第48話 バレンタイン騒動
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「ねぇねぇ、名前さん! お菓子を渡す日があるって知ってるー?」
「なになに!?」
食堂のカウンターでご飯を盛り付けていると、しんべヱくんが気になる話をしてきた。その顔を見てみれば、よだれを垂らして……。苦笑いしつつ、手ぬぐいでそっと拭いてあげる。
「パパがね、南蛮のお話をしてくれたの。好きな人にチョコレートをあげるんだって!」
「わぁ。とっても素敵だね」
「名前さんも、好きな人にあげたらどうでしょ?!」
「えーっ!? そ、そうだねえ」
焦って、おぼんを取り落としそうになってしまった。
好きな人に……?
南蛮にはずいぶん甘くてうっとりするような日があるんだな。私だったら、誰に……?なんて想像して顔がじんわり熱くなってくる。内心ドキドキしつつ、山盛りのご飯がのった定食をしんべヱくんへ差し出した。
――パタパタパタ…
軽い足音と共に元気な声が聞こえてくる。
「お腹空いてるからって、わたし達のこと置いてかないでよー」
「そうだぞー、しんべヱ!」
「えへへ、ごめん」
「乱太郎くん、きり丸くん。はい、どうぞっ」
後から駆けてきた二人にもご飯をよそってみそ汁を準備する。最後に小鉢を付けて渡した。
「名前さんがね、好きな人にお菓子あげるんだって〜!」
「ああ! しんべヱのパパさんが言ってた、バレンタインのことー?」
「えーっ、名前さん。だれに渡すんっすか!?」
「だ、だれって……」
三人に熱い眼差しで見つめられ、たまらず仰け反ってしまう。口をモゴモゴさせて困っていると、きり丸くんが閃いた!という顔をしている。
「もー、恥ずかしがらないでくださいよー。土井先生っすよね?!」
「きり丸くん、そんな大きい声で……!」
「「「やっぱり……!」」」
乱太郎くんはメガネをキラリと怪しげに輝かせて、口角を上げていた。……ここでたじろいではダメだ。少しの余裕をなんとかかき集めていく。
「そ、そうだなー。だれかは言えないけど、好きな人に渡そうと思ってるよ?」
「「「わあ! ほんとー?!」」」
三人とも顔を輝かせてよろこぶ。それぞれお盆を手にテーブルへと向かっていった。
……嘘ではない。本当に、好きな人にお菓子を作って贈りたいと思ったのだ。でも先生方や忍たまのみんなの事なんだけど……。なんて後ろ姿を眺めながら苦笑するのだった。
――食堂のお手伝いが一段落ついた頃。賑わっていた空間もガランとして静かだ。時々、冷たい風が勝手口から吹き込んでくる。
「おばちゃんっ。こんど、食堂をお借りしてお菓子を作っていいですか?」
「あらぁ、いいわよ。お菓子作りだなんて、珍しいわねぇ」
「しんべヱくんから南蛮の文化を教えてもらったんです。私も、大好きなみんなにお菓子を贈りたくって」
「きっと喜ぶわよ!」
洗い終わった食器を布で拭きながら、食堂を使わせてもらう許可をいただく。おばちゃんはニコニコほほ笑んで、濡れた両手を割烹着のはしで拭っていた。
*
「失礼しまーす」
「……もそ」
さっそく図書室でお菓子の本を探す。受付には、しかめっ面の長次くんが座っていて背筋がピッと伸びる気がした。
お菓子のレシピは……
大きな棚には本や巻物がきれいに整理されていた。キョロキョロと探しながら、前に教えてもらった場所にたどり着く。食べ物にまつわる資料が並べられた一角で、どの本にしようかじーっと見つめる。
ひとつを手に取りペラペラとページをめくる。……しんべヱくんが言ってたチョコレートはたくさん作るのが大変そうだ。しかも、溶かしたり固めたり難しい気がする。
びすこいとの作り方を探しても、しんべヱのパパさんが仕入れたばかりで見当たらない。他の南蛮菓子も食堂では出来なさそうだ。やっぱり、ボーロしかないかも……!
「あのー、長次くん」
「……もそ」
「ボーロを作ってみたいんだけど、教えてもらえないかな……? みんなに、感謝の気持ちを込めて渡したくて」
「分かりました」
「嬉しいっ、ありがとう!」
「名前さん、お静かに」
「ご、ごめん」
長次くんは険しい表情のまま、少しだけ口元を柔らかくして頷いてくれた。あまりの嬉しさに声が大きくなってしまい慌てて口を閉じる。そうと決まったら、さっそく通販で材料を注文しなければ。
――カタン
引き戸が少し開いて、静かな図書室に軽い音が響く。長次くんと二人で、音のする方を見つめた。
「こんにちはぁ……」
「羽丹羽石人くんっ!」
「……名前さん、お静かに」
「あ、失礼しましたっ」
またまた大きな声で呼びかけてしまい、手のひらで口を覆った。戸のすき間からチラリと顔を覗かせたのは、最近二年生として入学した石人くんだ。
丸い顔にまん丸の黒目がちな瞳。
両耳のあたりには、白い紐で結んだ灰色の髪が垂れている。恥ずかしそうにはにかむ青い制服姿が可愛らしくて、思わず手招きしてしまった。
「呪術の本を借りに来たのですが……」
「じゅじゅつ……!?」
「……もそ」
遠慮がちにつぶやく石人くんに、長次くんが立ち上がり案内している。気になって二人の後を着いていくと、壁際の奥まった場所に目当ての本があるようだ。
「石人くんは、呪術が得意なんだっけ?」
「はい、よくご存知で。わたし嬉しいです」
にこっと笑いかけると、丸い目を細めてもじもじしている。忍たまのことは些細なことでも覚えて、そして気付いてあげたいのだ。私も一冊手に取ると開いたページを読んでみる。
「その本はきっと面白いですよ」
「そうなんだ?」
「おまじないや妖怪が、物語の中に出てくるんです」
「へぇ! 読んでみようかな」
石人くんは目を輝かせ、本を覗き込み教えてくれた。そんなにお勧めされるとさらに興味が湧いてくる。長次くんにお菓子の本と一緒に手渡して、貸出票に筆を走らせた。
――夜。
今日借りた本を手に、敷いた布団へ寝転がる。
カタカタと凍えるような風が戸をたたく。すき間からは冷気が入り込み、寒さに布団をかぶり直した。灯された炎がゆらりと揺れる。
ボーロの作り方を頭に描きながら何度もレシピを目で追う。忍たまのみんなには、食堂で……。先生方には直接お渡ししよう。よろこぶ顔を思い浮かべて、一人でニヤニヤしてしまう。
パタンと表紙を閉じると、石人くんがお勧めしてくれた本に手を伸ばした。鬼や妖怪が出てくるようで、面白さにページをめくる手が止まらない。ハラハラしながら、時間を忘れて読み進めていった。
「そんしょうだらに……かあ」
物語の主人公は、この呪文を着物の衿に縫いつけていたおかげで鬼に食べられずに済んだのだ。魔物を跳ね除ける強いまじないで、色々な災難から身を守ってくれるものらしい。高貴な人たちはこの呪文を唱えたり、書き写して肌身離さず持っていたとも書いてある。
これは……!
