黒ねこは泡沫のように
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夜更け過ぎの街は車も人通りもまばらだ。
大通りを入った路地の住宅街は、少しの走行音が聞こえるくらいで静かだった。
夏の張り付くような、生ぬるい風がTシャツとショートパンツの隙間をすり抜けていく。
……今日は新月なのか月が出てない。
胸騒ぎがして、変な時間に起きてしまった。
そわそわした気持ちを紛らわせたくて、コンビニに向かっている。
こんな時間に外に出るなんて。
……帰ったら、もう少し眠ろう。
気怠い身体を引きずって歩を進める。
――にゃあ
道端に並んだ自動販売機の裏から、猫の鳴き声が聞こえてくる。
ずいぶんと変なところにいるなぁ。
そんな隙間に入って……。
気になって覗いてみると、緑の煌めく瞳と視線がぶつかる。
「……なになに?お腹すいたの?」
にゃあにゃあと鳴いて近づいてくる黒猫にしゃがんで様子を眺める。野良猫なのに人懐っこいじゃないか。黒くてつやつやして、しなやかな身体が羨ましい。
「ちょっと待ってて。ご飯買ってきてあげるから」
そう言ってその場を離れようとすると、気配が近づいてくるのを感じる。後ろを振り向くと私のすぐ足元にいた。
「着いてきちゃだめ」
「……にゃあ」
何度同じやり取りをしただろう。
「……あれ、足ケガしてる」
変な歩き方だと思ったら……。これじゃ、コンビニに行けない。
「……もう。しょうがないなぁ」
ダメだ。置いていけないよ。
狭いアパートに一人暮らしだけど少しだけだし……。
見捨てることなんかできず、黒猫を優しく拾い上げると家へと向かった。
「……ね、美味しい?」
ひとまず鳥のささみを茹でて細かくしてあげる。
喉をごろごろ鳴らしてぱくつく姿が可愛い。
「明日、病院連れてってあげるからね」
このまま、飼ってしまおうか。
そんな可愛い姿を見ながらふわふわの背中を撫でる。何だか眠くなって、床にごろりと寝転ぶとそのまま目をとじた。
*
陽の光がカーテンの隙間から漏れ出て眩しい。
変な時間に起きたからか、すっかり寝過ぎてしまった。今日が休みで良かった……。うっすらと目を開けると、大きな黒い塊が見える。
……?!
なになになに?!
なんで男の人が家にいるの?!
「……ち、ちょっと、だれっ!? け、警察を……!」
慌ててスマホを握りしめ、尻餅をつきながら後ずさりする。黒づくめの男の人はゆっくりと上体を起こすと、困ったように笑っていた。
「あのー、すみません。……けいさつってなんです?」
突拍子もないことを聞かれて言葉に詰まってしまった。
その姿……。
まるで忍者みたいな服に……猫の耳としっぽが付いている。
「あ、あの、その……み、耳っ!し、し、しっぽもっ……」
「……これ、何なのでしょうね?」
思わず指差しておののく。
その人は頭の猫耳を触りながらうーんと唸っていた。
「く、黒い猫!保護しただけでっ……!」
「……たぶん、それが私なんです。怖がらせてすみません」
狐につままれたようでぽかんとしてしまう。それだったらあのケガは……。
「あの、あ、足は……?」
「挫いたみたいで……。でも大丈夫ですから」
大丈夫って言われても、大丈夫なわけない様相だ。
薬あったっけ?
いや、そもそも誰なの……?
「……えっと、あなたは」
「半助といいます」
「は、半助……?わたしは、名前……ですけど」
……この状況は何だろう。
半助と名乗った猫の男の人は、大きな体を小さくすくめてバツが悪そうに頭をかいていた。
猫が人間のようになったなんて信じられない。
……でも、なんか可愛い気がする。
何が起こったのか。
理解できないのに、不思議すぎて冷静になってくる。想像を超えた出来事に、くすくす笑いを堪えながら頭を撫でてしまった。
引き出しを漁って湿布を見つけると足首にぴたりと貼り付けてあげる。冷んやりした感覚に驚いていたけれど、治るからと安心させて。
……人間みたいだから、ここにいても大丈夫かもしれない。突然、奇妙な生活が始まってしまったのだった。
*
それから数日経ったころ。
最初はドアの開け方も、灯りの付け方も、蛇口の使い方も……何もかも分かっていなくて。
一から、いやゼロから教えることがたくさんあった。すぐ理解してくれたから、半助さんって頭がいいのかもしれない。
それに。
私よりずっと背も高いし、引き締まった体もくりっとした目も素敵だし、声も甘くて……。高く結んだ茶色の髪もドキリとしてしまう。
……猫の耳としっぽ付きだけど。
ベッド狭いけど一緒に寝るー?といっても断固拒否されて。
……猫のくせに。
洗濯物をまとめて洗うと、ふんどしがでてきた。
いつの時代?!と驚きつつ、見ないように顔を背けながら干していく。着てた服も忍者みたいだし。
やっぱり男の人……なのかな?
