体温の上げかた
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秋も深まったころ。
ひゅるる、と冷たく乾いた風が杭瀬村を吹き抜けていく。こじんまりとした茅葺き屋根の家の前は、色づいた落ち葉だらけだ。
真っ赤なものに、黄色がかったもの、それに茶色く乾燥しているものまで。試しに足で踏んでみると、カサッと軽い音がした。
「……さ、さむい」
ほうきの柄を握る手がかじかむけれど、地面を同じ動作で掃いて、ひたすら落ち葉をかき集めていく。長いこと身体を動かしているのにも関わらず、ずっと寒いままだ。足元から伝わってくる冷えに、ほうきを小脇に抱えて、はあっと手のひらを吐息で暖めた。それはうたかたの幸せのように一瞬じんわりとして、でもすぐに消えてしまう。
「おー、名前。もう終わるか?」
「雅之助さんっ」
ガサガサと何かが揺れる音、そして大声のする方へと視線を移す。目の前には赤と水色の着物で、背中に竹かごを背負った彼が現れた。胸元はいつもの通りはだけたまま。薄着で寒くないのかな……? そう、ぼんやり考える。
「見てみろ。こんなに採れたぞ!」
雅之助さんは得意げな様子で、こちらに竹かごを傾ける。つま先立ちで中を覗いてみれば、菜っぱや大根、それにかぼちゃがたくさん詰められていた。
「わぁ、立派に育ちましたね!」
「そうじゃろ? これから長老どのに渡しに行こうと思ってな」
「きっと『受け取ってやる〜!』って喜びますね」
「ははは! お前、笑わせるなよ」
この辺りに住んでいる偉そうな長老さんのマネをすると、雅之助さんは大きな口をさらに開いて豪快に笑った。そんな中、再び冷たい風が吹きつける。反射的に二の腕をさすって――
「っ、くしゅん!」
「大丈夫か?」
「えぇ、急に気温が下がったから寒くて」
「どれどれ?」
「ひゃぁっ!?」
突然、両ほほをむぎゅっと挟まれた。雅之助さんは「うむ、たしかに冷えているな」なんて言って、真剣な顔つきでじいっと見つめてくる。その手には泥汚れが付いているせいか、かすかに土の匂いが漂う。
ほほに感じる大きな手のひらはカサついて、ゴツゴツして、決して心地の良い感触ではない。けれど、その温もりに寒さが紛れそうなほど落ち着くのだ。ぼけっとしているといつの間にか手を離された。
「名前。体調が悪いというワケではないんだろ?」
「はいっ、元気ですけど」
何かを思いついたように、ニヤッとする雅之助さんの瞳。それから剃り残しのあるアゴをさすって、なにやら楽しそうにしている。
「寒さに打ち勝つにはな、身体を動かす、という方法がある」
「身体を、動かすって……?」
「うむ。スポーツの秋と言うし、ランニングでもするか!」
「ら、ランニングー!?」
雅之助さんは竹かごを下ろし、こぶしを突き上げやる気満々だ。今から急に始まるランニングとやらに、「嫌です!」などと言えるはずもなくて。身体も温まるし、さらに健康にもいいし……と無理やり自分を納得させる。案外、挑戦してみても良いかもしれない。
私も袴をパンパンとはたき、草鞋のひもを結び直す。そでを捲りあげると、よし!と気合を入れた。そんな様子を、雅之助さんは満足そうに眺めている。垂れ目がキリリとして、忍びの先生っぽい顔つき。その凛々しさに、かつて教師だった頃の面影を感じてしまい、心臓がドキンと跳ねた。
「ランニング。一から教えてくださいね、大木先生っ」
「おう、もちろんだ! まずはだな、」
格好いい、なんて一瞬でも思ってしまったら急に照れ臭くなる。そんな気持ちを紛らわすように、わざと「先生」と呼んでみれば、雅之助さんはさらに上機嫌になった。
*
「背筋をまっすぐに! 視線は少し先だ。よーし」
「腕はこれで大丈夫、ですか?」
「ん、いいだろう。肩の力を抜くんだぞ」
「はいっ、先生」
家の前で、まずはランニングの姿勢を正されている。ひと通り教わったところで、白い鉢巻きを締めなおす先生に、おそるおそる声をかける。大切なことを聞きそびれていたから。
「えっと……、どれくらい走るんですか」
「そうだなぁ、あの山を3周するか!」
「えーっ!?」
