2章
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〜第21話 ピンチをチャンスに〜
――カーン
「授業を始めるぞ、みんな席につけ!」
ガラリと戸を開けて土井先生が教室に入ってきた。
……室内に緊張感が走る。
今日は、"ざっとこなもんさん"から聞いたあの日なのだ。
「乱太郎、大丈夫かよ?」
きり丸が心配そうに見つめてくる。いつも通り授業を進める先生の様子に、きり丸しんべヱと顔を見合わせうなずいた。
大木先生と名前さんを目撃してから、みんな何も見なかったように過ごしている。幸い、土井先生は出張だったからか知らないみたいだ。名前さんも、いつもと変わらず定食を渡してくれるし……。
みんなでこそこそと目配せする。わたしたちの計画はバレていないみたいだ。
「……であるからして、――」
……カリカリカリ。
黒板にチョークで文字を書きながら背中に視線をビシビシと感じる。
……なんだなんだ?
あいつらの様子がいつもと違うぞ……? 一年は組が真面目に授業を受けているなんて、大雨でも降りそうだ。
「本日の授業はこれまで!」
「「「ありがとうございましたー!」」」
出席簿をかかえ教室を出て立ち止まる。そっと聞き耳を立てると、中でこそこそ話しているようだ。一体何を企んでいるのやら。
そういえば、この前は組が打った手裏剣が名前さんに向かって大変だったと山田先生から聞いたが……。なぜか大木先生が助けたようだが、それと関係あるのだろうか。
アイツらの考えることだ。
きっと碌なことじゃないな、とため息をつきながら教員長屋へと向かった。
*
……ジューッ
食堂では、魚の焼ける香ばしいかおりと煮物を煮詰める甘い香りがただよう。
今日のランチは、焼き魚に煮物の小鉢がA定食で、B定食は……おでんだ。
土井先生のために、焼き魚がなくならないよう取っておこう。サラサラと紙に筆を走らせてメニュー表を壁に貼りつけた。
「よしっ。おばちゃん、準備できました!」
「名前ちゃん、ありがとう。もうすぐみんな来るころね」
カーンと突き抜ける鐘の音が鳴り響き、ドタドタと元気な足音が聞こえてきた。午前の授業が終わり、みんな楽しみなランチの時間だ。
カウンターに入って定食の準備をする。可愛らしい話し声が聞こえ、乱太郎くんたちがやって来た。
……あれから、この前の大木先生とのことは何もなかったように過ごしていた。こちらから触れることも戸惑われて。何か聞かれることもなく、有耶無耶にしていたのだ。
「名前さん。わたし、A定食お願いします!」
「ぼく両方食べるー!」
「おれはB定食で!」
そんないつも通りのやり取りを微笑ましく思いながら手渡していくと、「ちょっと……」と乱太郎くんに呼ばれる。
「ん、どうしたの?」
「庭の花壇なんですけど……お花の元気がないみたいで。放課後に、みていただきたいのです。畑も手伝われているから、名前さんなら詳しいかと思って」
「そうなんだね。力になれるか分からないけど、後でみてみるよ」
「はいっ! ありがとうございます」
畑のことを言われて一瞬ドキッとしてしまった。でも、お花が心配だといじらしいことを言っていて。私に何とかできたらいいんだけど……。お手伝いがひと段落したら見に行く約束をする。
そのうち、他の学年の子たちや先生たちもやって来て、労いながら定食を渡していく。土井先生はまだ見かけていない。気になって、食堂の入り口を何度ものぞいてしまった。
ランチも終わりかけの頃、待っていた黒い影が見えて嬉しくなる。けれど、先生の足取りは重いようだ。
「土井先生、お疲れさまですっ。はい、A定食です!」
「え、ありがとうございます! ……じつは、おでんしか残っていないと思って」
「あぁ! それで入りづらそうにしてたのですね。……先生の分、ちゃんと取っておきましたよっ」
にこにこしながら、隠しておいた焼き魚定食を手渡す。危ないところだった。しんべヱくんが2つも注文したから焼き魚が残り最後だったのだ。
「そうだ、名前さん。は組のやつらに何か言われませんでした?」
「いえ、特には……。どうしてです?」
「あ、いやー、何でもないです」
土井先生は困ったように笑ってテーブルへと向かっていった。
……何だろう。
気になるけれど特に思い当たらず、おばちゃんとランチの片付け作業に入ったのだった。
*
――ザッザッザッ
忍術学園へと向かう足は、気合を入れるように一歩一歩しっかりと地面を踏みしめている。
今日こそ、今日とて、土井半助を倒してやる……! せっかく貴重な有給を取ったのだ。絶対に負けられない。塀からスッと落ちて音もなく着地する。
「諸泉尊奈門さーん、そろそろ来る頃だとお待ちしてましたぁ。入門票にサインを〜」
「……!? へっぽこ事務員の小松田秀作っ! まあいい。ほら、サインしたぞ」
「はぁい、ありがとうございます!」
それでいいのか!?という疑問は残るが、さっさと勝負して片を付けようじゃないか。
土井はどこだ、職員室にいるのか!?
あたりを見回し探っていると、忍たまたちののほほんとした会話が聞こえてきた。
あれは……乱太郎きり丸しんべヱだな? サッと茂みに隠れて耳を澄ませる。
「ねーねー、土井先生なんであんな格好して隠れてるんだろう!?」
「そーだなー、もうそろそろ、しょせんこんなもんさんが来る頃だからじゃないかー?」
「そうかあ! だから、事務員に女装して、花壇に隠れているんだね!」
「「「あははは!」」」
……ん?