何だか全然よく分からない。
ふんどし洗っておいたよ、なんてふざけて言うと赤くなって焦る姿に吹き出してしまった。
「半助さんっ。夕飯できた!」
狭い部屋だから何をやってるかは一目瞭然だけど一応声をかけてみる。
半助さんはすぐ隣にいたみたいだ。私が小鍋をかき回すのを不思議そうに眺めていた。
男の人の服なんか持ってなくて、あれから慌てて通販で色々注文した。オーバーサイズの白いTシャツと黒いパンツ。適当に見繕ったけど様になっていて、悔しいけれど見惚れてしまった。
「名前さんに、何から何までお世話になって……」
「気にしないで大丈夫だよ。野菜だって切ってくれたし、助かってるから」
火を扱わせるのは危ないから調理は私がしていた。その横で、何か手伝えないかと静かに佇む半助さんがいじらしい。ローテーブルに料理を並べながら着々と食事の準備を進める。
「じゃあ、あした。煮たりするのもやってみよっか」
「ぜひ教えてください。何もしないのは、気が引けるというか」
「猫なんだから気ままに過ごしていいのに」
ニヤリとからかうと、猫耳を気にしているのがおかしい。耳としっぽが付いてると外に出掛けられないのが残念だ。
今は家で仕事だからいいものの。
……出社する日はどうしよう。
二人で小さなテーブルを囲み料理をつまむ。猫が好きそうな煮魚がメインだ。半助さんは和食の方が反応が良くって、煮物なんかも作ってしまった。
「うん、名前さんの料理、美味しいです……!」
「よかったあ。一人だけだと適当なんだけど、半助さんがいるからちゃんとしてるだけっ」
「私が作れるようになったら、健康的なものをたくさん作りますよ」
「えー、うれしい!」
男の人?猫?にそんな風に気遣われるとは。その優しさにこそばゆくなる。
*
名前さんは一週間ほど前にいきなり転がり込んだ私を、驚きつつも受け入れてくれた。
小柄で可愛いらしい人だった。
何も分からない私に色々と教えてくれて……。
私はなぜこんな姿でここにいるのだろうか。問い詰められることもなく、溶け込むように生活していることが不思議だった。
女性の部屋にいきなり住み着いてしまった罪悪感と……でも居心地が良くて、離れがたい気持ち。私は一体どうしたら……。
――夕方に向かって西日が強くなる。
小さな机にパソコンというものを置いて、カチャカチャと朝から難しい顔で仕事をしていた。彼女の邪魔にならないよう、静かに部屋を掃除する。
「半助さんありがとう!助かるっ」
「これくらいしか出来なくて……すまない」
「猫にしたら充分すぎるよ!」
「だから、猫って言うのはやめてくれないか」
「あはは、ごめんごめん」
日が経つにつれ少しずつ距離が縮まって、言葉も砕けてきた。
真剣な表情でパソコンを見つめ、よそ行きの声で話す名前さんをぼーっと見つめる。あんなに、凛と、しっかりしているのに。
仕事が終わると、少女みたいに無邪気に笑っていて。私にだけ見せるその姿に、仕草に、惹かれてしまう。
……恋人はいるのだろうか。そんな素振りがなくて、気持ちがそわそわしてしまう。
「もうすぐ仕事終わりかい?お風呂を入れようか」
「えっ!?嬉しいっ!半助さん、もうなんでも出来るね」
「君のおかげだよ」
――ぶくぶくぶく
口元までお湯に浸かって泡をつくる。浴室はもくもく白い湯気が立ち込めて、入浴剤の安らぐ香りに包まれている。
半助さんが入れてくれたお風呂に身体を沈めながら、ぐるぐると考え込んでしまう。
この生活、いつまで続けられるのだろう。
私のために色々とご飯を作ってくれて、掃除や洗濯までこなしてくれる。
……そんなことしなくて良いのに。
でも、一人で心細かった気持ちにすっと入り込まれて……嬉しいような。
楽しくて癒されて……手放したくない。
でも、それで良いのだろうか……。
「名前さん、長いけど大丈夫かい?」
ドア越しに心配する声が聞こえる。
そんなに長風呂だったかな……?
たしかに、くらくらする気がするけれど。
湯船のへりに腰掛けて、足だけつかる。
「大丈夫じゃなーい……」
大丈夫だけど大丈夫じゃない。
ずっとこのまま過ごしたいのに、そうしたらダメな気がする。
ドキドキするのに心が落ち着く。
相手は猫なのに、なんだろうこの気持ちは。
……はあ。
「……おい、だ、大丈夫かっ?!」
「……ちょ、ちょっと!なんで入ってくるの!?」
急にバタンと浴室の戸が開けられてビクリとする。恥ずかしさにバシャッとお湯をかけた。
ずぶ濡れになるかと思ったのに。サッと避けられ、その身のこなしに驚く。
……猫だから?……まるで忍者みたいな。
まさか。
どちらも信じられないことだけど、本当にあり得るから混乱させられる。
「す、すまない!倒れているのかと思って……!」
慌てて体を両腕で隠して湯船に隠れる。
真っ赤な顔でうろたえる姿は男の人の反応で。猫って思い込もうとしてただけなのかもしれない。
本当は……。
人間だったらいいのに。
「……心配させちゃって、ごめん」
*
半助さんが家にきて二週間ほど過ぎた頃だろうか。
ベランダで夜風に吹かれながら、二人でビールを片手に佇んでいる。時折り聞こえるクラクションや車の音が騒がしい。
パチパチと気泡が弾ける苦い飲み物に驚いていた半助さんだけど、美味しいみたいで普通に飲んでいる。
「猫なのにビールを……」
「それは、やめてくれるかい?」
「あはは、つい」
分かってはいるけれど、そんなやり取りが楽しくてからかってしまう。遠くに煌めくビル群を眺めて、埃っぽい空気を目一杯吸い込む。
ふと空を見上げると、まんまるの月が煌々としている。
「今日は満月なんだねっ」
「そうだな。きれいだ」
そう呟く半助さんをチラリと窺うと、あるはずのものがない。
暗くて見えないだけ?!
