第28話 墨と朱
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昼下がり。
強い日差しが照りつけ、焼けつくような暑さに包まれる。さわさわと木々の葉が揺れる音と風だけが、僅かに涼しさをもたらしていた。
「名前、すまんが手伝ってくれるか?」
ラビちゃんの散歩を終えて家の方に歩いてくる名前に、戸口へもたれ掛かりながら呼びかける。
木陰を歩いていたようだが、それでも暑かったのか顔は真っ赤で額には玉の汗をかいていた。胸元にパタパタと空気を送り込みながら、小首を傾げている。
「はいっ。どうされました?」
「明日は杭瀬村ラッキョ協同組合の集まりがあるんだが、」
「そうなんですね! ……あの、私は何を手伝えばいいのでしょう?」
「名前には、組合員に配るプリントを作ってもらいたい」
「……私で大丈夫ですか?」
「もちろんだ」
少し不安そうな、でも頼まれたことが嬉しいのか、はにかむ様がいじらしい。
名前は文机を出すと、紙や円いすずりを並べていった。手本の紙と手元を交互に見ながら、一所懸命に筆を走らせている。
……最初に見た入門票の文字とは違って、だいぶ上達しているようだ。
あの時、思わず吹き出してしまったのは悪かった。しっかり者の彼女から飛び出すその拙い文字が、不釣り合いでおかしかったのだ。
「……こんな感じでいかがでしょう?」
「うーむ、そうだなあ……」
首を傾げながらぺらりと書面を見せてくる。確かに上手くはなった。だが、まだ上達する余地がありそうで、つい教えたくなってしまう。
「ちょっといいか」
「は、はいっ……!」
膝立ちになって名前のそばにぴたりと寄り添う。彼女の右側から筆を握る手を包むと、その感触が伝わってくる。小さくて、温かくて、なんとも頼りない。
畑仕事をさせたせいか、学園での仕事のせいなのか。こちらに来た時の、白くて柔らかいものとは少し違っていた。
儚くてそのまま大切にしてやりたい気持ちと、頑張っているんだなと褒めてやりたい気持ちと……複雑だ。だが、日々奮闘する姿を想像して自然と目元が緩んでしまう。
名前は手を掴まれ、サラサラと動かされて少しばかり緊張しているようだった。
「ここはこうだ」
「……すっと力を抜く感じですね」
「そうだ。いいぞ!」
「……えへへ」
最初はかたくぎこちなかったが、しばらくすると慣れてきたのかこちらに身体を預けて楽しそうにしている。
そっと腕を解放して、乾かすようにさらっと紙を持ち上げた。
「どうだ? だいぶ、大人っぽい文字になったな」
「そうですねっ。さすが大木先生! 教えるのが上手です」
「ははは、そうだろう!」
珍しくそんなふうに褒めるものだから得意げになってしまう。隣にどかっと胡座をかいて、しばらくその様子を眺める。
名前はまた練習を続けようとしているのか、文机に座り直して筆を握っていた。真剣な表情で教えたことを実践する、そういう真面目さは一年は組にぜひ見習ってほしいところだ。
「一人でたくさん練習してたのか?」
「……えっ?」
何となく気になって聞いた一言に、なぜか酷く動揺している。一人でコツコツ練習するのは大変だっただろうという気持ちから出た言葉だったのだが。
「……何か変なこと言ったか?」
「あの、いえっ。そんなことは……!」
……あやしい。
直感的にそう感じる。このカンは間違っていないはずだ。
「耳が赤くなってるぞ?」
「えっ!? やだ、見ないでくださいっ!」
……あたふたして筆を取り落としている。
耳を隠すように髪を撫でつけて。
なんと分かりやすいヤツなんだ。
「……そうか、二人で練習してたんだな?」
自分で問い詰めておいて、その答えは聞きたくない。矛盾した気持ちに焦れったくなる。
「あの、変な意味じゃなくて、その……」
「なんだ?」
筆を机に置いて、膝の上で拳を握りしめる姿にドキリとする。……何を言われるのだろうか。
「団蔵くんと練習したり……土井先生に教えてもらったり、とか……」
「ほお。それはさぞ良い教え方だったんだろう」
「……っ! ち、ちがいますって!」
「そんなに恥ずかしがらなくても良いじゃないか。……やましい事でもあるようだな?」
赤い顔でうつむく名前を見ると、ジリジリと苛立ちのようなもどかしさに支配される。自分の知らないところで何があったのか。彼女のことは自分が全部知っていたい。
最初に保護したからなのか、女として気になっているのか……どちらも入り混じって切り離せない。
「……わしがみっちり教えてやろう」
顔を赤らめるほどのこと、か。