盗賊に襲われたり、タソガレドキに連れ去られたり……。災難つづきで迷惑をかけているから、おまじないでも僅かな希望にすがりたい。何より、あの光るお札のこともある。
ガバっと起き上がると文机の前に正座した。それから、小さな紙切れに筆を走らせる。
……尊勝陀羅尼
難しくて何回か失敗してしまった。墨で黒くなった指先を手ぬぐいで拭いてから、ぺらりと紙を乾かすために靡かせた。
おまじないを見つめて願いを込める。
紙が飛ばないように文鎮をのせ、ふぅっと燭台の炎を吹き消した。
肌身離さず。
布団に包まれながら、どうやって身につけようかと思案をめぐらす。次第にまぶたが重くなって、眠気に身を任せるのだった。
*
数日後。
通販で注文した砂糖や卵、小麦粉が食堂の勝手口へ運ばれてきた。忍たま達と先生方の分だから、すごい量になってしまった。
ボーロの材料もそろって準備万端。割烹着に腕をとおし調理台に向かって気合を入れる。
長次くんに教えてもらったように、卵と砂糖を大きな器に入れてよくかき混ぜていく。蜂蜜をたらし入れて、小麦粉を少しずつふるい落としてさらにかき混ぜた。
次第に生地が重くなって、ヘラやうつわを押さえる手に疲れが溜まっていく。たくさん混ぜて滑らかにすることが美味しくなるコツだから……。
「どこんじょー!だっ、わたし〜ッ!!」
これ以上動かせないほど腕が重い。
ぎゅっと目をつむり、ど根性で頑張る。
「一体、何事なんだっ?! ユリコが驚いてしまう!」
「……ええっ?!」
濃い紫色の制服に身をつつんだ三木ヱ門くんが勝手口からこちらを覗いている。ぽかんとした顔で見つめられ恥ずかしくなってしまった。
「名前さん、大声でどうしたんです?!」
「ご、ごめん。今お菓子を作っていて……! ちょっと力が必要だったんだ。三木ヱ門くんは?」
「石火矢のユリコを散歩させていたんですよ。よろしければ、私も手伝いましょうか?」
「ううん、大丈夫! あとは焼くだけだから。ありがとっ」
心配そうに気遣ってくれる三木ヱ門くんに照れながら答える。鉄板に生地をのせて、かまどの中へと入れていく。薪を追加して火力を調節して……。
三木ヱ門くんも一緒について確認してくれて、なんとかうまく焼けている。次第にあたりが甘くて香ばしい香りに包まれた。
「いい匂いですねぇ! 何を作ってるんです?」
調理台で飾り付け用のチョコレートを準備していると、またまた勝手口から紫色の忍装束が覗いている。
「滝夜叉丸ーっ!!」
「三木ヱ門かッ!!」
銀色に鋭く光る輪をクルクルと指で回し、茶色の長い前髪を靡かせている。その姿を視界に捉えた瞬間、三木ヱ門くんの高い声が食堂に響き渡った。
「滝夜叉丸くん、どうしたの?」
「戦輪投げを練習していたのですが、匂いにつられてしまいまして」
「フンっ、お菓子の匂いに釣られるなんてお子ちゃまだな!」
「この滝夜叉丸に向かってお子ちゃまだとぉ?!」
「まぁまぁ、二人とも……」
今にもケンカが始まりそうなほどの睨み合いに、どうして良いか分からずあたふたしてしまう。二人を交互に見やりながら焦っていると、食堂の入り口から不気味な笑い声が聞こえてくる。
「「「あの声は……!」」」
「……食堂でケンカをするな」
長次くんが、笑い声と共に入り口からそろりと歩いてくる。その形相と静かな怒りを含むつぶやきに、一同ピッと口を閉じた。
「長次くんっ。ボーロ、いい感じに焼けたよ!」
「それは良かった」
「もしかして、心配して来てくれたの?」
「……もそ」
少し柔らかい表情の長次くんに、目一杯の笑顔でお礼をする。ほぼ作り終わったところだけど、気に掛けてくれることがありがたかった。
出来立てほやほやのボーロを調理台に乗せて粗熱をとる。
四人で、丸い大きな茶色のかたまりを覗きこむ。その香りと焼き目の色合いから、成功間違いなしだとほほ笑みあった。
「切り分けて飾りつけしたら、みんなに渡してあげるね。夕飯、楽しみにしててっ!」
*
図書室へつづく長い廊下を歩いている。手には大きな風呂敷と借りた本が二冊。
風呂敷には、ボーロを切り分け桃色の和紙で包んだものがいっぱい詰まっている。忘れる前に本を返却して、それから先生方へお菓子をお渡ししようと思ったのだ。
「……失礼しまぁす」
「おお、名前じゃないか!」
「えーっ。大木先生が、なんでここにー!?」
「来ちゃ悪いか?」
「わ、悪くないですけど……」
図書室には雅之助さん一人で、大きな棚に背をもたれさせ本を読んでいた。こちらに気付くと本を片付け、はははと豪快な笑顔を向けられる。
思わぬ人物にびっくりして、会えて嬉しいのに違う言葉が飛び出てしまう。
「お前こそどうした? 大きな風呂敷なんか持って」
「あ、これはですね! 南蛮の文化で、好きな人にお菓子をあげる日があると聞きまして。作ってみたんです」
「ほお。で、もちろんわしにくれるんだろ?」
「はいっ。でも、お世話になってるから……って、ちょっと!!」