土井が事務員に女装?
なるほど、面白い。あの土井がそこまでして隠れるとは。足音を立てずに素早く花壇へと向かう。
――ピィピィ
晴れた空を楽しむように小鳥が宙を舞う。少し暑いけれど、吹きぬける乾いた風が心地よい。
"名前さんなら詳しいかと思って"
さきほど、乱太郎くんから頼まれたお花を見に花壇へと向かう。念のため、用具倉庫からスコップまで持ってきた。期待を裏切らないよう、何とかできるか少し不安だ。
お花の元気がない、かぁ。
雑草がいっぱいなのか、肥料が足りないのか。害虫にやられていたらどうしよう。
あれこれ考えながら歩いていると、赤い花が咲きほこる花壇にたどり着いた。
どれどれ?とお花の様子をみてみるが、元気そうに見える。青々とした葉はそよ風にゆられ、その花びらは生き生きとしていた。茎もしっかり太く堂々と伸びている。雑草もないし、変な虫もついていない。もちろん根も腐っている様子はない。
花壇のへりにしゃがんで一本ずつ確かめていく。乱太郎くんたち、どうして元気ないと思ったんだろう。
「おい、土井半助! ……勝負ッ!」
突然大声で叫ばれ、ビクリと体が固まる。暗褐色の忍装束に身を包んだ若い男が、タタタっと花壇に駆けよってくる。
……だ、だれ!?
音もなくこちらに走ってくるやいなや、懐から苦無を取り出し今にも襲い掛かろうとしている。その気迫に思わず腰が抜けて地面に尻もちをついた。
「あ、あの、何ですかっ?! わたし、土井先生じゃ……!」
「早く立て! 変装までして! そんなに私と戦いたくないのかッ?!」
「……へ、変装!?」
「とぼけるのもいい加減にしろ!」
「きゃっ……!」
とぼけてなんかないです!と言いかけたとたん、足元ギリギリに手裏剣が打ち付けらた。は組の子たちの打ち方とは違う、怒りのこもったその力強さに身をすくめる。
この人、本気なのかもしれない。
……何で土井先生に怒っているのだろう。小松田くん、なんで曲者を入れてしまったの……!?
もし足に刺さっていたら……。
体を狙って打ち付けられたら……。
その鋭い痛みを想像して震えが止まらない。
ぐるぐると考えて混乱してくる。なんとか距離をとろうと、足をジタバタさせて必死の思いで後ずさった。
……怖くて怖くて。
手元のスコップを握り、少しでも攻撃から避けられるようにかざしてみる。
「なんだ、変な形の苦無だな!」
「……えっ、ち、ちがっ!」
苦無じゃないってば……!
だれか、助けて……!
男の苦無が降りかかろうとした瞬間。
「尊奈門、彼女から離れろ!!」
「な、なにぃッ?! ……ど、どいはんすけ?」
そんなもんと呼ばれた男は苦無を振りかざしたまま、丸い目をさらに丸くして驚いている。うろたえながらも、駆けてくる土井先生を見つめていた。
「……いてッ!」
土井先生は、走りながら白い何かを勢いよく投げつける。それはスッと男の額に命中した。
「私が土井半助だ! 彼女に手を出すな!」
先生は足裏で地面を踏みしめると、私を守るように大きく手を広げて曲者に立ちはばかる。その勢いで、足元からは土ぼこりが舞いあがった。
「はぁ? だってこの女事務員に変装してたんじゃ……!」
「変装、だと?」
男が土井先生と対峙し、睨みつけている。今度は先生に向かって苦無を構えなおした。
男が鋭い刃を振り下ろしたその時。土井先生がさらりと身をかわす。苦無を握る男の手首を、内側からパシリと出席簿で払いのける。
払いのけた動きから、そのまま出席簿の角を華麗に男の頭にグッと突き刺していった。
「痛ッ!!」
「もう止めるんだ、尊奈門!」
「だから、何でチョークと出席簿なんだー!」
男が頭を抱えて地面にしゃがみ込む。目の前で繰り広げられた忍者の戦いを、ぼーっと眺めるしかできなかった。
放つ殺気と、怒気をはらんだ強い言葉、鋭く光る刃。土井先生の無駄のない素早い身のこなし。守ってくれた大きな背中。すべてが目に焼き付いて離れない。
地べたに尻もちをついたまま、土井先生の戦う姿に見惚れてしまっていた。
「名前さんっ、大丈夫か!?」
「……はい」
「痛むところは?」
「あの、本当に大丈夫ですから……! ありがとうございます」
私の「大丈夫」が信用できないのか、先生は片膝をついて私の両肩をぎゅっと掴む。のぞきこまれると、こんな状況なのにドキドキして先生を直視できない。
「おいっ! どういうことなんだ土井半助! 女に変装してたんじゃないのか?!」
「お前ら出てこいっ!!」
先生はすくっと立ち上がり、尊奈門さんがわめくのを無視してあたりへ呼びかける。すると、近くの茂みから一年は組のみんなが飛び出してきた。
「み、みんな! どうして……?!」
「「「「えへへへ……すみません」」」」
それぞれ大きな枝を握りしめたり、手裏剣をもっていたり、しんべヱくんはなぜか汚れた敷布を手にしている。
「おい、乱太郎きり丸しんべヱ! お前たちが大きな声で土井が変装してるって言ったんだぞ!」
「「「「えーと、あははは……」」」」
「それで、虎若たちは名前さんが襲われていると……わざわざ職員室まで報告しにきたんだな。私を花壇へ向かわせようとして」
土井先生に睨まれ、は組のみんなが冷や汗をかいて縮こまっている。
「ぼくたち、ピンチをチャンスにしようと計画したんです。名前さんと土井先生がうまく行くようにと思いまして……!」
「まったく、お前ら! 名前さんに何かあったらどうするんだっ!」
代表して説明する庄左ヱ門くんを、みんながうるうるした目で見つめる。土井先生がいまにもゲンコツを落としそうな勢いでまくし立てた。