……いや、やっぱりない。
「ねっ、自分の頭さわってみて!」
「……?」
半助さんがわしわしと自身の頭をかいている。そのうち、ぽかんという表情になって。
……二人して顔を見合わせる。
「「耳がない……!」」
「しっぽもないんじゃ……?」
「うわっ、」
「ごめん、お尻触っちゃった!」
え、どうしよう。
完全に男の人だ……!まずいまずい。
「やっと、元に戻った」
「ね、猫じゃない。ちゃんと、半助さんだ……!」
「だから、猫じゃないと何度も言っているじゃないか」
「そうだけど……!まずいよ」
「……何がまずいんだい?」
「だって、男の人と二人きりなんて」
ぬるくなったビールをごくごく飲み干すと、背伸びして半助さんの頭をわしわし撫でる。
……やっぱりない。
「……君に、想い人がいるからか?」
「い、いないよ。……いや、いるというか。うーん……」
「こんなに可愛い人に、想われたら幸せだな」
「ねぇ、そういう事……言わないで」
「本当のことだから」
「ずっと……半助さんが、人間だったらって。……何度も考えてたんだよ」
月明かりは意外とあかるくて、どんな顔をしているかバレてしまいそうだ。恥ずかしくてうつむく。
半助さんはおもむろにビールの缶を足元へ置くと、そっと大きな手でほほを包んでくる。
「顔を見せてくれないか」
「……っ」
その手に導かれ、クリッとした瞳を見つめる。
心臓の音がうるさい。呼吸が浅くなって、次第に体温が上昇していく。
そのまま、向かい合うと腰を引き寄せられる。
距離が縮まって怖くなって逃げそうになるも、半助さんの手がそれを許さない。
ほほに添えられた手に、すーっと髪を撫でられる。その指の感覚が心地よくてまぶたを閉じた。
そのうち、唇が重なり合って。
お酒のせいなのか、頭がうまく働かない。
缶が手から滑り落ち、カランと音が響く。
もっと……と縋り付くようにシャツを握りしめる。
何度も優しく啄まれるうちに、次第に深くなっていく。力なく薄く開いた唇をぺろりと舐め上げられると、半助さんの熱い舌が入り込んでくる。
「んっ……ん、ぅん……ふ、ぁ……」
舌先が触れ合うとその気持ちよさに思わずくぐもった声がもれ出る。ぎゅっと大きな背中を掻き抱くと、口蓋をなぞられていく。
びくりと体が震えるのも構わず、より深く舌を絡め取られて、ちゅうと吸い上げられた。
半助さんのその余裕のなさに……激しく求められているようで堪らなかった。
私ももっと繋がりたくて、舌をおずおずと絡ませる。甘く擦れ合う刺激にがくりと膝が崩れ落ちそうになると、きつく抱きすくめられる。
名残惜しげに優しく唇を寄せられて、そっと解放される。
苦しくて、気持ちよくて、嬉しくて……。
思わず涙がぽろりとこぼれた。
「……半助さんのこと、好き」
「私も、同じ気持ちだよ」
骨ばった手にほほを触れられ、かさついた親指で涙を拭ってくれる。
たくましい腕にふわりと抱きしめられると、だんだん気持ちが落ち着いてきた。
「こんど、デートしよっか」
「それは楽しみだ」
「……ねぇ。今日は一緒に寝よう……?」
「え、あの、それはだな……!」
否定しないんだ。
半助さんの胸元にうずまって、熱くなった顔を隠した。でも、戸惑う様子にくすくす笑いが漏れてしまう。
背中に回された腕にいっそう力を込められ、幸せを噛みしめるようにまぶたを閉じた。
*
名前さんと想いを通わせて、一週間くらい経った頃。
恋人がいないと知って。
……ずっと想ってくれていたなんて。
あんな甘い声で、態度でそんなこと言われたら……抑えが効かなくなってしまうじゃないか。
こんな不安定な状態なのに想いを伝えてしまって良かったのか……。でも、どうしようもなくその誘惑に抗えない自分がいた。
デートは彼女らしい飾らない物だった。
近くの自然公園で一緒にボートに乗ったり、帰りに居酒屋というところでお酒を飲んだり。
日本酒とおでんが美味しいから…と言われて口にすると、体からものすごい拒否反応が出てきて。
……少しずつ、何かを思い出してきた気がする。
名前さんが家でだけ掛けているその眼鏡。
まん丸で、細い縁のもの。
電気を消し忘れると、水を出しすぎると、節約してっ!もったいない!と怒られて。
和菓子が好きだと言って、お団子を美味しそうにほおばる姿に……。
そんなやつがいたような気がする……。
「何か考えごと? ぼーっとして」
「いや、すまない」
――夜。
ベッドに二人腰掛けて映画を観ている。
小さな四角い板の中で動く姿に、最初はとても衝撃を受けた。
名前さんは、私の腕を抱き締めて身体をもたれさせている。そんな風に密着されると、腕にむにゅっと柔らかいものが当たって……映画どころではない。
チラリと目線を落とす。
下に履いているものが短過ぎて、白い太ももが露わになっている。
つい、手のひらでその感触を確認したくなる。
さわさわと撫でると、もちっとして肌に吸い付く触り心地がたまらない。内側の柔らかい部分にその手を滑らせると、ぎゅっと脚を閉じられた。
