2章
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〜第17話 落ち込む理由〜
「えっと、本当に私が手伝って大丈夫でしょうか……?」
一年は組の職員室。
土井先生の文机のそばに腰を下ろしてテストのプリント用紙を一枚手にしている。サラサラと流れる文字を見つめ不安にこくりと息を飲んだ。私の文字はこんなにきれいではない。……きっと先生にあきれられてしまう。
――それは今朝、食堂でのこと。
いつものように忍たまや先生に朝食を手渡していると浮かない表情の土井先生がやってきた。最近、何だか疲れているようで気になっていたのだ。
「土井先生、おはようございます。体調が悪いのですか……?」
「あ、いえ、その……。ほ、補習授業のせいでっ!報告書とかテストのプリントの準備が全然進まなくて、」
「あの、午後お手伝いしましょうか?」
「えっ!あ、では……お願いします」
私を見ては、はぁ……と大きなため息をついて落ち込む先生を何とか励ましたくて。すこしでも力になりたくて勢いで手伝いを申し出てしまった。
朝食の片付けが終わると、早足で吉野先生の部屋へと向かい、午後の予定をお伝えして……。特に急ぎの仕事はないから大丈夫ですよ、と言われてホッとしつつ、土井先生と山田先生の部屋に手伝いに行き……今に至る。
「あの……、私の文字って、テストのプリントとして問題ないのでしょうか?」
「名前さんの文字、出門票や食堂のメニューなんかで見かけますが、とても上手ですよ」
お手伝いしますと言ったものの、心配になってもう一度土井先生に確認する。上手だなんて優しく褒められると少しだけ不安な気持ちが軽くなる。そんな些細なところを見ていてくれたなんて、土井先生ってやっぱり先生なんだとほほが緩んだ。
「気づいてくれてすごく嬉しいです! 団蔵くんと頑張って練習したかいがありました……!」
「夜に一人で練習していたのも知っています。私にも、また指導させて欲しかったですけど?」
困ったように笑う先生に顔が熱くなる。「早く取り掛かりましょう!」とその雰囲気を断ちきり、文机の前に正座すると筆をにぎる。
……心なしか、先生の顔色が少し良くなっているような。
見本のテスト用紙を一字ずつ丁寧に写していく。11人分となると大変な作業だった。筆を走らせながら問題を読んでみる。
"たぬき退きの術、きつね隠れの術を説明せよ…"
これって、この前の宿題!?
"五車の術を説明せよ…"
この前の授業でみたような?
"忍び六具を答えよ"
……借りた本で読んだ気がする。
それから刀の絵だ。筆で上手く描けるかちょっと自信がない。
"この部位を記入しなさい…"
ここは……はばき、だっけ?
「……名前さん? 何をつぶやいているんです?」
急に話しかけられてビクッとする。問題が気になって、ぶつぶつ独り言をもらしていたようだ。あははと誤魔化し先生にぺこりと頭を下げた。
「土井先生すみません! 問題の答えが気になって、勝手に解こうとしてしまって……」
「答えが、分かるのですか……?」
「あっ、そのー……。静かに写しますね!」
「では、名前さん。問一目から、答えていってくれます?」
「ええっ! 一問目はたぶん……」
なんだか抜き打ちテストみたいで緊張してしまう。先生と向き合うと、頭をフル回転させてなんとか答えていく。でも、間違いだらけだったらすごく恥ずかしい。恐る恐る土井先生の様子を確認すると、とても驚いた顔をしてこちらを見つめていた。
「名前さん、ほとんど合ってます……! 最後だけ、はばきではなく、柄頭ですが」
「やったー! 良い点数で嬉しいです。私、意外と忍者の素質あるかもですねっ」
満点じゃなくって悔しい!と浮かれていると、先生の表情が少し複雑そうにゆがむ。
「あの、私、くの一じゃないですからねっ?!」
「分かっています。忍術の本で、筆の練習をしているからでしょう?」
「そ、そうですけど……。なぜそれを……?」
「乱太郎たちから聞きました。名前さんがくの一と思われたら危険だと……心配です」
困ったように笑う先生と視線がぶつかる。優しい瞳が妖しくかげり、何か思いついたような顔をして……。しなやかな腕が伸ばされすーっと近づく。
「名前さん。例えばこんな風にされたら……どうします?」
「ひゃぁっ……! せ、先生っ」
いきなり腕をぐいっと引き込まれたせいでバランスを崩してしまった。そのまま土井先生の胸にしなだれかかる。体勢を立て直すことも叶わず、先生の胸元をぎゅっと握りしめた。
