第31話 君に酔う
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名前さんが家に来てくれて、浮き立つ気持ちを抑えきれない。
――最初の数日はそうだった。
一緒にきり丸のバイトを手伝ったり、街へ買い物に行ったり……なんてちょっと期待していたのに。
いざ夏休みを過ごすとなったら、名前さんはうどん屋の給仕でほとんど出掛けてしまっている。もう、客として会いに行きたいくらいだ。しかも、空いた時間にはきり丸の宿題を見てあげていた。
名前さんと一緒に過ごせない、もどかしい状況にガックリと肩を落とす。それでも、筆先をくるくると糸で巻いていく作業の手は止められないのだ。
朝から作り続けて、一段落つく頃。
彼女が作り置きしてくれたおむすびをかじると、ほんのり塩の味が疲れた身体に染みわたる。
いまは昼時だから……。
一所懸命に注文を聞いて、忙しそうにうどんを運んで……。そんな彼女の姿を想像すると自然に笑みがこぼれる。きり丸は、団子屋の売り子をしていると言っていたか。
よし、もうひと頑張りだ。
*
筆の内職も何とか終えて、格子のすき間から空を見上げる。厳しく照りつけた日差しもその勢いを弱め、もうじき綺麗な夕焼けが見られそうだ。
……きり丸の様子も気になるし、名前さんを店まで迎えに行こうか。
戸締りをして、内職で凝り固まった体をほぐすように伸びをする。ふぅと息を吐くと、街の方へ足を進めていった。
夕暮れ前だからか、人々の往来が忙しない。すれ違う人を避けていくと、遠くから子どもの声が聞こえてくる。
「上等なお酒ですよー! いかがっすかー!」
……この声はきり丸か?
あいつ、こんなところで何してるんだ!?
何事だ、と足を止める人集りをかき分けて、今すぐ止めさせるべくズカズカと大股で歩いていく。人垣のすき間からは、すこし汚れた着物の少年が見えた。
「おい、きり丸! いったい何のまねだ!?」
「土井先生っ! 物々交換、あわよくば売れたらと思いまして……」
きり丸がバツの悪そうな顔で言い訳をしているが、気にせず道ばたに連れ出し叱り飛ばす。
「何で子どもが酒なんか持ってるんだ!」
「いやぁ、実は……。名前さんが持たせてくれたおむすびを食べたから、バイト先からもらった弁当が余っちゃいまして。物々交換したら、生米になって、さっきお酒になったところっす」
「まったく……。もうじき日が暮れるから帰るぞ!」
「えー。でもお酒なんか持ってても困りますしー」
「……分かった分かった。私が買うから! それで良いだろう!?」
「まいどありー! あひゃあひゃっ」
何できり丸から酒を買わなきゃならんのだ……!腹の底からため息を漏らしそうになる。
でも、よくよく考えるとこれは……。
これはある意味チャンスかもしれないぞ。変に想像を巡らせて、にやにやが止まらない。
「さあ、名前さんを店まで迎えに行こう」
「はーいっ!」
ひょうたんの入れ物を風呂敷に忍ばせると、きり丸と二人でうどん屋へと向かった。
*
店の前に着くと、中をチラリとのぞく。
たすき掛け姿で、汗を拭いながら客と談笑している名前さんが見えた。
ずいぶん客と距離が近い気がする。わざわざ屈んで、そんなに顔を近づけなくてもいいんじゃないのか? 男の方はだらしなく鼻の下を伸ばして……。
「土井先生っ! 顔が怖いっす」
「そ、そうか?」
ついつい、眉をひそめて怖い顔になっていたかもしれない。せっかく彼女と二人で和気あいあいと内職できると思ったのに……! 知らない男に笑いかけているなんて。
「あれっ、きり丸くんに半助さん!」
「名前さん、お疲れさまー!」
「大変だったね」
私たちに気がついたのか、彼女がこちらに手を振っている。急に名前で呼ぶなんて反則だろう!? その嬉しそうな無邪気な姿に、先程のイライラした気持ちがすっと消え去っていく。
