第19話 好き嫌いと君
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「野村先生、おはようございます!」
「おはようございます、名前さん。今日もお綺麗ですね」
「またまた、先生ったら」
いつでも紳士な野村先生は、朝もキリッとしていて格好いい。先生へみんなと同じように味噌汁やご飯をお盆にのせようとして、その手を止める。
……今日の味噌汁はネギが入っている。たしか、先生の苦手なものだったはずだ。
「ネギ、抜いておきましたよっ」
「……ありがとうございます。貴女の手を煩わせて申し訳ない」
カウンターから乗り出し野村先生に体を寄せる。おばちゃんに見つからないようにこそっと耳打ちをした。心なしかほほに赤みがさす先生が可愛い。
二人で目線をバチっと合わせて共に頷くと、なんだか忍務完了!のようでわくわくしてしまう。テーブルに向かう後ろ姿を見送っていると、背後から声がかかる。
「名前ちゃん、甘やかしたらダメじゃない。もう、先生方ときたら困っちゃうわ」
「おばちゃん、すみません……」
奥の厨房からおばちゃんがやってきた。片付けもそこそこに、眉間に皺を寄せながらチクリとたしなめられる。バレていたみたいで思わず身を縮こませた。もしかして、土井先生の練り物もお見通しだったのかもしれない。
「そうだ! 今度、先生たちに嫌いなものを克服してもらうって言うのはどうかしら?」
「ぜひ、好き嫌いをなくして欲しいですけど……。でも、どうしましょう」
「名前ちゃんの手料理なら食べてくれるんじゃないかしら? 腕も上達してきたし、きっと上手くいくわよ!」
「えーっ!?」
おばちゃんはさっきと打って変わって、閃いた!と言う顔で提案する。確かに忍たまの手前、好き嫌いをなくしてみんなの見本となって欲しい。そして、心を込めて作った料理は全部おいしくいただいて欲しいけれど。私にできるのだろうか……?
土井先生は練り物。
野村先生はラッキョとネギ。
雅之助さんは……納豆と生卵、だっけ。
あとで図書室にいって料理の本を借りてこよう。
*
――午後。
日差しが容赦なく照りつけ初夏の陽気だ。
「よーし! 手裏剣打ち、始め!」
シュッ――……
タンと的に当たる音が中庭に響く。
二年い組の出来栄えは本当に素晴らしい。メガネをかけ直すと、良くやったと見てまわる。授業に集中しなければならないのに、今朝の名前さんが頭をよぎって仕方がない。
私のことを考えて融通してくれるのだ。今朝のようにネギが入っていればネギを抜き、ラッキョの小鉢は他のものを見繕ってくれる。
耳元でこそっと囁かれると、年甲斐もなく心臓がはねた。カウンター越しに一所懸命からだを寄せる名前さんの姿が可愛らしくて。
練り物嫌いの土井先生にも同じ事をしているのだろうか……?あんなに素敵な女性が、なんでド根性バカの家に身を置かなくてはならなかったのか……可哀想に。そんなことを考えるだけでムカムカする。
……しかも、おばちゃんにはバレているから当分はネギもラッキョも我慢しなければならない。名前さんは気づかずニコニコしていたのもグッとくるところではあるのだが……!
「あのー、野村先生? ……手裏剣打ちは続けますか?」
「能勢くん、申し訳ない。続けてくれたまえ」
――カーン…
午後の授業が終わった音が学園中に響きわたる。備品倉庫にもその鐘が聞こえ、格子窓のそとを眺めた。
「小松田くん、こっちの整理は終わったよ」
「名前さん! ぼくも……って、わぁっ!」
「……あぶないっ!」
手裏剣の木箱が落ちかけ、慌ててぐいっと押しもどす。その勢いで腕を棚にぶつけ鈍い痛みが走るも、手裏剣をぶちまける事態は回避できた。小松田くんの袖が箱の角に引っかかってしまったようだ。ことなきを得て、二人でふうっと安堵のため息をついた。
「いつもごめん……」
「阻止できてよかったぁ。じゃあ、吉野先生に報告しに行こう?」
「そうしましょ〜!」
備品整理も一段落ついたから、図書室に行けるかもしれない。すこし早足で吉野先生の部屋へ向かう。
カタッと障子を開ける。事務室では吉野先生が書き物をしていた。話しかけると顔を上げて、こちらを優しい声音で労ってくれる。
「お二人とも、お疲れ様でしたね」
「ぼくがまた手裏剣の箱を落としそうになって、名前さんに助けてもらったんです〜!」
「……名前くん、それは本当ですか?」
「え、ええ。でも何とかなりましたので……」
「小松田くん、君は残りなさい」
「ひ、ひぇ〜っ」
怒りのにじむ吉野先生に頭を下げて部屋を失礼する。先生の大きなカミナリを聞きながら、そーっと図書室へと進んでいった。
戸口の前につくと、わくわくしながら引き手に触れる。今日はだれが当番だろう?