「……んっ、くすぐったい」
名前さんが抗議を含んだ吐息を洩らす。身を捩ってさらに擦り寄られると、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
恥ずかしいのか、目元が潤んでほほに赤みがさしている。柔らかい髪が顔にかかって色っぽい。そうやってじゃれる君の方が、よっぽど猫みたいだ。
「こんなに露出する服は着たらダメだろう?」
「家でだけだからっ。……恋人みたいなこと言っちゃって?」
「だって、恋人じゃないか」
二人でくすくす笑い合って、視線が絡み合う。
身体を寄せ合うと熱い吐息が触れ合って、また欲しくなる。
どちらからともなく唇を重ねると、柔らかい布団にの上に組み敷いた。
深く口付けながら、名前さんは身を震わせて。まるで、その先の快楽を待ち侘びているような姿にゾクゾクする。
女性らしい丸みを帯びた身体を撫で回す手が止められない。
「んっ……ぁ、あした……しごとっ、ん」
「……家で、だろう?」
「そう……だけどっ…」
「……我慢できない」
*
突然、不思議な同居生活が始まってから一ヶ月。
「早く帰るから、今日はお家で大人しくしててね」
「そんな猫みたいに言わないでくれ」
「絶対、外に出ちゃダメだよ?」
化粧をしてジャケットを羽織ると、玄関まで半助さんが見送ってくれる。
久しぶりに出社の日だ。
買い物で短い時間、半助さんに留守を任せたことはあるけれど……。朝から夜までは不安でしかたがない。
口付けしあって、軽く抱きしめあう。
……それだけで幸せが込み上げてくる。ずっとこのままでいたいけれど、カチャリと重いドアを開いた。
名前さんが出掛けてから、静かな部屋を掃除したり、ご飯を作ったり、いつも通りに過ごす。
でも、たぶん、もう帰らなければならない。……元の世界へ。
自分が誰なのか、何をやっていたのか、どこから来たのか……すっかり思い出していた。
突然、猫の姿になって。見られたくなくて慌てて裏山へ隠れたのだ。
冷蔵庫に作ったおかずを詰めて扉を閉める。
彼女の帰宅を待って、顔を見てしまったら……。
だめだ。戻りたくなくなってしまう。
忍装束に着替えると、窓からするりと抜け出し隣の建物の隙間に入り込むのだった。
*
――早く帰るなんて言ったのに、結局残業になってしまった。
空は真っ暗で、月明かりもない。
……嫌な予感がする。
でも、外に出ないって約束したから……。
はやる気持ちを抑えてバッグを持ち直し、早足で家へと向かった。
――カチャリ
鍵はしまっている。
よかった。外には出てないみたいだ。
ドアを開けるとほのかな灯がついているだけで、人の気配がしない。
「半助さん?……寝ちゃった?」
足音をたてないよう、そろそろと進む。
テーブルに白い紙が置いてあるだけだ。
震える手でそっと拾い上げる。
……まさか。
そんな。そんなのって……。
書いてある文字は綺麗に流れるようなもので。半助さんの優しさと律儀な人柄がにじみ出ていた。
へたり込むように床へ崩れ落ちる。
のどの奥が締め付けられるように苦しくなって、涙がぽろぽろこぼれて止まらない。
……こんなに好きになっちゃったのに、いなくなるなんて。
恐れていたことが目の前に突きつけられると、頭の中は真っ白だ。
冷蔵庫を開けるとタッパーに詰められた作り置きがあった。煮物をひと口つまむと、美味しくて……でも涙と混じってしょっぱい。
半助さんがさっきまで着ていた、たたまれた服をたぐりよせる。ぎゅっと胸に掻き抱くと、ふわりと優しい香りがした。
*
「半助!お前、どこに行ってたんだ!?」
「すみません、かくかくしかじかありまして……」
「まったく、学園長だか金楽寺の和尚さまの仕業か知らないが、忍たま達が猫になって大変だったんだぞ!」
しれーっと教員長屋の自室に戻ると、山田先生に叱られた。
……それはもっともだ。大変な時にいなくなってしまい、申し訳なさに頭を下げるしかなかった。
……名前さん、今ごろ何をしているのだろうか。
ガミガミ怒られながら、頭の中は彼女のことばかりだ。
無理やり連れてきてしまえば良かった。
そんな勝手なことを考えては、鼻の奥がツンと痛んだ。
「またやるらしいぞ?……まったく、困ったもんだ!」
「……え?!」
*
朝というにはまだ早い時間で薄暗い。
玄関を出て空を見上げる。
……半助さんと出会った日みたいに、今日は新月で真っ暗だ。
半助さんが急に消えて、数ヶ月経っただろうか。もうすっかり秋になって肌寒い。
別れは悲しかったけれど……。
不思議で、甘くて、素敵な一ヶ月だった。
溜め込んで重くなったゴミ袋を引きずって階段を降りると、よいしょと隅に積み置く。集積所の淀んだ空気から逃れたくて、重いドアを開き外へ出た。朝の冷たい空気が肺を満たして、ぼんやりした頭が冴えてくる。
ふと、黒いものが道を横切ってドキリと心臓がはねる。
……あれ、黒猫だ。