筆の使い方を教えるという口実で彼女の身体に触れようなんて、こんな体勢くらいしか思い浮かばない。
名前に覆い被さるように身体を密着させると、耳元でわざと囁く。ピクリと小さく震えるその反応も、自分だけに見せて欲しいと思ってしまう。
逃げないように閉じ込めた彼女の体温が、ひときわ熱く感じる。焼けつくような暑さのせいだけではないはずだ。
筆を握る手を包み込むと、もっともらしく指導するふりをして。名前は小さく縮こまって動けない状態で、されるがままになっていた。
しばらくそうして教えていると、ポツリと声がする。
「怒ってます……?」
「いや、お前の反応が面白くてな。つい。」
「えーっ! ひどいっ」
怒ってなどいない。
ただ、いい歳をしてこの気持ちを……どう対処したら良いか分からない自分が嫌になる。
わざと余裕ぶってみると、名前はこちらを見上げて口を尖らせていた。
いつもみたいにニカっと笑って、頭をわしわしと撫でてやる。まるで冗談みたいに振る舞って、今はこれで良いのだと自身に言い聞かせるようだった。
「いた、っ! いたたた……!」
「おい、どうしたんだ!?」
「あ、あしが、しびれてっ……!」
名前がいきなり床にうずくまって足をさすっている。いきなりの事でたじろいでしまった。ずっと正座をしていたのに急に立ち上がろうとしたからか。彼女は顔を伏せ、痛みに悶えている。
その様子が面白くて、ダメだと思いつつちょっかいを出したくなる。
「ほれほれ」
そばにしゃがみ込んで、つんつんと足の裏を指で突く。ぎゃーぎゃー騒ぐ珍しい姿にくつくつと笑いが止まらない。なんと大人気ないことか。
「もうっ…やめて、くださいってば……!」
「……土井先生とよろしくやっていたお仕置きってところだな?」
一所懸命に絞り出される抵抗の声に、隠したかった本音を漏らしてしまう。
名前には聞こえてないみたいで、未だのたうち回っている。
どこんじょーだ!と励ましながら、しばらくそんな姿を眺めているのだった。
*
――次の日。
むせ返るような暑さに参ってしまうのは変わらない。でもその分、井戸水の冷たさと跳ねる水音に癒される。
朝食に使ったうつわを洗いながら、その冷んやりとした温度を楽しんでいた。こぼれ落ちる髪を耳にかけると、濡れた手指が触れて心地よい。
昨日は、書面を作成するだけなのに大変な目にあってしまった。あれから……。足のあしびれが落ち着くと、今度は真面目に組合の方に配るプリントを作っていったのだった。
雅之助さんは怒ってないって言ってたけれど、なんとなく普段と違うように感じられて……。思い出すと恥ずかしくなって、冷たくなった手で顔をおおう。変なことを考えてしまうのも、ぜんぶ暑さのせいだ。
「片付けを任せて悪いな。お前も組合に顔を出すか?」
割烹着で手を拭いうつわを抱えて家に戻ると、床には資料がたくさん置かれていた。雅之助さんは書面を整理しながらこちらに尋ねてくる。
「えっ! いいんですか。ぜひっ」
「もちろんだ。もうすぐ家を出るから、支度するように」
まさか参加していいなんて思っていなくて嬉しくなってしまう。人前に出しても恥ずかしくないって、信頼してくれてるって、そう思ってもいいのだろうか。
さっそく身支度を整える。
いつもより入念に化粧をすると、最後に朱いリップを手に取った。もう無くなってきたから、街でお買い物しなきゃいけない。
そんなことを考えながら紅を小指に付けていると、ふと彼の姿が目に入って……いいことを思いついてしまった。ふざけて紅をつけたら怒られるかもしれないけれど……
……昨日のお返しだ。
あぐらをかいて書面を確認している雅之助さんに、ちょっかいを出したくてこっそり近づく。いつもの豪快さからかけ離れた、大きな体を小さくして細かい作業をする姿がおかしくって吹き出しそうだ。
「雅之助さーん、ちょっといいですか?」
「なんだ? わしは今忙しいんだ」
「えー、すぐ終わりますから。お願いします……!」
「お前のお願いは嫌な予感がする」
「そんなっ!」
「……まったく、仕方がないな」
わざと拗ねて見せると、口ではやれやれと言いながらちゃんと構ってくれるのだ。なんだかんだ言って、甘やかされている気がする。
雅之助さんのすぐ側に座り込むと、ほほに手を当ててまじまじとその顔を見つめる。ジャリっとした髭のあとが手のひらに伝わってむず痒い。
……男らしくて格好いいとは思う。
思うのだけど、女装姿が全然想像できない。土井先生は綺麗に仕上がる気がするんだけど……。
伝子さんみたいに艶っぽくできるのかな……?