図書室には医務室くらいお世話になっている。筆の練習のため、頻繁に本を借りにお邪魔していたのだ。その度に図書委員会のみんなと話すことも多くなっていた。
「こんにちは、名前さん」
「あっ、久作くん!」
久作くんはたくさんの本を抱え、一冊ずつ棚に戻していた。
「料理の本を探しているんだけど、この棚であってるかな?」
「えぇ、そちらで合ってますよ。何を作るんですか?」
本棚の間に入ってどれどれと探す。久作くんは作業の手を止め、まん丸の目で興味津々な様子だ。
「えーっとね、先生たちの好き嫌いを無くそうと計画しているんだ。素材の調理法とか良さそうなレシピを調べようと思って」
「もしかして、土井先生と野村先生ですか?」
「うん、あと大木先生もっ」
二人してくすくす笑ってしまった。背後に長次くんの冷たい視線を感じるとピッと口を閉じる。
「あ、そうだ。大木先生は本の返却が遅いので名前さんからおっしゃっていただけますか?」
「また返してないの?! まったく……。ちゃんと言っておくね」
「名前さんから言われたら、きっと期限内に返却いただけると思うので」
自信満々に言われてびっくりする。私ってそんなに怖く見えるのだろうか。その後、ひっそりと本を探しつつ何冊か受付に持っていった。
「長次くん、お願いします」
「……もそ」
「料理の本いっぱい借りちゃいました」
「……気にしないでください」
「中在家先輩はお菓子作りが上手なんですよ! あ、ボーロの中に苦手な物を入れるなんてどうですか?!」
「ボーロの中かぁ。久作くん、それいいかも! ありがとうっ」
「せ、先輩っ、顔が……!」
長次くんが不気味に目尻を下げ、口角を釣り上げるとその恐ろしさに久作くんと一緒に後ずさる。
「ぼ、ボーロにそんなことしないから……!」
「……もそ」
*
いよいよ当日。
土井先生と野村先生には、前もって新作レシピを味見して欲しいとお願いしていて。雅之助さんには、きり丸くんがバイトの時に杭瀬村を通るというので伝言をお願いしたのだ。
割烹着に腕をとおし調理台に向かうと、おばちゃんに考えた料理を説明する。準備したとはいえ、やっぱり不安になってしまう。
「おばちゃん、こんな感じで作ろうと思ってまして」
「あら、いい考えじゃないの!」
「良かった……! 不安だけど、がんばります!」
練り物、ネギ、納豆。
本当なら食材を活かして調理するのが正しいけれど、なるべく分からないように工夫していく。久作くんのアイディアをちょっと参考にさせてもらった。
練り物は、すり潰して卵と砂糖で混ぜて伊達巻みたいに。
ネギは思いっきりカリカリに揚げて臭みを消し、それを卵焼きの中に入れ込む。
納豆は卵と混ぜて焼いていく。熱を通したから粘り気は無くなってるはず……!
ちょこんと小皿に入れて並べて……準備完了だ。食堂のテーブルを拭いていると、入り口の方からこちらに呼びかける声が聞こえてきた。
「おう! おばちゃーん、それに名前も!」
「大木先生、来てくださったんですね!」
相変わらずボサボサの茶色い髪に白い鉢巻きで、来たぞ!なんて言っていて。ふきんを握りしめてそばに駆けよる。いつも通りの元気な姿に笑みがこぼれた。
「名前お手製の新作レシピだろう? 楽しみにしてたぞ!」
「大木先生、きっと気に入るわよ! 名前ちゃん頑張ってたんだから」
確かにそうなんだけど、ちょっと心が痛い。あはは……お口にあうかなぁ?なんてとぼけてみた。
「お、事務の制服は初めて見たがよく似合ってるなあ」
「ありがとうございます! お会いするとき、いつも着物でしたもんね」
……この笑顔がどうなってしまうのだろう。内心ヒヤヒヤしてしまう。そんな話をしていると、土井先生と野村先生が並んでやって来た。
「土井先生も野村先生もありがとうございます!」
「貴女の料理、楽しみにしてましたよ」
「おーい、野村雄三は来なくていいぞー」
「ふんっ。私は名前さんから呼ばれて来ているのだ。お前は早く畑に帰れ」