胸がそわそわして、鼓動がうるさい。
そんな気がして、そうであって欲しくて。
こちらを綺麗な緑の瞳で見つめる黒い影に、願いを込めて呼びかける。
駆け寄ってくる黒猫をぎゅっと抱きしめた。
「おかえり」
……今度は、あなたと一緒に着いて行っちゃおうか。もう離れたくないから。
大通りを入った路地の住宅街は、少しの走行音が聞こえるくらいで静かだった。
夏の張り付くような、生ぬるい風がTシャツとショートパンツの隙間をすり抜けていく。
……今日は新月なのか月が出てない。
胸騒ぎがして、変な時間に起きてしまった。
そわそわした気持ちを紛らわせたくて、コンビニに向かっている。
こんな時間に外に出るなんて。
……帰ったら、もう少し眠ろう。
気怠い身体を引きずって歩を進める。
――にゃあ
道端に並んだ自動販売機の裏から、猫の鳴き声が聞こえてくる。
ずいぶんと変なところにいるなぁ。
そんな隙間に入って……。
気になって覗いてみると、緑の煌めく瞳と視線がぶつかる。
「……なになに?お腹すいたの?」
にゃあにゃあと鳴いて近づいてくる黒猫にしゃがんで様子を眺める。野良猫なのに人懐っこいじゃないか。黒くてつやつやして、しなやかな身体が羨ましい。
「ちょっと待ってて。ご飯買ってきてあげるから」
そう言ってその場を離れようとすると、気配が近づいてくるのを感じる。後ろを振り向くと私のすぐ足元にいた。
「着いてきちゃだめ」
「……にゃあ」
何度同じやり取りをしただろう。
「……あれ、足ケガしてる」
変な歩き方だと思ったら……。これじゃ、コンビニに行けない。
「……もう。しょうがないなぁ」
ダメだ。置いていけないよ。
狭いアパートに一人暮らしだけど少しだけだし……。
見捨てることなんかできず、黒猫を優しく拾い上げると家へと向かった。
「……ね、美味しい?」
ひとまず鳥のささみを茹でて細かくしてあげる。
喉をごろごろ鳴らしてぱくつく姿が可愛い。
「明日、病院連れてってあげるからね」
このまま、飼ってしまおうか。
そんな可愛い姿を見ながらふわふわの背中を撫でる。何だか眠くなって、床にごろりと寝転ぶとそのまま目をとじた。
*
陽の光がカーテンの隙間から漏れ出て眩しい。
変な時間に起きたからか、すっかり寝過ぎてしまった。今日が休みで良かった……。うっすらと目を開けると、大きな黒い塊が見える。
……?!
なになになに?!
なんで男の人が家にいるの?!
「……ち、ちょっと、だれっ!? け、警察を……!」
慌ててスマホを握りしめ、尻餅をつきながら後ずさりする。黒づくめの男の人はゆっくりと上体を起こすと、困ったように笑っていた。
「あのー、すみません。……けいさつってなんです?」
突拍子もないことを聞かれて言葉に詰まってしまった。
その姿……。
まるで忍者みたいな服に……猫の耳としっぽが付いている。
「あ、あの、その……み、耳っ!し、し、しっぽもっ……」
「……これ、何なのでしょうね?」
思わず指差しておののく。
その人は頭の猫耳を触りながらうーんと唸っていた。
「く、黒い猫!保護しただけでっ……!」
「……たぶん、それが私なんです。怖がらせてすみません」
狐につままれたようでぽかんとしてしまう。それだったらあのケガは……。
「あの、あ、足は……?」
「挫いたみたいで……。でも大丈夫ですから」
大丈夫って言われても、大丈夫なわけない様相だ。
薬あったっけ?
いや、そもそも誰なの……?
「……えっと、あなたは」
「半助といいます」
「は、半助……?わたしは、名前……ですけど」
……この状況は何だろう。
半助と名乗った猫の男の人は、大きな体を小さくすくめてバツが悪そうに頭をかいていた。
猫が人間のようになったなんて信じられない。
……でも、なんか可愛い気がする。
何が起こったのか。
理解できないのに、不思議すぎて冷静になってくる。想像を超えた出来事に、くすくす笑いを堪えながら頭を撫でてしまった。
引き出しを漁って湿布を見つけると足首にぴたりと貼り付けてあげる。冷んやりした感覚に驚いていたけれど、治るからと安心させて。
……人間みたいだから、ここにいても大丈夫かもしれない。突然、奇妙な生活が始まってしまったのだった。
*
それから数日経ったころ。
最初はドアの開け方も、灯りの付け方も、蛇口の使い方も……何もかも分かっていなくて。
一から、いやゼロから教えることがたくさんあった。すぐ理解してくれたから、半助さんって頭がいいのかもしれない。
それに。
私よりずっと背も高いし、引き締まった体もくりっとした目も素敵だし、声も甘くて……。高く結んだ茶色の髪もドキリとしてしまう。
……猫の耳としっぽ付きだけど。
ベッド狭いけど一緒に寝るー?といっても断固拒否されて。
……猫のくせに。
洗濯物をまとめて洗うと、ふんどしがでてきた。
いつの時代?!と驚きつつ、見ないように顔を背けながら干していく。着てた服も忍者みたいだし。
やっぱり男の人……なのかな?
