第33話 守りたい
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夏休みも残りあとわずか。
毎日茹だるような暑さなのに、朝は爽やかな風が吹き抜けて心地よい。
朝ご飯のうつわをたらいに入れて、井戸水をじゃぶじゃぶと注いでいく。響く水音や飛び散る水滴が涼しげで目を細めた。
半助さんときり丸くんと過ごす長屋暮らしは、アルバイト三昧だけどとても楽しい。毎日があっという間に過ぎ去っていくようだった。
今日もまた、うどん屋で給仕の仕事がある。
……きり丸くんもだから一緒に行こう。
かちゃかちゃと洗いながら、よーしっ!と気持ちを奮い立たせた。
「名前さん、私も手伝うよ」
「あっ、半助さん!すみません」
「いや、君に任せてばかりで悪いね」
「あれ、優しいんですね?」
「……っ!」
背後から半助さんの柔らかな声が聞こえて振り返ると、勝手口からこちらに向かってくるところだった。気遣ってくれたのが嬉しくて、少し意地悪を言ってはその反応にクスッとする。半助さんは照れ笑いをしながら頭をくしゃっと掻いた。
ふたり並んでしゃがみながら、ゴシゴシとうつわを洗っている。
ちらりと隣に目をやると、めくった袖から覗くたくましい腕にドキドキしてしまう。鼓動を落ち着かせるように、たらいの水をピチャピチャと玩ぶ。
……もう少ししたら、家を出ないといけない時間だ。
「きり丸くんは、出かける支度してました?」
「きり丸は犬の散歩も引き受けたみたいだよ。さっき、急いで飼い主の家へ向かっていったところだ」
「そうですか、忙しいですねぇ」
「散歩させるのは私なんだが……」
「あはは、暑いのに大変だっ」
なんだかんだ言って、きり丸くんのバイトを手伝ってあげている。そんな二人のやりとりを眺めるのが好きだった。……まるで親子みたいだなって。
そういえば、半助さんの郷里はどこなのだろう。こんなに素敵な人が生まれ育った場所はきっとのどかで、ご両親はとても温かい方なんじゃないかな。
私にも、そんな存在がいるはずなのに。何もかも記憶がないことを思い知らされ、切なくなる。
冷んやりとした水の温度を指先に感じながら、少し羨ましい気持ちで隣を見つめた。
「……半助さんは、ご実家に帰らないのですか?」
「え、いやあ、その……」
「男の人って、なかなか帰らないですよねー」
「そういうわけじゃないんだが……」
「きり丸くんと一緒にお留守番しますよ?」
「私の家はここだけだから。……さっ、全部洗い終わったぞ!」
からかいながら顔を覗き込む。
一瞬、優しい表情に影が見えた気がしてハッと息を呑んだ。でもすぐにいつもの半助さんに戻って。見間違いかもしれない。
そうこうしている内に、サッとうつわを引き上げ家へと向かってしまった。
「どうしたんだい?早くしないと遅れるよ」
「は、はいっ……!」
半助さんは大きな手で食器を抱え、ふわりとほほ笑みながらこちらを振り返っている。割烹着の裾で手を拭うと、慌ててその後を追った。
*
「きり丸くん、今日も頑張ろうね!」
「はい!」
髪が隠れるように手ぬぐいを頭に巻き、袖が邪魔にならないようたすき掛けにすると、二人で気合いを入れる。
「名前さん。もう少ししたら、お勘定も任されそうじゃないっすか?」
「ええっ。銭のこと、苦手だからな。そうなったら教えてね」
「いいですけど……?」
不思議そうに見つめられ、平静を装う。
うどん屋のアルバイトもだいぶ板についてきて、料理を運びながら注文を取ることだって上達した。何度も来てくれるお客さんに話しかけて、またお待ちしてますね!なんて営業もしちゃって。
でも、銭を数えるのはなかなか慣れない。欠けたものは価値が下がる、それを見分けるのに一苦労だ。
「きり丸くん、早く行こっ」
さあさあ!と小さな背中を押して、店内へと小走りで向かった。
――今はお昼で一番忙しいとき。
お店にはひっきりなしにお客さんがやってきて、うつわを下げたり注文を取ったりバタバタだ。
「はぁい、お待たせしましたっ」
お盆にうどんをのせてパタパタと店内を駆け回っていると、奥からガッシャーンと何かが崩れて粉々になるような、鋭い音が響いてきた。
……どうしたんだろう?!
