第22話 バイトと嬉しい約束
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「ひ、ふ、ふぇ、っ、ふ、……おぎゃ〜!」
あぁ……、ついに泣いてしまった。
「べろべろばー! ほら、こっちみてっ。いい子いい子、ほら……」
「ひ、ひぁっ、ほぎゃー!!」
「えっ、き、きみも〜!?」
忍たま長屋に似つかわしくない赤ちゃんの泣き声が響き渡る。部屋の真ん中に敷かれた布団のそばで、ただうろたえるばかり。
きり丸くんが犬の散歩をする間、赤ちゃんの子守りを任されたのだ。それも私一人で。元はと言えば、私がアルバイトを紹介して〜!とお願いしたからなんだけど……。
きり丸くんには、紹介のお礼に少しお駄賃を渡しているから喜んで仕事を分けてくれる。
一人が泣き出すと双子のもう一人もふにゃふにゃ言い出して、盛大に泣き出してしまった。
子守りの経験なんてなくて、きり丸くんに一から教えてもらったばかりだ。抱き方からおんぶの方法、飴湯の作り方、おしめの変え方……。
聞いて学ぶのと、実際にやってみるのは大違いだった。か弱く小さな命を前に、どうして良いか分からず途方に暮れてしまう。
そうこうしていると障子がかたりと開き、待ち望んでいた助っ人がやっと来てくれた。
「……っ、土井先生ー!?」
きり丸くんから、子守のプロが来ますから!と言われていたけれど……。まさか土井先生だったとは。
……この間、尊奈門さんのあんな事件があったばかりだ。弱っていたこともあって、甘えるように縋ってしまった。不安をぶつけたからか、そこから先生と少し打ち解けたような、近づいてしまったような気がする。思い返すと恥ずかしさが蘇る。けれど、今はそんなことを言ってはいられない。
「遅くなってすまない! 一人で大変だっただろう?」
「もう、どうしたら良いか分からなくって。来てくれてありがとうございます……!」
先生は静かに座ると、赤ちゃんを優しく見つめる。泣き声にかき消されながらも、泣いてしまった顛末を説明する。はだけた布団を掛けてあげたら、顔を真っ赤にして起きてしまったのだ。
「暑かったんだろう、たくさん汗をかいて。もう一人は……泣き声でびっくりしてしまったようだね」
「先生。どうしたらいいか、私に教えていただけませんか……?」
「もちろんだ。まずは、体を拭いてあげようか」
そう言うと、先生は慣れた手つきで産着を脱がせていく。私は慌てて桶に入れたぬるま湯を手ぬぐいで湿らせ、小さな体を拭いてあげた。気持ちよさそうな顔でむにゃむにゃ言って可愛らしい。もう一人は、土井先生が抱っこをすると泣き止んでしまった。
忍装束と赤ちゃん、なんとも不思議な光景だった。
「ふふ、土井先生すごいです」
「まあ、これくらいの事は慣れてるから」
照れ臭そうな先生に、くすっと笑ってしまった。気を緩めた瞬間、ぴゅーっと水が飛んでくる。
「ひゃっ、おしっこ……!?」
「やられちゃったな」
「びっくりしたあ……」
「きっと気持ちよかったんだろう。気をつけないと、たまにあるんだ」
赤ちゃんをもう一度きれいな手拭いで拭いてあげる。そのあと新しい産着でくるんだ。
それにしても、土井先生はすごく詳しい。まるで子どもがいるみたいだ。でも、独身って言ってなかったっけ? え、まさか、隠し子がいるとか!?