「お前ならできる、どこんじょー!だ」
先生がビシッと指をさす先には、紅葉でところどころ赤く染まった山がそびえている。その大きさに狼狽えるも、今まで畑仕事だって学園のお手伝いだってきたやってきた。きっと、体力も気力も前よりあるはず……! 自信を鼓舞するようにグッとこぶしを握りしめた。
――ざっ、ざっ、ざ
走り始めてだいぶ経ったころ。
大木先生に教わった姿勢や呼吸を意識して、木の実や小枝だらけの山道を駆けていく。地面を蹴り上げると落ち葉がくしゃっと軽快な音を立てて、足のだるさや息苦しさを少し紛らわせてくれた。
先生はと言うと、余裕綽々で私よりもうんと先を走っている。ときどきこちらを振り返り、その度に「いいぞー!」とか「背筋が曲がっとる!」とか大声で活を入れてくる。
手裏剣打ちの時もそうだったけれど、まるで本当の授業を受けているみたいだった。着いていくのが精一杯なのに〜!という不満はグッと飲み込み、かわりに歩幅を大きくしてなんとか食らいついていく。
休みなく2周目に入ろうとする頃。不思議なもので、始めに感じた苦しさが次第に高揚感に変わっていく。冷たかった風も、どくどく血の巡る熱い身体にはとても心地よい。だんだんと先生との距離が縮まり、すぐ近くまで追いついた。
「名前、えらいぞ! なかなか、どこんじょーがあるなぁ」
「っ、は、ぁ、おーき、せんせっ」
「よし、少し休むか」
「はい……!」
途切れ途切れに応えると、先生は特大の笑顔を向けてくれる。頑張りとどこんじょー!を認められたような気がして、ちょっと誇らしくなった。
走る速度をゆるめ、早歩きになり、ふたりで足を止める。上がった息を整えようと、深呼吸を繰り返してから先生に声をかけた。
「走ってるときは分からなかったけど……。きれいに、紅葉してますね」
「あぁ、改めて見ると良いものだな。綺麗だ」
「あはは。その発言、大木先生っぽくないです」
「おいおい、わしをなんだと思ってるんだー!?」
山道のそばにあった倒木に腰かけると、一緒にあたりを眺める。先生に軽口を叩いてみれば、ランニング中の厳しい表情とは打って変わって、子どもみたいに口を尖らせた。
私が知らない、プロの忍者で教師の雅之助さん。こんなに教えるのが上手いのに、先生を辞めてしまったなんて……。一体、何があったのだろう。もったいないなぁ、と胸がチクリと痛い。
それでも、農家ののんびりとした生活が彼にとって幸せだったら――
幸せだったら、いいんだけどな。横目で彼をチラッと窺い、再び木々へと視線を移す。
深緑の葉をつけた木もあれば、真っ赤や黄色の葉っぱをつけたものも立ち並ぶ景色。葉のすき間からは真っ青な空が眩しい。その美しさに目を奪われていると、「ほれっ」と竹筒を渡され慌てて受け取った。
「水だ。飲むといい」
「ありがとうございます! のどがカラカラでした」
コクコクと冷たい水を飲み込むと、渇いた身体に染み渡って生き返るようだ。ほのかな竹の香りだけで味はないのに、とびきり美味しく感じられる。すると横から手が伸びて、サッと竹筒を奪い取られた。
「わしもいただこう」
「えっ、あの、雅之助さん!」
あまりに突然で、"先生"と呼ぶことも忘れてしまった。驚きつつ彼を見つめるも、ただただ豪快に水を飲むだけで。間接的に……唇が触れてしまったのに。その事実にあたふたするのは私だけなんだ。静まった鼓動が、またドキンと音を立てる。
「ん、名前。どうかしたか?」
「……いえ、なんでもないです!」
「休んだことだし、もうひと頑張りだ」
はい、と元気よく返す。曖昧な気持ちを振り払うように、額にじわりと滲んだ汗を拭った。遠くには、走り始めようとする先生の後ろ姿と風になびく鉢巻き。せっかくだから、私ももらった鉢巻きを着けてくればよかった。先生と生徒、いや、弟子な感じが出ちゃうかも、とクスッと笑う。
「名前、ぼけっとしてないで早くこい! 置いてくぞー」
「せんせ、待ってくださーい!」
先生は手加減してくれているのか、付かず離れずの距離を保ってくれる。純粋に、ただ一緒に走るだけ。会話はなくても心が満たされて、身体だけでなく全てに力がみなぎる気がした。