「ぼくたち、土井先生ならきっと大丈夫だと思ったんです! ぜったい、名前さんを守ってくれるって!」
「しんべヱの鼻水ガビガビごわごわの敷布だって用意したんすよ!」
きり丸くんが庄左ヱ門を援護する。みるからに汚れた敷布が気になるけれど……。土井先生は呆れているのか盛大なため息をついた。
「名前さんのことは必ず私が守る。だが、冗談でも危険な目にあわせるような事は絶対にするんじゃない……!」
そう言い切る先生に、嬉しくて恥ずかしくてむずがゆい。顔が赤くなってないか、ほほを触って確かめた。
「はあー? 全く話についていけないんだが! 私を利用して、土井とこの名前さんって人をくっ付けようとしたってことか?!」
「「「「しょせんそんなもんさん、その通りでーす!」」」」
「あ、あの、すみません。しょせんそんなもんさんって……?」
「違います! タソガレドキ忍軍の諸泉尊奈門です!」
「そ、そうなんですね。あの、私は学園でお手伝いをしている名前と申します……」
タソガレドキ。ちらほらと聞くに忍術学園とは仲が良くないみたいだ。あまりいい噂は聞かないし、すこし怖いと思っていたけれど……。尊奈門さんはよく見ると、素直そうな悪い人ではない感じがした。
「お前ら、天唾の術のつもりだったのか? 味方を危険な目に合わせて、術としては成立していないが……」
「教わりましたっけ?」
「え、天丼のじゅつ? おいしそー!」
土井先生も胃を押さえてうなだれてしまった。教えたはずだ……というつぶやきが微かに聞こえる。
「じゃあ、お花の元気がないって言うのも……?」
「「「「名前さん、嘘ついてごめんなさい!」」」」
いっせいに謝られてその勢いに気圧される。そもそも、こうなったのは……。大木先生との事があったからだと気まずさが襲う。
「……みんな、大木先生とのこと気になってたんだよね? だから、こんなことを……」
「どういうことです、名前さん?」
「土井先生、じつは……」
みんな固唾を呑んで見守っている。ピンと張った雰囲気に冷や汗が流れ落ちそうだ。
「この前、みんなの手裏剣が降ってきた時、大木先生に助けていただいたんですが……。そのせいでお怪我されて、薬を塗ったんです。医務室に行かないというので、私の部屋で……」
それをみんなが見ちゃいまして……と土井先生に困りながら伝える。
「「「「ほんとにぃ〜?」」」」
「ほ、本当だってば! ……誤解させるようなことして、ごめんなさい」
は組のジトリとした目線が突き刺さる。視線から逃れるため、がばっと頭を下げた。
「「「「そーだったんですね!」」」」
「なんなんだ一体! せっかく有給休暇をとったのにー!」
土井先生は眉を下げながら苦笑して、は組の子たちはなーんだ、と安心したように笑っていた。尊奈門さんは相変わらずガッカリしている。
本当は……。思い出すと恥ずかしくなる気持ちを押し込めて、薬を塗っていただけだと自分に言い聞かせた。
――陽もだいぶ落ちてきた頃。
あたりは夕日のせいで赤く染まっている。
「みんな、お腹空いたでしょ? もうすぐ夕飯の時間だよ。尊奈門さんも、一緒にいかがですか?」
土井先生をうかがうと、「まぁ、いいだろう」と困ったように笑ってくれた。尊奈門さんは丸い目を輝かせにこにこ顔だ。
「あのー、名前さん。先ほどは一年は組の言葉を鵜呑みにして、怖い思いをさせてしまってすみませんでした……」
「大丈夫ですよ。でも、尊奈門さん。土井先生と私、だいぶ体格が違いますけど?」
「いやぁ、名前さんが屈んでいたので分からなかったんです……」
「敵をもっとよく観察することだな」
土井先生が、まるで授業みたいに指摘している。尊奈門さんはタジタジだ。
みんなで食堂へと向かう道すがら、なんで土井先生に勝負を挑んでいるのかを教えてもらう。たしかに、チョークと出席簿で攻撃されてたなと思い出して、クスリと漏らしそうな口元を押さえた。
「ねぇ、しんべヱくん。その敷布どうしたの?」
「これですかー? ぼくの鼻水とよだれが染み込んでゴワゴワなので、手裏剣や鉄砲玉を弾くんです! 万が一の時のために持ってきたの!」
「そ、そうなんだ……。こんど私が洗ってあげようか?」
「名前さん、こいつらを甘やかさないでください!」
――ズルズルズル
「あちっ……」
学園近くの木にのぼり、竹筒の雑炊をすする。土井先生とどんな戦いをするのか、わざわざ忍術学園まで見に来てみれば。
尊奈門のやつ……。
敵を間違えるわ、一年は組に利用されるわ、しまいに夕飯まで仲良く食べにいくなんて。
「アホだねぇ」
*
――夜
お手伝いが終わって眠る支度を済ませると、小さな灯りをともし布団の上でじっと膝を抱えていた。どれくらいそうしていただろうか。
今日のことが頭を巡りなかなか眠れない。あんなに怖いこと、実際に忍たま達も経験するのだろうか。みんなの可愛い笑顔が頭に浮かんで、どうしようもなく苦しくなる。
灯りに使う油がもったいないから、いつまでもこうしてはいられない。
ふぅっと息で吹き消す。
気を紛らわせるため夜風に当たろうと、静かに障子に手をかける。
へりに腰かけ煌々と輝く月を見あげた。
時折り、黒い雲が月明かりをさえぎり過ぎ去っていく。その様子を、ほほに掠める風を感じながら眺めていた。
「名前さん。眠れないのですか」
忍装束姿の土井先生が部屋から出てきて声を掛けてくれた。まだ仕事をしていたのだろうか。こんな夜更けに物音を立ててしまい、申し訳なさに身をすくめる。
「……はい。色々と考えてしまって」