「どうしたんだい? さっきから変な顔をして」
「いえ、あまりに詳しいので、その……」
「あのー、誤解しているみたいだけど……。きり丸に子守りのバイトを押し付けられて、上達してしまっただけで」
「すみません! お子さんがいるのかと勘違いをしてしまって」
先生が乾いた笑いをもらす。「参ったなぁ」と、ほほを掻くも、言われ慣れている雰囲気だ。独り身と分かり、どこか安心する自分がいた。
それから、飴湯を一緒に作って抱っこをしながら飲ませる。なんだか夫婦みたいで少しこそばゆい。
お腹が満たされたのか、赤ちゃんは二人揃ってお口をむぐむぐしながら眠ってしまった。起こさないように、ゆっくりと布団へ寝かせる。
「寝ちゃったな」
「幸せそうな顔して、可愛いっ」
二人で顔を見合わせ、こそこそ話す。最初はどうなるかと思ったけれど……。こんなに幸せなバイトだったら、ぜひまたお願いしたい。
――カタッ
「……赤ちゃん、寝てますか?」
静かにきり丸くんが入ってきた。
犬の散歩が大変だったのか額の汗を拭っている。うんうんと頷き目で合図した。
「名前さん、土井先生、ありがとうございました……!」
「一人で不安だったけど、土井先生ってすごいね」
「きり丸、名前さんがバイトしたいって言っても無茶させたらダメだぞ」
「はいはーい、分かってますって!」
「本当に分かったのかぁ〜!?」
土井先生はため息をついている。私のせいできり丸くんが注意されてしまったことにバツが悪くて。両手を合わせ静かに「ごめん」と伝えた。
「でも、名前さんも将来お母さんになるんすから。お金も稼げて勉強もできるなんて、いいじゃないっすか!」
「私が、お、お母さん……!?」
きり丸くんは目を銭にして喜んでいる。
……そうだ。
いつか、結婚して子どもが産まれて。こちらに来る前なら、楽しみだったかもしれない。でも、今はそんなことが叶うのかどうか。明日が訪れるなんて保証はないのだ。不安定な自分に、重苦しい気持ちになる。
「そうっすよね? 土井先生っ」
「ま、まあ、いずれはだな」
きり丸くんが無邪気に土井先生をからかう。先生は少し赤くなって、すやすや眠る赤ちゃんを見つめていた。
「あ、明日はうどん屋の皿洗いっすから。名前さん、よろしくお願いしまーす!」
「うん、頑張るね」
「……おい、きり丸! 注意したそばから、」
「しーっ! 先生、起きちゃいますってば……!」
そう言われると何も言えなくて、土井先生は苦虫を噛んだような顔をしていた。
*
――次の日。
にぎやかな街の中。美味しいと評判のうどん屋は沢山の人が行列を作っていた。
私ときり丸くんは、店の裏口でうつわを洗っている。大きなたらいに入った沢山の食器はカチャカチャぶつかりあう。髪が落ちてこないように手拭いをかぶり、着物はたすき掛けにして、しっかりと手を動かした。
「ふぅ。朝からずっとしゃがんでると疲れるねえ」
「そうっすね、良かったら休んできてください!」
きり丸くんだけに任せるわけにはいかない。ついつい弱音を吐いてしまった自分に喝を入れる。
「ううん、大丈夫。どこんじょー!で頑張るから」
「名前さんまで、大木先生みたいなこと言わないでくださいよー」
あははと笑い合って、またどんぶりを洗う作業を続けていく。
「そういえば……。買いたいもの、買えそうなんすか?」
「うん。あとちょっと、かな」
「じゃあ、今度は筆作りの内職お願いしまーすっ」
「はーい!」
たらいの水を入れ替えるため、近くの井戸で綺麗な水を汲む。何度目の作業だろうか。
調理場から渡される、汚れた食器もだいぶ少なくなってきた。もうそろそろ、バイトが終わりの時間かもしれない。奥から、「おーい」と呼ばれて二人で店の中へと向かう。
人の良さそうな店主のおじさんが、今しがたお店を閉めたと教えてくれた。
「お疲れさま。悪いが、店内のそうじを手伝ってくれないかな。そこの男の子は、残りのうつわを片付けてくれ」
きり丸くんに、また後でと告げると濡れふきんを手に机を拭いていく。店内はそこまで広くなく、こじんまりとしていて落ち着いた印象だ。
ふと壁を見ると、お品書きと並んで飾られている派手な貼り紙に目が留まった。お店の雰囲気に似合わない。何だろうとまじまじ見つめる。