ケガしてないといいんだけど……。
失礼しました!とお客さんに謝りつつ、ささっとうどんを渡して回ると、急いで音のした方へと駆けていく。
きり丸くんに何かあったら……。
そうじゃなくても心配だ。
調理場から勝手口へとキョロキョロしながら進むと、困った顔の店主とガーンと青ざめた顔のきり丸くんが佇んでいた。
「だ、大丈夫っ?!」
「うわーん、名前さぁん!」
「まったく、困ったなあ」
足元に割れたうつわがいくつも転がって、細かい破片があちこちに飛び散っていた。
ひとまず、どこもケガはしていないようで胸を撫で下ろす。おいおい泣くきり丸くんにどうしてあげたら良いか分からない。
何があったのか事情を聞くと、早く運ぼうとうつわをたくさん抱えたせいで、バランスを崩し落としてしまったようだ。
店主のおじさんと三人で片付けている途中、向こうからお客さんが入ってきたのが見える。店主が急いで接客に向かい、きり丸くんと二人きりになった。
「そんなに泣かないで……」
「で、でもぉ……。割った分、バイト代から引かれちゃうんですー!うわーん!」
「そ、そうなの?!……私のバイト代から出してあげるからっ」
「ありがたいですけど、銭が減らされるなんて耐えられないっすー!」
「割っちゃったものは仕方がないよ。きり丸くんにケガがなくて良かった」
「名前さん……」
「片付けは危ないから、あとは私がやるね。きり丸くん、残りのうつわ運んでくれるかな?」
大丈夫というふうに頷いて、せっせと破片を片付けていく。全部拾い上げてほうきで掃くと、うーんと大きく伸びをして固まった身体をほぐす。
しばらくすると、店主のおじさんが様子を見に戻ってきた。片付けの報告と、割ってしまったことを改めて謝る。
「よく働いてくれているところ、心苦しいんだが……。すこしだけ、お給料から引かせてもらうよ」
「たくさん割ってしまったのにすみません。きり丸くんにも、気をつけるように言っておきますね」
小さく頭を下げてから、またお客さんで溢れる店内へ戻っていった。
*
――空が赤く染まりかけ、街の人々が家路につく頃。
半助さんの長屋へ続く道を、きり丸くんと並んで歩いている。人通りは少なく、遠くに連なる山々をのんびり眺めながら進んでいた。
ひと仕事終えたあとの空気は一段と美味しく感じられ、ふぅっと深呼吸をする。
「今日は色々と大変だったね」
「ほんと、ついてないっす」
「そういう日もあるよ」
「……ちぇっ」
口を尖らせて不服そうにする顔が、ちゃんと十歳の子どもらしい仕草で。本当は嗜めるべきなのかもしれない。でも、自分に甘えてくれたのが嬉しくてぽんぽんと頭を撫でてあげた。
「今日も美味しい夕飯つくるから、いっぱい食べて元気出そっ」
「ありがとうございます!……でも、やっぱり悔しいっ!」
まあまあ……なんて苦笑しながら慰めていると、きり丸くんが足元の石をえいっと蹴り上げる。それは弾みをつけてコロコロ転がっていった。
すると、少し離れた向かいから男の野太い怒号が聞こえる。ビクリとして声のする方を見つめた。
「おおい!誰だ、石をぶつけて来たのは!?」
だらしない着物姿の無精髭を生やした男二人組が前方からどかどかと大股でこちらにやってくる。
……二人とも腰に刀をぶら下げて、歩くたびにカチャカチャ響く鋭い音が不安を煽る。
「……こっちにくるっ」
「まずいっすね……!」
周りに助けてくれそうな人もいない。
もし、きり丸くんが酷い目にあったら……!
小さな手を掴むと、ぎゅうっと固く握りしめる。大丈夫だよ、という気持ちが伝わってくれたらいいけれど……。
「あのっ、大変失礼しました!」
「おおい、お前のガキか?まったく、躾がなってないなあ。……どう落とし前つけるんだ?」
「お、落とし前って……!」
「石を蹴り飛ばされて痛かったよなあ?」
「ああ。このままそうですか、で終われねぇなあ」
「ど、どうしたらっ……!」
きり丸くんを庇うように前に出ると、小さな身体ががしっと背中にしがみついてくる。私も怖いけれど、絶対に守らなきゃ。もうその気持ちだけで突き進む。
「そうだなあ。身ぐるみを剥がしてやるか、そのガキを寄越すか……お前でもイイぞ? 売り飛ばしたらいい値がつきそうだ」
「……っ!」
何て最低なこと言うのだろう……。
もう、こんな人達相手に話していたって埒があかない。きり丸くんだけでも、何とか逃さないと……!