「お二人とも。もう少しで終わるので、ちょっと待っててくださいね」
「はーいっ、待ってまーす!」
きり丸と店を出た端で、赤く染まっていく空を眺める。名前で呼んでくれたのは、人前で先生なんて言えないからだと分かってはいるのに。嬉しさにほほが緩むのを抑えきれない。なんて単純なのだろう。
「土井先生。さっきからしかめっ面したりにやにやしたり、忙しいっすね」
「い、いや、そんなことは……!」
「名前さんのこと考えてたんでしょう? まあ、頑張ってください」
「応援するなら、名前さんのバイトを少しは減らしたらどうだ!?」
「ええー!? それは出来ない相談です!」
「何が出来ないのっ?」
「「名前さん!」」
「いや、何でもない」
「そーそー、気にしないでください!」
きり丸と話し込んでいたら、彼女が急に入り込んできて驚きつつ振り返る。私たちの顔を交互に見つめてにこにこするその仕草に、心臓が掴まれたようにドキリとした。
「お待たせしちゃってすみません」
「気にしないで大丈夫だ。一緒に帰ろうか」
*
空が暗い紫色に染まって、星が小さく瞬くころ。
夕飯を食べ終え、名前さんが井戸のあたりで洗い物をしている。しゃがんでいるからか、その後ろ姿は小さく頼りない。手伝うつもりのはずが、ぼんやり眺めていた。
こんな光景が、これからも続いていけばいいのに。勝手口にもたれながら、そんなことを考えてしまう。
「あれ? 土井先生、どうされました?」
「……せんせい、か」
「……?」
「いや、片付けを任せてしまってすまない」
「気にしないで大丈夫ですから」
「きり丸が寝たあと……少し良いかい?」
「いいです、よ……?」
「君も、一緒に付き合ってくれると嬉しいんだけど」
――夜
少しふっくらとした月が、漆黒の闇に浮かび上がっている。
三人で床に就くと、きり丸はバイトで疲れ果てたのかコロッと寝入ってしまった。
しゅるりと布が擦れる音が室内に響く。
名前さんが寝返りを打ったのだろうか。その微かな音でさえ、彼女がすぐそばに居ると認識させられて鼓動がうるさい。
「……起きてるかい?」
「……はい」
そっと布団から抜け出すと、名前さんも体を起こしていた。
月明かりだけの暗い部屋の中。
つまずかないように手を繋いで、居間へと連れ出す。
燭台に火を灯すと、小さな炎が湿ったぬるい風にゆらめいた。囲炉裏をあたりに腰を下ろし、名前さんも少し離れて隣に座る。何を言われるのだろう、と戸惑っているようだ。
「疲れているのに悪いね」
「土井先生にあんなこと言われたら……。眠れないです」
「土井先生?」
「えっ、あ……はんすけ、さん」
自分で呼ばせておいて、嬉しくて口元が緩む。はにかみながら言う姿も可愛いけれど……。本当はもっと自然に呼んで欲しい、なんて欲張りだろうか。
「じつは、かくかくしかじかで……酒が手に入ったんだ」
「それはまた、きり丸くんらしいですねぇ」
「まったく、参ってしまうよ」
「あはは。私、お酌しますっ」
相変わらずのきり丸に困ったように笑って、風呂敷からひょうたんの入れ物を取り出す。名前さんはにこにこしながら、受け取ろうと手を伸ばしてきた。
……参ってしまうなんて嘘だ。
君にお酌してもらって、あわよくば酔った姿を見てみたいなんて考えている。もしかしたら、大木先生との秘密の話をぽろっと漏らしてくれるかもしれない。
名前さんはこちらに近寄り、よいしょと正座の足を崩していた。お猪口にとくとくと透明の液体を注いでもらうと、こくりとひと口であおっていく。じっとこちらを見つめてきて……飲みたいのだろうか。
「ほんのり甘くて、美味しいな」
「甘いんですか……!」
「飲んでみるかい?」
「い、いえっ! それはダメです……!」
「飲みたそうな顔してるのに?」
「……だって、半助さんに嫌われちゃいます」
