2章
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
〜第32話 バイトはふたりで〜
夏休みもそろそろ終盤。
白い入道雲が浮かぶ青空から、地面を焦がすように日差しが照りつける。ジィジィと蝉の鳴き声が降り注ぎ、さらに気温を上昇させていくようだった。
今日はうどん屋の給仕の仕事がお休みで、ゆっくりできると思っていたのに。
しっかり、子守りと洗濯物のアルバイトが用意されていたのだ。さすがきり丸くん、段取りに抜かりがない。
囲炉裏から離れた所に半助さんと隣り合って座ると、赤ちゃんを腕に抱えながらゆらゆらと寝かしつけている。
この前、お酒を一緒に楽しんでいるとき。
名前で呼ぶと、半助さんは嬉しそうで。少し恥ずかしいけれど、夏休みの間だけ名前で呼んでしまおうか、なんて考えていた。
腕の中のつぶらな瞳を見つめる。うつらうつらして、お口をちゅうちゅうさせて、今にも眠りそうだ。
飴湯をあげておしめも変えたし、布団へ寝かせても大丈夫だろうか。腕もそろそろ限界だった。
「ふ、ふぇ……っ、おぎゃ〜っ!」
うとうとしていた赤ちゃんをゆっくりと布団に寝かせたとたん。包まれたぬくもりが急になくなって、驚いてしまったのかもしれない。
「せっかく寝たと思ったのに、泣いちゃいました……」
「布団に寝かせる時が一番難しいんだ。よーしよし、いい子ですね〜」
「半助さんなら、泣かなかったかも」
「そんなことないさ」
半助さんは赤ちゃんに向かって優しく話しかけながら、そっとたくましい腕に抱きかかえる。その小さくてふわふわした存在は、またお口をふにゃふにゃさせて満足そうに目をつむった。
「……やっぱり、すごいです!」
「褒められてもなあ」
「あはは、いいお父さんになりそうですね」
「嬉しいんだか悲しいんだか……」
困った顔で笑う姿が可笑しくて、なるべく物音を立てないようにくすくす小さく笑う。
慎重に赤ちゃんを布団へ下ろすと、今度はそのまま眠ってくれた。……さすが、半助さんだ。
は組の子たちも、赤ちゃんだって……みんな彼に懐いる。その愛情あふれる眼差しの向こうに何があるのだろうか。色々と気になって、聞いてみたくなってしまう。
すやすや眠る赤ちゃんのお腹をぽんぽんと優しく撫でながら、呟くように投げかけた。
「……半助さんは、お嫁さん貰わないんですか?こんなに子ども好きなのに」
「っ!?い、いや、まあ、その……」
「すごく理想が高いとか、ですか?」
「そういう訳では……!」
「……忍者の先生って、ふしぎ」
雅之助さんも、半助さんも。
格好良くて、優しくて、腕前だって一流で何でもこなせちゃうのに。引く手あまただと思うのにな。
女の子から言い寄られる姿を想像すると、チクリと胸の奥が痛む。なんて自分勝手でわがままなんだろう。
赤ちゃんから目線を上げて半助さんを見つめる。赤い顔で焦っているのが可愛いけれど……。危険と隣り合わせという職業柄、一線を引いているのだったら……。そんなことが浮かんで、切なさに息がつまる。
「名前さんは……君は、どうなんだい?」
「えっ、わ、わたしは……」
赤ん坊をにこにこ見つめながら、愛おしそうにトントンとあやす名前さんの姿がとても自然だった。
彼女だって、夫婦になって子どもがいてもおかしくないはずだ。きり丸と並んで宿題を解いている姿を見るたび、じんわりと幸せな気持ちに包まれた。
元の世界で、どんな風に過ごしていたのかを想像しては苦しくなる。よく覚えていないと言っていたけれど、やはり帰りたいのだろうか。
いやそれはそうだろう。家族だって、もしかしたら想い人だって、待っているかもしれない。
学園で楽しそうに過ごす名前さんが居なくなってしまったら。考えたくなくて、いつも逃げている。
彼女のことについて調べ続けているが、何も手掛かりが出てこないことに安堵している自分がいるのだ。このまま何も判明しないで、ずっとここに居れば良いのに。そんな酷いことを願ってしまう。