床に置いた風呂敷から一つの包みを手渡す。雅之助さんはさっそく桃色の和紙を開けて、中のボーロを口に突っ込んでいた。
「うまいなあ! たまに南蛮菓子もいいものだ」
「図書室は飲食禁止ですっ!」
「ん、すまん」
「しかも、せっかくボーロにラビちゃんを描いたのに……見てないですよね?」
「そうだったか? 茶色い模様があったような気がしたが……」
口いっぱいに頬張って、悪気なく子どもみたいに喜んでいる。そんな様子に叱る勢いも萎えていく。もう……とため息をつくものの、くすくす笑いが止まらない。
――パタパタパタ
遠くから小さな足音が近づいてくる。
図書室でお菓子を食べているところを見られたらマズイ。ましてや元教師がそんなこと……!
「……大木先生、こっちです!」
「おい、引っ張るなって」
「誰か来ますから、早く食べちゃってください……!」
ぐいっと太い腕を掴んで、棚がならぶ奥の壁へと雅之助さんを引っ張っていく。
大きな体を壁際へ押しやり、食べかけのボーロを口へ突っ込んだ。背伸びをして、雅之助さんにピッタリと体をくっつける。その唇を手のひらで塞ぐと、むぐむぐと口を動かすからくすぐったい。
「っ、な、なにをする……!?」
「お菓子を食べてるのがバレたら大変ですから……!」
「うぐぐ、む……!」
「せんせ……もう、はやく……っ」
焦っていると、雅之助さんの手が私の手首や腰をグッと掴んでくる。
詰め込んだボーロを飲み込み、ニヤリと目を細めて何か企んでいる雰囲気だ。とっさに、彼の口を押さえていた手を離す。
景色が変わった……?
そう思った時には体をくるりと翻され、今度は私が壁に押しつけられる。壁と雅之助さんに挟まれ身動きできない。はだけた厚い胸元が目の前にあって、少しの息遣いを感じる。手首を壁に縫い留められ、指先はピクリとも動かせない。
「はやく……なんだ?」
「たべて、って……」
「……なにを?」
急に恥ずかしさが襲い顔から火が出そうだ。見下ろしてくる、楽しそうな垂れ目をキッとにらんだ。
「なんじゃ、ぜーんぜん怖くないぞ?」
「……もうっ」
「おい、大木雅之助ー! 名前さんに何をしている?! どけーッ!」
「おー、おじゃま虫の野村じゃないかあ!」
ほんの一瞬、スキができたのを見逃さずスルリと抜け出した。
雅之助さんも野村先生も、互いに火花を飛び散らせて対峙している。場所も構わずケンカが始まりそうだ。野村先生の後ろには、久作くんが今にも怒り出しそうな表情でワナワナと震えている。
「お二人とも、図書室ではお静かにーッ!!」
どう猛な動物のような顔つきで吠え立てると、先生二人はしゅんとして小さくなるのだった。
*
数日前。午前の授業が終わると、乱太郎たち三人が意味深なニヤケ顔で駆け寄ってきた。
何を言われるのかと思ったら……。
名前さんが、好きな人にお菓子を作って渡すと教えてくれたのだ。しかも、その相手が土井先生の事らしいと言われて期待を隠しきれない。
ついに、教えてもらったバレンタインデーなる日がやってきた。あれからずっとソワソワしてばかりだ。南蛮の風習は聞いたことがあったが気になって仕方がない。
受け取ったら、なんて言おうか。
そんな事を想像するだけで顔が熱くなって、思わず前髪を荒っぽく掻いた。
「おい、半助。墨が垂れてるぞ」
「うわぁっ!? ……山田先生、すみません」
「土井先生、何を考えていたんです?」
「り、利吉くん! ……分かっていて、からかわないでくれ」
「最近、なんか変だぞ。補習ばかりで疲れてるんじゃないのか?」
「父上、きっと違いますよ」
教員長屋の文机で採点をする手が止まり、解答用紙に朱色の染みを作っていた。慌てて筆をすずりに置く。
いつの間にやら利吉くんも現れて、面白そうにニヤリと笑っている。山田先生が大きな風呂敷の塊を取り出すと、利吉くんはぶつぶつ文句を言いながらも受け取っていた。
――ドタドタドタ
「何でついてくるんですか!?」
「いいだろー、減るもんじゃない」
「そういう問題じゃありません!」
大きな足音とパタパタした軽い足音が混じって聞こえてくる。声の主から、誰だか分かってしまった。
「失礼しますっ」
「どーもどーも!」
カタンと障子が開いて、名前さんと大木先生の姿が見える。彼女がちょっと困ったようにぺこりとお辞儀した。
「お久しぶりです」
「わあ。利吉さんっ! いらしたのですね」
「利吉には、私の洗濯物を取りに来てもらったんだがね」
「山田先生。たまにお家に帰られたら……奥さまも喜ばれますよ?」
名前さんの言葉に山田先生は苦笑して、利吉くんは腕組みしながらうんうんと深く頷いていた。二人に部屋へ入るよう促すと、大木先生は懐かしいですな!なんて部屋を見回して。
「ところで、名前さんに大木先生。どうされたんです?」
「土井先生っ。大木先生は関係ないんです。あの、お渡ししたいものが……」
「関係ないとはずいぶんじゃないか」
軽口を叩く大木先生を名前さんが責めていて、そんなやりとりさえ羨ましく感じてしまう。渡したいものって……。雰囲気もない、こんな状況で?
