目覚めたとき
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「清八さん、お気をつけて」
木材で造られた囲いが開かれた。かやぶき屋根の門から、背の高い馬に乗った清八さんが出て行くところだ。あたりは村の人が集まっている。
……加藤村からいくつも山を越えたさきの城へ、重要な文を届ける、と。
団蔵くんのお父上である、親方さまと話しているのが聞こえた。もしかしたら、合戦場の近くを通るかもしれない。澄みわたる青空に反して、不安で気持ちが落ち込んでいく。
「名前さん、すぐに戻りますから」
「そうですよね。お帰り、お待ちしています」
「清八、気をつけるんだぞ!」
「はい、親方! 行って参ります」
大事な仕事を前に、凛々しい顔つきの清八さんが一段と輝いてみえる。遠く小さくなっていく清八さんと軽い足取りの異界妖号。精一杯の笑顔で見送ると、親方さまをチラリとのぞく。彼らを腕組みしながら眺め、その表情はどこか誇らしげだ。
「名前、あいつなら心配ない」
「親方さま。暗い顔をしてすみません」
「その……親方さまって言うのは、どうにかならないのか? 慣れないからムズムズしてなあ」
「あはは、慣れてくださいっ。親方さま」
「まったく……。まあいい、仕事に戻るぞ!」
「もうすぐ団蔵くんも帰ってくることですしね」
少し前に馬借を営む加藤様の雑用として雇ってもらい、ようやく慣れてきたところだ。最初はコワモテの馬借さん達にビクビクしていたけれど、清八さんが仲を取り持ってくれて。だいぶ打ち解けて、今では親方さまと軽口も叩けるくらいになっていた。
最近は備品の整理や管理、細々した仕事を任されている。今日は忍術学園から経理の達人がくるようで、その方から帳簿のつけ方を教わるように言われているのだ。
親方さまの後を追うように門をくぐり、敷地の中へ戻っていった。
*
馬の鳴き声やひづめの音、馬借たちの威勢のいい声が聞こえるなか、ため息を漏らしながら小屋のあたりを掃きそうじしている。
道中、どうか無事でありますように。
……その願いと、もうひとつ。
清八さんが出発するとき。
村の女の子たちがわらわらと集まって、顔を赤くしながら馬にまたがる彼を見つめていた。あんなに真っ直ぐで、馬を乗りこなす技術もすごくて、誰にでも分け隔てなく接してくれて……。団蔵くんと戯れる姿はほほ笑ましくて幸せな気分になる。女の子にモテるのもよく分かるけれど、なんだか胸の中がチクリと痛む。
「ギンギーン!」
「うわぁあ〜!」
ぼんやり地面を見つめていると、大きなかけ声が響きわたりハッとする。声のする門へと急げば、しかめっ面の青年と団蔵くんが土ぼこりを上げて走ってくるところだった。
ほうきを塀に立てかけ慌てて二人の元へ向かう。団蔵くんはヘナヘナと力なく座り込んで、全速力で駆けてきたのがありありと伝わってきた。
「団蔵くん、お帰りなさい! ……って大丈夫!?」
「名前ちゃん。なんとか……戻りました」
「あなたが名前さんですか。今日はギンギンに指導しますので、ついて来てください!」
「あ。こちらは地獄の会計委員長、潮江文次郎先輩なんだ!」
「文次郎さん。よろしくお願いします」
ギンギンってなんだろう……? 地獄って……? 団蔵くんの疲れきった姿に若干の恐怖を覚えながら、文次郎さんにぺこりと頭をさげた。ここではなんですから、と二人を中へ進ませる。
せっかくなので馬小屋を案内すると、ヘトヘトだった団蔵くんもみるみる元気になった。文次郎さんに馬の説明をし始めたら止まらないようで、親方さま譲りだな……なんてクスッとする。
「潮江先輩! 馬借の仕事、格好いいでしょう?」
「そうだな。たくさんの馬をあつかって、さらに物や人の管理まで……。帳簿のつけがいがあるじゃないか」
「あっ、父ちゃん!」
「おお、こちらが潮江くんかな。わざわざ加藤村まで悪いね」
「団蔵くんのお父上ですか。いえいえ、やりがいがあります! 私にお任せください」