「……じゃあ、私をどうぞ」
「ちょ、ちょっと!名前さんダメですってば!」
「……大丈夫だから。心配しないで」
「ほう、随分と物分かりがいいな」
「こっちだ! ついてこい!」
きり丸くんにコソッと耳打ちして、目を見つめ頷く。
早く逃げるように伝えるけれど、ためらっているのか着物を掴んで離さない。突き放すようにぐいっと強く背中を押すと、覚悟を決めたのか一目散に駆けていった。
……きっと、半助さんに何があったかを報告してくれるはず。
「そんなに引っ張らなくてもついて行きますから……!」
「ふんっ、信用ならねえ!」
片腕を捕らえられ、引き摺られるように来た道を反対側に歩いていく。この方向は街へ向かっているのだろうか。売り飛ばすって、どういうこと……?
「……どこに行くのですか?」
「お前だったら、遊女屋なんかどうだ?」
「お、そりゃあいいな!」
……どうしよう。
前に山賊にあったときは、伊作くんと崖下に逃げられた。けれど、ここでは通用しない。
鼓動がバクバク鳴り響いて、冷や汗がたらりと背中を伝う。夏の暑い中、震える手はとてつもなく冷え切っていた。
何か良い手はないかと思案を巡らせる。
……雅之助さんに初めて会ったとき。
あのとき、私の髪を見つめて「寺から逃げてきたのかと……」なんて変なことを言っていた。たしかに街の女性とは違って短く、風変わりだった。
しかも、この状況は。
以前、半助さんに教えてもらった体術が使えるかもしれない……!
もし失敗しても、きっと助けに来てくれると信じている。そう無理やり思い込んで、自分を鼓舞した。
黙って連れ去られるわけにはいかないのだ。もう、戻れない可能性だってある。命だって、むごたらしく奪われてしまうかもしれない。
けれど、私が無茶をしたせいできり丸くんを悲しませたら……? そんな恐怖感を振り払うように唇をぐっと結ぶ。
もう、一か八か、やってみるしかなかった。
「……そう、ですか」
「なんだ!なんか文句あるのか?」
「文句ではないのですが……」
無理やり引かれる腕に、進まされる足に。半助さんに教えてもらったことをもう一度思い出し、頭の中でその動きを確かめる。
手のひらに力を込めると、引っ張られる腕の力に向かってグッと押しながら捻っていく。うめき声をあげながら、ドサッと男が地面に倒れ込む。もう一人の男の怒鳴り声が響いた。
ぱさりと頭に巻いた手ぬぐいを脱ぎ捨て、髪を振り払う。肩につくくらいの毛先が風になびいた。
「先ほどの子ども、身寄りがないのです。お仕えしている尼寺の庵主さまのもとへ、連れて行くところでして」
両手の拳を握りしめて、ガクガク膝が笑うのを堪える。
本当は目を逸らしたい。けれど、キッと睨みつけるように真っ直ぐ男達を見つめた。二人組はバツの悪そうな顔をしてたじろぐと、行くぞと吐き捨てて慌てて去って行った。
その姿が見えなくなるまで、呆然と立ちつくす。
この髪型のせいで尼だと思い恐れたのか。信心深いのか、面倒なことになりそうだと思われたのか……。
まさか、体術が上手くいくなんて思わなかった。無事にやり過ごせるなんて、狐につままれたような不思議な感じだ。
まだ激しい動悸のせいで呼吸が苦しい。
暗くなりかけた空の下、手ぬぐいを握りしめて半助さんの待つ家へトボトボと歩いていく。
……きり丸くん、無事にお家に帰れただろうか。
「おいっ!大丈夫だったか!?」
地べたを眺めていた視線を、声のする方へ向ける。
その姿を見つけると、一気に緊張が解けて思わず走り寄ってしまった。気持ちばかり焦って足が絡まり転げそうだ。
半助さんっ……!