「力ではどうにもできないでしょう? 知識があるのは良いことですが、学園以外では秘密にして下さいね」
「……っ」
そっと囁かれると、抵抗できないもどかしさと恥ずかしさに、先生の胸の中でこくりと頷くことしかできなかった。優しく解放されると後から洪水のようにドキドキが押し寄せてくる。
「驚きましたよね、急にすみません」
「っ、いえ、気をつけます……!」
事務服を直しながらうつむく。
でも、あんな風に掴まれたらどうやって対処すれば良いんだろう……?むくむくと疑問が湧き上がってつい聞いてしまった。
「あのっ、土井先生。さっきみたいに腕を掴まれたら、どうしたら良いのでしょうか……?」
「名前さんは……。本当に勉強熱心ですね」
そんなことを聞いて、叱られるだろうか。遠慮がちにちらりと先生をうかがうと苦笑いをもらしていた。
「腕を引き込まれたら、その力に任せて押してみてください」
「へぇ……、押すのですかっ」
「実践してみます?」
二人で立ち上がり本格的に指導がはじまった。再び私の腕をつかむと、その後の動きを手取り足取り教えてくれる。手首や関節をうまく利用したり……。何度も練習していると「やってみて下さい」と言われぐっと右手首を引っ張られる。
引かれた力の方向へ力いっぱい体重をかける。支えるものは何もない。空に身を投げだした感覚が襲う。
……体がすっと落ちていく。
重力に逆らえなくて、下へ下へと吸いこまれそうだ。たまらず先生にしがみつく。
「わあっ! ご、ごめんなさいっ!」
「……っ、大丈夫」
力いっぱい押したわけではないけれど、勢い余って先生にまたがる形で床に崩れ落ちた。
先生は尻餅をついた格好で、私を庇うように腕を回している。掴んだ手首はそのままに、ほらね?と言う顔で見つめていて。あまりの恥ずかしさに視線が泳いでしまう。
身を捩ってみてもびくともしない。
顔も、重なった体も、かあっと熱くなる。
「おしいですね。……でも、こうやって相手の力を利用するんです」
「ど、土井先生、あの、もう……!」
離してくださいと言おうとした瞬間、障子がガタッと開いた。
「だから、帰らんと言っているだろう」
「父上、私の身にもなってください!」
「おい、半助!? 名前くんも……!」
山田先生も利吉さんも、固まってこちらを見ている。お互いに目を見開き口をぽかんとさせて時間だけが過ぎていく。
「……名前さん。今度は襲う側ですか?」
「利吉さん、違いますっ! あの、これは……土井先生に体術を教えてもらっていて……!」
土井先生からあわてて離れると、制服をなおし正座をする。先生もすでに体制を整えていて少しずれた頭巾を直していた。
……完璧な利吉さんに、またこんなところを見られてしまった。自分のついてなさにがっかりする。
「半助、お前何やってたんだ?!」
「いえ、体術を教えていたのは本当でして……! 名前さんにはテストの作成を手伝ってもらっていたのですが……」
「何をごにょごにょと……」
「一番危ないのは、土井先生なんじゃないですか?」
「り、利吉くんっ……!」
そう利吉さんに突っ込まれて土井先生はタジタジだ。ここは職員室だぞ!と山田先生にたしなめられ、バツが悪そうに縮こまる先生にくすりと吹き出した。
「土井先生。私が変な質問したせいで、すみません……」
「名前さんは悪くないです! 私が誤解されそうなことをしてしまったからで、」
頭を下げ、お互いに謝りあうおかしな状況だ。そうこうしていると土井先生は山田先生たちの冷たい視線を感じたのか、あわてて二人を部屋へと招き入れた。変な雰囲気を何とかしたくて、とっさに先日の話を持ちだす。
「利吉さん。この前は助けていただきありがとうございましたっ。ちゃんとお礼もできずに、」
「いえ、お気になさらず」
やっぱり、あの涼やかな笑顔で言われるとぽーっとしてしまう。一人であたふたしていたのが恥ずかしい。
ぶんぶんと頭を振って気を取り直すと、お茶を淹れてきますね!と宣言して。プリント作成もそこそこに部屋を飛びだし食堂へと向かった。
ここにいると調子が狂ってしまう……!今なら、松千代先生の気持ちがよく分かる気がした。
――引き受けた仕事が終わり、母上からの伝言を伝えに忍術学園へと来てみたら。
父上を追ってガラリと開けた障子の奥には、裏山で助けた名前さんと土井先生が重なり合っていて。土井先生の気持ちは何となく分かってはいたけれど。からかうと焦る二人の反応が面白かった。
名前さんがお茶を淹れに出ていき、土井先生が真剣な表情になる。
「ところで利吉くん、彼女のことだが……。何か情報は掴めたのかい?」