馬小屋を見終わったところで親方さまがやって来た。かくかくしかじか説明すると、私と文次郎さんはさっそく帳簿の作成に取りかかることになった。
*
馬小屋の立ちならぶ一角にひっそりたたずむ事務所がある。二人で文机に向かい、お互いに気合を入れた。
「文次郎さん、あの、これは……!?」
「これは10キロそろばんでして。計算と鍛錬が同時に行えるというわけです」
「は、はあ……」
「さあ、始めましょう! ギンギーン!」
文次郎さんが取り出した鉄製の大きなそろばんに驚きつつ、文机に書類をどっさりのせながら帳簿に目を凝らす。
馬の飼料や消耗品の用具、馬借さん達のお給料に……。今までなんとか付けていたけれど、文次郎さんに見てもらうと直す箇所がたくさんあるようだ。
「名前さん、この運送代金はいただいてないんですか?」
「あっ、これは後からまとめてもらう予定で」
「そうですか。じゃあ、この鞍の修理代は……」
お代を整理したり、ちょっとした物品の買い足しも費用として追加していく。ギンギーン!なんて大胆な様子とは打って変わって、細かくしっかりと確認している姿に思わず感心してしまった。
「名前さん? ……しっかり覚えてくださいね」
「は、はいっ! すみません」
「少し休みますか? 私のペースで大変でしょう」
「せっかく教えてもらっているのに休んだらもったいないです。このまま、お願いします!」
両ほほをぺちっと叩き、心配そうな文次郎さんに力強くうなずく。年齢よりも大人びた表情をくずして嬉しそうだ。目の下のクマが引っかかるけれど……気を取り直し、膨大な書類に目を通していった。
時折り、団蔵くんや親方さまが様子を見にやってくると、そのたびに作りかけの帳簿を説明する。親方さまは「難しいことは分からねえな!」なんて言いながらも、ポンと肩をたたいて励ましてくれる。それだけで、疲れた身体にやる気がみなぎってくるのだった。
――カァカァ
格子窓のすき間からカラスの鳴き声が聞こえてくる頃。空も茜色に染まり日が暮れかけていた。
「ふぅ、もうこんな時間だっ。文次郎さん、付きっきりで教えてもらって助かりました!」
「まだ終わってないですが……」
「でも、ずっと引き留めるわけにはいきませんから。鍛錬、されるのでしょう?」
「ええ、よくご存知ですね」
「団蔵くんからいつも伺っていまして。あっ、その前に……。もしよかったら夕飯食べていきません?」
「ありがたいですが……。名前さんこそ、遅くまで大丈夫なんですか?」
「私は、こちらに住み込みで働いていますので」
書きかけの帳簿をパタパタと手であおぎ風を送る。表面がかさかさと乾いていくのを確認してそっと閉じた。文次郎さんは「では、ご馳走になります」なんて照れくさそうな顔で眉を下げている。
今ごろ、清八さんは文を届け終わっているだろうか。帰りは明日になっちゃうかな……? そんなことを考えながら、馬借のみなさんが集まる母屋へ二人で進んでいった。
*
――橙色の空を濃い青が侵食していく。針で穴を開けたような、小さな輝きが無数に広がる。
親方さまと団蔵くんと、文次郎さんを見送るため門の前で立ち止まった。
文次郎さんと一緒にわいわいと鍋を囲むのはとても楽しかった。ここに清八さんもいてくれたらいいのに……なんて恋しくなりながら、熱々の野菜汁をいただいて。親方さまは、忍術学園での団蔵くんの様子を垣間見られたようで上機嫌だ。
「今日は、色々とありがとうございました」
「潮江くん、また世話になるかもしれん。よろしく頼むよ」
「必要とあればすぐに伺います!」
「先輩、また来てくださいっ。おれ、いつでも案内しますから! 清八にも会わせたいし……。とにかく格好いいんです! ねぇ、名前ちゃんもそう思うでしょ?」
「ええっ、そ、そうだね! ……馬に乗る清八さん、素敵だもんね」
団蔵くんからの思いがけない言葉に動揺して言葉が詰まる。馬を乗りこなす彼の姿を思い出し、早まる鼓動を必死で抑えこんだ。
文次郎さんはそんな私たちに笑いかけながら、10キロそろばんを肩にかつぐと遠くへ消えていくのだった。
「名前ちゃんも、清八のことそう思ってくれてたんだね! おれ、とっても嬉しいや」