声にならない声で呼びかける。二人でしっかり抱き合うと、やっと生きた心地がした。
……もう、大丈夫だ。
包み込んでくれる大きな身体は息が切れ、汗が滴り燃えるように熱かった。
必死に駆け付けてくれたのだと思うと、心がぎゅっとなって涙がこぼれそうになる。
「名前さんっ!ごめんなさいっ、ぼくのせいで……!」
「きり丸くんっ!……よかった」
遅れてあとを追いかけてきたきり丸くんを確認すると、ヘナヘナと座り込んでしまいたくなるくらいホッとした。
半助さんときり丸くんと三人で抱き合う。
「……五車の術と体術で、うまく乗り切ったよ」
そっと身体を離し、安心させるようにニッと笑って、また二人をぎゅっと抱きしめた。
*
――夜
勝手口から黒い空を眺め、湿気った暖かい風に吹かれていた。漆黒の闇に月明かりが差し込み、わずかに辺りが浮かび上がる。
目が冴えて落ち着かない。
こそっと寝床を抜け出し、今日のことをぼーっと思い返していた。たぶん、半助さんには気付かれているかもしれない。
あれから、ふらふらした足取りで家に戻って、よく働かない頭で夕飯を作って……。手を動かしたら気が紛れると思ったのに、そんなことはなかった。
大丈夫なんて強がってみたけれど、やっぱり怖い。思い出したくないのに、ふとあの光景が頭をよぎる。
きり丸くんはひたすら謝って……。逆にこちらの心が痛んでしまうというのに。大切だからこそ、守りたいと思うのは当然のことだった。
食堂のおばちゃんみたいに、もっと肝が据わっていないとダメだな、なんて苦笑しながら灰色の雲を見つめる。
……早く、戻らないと。
「名前さん」
「は、半助さんっ……?」
深く息を吸って気持ちを落ち着かせていると、後ろから声を掛けられ肩がピクリと震えた。振り返ることができぬまま、流れる雲に向けていた視線を足元に落とす。
「眠れないのだろう?」
「はい。でも、今戻ろうと思ったところで……!」
半助さんの顔は見られない。
こんな頼りない姿を見せたら、きっとまた心配させて困った顔をさせてしまう。そんな自分が悔しくて、寝巻きの裾をかたく握った。
「一緒に、こうしていよう」
じっと俯く名前さんを、背後からそっと抱きしめた。すっぽりとうずまる小さな肩に、胸が締め付けられる。
勝手口から少し中庭に出たところに、名前さんは佇んでいた。その後ろ姿は白い寝巻きがぼんやりとして、今にも儚く消えてしまいそうだ。そんな彼女を見たせいか、気持ちが止まらない。
「……頼りなくて、ごめんなさい」
「しっかり、きり丸を守ってくれたじゃないか。少し、無茶しすぎだが」
「だって……。私と同じで独りだから、守らなきゃって」
「……知っていたんだね」
きり丸と同じ、独りぼっちの境遇を重ね合わせる名前さんに、何もしてやれずもどかしい。その辛さは、自分も嫌というほど味わってきた。
家に戻ってから、君がきり丸を心配させないように、何ともないような顔をして笑っていたのも。
大丈夫大丈夫、なんてさらりと笑顔のまま言い放ち、きり丸にそれ以上何も言えなくさせていたのも。
布団の中で何度も何度も寝返りを打って、眠れないことだって。
……全部、分かっていたんだ。
そろりと名前さんの手が私の腕に添えられた。
しっとりと汗ばんで、少しひんやりする手のひらの感触に鼓動が高鳴る。
「危ない目にあわせてしまった」
「でも、半助さんが来てくれるって……信じてました。だから、」
「君に何があっても必ず助けに行く。……もう、大切な人を失いたくないんだ」
「っ……! あ、あの、それは」
「いや、そんな事にはならないな。……そうはさせない」
彼女のほんのり甘い香りが鼻腔を掠めると、つい心の奥で恐れていることを漏らしてしまった。自嘲気味に笑うと、まわした腕に一層力を込める。その気持ちを受け止めるかのように、添えられた小さな手が僅かに動いた。
「……前に、半助さんに教えてもらったこと。ちゃんと実践できました」
「それはすごいが、危険なことはしないでくれ」
「……わたしって、くのいちになれますか?」
「だ、だめに決まってるだろう!?」
「半助さん、お静かにっ……! 冗談ですから」
「……す、すまない」
君は戯れるようにわざとふざけて。くすくす笑っているのか、肩が小さく揺れている。焦ってしまった恥ずかしさを誤魔化すように、名前さんの頭にコツンとあごを乗せた。