期待と不安でごくりと固唾を飲んだ。
「その、君が渡したいものって……」
「バレンタインのこと、しんべヱくんから聞きまして。お世話になった先生方に直接お礼をと……」
「私もさっき名前からもらいましてな! 美味かったです」
「大木先生も……!? そ、そうなんですね。ははは……」
「利吉さんもいらっしゃって良かった!」
先生方って、お礼って……。
ほほ笑む名前さんとは正反対にガックリとうなだれる。気持ちを隠して、なんとか口の端をつりあげ笑顔をつくった。
「あーっ!?」
「……今度はどうしたんです? 名前さん」
「ひとつ足りないんです……!」
四人で名前さんが持つ風呂敷の中を覗きこむ。桃色の和紙の包みが、ころんと二つ入っていた。急な来客で足りなくなったのだろう。
――もぐもぐもぐ
「このボーロ、とても美味しいです。名前さん、お菓子作りもお上手とは」
「半助、悪いなあ」
「いえ、気にしないでください……」
「土井先生、ごめんなさい……! あとで、お持ちしますから」
「すみませんな! 私も急に来てしまったもんで」
利吉くんは満面の笑みで頬張って、山田先生は食べ終わりお茶をすすっている。大木先生はがははと笑っていつも通りだ。申し訳なさそうに小さくなる名前さんの背中に手を置いて、必死に励ますのだった。
*
夕飯が終わってみんな自室に戻ったころ。教員長屋の廊下で足を止め、真っ暗な闇に点々と輝く星空を見上げる。
先生方にも、それぞれお礼ができたし……。忍たま達はデザートのボーロをとっても喜んでくれて、こちらまで幸せになる。上級生も普段の大人びた表情を崩して、可愛らしい一面を見れてしまった。
手のひらに置いた桃色の包みを見つめ、土井先生の元へと向かう。
「名前です。いま、よろしいでしょうか……?」
燭台の灯りがゆらゆら揺れ、障子ごしに動く人影が見える。中からどうぞ、という声が聞こえて戸を引いた。
「私は風呂にでも入ってくるかな」
「山田先生っ……」
文机に座って書類を作っていた山田先生は、私を捉えるとすっと立ち上がり廊下へ出て行ってしまった。
変に気を遣わせてしまい恥ずかしい。二人だけの空間になって手のひらに少しの汗がにじむ。土井先生の近くに正座すると、そっと桃色の包みを手渡した。
「あの、あまり上手く焼けなくて……」
「そんなことないさ。ありがとう」
「こちらこそ。いつも気にかけてくれて、先生に甘えてばかりです」
先生はカサカサと包みを開いて、切り分けられた歪なボーロを指でつまんでいる。自分用にしようと思っていたから、所々焦げて形も綺麗ではない。
それなのに、土井先生は美味しそうにかじってくれて。嬉しさと恥ずかしさと、少しの罪悪感でうつむく。
「あれ、これは……。もしかして、ハートを描いたのかい?」
「そ、そうです……!」
「食べるのがもったいないな」
「そんな。また作りますから」
ちょっと冗談っぽく笑うと、緊張がとけて自然とほほがゆるむ。先生も目を細めて、にじむ温かさが心地よい。
「このボーロ、名前さんみたいだ」
「どうしてです……?」
「一所懸命さが表れてるし……とっても甘い」
「ええっ。お砂糖、入れすぎちゃったかな……?」
「君も、食べてごらん」
ジリジリと土井先生がにじり寄って、食べるしか選択肢がない状況だ。あーんと言うように口を少し開いて、楽しそうにボーロを口元へ近づけてくる。
私も床に手をついて腰を浮かせ、先生の方へ体を寄せる。体重がかかるから、二人の間にミシッと板が鳴る音が響いた。
橙色の炎がチラチラと先生の瞳を照らし、妖しく光を放つ。少し首を傾げ、焦げ茶の前髪が揺れると心臓がドキンと苦しくなる。
ぱくりとひと口、ボーロをかじると先生も残りを口へ運んだ。こくんと飲み込んで、絡み合った視線をそらせない。
かさつく長い指に唇をぬぐわれる。先生はボーロのかけらをつまみ取ると、そのまま自身の口に含んだ。
「……どうだった?」
「甘かった、です……」
――カタッ
「すまん! 手ぬぐいを忘れてしまってなあ」
「「……や、山田先生っ!?」」
障子が開き、山田先生がバツが悪そうに頭を掻いている。パッと勢いよく土井先生から離れ、落ち着こうと胸元をぎゅっと押さえる。
不思議そうな顔をした山田先生に見つめられ、土井先生と二人で照れ笑いするのだった。
「なになに!?」
食堂のカウンターでご飯を盛り付けていると、しんべヱくんが気になる話をしてきた。その顔を見てみれば、よだれを垂らして……。苦笑いしつつ、手ぬぐいでそっと拭いてあげる。
「パパがね、南蛮のお話をしてくれたの。好きな人にチョコレートをあげるんだって!」
「わぁ。とっても素敵だね」
「名前さんも、好きな人にあげたらどうでしょ?!」
「えーっ!? そ、そうだねえ」
焦って、おぼんを取り落としそうになってしまった。
好きな人に……?
