両手を、震えを抑え込むようにきつく握りしめる。
雅之助さんは、あっという間に盗賊二人を始末してしまった。
その身のこなしと、鋭い目線と、冷たい声に……いつもの雅之助さんとは違う人のようで。
農家なんて建前で、本当は……。
本当は、好きになってはいけない人なのかもしれない。
でも、今さらそんなこと。
この気持ちは抑えきれなくなっているのに。
「おいっ、大丈夫だったか!」
「……はい。雅之助さんこそ、お怪我は……?」
「わしは何ともない」
駆け寄って大きな手を差し伸べられると、縋るようにぎゅっと掴んで立ち上がった。
よろける身体を優しく抱き締められると、道端なのを忘れてその少し汗ばんだ胸元に擦り寄る。しっとりとした肌がほほに触れて、雅之助さんの鼓動を感じる。
「怖い思いをさせて悪かった」
「そんな。……ありがとうございました」
「お前と一緒にいたくて、長く引き留めてしまった。……もう少し早く帰してやるべきだったな」
「わたしも、一緒にいたくて」
「そうか」
「……ねぇ。雅之助さん」
「なんだ?」
「あんな人たちに奪われる前に……。あなたに、この身を捧げたいと……思うのです」
そんな困らせるようなことを言ってはいけないと分かっているのに。安堵した拍子に、つい拙い想いを口にしてしまった。
汗と土とラッキョの香りのする、そのがっしりとした身体に包まれると……ひとつに混ざり合ってしまいたくなる。どうしようもなさに、ぽろぽろと涙がこぼれて止まらない。
「泣かないでくれ」
「……ごめんなさい」
ごつごつした太い指で涙を拭われて、その感触にくすぐったくなる。雅之助さんの瞳を覗くと、いつもの優しい垂れ目をさらに細めていた。
「……お前。そんなこと言われたら、帰したくなくなるじゃないか」
帰りたくないって言おうと思ったのに。
ほほに大きな手を添えられ思わず顔を上げると、優しく唇を重ねられた。
そっと離されると、吐息が触れ合う近さに顔がかあっと熱くなって。隠れるようにその胸元にうずくまった。
「さあ、行くぞ」
「……はい」
すっかり暗くなった林道を、今度は手を繋ぎながら歩いていった。はぐれると危ないから、というのは照れ隠しで、触れていたいと思ってくれていたら……。
「あまり客に愛想を振りまくなよ」
「ふふ。分かりましたっ」
ぎゅっと手に力がこめられ、いつも余裕の雅之助さんらしくない様子に嬉しくなる。
そんなやり取りを重ねて、とうとう家の前まで来てしまった。軒下で足を止めると二人向かい合う。
「今日はありがとうございました!」
「いや、礼を言うのはわしの方だ。……また、会いにくる」
「楽しみに待ってますね」
じゃあな、と雅之助さんが踵を返そうとした瞬間。
どうしても伝えたくて、ちゃんと受け取って欲しくて、その手を掴んだ。
「私の気持ち本当ですよ。……覚悟、できてますからっ」
一瞬ぽかんとした顔で、次第に照れる様子が可笑しくて可愛いと思ってしまった。分かった分かったと言いながら私の頭を撫でると、雅之助さんは元来た道へと歩を進めていった。
らしくない姿を思い出してはくすくすして、遠く小さくなっていく彼をいつまでも見つめているのだった。
ほうきを握る手には力がこもり、額は少し汗が滲む。お客さんが気持ちよく買い物できるように……。
街に並ぶ店々も開店の準備で忙しそうだった。賑やかな声があちこちから聞こえてくる。
ひと通り落ち葉や塵をかき集めると、店主のおじさん、おばさんと採れたての野菜を店先に並べていく。お付き合いのあるところから仕入れているみたいで、ちょっと色々あるみたいだ。
街の集まりに入らないとダメだったり、私はあまり詳しくないけれど……。
「おばさんっ。店の支度できましたー!」
「ありがとう。じゃあ、今日もよろしくね」
おじさんとおばさんは、身寄りのない私を住み込みで雇ってくれたのだ。それもあって、しっかり働いて恩返ししたいという気持ちが強いのかもしれない。