何だか全然よく分からない。
ふんどし洗っておいたよ、なんてふざけて言うと赤くなって焦る姿に吹き出してしまった。
「半助さんっ。夕飯できた!」
狭い部屋だから何をやってるかは一目瞭然だけど一応声をかけてみる。
半助さんはすぐ隣にいたみたいだ。私が小鍋をかき回すのを不思議そうに眺めていた。
男の人の服なんか持ってなくて、あれから慌てて通販で色々注文した。オーバーサイズの白いTシャツと黒いパンツ。適当に見繕ったけど様になっていて、悔しいけれど見惚れてしまった。
「名前さんに、何から何までお世話になって……」
「気にしないで大丈夫だよ。野菜だって切ってくれたし、助かってるから」
火を扱わせるのは危ないから調理は私がしていた。その横で、何か手伝えないかと静かに佇む半助さんがいじらしい。ローテーブルに料理を並べながら着々と食事の準備を進める。
「じゃあ、あした。煮たりするのもやってみよっか」
「ぜひ教えてください。何もしないのは、気が引けるというか」
「猫なんだから気ままに過ごしていいのに」
ニヤリとからかうと、猫耳を気にしているのがおかしい。耳としっぽが付いてると外に出掛けられないのが残念だ。
今は家で仕事だからいいものの。
……出社する日はどうしよう。
二人で小さなテーブルを囲み料理をつまむ。猫が好きそうな煮魚がメインだ。半助さんは和食の方が反応が良くって、煮物なんかも作ってしまった。
「うん、名前さんの料理、美味しいです……!」
「よかったあ。一人だけだと適当なんだけど、半助さんがいるからちゃんとしてるだけっ」
「私が作れるようになったら、健康的なものをたくさん作りますよ」
「えー、うれしい!」
男の人?猫?にそんな風に気遣われるとは。その優しさにこそばゆくなる。
*
名前さんは一週間ほど前にいきなり転がり込んだ私を、驚きつつも受け入れてくれた。
小柄で可愛いらしい人だった。
何も分からない私に色々と教えてくれて……。
私はなぜこんな姿でここにいるのだろうか。問い詰められることもなく、溶け込むように生活していることが不思議だった。
女性の部屋にいきなり住み着いてしまった罪悪感と……でも居心地が良くて、離れがたい気持ち。私は一体どうしたら……。
――夕方に向かって西日が強くなる。
小さな机にパソコンというものを置いて、カチャカチャと朝から難しい顔で仕事をしていた。彼女の邪魔にならないよう、静かに部屋を掃除する。
「半助さんありがとう!助かるっ」
「これくらいしか出来なくて……すまない」
「猫にしたら充分すぎるよ!」
「だから、猫って言うのはやめてくれないか」
「あはは、ごめんごめん」
日が経つにつれ少しずつ距離が縮まって、言葉も砕けてきた。
真剣な表情でパソコンを見つめ、よそ行きの声で話す名前さんをぼーっと見つめる。あんなに、凛と、しっかりしているのに。
仕事が終わると、少女みたいに無邪気に笑っていて。私にだけ見せるその姿に、仕草に、惹かれてしまう。
……恋人はいるのだろうか。そんな素振りがなくて、気持ちがそわそわしてしまう。
「もうすぐ仕事終わりかい?お風呂を入れようか」
「えっ!?嬉しいっ!半助さん、もうなんでも出来るね」
「君のおかげだよ」
――ぶくぶくぶく
口元までお湯に浸かって泡をつくる。浴室はもくもく白い湯気が立ち込めて、入浴剤の安らぐ香りに包まれている。
半助さんが入れてくれたお風呂に身体を沈めながら、ぐるぐると考え込んでしまう。
この生活、いつまで続けられるのだろう。
私のために色々とご飯を作ってくれて、掃除や洗濯までこなしてくれる。
……そんなことしなくて良いのに。
でも、一人で心細かった気持ちにすっと入り込まれて……嬉しいような。
楽しくて癒されて……手放したくない。
でも、それで良いのだろうか……。
「名前さん、長いけど大丈夫かい?」
ドア越しに心配する声が聞こえる。
そんなに長風呂だったかな……?
たしかに、くらくらする気がするけれど。
湯船のへりに腰掛けて、足だけつかる。
「大丈夫じゃなーい……」
大丈夫だけど大丈夫じゃない。
ずっとこのまま過ごしたいのに、そうしたらダメな気がする。
ドキドキするのに心が落ち着く。
相手は猫なのに、なんだろうこの気持ちは。
……はあ。
「……おい、だ、大丈夫かっ?!」
「……ちょ、ちょっと!なんで入ってくるの!?」
急にバタンと浴室の戸が開けられてビクリとする。恥ずかしさにバシャッとお湯をかけた。
ずぶ濡れになるかと思ったのに。サッと避けられ、その身のこなしに驚く。
……猫だから?……まるで忍者みたいな。
まさか。
どちらも信じられないことだけど、本当にあり得るから混乱させられる。
「す、すまない!倒れているのかと思って……!」
慌てて体を両腕で隠して湯船に隠れる。
真っ赤な顔でうろたえる姿は男の人の反応で。猫って思い込もうとしてただけなのかもしれない。
本当は……。
人間だったらいいのに。
「……心配させちゃって、ごめん」
*
半助さんが家にきて二週間ほど過ぎた頃だろうか。
ベランダで夜風に吹かれながら、二人でビールを片手に佇んでいる。時折り聞こえるクラクションや車の音が騒がしい。
パチパチと気泡が弾ける苦い飲み物に驚いていた半助さんだけど、美味しいみたいで普通に飲んでいる。
「猫なのにビールを……」
「それは、やめてくれるかい?」
「あはは、つい」
分かってはいるけれど、そんなやり取りが楽しくてからかってしまう。遠くに煌めくビル群を眺めて、埃っぽい空気を目一杯吸い込む。
ふと空を見上げると、まんまるの月が煌々としている。
「今日は満月なんだねっ」
「そうだな。きれいだ」
そう呟く半助さんをチラリと窺うと、あるはずのものがない。
暗くて見えないだけ?!