「嫌われるなんて、またどうして?」
思ってもみない方向に話が進み何故だか気になって仕方がない。言いにくそうにもじもじする彼女から、どんな言葉が出てくるのだろうか。
「お酒、大木先生と飲んだとき……。酔って、ずっと大笑いしてたぞって言われたんです」
「……一緒に飲んだのか」
「私はそんな風になった記憶はないんです! でも、土井先生に嫌われちゃうぞって、言われて。……お酒は飲むなよって」
さては、そうやって私と酒を飲ませないように仕組んだな。大木先生……なんと狡い言い方だろう。でも、嫌われたくないと思われているのは嬉しい。自惚れてしまいそうになる。
「そんな姿だって可愛いじゃないか。嫌いになるだなんて」
「でも……」
「こんなに美味しい酒は……なかなか手に入らないだろうなぁ」
うーん……と葛藤する君を、私はきっと下心ありありの目で見てしまっているだろう。
……あともう少しで堕ちそうだ、なんて。
「……じゃあ。少しだけ、いただきます」
「付き合ってくれて嬉しいよ」
ひょうたんの入れ物を傾けて、お猪口へなみなみと注いでやる。
そっと口元まで運ぶと、桜色の唇でちゅうっと酒をすすって。お猪口に添えられるほっそりした手指まで色っぽく見える。
美味しいようで幸せそうに目を細め、濡れて鈍く光る唇をぺろりと舐める。チロリとのぞく柔らかそうな赤い舌に、思わず息を呑んだ。
「んー。お米の甘さが美味しいですっ」
「そうだろう? さあ、遠慮しないで」
「半助さん。……私を酔わせてどうするつもりですか?」
試すような目で見つめてきて、くすくす笑っている。どうするつもりかなんて、考えたら止まらなくなりそうだ。
……酒のせいにして、どこまで触れて良いのだろうか。君は、どこまで受け入れてくれるのだろう。
「これは、ダメだと言われるわけだな」
「……え? なんですか?」
「いや、何でもない」
「はいっ。お注ぎしますよ?」
しばらく二人で酒を注ぎあって、ちょっとしたことで笑って、いつの間にか心も身体も距離が近くなる。
名前さんは腕に寄りかかって、時折りこちらを見上げて楽しそうに微笑むと、私の痛んだ髪を細い指に絡めて弄んでいた。柔らかい女性の体つきと火照った体温が薄い布越しに伝わり、まるで誘われているかのような錯覚に陥る。
「そうだっ、半助さん。このまえ、途中で半助さんがいなくなっちゃったから、通販で失敗しちゃったんですよ?」
「そうだったのか」
「すっきりした袴じゃなくて、スーッとした薄荷が届いちゃって。……えへへ」
「ずいぶんへっぽこだな」
「ひどいですー」
ペタペタと触れてきて、無邪気に笑っている。普段とは違う砕けた話し方も、その子どもみたいに拗ねる姿も……大木先生に見せたのだろうか。そう思うと、胸の奥がチクリと痛む。
「大木先生を見送る前……二人で何をこそこそ話してたんだい?」
「えっと、さっきも言いましたけど……。お酒は飲むなって」
「いいのか? ……だいぶ飲んじゃったけど」
「あ、あのっ、ひみつにしてください!」
「うーん、どうしようかなあ」
「おねがいです……!」
ほほに張り付く髪に、汗ばんだ首筋に。暑さではだけた胸元からは少し膨らみがのぞく。潤んだ瞳で懇願されたら、このまま組み敷いてしまいたくなるじゃないか。
秘密にするかわりに何をしてもらおう……?
最低なことを考えて体の中心が熱くなる。
「はんすけ、さん……?」
小首を傾げて覗き込まれると、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐって……。彼女をもっと近くに感じたくて、もう我慢の限界だった。
……小さな肩をぐいっと掴もうとした瞬間。
「……ヒッく、」
「……っ!?」
「ご、ごめんなさいっ! しゃっくりが……、ひっく」
なんで、このタイミングなんだ!?