「なんだとー!?」
「まぁまぁ、大木先生も野村先生も落ち着いてください。名前さんが困ってますよ?」
まったくもう……とため息をついていると土井先生が助けてくれた。
「では先生方、こちらにどうぞっ」
テーブルに土井先生、大木先生、野村先生と並んでかけてもらう。何でわしと野村が隣なんだと文句を言い合っているのは無視するとして……。
「こちらが、苦手克服できちゃう卵焼きです!」
それぞれに定食を並べていく。
三人とも最初は笑顔だったのに、次第に真顔になる。ポカンとしながら卵焼きがのった小皿を見つめていた。
「なんじゃ、名前? 苦手克服なんて聞いてないぞ!?」
「え、練り物入りですか……!?」
「……どういう事です、名前さん。貴女らしくない」
「で、でもっ、美味しく作りましたから!」
冷や汗をかきながら工夫したところを説明する。最初の笑顔はどこへ消えたのか。予想した通り一様にがっくりとうなだれてしまった。三人と向かいあって椅子に座り、必死に美味しさをアピールする。
……でも、全然食べてくれない。
おすすめポイントをひたすら話していると、授業が終わった六年生たちがぞろぞろと食堂へやってきた。食堂がさらに賑やかになる。
「もう、先生方ったら……!」
すると雅之助さんが意味ありげに口角を上げ、その口元からは尖った歯の先がチラリとのぞく。この顔は何かを企んでいそうだ。
「じゃあ最初は……名前に手本をみせてもらおうじゃないか」
「て、手本……ですか?」
「雅之助、お前なにを考えているんだ……?」
雅之助さんのたれ目がさらに下がって、目元にあやしさが宿る。土井先生も野村先生も不思議そうな顔をしてその様子を見つめていた。
「わ、私は……、先生方と違って好き嫌いなんてありません!」
ぷいっとほほを膨らませジロリと睨む。どういうつもりか全然わからない。それでも視線はそらせない。勝負を挑むかのようにむむっと見つめた。
険しい目つきの名前にニヤリとする。
せっかく手料理だと言うから楽しみにしていたのに。野村雄三はいるし苦手なものは出されるしで参ってしまう。なんで突然そんなことを?
……まあ良い。そんな彼女を少しからかってやろう。懐から黒い塊をつまむと、ずずいと名前の目の前に突き出した。
「そうか、好き嫌いがないのは偉いなあ! ……ほれ、イナゴの佃煮」
「えっ、い、イナゴ!? な、なんでそんなの持ってるんですかっ!」
「うまいぞ、名前! ほれほれー?」
テーブルに身を乗り出してさらに彼女の口元に近づける。名前はぎゅっと目をつむり、わしを遠ざけるように両手を前に突き出してバタバタ抵抗する。
「ひゃっ、む、虫は……い、ぃやっ! ……や、ですっ!」
「お前の好きな、あまーい味付けだぞ? ……ほれ、食べてみなさい」
「んっ! ん、もぅ……ちょっと! も、やめっ……て、んんッ……」
「……好き嫌いは良くないよなあ?」
「やっ……! やだ、せんせ、もぅ…っ」
「おい! 名前さんになんてことをするんだ! この馬鹿ッ!」
「大木先生、もうその辺で……」
ん?と両隣を見ると顔を真っ赤にしている。名前をからかうのが楽しくて意識しなかったが、聞き様によっては変な想像をしてしまうかもしれん。
目をぎゅっと瞑って顔をそむけるから、汗ばんだ白い首筋が露わになる。もし頭巾を被っていなかったら、きっと髪もまとわりついていただろう。
そんな姿であんな風にいやいや言われると……。いかんいかん!
「お、おい、名前。……これは黒豆だぞ?」
「……え? 黒豆……? ほんとだっ」
よからぬ事を想像しているだろう両隣をジーっと睨みけん制すると、名前に本当のことを教えてやる。彼女は「なーんだ! 大木先生ってば!」とからから笑うと、おもむろにこちらに近づいてくる。
……ぱくり。
ぴとっと指先に柔らかな唇が触れる。
一瞬のことだがその感触に体が固まってしまった。
……なんだ?わざとなのか?
……他のヤツにもやってないだろうな?