「いえ、それが全然でして。すみません」
仕事の合間に、何か手掛かりになることはないか探ってはいるがなかなか見つからなかった。近況をからめつつ、気になることや街の様子を報告しあう。
「そうか。仕事が忙しいのに悪いね」
「私も気になりますから」
土井先生が頭を掻きながら言うと、父上が何か思いついたように口を開いた。
「そうだ利吉。名前くんに彼女が身につけていた物を見せてもらったらどうだ?」
「はい、名前さんが嫌でなければ」
たしかに、話だけで見たことはなかった。遠くにいる人と会話ができる箱があるとか……。
――トントン
「失礼します、お茶をお持ちしました」
しばらくすると、名前さんがお待たせしましたとお茶を運んで入ってきた。
ありがたく湯呑みを受け取り、父上から名前さんに話しをする。彼女はハッと驚き緊張した面持ちで部屋を出ていくと、しばらくして風呂敷を抱えて戻ってきた。
「これなんですが……」
名前さんがしゅるりと結び目を解いて、どうぞと見せてくれた。変わった形の衣に履き物、小物入れだろうか。みなでのぞき込みながら眉間にしわを寄せる。
「南蛮のものとも違うようですし……見たこと無いものばかりです」
そっと桃色の波打った布を手に取ると、その手触りも質もこちらの物とはまるで違っていた。
「私も最初は驚いたよ」
「うむ、いまだに信じられんな」
「利吉さん、こちらもどうぞ」
そう土井先生がつぶやくと父上も頷いていた。名前さんが小物入れをごそごそして小さい箱のような物を取り出しこちらへ差しだす。
遠くの人と話せる物だと教えてくれた。これが例の……とまじまじ見つめる。
「私もよく覚えてなくって。でも今は使えないみたいです」
「壊れてしまったんでしょうか」
「そうかもしれません。でもこちらでは直せませんし……。あと、これです。あまり意味はないかもしれません。でも気になって」
三人で名前さんの手元に視線を集める。土で汚れたクシャクシャの紙が広げられていた。
「こちらに来たときに握りしめていたようだよ」
「何か文字が書いてあるようだが……汚れているし破れているからなあ」
土井先生が補足すると、父上があごに手を当て唸っている。
「ちょっと見せてください」
名前さんから紙をもらい、じっと見つめる。何かがかすかに見える気がして、土井先生と父上に視線を送る。
「天竺か、唐の文字のようなものが見えませんか?」
「言われてみれば、そう見えてくるが」
「お寺でもらったので……もしかしたら、てんじくとかの文字かもしれません」
名前さんがぽつりと呟く。
……そうだった。どこの寺かは分からないようだが調べてみる意味はありそうだ。
見せてもらった礼を言うと、彼女は広げた衣をきれいに畳んで風呂敷にしまっていった。
「名前さん。これは忍たま達に見られないようにして下さいね。……忍術も少し知っているし、大変なことになってしまうから」
「は、はいっ!もちろんですっ」
土井先生が彼女に念を押している。こんな不思議なものが見つかったら騒ぎになるだろうなと苦笑した。
それにしても忍術を知っているとは……?気になってたずねると、筆の練習で忍術の本を使っていたようだ。
「では、私はこれで」
用も済んだので、失礼しようと軽く頭を下げる。……でも、最後にからかってみようといたずら心が顔を出した。
「名前さん、忍びに興味がおありのようで。今度一緒に調査の忍務にいきませんか? ……夫婦として」
「利吉くん、それはダメだッ!」
ニヤリと笑って言うと土井先生がすかさず叫び、名前さんは顔を赤らめていた。父上はまったく……という呆れた顔をしていたけれど。
くすくす笑いながら騒がしい学園を後にした。
*
――トントントン
食堂で夕食の片付けをしながら、はぁとため息をつく。
土井先生のお手伝いをしようと思ったのに。私が変なことを言ったせいもあって、全然プリントが作れなかった。夜、先生のお部屋にお邪魔して残りのプリントを持ち帰らないと……。
たくさんため息をつくからか、おばちゃんにも心配されて申し訳ない。
夕食を渡すカウンターで、一年は組の子たちにちゃんと復習と宿題をするよう一人一人に言って聞かせると、みんな素直にはーい!と返事してくれた。すこしは土井先生の悩みが軽くなればいいんだけど……。
食堂の片付けも終わりお風呂に入り終わるころ。空はすっかり漆黒に染まっていた。医務室に寄って、乾燥させたよもぎを少しいただいてから食堂でお湯を淹れる。文字の練習のとき、先生たちの疲れが取れるよう薬草の効能をメモしておいたのだ。
――カタカタ
おや、こんな時間に誰だろう……?