でも、苦しそうに胸を押さえる名前さんに……イタズラしてみたくなる。
「止めてあげよう」
「……えっ?」
赤く染まるほほを両手で包み込むと、前髪が彼女に触れそうな近さまで顔を寄せた。じっと見つめると少し驚いて、恥ずかしそうに視線を逸らす仕草に煽られる。
「しゃっくりしたら、口付けてしまいそうだね」
「……っ! んっ……、ぅん…ん」
意地悪な言葉は、気持ちの昂ぶりからか僅かに掠れる。名前さんはぎゅっと目を瞑って、必死に息を止めていた。その苦しそうな表情が、まるで身悶えているかのようで堪らない。
あと少しだけ、このままで……。
我慢なんかしないで、その唇が触れてしまえばいいのに。
「んん……っ!」
パッとほほを挟んだ手を離すと、名前さんはガクリと崩れ落ちて肩で大きく息をしている。
「ふっ……はぁ、っ……ひっく」
「……もう一回、やってみるかい?」
「だ、だめです……!」
少しイジメすぎたか。
赤い顔で睨まれて、それさえも可愛くてしょうがない。
「……その、からかい過ぎた。すまない」
「……もうっ」
衝動的にあんな事をしてしまった。ふと我に返って、今更恥ずかしくなる。自分でお猪口に酒を注ぐと、そんな気持ちを消し去るようにグイッと一気に飲み干していった。
*
……半助さん、寝ちゃったのかな?
ほほを解放されたら、二人で恥ずかしくなってお酒をあおるばかりで。でも、生暖かい風に吹かれて静かに過ぎていく時間は心地よい。
しゃっくりはいつの間にか止まっていた。そのうち、半助さんがこくりこくりと船をこいでコトンと肩にもたれてくる。
……お酒という誘惑に負けて、雅之助さんの言いつけを破ってしまった。
透明の液体はほんのり甘くて、喉元からお腹に入り込むと、かあっと熱く燃えるようだった。お酒のせいなのか、半助さんのせいなのか……。楽しかったはずなのに、いつの間にか身体が火照ってどうしようもない。
だって、あんなに近い距離で。もし、少しでも動いたら……。しゃっくりが出ちゃったら……。変な想像をして手のひらに汗がにじむ。
肩口に寄りかかられ、もさもさの髪が顔に当たってくすぐったい。崩した膝の上に頭をのせて膝枕にしてあげると、穏やかな顔ですーすー寝ている。
痛んでごわついた茶色い髪をくるくると指に巻き付け好きなように遊ぶ。長い前髪から覗くスッとした鼻筋と、柔らかなほほ。男の人なのに色っぽくて、ちょっとずるい。
いつもは忍たま思いの真面目な先生なのに。私のこと、心配して守ってくれるのに。こんなに甘えたり、意地悪してくるのが可愛いけれど……。そんな姿は私の前だけだと嬉しいな、なんて出過ぎたことを思ってしまう。
半助さんの寝顔を見ていたら、私も眠くなって……。ほんの少しの間だけ、まぶたを閉じた。
*
床に直接寝てしまったからか、身体がこわばって痛い。昨日は、名前さんにあんなことを……! もやがかかる頭で思い出すと、顔から火が出そうだ。
横たわりながらうっすらと目を開けると、朝日が少し差し込んでいるのか、部屋がほんのり明るくなっていた。
少し目線を上げると、すぐ近くに白いものがあって……
名前さんの太ももか!?
彼女もそのまま眠ってしまったようで、床に横たわっている。少し上にずれて、向き合うようにごろりと寝転ぶ。目の前の、あどけない寝顔をじっと見つめる。
「……んっ」
「起きたかい?」
一瞬目を開けたと思ったら、そのまま眠り込んでしまった。
そっと柔らかな髪を撫でると、なんだか幸せで。もう少しだけ、こうしていたくなる。ひととき、目を閉じるだけだと言い訳をして、再びまどろむのだった。
(おまけ)
――ガタッ!