振り返る先生に目で合図すると、山道の間から広い畑が現れた。もうすぐ家にたどり着くところだ。名残惜しさと、達成感とが入り交じる。
「メェ〜!」
「わぁ、ケロちゃん。待っててくれたの!?」
「お、ラビちゃんもか」
家の前に着くと、井戸のあたりでケロちゃんとラビちゃんがウロウロしていた。まるで、私たちの帰りを待っていたような様子に嬉しくなって、先生と一緒によしよし!と頭を撫でてあげた。
「大木先生。ランニングの授業、楽しかったです!」
「わしもだ。いい汗をかいたな」
「えぇ。温まるどころか熱いですけどっ」
はぁはぁと、荒い呼吸を整えつつ彼を見上げる。手のひらで顔をあおいでも、火照りはちっとも治らない。全身から吹き出す汗のせいで着物がぺたりと張りつき、たまらず胸元をパタパタさせた。素肌へ入り込む、冷たい空気が気持ちいい。
「風呂にでも入ったらどうだ?」
「そうですね、そうします!」
戸口に置いた竹かごを背負いながら、雅之助さんは視線を風呂の方へやった。運動した後のお風呂は格別だろうな、とにんまりしていると――
「どうせなら、名前。わしと一緒にはいるか?」
「……えっ!?」
目尻を下げ、だらしなく緩んだ口元から犬歯がのぞく。たしかに、雅之助さんも汗だくだけど……。変なことを言われて、いやでも想像してしまったら最後、身体がぽっと燃えるように熱を帯びる。どこを見て良いのか分からず、視線が宙をさまよう。
「冗談だ、じょーだん! わしは長老へ野菜を届けにいく」
「そ、そうですか」
「お前、ゆでダコみたいに真っ赤になってるぞ」
雅之助さんは、くくっと面白そうに笑ってから長老のお家へ向かうべく大股で歩いていく。いつもいつも、からかわれて敵わなくて悔しいのに憎めない。それどころか、雅之助さんらしくてなぜか可笑しくなってしまうのだ。
「湯冷めしないように気をつけろよー」
振り返らないまま、そんなことを言い残して遠くなっていく姿。はーい!と大きく返してから、いつの間にか足元に戯れつくケロちゃんとラビちゃんにほほ笑むのだった。
ひゅるる、と冷たく乾いた風が杭瀬村を吹き抜けていく。こじんまりとした茅葺き屋根の家の前は、色づいた落ち葉だらけだ。
真っ赤なものに、黄色がかったもの、それに茶色く乾燥しているものまで。試しに足で踏んでみると、カサッと軽い音がした。
「……さ、さむい」
ほうきの柄を握る手がかじかむけれど、地面を同じ動作で掃いて、ひたすら落ち葉をかき集めていく。長いこと身体を動かしているのにも関わらず、ずっと寒いままだ。足元から伝わってくる冷えに、ほうきを小脇に抱えて、はあっと手のひらを吐息で暖めた。それはうたかたの幸せのように一瞬じんわりとして、でもすぐに消えてしまう。
「おー、名前。もう終わるか?」
「雅之助さんっ」
ガサガサと何かが揺れる音、そして大声のする方へと視線を移す。目の前には赤と水色の着物で、背中に竹かごを背負った彼が現れた。胸元はいつもの通りはだけたまま。薄着で寒くないのかな……? そう、ぼんやり考える。
「見てみろ。こんなに採れたぞ!」
雅之助さんは得意げな様子で、こちらに竹かごを傾ける。つま先立ちで中を覗いてみれば、菜っぱや大根、それにかぼちゃがたくさん詰められていた。
「わぁ、立派に育ちましたね!」
「そうじゃろ? これから長老どのに渡しに行こうと思ってな」
「きっと『受け取ってやる〜!』って喜びますね」
「ははは! お前、笑わせるなよ」
この辺りに住んでいる偉そうな長老さんのマネをすると、雅之助さんは大きな口をさらに開いて豪快に笑った。そんな中、再び冷たい風が吹きつける。反射的に二の腕をさすって――
「っ、くしゅん!」
「大丈夫か?」
「えぇ、急に気温が下がったから寒くて」
「どれどれ?」
「ひゃぁっ!?」
突然、両ほほをむぎゅっと挟まれた。雅之助さんは「うむ、たしかに冷えているな」なんて言って、真剣な顔つきでじいっと見つめてくる。その手には泥汚れが付いているせいか、かすかに土の匂いが漂う。