「パート募集……ドクタケ城で働いてみませんか…。高時給、高待遇…?! ……女性のみ…?」
詳しい仕事内容は書いてないけど、何をするんだろう。ドクタケって、しぶ鬼くんとか、魔界之先生のところだよね……?変な内容じゃないと思うんだけど……。でも、非常に怪しい気がする。
「気になるのかい? どうしてもそのチラシを貼らせて欲しいって頼まれてねえ」
「そ、そうなんですか……」
「あ、ほら。あの人だ」
指差された方に目を向ける。赤い丸のサングラスをかけた面長の男性が、店の中をのぞきこちらに近づいてくる。
「このお嬢さん、パートに興味あるようだよ」
「そうですかぁ! ちょうど良かった、様子を伺いに来たんですが……これからドクタケ城で面談はいかがです?」
「え、いや、わたし、予定があって……!」
「すぐ終わりますから!」
さあさあと背中に手を当てられ、連れていかれそうになる。誘導するような素振りなのに、逃げ出せない怖さを感じる。
「あ、あの! まだ、しごとが……」
それに、きり丸くんも……と言おうとして言葉を飲み込む。下手に名前を出しても良いことない。
「あなたならべっぴんですし、パートの宣伝にももってこいです! 八方斎様がすぐ採用してくれますよ!」
「八方斎……? いえ、私そんなつもりは……!」
「謙遜しなくて良いんですよ! いやー、良かった良かった!」
半ば無理矢理に連れて行かれて、店を出る。
ま、まずい。
きり丸くんが、あとで土井先生に伝えてくれるだろうか。私もきり丸くんも……きっと、すごい剣幕で怒られそうだ。バイト禁止令が出されて、外出許可を出してもらえないかもしれない。
「ほ、本当に、パートするつもりはなくて……!」
「またまたあ!」
腕をやんわりと掴まれて、イヤな汗が背中を伝う。ドクタケの人の手を引き離すように押さえた。
通り過ぎる人がチラチラと私たちを気にする。それなのに誰も助けてはくれず、半ば諦めかける。もたもたと引き摺られるように歩いて、何とか時間稼ぎをしていった。
ザッザッザッ
地面を蹴る足音が、段々こちらに向かって大きく近づいてくる。何かがコツンと隣の男の頭に当たったようだ。
「……いたッ!」
ころっと小石が地面に転がった。男が後頭部を押さえて怒りをはらんだ声を上げる。
「彼女が嫌がっているだろう! 離せ、風鬼!」
この声は……!
振り返ると険しい表情の先生がいた。
……聞きたくて、でも一番この場を見られたくなかった人だ。また、心配させてしまう。
「……は、半助さんっ!」
「土井半助か?!」
「そうだ、彼女を今すぐ離すんだ!」
風鬼と呼ばれた赤いサングラスの男が怯んで、一瞬の隙を見せた。掴まれた腕を振り切り、土井先生の元へ駆けていく。勢い余って胸に飛び込むと、しっかりと抱き留めてくれた。
「もう大丈夫だ」
「ありがとうございます……」
人前ということを忘れて、そのあたたかさにぎゅっとしがみついた。優しく背中をなでられ、乱れた呼吸が静まっていく。気持ちが落ち着くと、ここは街中だと我にかえり体を離した。
「パートの面談に連れて行くだけだ! そうでしょう、お嬢さん?」
「私は、パートをするつもりはありません!」
「名前さーんッ! 風鬼ぃ! こんな所で何してやがるっ!」
「えぇい、なんだなんだ! まったく、面倒なやつらだ!」
きり丸くんが騒動を聞いて慌てて走ってきたようだ。風鬼さんは捨て台詞を吐きながら足早に立ち去った。その後ろ姿をぼんやり眺める。野次馬たちも止めた足を動かし始めた。
「バイトが終わる頃かと様子を見にきたんだ。助けられて良かった」
「先生……」
安心させるような声色で、そっと頭を撫でられると力が抜けそうだ。ふと視界に入る人々は、ひそひそと何かを話している。
気まずさを振り払うように、土井先生ときり丸くんの腕を引っ張る。一緒に人混みをかき分け、足早にうどん屋へと戻っていった。
「おじさん、もー大変でしたよ!」
「いやぁ、すまないね! こんな騒ぎになるなんて。お詫びにうどん、ご馳走するから」
「ありがとうございまーすっ!」