「よろしければ……連れて行きたいところがあるのですが。きっと、気分が落ち着きますよ」
にこっと首を傾げられたら、拒否権なんてないも同然だ。寝巻きのままだと気が引けて、慌ててシナ先生からいただいた藤色の着物を羽織った。
暗い中歩くのは危ないから……と土井先生に抱きかかえられて櫓まで向かう。先生に助けてもらいながら、おそるおそる梯子に足をかける。一歩ずつ登っていくと、半鐘のかかる最上部へたどり着いた。
櫓のへりを掴んで二人並ぶと、遠くを見つめる。月の光は意外と明るいもので、学園内の建物がぼんやり分かった。すぐ隣の土井先生を感じながら、視線はそのまま遠くへ向ける。
「前に、吉野先生にがっかりされて落ち込んだとき……。ヘムヘムに連れてきてもらったことがあります」
「そんなことがありましたね。あれから、ずいぶん文字が上手になって。……頑張りましたね」
「先生の特訓のおかげですっ」
そう冗談めかすと二人でくすくすと笑い合う。
「……今日はすみません。眠れないくらい、君に怖い思いをさせてしまった」
「怖かったです。……でも、違うんです」
「どういうことです?」
「あんな思い、忍たまのみんなも経験するのかなって。怪我とか、酷い目にあったりとか……。土井先生だって、たまに忍務に出たりするのでしょう? もし、何かあったらと思うと……」
忍者って素敵……!なんてうわべだけではしゃいでいた自分が恥ずかしかった。借りた本で忍術を学んで。心理をついた術や科学的なところに感心して、知った気になっていた。
戦う姿を目の当たりにして、影に生きる人たちだと思い知らされる。過酷で、残酷すぎる。でも、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。
へりを掴む手に力が入る。自分で言っておいて、その言葉が心に突き刺さって……。胸がぎゅっと掴まれたように痛くて、息が苦しい。じわじわと視界がぼやけていく。
「名前さん」
「……っ」
「危険な目にあうかもしれない。でも忍びとは、戦にならないよう情報をもたらすのが本分だ。生きて戻らなきゃいけない。……君も知っているだろう?」
「……はい」
「それだけじゃない。忍たま達は……この世を生き抜くためにも、ここで学んでいるんだ」
いつもと違う雰囲気の土井先生に感情が揺さぶられる。その言葉に、あふれる涙をこぼさないよう堪えるばかりだった。
「……みんな忍者になるわけじゃない」
「そう、ですね」
「こんな世だ。忍びでなくても危険と隣り合わせだし、みんな生きるのに必死だよ」
君もだろう?と言うように、私の手にふわりと大きな手を重ねられた。その言葉と先生のあたたかさが伝わってくる。
手を握られたと思ったら、ぐいっと引き寄せられ向かい合う。
思わず先生を見つめる。
こらえていた涙が、ぽろぽろと溢れて止まらない。
「……そんな姿で、そんな顔で、君は」
名前さんの崩れた寝巻きに、ゆるく羽織った着物が月明かりに照らされる。まるで乱されたようなその姿が、なんとも儚く消えてしまいそうだった。
悲しげにうるんだ瞳からこぼれた水滴が、ほほを伝ってきらりと光を放つ。彼女から目が離せなくて、じっと見つめる。
そんな姿で心配されると、自分に都合よく考えてしまうじゃないか。
「……見ないで、ください」
「こうしたら、見えない」
握った手をほどいて、小さな身体をぎゅっと抱きしめる。少し、いじわるかもしれない。
「心配しないで。……名前さんのこと、大木先生に任せられませんから。やられるわけにはいかないさ」
「……土井先生っ」
蚊の鳴くような声で、胸元にうずくまる君はどんな顔をしているのだろう。腰のあたりの布をきゅうと握られて、ずっとこのまま胸に閉じ込めておきたい。
奥歯を噛みしめ、そっと体をはなす。鼻腔をくすぐる名前さんの甘い香り、柔らかな感触が名残惜しい。
抱きしめた際に乱れた髪を直そうと、彼女が腕をあげる。するりと袖が捲れて肘のあたりまで露わになった。痛々しい内出血の後が見えて、思わずその腕を掴む。
「また、怪我したのかい?」
「……掃除してるとき、気付かないうちにぶつけたのかも。全然痛くないので大丈夫ですよ」
「自分のこと、もっと大切にしなきゃだめじゃないか」
「すみませんっ。新野先生や保健委員さんにもお世話になりっぱなしで……」
「名前さん、頑張りすぎだ」
突然、慣れないところに来てしまった君は。一寸先だってどうなるか分からないというのに。忙しなく働いて、いつもみんなのことばかり心配している。
ぽんと頭を撫でると、はにかむ姿が可愛らしい。
そんなことを話しながら、ゆっくり時が過ぎていく。二人でしばらく夜風にあたりながら、月明かりに佇んでいるのだった。
――カーン
「授業を始めるぞ、みんな席につけ!」
ガラリと戸を開けて土井先生が教室に入ってきた。
……室内に緊張感が走る。
今日は、"ざっとこなもんさん"から聞いたあの日なのだ。
「乱太郎、大丈夫かよ?」
きり丸が心配そうに見つめてくる。いつも通り授業を進める先生の様子に、きり丸しんべヱと顔を見合わせうなずいた。
大木先生と名前さんを目撃してから、みんな何も見なかったように過ごしている。幸い、土井先生は出張だったからか知らないみたいだ。名前さんも、いつもと変わらず定食を渡してくれるし……。
みんなでこそこそと目配せする。わたしたちの計画はバレていないみたいだ。
「……であるからして、――」
……カリカリカリ。
黒板にチョークで文字を書きながら背中に視線をビシビシと感じる。
……なんだなんだ?