「私は、好きな人と結ばれて、子どもが産まれて……なんて未来があったらいいなって」
「そうか」
「……でも、私なんてどうなるか分からないですしっ。明日、いなくなっちゃうかも」
「そんなこと、言わないでくれ」
そんな悲しいこと、君の口から聞きたくない。赤ん坊を撫でるその小さな手を、引き留めるかのようにグッと掴んで引き寄せた。
名前さんが驚いてこちらにパッと顔を向けると、揺れる瞳と視線がかち合う。
重ねた手を、指を、絡ませるように握り直す。
互いの汗ばんだ手のひらがぴたりとくっ付いて、さらに熱くなっていく。少し豆ができてしまっているのか、以前の柔らかさだけの感触ではなかった。
一所懸命に、学園のお手伝いや畑仕事を頑張っている証だ。君は、どれだけここの生活に馴染もうと必死だったのだろう。
「……すみません。最後は、ちゃんとご挨拶しますから」
「違うんだ!……そういう事じゃなくて」
「……?」
「君は……その、元いた場所に戻りたいのかい?」
「半助さんに叱られちゃうかもですが……。学園のみんなと、一緒にいたいなって。そう思ってしまって」
「……私は、君にずっといて欲しいんだ」
名前さんは少し驚くと、目元を細めながら繋がれた手をぎゅっと握り返してくる。いつまでも側にいてくれるような気がして、こわばった心が解けていくようだった。
「半子さんにお会いできてないし……。まだ帰れませんっ」
「いや、それはちょっと……!」
「えーっ。きっと、すごく綺麗だと思うんですけど?」
彼女がいたずらっ子のようにクスッとすると、からかわれて恥ずかしくなった気持ちのやり場に困ってしまう。いまだ肩を震わせ、両手で口元を押さえて笑っている。
そのうち笑いが収まると、名前さんがこちらを覗き込んできた。お互いの視線がもう一度ぶつかる。その可愛らしい瞳に釘付けになって、逸らせない。
そっと柔らかそうな髪を耳にかけてやると、くすぐったそうに身じろいで。そのまま、ほほをなぞるように指を滑らし、小さなあごに指を添える。
じわじわと距離をつめていく。名前さんはされるがままで逃げもしない。薄く開いたその唇に、触れてもいいのだろうか。
……この空間に、二人だけしかいないような錯覚に陥っていく。
彼女の気持ちを置いてきぼりにして。
そんなことを考える冷静さはもう残っていなかった。
床に手をつき名前さんの方へ体重をかけると、ギシッと軋む音が響く。吸い寄せられるように、さらに身体を寄せていった。
「ふぇ……ふっ……おぎゃ〜っ!!」
「……っ!起きちゃいましたっ」
「……あ、あぁ」
一気に現実に引き戻され、ぱっと身体を離す。
視線を落とし、汗ばんだ手のひらを見つめると気まずさに襲われる。頭をぽりぽり掻いて気持ちを誤魔化すしかなかった。
「私があやすから……!」
「じゃ、じゃあ、私は汚れ物を洗ってきます!」
名前さんは顔を真っ赤にしながら、布の山を抱えると慌てて勝手口へと駆けていってしまった。赤ん坊を腕の中でゆらゆらとあやしながら、彼女の後ろ姿をぼーっと眺めるのだった。
*
――じゃぶじゃぶじゃぶ
たすき掛けにして邪魔にならないように袖を捲ると、たらいに井戸の水をたっぷり注ぐ。
そばにしゃがみ込んで、一心不乱に大量の汚れ物をゴシゴシと手でもみ洗いしていた。
……どうしよう。
身体が固まって、動けなくて……。
半助さんのくりっとした優しい瞳に見つめられると、胸は苦しくなるのにそのまま身を任せてしまいそうになる。
ずっとそばにいて欲しいだなんて、そんなこと言われたら……嬉しくなる気持ちが隠せない。
明日にも消えて、いなくなってしまうかもしれない私には、その先のことを考える資格なんてないのに。
たまに、恐る恐る小さなかばんに忍ばせたくしゃくしゃの紙切れを見ては、変化がないことに安心して。
ずっと、ここにいたい。
そうしても、いいのかな……?