月明かりに透けて見える障子の影から、たぶん名前さんかなと期待する。
昼間はずいぶんと大胆なことをしてしまった。きり丸から「布団がひとつしかない!」なんて聞いたせいか、自分で勝手に想像して落ち込んで焦って……。この前、名前さんは杭瀬村に行ったようだが特に変わりはなかった。考えすぎかもしれないのは分かっている。けれど気になって仕方がないのだ。
プリント作りの手を止め寝巻き姿で布団を敷いている山田先生に目線を送ると、うむと頷いている。
「はい、どうぞ」
「……失礼します」
中へ促すと、湯呑みをお盆にのせた名前さんが入ってきた。私と山田先生を心配そうに見つめて、お茶を手渡してくれた。
「こちらはよもぎ茶です。安眠効果と胃腸に良いのでお持ちしました。先生方、お疲れかと思いまして……」
「ありがとうございます」
「すまんね、名前くん」
お口に合えば良いのですが……とはにかむ姿に、それだけで元気になれる気がした。受け取ったお茶をいただくと、程よい苦味とスーッとした香りに心が落ち着く。彼女の優しさが体に染み渡るようだった。
「土井先生、今日はプリントの作成が途中になってしまいすみませんでした。用紙をいただけたら、この後自室でやりますので……」
「名前くんだけにやらせる訳にはいかんだろう」
「いえ、山田先生っ! 土井先生には休んでいただきたくて……!」
必死に訴える姿がいじらしい。実際、私も残っている仕事があるし……何より名前さんと少しでも一緒にいたい。
「山田先生、あいつらの明日のテストがまだ出来ていなくて」
「まったく、もう休もうと思ったんだがなあ」
「あの、土井先生。……よろしければ、私のお部屋でお仕事されます?」
頭をかきながら困っていると、名前さんが助けてくれた。……と言って良いのか?浮き立つ気持ちを何とか閉じ込めて、ではそうしようかな?なんて答える。
苦笑いする山田先生を部屋に残し、そそくさと書類を抱えて彼女の部屋へと向かった。
――カタン
名前さんの部屋にお邪魔するのは足首に薬を塗ったとき以来か。その色っぽい姿を思い出して一人赤面する。
「布団は端に寄せますね」
「あ、あぁ。私も手伝おう」
「先生、大丈夫ですよ」
名前さんはよいしょと片付けて、文机を作業しやすい位置へと移動させた。燭台の頼りない明かりの中、腕や太ももが触れ合いそうな距離で二人並んで筆を走らせる。サラサラと紙と筆先がこすれる音だけが響く。
そんな状況だからか、自分も彼女も寝巻き姿だからか、良からぬコトを想像をして鼓動がうるさい。
「机、一つしかなくて。仕事しにくいですよね。すみませんっ」
「いえ、無理いって仕事させてもらってるのは私ですから」
ドキドキを隠して笑顔で言うと、名前さんは遠慮がちにほほ笑んでくれた。
"一つしかなくて困ってる"
……きり丸から聞いて、ずっと引っかかっていたことだった。考え出すとため息を吐いてしまう。
「名前さん。大木先生の家で、困ってることありますよね……?」
突然そんな事を聞いて驚くだろうか。どんな答えが返ってくるか、緊張しながら聞いてみる。
「困ってること……。うーん、虫が出ること、ですかね? 山と畑に囲まれてますから」
「いえ、そうではなくて! 物がなくて……布団がなくて、一緒に寝てるんじゃないかって……!あなたのことが心配で!」
歯痒くて、思わずずっと気になっていた事をそのまま口に出してしまった。言ってしまったあとで後悔が押し寄せる。ずけずけと踏み込んだことを聞くなんて、嫌われてもおかしくない。
「え!? 違いますよ! 一緒になんて、そんなっ……! 大木先生は床に寝てますっ。私は布団ですけど……! ちゃんと離してますし!」
名前さんは筆をぎゅっと握ってこちらに乗り出す勢いでまくし立てた。涙目になった赤い顔が近くにあって……まずい。
「そ、そうなんですね……! それなら、よかった……」
「もう、そんなこと誰が言ったんです?」
「え、いや、それは、その……」
そうか、そうだよなあ!と照れ笑いする。変な心配をした自分が恥ずかしい。名前さんは口を尖らせ少し怒っていた。そんな姿さえ可愛らしくてたまらないのだ。
「そうだ、前に言っていたお礼の件ですが……。今度の休み、甘いものでも食べに行きませんか?」
気まずい雰囲気を消し去りたくて、安堵した勢いも相まって誘ってしまった。どうかな?と名前さんを見るとちょっと驚いた顔で、でも笑顔で頷いてくれて。
一人落ち込んでいた理由が、ひょんな事から解消できて良かった。おまけに、デートの約束まで取り付けられた。
……これは、デートってことで良いんだよな?