「ちょっとー! 起きてくださいよー!」
「……っ!?」
ま、まずい。彼女の頭を撫でながら二度寝してしまった。パチリと瞬きすると、目の前には眠そうな名前さんの顔があって……。
慌てて飛び起きると、きり丸が仕切りを勢いよく開けて仁王立ちで怒っている。
「うわぁ、何だ急に!」
「何だじゃないっすよ! お酒も飲みっぱなしで、灯りだって付けっぱなしだったんでしょう!?」
「……ご、ごめん! きり丸くんっ!」
名前さんはがばっと体を起こすと、事態を把握するためかキョロキョロしている。床には、お猪口と酒が入っていたひょうたんがだらしなく転がっていた。
「私ったら、そのまま寝ちゃって……!」
「まったく、二人ともしっかりしてくださいよー!」
「「……反省してます」」
大の大人が十歳の子に朝から叱られて、二人で正座して縮こまっている。名前さんとこっそり顔を見合わせると、互いに赤くなりながら苦笑いするのだった。
――最初の数日はそうだった。
一緒にきり丸のバイトを手伝ったり、街へ買い物に行ったり……なんてちょっと期待していたのに。
いざ夏休みを過ごすとなったら、名前さんはうどん屋の給仕でほとんど出掛けてしまっている。もう、客として会いに行きたいくらいだ。しかも、空いた時間にはきり丸の宿題を見てあげていた。
名前さんと一緒に過ごせない、もどかしい状況にガックリと肩を落とす。それでも、筆先をくるくると糸で巻いていく作業の手は止められないのだ。
朝から作り続けて、一段落つく頃。
彼女が作り置きしてくれたおむすびをかじると、ほんのり塩の味が疲れた身体に染みわたる。
いまは昼時だから……。
一所懸命に注文を聞いて、忙しそうにうどんを運んで……。そんな彼女の姿を想像すると自然に笑みがこぼれる。きり丸は、団子屋の売り子をしていると言っていたか。
よし、もうひと頑張りだ。
*
筆の内職も何とか終えて、格子のすき間から空を見上げる。厳しく照りつけた日差しもその勢いを弱め、もうじき綺麗な夕焼けが見られそうだ。
……きり丸の様子も気になるし、名前さんを店まで迎えに行こうか。
戸締りをして、内職で凝り固まった体をほぐすように伸びをする。ふぅと息を吐くと、街の方へ足を進めていった。
夕暮れ前だからか、人々の往来が忙しない。すれ違う人を避けていくと、遠くから子どもの声が聞こえてくる。
「上等なお酒ですよー! いかがっすかー!」
……この声はきり丸か?
あいつ、こんなところで何してるんだ!?
何事だ、と足を止める人集りをかき分けて、今すぐ止めさせるべくズカズカと大股で歩いていく。人垣のすき間からは、すこし汚れた着物の少年が見えた。
「おい、きり丸! いったい何のまねだ!?」
「土井先生っ! 物々交換、あわよくば売れたらと思いまして……」
きり丸がバツの悪そうな顔で言い訳をしているが、気にせず道ばたに連れ出し叱り飛ばす。
「何で子どもが酒なんか持ってるんだ!」
「いやぁ、実は……。名前さんが持たせてくれたおむすびを食べたから、バイト先からもらった弁当が余っちゃいまして。物々交換したら、生米になって、さっきお酒になったところっす」
「まったく……。もうじき日が暮れるから帰るぞ!」
「えー。でもお酒なんか持ってても困りますしー」
「……分かった分かった。私が買うから! それで良いだろう!?」
「まいどありー! あひゃあひゃっ」
何できり丸から酒を買わなきゃならんのだ……!腹の底からため息を漏らしそうになる。
でも、よくよく考えるとこれは……。
これはある意味チャンスかもしれないぞ。変に想像を巡らせて、にやにやが止まらない。
「さあ、名前さんを店まで迎えに行こう」
「はーいっ!」
ひょうたんの入れ物を風呂敷に忍ばせると、きり丸と二人でうどん屋へと向かった。
*
店の前に着くと、中をチラリとのぞく。
たすき掛け姿で、汗を拭いながら客と談笑している名前さんが見えた。
ずいぶん客と距離が近い気がする。わざわざ屈んで、そんなに顔を近づけなくてもいいんじゃないのか? 男の方はだらしなく鼻の下を伸ばして……。