……はあ。
半助さんのお家に来てから、ドキドキしっぱなしだ。もう、心臓がもたない。
けたたましい鼓動をかき消すかのように、さらに力を込めてゴシゴシと布をこすっていった。
「おーい。名前さん、手伝おうか?」
「……っ!は、はい!」
赤ん坊が眠ってしばらくした頃。
名前さんは勝手口のすぐそばで、大きなたらいを前に小さくしゃがんでいる。何度か呼びかけても全く気づいていないようだ。
彼女の隣にしゃがみ込むと、ようやく反応してくれた。
なにか、考え事をしていたのだろうか。
……私のことだったら、嬉しいんだけれど。
いや、さっきのことで嫌な思いをさせてしまったのか!?急に変な汗が出てきてしまう。
「こ、こんなに大量の汚れ物、一人で大変だっただろう?」
「い、いえっ。井戸水に触れていると気持ちよくって。あとは濯ぐだけですし」
「っ、そうか?絞ったり乾かすのは大変だから、私がやるよ」
「ありがとうございますっ」
ぎこちない会話になってしまったけれど、嬉しそうにほほ笑まれてほっとした。さっきのことは、嫌がられてはいないようだ。
水を含んで重たくなった着物を引き上げると、ひとまず竿にかける。汚れた水をざぁっと捨てて、たらいに再び綺麗な井戸水を満たしていった。
「半助さんっ!ほらっ、冷たくて気持ちいいでしょう?」
「……うわぁっ!」
突然、首筋に冷たくなった手のひらを押し当てられて変な声が出てしまった。名前さんは何かを企んでいるように、ニヤリと見つめてくる。
「驚いちゃいましたっ?」
「あ、ああ。でも、冷たくて気持ちいいね」
「ふふっ。でしょー?」
「お返しだ!」
「ひゃっ……!」
たらいの水を掬って名前さんにパシャリとかけていく。
突然の攻撃で水を防ぐこともできず、彼女の前髪や顔に水滴がしたたり落ちている。濡れたまつげが太陽の光を浴びてキラキラ煌めくと、その瞳に思わず見惚れてしまった。
「もうおしまいだ」
「これで終われませんっ!」
そう言うと、不敵に笑いながらこちらに水を掛けてくる。てっきり反撃などされないと思って油断してしまった。
ボサボサの前髪を思い切り濡らされると、ぽたぽた水が落ちて着物に吸い込まれていく。
「やったな?!」
「きゃっ……!」
二人で構えをとりながら本格的にたらいの水を掛け合っていると、意外と着物が濡れてしまった。夏の暑さに、ぴちゃぴちゃと跳ねる水の音とひんやりと肌に張り付く布が気持ち良い。
「水がなくなってしまった」
「あはは、また汲み直しますね」
物干しに掛けてある洗い物をすすがなければならないのに、子どものようにはしゃぐのが楽しくて少しふざけ過ぎてしまった。
名前さんは井戸から水を汲むと、勢いよくたらいに注いでいく。よいしょと大変そうな姿に、慌ててそばへ駆け寄った。
つるべ縄に手をかけ、すぐ隣の小さな身体を見つめる。
その艶やかな髪は、水を掛けられたせいでしっとりと濡れていてた。細い首筋には水滴が流れていった跡がいつくも残り、丸いしずくが胸元の……もっと奥に入り込もうとしている。
……いかんいかん。
ついつい、目線を下げてしまいそうになる。
「大変だから、私が汲むよ」
「助かりますっ」
そんな色っぽい彼女に気を取られながら、井戸の奥に落ちたつるべをぐっと引き上げた瞬間。
「……っ!!」
「わぁっ!」
縄を強く引きすぎて、汲み上げた桶が勢いよくひっくり返る。冷たい水がバシャっと二人に降り注ぎ、盛大に着物を濡らしていった。
一緒にずぶ濡れになるその様がおかしくて、二人して額を寄せながらくすくすと笑い合うのだった。
(おまけ)
「ちょっとあんた達!こんなに泥だらけにして!」
「「隣のおばちゃん、すみません……」」
「まあ、仲が良いのはいい事だけど……ねえ?」
名前さんと水を掛け合ってあたりに撒き散らしたせいで、地面が泥でぐしゃぐしゃになってしまった。
隣のおばちゃんに叱られ、からかわれて……もう二人であははと笑うしかなかった。おばちゃんに平謝りしてから、今度は真面目に濡れた布を干していく。