「わしの顔に何かついてるのか?」
「違うんです、ごめんなさいっ」
「お前、ずいぶん大胆じゃないか」
「……え、どういう意味です!?」
「まあまあ、遠慮するな!」
がははと笑って背中に手を回されると、そっと体を引き寄せられる。また雅之助さんのペースに巻き込まれそうになるのが悔しくて、ぺしぺしと胸元を叩いた。
気を取り直して、そのかさついた唇に小指でリップを塗っていく。面白くて多くつけすぎちゃったかもしれない。
小指についた朱色を、自身の唇にもポンポンと重ねていった。
「おい、急に何するんだ!?」
「うーん。眉を何とかしても、やっぱり女装はダメかもしれませんね」
「ダメとは失礼だぞ!」
「すみません。……お化粧したらどうなるか気になって」
くすくす笑いが止まらなくって……笑いすぎてお腹が痛くなって、次第に涙目になってしまう。
やっぱり人には向き不向きがあるんだ……! なんて一人納得していると、戸口からこちらを呼ぶ声が聞こえてきた。
「雅之助ー! わしだ、家にいるかー?入るぞー」
ガラリと戸が開けられると、そこには怖そうな目つきのお爺さんが立っていた。白くて、たっぷりした眉の奥から険しい視線がこちらを射抜く。
びっくりして固まりながら戸口を見つめていると、雅之助さんがゴシゴシと口元を拭いながら立ち上がり、土間へと降りていった。
「これはこれは、杭瀬村の長老どのー! どうされましたか」
「いや、杭瀬村ラッキョ協同組合の集まりに顔を出そうと思ったんじゃが……。お楽しみのところ悪かったなあ!」
「はい?」
「雅之助も水臭いやつだ! 嫁がいるとはなあ!」
「いや、こいつは……!」
「分かった、分かった! 今度二人にご馳走を振る舞ってやる! じゃあ、また後でな」
そういうと、杭瀬村の長老さんはサッといなくなってしまった。
ぼーっと立ちつくす雅之助さんに、手鏡を渡して顔を確認するようにうながす。
「な、なんだこれは!?」
「……あの、勘違いされてしまったみたいです。だって、これじゃあまるで……!」
「そ、そうだな、これでは……」
恥ずかしくて、とてもじゃないが言えない。二人して顔を見合わせて、目を逸らして……きっと顔が赤くなっているはずだ。
雅之助さんが紅を塗られた唇を荒くぬぐったせいで、口元が赤く染まっている。
二人してあんなに寄り添って座っていたら……激しく口付けした後みたいにみえるじゃないか。
散々からかっていたのに、いざとなると照れているなんて。
「あの……ごめんなさい! 私、やっぱり集まりに出られませんっ!」
「あ、あぁ。わかった」
手ぬぐいを手渡すと、逃げるように井戸へと駆けていく。あまりにも恥ずかしすぎて、どうしていいか分からない。
誤解されるようなことをして申し訳ない気持ちと、雅之助さんの赤くなって照れる姿を見られて嬉しい気持ちと……。
何度も何度も井戸水をすくって顔を冷やしても、全然落ち着かない。足なんか痺れていないのに、今度は恥ずかしさにのたうち回るのだった。
(おまけ)
ガタガタと戸口を開ける音が聞こえて、床掃除の手を止める。
雅之助さんの姿が見えると、居間のへりまで駆け寄った。雑巾を握りしめて、なんとか胸の鼓動を抑えこむ。
「あ、あのっ。……大丈夫でした?」
「大変だったぞー? まったく……。何とかやり過ごしたが」
「そうでしたか。まさか、あんな事になるとは……!」
「まったくだ。……まあ、お前が嫁だと思われて悪い気はしないがなあ」
「えっ……! ちゃんと否定したんですよね!? 違うって、言ったんですよね!?」
「……なんだ? 気になるのか?」
がっはっはと愉快そうに笑って、この人は……! ああ、恥ずかしいと言って逃げずに着いて行けば良かった……なんて少し後悔するのだった。
強い日差しが照りつけ、焼けつくような暑さに包まれる。さわさわと木々の葉が揺れる音と風だけが、僅かに涼しさをもたらしていた。
「名前、すまんが手伝ってくれるか?」
ラビちゃんの散歩を終えて家の方に歩いてくる名前に、戸口へもたれ掛かりながら呼びかける。
木陰を歩いていたようだが、それでも暑かったのか顔は真っ赤で額には玉の汗をかいていた。胸元にパタパタと空気を送り込みながら、小首を傾げている。