「団蔵くんのことだって、同じくらい格好いいと思ってるよ」
「えー! 本当に!?」
「おい、二人とも。早く戻るぞ!」
団蔵くんが目をキラキラさせて見上げてくる。私だって、清八さんのこと……。
丸くて柔らかなあの瞳。太くてたくましい腕。優しい声色を思い出すたびにドキドキして苦しくなる。えっへん!と得意げな団蔵くんの頭をそっと撫でてから、親方さまの後へ続いた。
*
事務室の格子窓から夜空をのぞく。
細ながい三日月と無数の星々がきらめいて、文机にほお杖をつきながらぼんやり眺めている。
文次郎さんを見送ってから、教えてもらったことを忘れないうちに……!と、夜更けのこんな時間まで部屋にこもっていた。筆を握り直し小さな灯りをたよりに帳簿をつけていく。清八さんだって頑張っているんだから、私だって……。
でも、だんだんと手の力が抜けていき、その度にカクンと船をこぐ。目の前が霞んでいって文字が二重に見えてくる。まぶたを擦ってみても、あくびを我慢して深呼吸してみても、意識が遠のいてしまう。押し寄せる睡魔に耐えきれず少しだけ目をつむると、ゆったりとした幸福感に包まれた。
「名前さんっ。名前さん、大丈夫ですか」
「……っ、うーん……」
「こんなところで寝てると風邪をひきますよ」
「ん……。でも……」
身体を揺さぶられ何度も呼びかけられる。耳に心地よく響く声に、ずっと聞いていたくてまぶたを閉じ続ける。次第に寝ぼけた頭が現実に引き戻され、声の主に気がつくとぱっちり目が覚めてしまった。
「……せ、清八さんっ!?」
「はい。今、戻ったところです」
「ご無事で、よかった……」
文机に突っ伏した顔をパッと上げると、そこには会いたくて仕方なかった姿が目の前にあった。慌てる私がおかしいのか、清八さんはくすくす笑っている。訳がわからず、ぽかんとその様子を見つめた。
「名前さんの顔、墨がいっぱい付いちゃってます」
「えーっ!? や、やだ、見ないでくださいっ」
「ははは、もう見ちゃいましたから。手遅れです」
「……清八さんってば、いじわる」
「そう怒らないでください。いま、手ぬぐいを濡らしてきますね」
大きな手のひらにそっと背中を撫でられる。相変わらずの温かな笑顔でからかわれて。あんなにがっしりした身体で腕っぷしも強いのに。見た目とは反する包み込むような優しさに、この気持ちをどうしていいか分からない。
清八さんが出ていった戸口を見つめて、またため息をつく。帳簿の墨がほほに付いてしまったなんて、私としたことが……。気合を入れて頑張ろうと思ったのに眠ってしまうなんて。変な顔を見られたことも相まって、恥ずかしさにほほをゴシゴシ擦った。
――ザブザブザブ
井戸で水を汲み、手ぬぐいを桶に突っ込んでざあっと洗う。ぎゅっと絞るとかたちを整え、名前さんが待つ小さな事務室へ歩いていく。
本当は、こんな真夜中に帰る必要はなかったのだ。どこかで夜を明かしてからでも十分だった。それでも急いで戻ってきたのは……
出がけに見た彼女の暗い表情が頭をよぎったからだった。しかも、今日は潮江さんと二人きりで仕事をすると耳にした。そんな状況に、居ても立ってもいられなかったのだ。
村に帰ってくると、事務室から漏れ出だす灯りに彼女だとすぐ分かった。
名前さんは雇われてそこまで経ってはいない。少し前まで、荒っぽい馬借の若い衆とうまく話せない彼女が心配で心配で。今ではそんなことが無かったかのように馴染んでいるから不思議だ。でもきっと、彼女の人柄のせいかも知れない。
いつも私たちのことを気遣って、親方と若旦那が親子ゲンカしそうになると上手く取りなしてくれた。そうかと思えば、若い衆と子どもみたいに笑うこともある。
汚れも気にせず馬とじゃれる、愛おしさにあふれたその眼差し。今日だってこんなに遅くまで根詰めて……。
「名前さん、お待たせしました」
「大丈夫ですっ。お疲れなのに、こんなことまで……」
「気にしないでください。さっ、早く拭きましょう」
名前さんのそばに座り込むと、髪をそっと耳にかけてやる。さらりとした感触と耳の柔らかさが指先から伝わって、心臓がドキンと跳ねた。