「重いです!」なんて身を捩って抜け出そうとするけれど、そんな抵抗ではびくともしない。
ここに居てくれる、その存在を確かめるようにぎゅっと腕に閉じ込めながら、温もりを感じていたのだった。
毎日茹だるような暑さなのに、朝は爽やかな風が吹き抜けて心地よい。
朝ご飯のうつわをたらいに入れて、井戸水をじゃぶじゃぶと注いでいく。響く水音や飛び散る水滴が涼しげで目を細めた。
半助さんときり丸くんと過ごす長屋暮らしは、アルバイト三昧だけどとても楽しい。毎日があっという間に過ぎ去っていくようだった。
今日もまた、うどん屋で給仕の仕事がある。
……きり丸くんもだから一緒に行こう。
かちゃかちゃと洗いながら、よーしっ!と気持ちを奮い立たせた。
「名前さん、私も手伝うよ」
「あっ、半助さん!すみません」
「いや、君に任せてばかりで悪いね」
「あれ、優しいんですね?」
「……っ!」
背後から半助さんの柔らかな声が聞こえて振り返ると、勝手口からこちらに向かってくるところだった。気遣ってくれたのが嬉しくて、少し意地悪を言ってはその反応にクスッとする。半助さんは照れ笑いをしながら頭をくしゃっと掻いた。
ふたり並んでしゃがみながら、ゴシゴシとうつわを洗っている。
ちらりと隣に目をやると、めくった袖から覗くたくましい腕にドキドキしてしまう。鼓動を落ち着かせるように、たらいの水をピチャピチャと玩ぶ。
……もう少ししたら、家を出ないといけない時間だ。
「きり丸くんは、出かける支度してました?」
「きり丸は犬の散歩も引き受けたみたいだよ。さっき、急いで飼い主の家へ向かっていったところだ」
「そうですか、忙しいですねぇ」
「散歩させるのは私なんだが……」
「あはは、暑いのに大変だっ」
なんだかんだ言って、きり丸くんのバイトを手伝ってあげている。そんな二人のやりとりを眺めるのが好きだった。……まるで親子みたいだなって。
そういえば、半助さんの郷里はどこなのだろう。こんなに素敵な人が生まれ育った場所はきっとのどかで、ご両親はとても温かい方なんじゃないかな。
私にも、そんな存在がいるはずなのに。何もかも記憶がないことを思い知らされ、切なくなる。
冷んやりとした水の温度を指先に感じながら、少し羨ましい気持ちで隣を見つめた。
「……半助さんは、ご実家に帰らないのですか?」
「え、いやあ、その……」
「男の人って、なかなか帰らないですよねー」
「そういうわけじゃないんだが……」
「きり丸くんと一緒にお留守番しますよ?」
「私の家はここだけだから。……さっ、全部洗い終わったぞ!」
からかいながら顔を覗き込む。
一瞬、優しい表情に影が見えた気がしてハッと息を呑んだ。でもすぐにいつもの半助さんに戻って。見間違いかもしれない。
そうこうしている内に、サッとうつわを引き上げ家へと向かってしまった。
「どうしたんだい?早くしないと遅れるよ」
「は、はいっ……!」
半助さんは大きな手で食器を抱え、ふわりとほほ笑みながらこちらを振り返っている。割烹着の裾で手を拭うと、慌ててその後を追った。
*
「きり丸くん、今日も頑張ろうね!」
「はい!」
髪が隠れるように手ぬぐいを頭に巻き、袖が邪魔にならないようたすき掛けにすると、二人で気合いを入れる。
「名前さん。もう少ししたら、お勘定も任されそうじゃないっすか?」
「ええっ。銭のこと、苦手だからな。そうなったら教えてね」
「いいですけど……?」
不思議そうに見つめられ、平静を装う。
うどん屋のアルバイトもだいぶ板についてきて、料理を運びながら注文を取ることだって上達した。何度も来てくれるお客さんに話しかけて、またお待ちしてますね!なんて営業もしちゃって。
でも、銭を数えるのはなかなか慣れない。欠けたものは価値が下がる、それを見分けるのに一苦労だ。
「きり丸くん、早く行こっ」
さあさあ!と小さな背中を押して、店内へと小走りで向かった。
――今はお昼で一番忙しいとき。
お店にはひっきりなしにお客さんがやってきて、うつわを下げたり注文を取ったりバタバタだ。
「はぁい、お待たせしましたっ」
お盆にうどんをのせてパタパタと店内を駆け回っていると、奥からガッシャーンと何かが崩れて粉々になるような、鋭い音が響いてきた。
……どうしたんだろう?!