あいつらの様子がいつもと違うぞ……? 一年は組が真面目に授業を受けているなんて、大雨でも降りそうだ。
「本日の授業はこれまで!」
「「「ありがとうございましたー!」」」
出席簿をかかえ教室を出て立ち止まる。そっと聞き耳を立てると、中でこそこそ話しているようだ。一体何を企んでいるのやら。
そういえば、この前は組が打った手裏剣が名前さんに向かって大変だったと山田先生から聞いたが……。なぜか大木先生が助けたようだが、それと関係あるのだろうか。
アイツらの考えることだ。
きっと碌なことじゃないな、とため息をつきながら教員長屋へと向かった。
*
……ジューッ
食堂では、魚の焼ける香ばしいかおりと煮物を煮詰める甘い香りがただよう。
今日のランチは、焼き魚に煮物の小鉢がA定食で、B定食は……おでんだ。
土井先生のために、焼き魚がなくならないよう取っておこう。サラサラと紙に筆を走らせてメニュー表を壁に貼りつけた。
「よしっ。おばちゃん、準備できました!」
「名前ちゃん、ありがとう。もうすぐみんな来るころね」
カーンと突き抜ける鐘の音が鳴り響き、ドタドタと元気な足音が聞こえてきた。午前の授業が終わり、みんな楽しみなランチの時間だ。
カウンターに入って定食の準備をする。可愛らしい話し声が聞こえ、乱太郎くんたちがやって来た。
……あれから、この前の大木先生とのことは何もなかったように過ごしていた。こちらから触れることも戸惑われて。何か聞かれることもなく、有耶無耶にしていたのだ。
「名前さん。わたし、A定食お願いします!」
「ぼく両方食べるー!」
「おれはB定食で!」
そんないつも通りのやり取りを微笑ましく思いながら手渡していくと、「ちょっと……」と乱太郎くんに呼ばれる。
「ん、どうしたの?」
「庭の花壇なんですけど……お花の元気がないみたいで。放課後に、みていただきたいのです。畑も手伝われているから、名前さんなら詳しいかと思って」
「そうなんだね。力になれるか分からないけど、後でみてみるよ」
「はいっ! ありがとうございます」
畑のことを言われて一瞬ドキッとしてしまった。でも、お花が心配だといじらしいことを言っていて。私に何とかできたらいいんだけど……。お手伝いがひと段落したら見に行く約束をする。
そのうち、他の学年の子たちや先生たちもやって来て、労いながら定食を渡していく。土井先生はまだ見かけていない。気になって、食堂の入り口を何度ものぞいてしまった。
ランチも終わりかけの頃、待っていた黒い影が見えて嬉しくなる。けれど、先生の足取りは重いようだ。
「土井先生、お疲れさまですっ。はい、A定食です!」
「え、ありがとうございます! ……じつは、おでんしか残っていないと思って」
「あぁ! それで入りづらそうにしてたのですね。……先生の分、ちゃんと取っておきましたよっ」
にこにこしながら、隠しておいた焼き魚定食を手渡す。危ないところだった。しんべヱくんが2つも注文したから焼き魚が残り最後だったのだ。
「そうだ、名前さん。は組のやつらに何か言われませんでした?」
「いえ、特には……。どうしてです?」
「あ、いやー、何でもないです」
土井先生は困ったように笑ってテーブルへと向かっていった。
……何だろう。
気になるけれど特に思い当たらず、おばちゃんとランチの片付け作業に入ったのだった。
*
――ザッザッザッ
忍術学園へと向かう足は、気合を入れるように一歩一歩しっかりと地面を踏みしめている。
今日こそ、今日とて、土井半助を倒してやる……! せっかく貴重な有給を取ったのだ。絶対に負けられない。塀からスッと落ちて音もなく着地する。
「諸泉尊奈門さーん、そろそろ来る頃だとお待ちしてましたぁ。入門票にサインを〜」
「……!? へっぽこ事務員の小松田秀作っ! まあいい。ほら、サインしたぞ」
「はぁい、ありがとうございます!」
それでいいのか!?という疑問は残るが、さっさと勝負して片を付けようじゃないか。
土井はどこだ、職員室にいるのか!?
あたりを見回し探っていると、忍たまたちののほほんとした会話が聞こえてきた。
あれは……乱太郎きり丸しんべヱだな? サッと茂みに隠れて耳を澄ませる。
「ねーねー、土井先生なんであんな格好して隠れてるんだろう!?」
「そーだなー、もうそろそろ、しょせんこんなもんさんが来る頃だからじゃないかー?」
「そうかあ! だから、事務員に女装して、花壇に隠れているんだね!」
「「「あははは!」」」
……ん?
土井が事務員に女装?