ん、甘いですね!ともぐもぐする名前をぼーっと見つめる。
突然、横からぐいっと胸ぐらを掴まれた。
「おい、雅之助ッ! 名前さんも、こんな汚いやつから、そ、その……ダメです! まったく、貴女という人はっ……!」
「ふんっ。わしと名前の仲だから問題ない!」
「大木先生、私とどんな仲なんですか?! 変なこと言わないでくださいっ!」
雅之助さんは変なこと言うし……どうしよう。なんだかすごい騒ぎになってしまった。土井先生は置いてきぼりで顔をひきつらせている。
するとドスドスと怒りに満ちた足音が聞こえてきた。
「ちょっと先生たち! 食堂で暴れないでちょうだい!」
怒りに燃えるおばちゃんに平謝りで、野村先生と雅之助さんを食堂から叩き出す。土井先生のところへ戻る途中、食事をしている六年生達の方へ駆け寄った。
「うるさくしちゃって、ごめん」
忍たまたちの手本になるようにと思っていたのに……。やっぱりこんなことになってしまった。留三郎くんと文次郎くんは静かにうつむいている。真面目な二人だから怒ってるのかもしれない。子どもみたいに騒いであきれているだろうか。
「留三郎くん、文次郎くん。本当にごめんなさい。気をつけます……ってあれ? だ、大丈夫!?」
「あぁ、名前さん。気にしないでください。色々妄想して鼻血を出してるだけなので」
仙蔵くんが何ともない風に髪をかびかせ教えてくれる。そして長次くんと小平太くんはどこ吹く風で、かまわずもぐもぐしていた。
「も、妄想……? あれ、伊作くんは?」
「伊作は……」
「お待たせー! 二人ともっ…」
急いで医務室から止血用の布を持ってきたのだろうか。食堂の入り口で盛大につまずき、布が宙を舞った。慌ててそばに寄り布を集めて手渡す。
「すみません名前さんっ! 助かります」
「気にしないで。それより、二人も鼻血出しちゃってどうしたんだろうね?」
「え、えぇと……何ででしょうね?」
あはは……と力なく笑う伊作くんが気になるけれど、土井先生のところに戻らなきゃと急ぐ。
「土井先生、色々すみません……」
「本当に……。ここは忍たまもいるのですから、少し慎んでください」
先ほどの大木先生と名前さんのやり取りを思い出すと無性にイライラしてしまう。名前さんも自覚がないのかそんな思わせぶりなことばかりして。気持ちのやり場がなく、もっともらしいことを言って冷たくしてしまう。
「……ごめんなさい」
「い、いえ、私も……。せっかく作ってくれたのにすみません。いただきますね」
しゅんとしてしまう名前さんに胸が痛む。そんな顔をさせたかった訳じゃないんだ。自分のために作ってくれたのだから。覚悟を決め、練り物入りの卵焼きをパクりと口に放り込む。
「……ん゛っ」
「大丈夫ですか?! ……無理しないでください」
申し訳なさそうに上目遣いで見つめられ無理やり飲み込む。たしかに、強い甘さで特有の風味が薄れていた。それでも、練り物と思うと……。慌ててお茶で流し込んだ。
「お、おいしかったです……!」
「ほんとですか!? 今度はもっと改良しますねっ」
「……え?」
――ドタドタドタ
「今日はこれぐらいにしといてやる!」
「なにを?! まだ言うか!」
土井先生が定食を食べていると野村先生たちが大きな足音を立てて戻ってきた。どかっと椅子に座ると二人とも腕組みをしてそっぽを向いている。
「土井先生は、おいしいって食べてくれましたよ。ねっ、せんせっ」
にこっと首を傾げて土井先生を見る。先生もちょっと得意げにうんうんと頷いてくれた。
「んなっ?! なにぃ? わしだって食えるぞ!」
「貴女が私を想って作ってくれたのですから……! いただきます!」
「わしが先だー!」
「私だって……!」
大の大人が真剣に早食い競争する様子に苦笑をもらす。でもそんな二人がおかしくて、必死な姿をのんびりと眺めるのだった。
騒ぎながらも食べ終わり、ひと息ついたころ。土井先生と野村先生はそれぞれ報告書や授業があるとのことで入り口まで見送った。
「おばちゃん、先生たち何とか食べてくれました!」
「あらぁ、よかったじゃない!」
カウンターの奥で作業していたおばちゃんに報告するとにこにこ顔だ。それから雅之助さんのテーブルへ走りよる。
「大木先生、色々ありましたけど……食べてくれてありがとうございました!」
「名前の頼みとなると、食べざるを得ないからなあ」
雅之助さんも何だかんだ完食してくれて、豪快な笑顔に優しさがにじむ。困った人だな、なんて思いつつ嬉しくなってしまうのだ。
ふと、きのう学園長先生から余り物のようかんをいただいたことを思い出す。大切な客用のものだから、きっと美味しいはずだ。
「大木先生、まだお時間よろしいですか? 食べてくれたお礼に……甘いものはどうかなと思って」
「時間ならあるが」
今度はちゃんと美味しいですから!なんてるんるんで食堂の中へ入り、お茶とようかんをお盆にのせて運ぶ。
「はいっ。お待たせしました!」
熱いお茶をふたつとお菓子のお皿をひとつ。食べようと思って取っておいたけれどお口直しにして欲しかった。
「ん? 名前は食べないのか?」
「私はいいんですっ。先生食べてください」
「だが、ようかんなんて甘いものの塊なんだ。食べたいだろうに。……ほれ」
甘いものは好きだけど……。お皿をこちらに寄せられて困ってしまう。キョロキョロと周りに忍たまがいないことを確認する。
「じゃあ、大木先生。……あーん」
「……お前、またそんなことを言って」
「みんながいないうちにっ」
竹でできた和菓子切りでようかんを半分にすると、すーっと突きさす。そのまま雅之助さんの口元へ差し出した。ほほを赤くしながらも大人しく口を開く姿が可愛い。
「……甘いな」
「ふふ、そうですね」
私もひと口ほおばり笑みをこぼした。
*
そろそろ杭瀬村へ戻る時間だ。名前は来なくていいと言ったのに着いてきて、二人で門へと歩いていた。
「そうだ、先生。本の返却、遅くなったらダメですからね?」
「そうだったか? いやあ、悪かったなあ!」
「もう、忘れないでください。図書委員の子たち、困ってるんですから」
「すまんすまん」
「それに……。本を返しに学園に来てくれること、楽しみにしてるんですよ? だから、」
歩く足を止めて向かい合うと、名前ははにかみながらこちらを見上げている。
だから……なんだ?