……いや、やっぱりない。
「ねっ、自分の頭さわってみて!」
「……?」
半助さんがわしわしと自身の頭をかいている。そのうち、ぽかんという表情になって。
……二人して顔を見合わせる。
「「耳がない……!」」
「しっぽもないんじゃ……?」
「うわっ、」
「ごめん、お尻触っちゃった!」
え、どうしよう。
完全に男の人だ……!まずいまずい。
「やっと、元に戻った」
「ね、猫じゃない。ちゃんと、半助さんだ……!」
「だから、猫じゃないと何度も言っているじゃないか」
「そうだけど……!まずいよ」
「……何がまずいんだい?」
「だって、男の人と二人きりなんて」
ぬるくなったビールをごくごく飲み干すと、背伸びして半助さんの頭をわしわし撫でる。
……やっぱりない。
「……君に、想い人がいるからか?」
「い、いないよ。……いや、いるというか。うーん……」
「こんなに可愛い人に、想われたら幸せだな」
「ねぇ、そういう事……言わないで」
「本当のことだから」
「ずっと……半助さんが、人間だったらって。……何度も考えてたんだよ」
月明かりは意外とあかるくて、どんな顔をしているかバレてしまいそうだ。恥ずかしくてうつむく。
半助さんはおもむろにビールの缶を足元へ置くと、そっと大きな手でほほを包んでくる。
「顔を見せてくれないか」
「……っ」
その手に導かれ、クリッとした瞳を見つめる。
心臓の音がうるさい。呼吸が浅くなって、次第に体温が上昇していく。
そのまま、向かい合うと腰を引き寄せられる。
距離が縮まって怖くなって逃げそうになるも、半助さんの手がそれを許さない。
ほほに添えられた手に、すーっと髪を撫でられる。その指の感覚が心地よくてまぶたを閉じた。
そのうち、唇が重なり合って。
お酒のせいなのか、頭がうまく働かない。
缶が手から滑り落ち、カランと音が響く。
もっと……と縋り付くようにシャツを握りしめる。
何度も優しく啄まれるうちに、次第に深くなっていく。力なく薄く開いた唇をぺろりと舐め上げられると、半助さんの熱い舌が入り込んでくる。
「んっ……ん、ぅん……ふ、ぁ……」
舌先が触れ合うとその気持ちよさに思わずくぐもった声がもれ出る。ぎゅっと大きな背中を掻き抱くと、口蓋をなぞられていく。
びくりと体が震えるのも構わず、より深く舌を絡め取られて、ちゅうと吸い上げられた。
半助さんのその余裕のなさに……激しく求められているようで堪らなかった。
私ももっと繋がりたくて、舌をおずおずと絡ませる。甘く擦れ合う刺激にがくりと膝が崩れ落ちそうになると、きつく抱きすくめられる。
名残惜しげに優しく唇を寄せられて、そっと解放される。
苦しくて、気持ちよくて、嬉しくて……。
思わず涙がぽろりとこぼれた。
「……半助さんのこと、好き」
「私も、同じ気持ちだよ」
骨ばった手にほほを触れられ、かさついた親指で涙を拭ってくれる。
たくましい腕にふわりと抱きしめられると、だんだん気持ちが落ち着いてきた。
「こんど、デートしよっか」
「それは楽しみだ」
「……ねぇ。今日は一緒に寝よう……?」
「え、あの、それはだな……!」
否定しないんだ。
半助さんの胸元にうずまって、熱くなった顔を隠した。でも、戸惑う様子にくすくす笑いが漏れてしまう。
背中に回された腕にいっそう力を込められ、幸せを噛みしめるようにまぶたを閉じた。
*
名前さんと想いを通わせて、一週間くらい経った頃。
恋人がいないと知って。
……ずっと想ってくれていたなんて。
あんな甘い声で、態度でそんなこと言われたら……抑えが効かなくなってしまうじゃないか。
こんな不安定な状態なのに想いを伝えてしまって良かったのか……。でも、どうしようもなくその誘惑に抗えない自分がいた。
デートは彼女らしい飾らない物だった。
近くの自然公園で一緒にボートに乗ったり、帰りに居酒屋というところでお酒を飲んだり。
日本酒とおでんが美味しいから…と言われて口にすると、体からものすごい拒否反応が出てきて。
……少しずつ、何かを思い出してきた気がする。
名前さんが家でだけ掛けているその眼鏡。
まん丸で、細い縁のもの。
電気を消し忘れると、水を出しすぎると、節約してっ!もったいない!と怒られて。
和菓子が好きだと言って、お団子を美味しそうにほおばる姿に……。
そんなやつがいたような気がする……。
「何か考えごと? ぼーっとして」
「いや、すまない」
――夜。
ベッドに二人腰掛けて映画を観ている。
小さな四角い板の中で動く姿に、最初はとても衝撃を受けた。
名前さんは、私の腕を抱き締めて身体をもたれさせている。そんな風に密着されると、腕にむにゅっと柔らかいものが当たって……映画どころではない。
チラリと目線を落とす。
下に履いているものが短過ぎて、白い太ももが露わになっている。
つい、手のひらでその感触を確認したくなる。
さわさわと撫でると、もちっとして肌に吸い付く触り心地がたまらない。内側の柔らかい部分にその手を滑らせると、ぎゅっと脚を閉じられた。
「……んっ、くすぐったい」
名前さんが抗議を含んだ吐息を洩らす。身を捩ってさらに擦り寄られると、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