南蛮にはずいぶん甘くてうっとりするような日があるんだな。私だったら、誰に……?なんて想像して顔がじんわり熱くなってくる。内心ドキドキしつつ、山盛りのご飯がのった定食をしんべヱくんへ差し出した。
――パタパタパタ…
軽い足音と共に元気な声が聞こえてくる。
「お腹空いてるからって、わたし達のこと置いてかないでよー」
「そうだぞー、しんべヱ!」
「えへへ、ごめん」
「乱太郎くん、きり丸くん。はい、どうぞっ」
後から駆けてきた二人にもご飯をよそってみそ汁を準備する。最後に小鉢を付けて渡した。
「名前さんがね、好きな人にお菓子あげるんだって〜!」
「ああ! しんべヱのパパさんが言ってた、バレンタインのことー?」
「えーっ、名前さん。だれに渡すんっすか!?」
「だ、だれって……」
三人に熱い眼差しで見つめられ、たまらず仰け反ってしまう。口をモゴモゴさせて困っていると、きり丸くんが閃いた!という顔をしている。
「もー、恥ずかしがらないでくださいよー。土井先生っすよね?!」
「きり丸くん、そんな大きい声で……!」
「「「やっぱり……!」」」
乱太郎くんはメガネをキラリと怪しげに輝かせて、口角を上げていた。……ここでたじろいではダメだ。少しの余裕をなんとかかき集めていく。
「そ、そうだなー。だれかは言えないけど、好きな人に渡そうと思ってるよ?」
「「「わあ! ほんとー?!」」」
三人とも顔を輝かせてよろこぶ。それぞれお盆を手にテーブルへと向かっていった。
……嘘ではない。本当に、好きな人にお菓子を作って贈りたいと思ったのだ。でも先生方や忍たまのみんなの事なんだけど……。なんて後ろ姿を眺めながら苦笑するのだった。
――食堂のお手伝いが一段落ついた頃。賑わっていた空間もガランとして静かだ。時々、冷たい風が勝手口から吹き込んでくる。
「おばちゃんっ。こんど、食堂をお借りしてお菓子を作っていいですか?」
「あらぁ、いいわよ。お菓子作りだなんて、珍しいわねぇ」
「しんべヱくんから南蛮の文化を教えてもらったんです。私も、大好きなみんなにお菓子を贈りたくって」
「きっと喜ぶわよ!」
洗い終わった食器を布で拭きながら、食堂を使わせてもらう許可をいただく。おばちゃんはニコニコほほ笑んで、濡れた両手を割烹着のはしで拭っていた。
*
「失礼しまーす」
「……もそ」
さっそく図書室でお菓子の本を探す。受付には、しかめっ面の長次くんが座っていて背筋がピッと伸びる気がした。
お菓子のレシピは……
大きな棚には本や巻物がきれいに整理されていた。キョロキョロと探しながら、前に教えてもらった場所にたどり着く。食べ物にまつわる資料が並べられた一角で、どの本にしようかじーっと見つめる。
ひとつを手に取りペラペラとページをめくる。……しんべヱくんが言ってたチョコレートはたくさん作るのが大変そうだ。しかも、溶かしたり固めたり難しい気がする。
びすこいとの作り方を探しても、しんべヱのパパさんが仕入れたばかりで見当たらない。他の南蛮菓子も食堂では出来なさそうだ。やっぱり、ボーロしかないかも……!
「あのー、長次くん」
「……もそ」
「ボーロを作ってみたいんだけど、教えてもらえないかな……? みんなに、感謝の気持ちを込めて渡したくて」
「分かりました」
「嬉しいっ、ありがとう!」
「名前さん、お静かに」
「ご、ごめん」
長次くんは険しい表情のまま、少しだけ口元を柔らかくして頷いてくれた。あまりの嬉しさに声が大きくなってしまい慌てて口を閉じる。そうと決まったら、さっそく通販で材料を注文しなければ。
――カタン
引き戸が少し開いて、静かな図書室に軽い音が響く。長次くんと二人で、音のする方を見つめた。
「こんにちはぁ……」
「羽丹羽石人くんっ!」
「……名前さん、お静かに」
「あ、失礼しましたっ」
またまた大きな声で呼びかけてしまい、手のひらで口を覆った。戸のすき間からチラリと顔を覗かせたのは、最近二年生として入学した石人くんだ。
丸い顔にまん丸の黒目がちな瞳。
両耳のあたりには、白い紐で結んだ灰色の髪が垂れている。恥ずかしそうにはにかむ青い制服姿が可愛らしくて、思わず手招きしてしまった。
「呪術の本を借りに来たのですが……」
「じゅじゅつ……!?」
「……もそ」
遠慮がちにつぶやく石人くんに、長次くんが立ち上がり案内している。気になって二人の後を着いていくと、壁際の奥まった場所に目当ての本があるようだ。
「石人くんは、呪術が得意なんだっけ?」
「はい、よくご存知で。わたし嬉しいです」
にこっと笑いかけると、丸い目を細めてもじもじしている。忍たまのことは些細なことでも覚えて、そして気付いてあげたいのだ。私も一冊手に取ると開いたページを読んでみる。
「その本はきっと面白いですよ」
「そうなんだ?」
「おまじないや妖怪が、物語の中に出てくるんです」
「へぇ! 読んでみようかな」
石人くんは目を輝かせ、本を覗き込み教えてくれた。そんなにお勧めされるとさらに興味が湧いてくる。長次くんにお菓子の本と一緒に手渡して、貸出票に筆を走らせた。
――夜。
今日借りた本を手に、敷いた布団へ寝転がる。
カタカタと凍えるような風が戸をたたく。すき間からは冷気が入り込み、寒さに布団をかぶり直した。灯された炎がゆらりと揺れる。
ボーロの作り方を頭に描きながら何度もレシピを目で追う。忍たまのみんなには、食堂で……。先生方には直接お渡ししよう。よろこぶ顔を思い浮かべて、一人でニヤニヤしてしまう。
パタンと表紙を閉じると、石人くんがお勧めしてくれた本に手を伸ばした。鬼や妖怪が出てくるようで、面白さにページをめくる手が止まらない。ハラハラしながら、時間を忘れて読み進めていった。
「そんしょうだらに……かあ」
物語の主人公は、この呪文を着物の衿に縫いつけていたおかげで鬼に食べられずに済んだのだ。魔物を跳ね除ける強いまじないで、色々な災難から身を守ってくれるものらしい。高貴な人たちはこの呪文を唱えたり、書き写して肌身離さず持っていたとも書いてある。
これは……!