「はいっ。どうされました?」
「明日は杭瀬村ラッキョ協同組合の集まりがあるんだが、」
「そうなんですね! ……あの、私は何を手伝えばいいのでしょう?」
「名前には、組合員に配るプリントを作ってもらいたい」
「……私で大丈夫ですか?」
「もちろんだ」
少し不安そうな、でも頼まれたことが嬉しいのか、はにかむ様がいじらしい。
名前は文机を出すと、紙や円いすずりを並べていった。手本の紙と手元を交互に見ながら、一所懸命に筆を走らせている。
……最初に見た入門票の文字とは違って、だいぶ上達しているようだ。
あの時、思わず吹き出してしまったのは悪かった。しっかり者の彼女から飛び出すその拙い文字が、不釣り合いでおかしかったのだ。
「……こんな感じでいかがでしょう?」
「うーむ、そうだなあ……」
首を傾げながらぺらりと書面を見せてくる。確かに上手くはなった。だが、まだ上達する余地がありそうで、つい教えたくなってしまう。
「ちょっといいか」
「は、はいっ……!」
膝立ちになって名前のそばにぴたりと寄り添う。彼女の右側から筆を握る手を包むと、その感触が伝わってくる。小さくて、温かくて、なんとも頼りない。
畑仕事をさせたせいか、学園での仕事のせいなのか。こちらに来た時の、白くて柔らかいものとは少し違っていた。
儚くてそのまま大切にしてやりたい気持ちと、頑張っているんだなと褒めてやりたい気持ちと……複雑だ。だが、日々奮闘する姿を想像して自然と目元が緩んでしまう。
名前は手を掴まれ、サラサラと動かされて少しばかり緊張しているようだった。
「ここはこうだ」
「……すっと力を抜く感じですね」
「そうだ。いいぞ!」
「……えへへ」
最初はかたくぎこちなかったが、しばらくすると慣れてきたのかこちらに身体を預けて楽しそうにしている。
そっと腕を解放して、乾かすようにさらっと紙を持ち上げた。
「どうだ? だいぶ、大人っぽい文字になったな」
「そうですねっ。さすが大木先生! 教えるのが上手です」
「ははは、そうだろう!」
珍しくそんなふうに褒めるものだから得意げになってしまう。隣にどかっと胡座をかいて、しばらくその様子を眺める。
名前はまた練習を続けようとしているのか、文机に座り直して筆を握っていた。真剣な表情で教えたことを実践する、そういう真面目さは一年は組にぜひ見習ってほしいところだ。
「一人でたくさん練習してたのか?」
「……えっ?」
何となく気になって聞いた一言に、なぜか酷く動揺している。一人でコツコツ練習するのは大変だっただろうという気持ちから出た言葉だったのだが。
「……何か変なこと言ったか?」
「あの、いえっ。そんなことは……!」
……あやしい。
直感的にそう感じる。このカンは間違っていないはずだ。
「耳が赤くなってるぞ?」
「えっ!? やだ、見ないでくださいっ!」
……あたふたして筆を取り落としている。
耳を隠すように髪を撫でつけて。
なんと分かりやすいヤツなんだ。
「……そうか、二人で練習してたんだな?」
自分で問い詰めておいて、その答えは聞きたくない。矛盾した気持ちに焦れったくなる。
「あの、変な意味じゃなくて、その……」
「なんだ?」
筆を机に置いて、膝の上で拳を握りしめる姿にドキリとする。……何を言われるのだろうか。
「団蔵くんと練習したり……土井先生に教えてもらったり、とか……」
「ほお。それはさぞ良い教え方だったんだろう」
「……っ! ち、ちがいますって!」
「そんなに恥ずかしがらなくても良いじゃないか。……やましい事でもあるようだな?」
赤い顔でうつむく名前を見ると、ジリジリと苛立ちのようなもどかしさに支配される。自分の知らないところで何があったのか。彼女のことは自分が全部知っていたい。
最初に保護したからなのか、女として気になっているのか……どちらも入り混じって切り離せない。
「……わしがみっちり教えてやろう」
顔を赤らめるほどのこと、か。
筆の使い方を教えるという口実で彼女の身体に触れようなんて、こんな体勢くらいしか思い浮かばない。
名前に覆い被さるように身体を密着させると、耳元でわざと囁く。ピクリと小さく震えるその反応も、自分だけに見せて欲しいと思ってしまう。