「土井先生っ! 顔が怖いっす」
「そ、そうか?」
ついつい、眉をひそめて怖い顔になっていたかもしれない。せっかく彼女と二人で和気あいあいと内職できると思ったのに……! 知らない男に笑いかけているなんて。
「あれっ、きり丸くんに半助さん!」
「名前さん、お疲れさまー!」
「大変だったね」
私たちに気がついたのか、彼女がこちらに手を振っている。急に名前で呼ぶなんて反則だろう!? その嬉しそうな無邪気な姿に、先程のイライラした気持ちがすっと消え去っていく。
「お二人とも。もう少しで終わるので、ちょっと待っててくださいね」
「はーいっ、待ってまーす!」
きり丸と店を出た端で、赤く染まっていく空を眺める。名前で呼んでくれたのは、人前で先生なんて言えないからだと分かってはいるのに。嬉しさにほほが緩むのを抑えきれない。なんて単純なのだろう。
「土井先生。さっきからしかめっ面したりにやにやしたり、忙しいっすね」
「い、いや、そんなことは……!」
「名前さんのこと考えてたんでしょう? まあ、頑張ってください」
「応援するなら、名前さんのバイトを少しは減らしたらどうだ!?」
「ええー!? それは出来ない相談です!」
「何が出来ないのっ?」
「「名前さん!」」
「いや、何でもない」
「そーそー、気にしないでください!」
きり丸と話し込んでいたら、彼女が急に入り込んできて驚きつつ振り返る。私たちの顔を交互に見つめてにこにこするその仕草に、心臓が掴まれたようにドキリとした。
「お待たせしちゃってすみません」
「気にしないで大丈夫だ。一緒に帰ろうか」
*
空が暗い紫色に染まって、星が小さく瞬くころ。
夕飯を食べ終え、名前さんが井戸のあたりで洗い物をしている。しゃがんでいるからか、その後ろ姿は小さく頼りない。手伝うつもりのはずが、ぼんやり眺めていた。
こんな光景が、これからも続いていけばいいのに。勝手口にもたれながら、そんなことを考えてしまう。
「あれ? 土井先生、どうされました?」
「……せんせい、か」
「……?」
「いや、片付けを任せてしまってすまない」
「気にしないで大丈夫ですから」
「きり丸が寝たあと……少し良いかい?」
「いいです、よ……?」
「君も、一緒に付き合ってくれると嬉しいんだけど」
――夜
少しふっくらとした月が、漆黒の闇に浮かび上がっている。
三人で床に就くと、きり丸はバイトで疲れ果てたのかコロッと寝入ってしまった。
しゅるりと布が擦れる音が室内に響く。
名前さんが寝返りを打ったのだろうか。その微かな音でさえ、彼女がすぐそばに居ると認識させられて鼓動がうるさい。
「……起きてるかい?」
「……はい」
そっと布団から抜け出すと、名前さんも体を起こしていた。
月明かりだけの暗い部屋の中。
つまずかないように手を繋いで、居間へと連れ出す。
燭台に火を灯すと、小さな炎が湿ったぬるい風にゆらめいた。囲炉裏をあたりに腰を下ろし、名前さんも少し離れて隣に座る。何を言われるのだろう、と戸惑っているようだ。
「疲れているのに悪いね」
「土井先生にあんなこと言われたら……。眠れないです」
「土井先生?」
「えっ、あ……はんすけ、さん」
自分で呼ばせておいて、嬉しくて口元が緩む。はにかみながら言う姿も可愛いけれど……。本当はもっと自然に呼んで欲しい、なんて欲張りだろうか。
「じつは、かくかくしかじかで……酒が手に入ったんだ」
「それはまた、きり丸くんらしいですねぇ」
「まったく、参ってしまうよ」
「あはは。私、お酌しますっ」
相変わらずのきり丸に困ったように笑って、風呂敷からひょうたんの入れ物を取り出す。名前さんはにこにこしながら、受け取ろうと手を伸ばしてきた。
……参ってしまうなんて嘘だ。
君にお酌してもらって、あわよくば酔った姿を見てみたいなんて考えている。もしかしたら、大木先生との秘密の話をぽろっと漏らしてくれるかもしれない。
名前さんはこちらに近寄り、よいしょと正座の足を崩していた。お猪口にとくとくと透明の液体を注いでもらうと、こくりとひと口であおっていく。じっとこちらを見つめてきて……飲みたいのだろうか。