濡らしてひんやりした手ぬぐいを頬にそわせると、名前さんはその冷たさにピクリと震える。照れて細められた瞳には小さな炎が映り込み、チラチラと揺れる。あまりの綺麗さに動けないままじっと見つめ合った。
「清八さん。あの……」
「名前さん、」
「……?」
「帳簿とか、一緒に手伝えなくてすみません。どうにも、そういったことは苦手で」
「そんな、これは私の仕事ですから。 ……それに私にできないこと、清八さんは何でもこなせちゃいますし! いつも、素敵だなって」
「ええっ。それは嬉しいです」
せっかくいい雰囲気なのに、うまい言葉が出てこない。我ながらなんて不器用なんだと落ち込みかけると、彼女に褒められて舞い上がる。
「でも……」
「でも、なんです?」
「村の女の子、みーんな清八さんのことそう思ってて。ずいぶん人気なんですねっ?」
なにを言われるかと思えば、珍しく口を尖らせ拗ねる名前さんが可愛いらしい。冗談なのか本気で言っているのか……。焼きもちめいた言葉に胸の中がくすぐったくてたまらない。
手ぬぐいを床に置いて距離をつめていく。
墨がついた目元を親指でゆっくりなぞると、柔らかなほほを包んだ。濡れてしっとりとした肌が手のひらに吸いつく。
「私だって、あなたが潮江さんと二人きりで帳簿をつけると聞いて、その……」
つい、格好わるいことを口から滑らせてしまった。気まずくてさっと頬から手を離す。
一瞬、名前さんの瞳が驚いたように大きく揺れる。それを捕らえ視線がぶつかると、恥ずかしくてお互いぎこちなく笑い合った。
「……帳簿、キリがいいところなんです。だから、少し休みましょ?」
「そうですね。私も休みなく駆けたので、疲れてしまいました」
「清八さん。お疲れさまです」
「……名前さんも」
土壁に背中をあずけ、ひざを抱えふたりで寄りそう。
目を閉じると彼女の息遣いをほのかに感じる。触れるぬくもりに幸せを噛み締めながら、少しの間まどろむのだった。
木材で造られた囲いが開かれた。かやぶき屋根の門から、背の高い馬に乗った清八さんが出て行くところだ。あたりは村の人が集まっている。
……加藤村からいくつも山を越えたさきの城へ、重要な文を届ける、と。
団蔵くんのお父上である、親方さまと話しているのが聞こえた。もしかしたら、合戦場の近くを通るかもしれない。澄みわたる青空に反して、不安で気持ちが落ち込んでいく。
「名前さん、すぐに戻りますから」
「そうですよね。お帰り、お待ちしています」
「清八、気をつけるんだぞ!」
「はい、親方! 行って参ります」
大事な仕事を前に、凛々しい顔つきの清八さんが一段と輝いてみえる。遠く小さくなっていく清八さんと軽い足取りの異界妖号。精一杯の笑顔で見送ると、親方さまをチラリとのぞく。彼らを腕組みしながら眺め、その表情はどこか誇らしげだ。
「名前、あいつなら心配ない」
「親方さま。暗い顔をしてすみません」
「その……親方さまって言うのは、どうにかならないのか? 慣れないからムズムズしてなあ」
「あはは、慣れてくださいっ。親方さま」
「まったく……。まあいい、仕事に戻るぞ!」
「もうすぐ団蔵くんも帰ってくることですしね」
少し前に馬借を営む加藤様の雑用として雇ってもらい、ようやく慣れてきたところだ。最初はコワモテの馬借さん達にビクビクしていたけれど、清八さんが仲を取り持ってくれて。だいぶ打ち解けて、今では親方さまと軽口も叩けるくらいになっていた。
最近は備品の整理や管理、細々した仕事を任されている。今日は忍術学園から経理の達人がくるようで、その方から帳簿のつけ方を教わるように言われているのだ。
親方さまの後を追うように門をくぐり、敷地の中へ戻っていった。
*
馬の鳴き声やひづめの音、馬借たちの威勢のいい声が聞こえるなか、ため息を漏らしながら小屋のあたりを掃きそうじしている。
道中、どうか無事でありますように。
……その願いと、もうひとつ。
清八さんが出発するとき。