逃げないように閉じ込めた彼女の体温が、ひときわ熱く感じる。焼けつくような暑さのせいだけではないはずだ。
筆を握る手を包み込むと、もっともらしく指導するふりをして。名前は小さく縮こまって動けない状態で、されるがままになっていた。
しばらくそうして教えていると、ポツリと声がする。
「怒ってます……?」
「いや、お前の反応が面白くてな。つい。」
「えーっ! ひどいっ」
怒ってなどいない。
ただ、いい歳をしてこの気持ちを……どう対処したら良いか分からない自分が嫌になる。
わざと余裕ぶってみると、名前はこちらを見上げて口を尖らせていた。
いつもみたいにニカっと笑って、頭をわしわしと撫でてやる。まるで冗談みたいに振る舞って、今はこれで良いのだと自身に言い聞かせるようだった。
「いた、っ! いたたた……!」
「おい、どうしたんだ!?」
「あ、あしが、しびれてっ……!」
名前がいきなり床にうずくまって足をさすっている。いきなりの事でたじろいでしまった。ずっと正座をしていたのに急に立ち上がろうとしたからか。彼女は顔を伏せ、痛みに悶えている。
その様子が面白くて、ダメだと思いつつちょっかいを出したくなる。
「ほれほれ」
そばにしゃがみ込んで、つんつんと足の裏を指で突く。ぎゃーぎゃー騒ぐ珍しい姿にくつくつと笑いが止まらない。なんと大人気ないことか。
「もうっ…やめて、くださいってば……!」
「……土井先生とよろしくやっていたお仕置きってところだな?」
一所懸命に絞り出される抵抗の声に、隠したかった本音を漏らしてしまう。
名前には聞こえてないみたいで、未だのたうち回っている。
どこんじょーだ!と励ましながら、しばらくそんな姿を眺めているのだった。
*
――次の日。
むせ返るような暑さに参ってしまうのは変わらない。でもその分、井戸水の冷たさと跳ねる水音に癒される。
朝食に使ったうつわを洗いながら、その冷んやりとした温度を楽しんでいた。こぼれ落ちる髪を耳にかけると、濡れた手指が触れて心地よい。
昨日は、書面を作成するだけなのに大変な目にあってしまった。あれから……。足のあしびれが落ち着くと、今度は真面目に組合の方に配るプリントを作っていったのだった。
雅之助さんは怒ってないって言ってたけれど、なんとなく普段と違うように感じられて……。思い出すと恥ずかしくなって、冷たくなった手で顔をおおう。変なことを考えてしまうのも、ぜんぶ暑さのせいだ。
「片付けを任せて悪いな。お前も組合に顔を出すか?」
割烹着で手を拭いうつわを抱えて家に戻ると、床には資料がたくさん置かれていた。雅之助さんは書面を整理しながらこちらに尋ねてくる。
「えっ! いいんですか。ぜひっ」
「もちろんだ。もうすぐ家を出るから、支度するように」
まさか参加していいなんて思っていなくて嬉しくなってしまう。人前に出しても恥ずかしくないって、信頼してくれてるって、そう思ってもいいのだろうか。
さっそく身支度を整える。
いつもより入念に化粧をすると、最後に朱いリップを手に取った。もう無くなってきたから、街でお買い物しなきゃいけない。
そんなことを考えながら紅を小指に付けていると、ふと彼の姿が目に入って……いいことを思いついてしまった。ふざけて紅をつけたら怒られるかもしれないけれど……
……昨日のお返しだ。
あぐらをかいて書面を確認している雅之助さんに、ちょっかいを出したくてこっそり近づく。いつもの豪快さからかけ離れた、大きな体を小さくして細かい作業をする姿がおかしくって吹き出しそうだ。
「雅之助さーん、ちょっといいですか?」
「なんだ? わしは今忙しいんだ」
「えー、すぐ終わりますから。お願いします……!」
「お前のお願いは嫌な予感がする」
「そんなっ!」
「……まったく、仕方がないな」
わざと拗ねて見せると、口ではやれやれと言いながらちゃんと構ってくれるのだ。なんだかんだ言って、甘やかされている気がする。
雅之助さんのすぐ側に座り込むと、ほほに手を当ててまじまじとその顔を見つめる。ジャリっとした髭のあとが手のひらに伝わってむず痒い。
……男らしくて格好いいとは思う。
思うのだけど、女装姿が全然想像できない。土井先生は綺麗に仕上がる気がするんだけど……。
伝子さんみたいに艶っぽくできるのかな……?