ケガしてないといいんだけど……。
失礼しました!とお客さんに謝りつつ、ささっとうどんを渡して回ると、急いで音のした方へと駆けていく。
きり丸くんに何かあったら……。
そうじゃなくても心配だ。
調理場から勝手口へとキョロキョロしながら進むと、困った顔の店主とガーンと青ざめた顔のきり丸くんが佇んでいた。
「だ、大丈夫っ?!」
「うわーん、名前さぁん!」
「まったく、困ったなあ」
足元に割れたうつわがいくつも転がって、細かい破片があちこちに飛び散っていた。
ひとまず、どこもケガはしていないようで胸を撫で下ろす。おいおい泣くきり丸くんにどうしてあげたら良いか分からない。
何があったのか事情を聞くと、早く運ぼうとうつわをたくさん抱えたせいで、バランスを崩し落としてしまったようだ。
店主のおじさんと三人で片付けている途中、向こうからお客さんが入ってきたのが見える。店主が急いで接客に向かい、きり丸くんと二人きりになった。
「そんなに泣かないで……」
「で、でもぉ……。割った分、バイト代から引かれちゃうんですー!うわーん!」
「そ、そうなの?!……私のバイト代から出してあげるからっ」
「ありがたいですけど、銭が減らされるなんて耐えられないっすー!」
「割っちゃったものは仕方がないよ。きり丸くんにケガがなくて良かった」
「名前さん……」
「片付けは危ないから、あとは私がやるね。きり丸くん、残りのうつわ運んでくれるかな?」
大丈夫というふうに頷いて、せっせと破片を片付けていく。全部拾い上げてほうきで掃くと、うーんと大きく伸びをして固まった身体をほぐす。
しばらくすると、店主のおじさんが様子を見に戻ってきた。片付けの報告と、割ってしまったことを改めて謝る。
「よく働いてくれているところ、心苦しいんだが……。すこしだけ、お給料から引かせてもらうよ」
「たくさん割ってしまったのにすみません。きり丸くんにも、気をつけるように言っておきますね」
小さく頭を下げてから、またお客さんで溢れる店内へ戻っていった。
*
――空が赤く染まりかけ、街の人々が家路につく頃。
半助さんの長屋へ続く道を、きり丸くんと並んで歩いている。人通りは少なく、遠くに連なる山々をのんびり眺めながら進んでいた。
ひと仕事終えたあとの空気は一段と美味しく感じられ、ふぅっと深呼吸をする。
「今日は色々と大変だったね」
「ほんと、ついてないっす」
「そういう日もあるよ」
「……ちぇっ」
口を尖らせて不服そうにする顔が、ちゃんと十歳の子どもらしい仕草で。本当は嗜めるべきなのかもしれない。でも、自分に甘えてくれたのが嬉しくてぽんぽんと頭を撫でてあげた。
「今日も美味しい夕飯つくるから、いっぱい食べて元気出そっ」
「ありがとうございます!……でも、やっぱり悔しいっ!」
まあまあ……なんて苦笑しながら慰めていると、きり丸くんが足元の石をえいっと蹴り上げる。それは弾みをつけてコロコロ転がっていった。
すると、少し離れた向かいから男の野太い怒号が聞こえる。ビクリとして声のする方を見つめた。
「おおい!誰だ、石をぶつけて来たのは!?」
だらしない着物姿の無精髭を生やした男二人組が前方からどかどかと大股でこちらにやってくる。
……二人とも腰に刀をぶら下げて、歩くたびにカチャカチャ響く鋭い音が不安を煽る。
「……こっちにくるっ」
「まずいっすね……!」
周りに助けてくれそうな人もいない。
もし、きり丸くんが酷い目にあったら……!
小さな手を掴むと、ぎゅうっと固く握りしめる。大丈夫だよ、という気持ちが伝わってくれたらいいけれど……。
「あのっ、大変失礼しました!」
「おおい、お前のガキか?まったく、躾がなってないなあ。……どう落とし前つけるんだ?」
「お、落とし前って……!」
「石を蹴り飛ばされて痛かったよなあ?」
「ああ。このままそうですか、で終われねぇなあ」
「ど、どうしたらっ……!」
きり丸くんを庇うように前に出ると、小さな身体ががしっと背中にしがみついてくる。私も怖いけれど、絶対に守らなきゃ。もうその気持ちだけで突き進む。
「そうだなあ。身ぐるみを剥がしてやるか、そのガキを寄越すか……お前でもイイぞ? 売り飛ばしたらいい値がつきそうだ」
「……っ!」
何て最低なこと言うのだろう……。
もう、こんな人達相手に話していたって埒があかない。きり丸くんだけでも、何とか逃さないと……!