村の女の子たちがわらわらと集まって、顔を赤くしながら馬にまたがる彼を見つめていた。あんなに真っ直ぐで、馬を乗りこなす技術もすごくて、誰にでも分け隔てなく接してくれて……。団蔵くんと戯れる姿はほほ笑ましくて幸せな気分になる。女の子にモテるのもよく分かるけれど、なんだか胸の中がチクリと痛む。
「ギンギーン!」
「うわぁあ〜!」
ぼんやり地面を見つめていると、大きなかけ声が響きわたりハッとする。声のする門へと急げば、しかめっ面の青年と団蔵くんが土ぼこりを上げて走ってくるところだった。
ほうきを塀に立てかけ慌てて二人の元へ向かう。団蔵くんはヘナヘナと力なく座り込んで、全速力で駆けてきたのがありありと伝わってきた。
「団蔵くん、お帰りなさい! ……って大丈夫!?」
「名前ちゃん。なんとか……戻りました」
「あなたが名前さんですか。今日はギンギンに指導しますので、ついて来てください!」
「あ。こちらは地獄の会計委員長、潮江文次郎先輩なんだ!」
「文次郎さん。よろしくお願いします」
ギンギンってなんだろう……? 地獄って……? 団蔵くんの疲れきった姿に若干の恐怖を覚えながら、文次郎さんにぺこりと頭をさげた。ここではなんですから、と二人を中へ進ませる。
せっかくなので馬小屋を案内すると、ヘトヘトだった団蔵くんもみるみる元気になった。文次郎さんに馬の説明をし始めたら止まらないようで、親方さま譲りだな……なんてクスッとする。
「潮江先輩! 馬借の仕事、格好いいでしょう?」
「そうだな。たくさんの馬をあつかって、さらに物や人の管理まで……。帳簿のつけがいがあるじゃないか」
「あっ、父ちゃん!」
「おお、こちらが潮江くんかな。わざわざ加藤村まで悪いね」
「団蔵くんのお父上ですか。いえいえ、やりがいがあります! 私にお任せください」
馬小屋を見終わったところで親方さまがやって来た。かくかくしかじか説明すると、私と文次郎さんはさっそく帳簿の作成に取りかかることになった。
*
馬小屋の立ちならぶ一角にひっそりたたずむ事務所がある。二人で文机に向かい、お互いに気合を入れた。
「文次郎さん、あの、これは……!?」
「これは10キロそろばんでして。計算と鍛錬が同時に行えるというわけです」
「は、はあ……」
「さあ、始めましょう! ギンギーン!」
文次郎さんが取り出した鉄製の大きなそろばんに驚きつつ、文机に書類をどっさりのせながら帳簿に目を凝らす。
馬の飼料や消耗品の用具、馬借さん達のお給料に……。今までなんとか付けていたけれど、文次郎さんに見てもらうと直す箇所がたくさんあるようだ。
「名前さん、この運送代金はいただいてないんですか?」
「あっ、これは後からまとめてもらう予定で」
「そうですか。じゃあ、この鞍の修理代は……」
お代を整理したり、ちょっとした物品の買い足しも費用として追加していく。ギンギーン!なんて大胆な様子とは打って変わって、細かくしっかりと確認している姿に思わず感心してしまった。
「名前さん? ……しっかり覚えてくださいね」
「は、はいっ! すみません」
「少し休みますか? 私のペースで大変でしょう」
「せっかく教えてもらっているのに休んだらもったいないです。このまま、お願いします!」
両ほほをぺちっと叩き、心配そうな文次郎さんに力強くうなずく。年齢よりも大人びた表情をくずして嬉しそうだ。目の下のクマが引っかかるけれど……気を取り直し、膨大な書類に目を通していった。
時折り、団蔵くんや親方さまが様子を見にやってくると、そのたびに作りかけの帳簿を説明する。親方さまは「難しいことは分からねえな!」なんて言いながらも、ポンと肩をたたいて励ましてくれる。それだけで、疲れた身体にやる気がみなぎってくるのだった。
――カァカァ
格子窓のすき間からカラスの鳴き声が聞こえてくる頃。空も茜色に染まり日が暮れかけていた。
「ふぅ、もうこんな時間だっ。文次郎さん、付きっきりで教えてもらって助かりました!」
「まだ終わってないですが……」
「でも、ずっと引き留めるわけにはいきませんから。鍛錬、されるのでしょう?」
「ええ、よくご存知ですね」