ぽかんとしていると、言葉のかわりにぎゅっと着物の袖の端をつまんでくる。
「わかったわかった。……これでは忘れられないな」
いじらしく催促をされたら、返しにくるに決まってるじゃないか。すっかり術に嵌められたようで、くの一の素質があるんじゃないかと思ってしまう。
ぽんと頭を撫でて見つめると嬉しそうに顔をほころばせている。こちらも目線を合わせるように屈むと、ニカッと笑った。
このまま連れて帰ってしまいたくなる、そんな気持ちを閉じ込めて、じゃあなと家路を急ぐのだった。
「おはようございます、名前さん。今日もお綺麗ですね」
「またまた、先生ったら」
いつでも紳士な野村先生は、朝もキリッとしていて格好いい。先生へみんなと同じように味噌汁やご飯をお盆にのせようとして、その手を止める。
……今日の味噌汁はネギが入っている。たしか、先生の苦手なものだったはずだ。
「ネギ、抜いておきましたよっ」
「……ありがとうございます。貴女の手を煩わせて申し訳ない」
カウンターから乗り出し野村先生に体を寄せる。おばちゃんに見つからないようにこそっと耳打ちをした。心なしかほほに赤みがさす先生が可愛い。
二人で目線をバチっと合わせて共に頷くと、なんだか忍務完了!のようでわくわくしてしまう。テーブルに向かう後ろ姿を見送っていると、背後から声がかかる。
「名前ちゃん、甘やかしたらダメじゃない。もう、先生方ときたら困っちゃうわ」
「おばちゃん、すみません……」
奥の厨房からおばちゃんがやってきた。片付けもそこそこに、眉間に皺を寄せながらチクリとたしなめられる。バレていたみたいで思わず身を縮こませた。もしかして、土井先生の練り物もお見通しだったのかもしれない。
「そうだ! 今度、先生たちに嫌いなものを克服してもらうって言うのはどうかしら?」
「ぜひ、好き嫌いをなくして欲しいですけど……。でも、どうしましょう」
「名前ちゃんの手料理なら食べてくれるんじゃないかしら? 腕も上達してきたし、きっと上手くいくわよ!」
「えーっ!?」
おばちゃんはさっきと打って変わって、閃いた!と言う顔で提案する。確かに忍たまの手前、好き嫌いをなくしてみんなの見本となって欲しい。そして、心を込めて作った料理は全部おいしくいただいて欲しいけれど。私にできるのだろうか……?
土井先生は練り物。
野村先生はラッキョとネギ。
雅之助さんは……納豆と生卵、だっけ。
あとで図書室にいって料理の本を借りてこよう。
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――午後。
日差しが容赦なく照りつけ初夏の陽気だ。
「よーし! 手裏剣打ち、始め!」
シュッ――……
タンと的に当たる音が中庭に響く。
二年い組の出来栄えは本当に素晴らしい。メガネをかけ直すと、良くやったと見てまわる。授業に集中しなければならないのに、今朝の名前さんが頭をよぎって仕方がない。
私のことを考えて融通してくれるのだ。今朝のようにネギが入っていればネギを抜き、ラッキョの小鉢は他のものを見繕ってくれる。
耳元でこそっと囁かれると、年甲斐もなく心臓がはねた。カウンター越しに一所懸命からだを寄せる名前さんの姿が可愛らしくて。
練り物嫌いの土井先生にも同じ事をしているのだろうか……?あんなに素敵な女性が、なんでド根性バカの家に身を置かなくてはならなかったのか……可哀想に。そんなことを考えるだけでムカムカする。
……しかも、おばちゃんにはバレているから当分はネギもラッキョも我慢しなければならない。名前さんは気づかずニコニコしていたのもグッとくるところではあるのだが……!