今朝は名前さんに本当のことが言えず、つい嘘をついてしまった。は組のテスト作りや報告書なんて、いつものことだ。
心配してくれたのに申し訳ないけれど、仕事が大変でという訳ではなく……。
あとは、からかっているのか本気なのか……利吉くんを何とかせねば、と思うのであった。
「えっと、本当に私が手伝って大丈夫でしょうか……?」
一年は組の職員室。
土井先生の文机のそばに腰を下ろしてテストのプリント用紙を一枚手にしている。サラサラと流れる文字を見つめ不安にこくりと息を飲んだ。私の文字はこんなにきれいではない。……きっと先生にあきれられてしまう。
――それは今朝、食堂でのこと。
いつものように忍たまや先生に朝食を手渡していると浮かない表情の土井先生がやってきた。最近、何だか疲れているようで気になっていたのだ。
「土井先生、おはようございます。体調が悪いのですか……?」
「あ、いえ、その……。ほ、補習授業のせいでっ!報告書とかテストのプリントの準備が全然進まなくて、」
「あの、午後お手伝いしましょうか?」
「えっ!あ、では……お願いします」
私を見ては、はぁ……と大きなため息をついて落ち込む先生を何とか励ましたくて。すこしでも力になりたくて勢いで手伝いを申し出てしまった。
朝食の片付けが終わると、早足で吉野先生の部屋へと向かい、午後の予定をお伝えして……。特に急ぎの仕事はないから大丈夫ですよ、と言われてホッとしつつ、土井先生と山田先生の部屋に手伝いに行き……今に至る。
「あの……、私の文字って、テストのプリントとして問題ないのでしょうか?」
「名前さんの文字、出門票や食堂のメニューなんかで見かけますが、とても上手ですよ」
お手伝いしますと言ったものの、心配になってもう一度土井先生に確認する。上手だなんて優しく褒められると少しだけ不安な気持ちが軽くなる。そんな些細なところを見ていてくれたなんて、土井先生ってやっぱり先生なんだとほほが緩んだ。
「気づいてくれてすごく嬉しいです! 団蔵くんと頑張って練習したかいがありました……!」
「夜に一人で練習していたのも知っています。私にも、また指導させて欲しかったですけど?」
困ったように笑う先生に顔が熱くなる。「早く取り掛かりましょう!」とその雰囲気を断ちきり、文机の前に正座すると筆をにぎる。
……心なしか、先生の顔色が少し良くなっているような。
見本のテスト用紙を一字ずつ丁寧に写していく。11人分となると大変な作業だった。筆を走らせながら問題を読んでみる。
"たぬき退きの術、きつね隠れの術を説明せよ…"
これって、この前の宿題!?
"五車の術を説明せよ…"
この前の授業でみたような?
"忍び六具を答えよ"
……借りた本で読んだ気がする。
それから刀の絵だ。筆で上手く描けるかちょっと自信がない。
"この部位を記入しなさい…"
ここは……はばき、だっけ?
「……名前さん? 何をつぶやいているんです?」
急に話しかけられてビクッとする。問題が気になって、ぶつぶつ独り言をもらしていたようだ。あははと誤魔化し先生にぺこりと頭を下げた。
「土井先生すみません! 問題の答えが気になって、勝手に解こうとしてしまって……」
「答えが、分かるのですか……?」
「あっ、そのー……。静かに写しますね!」
「では、名前さん。問一目から、答えていってくれます?」
「ええっ! 一問目はたぶん……」
なんだか抜き打ちテストみたいで緊張してしまう。先生と向き合うと、頭をフル回転させてなんとか答えていく。でも、間違いだらけだったらすごく恥ずかしい。恐る恐る土井先生の様子を確認すると、とても驚いた顔をしてこちらを見つめていた。
「名前さん、ほとんど合ってます……! 最後だけ、はばきではなく、柄頭ですが」
「やったー! 良い点数で嬉しいです。私、意外と忍者の素質あるかもですねっ」
満点じゃなくって悔しい!と浮かれていると、先生の表情が少し複雑そうにゆがむ。
「あの、私、くの一じゃないですからねっ?!」
「分かっています。忍術の本で、筆の練習をしているからでしょう?」
「そ、そうですけど……。なぜそれを……?」
「乱太郎たちから聞きました。名前さんがくの一と思われたら危険だと……心配です」
困ったように笑う先生と視線がぶつかる。優しい瞳が妖しくかげり、何か思いついたような顔をして……。しなやかな腕が伸ばされすーっと近づく。
「名前さん。例えばこんな風にされたら……どうします?」
「ひゃぁっ……! せ、先生っ」
いきなり腕をぐいっと引き込まれたせいでバランスを崩してしまった。そのまま土井先生の胸にしなだれかかる。体勢を立て直すことも叶わず、先生の胸元をぎゅっと握りしめた。