店主のおじさんは平謝りだ。きり丸くんは責めるような顔つきから一転、目を小銭にして涎を垂らしながら喜んでいた。土井先生と顔を見合わせくすくす笑う。
みんなで席に着くと、しばらくしてうどんが3つ運ばれてきた。あつあつの丼からは、鰹節や煮干しの出汁の香りが湯気とともにふわりと立ちこめる。
「うわぁ、美味しそうっ」
みんなで「いただきまーす」と手を合わせ、白くてもちもちの麺を味わう。土井先生のかまぼこをきり丸くんがつまみ、ぱくりと口へと運んでいく様子に目を細める。つるりとうどんをすすっていった。
「名前さん、良い食べっぷりっすね!」
「えっ、ありがとう?」
褒められているのか、食いしん坊に思われたのか。反応に困りつつはにかんで答える。土井先生は、そんな私たちを穏やかな顔で見ていた。
「おじさん、ご馳走さまでした!」
「きみ、またバイト頼むよ! このお姉さんに、今度は給仕をお願いしたくてね。愛想良いし、仕事は丁寧だし、さらに繁盛するなあ!」
「分かりました! じゃっ紹介料を……あひゃあひゃ!」
「きり丸ッ!!」
「あの、ありがとうございます! ぜひ、よろしくお願いします」
「名前さんもっ……!」
愛想がいいって、また変な奴が彼女に寄ってくるじゃないか……!そんなにアルバイトをする理由って、たしか……。
店主がうつわを下げて戻ってくると、みんなで挨拶をしてから店を出た。
*
赤く染まる空の下。
三人並んで、のんびりと学園へと歩みを進める。隣を歩く名前さんは夕日に照らされ、一段と眩しく見えた。
「いやー、名前さん! 次の仕事ゲットですね!」
「あはは、ラッキーだよねっ。きり丸くんも一緒によろしくね」
「……名前さん。その、バイトってまだするつもりなのか?」
「はい、色々と必要なものがあって。でも、お仕事に影響しないよう気をつけますから」
……違う。そういうことじゃなくて。
ずっと考えていたことだ。
でも、言ってしまったら……どんな顔をされるだろう。嫌がるだろうか……?
「……夏休み、私の家に来るかい? うちなら、必要なものは一通り揃っているから」
「え、っと。ありがたいのですが……。先生おひとりのお家に、」
大木先生のところへ帰って欲しくない。そんな気持ち、大人気ないし自分勝手なのは十分承知だ。
手と手が触れそうな距離の彼女を、チラリと目の端で捉える。困って、どう答えて良いか悩んでいるようだ。言わなければ良かった。
「それ、良いっすね! 名前さん、土井先生の家に来てくださいよーっ。夏休み、バイトたくさん入れるんで一緒にやりましょう!」
「えっ? ……きり丸くん、どういうこと?」
「あ、知りませんでしたっけ? おれ、夏休みの間はずっと土井先生の家にいるんで!」
「そ、そうなの?! きり丸くんと、杭瀬村で一緒に過ごそうと思ってたんだけど……!」
名前さんはびっくりした顔で私ときり丸を交互に確認する。一人暮らしで誘ったらそれは……子どもの前でよろしくない。変に勘違いされてしまって、急に恥ずかしさが襲ってきた。
それにしても、きり丸と一緒に過ごすつもりだったとは……。戦で家族を失ったことを知っているのだろうか。気遣ってくれて、自分のことのように嬉しくなる。
「そうなんっす! だから、名前さんが来てくれたら〜美味しいご飯も食べられるし、バイトも一緒に出来るし! あひゃあひゃっ」
思わず、きり丸ッ!!と叫びたいのをぐっと飲み込む。もしかしたら……。きり丸のために泊まってくれるかもしれない、なんて下心みえみえな考えが頭をよぎる。
「どうしよう。大木先生の畑も手伝わないといけないから、日帰りで……とか?」
「いや、杭瀬村からわざわざ面倒ですって! お願いしますよ〜っ! ねっ?」
「う、うん。それも、そうだね……! きり丸くんのバイト手伝うって約束だから。じゃあ、少しだけ、お邪魔するね」
「やったー!」
「土井先生、大丈夫でしょうか……? 泊まらせてもらうなんて。わたし、美味しいご飯作りますから」
「もちろん、いいに決まってるじゃないか! いやあ。なんだか、こちらこそ手伝わせてしまって悪いね」
じっと二人の様子をうかうがっていたが……。きり丸よくやった!いいんだ。君が一緒にいてくれたら、それだけで……!