「あのー、野村先生? ……手裏剣打ちは続けますか?」
「能勢くん、申し訳ない。続けてくれたまえ」
――カーン…
午後の授業が終わった音が学園中に響きわたる。備品倉庫にもその鐘が聞こえ、格子窓のそとを眺めた。
「小松田くん、こっちの整理は終わったよ」
「名前さん! ぼくも……って、わぁっ!」
「……あぶないっ!」
手裏剣の木箱が落ちかけ、慌ててぐいっと押しもどす。その勢いで腕を棚にぶつけ鈍い痛みが走るも、手裏剣をぶちまける事態は回避できた。小松田くんの袖が箱の角に引っかかってしまったようだ。ことなきを得て、二人でふうっと安堵のため息をついた。
「いつもごめん……」
「阻止できてよかったぁ。じゃあ、吉野先生に報告しに行こう?」
「そうしましょ〜!」
備品整理も一段落ついたから、図書室に行けるかもしれない。すこし早足で吉野先生の部屋へ向かう。
カタッと障子を開ける。事務室では吉野先生が書き物をしていた。話しかけると顔を上げて、こちらを優しい声音で労ってくれる。
「お二人とも、お疲れ様でしたね」
「ぼくがまた手裏剣の箱を落としそうになって、名前さんに助けてもらったんです〜!」
「……名前くん、それは本当ですか?」
「え、ええ。でも何とかなりましたので……」
「小松田くん、君は残りなさい」
「ひ、ひぇ〜っ」
怒りのにじむ吉野先生に頭を下げて部屋を失礼する。先生の大きなカミナリを聞きながら、そーっと図書室へと進んでいった。
戸口の前につくと、わくわくしながら引き手に触れる。今日はだれが当番だろう?
図書室には医務室くらいお世話になっている。筆の練習のため、頻繁に本を借りにお邪魔していたのだ。その度に図書委員会のみんなと話すことも多くなっていた。
「こんにちは、名前さん」
「あっ、久作くん!」
久作くんはたくさんの本を抱え、一冊ずつ棚に戻していた。
「料理の本を探しているんだけど、この棚であってるかな?」
「えぇ、そちらで合ってますよ。何を作るんですか?」
本棚の間に入ってどれどれと探す。久作くんは作業の手を止め、まん丸の目で興味津々な様子だ。
「えーっとね、先生たちの好き嫌いを無くそうと計画しているんだ。素材の調理法とか良さそうなレシピを調べようと思って」
「もしかして、土井先生と野村先生ですか?」
「うん、あと大木先生もっ」
二人してくすくす笑ってしまった。背後に長次くんの冷たい視線を感じるとピッと口を閉じる。
「あ、そうだ。大木先生は本の返却が遅いので名前さんからおっしゃっていただけますか?」
「また返してないの?! まったく……。ちゃんと言っておくね」
「名前さんから言われたら、きっと期限内に返却いただけると思うので」
自信満々に言われてびっくりする。私ってそんなに怖く見えるのだろうか。その後、ひっそりと本を探しつつ何冊か受付に持っていった。
「長次くん、お願いします」
「……もそ」
「料理の本いっぱい借りちゃいました」
「……気にしないでください」
「中在家先輩はお菓子作りが上手なんですよ! あ、ボーロの中に苦手な物を入れるなんてどうですか?!」
「ボーロの中かぁ。久作くん、それいいかも! ありがとうっ」
「せ、先輩っ、顔が……!」
長次くんが不気味に目尻を下げ、口角を釣り上げるとその恐ろしさに久作くんと一緒に後ずさる。
「ぼ、ボーロにそんなことしないから……!」
「……もそ」
*
いよいよ当日。
土井先生と野村先生には、前もって新作レシピを味見して欲しいとお願いしていて。雅之助さんには、きり丸くんがバイトの時に杭瀬村を通るというので伝言をお願いしたのだ。
割烹着に腕をとおし調理台に向かうと、おばちゃんに考えた料理を説明する。準備したとはいえ、やっぱり不安になってしまう。
「おばちゃん、こんな感じで作ろうと思ってまして」
「あら、いい考えじゃないの!」
「良かった……! 不安だけど、がんばります!」
練り物、ネギ、納豆。
本当なら食材を活かして調理するのが正しいけれど、なるべく分からないように工夫していく。久作くんのアイディアをちょっと参考にさせてもらった。
練り物は、すり潰して卵と砂糖で混ぜて伊達巻みたいに。
ネギは思いっきりカリカリに揚げて臭みを消し、それを卵焼きの中に入れ込む。
納豆は卵と混ぜて焼いていく。熱を通したから粘り気は無くなってるはず……!