その後バイトから帰ってきたきり丸にも「ずぶ濡れ姿で赤ちゃんを面倒みないでください!」と叱られて……。
またもや二人でひたすら謝るのだった。
夏休みもそろそろ終盤。
白い入道雲が浮かぶ青空から、地面を焦がすように日差しが照りつける。ジィジィと蝉の鳴き声が降り注ぎ、さらに気温を上昇させていくようだった。
今日はうどん屋の給仕の仕事がお休みで、ゆっくりできると思っていたのに。
しっかり、子守りと洗濯物のアルバイトが用意されていたのだ。さすがきり丸くん、段取りに抜かりがない。
囲炉裏から離れた所に半助さんと隣り合って座ると、赤ちゃんを腕に抱えながらゆらゆらと寝かしつけている。
この前、お酒を一緒に楽しんでいるとき。
名前で呼ぶと、半助さんは嬉しそうで。少し恥ずかしいけれど、夏休みの間だけ名前で呼んでしまおうか、なんて考えていた。
腕の中のつぶらな瞳を見つめる。うつらうつらして、お口をちゅうちゅうさせて、今にも眠りそうだ。
飴湯をあげておしめも変えたし、布団へ寝かせても大丈夫だろうか。腕もそろそろ限界だった。
「ふ、ふぇ……っ、おぎゃ〜っ!」
うとうとしていた赤ちゃんをゆっくりと布団に寝かせたとたん。包まれたぬくもりが急になくなって、驚いてしまったのかもしれない。
「せっかく寝たと思ったのに、泣いちゃいました……」
「布団に寝かせる時が一番難しいんだ。よーしよし、いい子ですね〜」
「半助さんなら、泣かなかったかも」
「そんなことないさ」
半助さんは赤ちゃんに向かって優しく話しかけながら、そっとたくましい腕に抱きかかえる。その小さくてふわふわした存在は、またお口をふにゃふにゃさせて満足そうに目をつむった。
「……やっぱり、すごいです!」
「褒められてもなあ」
「あはは、いいお父さんになりそうですね」
「嬉しいんだか悲しいんだか……」
困った顔で笑う姿が可笑しくて、なるべく物音を立てないようにくすくす小さく笑う。
慎重に赤ちゃんを布団へ下ろすと、今度はそのまま眠ってくれた。……さすが、半助さんだ。
は組の子たちも、赤ちゃんだって……みんな彼に懐いる。その愛情あふれる眼差しの向こうに何があるのだろうか。色々と気になって、聞いてみたくなってしまう。
すやすや眠る赤ちゃんのお腹をぽんぽんと優しく撫でながら、呟くように投げかけた。
「……半助さんは、お嫁さん貰わないんですか?こんなに子ども好きなのに」
「っ!?い、いや、まあ、その……」
「すごく理想が高いとか、ですか?」
「そういう訳では……!」
「……忍者の先生って、ふしぎ」
雅之助さんも、半助さんも。
格好良くて、優しくて、腕前だって一流で何でもこなせちゃうのに。引く手あまただと思うのにな。
女の子から言い寄られる姿を想像すると、チクリと胸の奥が痛む。なんて自分勝手でわがままなんだろう。
赤ちゃんから目線を上げて半助さんを見つめる。赤い顔で焦っているのが可愛いけれど……。危険と隣り合わせという職業柄、一線を引いているのだったら……。そんなことが浮かんで、切なさに息がつまる。
「名前さんは……君は、どうなんだい?」
「えっ、わ、わたしは……」
赤ん坊をにこにこ見つめながら、愛おしそうにトントンとあやす名前さんの姿がとても自然だった。
彼女だって、夫婦になって子どもがいてもおかしくないはずだ。きり丸と並んで宿題を解いている姿を見るたび、じんわりと幸せな気持ちに包まれた。
元の世界で、どんな風に過ごしていたのかを想像しては苦しくなる。よく覚えていないと言っていたけれど、やはり帰りたいのだろうか。
いやそれはそうだろう。家族だって、もしかしたら想い人だって、待っているかもしれない。
学園で楽しそうに過ごす名前さんが居なくなってしまったら。考えたくなくて、いつも逃げている。
彼女のことについて調べ続けているが、何も手掛かりが出てこないことに安堵している自分がいるのだ。このまま何も判明しないで、ずっとここに居れば良いのに。そんな酷いことを願ってしまう。