そうこうしている内に、学園の門の前に着いてしまった。こんな事になるとは、いまさらドキドキしてきた。
「そうと決まったら、大木先生にお伝えしなきゃっ。夏休みの半分は、土井先生ときり丸くんのお家に行きますって」
「は、半分だけ!?」
「……? そうですけど、お邪魔しすぎでした!?」
「い、いや! ちがうんだ、お邪魔しすぎだなんて、そんな」
そうだよな、大木先生の所にまったく帰らないのはあり得ないか……。
名前さんは、きょとんとした顔をして。
上がったり下がったりの感情に、なんだかドッと疲れた気がする。キリキリ痛む胃を押さえながら、嬉しいやら悲しいやら……。何とも言えない気持ちで門をくぐるのだった。
あぁ……、ついに泣いてしまった。
「べろべろばー! ほら、こっちみてっ。いい子いい子、ほら……」
「ひ、ひぁっ、ほぎゃー!!」
「えっ、き、きみも〜!?」
忍たま長屋に似つかわしくない赤ちゃんの泣き声が響き渡る。部屋の真ん中に敷かれた布団のそばで、ただうろたえるばかり。
きり丸くんが犬の散歩をする間、赤ちゃんの子守りを任されたのだ。それも私一人で。元はと言えば、私がアルバイトを紹介して〜!とお願いしたからなんだけど……。
きり丸くんには、紹介のお礼に少しお駄賃を渡しているから喜んで仕事を分けてくれる。
一人が泣き出すと双子のもう一人もふにゃふにゃ言い出して、盛大に泣き出してしまった。
子守りの経験なんてなくて、きり丸くんに一から教えてもらったばかりだ。抱き方からおんぶの方法、飴湯の作り方、おしめの変え方……。
聞いて学ぶのと、実際にやってみるのは大違いだった。か弱く小さな命を前に、どうして良いか分からず途方に暮れてしまう。
そうこうしていると障子がかたりと開き、待ち望んでいた助っ人がやっと来てくれた。
「……っ、土井先生ー!?」
きり丸くんから、子守のプロが来ますから!と言われていたけれど……。まさか土井先生だったとは。
……この間、尊奈門さんのあんな事件があったばかりだ。弱っていたこともあって、甘えるように縋ってしまった。不安をぶつけたからか、そこから先生と少し打ち解けたような、近づいてしまったような気がする。思い返すと恥ずかしさが蘇る。けれど、今はそんなことを言ってはいられない。
「遅くなってすまない! 一人で大変だっただろう?」
「もう、どうしたら良いか分からなくって。来てくれてありがとうございます……!」
先生は静かに座ると、赤ちゃんを優しく見つめる。泣き声にかき消されながらも、泣いてしまった顛末を説明する。はだけた布団を掛けてあげたら、顔を真っ赤にして起きてしまったのだ。
「暑かったんだろう、たくさん汗をかいて。もう一人は……泣き声でびっくりしてしまったようだね」
「先生。どうしたらいいか、私に教えていただけませんか……?」
「もちろんだ。まずは、体を拭いてあげようか」
そう言うと、先生は慣れた手つきで産着を脱がせていく。私は慌てて桶に入れたぬるま湯を手ぬぐいで湿らせ、小さな体を拭いてあげた。気持ちよさそうな顔でむにゃむにゃ言って可愛らしい。もう一人は、土井先生が抱っこをすると泣き止んでしまった。
忍装束と赤ちゃん、なんとも不思議な光景だった。
「ふふ、土井先生すごいです」
「まあ、これくらいの事は慣れてるから」
照れ臭そうな先生に、くすっと笑ってしまった。気を緩めた瞬間、ぴゅーっと水が飛んでくる。
「ひゃっ、おしっこ……!?」
「やられちゃったな」
「びっくりしたあ……」
「きっと気持ちよかったんだろう。気をつけないと、たまにあるんだ」
赤ちゃんをもう一度きれいな手拭いで拭いてあげる。そのあと新しい産着でくるんだ。
それにしても、土井先生はすごく詳しい。まるで子どもがいるみたいだ。でも、独身って言ってなかったっけ? え、まさか、隠し子がいるとか!?