盗賊に襲われたり、タソガレドキに連れ去られたり……。災難つづきで迷惑をかけているから、おまじないでも僅かな希望にすがりたい。何より、あの光るお札のこともある。
ガバっと起き上がると文机の前に正座した。それから、小さな紙切れに筆を走らせる。
……尊勝陀羅尼
難しくて何回か失敗してしまった。墨で黒くなった指先を手ぬぐいで拭いてから、ぺらりと紙を乾かすために靡かせた。
おまじないを見つめて願いを込める。
紙が飛ばないように文鎮をのせ、ふぅっと燭台の炎を吹き消した。
肌身離さず。
布団に包まれながら、どうやって身につけようかと思案をめぐらす。次第にまぶたが重くなって、眠気に身を任せるのだった。
*
数日後。
通販で注文した砂糖や卵、小麦粉が食堂の勝手口へ運ばれてきた。忍たま達と先生方の分だから、すごい量になってしまった。
ボーロの材料もそろって準備万端。割烹着に腕をとおし調理台に向かって気合を入れる。
長次くんに教えてもらったように、卵と砂糖を大きな器に入れてよくかき混ぜていく。蜂蜜をたらし入れて、小麦粉を少しずつふるい落としてさらにかき混ぜた。
次第に生地が重くなって、ヘラやうつわを押さえる手に疲れが溜まっていく。たくさん混ぜて滑らかにすることが美味しくなるコツだから……。
「どこんじょー!だっ、わたし〜ッ!!」
これ以上動かせないほど腕が重い。
ぎゅっと目をつむり、ど根性で頑張る。
「一体、何事なんだっ?! ユリコが驚いてしまう!」
「……ええっ?!」
濃い紫色の制服に身をつつんだ三木ヱ門くんが勝手口からこちらを覗いている。ぽかんとした顔で見つめられ恥ずかしくなってしまった。
「名前さん、大声でどうしたんです?!」
「ご、ごめん。今お菓子を作っていて……! ちょっと力が必要だったんだ。三木ヱ門くんは?」
「石火矢のユリコを散歩させていたんですよ。よろしければ、私も手伝いましょうか?」
「ううん、大丈夫! あとは焼くだけだから。ありがとっ」
心配そうに気遣ってくれる三木ヱ門くんに照れながら答える。鉄板に生地をのせて、かまどの中へと入れていく。薪を追加して火力を調節して……。
三木ヱ門くんも一緒について確認してくれて、なんとかうまく焼けている。次第にあたりが甘くて香ばしい香りに包まれた。
「いい匂いですねぇ! 何を作ってるんです?」
調理台で飾り付け用のチョコレートを準備していると、またまた勝手口から紫色の忍装束が覗いている。
「滝夜叉丸ーっ!!」
「三木ヱ門かッ!!」
銀色に鋭く光る輪をクルクルと指で回し、茶色の長い前髪を靡かせている。その姿を視界に捉えた瞬間、三木ヱ門くんの高い声が食堂に響き渡った。
「滝夜叉丸くん、どうしたの?」
「戦輪投げを練習していたのですが、匂いにつられてしまいまして」
「フンっ、お菓子の匂いに釣られるなんてお子ちゃまだな!」
「この滝夜叉丸に向かってお子ちゃまだとぉ?!」
「まぁまぁ、二人とも……」
今にもケンカが始まりそうなほどの睨み合いに、どうして良いか分からずあたふたしてしまう。二人を交互に見やりながら焦っていると、食堂の入り口から不気味な笑い声が聞こえてくる。
「「「あの声は……!」」」
「……食堂でケンカをするな」
長次くんが、笑い声と共に入り口からそろりと歩いてくる。その形相と静かな怒りを含むつぶやきに、一同ピッと口を閉じた。
「長次くんっ。ボーロ、いい感じに焼けたよ!」
「それは良かった」
「もしかして、心配して来てくれたの?」
「……もそ」
少し柔らかい表情の長次くんに、目一杯の笑顔でお礼をする。ほぼ作り終わったところだけど、気に掛けてくれることがありがたかった。
出来立てほやほやのボーロを調理台に乗せて粗熱をとる。
四人で、丸い大きな茶色のかたまりを覗きこむ。その香りと焼き目の色合いから、成功間違いなしだとほほ笑みあった。
「切り分けて飾りつけしたら、みんなに渡してあげるね。夕飯、楽しみにしててっ!」
*
図書室へつづく長い廊下を歩いている。手には大きな風呂敷と借りた本が二冊。
風呂敷には、ボーロを切り分け桃色の和紙で包んだものがいっぱい詰まっている。忘れる前に本を返却して、それから先生方へお菓子をお渡ししようと思ったのだ。
「……失礼しまぁす」
「おお、名前じゃないか!」
「えーっ。大木先生が、なんでここにー!?」
「来ちゃ悪いか?」
「わ、悪くないですけど……」
図書室には雅之助さん一人で、大きな棚に背をもたれさせ本を読んでいた。こちらに気付くと本を片付け、はははと豪快な笑顔を向けられる。
思わぬ人物にびっくりして、会えて嬉しいのに違う言葉が飛び出てしまう。
「お前こそどうした? 大きな風呂敷なんか持って」
「あ、これはですね! 南蛮の文化で、好きな人にお菓子をあげる日があると聞きまして。作ってみたんです」
「ほお。で、もちろんわしにくれるんだろ?」
「はいっ。でも、お世話になってるから……って、ちょっと!!」