「私は、好きな人と結ばれて、子どもが産まれて……なんて未来があったらいいなって」
「そうか」
「……でも、私なんてどうなるか分からないですしっ。明日、いなくなっちゃうかも」
「そんなこと、言わないでくれ」
そんな悲しいこと、君の口から聞きたくない。赤ん坊を撫でるその小さな手を、引き留めるかのようにグッと掴んで引き寄せた。
名前さんが驚いてこちらにパッと顔を向けると、揺れる瞳と視線がかち合う。
重ねた手を、指を、絡ませるように握り直す。
互いの汗ばんだ手のひらがぴたりとくっ付いて、さらに熱くなっていく。少し豆ができてしまっているのか、以前の柔らかさだけの感触ではなかった。
一所懸命に、学園のお手伝いや畑仕事を頑張っている証だ。君は、どれだけここの生活に馴染もうと必死だったのだろう。
「……すみません。最後は、ちゃんとご挨拶しますから」
「違うんだ!……そういう事じゃなくて」
「……?」
「君は……その、元いた場所に戻りたいのかい?」
「半助さんに叱られちゃうかもですが……。学園のみんなと、一緒にいたいなって。そう思ってしまって」
「……私は、君にずっといて欲しいんだ」
名前さんは少し驚くと、目元を細めながら繋がれた手をぎゅっと握り返してくる。いつまでも側にいてくれるような気がして、こわばった心が解けていくようだった。
「半子さんにお会いできてないし……。まだ帰れませんっ」
「いや、それはちょっと……!」
「えーっ。きっと、すごく綺麗だと思うんですけど?」
彼女がいたずらっ子のようにクスッとすると、からかわれて恥ずかしくなった気持ちのやり場に困ってしまう。いまだ肩を震わせ、両手で口元を押さえて笑っている。
そのうち笑いが収まると、名前さんがこちらを覗き込んできた。お互いの視線がもう一度ぶつかる。その可愛らしい瞳に釘付けになって、逸らせない。
そっと柔らかそうな髪を耳にかけてやると、くすぐったそうに身じろいで。そのまま、ほほをなぞるように指を滑らし、小さなあごに指を添える。
じわじわと距離をつめていく。名前さんはされるがままで逃げもしない。薄く開いたその唇に、触れてもいいのだろうか。
……この空間に、二人だけしかいないような錯覚に陥っていく。
彼女の気持ちを置いてきぼりにして。
そんなことを考える冷静さはもう残っていなかった。
床に手をつき名前さんの方へ体重をかけると、ギシッと軋む音が響く。吸い寄せられるように、さらに身体を寄せていった。
「ふぇ……ふっ……おぎゃ〜っ!!」
「……っ!起きちゃいましたっ」
「……あ、あぁ」
一気に現実に引き戻され、ぱっと身体を離す。
視線を落とし、汗ばんだ手のひらを見つめると気まずさに襲われる。頭をぽりぽり掻いて気持ちを誤魔化すしかなかった。
「私があやすから……!」
「じゃ、じゃあ、私は汚れ物を洗ってきます!」
名前さんは顔を真っ赤にしながら、布の山を抱えると慌てて勝手口へと駆けていってしまった。赤ん坊を腕の中でゆらゆらとあやしながら、彼女の後ろ姿をぼーっと眺めるのだった。
*
――じゃぶじゃぶじゃぶ
たすき掛けにして邪魔にならないように袖を捲ると、たらいに井戸の水をたっぷり注ぐ。
そばにしゃがみ込んで、一心不乱に大量の汚れ物をゴシゴシと手でもみ洗いしていた。
……どうしよう。
身体が固まって、動けなくて……。
半助さんのくりっとした優しい瞳に見つめられると、胸は苦しくなるのにそのまま身を任せてしまいそうになる。
ずっとそばにいて欲しいだなんて、そんなこと言われたら……嬉しくなる気持ちが隠せない。
明日にも消えて、いなくなってしまうかもしれない私には、その先のことを考える資格なんてないのに。
たまに、恐る恐る小さなかばんに忍ばせたくしゃくしゃの紙切れを見ては、変化がないことに安心して。
ずっと、ここにいたい。
そうしても、いいのかな……?