店先に出ると、元気よく呼び込みをする。
いつもの、一日のはじまりだ。
昼過ぎになると、人の波もだいぶ落ち着いてきた。少し休憩した後、裏口に散らかった野菜の葉や屑を片付けるためほうきを手にする。
ついでに店の裏の道も綺麗にしていくと店番の時間になって。戻らなきゃ!と慌てて振り向いた瞬間。
「え!?……っ、なにこれ……?」
裏口の壁一面に、何やらチョークでへなちょこな絵が描かれている。へのへのもへじみたいな、蝶々なのか、馬みたいなものとか……。
「ら、落書き……!?」
何でこんなところに描くんだー!と叫びたい気持ちを抑えて、おじさんおばさんに報告するべく店内へ急いだ。
……早く消さなきゃ!ここに描いても良いと思われちゃう。
「おじさんっ!おばさんっ!これ、見てください……!」
「まったく、酷いことをする奴がいたもんだ」
「あらまあ。何でこんなところに……」
みてみて!と裏口まで二人を引っ張って一緒に確認すると、みんなでガックリとする。
「私、ちゃんと綺麗にしますから。任せてください!」
桶に井戸水を汲んで、布切れでゴシゴシと壁を拭いていく。何度も何度もその作業を繰り返し、もう半刻は経つ頃だろうか。
布の水気を切るために絞る手も、拭き取るその腕も……もう限界だった。
「手伝いましょうか?」
背後から、大きな声が聞こえてびっくりする。
どこかで聞いたことのあるような……。
私に言ってくれてるのかな?
壁を拭く手を止めて振り返る。
……あ、あの、ラッキョを売っている人だ。たしか、杭瀬村で作ったと言っていたような。
今度買ってみようと思っていたけれど、すぐいなくなってしまって。商売っ気のない人だな、なんて思っていた。
快活に笑うその人は、荷車を置くとこちらに大股で歩いてくる。
「これは随分と傑作ですなあ」
「まったく、何でこんなこと……」
「上の方、あなたでは届かないでしょう」
「そうなんです。困っちゃいまして……」
困っていることを当てられたと思ったら、手に握っていた布切れをさっと奪われて。じゃぶじゃぶと桶の水につけると豪快に水気を絞っている。
捲り上げた袖から見えるその腕のたくましさと、浮き出る筋が男性を感じさせてドキドキしてしまった。
……名前も知らない人に、そんなこと考えて。恥ずかしさに隠れたくなってしまう。
背の高いその男の人は、どこんじょー!と叫ぶと高い部分の落書きも簡単に拭い去ってしまった。
その姿に見惚れてしまったけれど、どこんじょー!って……おかしな人。
「これで、きれいになっただろう!」
「あの、ありがとうございます!」
ニカっと屈託なく笑う顔に、落ち込んでいた気分がたちまち回復していく。
「そんなに手を赤くして、一人で大変だったなあ」
「あ、いえ、大丈夫ですからっ」
何回も何回も絞って拭いてを繰り返した手は赤くなってしまっていて。そんな些細なところを指摘されて驚くと同時に、頑張りを認めてくれて嬉しくなってしまう。なんだかむず痒い気持ちになって両手を隠すようにぎゅっと握った。
「わたしっ、名前と言います。いつも、あなたがラッキョを売っているのを……見かけていて」
「そうですか!私は、大木雅之助といいます。この辺でたまに売り歩いてるので、何かあったら言ってください」
……おおき、まさのすけ、さん。
忘れないように、ちゃんと覚えておかなきゃ。
名前を教えてもらうと、もっと彼のことを知りたくなってしまう。うるさい鼓動を押さえつけるように、胸元にそっと手のひらを当てた。
「何かなくても……お声をかけて、いいですか」
「ええ、もちろんですとも!」
私が変なことを言ったからか少し驚いた様子だったけれど、優しく笑ってくれて。それが嬉しくて嬉しくて、思わず笑みが溢れてしまう。
雅之助さんは、帰り際にラッキョ漬けまで渡してくれた。
一つ口に運ぶと、シャキシャキとした歯応えと……じんわり広がる甘みに幸せな気持ちになった。