床に置いた風呂敷から一つの包みを手渡す。雅之助さんはさっそく桃色の和紙を開けて、中のボーロを口に突っ込んでいた。
「うまいなあ! たまに南蛮菓子もいいものだ」
「図書室は飲食禁止ですっ!」
「ん、すまん」
「しかも、せっかくボーロにラビちゃんを描いたのに……見てないですよね?」
「そうだったか? 茶色い模様があったような気がしたが……」
口いっぱいに頬張って、悪気なく子どもみたいに喜んでいる。そんな様子に叱る勢いも萎えていく。もう……とため息をつくものの、くすくす笑いが止まらない。
――パタパタパタ
遠くから小さな足音が近づいてくる。
図書室でお菓子を食べているところを見られたらマズイ。ましてや元教師がそんなこと……!
「……大木先生、こっちです!」
「おい、引っ張るなって」
「誰か来ますから、早く食べちゃってください……!」
ぐいっと太い腕を掴んで、棚がならぶ奥の壁へと雅之助さんを引っ張っていく。
大きな体を壁際へ押しやり、食べかけのボーロを口へ突っ込んだ。背伸びをして、雅之助さんにピッタリと体をくっつける。その唇を手のひらで塞ぐと、むぐむぐと口を動かすからくすぐったい。
「っ、な、なにをする……!?」
「お菓子を食べてるのがバレたら大変ですから……!」
「うぐぐ、む……!」
「せんせ……もう、はやく……っ」
焦っていると、雅之助さんの手が私の手首や腰をグッと掴んでくる。
詰め込んだボーロを飲み込み、ニヤリと目を細めて何か企んでいる雰囲気だ。とっさに、彼の口を押さえていた手を離す。
景色が変わった……?
そう思った時には体をくるりと翻され、今度は私が壁に押しつけられる。壁と雅之助さんに挟まれ身動きできない。はだけた厚い胸元が目の前にあって、少しの息遣いを感じる。手首を壁に縫い留められ、指先はピクリとも動かせない。
「はやく……なんだ?」
「たべて、って……」
「……なにを?」
急に恥ずかしさが襲い顔から火が出そうだ。見下ろしてくる、楽しそうな垂れ目をキッとにらんだ。
「なんじゃ、ぜーんぜん怖くないぞ?」
「……もうっ」
「おい、大木雅之助ー! 名前さんに何をしている?! どけーッ!」
「おー、おじゃま虫の野村じゃないかあ!」
ほんの一瞬、スキができたのを見逃さずスルリと抜け出した。
雅之助さんも野村先生も、互いに火花を飛び散らせて対峙している。場所も構わずケンカが始まりそうだ。野村先生の後ろには、久作くんが今にも怒り出しそうな表情でワナワナと震えている。
「お二人とも、図書室ではお静かにーッ!!」
どう猛な動物のような顔つきで吠え立てると、先生二人はしゅんとして小さくなるのだった。
*
数日前。午前の授業が終わると、乱太郎たち三人が意味深なニヤケ顔で駆け寄ってきた。
何を言われるのかと思ったら……。
名前さんが、好きな人にお菓子を作って渡すと教えてくれたのだ。しかも、その相手が土井先生の事らしいと言われて期待を隠しきれない。
ついに、教えてもらったバレンタインデーなる日がやってきた。あれからずっとソワソワしてばかりだ。南蛮の風習は聞いたことがあったが気になって仕方がない。
受け取ったら、なんて言おうか。
そんな事を想像するだけで顔が熱くなって、思わず前髪を荒っぽく掻いた。
「おい、半助。墨が垂れてるぞ」
「うわぁっ!? ……山田先生、すみません」
「土井先生、何を考えていたんです?」
「り、利吉くん! ……分かっていて、からかわないでくれ」
「最近、なんか変だぞ。補習ばかりで疲れてるんじゃないのか?」
「父上、きっと違いますよ」
教員長屋の文机で採点をする手が止まり、解答用紙に朱色の染みを作っていた。慌てて筆をすずりに置く。
いつの間にやら利吉くんも現れて、面白そうにニヤリと笑っている。山田先生が大きな風呂敷の塊を取り出すと、利吉くんはぶつぶつ文句を言いながらも受け取っていた。
――ドタドタドタ
「何でついてくるんですか!?」
「いいだろー、減るもんじゃない」
「そういう問題じゃありません!」
大きな足音とパタパタした軽い足音が混じって聞こえてくる。声の主から、誰だか分かってしまった。
「失礼しますっ」
「どーもどーも!」
カタンと障子が開いて、名前さんと大木先生の姿が見える。彼女がちょっと困ったようにぺこりとお辞儀した。
「お久しぶりです」
「わあ。利吉さんっ! いらしたのですね」
「利吉には、私の洗濯物を取りに来てもらったんだがね」
「山田先生。たまにお家に帰られたら……奥さまも喜ばれますよ?」
名前さんの言葉に山田先生は苦笑して、利吉くんは腕組みしながらうんうんと深く頷いていた。二人に部屋へ入るよう促すと、大木先生は懐かしいですな!なんて部屋を見回して。
「ところで、名前さんに大木先生。どうされたんです?」
「土井先生っ。大木先生は関係ないんです。あの、お渡ししたいものが……」
「関係ないとはずいぶんじゃないか」
軽口を叩く大木先生を名前さんが責めていて、そんなやりとりさえ羨ましく感じてしまう。渡したいものって……。雰囲気もない、こんな状況で?