「ほんのり甘くて、美味しいな」
「甘いんですか……!」
「飲んでみるかい?」
「い、いえっ! それはダメです……!」
「飲みたそうな顔してるのに?」
「……だって、半助さんに嫌われちゃいます」
「嫌われるなんて、またどうして?」
思ってもみない方向に話が進み何故だか気になって仕方がない。言いにくそうにもじもじする彼女から、どんな言葉が出てくるのだろうか。
「お酒、大木先生と飲んだとき……。酔って、ずっと大笑いしてたぞって言われたんです」
「……一緒に飲んだのか」
「私はそんな風になった記憶はないんです! でも、土井先生に嫌われちゃうぞって、言われて。……お酒は飲むなよって」
さては、そうやって私と酒を飲ませないように仕組んだな。大木先生……なんと狡い言い方だろう。でも、嫌われたくないと思われているのは嬉しい。自惚れてしまいそうになる。
「そんな姿だって可愛いじゃないか。嫌いになるだなんて」
「でも……」
「こんなに美味しい酒は……なかなか手に入らないだろうなぁ」
うーん……と葛藤する君を、私はきっと下心ありありの目で見てしまっているだろう。
……あともう少しで堕ちそうだ、なんて。
「……じゃあ。少しだけ、いただきます」
「付き合ってくれて嬉しいよ」
ひょうたんの入れ物を傾けて、お猪口へなみなみと注いでやる。
そっと口元まで運ぶと、桜色の唇でちゅうっと酒をすすって。お猪口に添えられるほっそりした手指まで色っぽく見える。
美味しいようで幸せそうに目を細め、濡れて鈍く光る唇をぺろりと舐める。チロリとのぞく柔らかそうな赤い舌に、思わず息を呑んだ。
「んー。お米の甘さが美味しいですっ」
「そうだろう? さあ、遠慮しないで」
「半助さん。……私を酔わせてどうするつもりですか?」
試すような目で見つめてきて、くすくす笑っている。どうするつもりかなんて、考えたら止まらなくなりそうだ。
……酒のせいにして、どこまで触れて良いのだろうか。君は、どこまで受け入れてくれるのだろう。
「これは、ダメだと言われるわけだな」
「……え? なんですか?」
「いや、何でもない」
「はいっ。お注ぎしますよ?」
しばらく二人で酒を注ぎあって、ちょっとしたことで笑って、いつの間にか心も身体も距離が近くなる。
名前さんは腕に寄りかかって、時折りこちらを見上げて楽しそうに微笑むと、私の痛んだ髪を細い指に絡めて弄んでいた。柔らかい女性の体つきと火照った体温が薄い布越しに伝わり、まるで誘われているかのような錯覚に陥る。
「そうだっ、半助さん。このまえ、途中で半助さんがいなくなっちゃったから、通販で失敗しちゃったんですよ?」
「そうだったのか」
「すっきりした袴じゃなくて、スーッとした薄荷が届いちゃって。……えへへ」
「ずいぶんへっぽこだな」
「ひどいですー」
ペタペタと触れてきて、無邪気に笑っている。普段とは違う砕けた話し方も、その子どもみたいに拗ねる姿も……大木先生に見せたのだろうか。そう思うと、胸の奥がチクリと痛む。
「大木先生を見送る前……二人で何をこそこそ話してたんだい?」
「えっと、さっきも言いましたけど……。お酒は飲むなって」
「いいのか? ……だいぶ飲んじゃったけど」
「あ、あのっ、ひみつにしてください!」
「うーん、どうしようかなあ」
「おねがいです……!」
ほほに張り付く髪に、汗ばんだ首筋に。暑さではだけた胸元からは少し膨らみがのぞく。潤んだ瞳で懇願されたら、このまま組み敷いてしまいたくなるじゃないか。
秘密にするかわりに何をしてもらおう……?
最低なことを考えて体の中心が熱くなる。
「はんすけ、さん……?」
小首を傾げて覗き込まれると、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐって……。彼女をもっと近くに感じたくて、もう我慢の限界だった。
……小さな肩をぐいっと掴もうとした瞬間。
「……ヒッく、」
「……っ!?」
「ご、ごめんなさいっ! しゃっくりが……、ひっく」
なんで、このタイミングなんだ!?