それからというもの、雅之助さんはたまに近くでラッキョを売りに来ることがあると、私の店にも顔を出してくれるようになって。
「あっ!雅之助さーん!」
「おお、名前か。今日も繁盛してるなあ!」
「おかげさまでっ」
お客さんのやり取りが一段落すると、おばさんをちらっと確認して……にこっとほほ笑まれたから大丈夫だ。
店先にいる雅之助さんの元へと駆け寄っていつものように挨拶する。
「ラッキョの売れ行きはいかがですか」
「まあ、ぼちぼちってところだな」
「あの……もしよかったら、うちの店に置かせてもらえませんか」
おじさんもおばさんも、いただいた漬物の味にいたく感動して街の組合に話をつけてくれたみたいで。でも、ここで移動販売できているってことは……そんなに問題は無いんじゃないかと思うのだけど。
「それはありがたい!」
「雅之助さんの作るラッキョ漬けがとても美味しかったので、みんなに食べてもらいたくてっ」
「褒めてもらえると嬉しいものだな」
大きな少年みたいに笑う姿が可愛らしくてくすくすしてしまう。美味しいラッキョをみんなに食べてもらいたい……その気持ちは本当で。
でも、それをきっかけに雅之助さんと会えることが何より嬉しかった。
*
最後に会ってからどれくらい経っただろう。
今日もいつも通り、忙しない人通りを前に呼び込みをして接客をして……。ついつい、人の流れの中に彼がいないか探してしまう。
「名前、元気にやってるか」
「雅之助さんっ!私はいつでも元気ですよ」
今日はやっと会えた。なかなか会えなくてヤキモキしていたのだ。
「今日もラッキョ漬けを持ってきたぞ。たくさん売ってくれて助かる」
「いえいえ。ちょうど売り切れそうだったので、持ってきていただいて良かったですっ」
「そうかあ? そんなに売れるのは名前のおかげだな」
店先で雅之助さんの姿を目にすると、会えなくて少し拗ねた気持ちも吹き飛んでしまった。
いつもの、なんて事ないやり取りに心がときめいてしまう。だって、会うたびに会話を重ねるたびに……少しずつ親しくなれるような気がして。
「雅之助さんってば、本当に商売っけがないんだからっ。売り逃しちゃいますよ!」
「ははは、悪いな」
名前に口を尖らせ可愛く咎められると参ってしまう。彼女には悪いが……たまに街でラッキョ漬けや野菜を売る、それは本来の目的ではなかった。
学園長先生からの依頼で、街の物価や噂、変わったことが起こっていないかなどを調査するのが本分なのだ。
――街に野菜やらを売りに行くと、青物屋で彼女を見かける。
名前という名の娘は、いつも店先で元気いっぱいに働いていた。そのハツラツとした様子は見ていて気分が良く、ついつい気になり目で追ってしまう。
看板娘という言葉がぴったりだ。
その日は、大通りの店先に彼女の姿が見当たらなくて。気になって裏道を辿ってみると、大きなため息をつきながら落書きされた壁を拭いている姿が見えた。
……よせばいいものを、つい放って置けなかった。
そこから先は転げ落ちるように、気持ちが抑えられず街に行くたびに声を掛けてしまう。
名前はわしのラッキョを気に入ってくれて、店主に掛け合って店で取り扱ってくれたり、一所懸命に売ってくれる。それは、他の得意先にも同じなのかもしれない。
その人懐っこい笑顔を独占したいと思ってしまう。
鈴を転がすような声で名前を呼んで欲しい。
時折り細い腕で額の汗を拭う、そんな仕草までずっと見ていたかった。
「どうしました?…なにか考えごとですか?」
「あ、いや何でもない」
「……こんなに美味しいラッキョに育つなんて、とても素敵な畑をお持ちなんですね」
ラッキョ漬けのつぼを大事そうに受け取り、にこにこしている。ね?と言われているような視線に、思わず顔がにやけてしまった。
「今度、畑を見にくるか?……お前が良ければだが」
「えっ、いいんですかっ。……嬉しいです」