「……じゃあ、私をどうぞ」
「ちょ、ちょっと!名前さんダメですってば!」
「……大丈夫だから。心配しないで」
「ほう、随分と物分かりがいいな」
「こっちだ! ついてこい!」
きり丸くんにコソッと耳打ちして、目を見つめ頷く。
早く逃げるように伝えるけれど、ためらっているのか着物を掴んで離さない。突き放すようにぐいっと強く背中を押すと、覚悟を決めたのか一目散に駆けていった。
……きっと、半助さんに何があったかを報告してくれるはず。
「そんなに引っ張らなくてもついて行きますから……!」
「ふんっ、信用ならねえ!」
片腕を捕らえられ、引き摺られるように来た道を反対側に歩いていく。この方向は街へ向かっているのだろうか。売り飛ばすって、どういうこと……?
「……どこに行くのですか?」
「お前だったら、遊女屋なんかどうだ?」
「お、そりゃあいいな!」
……どうしよう。
前に山賊にあったときは、伊作くんと崖下に逃げられた。けれど、ここでは通用しない。
鼓動がバクバク鳴り響いて、冷や汗がたらりと背中を伝う。夏の暑い中、震える手はとてつもなく冷え切っていた。
何か良い手はないかと思案を巡らせる。
……雅之助さんに初めて会ったとき。
あのとき、私の髪を見つめて「寺から逃げてきたのかと……」なんて変なことを言っていた。たしかに街の女性とは違って短く、風変わりだった。
しかも、この状況は。
以前、半助さんに教えてもらった体術が使えるかもしれない……!
もし失敗しても、きっと助けに来てくれると信じている。そう無理やり思い込んで、自分を鼓舞した。
黙って連れ去られるわけにはいかないのだ。もう、戻れない可能性だってある。命だって、むごたらしく奪われてしまうかもしれない。
けれど、私が無茶をしたせいできり丸くんを悲しませたら……? そんな恐怖感を振り払うように唇をぐっと結ぶ。
もう、一か八か、やってみるしかなかった。
「……そう、ですか」
「なんだ!なんか文句あるのか?」
「文句ではないのですが……」
無理やり引かれる腕に、進まされる足に。半助さんに教えてもらったことをもう一度思い出し、頭の中でその動きを確かめる。
手のひらに力を込めると、引っ張られる腕の力に向かってグッと押しながら捻っていく。うめき声をあげながら、ドサッと男が地面に倒れ込む。もう一人の男の怒鳴り声が響いた。
ぱさりと頭に巻いた手ぬぐいを脱ぎ捨て、髪を振り払う。肩につくくらいの毛先が風になびいた。
「先ほどの子ども、身寄りがないのです。お仕えしている尼寺の庵主さまのもとへ、連れて行くところでして」
両手の拳を握りしめて、ガクガク膝が笑うのを堪える。
本当は目を逸らしたい。けれど、キッと睨みつけるように真っ直ぐ男達を見つめた。二人組はバツの悪そうな顔をしてたじろぐと、行くぞと吐き捨てて慌てて去って行った。
その姿が見えなくなるまで、呆然と立ちつくす。
この髪型のせいで尼だと思い恐れたのか。信心深いのか、面倒なことになりそうだと思われたのか……。
まさか、体術が上手くいくなんて思わなかった。無事にやり過ごせるなんて、狐につままれたような不思議な感じだ。
まだ激しい動悸のせいで呼吸が苦しい。
暗くなりかけた空の下、手ぬぐいを握りしめて半助さんの待つ家へトボトボと歩いていく。
……きり丸くん、無事にお家に帰れただろうか。
「おいっ!大丈夫だったか!?」
地べたを眺めていた視線を、声のする方へ向ける。
その姿を見つけると、一気に緊張が解けて思わず走り寄ってしまった。気持ちばかり焦って足が絡まり転げそうだ。
半助さんっ……!