「力ではどうにもできないでしょう? 知識があるのは良いことですが、学園以外では秘密にして下さいね」
「……っ」
そっと囁かれると、抵抗できないもどかしさと恥ずかしさに、先生の胸の中でこくりと頷くことしかできなかった。優しく解放されると後から洪水のようにドキドキが押し寄せてくる。
「驚きましたよね、急にすみません」
「っ、いえ、気をつけます……!」
事務服を直しながらうつむく。
でも、あんな風に掴まれたらどうやって対処すれば良いんだろう……?むくむくと疑問が湧き上がってつい聞いてしまった。
「あのっ、土井先生。さっきみたいに腕を掴まれたら、どうしたら良いのでしょうか……?」
「名前さんは……。本当に勉強熱心ですね」
そんなことを聞いて、叱られるだろうか。遠慮がちにちらりと先生をうかがうと苦笑いをもらしていた。
「腕を引き込まれたら、その力に任せて押してみてください」
「へぇ……、押すのですかっ」
「実践してみます?」
二人で立ち上がり本格的に指導がはじまった。再び私の腕をつかむと、その後の動きを手取り足取り教えてくれる。手首や関節をうまく利用したり……。何度も練習していると「やってみて下さい」と言われぐっと右手首を引っ張られる。
引かれた力の方向へ力いっぱい体重をかける。支えるものは何もない。空に身を投げだした感覚が襲う。
……体がすっと落ちていく。
重力に逆らえなくて、下へ下へと吸いこまれそうだ。たまらず先生にしがみつく。
「わあっ! ご、ごめんなさいっ!」
「……っ、大丈夫」
力いっぱい押したわけではないけれど、勢い余って先生にまたがる形で床に崩れ落ちた。
先生は尻餅をついた格好で、私を庇うように腕を回している。掴んだ手首はそのままに、ほらね?と言う顔で見つめていて。あまりの恥ずかしさに視線が泳いでしまう。
身を捩ってみてもびくともしない。
顔も、重なった体も、かあっと熱くなる。
「おしいですね。……でも、こうやって相手の力を利用するんです」
「ど、土井先生、あの、もう……!」
離してくださいと言おうとした瞬間、障子がガタッと開いた。
「だから、帰らんと言っているだろう」
「父上、私の身にもなってください!」
「おい、半助!? 名前くんも……!」
山田先生も利吉さんも、固まってこちらを見ている。お互いに目を見開き口をぽかんとさせて時間だけが過ぎていく。
「……名前さん。今度は襲う側ですか?」
「利吉さん、違いますっ! あの、これは……土井先生に体術を教えてもらっていて……!」
土井先生からあわてて離れると、制服をなおし正座をする。先生もすでに体制を整えていて少しずれた頭巾を直していた。
……完璧な利吉さんに、またこんなところを見られてしまった。自分のついてなさにがっかりする。
「半助、お前何やってたんだ?!」
「いえ、体術を教えていたのは本当でして……! 名前さんにはテストの作成を手伝ってもらっていたのですが……」
「何をごにょごにょと……」
「一番危ないのは、土井先生なんじゃないですか?」
「り、利吉くんっ……!」
そう利吉さんに突っ込まれて土井先生はタジタジだ。ここは職員室だぞ!と山田先生にたしなめられ、バツが悪そうに縮こまる先生にくすりと吹き出した。
「土井先生。私が変な質問したせいで、すみません……」
「名前さんは悪くないです! 私が誤解されそうなことをしてしまったからで、」
頭を下げ、お互いに謝りあうおかしな状況だ。そうこうしていると土井先生は山田先生たちの冷たい視線を感じたのか、あわてて二人を部屋へと招き入れた。変な雰囲気を何とかしたくて、とっさに先日の話を持ちだす。
「利吉さん。この前は助けていただきありがとうございましたっ。ちゃんとお礼もできずに、」
「いえ、お気になさらず」
やっぱり、あの涼やかな笑顔で言われるとぽーっとしてしまう。一人であたふたしていたのが恥ずかしい。
ぶんぶんと頭を振って気を取り直すと、お茶を淹れてきますね!と宣言して。プリント作成もそこそこに部屋を飛びだし食堂へと向かった。
ここにいると調子が狂ってしまう……!今なら、松千代先生の気持ちがよく分かる気がした。
――引き受けた仕事が終わり、母上からの伝言を伝えに忍術学園へと来てみたら。
父上を追ってガラリと開けた障子の奥には、裏山で助けた名前さんと土井先生が重なり合っていて。土井先生の気持ちは何となく分かってはいたけれど。からかうと焦る二人の反応が面白かった。
名前さんがお茶を淹れに出ていき、土井先生が真剣な表情になる。
「ところで利吉くん、彼女のことだが……。何か情報は掴めたのかい?」