つい、口からそんなことが溢れでてしまった。はにかんで喜ぶ姿にこちらも嬉しくなる。けれど、彼女の表情が曇ってきて変なことを言ってしまったのかと冷や汗が滲む。
「どうした?」
「いえ、ご家族みなさんの畑だと思うと、緊張しちゃって」
「ああ、わし一人でやってるんだ」
「そうなんですか……!」
「嫁さんは募集中だぞ?」
「えっ!……じゃあ、わたし立候補しまーすっ」
曇った顔が一転ぱあっと笑顔になって、冗談に冗談で返す彼女に気持ちが振り回されそうになる。
……まったく、可愛らしいことを。
嘘であっても、客や得意先にも同じようなことを言っていたとしても、どうにも舞い上がってしまう。名前は、真っ当な男と一緒になるべきだと……その方が幸せだと、頭では分かっているのに。
「また、ぼーっとしてる。今日の雅之助さん、ちょっと変です」
「……そうか?」
「畑に連れてってもらうの、楽しみにしてますね!」
顔を覗き込まれてドキリとする。
小首をかしげたせいで艶やかな髪がさらりと肩からこぼれ落ち、その姿に釘付けになってしまう。そんな自分をよそに、彼女は客に呼ばれてスッといなくなってしまった。
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夏の日差しが降り注ぎ、爽やかな風が通り過ぎる。
おばさんとおじさんにお休みをもらって、ついに杭瀬村へ来てしまった。
雅之助さんが作る野菜畑の眺めは、本当に素敵で。ラッキョは青々とした葉が豊かな土から生き生きと伸びて、気持ちよさそうに風になびいている。
腕を広げ、土や緑の香りを胸いっぱいに吸い込む。ふぅと吐き出すと、指の先まで生き返るようだった。
「とっても素敵な畑ですね……!」
「そうだろう。わしの自慢の畑だ」
「大切に、愛情を込めて作られているのですね」
「ああ」
慈しむような眼差しで畑を見つめる雅之助さんの横顔に、つい見惚れてしまう。腰に手を当てながら、白い鉢巻きと茶色の髪が風に吹かれる様が男らしくて……ぽーっとしてしまった。
「さっそく、野菜について教えてください!大木先生っ」
「よし、どこんじょー!でしっかり学ぶんだぞ!」
「はーい。どこんじょー!でついて行きますっ」
二人でくすくす笑い合うと畑に向かっていった。
雅之助さんは、ラッキョだけではなくて野菜の育て方や収穫の方法、美味しいものの見分け方など色々な知識を教えてくれて。その見識の深さと、丁寧な説明に飽きることなく聞き入ってしまった。
……先生って、あながち間違っていないのかもしれない、なんて。
*
出会った頃の暑かった季節も過ぎて、秋めいてきた頃。
何度も店でやりとりしては、雅之助さんの畑へ手伝いに行くことが増えていった。
おばさん達は、嫁入り前なのに!と男の人の家に行くことを良く思ってないようだったけれど……。
かと言って、おばさん達と雅之助さんは色々と情報交換をしているみたいで仲は良さそうだ。
それも、彼の人柄のせいかもしれない。
私はというと、店の商売にも役立つし……なんて言い訳ばかりしてしまって。本当は、雅之助さんと一緒にいられることが嬉しくて仕方がなかった。
ペットのケロちゃんとラビちゃんともすっかり仲良しになって、私を見つけると駆け寄って来てくれる姿が可愛らしい。
今日も杭瀬村の畑で二人しゃがみこんで、もくもくと作業している。
「けっこう雑草って生えてきちゃうんですね。虫もついちゃうし」
「そうだ、ちゃんと手をかけてやらないとな」
「なんか、女の子の扱いみたい」
「ああ、わしはなかなかのモノだろう?」
「あはは。そーですね!」
手を動かしながらそんな軽口を叩いている。
顔では笑顔を作っているけれど、でも本当は……胸の奥がチクッと痛んだ。
雅之助さんは、私なんか眼中になさそうだし……もっと綺麗で何でもこなせる女性がお似合いなんだろうな。お嫁さんがいないのだって、理想が高いからかもしれない。