恥ずかしいのか、目元が潤んでほほに赤みがさしている。柔らかい髪が顔にかかって色っぽい。そうやってじゃれる君の方が、よっぽど猫みたいだ。
「こんなに露出する服は着たらダメだろう?」
「家でだけだからっ。……恋人みたいなこと言っちゃって?」
「だって、恋人じゃないか」
二人でくすくす笑い合って、視線が絡み合う。
身体を寄せ合うと熱い吐息が触れ合って、また欲しくなる。
どちらからともなく唇を重ねると、柔らかい布団にの上に組み敷いた。
深く口付けながら、名前さんは身を震わせて。まるで、その先の快楽を待ち侘びているような姿にゾクゾクする。
女性らしい丸みを帯びた身体を撫で回す手が止められない。
「んっ……ぁ、あした……しごとっ、ん」
「……家で、だろう?」
「そう……だけどっ…」
「……我慢できない」
*
突然、不思議な同居生活が始まってから一ヶ月。
「早く帰るから、今日はお家で大人しくしててね」
「そんな猫みたいに言わないでくれ」
「絶対、外に出ちゃダメだよ?」
化粧をしてジャケットを羽織ると、玄関まで半助さんが見送ってくれる。
久しぶりに出社の日だ。
買い物で短い時間、半助さんに留守を任せたことはあるけれど……。朝から夜までは不安でしかたがない。
口付けしあって、軽く抱きしめあう。
……それだけで幸せが込み上げてくる。ずっとこのままでいたいけれど、カチャリと重いドアを開いた。
名前さんが出掛けてから、静かな部屋を掃除したり、ご飯を作ったり、いつも通りに過ごす。
でも、たぶん、もう帰らなければならない。……元の世界へ。
自分が誰なのか、何をやっていたのか、どこから来たのか……すっかり思い出していた。
突然、猫の姿になって。見られたくなくて慌てて裏山へ隠れたのだ。
冷蔵庫に作ったおかずを詰めて扉を閉める。
彼女の帰宅を待って、顔を見てしまったら……。
だめだ。戻りたくなくなってしまう。
忍装束に着替えると、窓からするりと抜け出し隣の建物の隙間に入り込むのだった。
*
――早く帰るなんて言ったのに、結局残業になってしまった。
空は真っ暗で、月明かりもない。
……嫌な予感がする。
でも、外に出ないって約束したから……。
はやる気持ちを抑えてバッグを持ち直し、早足で家へと向かった。
――カチャリ
鍵はしまっている。
よかった。外には出てないみたいだ。
ドアを開けるとほのかな灯がついているだけで、人の気配がしない。
「半助さん?……寝ちゃった?」
足音をたてないよう、そろそろと進む。
テーブルに白い紙が置いてあるだけだ。
震える手でそっと拾い上げる。
……まさか。
そんな。そんなのって……。
書いてある文字は綺麗に流れるようなもので。半助さんの優しさと律儀な人柄がにじみ出ていた。
へたり込むように床へ崩れ落ちる。
のどの奥が締め付けられるように苦しくなって、涙がぽろぽろこぼれて止まらない。
……こんなに好きになっちゃったのに、いなくなるなんて。
恐れていたことが目の前に突きつけられると、頭の中は真っ白だ。
冷蔵庫を開けるとタッパーに詰められた作り置きがあった。煮物をひと口つまむと、美味しくて……でも涙と混じってしょっぱい。
半助さんがさっきまで着ていた、たたまれた服をたぐりよせる。ぎゅっと胸に掻き抱くと、ふわりと優しい香りがした。
*
「半助!お前、どこに行ってたんだ!?」
「すみません、かくかくしかじかありまして……」
「まったく、学園長だか金楽寺の和尚さまの仕業か知らないが、忍たま達が猫になって大変だったんだぞ!」
しれーっと教員長屋の自室に戻ると、山田先生に叱られた。
……それはもっともだ。大変な時にいなくなってしまい、申し訳なさに頭を下げるしかなかった。
……名前さん、今ごろ何をしているのだろうか。
ガミガミ怒られながら、頭の中は彼女のことばかりだ。
無理やり連れてきてしまえば良かった。
そんな勝手なことを考えては、鼻の奥がツンと痛んだ。
「またやるらしいぞ?……まったく、困ったもんだ!」
「……え?!」
*
朝というにはまだ早い時間で薄暗い。
玄関を出て空を見上げる。
……半助さんと出会った日みたいに、今日は新月で真っ暗だ。
半助さんが急に消えて、数ヶ月経っただろうか。もうすっかり秋になって肌寒い。
別れは悲しかったけれど……。
不思議で、甘くて、素敵な一ヶ月だった。
溜め込んで重くなったゴミ袋を引きずって階段を降りると、よいしょと隅に積み置く。集積所の淀んだ空気から逃れたくて、重いドアを開き外へ出た。朝の冷たい空気が肺を満たして、ぼんやりした頭が冴えてくる。
ふと、黒いものが道を横切ってドキリと心臓がはねる。
……あれ、黒猫だ。
胸がそわそわして、鼓動がうるさい。
そんな気がして、そうであって欲しくて。
こちらを綺麗な緑の瞳で見つめる黒い影に、願いを込めて呼びかける。
駆け寄ってくる黒猫をぎゅっと抱きしめた。
「おかえり」
……今度は、あなたと一緒に着いて行っちゃおうか。もう離れたくないから。
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