……はあ。
半助さんのお家に来てから、ドキドキしっぱなしだ。もう、心臓がもたない。
けたたましい鼓動をかき消すかのように、さらに力を込めてゴシゴシと布をこすっていった。
「おーい。名前さん、手伝おうか?」
「……っ!は、はい!」
赤ん坊が眠ってしばらくした頃。
名前さんは勝手口のすぐそばで、大きなたらいを前に小さくしゃがんでいる。何度か呼びかけても全く気づいていないようだ。
彼女の隣にしゃがみ込むと、ようやく反応してくれた。
なにか、考え事をしていたのだろうか。
……私のことだったら、嬉しいんだけれど。
いや、さっきのことで嫌な思いをさせてしまったのか!?急に変な汗が出てきてしまう。
「こ、こんなに大量の汚れ物、一人で大変だっただろう?」
「い、いえっ。井戸水に触れていると気持ちよくって。あとは濯ぐだけですし」
「っ、そうか?絞ったり乾かすのは大変だから、私がやるよ」
「ありがとうございますっ」
ぎこちない会話になってしまったけれど、嬉しそうにほほ笑まれてほっとした。さっきのことは、嫌がられてはいないようだ。
水を含んで重たくなった着物を引き上げると、ひとまず竿にかける。汚れた水をざぁっと捨てて、たらいに再び綺麗な井戸水を満たしていった。
「半助さんっ!ほらっ、冷たくて気持ちいいでしょう?」
「……うわぁっ!」
突然、首筋に冷たくなった手のひらを押し当てられて変な声が出てしまった。名前さんは何かを企んでいるように、ニヤリと見つめてくる。
「驚いちゃいましたっ?」
「あ、ああ。でも、冷たくて気持ちいいね」
「ふふっ。でしょー?」
「お返しだ!」
「ひゃっ……!」
たらいの水を掬って名前さんにパシャリとかけていく。
突然の攻撃で水を防ぐこともできず、彼女の前髪や顔に水滴がしたたり落ちている。濡れたまつげが太陽の光を浴びてキラキラ煌めくと、その瞳に思わず見惚れてしまった。
「もうおしまいだ」
「これで終われませんっ!」
そう言うと、不敵に笑いながらこちらに水を掛けてくる。てっきり反撃などされないと思って油断してしまった。
ボサボサの前髪を思い切り濡らされると、ぽたぽた水が落ちて着物に吸い込まれていく。
「やったな?!」
「きゃっ……!」
二人で構えをとりながら本格的にたらいの水を掛け合っていると、意外と着物が濡れてしまった。夏の暑さに、ぴちゃぴちゃと跳ねる水の音とひんやりと肌に張り付く布が気持ち良い。
「水がなくなってしまった」
「あはは、また汲み直しますね」
物干しに掛けてある洗い物をすすがなければならないのに、子どものようにはしゃぐのが楽しくて少しふざけ過ぎてしまった。
名前さんは井戸から水を汲むと、勢いよくたらいに注いでいく。よいしょと大変そうな姿に、慌ててそばへ駆け寄った。
つるべ縄に手をかけ、すぐ隣の小さな身体を見つめる。
その艶やかな髪は、水を掛けられたせいでしっとりと濡れていてた。細い首筋には水滴が流れていった跡がいつくも残り、丸いしずくが胸元の……もっと奥に入り込もうとしている。
……いかんいかん。
ついつい、目線を下げてしまいそうになる。
「大変だから、私が汲むよ」
「助かりますっ」
そんな色っぽい彼女に気を取られながら、井戸の奥に落ちたつるべをぐっと引き上げた瞬間。
「……っ!!」
「わぁっ!」
縄を強く引きすぎて、汲み上げた桶が勢いよくひっくり返る。冷たい水がバシャっと二人に降り注ぎ、盛大に着物を濡らしていった。
一緒にずぶ濡れになるその様がおかしくて、二人して額を寄せながらくすくすと笑い合うのだった。
(おまけ)
「ちょっとあんた達!こんなに泥だらけにして!」
「「隣のおばちゃん、すみません……」」
「まあ、仲が良いのはいい事だけど……ねえ?」
名前さんと水を掛け合ってあたりに撒き散らしたせいで、地面が泥でぐしゃぐしゃになってしまった。
隣のおばちゃんに叱られ、からかわれて……もう二人であははと笑うしかなかった。おばちゃんに平謝りしてから、今度は真面目に濡れた布を干していく。
その後バイトから帰ってきたきり丸にも「ずぶ濡れ姿で赤ちゃんを面倒みないでください!」と叱られて……。
またもや二人でひたすら謝るのだった。