「いえ、それが全然でして。すみません」
仕事の合間に、何か手掛かりになることはないか探ってはいるがなかなか見つからなかった。近況をからめつつ、気になることや街の様子を報告しあう。
「そうか。仕事が忙しいのに悪いね」
「私も気になりますから」
土井先生が頭を掻きながら言うと、父上が何か思いついたように口を開いた。
「そうだ利吉。名前くんに彼女が身につけていた物を見せてもらったらどうだ?」
「はい、名前さんが嫌でなければ」
たしかに、話だけで見たことはなかった。遠くにいる人と会話ができる箱があるとか……。
――トントン
「失礼します、お茶をお持ちしました」
しばらくすると、名前さんがお待たせしましたとお茶を運んで入ってきた。
ありがたく湯呑みを受け取り、父上から名前さんに話しをする。彼女はハッと驚き緊張した面持ちで部屋を出ていくと、しばらくして風呂敷を抱えて戻ってきた。
「これなんですが……」
名前さんがしゅるりと結び目を解いて、どうぞと見せてくれた。変わった形の衣に履き物、小物入れだろうか。みなでのぞき込みながら眉間にしわを寄せる。
「南蛮のものとも違うようですし……見たこと無いものばかりです」
そっと桃色の波打った布を手に取ると、その手触りも質もこちらの物とはまるで違っていた。
「私も最初は驚いたよ」
「うむ、いまだに信じられんな」
「利吉さん、こちらもどうぞ」
そう土井先生がつぶやくと父上も頷いていた。名前さんが小物入れをごそごそして小さい箱のような物を取り出しこちらへ差しだす。
遠くの人と話せる物だと教えてくれた。これが例の……とまじまじ見つめる。
「私もよく覚えてなくって。でも今は使えないみたいです」
「壊れてしまったんでしょうか」
「そうかもしれません。でもこちらでは直せませんし……。あと、これです。あまり意味はないかもしれません。でも気になって」
三人で名前さんの手元に視線を集める。土で汚れたクシャクシャの紙が広げられていた。
「こちらに来たときに握りしめていたようだよ」
「何か文字が書いてあるようだが……汚れているし破れているからなあ」
土井先生が補足すると、父上があごに手を当て唸っている。
「ちょっと見せてください」
名前さんから紙をもらい、じっと見つめる。何かがかすかに見える気がして、土井先生と父上に視線を送る。
「天竺か、唐の文字のようなものが見えませんか?」
「言われてみれば、そう見えてくるが」
「お寺でもらったので……もしかしたら、てんじくとかの文字かもしれません」
名前さんがぽつりと呟く。
……そうだった。どこの寺かは分からないようだが調べてみる意味はありそうだ。
見せてもらった礼を言うと、彼女は広げた衣をきれいに畳んで風呂敷にしまっていった。
「名前さん。これは忍たま達に見られないようにして下さいね。……忍術も少し知っているし、大変なことになってしまうから」
「は、はいっ!もちろんですっ」
土井先生が彼女に念を押している。こんな不思議なものが見つかったら騒ぎになるだろうなと苦笑した。
それにしても忍術を知っているとは……?気になってたずねると、筆の練習で忍術の本を使っていたようだ。
「では、私はこれで」
用も済んだので、失礼しようと軽く頭を下げる。……でも、最後にからかってみようといたずら心が顔を出した。
「名前さん、忍びに興味がおありのようで。今度一緒に調査の忍務にいきませんか? ……夫婦として」
「利吉くん、それはダメだッ!」
ニヤリと笑って言うと土井先生がすかさず叫び、名前さんは顔を赤らめていた。父上はまったく……という呆れた顔をしていたけれど。
くすくす笑いながら騒がしい学園を後にした。
*
――トントントン
食堂で夕食の片付けをしながら、はぁとため息をつく。
土井先生のお手伝いをしようと思ったのに。私が変なことを言ったせいもあって、全然プリントが作れなかった。夜、先生のお部屋にお邪魔して残りのプリントを持ち帰らないと……。
たくさんため息をつくからか、おばちゃんにも心配されて申し訳ない。
夕食を渡すカウンターで、一年は組の子たちにちゃんと復習と宿題をするよう一人一人に言って聞かせると、みんな素直にはーい!と返事してくれた。すこしは土井先生の悩みが軽くなればいいんだけど……。
食堂の片付けも終わりお風呂に入り終わるころ。空はすっかり漆黒に染まっていた。医務室に寄って、乾燥させたよもぎを少しいただいてから食堂でお湯を淹れる。文字の練習のとき、先生たちの疲れが取れるよう薬草の効能をメモしておいたのだ。
――カタカタ
おや、こんな時間に誰だろう……?