……いや。私には分からない、なにか深い訳があるのかもしれない。
集中していたからか、いつの間にか日が暮れそうになっていて。ずいぶん長いこと畑仕事をしていたようだ。
「よしっ。今日はこれくらいにして、夕飯にしよう」
「はいっ。お腹すいちゃいました!」
二人してうーんと伸びをすると採れたての野菜を手に、ぽつんと佇むお家へと歩を進めた。
囲炉裏をかこんで、二人で向かい合って座っている。鍋からコトコトと魅惑的な音がこぼれ、白い湯気からは出汁のいい香りがふわりと漂う。
「雅之助さんの作ってくれるお料理、とっても美味しいです!」
「そうか、遠慮なく食べるんだぞ!」
「ありがとうございますっ」
具沢山の野菜汁と炊き立てのご飯をほおばるとお腹も心も幸せに満たされていく。
……でもこの状況が夫婦みたいだなって思うと急に恥ずかしくなって、ドキドキしてしまった。
「最近、偉い人に渡すお野菜とか飼料の大豆も増えてしまっているみたいで。……ただでさえ大変なのに、困っちゃいます」
「……そうだなあ」
恥ずかしさを消し去るように少し真面目な話をしてみたけれど、雅之助さんはあまり反応がなくて。うーん…と考え込むような様子に、どうして良いか分からず誤魔化すようにお茶をすすった。
――空が夕日に焼けて赤くなっている。じきに日が落ちて薄暗くなってしまいそうだ。
名残惜しいけれど、そろそろ家に帰らなければならない。
「いつも送ってくれてありがとうございます」
「当然のことだ」
草鞋を履いて戸締りをすると街へと並んで歩いていく。遠くに見える赤く染まった空と深い緑の山々が綺麗で切ない。
少し腕を振ると、隣を歩く雅之助さんに接してしまいそうなその近さに……まぐれで触れてしまえばいいのに。
あまり早く進みたくなくて、木々が立ち並ぶ道をゆっくり歩く。
……次は、いつ会えるんだろう。
歩幅を合わせてくれるのは、私と同じ気持ちだから……?なんて都合よく考えてしまう。
「どうした?疲れたのか?」
「いえ。……こうしているのが嬉しくて」
「辛くなったら言うんだぞ」
「はいっ」
「どこんじょー!で抱えてやるから」
「あはは、それ楽しそう」
冗談で根を上げてみようかな。
やっぱりだめだ。恥ずかしすぎて。
空を見上げると赤と紫が混じり合ってだいぶ暗くなっている。足元が見えなくて時折り雅之助さんの袖を摘んで歩くと、その度に気遣ってくれた。
街に着く手前の林道を進んでいくと、前方からこちらに向かってくる二人組の大きな人影が見えた。
太くて背の高い木々に囲まれた道は暗く、さわさわと風に揺れる葉の音も不気味に響いている。
カチャカチャと音がするのは……もしかして刀でも下げているのだろうか。たまらず雅之助さんの腕をぎゅっと掴むと、もう片方の手を恐怖にこわばる腕に重ねて頷いてくれた。
何もなくすれ違って、過ぎ去ってくれれば……と祈りながら目をつむる。
「おおい。随分とイイおなごを連れてるじゃないか」
「……お前らには関係のないことだ」
「関係ないだと?」
すれ違い様、願いも虚しく盗賊のような人達に捕まってしまった。
……怖くてどうして良いか分からず固まっていると、離れていなさいと耳打ちされて。足をもつれさせ尻餅をつきながら、なんとか道端の茂みに身をひそめた。
「大人しく女を渡したら済む話だろう!」
「きっと高く売れるぜ。まぁその前に俺達で遊んでやってもいいかもなあ」
「……ほお。言ってくれるな」
……どうしよう。
金属の擦れる音がする。刀なんか持ち出されたら、雅之助さんの命だって危ないのに。
私が大人しく出ていけば……そうすれば何とか収まるのかもしれない。
捕まってもうまく逃げ出せば……。
頭でそんなことを考えて、でも身体は小さく縮こまるばかりで。呼吸も浅くなって、心臓が飛び出そうなくらいの動悸に苦しくなる。
一際大きい怒号が飛び交う。
男の人の野太い声が響くとびくりと震えてしまった。息を殺して茂みから様子を窺う。