なるほど、面白い。あの土井がそこまでして隠れるとは。足音を立てずに素早く花壇へと向かう。
――ピィピィ
晴れた空を楽しむように小鳥が宙を舞う。少し暑いけれど、吹きぬける乾いた風が心地よい。
"名前さんなら詳しいかと思って"
さきほど、乱太郎くんから頼まれたお花を見に花壇へと向かう。念のため、用具倉庫からスコップまで持ってきた。期待を裏切らないよう、何とかできるか少し不安だ。
お花の元気がない、かぁ。
雑草がいっぱいなのか、肥料が足りないのか。害虫にやられていたらどうしよう。
あれこれ考えながら歩いていると、赤い花が咲きほこる花壇にたどり着いた。
どれどれ?とお花の様子をみてみるが、元気そうに見える。青々とした葉はそよ風にゆられ、その花びらは生き生きとしていた。茎もしっかり太く堂々と伸びている。雑草もないし、変な虫もついていない。もちろん根も腐っている様子はない。
花壇のへりにしゃがんで一本ずつ確かめていく。乱太郎くんたち、どうして元気ないと思ったんだろう。
「おい、土井半助! ……勝負ッ!」
突然大声で叫ばれ、ビクリと体が固まる。暗褐色の忍装束に身を包んだ若い男が、タタタっと花壇に駆けよってくる。
……だ、だれ!?
音もなくこちらに走ってくるやいなや、懐から苦無を取り出し今にも襲い掛かろうとしている。その気迫に思わず腰が抜けて地面に尻もちをついた。
「あ、あの、何ですかっ?! わたし、土井先生じゃ……!」
「早く立て! 変装までして! そんなに私と戦いたくないのかッ?!」
「……へ、変装!?」
「とぼけるのもいい加減にしろ!」
「きゃっ……!」
とぼけてなんかないです!と言いかけたとたん、足元ギリギリに手裏剣が打ち付けらた。は組の子たちの打ち方とは違う、怒りのこもったその力強さに身をすくめる。
この人、本気なのかもしれない。
……何で土井先生に怒っているのだろう。小松田くん、なんで曲者を入れてしまったの……!?
もし足に刺さっていたら……。
体を狙って打ち付けられたら……。
その鋭い痛みを想像して震えが止まらない。
ぐるぐると考えて混乱してくる。なんとか距離をとろうと、足をジタバタさせて必死の思いで後ずさった。
……怖くて怖くて。
手元のスコップを握り、少しでも攻撃から避けられるようにかざしてみる。
「なんだ、変な形の苦無だな!」
「……えっ、ち、ちがっ!」
苦無じゃないってば……!
だれか、助けて……!
男の苦無が降りかかろうとした瞬間。
「尊奈門、彼女から離れろ!!」
「な、なにぃッ?! ……ど、どいはんすけ?」
そんなもんと呼ばれた男は苦無を振りかざしたまま、丸い目をさらに丸くして驚いている。うろたえながらも、駆けてくる土井先生を見つめていた。
「……いてッ!」
土井先生は、走りながら白い何かを勢いよく投げつける。それはスッと男の額に命中した。
「私が土井半助だ! 彼女に手を出すな!」
先生は足裏で地面を踏みしめると、私を守るように大きく手を広げて曲者に立ちはばかる。その勢いで、足元からは土ぼこりが舞いあがった。
「はぁ? だってこの女事務員に変装してたんじゃ……!」
「変装、だと?」
男が土井先生と対峙し、睨みつけている。今度は先生に向かって苦無を構えなおした。
男が鋭い刃を振り下ろしたその時。土井先生がさらりと身をかわす。苦無を握る男の手首を、内側からパシリと出席簿で払いのける。
払いのけた動きから、そのまま出席簿の角を華麗に男の頭にグッと突き刺していった。
「痛ッ!!」
「もう止めるんだ、尊奈門!」
「だから、何でチョークと出席簿なんだー!」
男が頭を抱えて地面にしゃがみ込む。目の前で繰り広げられた忍者の戦いを、ぼーっと眺めるしかできなかった。
放つ殺気と、怒気をはらんだ強い言葉、鋭く光る刃。土井先生の無駄のない素早い身のこなし。守ってくれた大きな背中。すべてが目に焼き付いて離れない。
地べたに尻もちをついたまま、土井先生の戦う姿に見惚れてしまっていた。
「名前さんっ、大丈夫か!?」
「……はい」
「痛むところは?」
「あの、本当に大丈夫ですから……! ありがとうございます」
私の「大丈夫」が信用できないのか、先生は片膝をついて私の両肩をぎゅっと掴む。のぞきこまれると、こんな状況なのにドキドキして先生を直視できない。
「おいっ! どういうことなんだ土井半助! 女に変装してたんじゃないのか?!」
「お前ら出てこいっ!!」
先生はすくっと立ち上がり、尊奈門さんがわめくのを無視してあたりへ呼びかける。すると、近くの茂みから一年は組のみんなが飛び出してきた。
「み、みんな! どうして……?!」
「「「「えへへへ……すみません」」」」
それぞれ大きな枝を握りしめたり、手裏剣をもっていたり、しんべヱくんはなぜか汚れた敷布を手にしている。
「おい、乱太郎きり丸しんべヱ! お前たちが大きな声で土井が変装してるって言ったんだぞ!」
「「「「えーと、あははは……」」」」
「それで、虎若たちは名前さんが襲われていると……わざわざ職員室まで報告しにきたんだな。私を花壇へ向かわせようとして」
土井先生に睨まれ、は組のみんなが冷や汗をかいて縮こまっている。
「ぼくたち、ピンチをチャンスにしようと計画したんです。名前さんと土井先生がうまく行くようにと思いまして……!」