「団蔵くんからいつも伺っていまして。あっ、その前に……。もしよかったら夕飯食べていきません?」
「ありがたいですが……。名前さんこそ、遅くまで大丈夫なんですか?」
「私は、こちらに住み込みで働いていますので」
書きかけの帳簿をパタパタと手であおぎ風を送る。表面がかさかさと乾いていくのを確認してそっと閉じた。文次郎さんは「では、ご馳走になります」なんて照れくさそうな顔で眉を下げている。
今ごろ、清八さんは文を届け終わっているだろうか。帰りは明日になっちゃうかな……? そんなことを考えながら、馬借のみなさんが集まる母屋へ二人で進んでいった。
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――橙色の空を濃い青が侵食していく。針で穴を開けたような、小さな輝きが無数に広がる。
親方さまと団蔵くんと、文次郎さんを見送るため門の前で立ち止まった。
文次郎さんと一緒にわいわいと鍋を囲むのはとても楽しかった。ここに清八さんもいてくれたらいいのに……なんて恋しくなりながら、熱々の野菜汁をいただいて。親方さまは、忍術学園での団蔵くんの様子を垣間見られたようで上機嫌だ。
「今日は、色々とありがとうございました」
「潮江くん、また世話になるかもしれん。よろしく頼むよ」
「必要とあればすぐに伺います!」
「先輩、また来てくださいっ。おれ、いつでも案内しますから! 清八にも会わせたいし……。とにかく格好いいんです! ねぇ、名前ちゃんもそう思うでしょ?」
「ええっ、そ、そうだね! ……馬に乗る清八さん、素敵だもんね」
団蔵くんからの思いがけない言葉に動揺して言葉が詰まる。馬を乗りこなす彼の姿を思い出し、早まる鼓動を必死で抑えこんだ。
文次郎さんはそんな私たちに笑いかけながら、10キロそろばんを肩にかつぐと遠くへ消えていくのだった。
「名前ちゃんも、清八のことそう思ってくれてたんだね! おれ、とっても嬉しいや」
「団蔵くんのことだって、同じくらい格好いいと思ってるよ」
「えー! 本当に!?」
「おい、二人とも。早く戻るぞ!」
団蔵くんが目をキラキラさせて見上げてくる。私だって、清八さんのこと……。
丸くて柔らかなあの瞳。太くてたくましい腕。優しい声色を思い出すたびにドキドキして苦しくなる。えっへん!と得意げな団蔵くんの頭をそっと撫でてから、親方さまの後へ続いた。
*
事務室の格子窓から夜空をのぞく。
細ながい三日月と無数の星々がきらめいて、文机にほお杖をつきながらぼんやり眺めている。
文次郎さんを見送ってから、教えてもらったことを忘れないうちに……!と、夜更けのこんな時間まで部屋にこもっていた。筆を握り直し小さな灯りをたよりに帳簿をつけていく。清八さんだって頑張っているんだから、私だって……。
でも、だんだんと手の力が抜けていき、その度にカクンと船をこぐ。目の前が霞んでいって文字が二重に見えてくる。まぶたを擦ってみても、あくびを我慢して深呼吸してみても、意識が遠のいてしまう。押し寄せる睡魔に耐えきれず少しだけ目をつむると、ゆったりとした幸福感に包まれた。
「名前さんっ。名前さん、大丈夫ですか」
「……っ、うーん……」
「こんなところで寝てると風邪をひきますよ」
「ん……。でも……」
身体を揺さぶられ何度も呼びかけられる。耳に心地よく響く声に、ずっと聞いていたくてまぶたを閉じ続ける。次第に寝ぼけた頭が現実に引き戻され、声の主に気がつくとぱっちり目が覚めてしまった。
「……せ、清八さんっ!?」
「はい。今、戻ったところです」
「ご無事で、よかった……」
文机に突っ伏した顔をパッと上げると、そこには会いたくて仕方なかった姿が目の前にあった。慌てる私がおかしいのか、清八さんはくすくす笑っている。訳がわからず、ぽかんとその様子を見つめた。
「名前さんの顔、墨がいっぱい付いちゃってます」
「えーっ!? や、やだ、見ないでくださいっ」
「ははは、もう見ちゃいましたから。手遅れです」
「……清八さんってば、いじわる」
「そう怒らないでください。いま、手ぬぐいを濡らしてきますね」