「どうしたんだい? さっきから変な顔をして」
「いえ、あまりに詳しいので、その……」
「あのー、誤解しているみたいだけど……。きり丸に子守りのバイトを押し付けられて、上達してしまっただけで」
「すみません! お子さんがいるのかと勘違いをしてしまって」
先生が乾いた笑いをもらす。「参ったなぁ」と、ほほを掻くも、言われ慣れている雰囲気だ。独り身と分かり、どこか安心する自分がいた。
それから、飴湯を一緒に作って抱っこをしながら飲ませる。なんだか夫婦みたいで少しこそばゆい。
お腹が満たされたのか、赤ちゃんは二人揃ってお口をむぐむぐしながら眠ってしまった。起こさないように、ゆっくりと布団へ寝かせる。
「寝ちゃったな」
「幸せそうな顔して、可愛いっ」
二人で顔を見合わせ、こそこそ話す。最初はどうなるかと思ったけれど……。こんなに幸せなバイトだったら、ぜひまたお願いしたい。
――カタッ
「……赤ちゃん、寝てますか?」
静かにきり丸くんが入ってきた。
犬の散歩が大変だったのか額の汗を拭っている。うんうんと頷き目で合図した。
「名前さん、土井先生、ありがとうございました……!」
「一人で不安だったけど、土井先生ってすごいね」
「きり丸、名前さんがバイトしたいって言っても無茶させたらダメだぞ」
「はいはーい、分かってますって!」
「本当に分かったのかぁ〜!?」
土井先生はため息をついている。私のせいできり丸くんが注意されてしまったことにバツが悪くて。両手を合わせ静かに「ごめん」と伝えた。
「でも、名前さんも将来お母さんになるんすから。お金も稼げて勉強もできるなんて、いいじゃないっすか!」
「私が、お、お母さん……!?」
きり丸くんは目を銭にして喜んでいる。
……そうだ。
いつか、結婚して子どもが産まれて。こちらに来る前なら、楽しみだったかもしれない。でも、今はそんなことが叶うのかどうか。明日が訪れるなんて保証はないのだ。不安定な自分に、重苦しい気持ちになる。
「そうっすよね? 土井先生っ」
「ま、まあ、いずれはだな」
きり丸くんが無邪気に土井先生をからかう。先生は少し赤くなって、すやすや眠る赤ちゃんを見つめていた。
「あ、明日はうどん屋の皿洗いっすから。名前さん、よろしくお願いしまーす!」
「うん、頑張るね」
「……おい、きり丸! 注意したそばから、」
「しーっ! 先生、起きちゃいますってば……!」
そう言われると何も言えなくて、土井先生は苦虫を噛んだような顔をしていた。
*
――次の日。
にぎやかな街の中。美味しいと評判のうどん屋は沢山の人が行列を作っていた。
私ときり丸くんは、店の裏口でうつわを洗っている。大きなたらいに入った沢山の食器はカチャカチャぶつかりあう。髪が落ちてこないように手拭いをかぶり、着物はたすき掛けにして、しっかりと手を動かした。
「ふぅ。朝からずっとしゃがんでると疲れるねえ」
「そうっすね、良かったら休んできてください!」
きり丸くんだけに任せるわけにはいかない。ついつい弱音を吐いてしまった自分に喝を入れる。
「ううん、大丈夫。どこんじょー!で頑張るから」
「名前さんまで、大木先生みたいなこと言わないでくださいよー」
あははと笑い合って、またどんぶりを洗う作業を続けていく。
「そういえば……。買いたいもの、買えそうなんすか?」
「うん。あとちょっと、かな」
「じゃあ、今度は筆作りの内職お願いしまーすっ」
「はーい!」
たらいの水を入れ替えるため、近くの井戸で綺麗な水を汲む。何度目の作業だろうか。
調理場から渡される、汚れた食器もだいぶ少なくなってきた。もうそろそろ、バイトが終わりの時間かもしれない。奥から、「おーい」と呼ばれて二人で店の中へと向かう。
人の良さそうな店主のおじさんが、今しがたお店を閉めたと教えてくれた。
「お疲れさま。悪いが、店内のそうじを手伝ってくれないかな。そこの男の子は、残りのうつわを片付けてくれ」
きり丸くんに、また後でと告げると濡れふきんを手に机を拭いていく。店内はそこまで広くなく、こじんまりとしていて落ち着いた印象だ。
ふと壁を見ると、お品書きと並んで飾られている派手な貼り紙に目が留まった。お店の雰囲気に似合わない。何だろうとまじまじ見つめる。
「パート募集……ドクタケ城で働いてみませんか…。高時給、高待遇…?! ……女性のみ…?」
詳しい仕事内容は書いてないけど、何をするんだろう。ドクタケって、しぶ鬼くんとか、魔界之先生のところだよね……?変な内容じゃないと思うんだけど……。でも、非常に怪しい気がする。
「気になるのかい? どうしてもそのチラシを貼らせて欲しいって頼まれてねえ」
「そ、そうなんですか……」
「あ、ほら。あの人だ」
指差された方に目を向ける。赤い丸のサングラスをかけた面長の男性が、店の中をのぞきこちらに近づいてくる。
「このお嬢さん、パートに興味あるようだよ」
「そうですかぁ! ちょうど良かった、様子を伺いに来たんですが……これからドクタケ城で面談はいかがです?」
「え、いや、わたし、予定があって……!」
「すぐ終わりますから!」