ほほに感じる大きな手のひらはカサついて、ゴツゴツして、決して心地の良い感触ではない。けれど、その温もりに寒さが紛れそうなほど落ち着くのだ。ぼけっとしているといつの間にか手を離された。
「名前。体調が悪いというワケではないんだろ?」
「はいっ、元気ですけど」
何かを思いついたように、ニヤッとする雅之助さんの瞳。それから剃り残しのあるアゴをさすって、なにやら楽しそうにしている。
「寒さに打ち勝つにはな、身体を動かす、という方法がある」
「身体を、動かすって……?」
「うむ。スポーツの秋と言うし、ランニングでもするか!」
「ら、ランニングー!?」
雅之助さんは竹かごを下ろし、こぶしを突き上げやる気満々だ。今から急に始まるランニングとやらに、「嫌です!」などと言えるはずもなくて。身体も温まるし、さらに健康にもいいし……と無理やり自分を納得させる。案外、挑戦してみても良いかもしれない。
私も袴をパンパンとはたき、草鞋のひもを結び直す。そでを捲りあげると、よし!と気合を入れた。そんな様子を、雅之助さんは満足そうに眺めている。垂れ目がキリリとして、忍びの先生っぽい顔つき。その凛々しさに、かつて教師だった頃の面影を感じてしまい、心臓がドキンと跳ねた。
「ランニング。一から教えてくださいね、大木先生っ」
「おう、もちろんだ! まずはだな、」
格好いい、なんて一瞬でも思ってしまったら急に照れ臭くなる。そんな気持ちを紛らわすように、わざと「先生」と呼んでみれば、雅之助さんはさらに上機嫌になった。
*
「背筋をまっすぐに! 視線は少し先だ。よーし」
「腕はこれで大丈夫、ですか?」
「ん、いいだろう。肩の力を抜くんだぞ」
「はいっ、先生」
家の前で、まずはランニングの姿勢を正されている。ひと通り教わったところで、白い鉢巻きを締めなおす先生に、おそるおそる声をかける。大切なことを聞きそびれていたから。
「えっと……、どれくらい走るんですか」
「そうだなぁ、あの山を3周するか!」
「えーっ!?」
「お前ならできる、どこんじょー!だ」
先生がビシッと指をさす先には、紅葉でところどころ赤く染まった山がそびえている。その大きさに狼狽えるも、今まで畑仕事だって学園のお手伝いだってきたやってきた。きっと、体力も気力も前よりあるはず……! 自信を鼓舞するようにグッとこぶしを握りしめた。
――ざっ、ざっ、ざ
走り始めてだいぶ経ったころ。
大木先生に教わった姿勢や呼吸を意識して、木の実や小枝だらけの山道を駆けていく。地面を蹴り上げると落ち葉がくしゃっと軽快な音を立てて、足のだるさや息苦しさを少し紛らわせてくれた。
先生はと言うと、余裕綽々で私よりもうんと先を走っている。ときどきこちらを振り返り、その度に「いいぞー!」とか「背筋が曲がっとる!」とか大声で活を入れてくる。
手裏剣打ちの時もそうだったけれど、まるで本当の授業を受けているみたいだった。着いていくのが精一杯なのに〜!という不満はグッと飲み込み、かわりに歩幅を大きくしてなんとか食らいついていく。
休みなく2周目に入ろうとする頃。不思議なもので、始めに感じた苦しさが次第に高揚感に変わっていく。冷たかった風も、どくどく血の巡る熱い身体にはとても心地よい。だんだんと先生との距離が縮まり、すぐ近くまで追いついた。
「名前、えらいぞ! なかなか、どこんじょーがあるなぁ」
「っ、は、ぁ、おーき、せんせっ」
「よし、少し休むか」
「はい……!」
途切れ途切れに応えると、先生は特大の笑顔を向けてくれる。頑張りとどこんじょー!を認められたような気がして、ちょっと誇らしくなった。
走る速度をゆるめ、早歩きになり、ふたりで足を止める。上がった息を整えようと、深呼吸を繰り返してから先生に声をかけた。
「走ってるときは分からなかったけど……。きれいに、紅葉してますね」
「あぁ、改めて見ると良いものだな。綺麗だ」
「あはは。その発言、大木先生っぽくないです」
「おいおい、わしをなんだと思ってるんだー!?」
山道のそばにあった倒木に腰かけると、一緒にあたりを眺める。先生に軽口を叩いてみれば、ランニング中の厳しい表情とは打って変わって、子どもみたいに口を尖らせた。