期待と不安でごくりと固唾を飲んだ。
「その、君が渡したいものって……」
「バレンタインのこと、しんべヱくんから聞きまして。お世話になった先生方に直接お礼をと……」
「私もさっき名前からもらいましてな! 美味かったです」
「大木先生も……!? そ、そうなんですね。ははは……」
「利吉さんもいらっしゃって良かった!」
先生方って、お礼って……。
ほほ笑む名前さんとは正反対にガックリとうなだれる。気持ちを隠して、なんとか口の端をつりあげ笑顔をつくった。
「あーっ!?」
「……今度はどうしたんです? 名前さん」
「ひとつ足りないんです……!」
四人で名前さんが持つ風呂敷の中を覗きこむ。桃色の和紙の包みが、ころんと二つ入っていた。急な来客で足りなくなったのだろう。
――もぐもぐもぐ
「このボーロ、とても美味しいです。名前さん、お菓子作りもお上手とは」
「半助、悪いなあ」
「いえ、気にしないでください……」
「土井先生、ごめんなさい……! あとで、お持ちしますから」
「すみませんな! 私も急に来てしまったもんで」
利吉くんは満面の笑みで頬張って、山田先生は食べ終わりお茶をすすっている。大木先生はがははと笑っていつも通りだ。申し訳なさそうに小さくなる名前さんの背中に手を置いて、必死に励ますのだった。
*
夕飯が終わってみんな自室に戻ったころ。教員長屋の廊下で足を止め、真っ暗な闇に点々と輝く星空を見上げる。
先生方にも、それぞれお礼ができたし……。忍たま達はデザートのボーロをとっても喜んでくれて、こちらまで幸せになる。上級生も普段の大人びた表情を崩して、可愛らしい一面を見れてしまった。
手のひらに置いた桃色の包みを見つめ、土井先生の元へと向かう。
「名前です。いま、よろしいでしょうか……?」
燭台の灯りがゆらゆら揺れ、障子ごしに動く人影が見える。中からどうぞ、という声が聞こえて戸を引いた。
「私は風呂にでも入ってくるかな」
「山田先生っ……」
文机に座って書類を作っていた山田先生は、私を捉えるとすっと立ち上がり廊下へ出て行ってしまった。
変に気を遣わせてしまい恥ずかしい。二人だけの空間になって手のひらに少しの汗がにじむ。土井先生の近くに正座すると、そっと桃色の包みを手渡した。
「あの、あまり上手く焼けなくて……」
「そんなことないさ。ありがとう」
「こちらこそ。いつも気にかけてくれて、先生に甘えてばかりです」
先生はカサカサと包みを開いて、切り分けられた歪なボーロを指でつまんでいる。自分用にしようと思っていたから、所々焦げて形も綺麗ではない。
それなのに、土井先生は美味しそうにかじってくれて。嬉しさと恥ずかしさと、少しの罪悪感でうつむく。
「あれ、これは……。もしかして、ハートを描いたのかい?」
「そ、そうです……!」
「食べるのがもったいないな」
「そんな。また作りますから」
ちょっと冗談っぽく笑うと、緊張がとけて自然とほほがゆるむ。先生も目を細めて、にじむ温かさが心地よい。
「このボーロ、名前さんみたいだ」
「どうしてです……?」
「一所懸命さが表れてるし……とっても甘い」
「ええっ。お砂糖、入れすぎちゃったかな……?」
「君も、食べてごらん」
ジリジリと土井先生がにじり寄って、食べるしか選択肢がない状況だ。あーんと言うように口を少し開いて、楽しそうにボーロを口元へ近づけてくる。
私も床に手をついて腰を浮かせ、先生の方へ体を寄せる。体重がかかるから、二人の間にミシッと板が鳴る音が響いた。
橙色の炎がチラチラと先生の瞳を照らし、妖しく光を放つ。少し首を傾げ、焦げ茶の前髪が揺れると心臓がドキンと苦しくなる。
ぱくりとひと口、ボーロをかじると先生も残りを口へ運んだ。こくんと飲み込んで、絡み合った視線をそらせない。
かさつく長い指に唇をぬぐわれる。先生はボーロのかけらをつまみ取ると、そのまま自身の口に含んだ。
「……どうだった?」
「甘かった、です……」
――カタッ
「すまん! 手ぬぐいを忘れてしまってなあ」
「「……や、山田先生っ!?」」
障子が開き、山田先生がバツが悪そうに頭を掻いている。パッと勢いよく土井先生から離れ、落ち着こうと胸元をぎゅっと押さえる。
不思議そうな顔をした山田先生に見つめられ、土井先生と二人で照れ笑いするのだった。