さあさあと背中に手を当てられ、連れていかれそうになる。誘導するような素振りなのに、逃げ出せない怖さを感じる。
「あ、あの! まだ、しごとが……」
それに、きり丸くんも……と言おうとして言葉を飲み込む。下手に名前を出しても良いことない。
「あなたならべっぴんですし、パートの宣伝にももってこいです! 八方斎様がすぐ採用してくれますよ!」
「八方斎……? いえ、私そんなつもりは……!」
「謙遜しなくて良いんですよ! いやー、良かった良かった!」
半ば無理矢理に連れて行かれて、店を出る。
ま、まずい。
きり丸くんが、あとで土井先生に伝えてくれるだろうか。私もきり丸くんも……きっと、すごい剣幕で怒られそうだ。バイト禁止令が出されて、外出許可を出してもらえないかもしれない。
「ほ、本当に、パートするつもりはなくて……!」
「またまたあ!」
腕をやんわりと掴まれて、イヤな汗が背中を伝う。ドクタケの人の手を引き離すように押さえた。
通り過ぎる人がチラチラと私たちを気にする。それなのに誰も助けてはくれず、半ば諦めかける。もたもたと引き摺られるように歩いて、何とか時間稼ぎをしていった。
ザッザッザッ
地面を蹴る足音が、段々こちらに向かって大きく近づいてくる。何かがコツンと隣の男の頭に当たったようだ。
「……いたッ!」
ころっと小石が地面に転がった。男が後頭部を押さえて怒りをはらんだ声を上げる。
「彼女が嫌がっているだろう! 離せ、風鬼!」
この声は……!
振り返ると険しい表情の先生がいた。
……聞きたくて、でも一番この場を見られたくなかった人だ。また、心配させてしまう。
「……は、半助さんっ!」
「土井半助か?!」
「そうだ、彼女を今すぐ離すんだ!」
風鬼と呼ばれた赤いサングラスの男が怯んで、一瞬の隙を見せた。掴まれた腕を振り切り、土井先生の元へ駆けていく。勢い余って胸に飛び込むと、しっかりと抱き留めてくれた。
「もう大丈夫だ」
「ありがとうございます……」
人前ということを忘れて、そのあたたかさにぎゅっとしがみついた。優しく背中をなでられ、乱れた呼吸が静まっていく。気持ちが落ち着くと、ここは街中だと我にかえり体を離した。
「パートの面談に連れて行くだけだ! そうでしょう、お嬢さん?」
「私は、パートをするつもりはありません!」
「名前さーんッ! 風鬼ぃ! こんな所で何してやがるっ!」
「えぇい、なんだなんだ! まったく、面倒なやつらだ!」
きり丸くんが騒動を聞いて慌てて走ってきたようだ。風鬼さんは捨て台詞を吐きながら足早に立ち去った。その後ろ姿をぼんやり眺める。野次馬たちも止めた足を動かし始めた。
「バイトが終わる頃かと様子を見にきたんだ。助けられて良かった」
「先生……」
安心させるような声色で、そっと頭を撫でられると力が抜けそうだ。ふと視界に入る人々は、ひそひそと何かを話している。
気まずさを振り払うように、土井先生ときり丸くんの腕を引っ張る。一緒に人混みをかき分け、足早にうどん屋へと戻っていった。
「おじさん、もー大変でしたよ!」
「いやぁ、すまないね! こんな騒ぎになるなんて。お詫びにうどん、ご馳走するから」
「ありがとうございまーすっ!」
店主のおじさんは平謝りだ。きり丸くんは責めるような顔つきから一転、目を小銭にして涎を垂らしながら喜んでいた。土井先生と顔を見合わせくすくす笑う。
みんなで席に着くと、しばらくしてうどんが3つ運ばれてきた。あつあつの丼からは、鰹節や煮干しの出汁の香りが湯気とともにふわりと立ちこめる。
「うわぁ、美味しそうっ」
みんなで「いただきまーす」と手を合わせ、白くてもちもちの麺を味わう。土井先生のかまぼこをきり丸くんがつまみ、ぱくりと口へと運んでいく様子に目を細める。つるりとうどんをすすっていった。
「名前さん、良い食べっぷりっすね!」
「えっ、ありがとう?」
褒められているのか、食いしん坊に思われたのか。反応に困りつつはにかんで答える。土井先生は、そんな私たちを穏やかな顔で見ていた。
「おじさん、ご馳走さまでした!」
「きみ、またバイト頼むよ! このお姉さんに、今度は給仕をお願いしたくてね。愛想良いし、仕事は丁寧だし、さらに繁盛するなあ!」
「分かりました! じゃっ紹介料を……あひゃあひゃ!」
「きり丸ッ!!」
「あの、ありがとうございます! ぜひ、よろしくお願いします」
「名前さんもっ……!」
愛想がいいって、また変な奴が彼女に寄ってくるじゃないか……!そんなにアルバイトをする理由って、たしか……。
店主がうつわを下げて戻ってくると、みんなで挨拶をしてから店を出た。
*
赤く染まる空の下。
三人並んで、のんびりと学園へと歩みを進める。隣を歩く名前さんは夕日に照らされ、一段と眩しく見えた。
「いやー、名前さん! 次の仕事ゲットですね!」
「あはは、ラッキーだよねっ。きり丸くんも一緒によろしくね」
「……名前さん。その、バイトってまだするつもりなのか?」
「はい、色々と必要なものがあって。でも、お仕事に影響しないよう気をつけますから」
……違う。そういうことじゃなくて。
ずっと考えていたことだ。
でも、言ってしまったら……どんな顔をされるだろう。嫌がるだろうか……?