でも、苦しそうに胸を押さえる名前さんに……イタズラしてみたくなる。
「止めてあげよう」
「……えっ?」
赤く染まるほほを両手で包み込むと、前髪が彼女に触れそうな近さまで顔を寄せた。じっと見つめると少し驚いて、恥ずかしそうに視線を逸らす仕草に煽られる。
「しゃっくりしたら、口付けてしまいそうだね」
「……っ! んっ……、ぅん…ん」
意地悪な言葉は、気持ちの昂ぶりからか僅かに掠れる。名前さんはぎゅっと目を瞑って、必死に息を止めていた。その苦しそうな表情が、まるで身悶えているかのようで堪らない。
あと少しだけ、このままで……。
我慢なんかしないで、その唇が触れてしまえばいいのに。
「んん……っ!」
パッとほほを挟んだ手を離すと、名前さんはガクリと崩れ落ちて肩で大きく息をしている。
「ふっ……はぁ、っ……ひっく」
「……もう一回、やってみるかい?」
「だ、だめです……!」
少しイジメすぎたか。
赤い顔で睨まれて、それさえも可愛くてしょうがない。
「……その、からかい過ぎた。すまない」
「……もうっ」
衝動的にあんな事をしてしまった。ふと我に返って、今更恥ずかしくなる。自分でお猪口に酒を注ぐと、そんな気持ちを消し去るようにグイッと一気に飲み干していった。
*
……半助さん、寝ちゃったのかな?
ほほを解放されたら、二人で恥ずかしくなってお酒をあおるばかりで。でも、生暖かい風に吹かれて静かに過ぎていく時間は心地よい。
しゃっくりはいつの間にか止まっていた。そのうち、半助さんがこくりこくりと船をこいでコトンと肩にもたれてくる。
……お酒という誘惑に負けて、雅之助さんの言いつけを破ってしまった。
透明の液体はほんのり甘くて、喉元からお腹に入り込むと、かあっと熱く燃えるようだった。お酒のせいなのか、半助さんのせいなのか……。楽しかったはずなのに、いつの間にか身体が火照ってどうしようもない。
だって、あんなに近い距離で。もし、少しでも動いたら……。しゃっくりが出ちゃったら……。変な想像をして手のひらに汗がにじむ。
肩口に寄りかかられ、もさもさの髪が顔に当たってくすぐったい。崩した膝の上に頭をのせて膝枕にしてあげると、穏やかな顔ですーすー寝ている。
痛んでごわついた茶色い髪をくるくると指に巻き付け好きなように遊ぶ。長い前髪から覗くスッとした鼻筋と、柔らかなほほ。男の人なのに色っぽくて、ちょっとずるい。
いつもは忍たま思いの真面目な先生なのに。私のこと、心配して守ってくれるのに。こんなに甘えたり、意地悪してくるのが可愛いけれど……。そんな姿は私の前だけだと嬉しいな、なんて出過ぎたことを思ってしまう。
半助さんの寝顔を見ていたら、私も眠くなって……。ほんの少しの間だけ、まぶたを閉じた。
*
床に直接寝てしまったからか、身体がこわばって痛い。昨日は、名前さんにあんなことを……! もやがかかる頭で思い出すと、顔から火が出そうだ。
横たわりながらうっすらと目を開けると、朝日が少し差し込んでいるのか、部屋がほんのり明るくなっていた。
少し目線を上げると、すぐ近くに白いものがあって……
名前さんの太ももか!?
彼女もそのまま眠ってしまったようで、床に横たわっている。少し上にずれて、向き合うようにごろりと寝転ぶ。目の前の、あどけない寝顔をじっと見つめる。
「……んっ」
「起きたかい?」
一瞬目を開けたと思ったら、そのまま眠り込んでしまった。
そっと柔らかな髪を撫でると、なんだか幸せで。もう少しだけ、こうしていたくなる。ひととき、目を閉じるだけだと言い訳をして、再びまどろむのだった。
(おまけ)
――ガタッ!
「ちょっとー! 起きてくださいよー!」
「……っ!?」
ま、まずい。彼女の頭を撫でながら二度寝してしまった。パチリと瞬きすると、目の前には眠そうな名前さんの顔があって……。
慌てて飛び起きると、きり丸が仕切りを勢いよく開けて仁王立ちで怒っている。
「うわぁ、何だ急に!」
「何だじゃないっすよ! お酒も飲みっぱなしで、灯りだって付けっぱなしだったんでしょう!?」
「……ご、ごめん! きり丸くんっ!」
名前さんはがばっと体を起こすと、事態を把握するためかキョロキョロしている。床には、お猪口と酒が入っていたひょうたんがだらしなく転がっていた。
「私ったら、そのまま寝ちゃって……!」
「まったく、二人ともしっかりしてくださいよー!」
「「……反省してます」」
大の大人が十歳の子に朝から叱られて、二人で正座して縮こまっている。名前さんとこっそり顔を見合わせると、互いに赤くなりながら苦笑いするのだった。