「まったく、お前ら! 名前さんに何かあったらどうするんだっ!」
代表して説明する庄左ヱ門くんを、みんながうるうるした目で見つめる。土井先生がいまにもゲンコツを落としそうな勢いでまくし立てた。
「ぼくたち、土井先生ならきっと大丈夫だと思ったんです! ぜったい、名前さんを守ってくれるって!」
「しんべヱの鼻水ガビガビごわごわの敷布だって用意したんすよ!」
きり丸くんが庄左ヱ門を援護する。みるからに汚れた敷布が気になるけれど……。土井先生は呆れているのか盛大なため息をついた。
「名前さんのことは必ず私が守る。だが、冗談でも危険な目にあわせるような事は絶対にするんじゃない……!」
そう言い切る先生に、嬉しくて恥ずかしくてむずがゆい。顔が赤くなってないか、ほほを触って確かめた。
「はあー? 全く話についていけないんだが! 私を利用して、土井とこの名前さんって人をくっ付けようとしたってことか?!」
「「「「しょせんそんなもんさん、その通りでーす!」」」」
「あ、あの、すみません。しょせんそんなもんさんって……?」
「違います! タソガレドキ忍軍の諸泉尊奈門です!」
「そ、そうなんですね。あの、私は学園でお手伝いをしている名前と申します……」
タソガレドキ。ちらほらと聞くに忍術学園とは仲が良くないみたいだ。あまりいい噂は聞かないし、すこし怖いと思っていたけれど……。尊奈門さんはよく見ると、素直そうな悪い人ではない感じがした。
「お前ら、天唾の術のつもりだったのか? 味方を危険な目に合わせて、術としては成立していないが……」
「教わりましたっけ?」
「え、天丼のじゅつ? おいしそー!」
土井先生も胃を押さえてうなだれてしまった。教えたはずだ……というつぶやきが微かに聞こえる。
「じゃあ、お花の元気がないって言うのも……?」
「「「「名前さん、嘘ついてごめんなさい!」」」」
いっせいに謝られてその勢いに気圧される。そもそも、こうなったのは……。大木先生との事があったからだと気まずさが襲う。
「……みんな、大木先生とのこと気になってたんだよね? だから、こんなことを……」
「どういうことです、名前さん?」
「土井先生、じつは……」
みんな固唾を呑んで見守っている。ピンと張った雰囲気に冷や汗が流れ落ちそうだ。
「この前、みんなの手裏剣が降ってきた時、大木先生に助けていただいたんですが……。そのせいでお怪我されて、薬を塗ったんです。医務室に行かないというので、私の部屋で……」
それをみんなが見ちゃいまして……と土井先生に困りながら伝える。
「「「「ほんとにぃ〜?」」」」
「ほ、本当だってば! ……誤解させるようなことして、ごめんなさい」
は組のジトリとした目線が突き刺さる。視線から逃れるため、がばっと頭を下げた。
「「「「そーだったんですね!」」」」
「なんなんだ一体! せっかく有給休暇をとったのにー!」
土井先生は眉を下げながら苦笑して、は組の子たちはなーんだ、と安心したように笑っていた。尊奈門さんは相変わらずガッカリしている。
本当は……。思い出すと恥ずかしくなる気持ちを押し込めて、薬を塗っていただけだと自分に言い聞かせた。
――陽もだいぶ落ちてきた頃。
あたりは夕日のせいで赤く染まっている。
「みんな、お腹空いたでしょ? もうすぐ夕飯の時間だよ。尊奈門さんも、一緒にいかがですか?」
土井先生をうかがうと、「まぁ、いいだろう」と困ったように笑ってくれた。尊奈門さんは丸い目を輝かせにこにこ顔だ。
「あのー、名前さん。先ほどは一年は組の言葉を鵜呑みにして、怖い思いをさせてしまってすみませんでした……」
「大丈夫ですよ。でも、尊奈門さん。土井先生と私、だいぶ体格が違いますけど?」
「いやぁ、名前さんが屈んでいたので分からなかったんです……」
「敵をもっとよく観察することだな」
土井先生が、まるで授業みたいに指摘している。尊奈門さんはタジタジだ。
みんなで食堂へと向かう道すがら、なんで土井先生に勝負を挑んでいるのかを教えてもらう。たしかに、チョークと出席簿で攻撃されてたなと思い出して、クスリと漏らしそうな口元を押さえた。
「ねぇ、しんべヱくん。その敷布どうしたの?」
「これですかー? ぼくの鼻水とよだれが染み込んでゴワゴワなので、手裏剣や鉄砲玉を弾くんです! 万が一の時のために持ってきたの!」
「そ、そうなんだ……。こんど私が洗ってあげようか?」
「名前さん、こいつらを甘やかさないでください!」
――ズルズルズル
「あちっ……」
学園近くの木にのぼり、竹筒の雑炊をすする。土井先生とどんな戦いをするのか、わざわざ忍術学園まで見に来てみれば。
尊奈門のやつ……。
敵を間違えるわ、一年は組に利用されるわ、しまいに夕飯まで仲良く食べにいくなんて。
「アホだねぇ」
*
――夜
お手伝いが終わって眠る支度を済ませると、小さな灯りをともし布団の上でじっと膝を抱えていた。どれくらいそうしていただろうか。
今日のことが頭を巡りなかなか眠れない。あんなに怖いこと、実際に忍たま達も経験するのだろうか。みんなの可愛い笑顔が頭に浮かんで、どうしようもなく苦しくなる。
灯りに使う油がもったいないから、いつまでもこうしてはいられない。