「……夏休み、私の家に来るかい? うちなら、必要なものは一通り揃っているから」
「え、っと。ありがたいのですが……。先生おひとりのお家に、」
大木先生のところへ帰って欲しくない。そんな気持ち、大人気ないし自分勝手なのは十分承知だ。
手と手が触れそうな距離の彼女を、チラリと目の端で捉える。困って、どう答えて良いか悩んでいるようだ。言わなければ良かった。
「それ、良いっすね! 名前さん、土井先生の家に来てくださいよーっ。夏休み、バイトたくさん入れるんで一緒にやりましょう!」
「えっ? ……きり丸くん、どういうこと?」
「あ、知りませんでしたっけ? おれ、夏休みの間はずっと土井先生の家にいるんで!」
「そ、そうなの?! きり丸くんと、杭瀬村で一緒に過ごそうと思ってたんだけど……!」
名前さんはびっくりした顔で私ときり丸を交互に確認する。一人暮らしで誘ったらそれは……子どもの前でよろしくない。変に勘違いされてしまって、急に恥ずかしさが襲ってきた。
それにしても、きり丸と一緒に過ごすつもりだったとは……。戦で家族を失ったことを知っているのだろうか。気遣ってくれて、自分のことのように嬉しくなる。
「そうなんっす! だから、名前さんが来てくれたら〜美味しいご飯も食べられるし、バイトも一緒に出来るし! あひゃあひゃっ」
思わず、きり丸ッ!!と叫びたいのをぐっと飲み込む。もしかしたら……。きり丸のために泊まってくれるかもしれない、なんて下心みえみえな考えが頭をよぎる。
「どうしよう。大木先生の畑も手伝わないといけないから、日帰りで……とか?」
「いや、杭瀬村からわざわざ面倒ですって! お願いしますよ〜っ! ねっ?」
「う、うん。それも、そうだね……! きり丸くんのバイト手伝うって約束だから。じゃあ、少しだけ、お邪魔するね」
「やったー!」
「土井先生、大丈夫でしょうか……? 泊まらせてもらうなんて。わたし、美味しいご飯作りますから」
「もちろん、いいに決まってるじゃないか! いやあ。なんだか、こちらこそ手伝わせてしまって悪いね」
じっと二人の様子をうかうがっていたが……。きり丸よくやった!いいんだ。君が一緒にいてくれたら、それだけで……!
そうこうしている内に、学園の門の前に着いてしまった。こんな事になるとは、いまさらドキドキしてきた。
「そうと決まったら、大木先生にお伝えしなきゃっ。夏休みの半分は、土井先生ときり丸くんのお家に行きますって」
「は、半分だけ!?」
「……? そうですけど、お邪魔しすぎでした!?」
「い、いや! ちがうんだ、お邪魔しすぎだなんて、そんな」
そうだよな、大木先生の所にまったく帰らないのはあり得ないか……。
名前さんは、きょとんとした顔をして。
上がったり下がったりの感情に、なんだかドッと疲れた気がする。キリキリ痛む胃を押さえながら、嬉しいやら悲しいやら……。何とも言えない気持ちで門をくぐるのだった。