ちょこんと小皿に入れて並べて……準備完了だ。食堂のテーブルを拭いていると、入り口の方からこちらに呼びかける声が聞こえてきた。
「おう! おばちゃーん、それに名前も!」
「大木先生、来てくださったんですね!」
相変わらずボサボサの茶色い髪に白い鉢巻きで、来たぞ!なんて言っていて。ふきんを握りしめてそばに駆けよる。いつも通りの元気な姿に笑みがこぼれた。
「名前お手製の新作レシピだろう? 楽しみにしてたぞ!」
「大木先生、きっと気に入るわよ! 名前ちゃん頑張ってたんだから」
確かにそうなんだけど、ちょっと心が痛い。あはは……お口にあうかなぁ?なんてとぼけてみた。
「お、事務の制服は初めて見たがよく似合ってるなあ」
「ありがとうございます! お会いするとき、いつも着物でしたもんね」
……この笑顔がどうなってしまうのだろう。内心ヒヤヒヤしてしまう。そんな話をしていると、土井先生と野村先生が並んでやって来た。
「土井先生も野村先生もありがとうございます!」
「貴女の料理、楽しみにしてましたよ」
「おーい、野村雄三は来なくていいぞー」
「ふんっ。私は名前さんから呼ばれて来ているのだ。お前は早く畑に帰れ」
「なんだとー!?」
「まぁまぁ、大木先生も野村先生も落ち着いてください。名前さんが困ってますよ?」
まったくもう……とため息をついていると土井先生が助けてくれた。
「では先生方、こちらにどうぞっ」
テーブルに土井先生、大木先生、野村先生と並んでかけてもらう。何でわしと野村が隣なんだと文句を言い合っているのは無視するとして……。
「こちらが、苦手克服できちゃう卵焼きです!」
それぞれに定食を並べていく。
三人とも最初は笑顔だったのに、次第に真顔になる。ポカンとしながら卵焼きがのった小皿を見つめていた。
「なんじゃ、名前? 苦手克服なんて聞いてないぞ!?」
「え、練り物入りですか……!?」
「……どういう事です、名前さん。貴女らしくない」
「で、でもっ、美味しく作りましたから!」
冷や汗をかきながら工夫したところを説明する。最初の笑顔はどこへ消えたのか。予想した通り一様にがっくりとうなだれてしまった。三人と向かいあって椅子に座り、必死に美味しさをアピールする。
……でも、全然食べてくれない。
おすすめポイントをひたすら話していると、授業が終わった六年生たちがぞろぞろと食堂へやってきた。食堂がさらに賑やかになる。
「もう、先生方ったら……!」
すると雅之助さんが意味ありげに口角を上げ、その口元からは尖った歯の先がチラリとのぞく。この顔は何かを企んでいそうだ。
「じゃあ最初は……名前に手本をみせてもらおうじゃないか」
「て、手本……ですか?」
「雅之助、お前なにを考えているんだ……?」
雅之助さんのたれ目がさらに下がって、目元にあやしさが宿る。土井先生も野村先生も不思議そうな顔をしてその様子を見つめていた。
「わ、私は……、先生方と違って好き嫌いなんてありません!」
ぷいっとほほを膨らませジロリと睨む。どういうつもりか全然わからない。それでも視線はそらせない。勝負を挑むかのようにむむっと見つめた。
険しい目つきの名前にニヤリとする。
せっかく手料理だと言うから楽しみにしていたのに。野村雄三はいるし苦手なものは出されるしで参ってしまう。なんで突然そんなことを?
……まあ良い。そんな彼女を少しからかってやろう。懐から黒い塊をつまむと、ずずいと名前の目の前に突き出した。
「そうか、好き嫌いがないのは偉いなあ! ……ほれ、イナゴの佃煮」
「えっ、い、イナゴ!? な、なんでそんなの持ってるんですかっ!」
「うまいぞ、名前! ほれほれー?」
テーブルに身を乗り出してさらに彼女の口元に近づける。名前はぎゅっと目をつむり、わしを遠ざけるように両手を前に突き出してバタバタ抵抗する。
「ひゃっ、む、虫は……い、ぃやっ! ……や、ですっ!」
「お前の好きな、あまーい味付けだぞ? ……ほれ、食べてみなさい」
「んっ! ん、もぅ……ちょっと! も、やめっ……て、んんッ……」
「……好き嫌いは良くないよなあ?」
「やっ……! やだ、せんせ、もぅ…っ」
「おい! 名前さんになんてことをするんだ! この馬鹿ッ!」
「大木先生、もうその辺で……」
ん?と両隣を見ると顔を真っ赤にしている。名前をからかうのが楽しくて意識しなかったが、聞き様によっては変な想像をしてしまうかもしれん。
目をぎゅっと瞑って顔をそむけるから、汗ばんだ白い首筋が露わになる。もし頭巾を被っていなかったら、きっと髪もまとわりついていただろう。
そんな姿であんな風にいやいや言われると……。いかんいかん!