大きな手のひらにそっと背中を撫でられる。相変わらずの温かな笑顔でからかわれて。あんなにがっしりした身体で腕っぷしも強いのに。見た目とは反する包み込むような優しさに、この気持ちをどうしていいか分からない。
清八さんが出ていった戸口を見つめて、またため息をつく。帳簿の墨がほほに付いてしまったなんて、私としたことが……。気合を入れて頑張ろうと思ったのに眠ってしまうなんて。変な顔を見られたことも相まって、恥ずかしさにほほをゴシゴシ擦った。
――ザブザブザブ
井戸で水を汲み、手ぬぐいを桶に突っ込んでざあっと洗う。ぎゅっと絞るとかたちを整え、名前さんが待つ小さな事務室へ歩いていく。
本当は、こんな真夜中に帰る必要はなかったのだ。どこかで夜を明かしてからでも十分だった。それでも急いで戻ってきたのは……
出がけに見た彼女の暗い表情が頭をよぎったからだった。しかも、今日は潮江さんと二人きりで仕事をすると耳にした。そんな状況に、居ても立ってもいられなかったのだ。
村に帰ってくると、事務室から漏れ出だす灯りに彼女だとすぐ分かった。
名前さんは雇われてそこまで経ってはいない。少し前まで、荒っぽい馬借の若い衆とうまく話せない彼女が心配で心配で。今ではそんなことが無かったかのように馴染んでいるから不思議だ。でもきっと、彼女の人柄のせいかも知れない。
いつも私たちのことを気遣って、親方と若旦那が親子ゲンカしそうになると上手く取りなしてくれた。そうかと思えば、若い衆と子どもみたいに笑うこともある。
汚れも気にせず馬とじゃれる、愛おしさにあふれたその眼差し。今日だってこんなに遅くまで根詰めて……。
「名前さん、お待たせしました」
「大丈夫ですっ。お疲れなのに、こんなことまで……」
「気にしないでください。さっ、早く拭きましょう」
名前さんのそばに座り込むと、髪をそっと耳にかけてやる。さらりとした感触と耳の柔らかさが指先から伝わって、心臓がドキンと跳ねた。
濡らしてひんやりした手ぬぐいを頬にそわせると、名前さんはその冷たさにピクリと震える。照れて細められた瞳には小さな炎が映り込み、チラチラと揺れる。あまりの綺麗さに動けないままじっと見つめ合った。
「清八さん。あの……」
「名前さん、」
「……?」
「帳簿とか、一緒に手伝えなくてすみません。どうにも、そういったことは苦手で」
「そんな、これは私の仕事ですから。 ……それに私にできないこと、清八さんは何でもこなせちゃいますし! いつも、素敵だなって」
「ええっ。それは嬉しいです」
せっかくいい雰囲気なのに、うまい言葉が出てこない。我ながらなんて不器用なんだと落ち込みかけると、彼女に褒められて舞い上がる。
「でも……」
「でも、なんです?」
「村の女の子、みーんな清八さんのことそう思ってて。ずいぶん人気なんですねっ?」
なにを言われるかと思えば、珍しく口を尖らせ拗ねる名前さんが可愛いらしい。冗談なのか本気で言っているのか……。焼きもちめいた言葉に胸の中がくすぐったくてたまらない。
手ぬぐいを床に置いて距離をつめていく。
墨がついた目元を親指でゆっくりなぞると、柔らかなほほを包んだ。濡れてしっとりとした肌が手のひらに吸いつく。
「私だって、あなたが潮江さんと二人きりで帳簿をつけると聞いて、その……」
つい、格好わるいことを口から滑らせてしまった。気まずくてさっと頬から手を離す。
一瞬、名前さんの瞳が驚いたように大きく揺れる。それを捕らえ視線がぶつかると、恥ずかしくてお互いぎこちなく笑い合った。
「……帳簿、キリがいいところなんです。だから、少し休みましょ?」
「そうですね。私も休みなく駆けたので、疲れてしまいました」
「清八さん。お疲れさまです」
「……名前さんも」
土壁に背中をあずけ、ひざを抱えふたりで寄りそう。
目を閉じると彼女の息遣いをほのかに感じる。触れるぬくもりに幸せを噛み締めながら、少しの間まどろむのだった。
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