声にならない声で呼びかける。二人でしっかり抱き合うと、やっと生きた心地がした。
……もう、大丈夫だ。
包み込んでくれる大きな身体は息が切れ、汗が滴り燃えるように熱かった。
必死に駆け付けてくれたのだと思うと、心がぎゅっとなって涙がこぼれそうになる。
「名前さんっ!ごめんなさいっ、ぼくのせいで……!」
「きり丸くんっ!……よかった」
遅れてあとを追いかけてきたきり丸くんを確認すると、ヘナヘナと座り込んでしまいたくなるくらいホッとした。
半助さんときり丸くんと三人で抱き合う。
「……五車の術と体術で、うまく乗り切ったよ」
そっと身体を離し、安心させるようにニッと笑って、また二人をぎゅっと抱きしめた。
*
――夜
勝手口から黒い空を眺め、湿気った暖かい風に吹かれていた。漆黒の闇に月明かりが差し込み、わずかに辺りが浮かび上がる。
目が冴えて落ち着かない。
こそっと寝床を抜け出し、今日のことをぼーっと思い返していた。たぶん、半助さんには気付かれているかもしれない。
あれから、ふらふらした足取りで家に戻って、よく働かない頭で夕飯を作って……。手を動かしたら気が紛れると思ったのに、そんなことはなかった。
大丈夫なんて強がってみたけれど、やっぱり怖い。思い出したくないのに、ふとあの光景が頭をよぎる。
きり丸くんはひたすら謝って……。逆にこちらの心が痛んでしまうというのに。大切だからこそ、守りたいと思うのは当然のことだった。
食堂のおばちゃんみたいに、もっと肝が据わっていないとダメだな、なんて苦笑しながら灰色の雲を見つめる。
……早く、戻らないと。
「名前さん」
「は、半助さんっ……?」
深く息を吸って気持ちを落ち着かせていると、後ろから声を掛けられ肩がピクリと震えた。振り返ることができぬまま、流れる雲に向けていた視線を足元に落とす。
「眠れないのだろう?」
「はい。でも、今戻ろうと思ったところで……!」
半助さんの顔は見られない。
こんな頼りない姿を見せたら、きっとまた心配させて困った顔をさせてしまう。そんな自分が悔しくて、寝巻きの裾をかたく握った。
「一緒に、こうしていよう」
じっと俯く名前さんを、背後からそっと抱きしめた。すっぽりとうずまる小さな肩に、胸が締め付けられる。
勝手口から少し中庭に出たところに、名前さんは佇んでいた。その後ろ姿は白い寝巻きがぼんやりとして、今にも儚く消えてしまいそうだ。そんな彼女を見たせいか、気持ちが止まらない。
「……頼りなくて、ごめんなさい」
「しっかり、きり丸を守ってくれたじゃないか。少し、無茶しすぎだが」
「だって……。私と同じで独りだから、守らなきゃって」
「……知っていたんだね」
きり丸と同じ、独りぼっちの境遇を重ね合わせる名前さんに、何もしてやれずもどかしい。その辛さは、自分も嫌というほど味わってきた。
家に戻ってから、君がきり丸を心配させないように、何ともないような顔をして笑っていたのも。
大丈夫大丈夫、なんてさらりと笑顔のまま言い放ち、きり丸にそれ以上何も言えなくさせていたのも。
布団の中で何度も何度も寝返りを打って、眠れないことだって。
……全部、分かっていたんだ。
そろりと名前さんの手が私の腕に添えられた。
しっとりと汗ばんで、少しひんやりする手のひらの感触に鼓動が高鳴る。
「危ない目にあわせてしまった」
「でも、半助さんが来てくれるって……信じてました。だから、」
「君に何があっても必ず助けに行く。……もう、大切な人を失いたくないんだ」
「っ……! あ、あの、それは」
「いや、そんな事にはならないな。……そうはさせない」
彼女のほんのり甘い香りが鼻腔を掠めると、つい心の奥で恐れていることを漏らしてしまった。自嘲気味に笑うと、まわした腕に一層力を込める。その気持ちを受け止めるかのように、添えられた小さな手が僅かに動いた。
「……前に、半助さんに教えてもらったこと。ちゃんと実践できました」
「それはすごいが、危険なことはしないでくれ」
「……わたしって、くのいちになれますか?」
「だ、だめに決まってるだろう!?」
「半助さん、お静かにっ……! 冗談ですから」
「……す、すまない」
君は戯れるようにわざとふざけて。くすくす笑っているのか、肩が小さく揺れている。焦ってしまった恥ずかしさを誤魔化すように、名前さんの頭にコツンとあごを乗せた。
「重いです!」なんて身を捩って抜け出そうとするけれど、そんな抵抗ではびくともしない。
ここに居てくれる、その存在を確かめるようにぎゅっと腕に閉じ込めながら、温もりを感じていたのだった。