「わしの顔に何かついてるのか?」
「違うんです、ごめんなさいっ」
「お前、ずいぶん大胆じゃないか」
「……え、どういう意味です!?」
「まあまあ、遠慮するな!」
がははと笑って背中に手を回されると、そっと体を引き寄せられる。また雅之助さんのペースに巻き込まれそうになるのが悔しくて、ぺしぺしと胸元を叩いた。
気を取り直して、そのかさついた唇に小指でリップを塗っていく。面白くて多くつけすぎちゃったかもしれない。
小指についた朱色を、自身の唇にもポンポンと重ねていった。
「おい、急に何するんだ!?」
「うーん。眉を何とかしても、やっぱり女装はダメかもしれませんね」
「ダメとは失礼だぞ!」
「すみません。……お化粧したらどうなるか気になって」
くすくす笑いが止まらなくって……笑いすぎてお腹が痛くなって、次第に涙目になってしまう。
やっぱり人には向き不向きがあるんだ……! なんて一人納得していると、戸口からこちらを呼ぶ声が聞こえてきた。
「雅之助ー! わしだ、家にいるかー?入るぞー」
ガラリと戸が開けられると、そこには怖そうな目つきのお爺さんが立っていた。白くて、たっぷりした眉の奥から険しい視線がこちらを射抜く。
びっくりして固まりながら戸口を見つめていると、雅之助さんがゴシゴシと口元を拭いながら立ち上がり、土間へと降りていった。
「これはこれは、杭瀬村の長老どのー! どうされましたか」
「いや、杭瀬村ラッキョ協同組合の集まりに顔を出そうと思ったんじゃが……。お楽しみのところ悪かったなあ!」
「はい?」
「雅之助も水臭いやつだ! 嫁がいるとはなあ!」
「いや、こいつは……!」
「分かった、分かった! 今度二人にご馳走を振る舞ってやる! じゃあ、また後でな」
そういうと、杭瀬村の長老さんはサッといなくなってしまった。
ぼーっと立ちつくす雅之助さんに、手鏡を渡して顔を確認するようにうながす。
「な、なんだこれは!?」
「……あの、勘違いされてしまったみたいです。だって、これじゃあまるで……!」
「そ、そうだな、これでは……」
恥ずかしくて、とてもじゃないが言えない。二人して顔を見合わせて、目を逸らして……きっと顔が赤くなっているはずだ。
雅之助さんが紅を塗られた唇を荒くぬぐったせいで、口元が赤く染まっている。
二人してあんなに寄り添って座っていたら……激しく口付けした後みたいにみえるじゃないか。
散々からかっていたのに、いざとなると照れているなんて。
「あの……ごめんなさい! 私、やっぱり集まりに出られませんっ!」
「あ、あぁ。わかった」
手ぬぐいを手渡すと、逃げるように井戸へと駆けていく。あまりにも恥ずかしすぎて、どうしていいか分からない。
誤解されるようなことをして申し訳ない気持ちと、雅之助さんの赤くなって照れる姿を見られて嬉しい気持ちと……。
何度も何度も井戸水をすくって顔を冷やしても、全然落ち着かない。足なんか痺れていないのに、今度は恥ずかしさにのたうち回るのだった。
(おまけ)
ガタガタと戸口を開ける音が聞こえて、床掃除の手を止める。
雅之助さんの姿が見えると、居間のへりまで駆け寄った。雑巾を握りしめて、なんとか胸の鼓動を抑えこむ。
「あ、あのっ。……大丈夫でした?」
「大変だったぞー? まったく……。何とかやり過ごしたが」
「そうでしたか。まさか、あんな事になるとは……!」
「まったくだ。……まあ、お前が嫁だと思われて悪い気はしないがなあ」
「えっ……! ちゃんと否定したんですよね!? 違うって、言ったんですよね!?」
「……なんだ? 気になるのか?」
がっはっはと愉快そうに笑って、この人は……! ああ、恥ずかしいと言って逃げずに着いて行けば良かった……なんて少し後悔するのだった。