私が知らない、プロの忍者で教師の雅之助さん。こんなに教えるのが上手いのに、先生を辞めてしまったなんて……。一体、何があったのだろう。もったいないなぁ、と胸がチクリと痛い。
それでも、農家ののんびりとした生活が彼にとって幸せだったら――
幸せだったら、いいんだけどな。横目で彼をチラッと窺い、再び木々へと視線を移す。
深緑の葉をつけた木もあれば、真っ赤や黄色の葉っぱをつけたものも立ち並ぶ景色。葉のすき間からは真っ青な空が眩しい。その美しさに目を奪われていると、「ほれっ」と竹筒を渡され慌てて受け取った。
「水だ。飲むといい」
「ありがとうございます! のどがカラカラでした」
コクコクと冷たい水を飲み込むと、渇いた身体に染み渡って生き返るようだ。ほのかな竹の香りだけで味はないのに、とびきり美味しく感じられる。すると横から手が伸びて、サッと竹筒を奪い取られた。
「わしもいただこう」
「えっ、あの、雅之助さん!」
あまりに突然で、"先生"と呼ぶことも忘れてしまった。驚きつつ彼を見つめるも、ただただ豪快に水を飲むだけで。間接的に……唇が触れてしまったのに。その事実にあたふたするのは私だけなんだ。静まった鼓動が、またドキンと音を立てる。
「ん、名前。どうかしたか?」
「……いえ、なんでもないです!」
「休んだことだし、もうひと頑張りだ」
はい、と元気よく返す。曖昧な気持ちを振り払うように、額にじわりと滲んだ汗を拭った。遠くには、走り始めようとする先生の後ろ姿と風になびく鉢巻き。せっかくだから、私ももらった鉢巻きを着けてくればよかった。先生と生徒、いや、弟子な感じが出ちゃうかも、とクスッと笑う。
「名前、ぼけっとしてないで早くこい! 置いてくぞー」
「せんせ、待ってくださーい!」
先生は手加減してくれているのか、付かず離れずの距離を保ってくれる。純粋に、ただ一緒に走るだけ。会話はなくても心が満たされて、身体だけでなく全てに力がみなぎる気がした。
振り返る先生に目で合図すると、山道の間から広い畑が現れた。もうすぐ家にたどり着くところだ。名残惜しさと、達成感とが入り交じる。
「メェ〜!」
「わぁ、ケロちゃん。待っててくれたの!?」
「お、ラビちゃんもか」
家の前に着くと、井戸のあたりでケロちゃんとラビちゃんがウロウロしていた。まるで、私たちの帰りを待っていたような様子に嬉しくなって、先生と一緒によしよし!と頭を撫でてあげた。
「大木先生。ランニングの授業、楽しかったです!」
「わしもだ。いい汗をかいたな」
「えぇ。温まるどころか熱いですけどっ」
はぁはぁと、荒い呼吸を整えつつ彼を見上げる。手のひらで顔をあおいでも、火照りはちっとも治らない。全身から吹き出す汗のせいで着物がぺたりと張りつき、たまらず胸元をパタパタさせた。素肌へ入り込む、冷たい空気が気持ちいい。
「風呂にでも入ったらどうだ?」
「そうですね、そうします!」
戸口に置いた竹かごを背負いながら、雅之助さんは視線を風呂の方へやった。運動した後のお風呂は格別だろうな、とにんまりしていると――
「どうせなら、名前。わしと一緒にはいるか?」
「……えっ!?」
目尻を下げ、だらしなく緩んだ口元から犬歯がのぞく。たしかに、雅之助さんも汗だくだけど……。変なことを言われて、いやでも想像してしまったら最後、身体がぽっと燃えるように熱を帯びる。どこを見て良いのか分からず、視線が宙をさまよう。
「冗談だ、じょーだん! わしは長老へ野菜を届けにいく」
「そ、そうですか」
「お前、ゆでダコみたいに真っ赤になってるぞ」
雅之助さんは、くくっと面白そうに笑ってから長老のお家へ向かうべく大股で歩いていく。いつもいつも、からかわれて敵わなくて悔しいのに憎めない。それどころか、雅之助さんらしくてなぜか可笑しくなってしまうのだ。
「湯冷めしないように気をつけろよー」
振り返らないまま、そんなことを言い残して遠くなっていく姿。はーい!と大きく返してから、いつの間にか足元に戯れつくケロちゃんとラビちゃんにほほ笑むのだった。
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