月明かりに透けて見える障子の影から、たぶん名前さんかなと期待する。
昼間はずいぶんと大胆なことをしてしまった。きり丸から「布団がひとつしかない!」なんて聞いたせいか、自分で勝手に想像して落ち込んで焦って……。この前、名前さんは杭瀬村に行ったようだが特に変わりはなかった。考えすぎかもしれないのは分かっている。けれど気になって仕方がないのだ。
プリント作りの手を止め寝巻き姿で布団を敷いている山田先生に目線を送ると、うむと頷いている。
「はい、どうぞ」
「……失礼します」
中へ促すと、湯呑みをお盆にのせた名前さんが入ってきた。私と山田先生を心配そうに見つめて、お茶を手渡してくれた。
「こちらはよもぎ茶です。安眠効果と胃腸に良いのでお持ちしました。先生方、お疲れかと思いまして……」
「ありがとうございます」
「すまんね、名前くん」
お口に合えば良いのですが……とはにかむ姿に、それだけで元気になれる気がした。受け取ったお茶をいただくと、程よい苦味とスーッとした香りに心が落ち着く。彼女の優しさが体に染み渡るようだった。
「土井先生、今日はプリントの作成が途中になってしまいすみませんでした。用紙をいただけたら、この後自室でやりますので……」
「名前くんだけにやらせる訳にはいかんだろう」
「いえ、山田先生っ! 土井先生には休んでいただきたくて……!」
必死に訴える姿がいじらしい。実際、私も残っている仕事があるし……何より名前さんと少しでも一緒にいたい。
「山田先生、あいつらの明日のテストがまだ出来ていなくて」
「まったく、もう休もうと思ったんだがなあ」
「あの、土井先生。……よろしければ、私のお部屋でお仕事されます?」
頭をかきながら困っていると、名前さんが助けてくれた。……と言って良いのか?浮き立つ気持ちを何とか閉じ込めて、ではそうしようかな?なんて答える。
苦笑いする山田先生を部屋に残し、そそくさと書類を抱えて彼女の部屋へと向かった。
――カタン
名前さんの部屋にお邪魔するのは足首に薬を塗ったとき以来か。その色っぽい姿を思い出して一人赤面する。
「布団は端に寄せますね」
「あ、あぁ。私も手伝おう」
「先生、大丈夫ですよ」
名前さんはよいしょと片付けて、文机を作業しやすい位置へと移動させた。燭台の頼りない明かりの中、腕や太ももが触れ合いそうな距離で二人並んで筆を走らせる。サラサラと紙と筆先がこすれる音だけが響く。
そんな状況だからか、自分も彼女も寝巻き姿だからか、良からぬコトを想像をして鼓動がうるさい。
「机、一つしかなくて。仕事しにくいですよね。すみませんっ」
「いえ、無理いって仕事させてもらってるのは私ですから」
ドキドキを隠して笑顔で言うと、名前さんは遠慮がちにほほ笑んでくれた。
"一つしかなくて困ってる"
……きり丸から聞いて、ずっと引っかかっていたことだった。考え出すとため息を吐いてしまう。
「名前さん。大木先生の家で、困ってることありますよね……?」
突然そんな事を聞いて驚くだろうか。どんな答えが返ってくるか、緊張しながら聞いてみる。
「困ってること……。うーん、虫が出ること、ですかね? 山と畑に囲まれてますから」
「いえ、そうではなくて! 物がなくて……布団がなくて、一緒に寝てるんじゃないかって……!あなたのことが心配で!」
歯痒くて、思わずずっと気になっていた事をそのまま口に出してしまった。言ってしまったあとで後悔が押し寄せる。ずけずけと踏み込んだことを聞くなんて、嫌われてもおかしくない。
「え!? 違いますよ! 一緒になんて、そんなっ……! 大木先生は床に寝てますっ。私は布団ですけど……! ちゃんと離してますし!」
名前さんは筆をぎゅっと握ってこちらに乗り出す勢いでまくし立てた。涙目になった赤い顔が近くにあって……まずい。
「そ、そうなんですね……! それなら、よかった……」
「もう、そんなこと誰が言ったんです?」
「え、いや、それは、その……」
そうか、そうだよなあ!と照れ笑いする。変な心配をした自分が恥ずかしい。名前さんは口を尖らせ少し怒っていた。そんな姿さえ可愛らしくてたまらないのだ。
「そうだ、前に言っていたお礼の件ですが……。今度の休み、甘いものでも食べに行きませんか?」
気まずい雰囲気を消し去りたくて、安堵した勢いも相まって誘ってしまった。どうかな?と名前さんを見るとちょっと驚いた顔で、でも笑顔で頷いてくれて。
一人落ち込んでいた理由が、ひょんな事から解消できて良かった。おまけに、デートの約束まで取り付けられた。
……これは、デートってことで良いんだよな?
今朝は名前さんに本当のことが言えず、つい嘘をついてしまった。は組のテスト作りや報告書なんて、いつものことだ。
心配してくれたのに申し訳ないけれど、仕事が大変でという訳ではなく……。
あとは、からかっているのか本気なのか……利吉くんを何とかせねば、と思うのであった。