雅之助さんは男が刀を振り回すその動きをさらりとかわし、斬り掛かってくる相手の腕を引き込むように掴んで地面へと叩きつけていく。
倒れ込んだ男の背をぎゅうぎゅうと踏みつけながら、襲いかかってくるもう一人の男に向かってキラリと光るものを投げつけている。
男の苦しそうな……痛みに悶える呻き声が聞こえて、思わず耳を塞いでしまった。
雅之助さんが何かを呟くと、踏みつける足を退けてとどめと言わんばかりに男を蹴り上げる。捨て台詞を吐きながら、よろよろと盗賊達が逃げ去っていく様子が見える。
……やっと、呼吸ができた気がした。
冷たくなった両手を、震えを抑え込むようにきつく握りしめる。
雅之助さんは、あっという間に盗賊二人を始末してしまった。
その身のこなしと、鋭い目線と、冷たい声に……いつもの雅之助さんとは違う人のようで。
農家なんて建前で、本当は……。
本当は、好きになってはいけない人なのかもしれない。
でも、今さらそんなこと。
この気持ちは抑えきれなくなっているのに。
「おいっ、大丈夫だったか!」
「……はい。雅之助さんこそ、お怪我は……?」
「わしは何ともない」
駆け寄って大きな手を差し伸べられると、縋るようにぎゅっと掴んで立ち上がった。
よろける身体を優しく抱き締められると、道端なのを忘れてその少し汗ばんだ胸元に擦り寄る。しっとりとした肌がほほに触れて、雅之助さんの鼓動を感じる。
「怖い思いをさせて悪かった」
「そんな。……ありがとうございました」
「お前と一緒にいたくて、長く引き留めてしまった。……もう少し早く帰してやるべきだったな」
「わたしも、一緒にいたくて」
「そうか」
「……ねぇ。雅之助さん」
「なんだ?」
「あんな人たちに奪われる前に……。あなたに、この身を捧げたいと……思うのです」
そんな困らせるようなことを言ってはいけないと分かっているのに。安堵した拍子に、つい拙い想いを口にしてしまった。
汗と土とラッキョの香りのする、そのがっしりとした身体に包まれると……ひとつに混ざり合ってしまいたくなる。どうしようもなさに、ぽろぽろと涙がこぼれて止まらない。
「泣かないでくれ」
「……ごめんなさい」
ごつごつした太い指で涙を拭われて、その感触にくすぐったくなる。雅之助さんの瞳を覗くと、いつもの優しい垂れ目をさらに細めていた。
「……お前。そんなこと言われたら、帰したくなくなるじゃないか」
帰りたくないって言おうと思ったのに。
ほほに大きな手を添えられ思わず顔を上げると、優しく唇を重ねられた。
そっと離されると、吐息が触れ合う近さに顔がかあっと熱くなって。隠れるようにその胸元にうずくまった。
「さあ、行くぞ」
「……はい」
すっかり暗くなった林道を、今度は手を繋ぎながら歩いていった。はぐれると危ないから、というのは照れ隠しで、触れていたいと思ってくれていたら……。
「あまり客に愛想を振りまくなよ」
「ふふ。分かりましたっ」
ぎゅっと手に力がこめられ、いつも余裕の雅之助さんらしくない様子に嬉しくなる。
そんなやり取りを重ねて、とうとう家の前まで来てしまった。軒下で足を止めると二人向かい合う。
「今日はありがとうございました!」
「いや、礼を言うのはわしの方だ。……また、会いにくる」
「楽しみに待ってますね」
じゃあな、と雅之助さんが踵を返そうとした瞬間。
どうしても伝えたくて、ちゃんと受け取って欲しくて、その手を掴んだ。
「私の気持ち本当ですよ。……覚悟、できてますからっ」
一瞬ぽかんとした顔で、次第に照れる様子が可笑しくて可愛いと思ってしまった。分かった分かったと言いながら私の頭を撫でると、雅之助さんは元来た道へと歩を進めていった。
らしくない姿を思い出してはくすくすして、遠く小さくなっていく彼をいつまでも見つめているのだった。
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