ふぅっと息で吹き消す。
気を紛らわせるため夜風に当たろうと、静かに障子に手をかける。
へりに腰かけ煌々と輝く月を見あげた。
時折り、黒い雲が月明かりをさえぎり過ぎ去っていく。その様子を、ほほに掠める風を感じながら眺めていた。
「名前さん。眠れないのですか」
忍装束姿の土井先生が部屋から出てきて声を掛けてくれた。まだ仕事をしていたのだろうか。こんな夜更けに物音を立ててしまい、申し訳なさに身をすくめる。
「……はい。色々と考えてしまって」
「よろしければ……連れて行きたいところがあるのですが。きっと、気分が落ち着きますよ」
にこっと首を傾げられたら、拒否権なんてないも同然だ。寝巻きのままだと気が引けて、慌ててシナ先生からいただいた藤色の着物を羽織った。
暗い中歩くのは危ないから……と土井先生に抱きかかえられて櫓まで向かう。先生に助けてもらいながら、おそるおそる梯子に足をかける。一歩ずつ登っていくと、半鐘のかかる最上部へたどり着いた。
櫓のへりを掴んで二人並ぶと、遠くを見つめる。月の光は意外と明るいもので、学園内の建物がぼんやり分かった。すぐ隣の土井先生を感じながら、視線はそのまま遠くへ向ける。
「前に、吉野先生にがっかりされて落ち込んだとき……。ヘムヘムに連れてきてもらったことがあります」
「そんなことがありましたね。あれから、ずいぶん文字が上手になって。……頑張りましたね」
「先生の特訓のおかげですっ」
そう冗談めかすと二人でくすくすと笑い合う。
「……今日はすみません。眠れないくらい、君に怖い思いをさせてしまった」
「怖かったです。……でも、違うんです」
「どういうことです?」
「あんな思い、忍たまのみんなも経験するのかなって。怪我とか、酷い目にあったりとか……。土井先生だって、たまに忍務に出たりするのでしょう? もし、何かあったらと思うと……」
忍者って素敵……!なんてうわべだけではしゃいでいた自分が恥ずかしかった。借りた本で忍術を学んで。心理をついた術や科学的なところに感心して、知った気になっていた。
戦う姿を目の当たりにして、影に生きる人たちだと思い知らされる。過酷で、残酷すぎる。でも、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。
へりを掴む手に力が入る。自分で言っておいて、その言葉が心に突き刺さって……。胸がぎゅっと掴まれたように痛くて、息が苦しい。じわじわと視界がぼやけていく。
「名前さん」
「……っ」
「危険な目にあうかもしれない。でも忍びとは、戦にならないよう情報をもたらすのが本分だ。生きて戻らなきゃいけない。……君も知っているだろう?」
「……はい」
「それだけじゃない。忍たま達は……この世を生き抜くためにも、ここで学んでいるんだ」
いつもと違う雰囲気の土井先生に感情が揺さぶられる。その言葉に、あふれる涙をこぼさないよう堪えるばかりだった。
「……みんな忍者になるわけじゃない」
「そう、ですね」
「こんな世だ。忍びでなくても危険と隣り合わせだし、みんな生きるのに必死だよ」
君もだろう?と言うように、私の手にふわりと大きな手を重ねられた。その言葉と先生のあたたかさが伝わってくる。
手を握られたと思ったら、ぐいっと引き寄せられ向かい合う。
思わず先生を見つめる。
こらえていた涙が、ぽろぽろと溢れて止まらない。
「……そんな姿で、そんな顔で、君は」
名前さんの崩れた寝巻きに、ゆるく羽織った着物が月明かりに照らされる。まるで乱されたようなその姿が、なんとも儚く消えてしまいそうだった。
悲しげにうるんだ瞳からこぼれた水滴が、ほほを伝ってきらりと光を放つ。彼女から目が離せなくて、じっと見つめる。
そんな姿で心配されると、自分に都合よく考えてしまうじゃないか。
「……見ないで、ください」
「こうしたら、見えない」
握った手をほどいて、小さな身体をぎゅっと抱きしめる。少し、いじわるかもしれない。
「心配しないで。……名前さんのこと、大木先生に任せられませんから。やられるわけにはいかないさ」
「……土井先生っ」
蚊の鳴くような声で、胸元にうずくまる君はどんな顔をしているのだろう。腰のあたりの布をきゅうと握られて、ずっとこのまま胸に閉じ込めておきたい。
奥歯を噛みしめ、そっと体をはなす。鼻腔をくすぐる名前さんの甘い香り、柔らかな感触が名残惜しい。
抱きしめた際に乱れた髪を直そうと、彼女が腕をあげる。するりと袖が捲れて肘のあたりまで露わになった。痛々しい内出血の後が見えて、思わずその腕を掴む。
「また、怪我したのかい?」
「……掃除してるとき、気付かないうちにぶつけたのかも。全然痛くないので大丈夫ですよ」
「自分のこと、もっと大切にしなきゃだめじゃないか」
「すみませんっ。新野先生や保健委員さんにもお世話になりっぱなしで……」
「名前さん、頑張りすぎだ」
突然、慣れないところに来てしまった君は。一寸先だってどうなるか分からないというのに。忙しなく働いて、いつもみんなのことばかり心配している。
ぽんと頭を撫でると、はにかむ姿が可愛らしい。
そんなことを話しながら、ゆっくり時が過ぎていく。二人でしばらく夜風にあたりながら、月明かりに佇んでいるのだった。