「お、おい、名前。……これは黒豆だぞ?」
「……え? 黒豆……? ほんとだっ」
よからぬ事を想像しているだろう両隣をジーっと睨みけん制すると、名前に本当のことを教えてやる。彼女は「なーんだ! 大木先生ってば!」とからから笑うと、おもむろにこちらに近づいてくる。
……ぱくり。
ぴとっと指先に柔らかな唇が触れる。
一瞬のことだがその感触に体が固まってしまった。
……なんだ?わざとなのか?
……他のヤツにもやってないだろうな?
ん、甘いですね!ともぐもぐする名前をぼーっと見つめる。
突然、横からぐいっと胸ぐらを掴まれた。
「おい、雅之助ッ! 名前さんも、こんな汚いやつから、そ、その……ダメです! まったく、貴女という人はっ……!」
「ふんっ。わしと名前の仲だから問題ない!」
「大木先生、私とどんな仲なんですか?! 変なこと言わないでくださいっ!」
雅之助さんは変なこと言うし……どうしよう。なんだかすごい騒ぎになってしまった。土井先生は置いてきぼりで顔をひきつらせている。
するとドスドスと怒りに満ちた足音が聞こえてきた。
「ちょっと先生たち! 食堂で暴れないでちょうだい!」
怒りに燃えるおばちゃんに平謝りで、野村先生と雅之助さんを食堂から叩き出す。土井先生のところへ戻る途中、食事をしている六年生達の方へ駆け寄った。
「うるさくしちゃって、ごめん」
忍たまたちの手本になるようにと思っていたのに……。やっぱりこんなことになってしまった。留三郎くんと文次郎くんは静かにうつむいている。真面目な二人だから怒ってるのかもしれない。子どもみたいに騒いであきれているだろうか。
「留三郎くん、文次郎くん。本当にごめんなさい。気をつけます……ってあれ? だ、大丈夫!?」
「あぁ、名前さん。気にしないでください。色々妄想して鼻血を出してるだけなので」
仙蔵くんが何ともない風に髪をかびかせ教えてくれる。そして長次くんと小平太くんはどこ吹く風で、かまわずもぐもぐしていた。
「も、妄想……? あれ、伊作くんは?」
「伊作は……」
「お待たせー! 二人ともっ…」
急いで医務室から止血用の布を持ってきたのだろうか。食堂の入り口で盛大につまずき、布が宙を舞った。慌ててそばに寄り布を集めて手渡す。
「すみません名前さんっ! 助かります」
「気にしないで。それより、二人も鼻血出しちゃってどうしたんだろうね?」
「え、えぇと……何ででしょうね?」
あはは……と力なく笑う伊作くんが気になるけれど、土井先生のところに戻らなきゃと急ぐ。
「土井先生、色々すみません……」
「本当に……。ここは忍たまもいるのですから、少し慎んでください」
先ほどの大木先生と名前さんのやり取りを思い出すと無性にイライラしてしまう。名前さんも自覚がないのかそんな思わせぶりなことばかりして。気持ちのやり場がなく、もっともらしいことを言って冷たくしてしまう。
「……ごめんなさい」
「い、いえ、私も……。せっかく作ってくれたのにすみません。いただきますね」
しゅんとしてしまう名前さんに胸が痛む。そんな顔をさせたかった訳じゃないんだ。自分のために作ってくれたのだから。覚悟を決め、練り物入りの卵焼きをパクりと口に放り込む。
「……ん゛っ」
「大丈夫ですか?! ……無理しないでください」
申し訳なさそうに上目遣いで見つめられ無理やり飲み込む。たしかに、強い甘さで特有の風味が薄れていた。それでも、練り物と思うと……。慌ててお茶で流し込んだ。
「お、おいしかったです……!」
「ほんとですか!? 今度はもっと改良しますねっ」
「……え?」
――ドタドタドタ
「今日はこれぐらいにしといてやる!」
「なにを?! まだ言うか!」
土井先生が定食を食べていると野村先生たちが大きな足音を立てて戻ってきた。どかっと椅子に座ると二人とも腕組みをしてそっぽを向いている。
「土井先生は、おいしいって食べてくれましたよ。ねっ、せんせっ」
にこっと首を傾げて土井先生を見る。先生もちょっと得意げにうんうんと頷いてくれた。
「んなっ?! なにぃ? わしだって食えるぞ!」
「貴女が私を想って作ってくれたのですから……! いただきます!」
「わしが先だー!」
「私だって……!」
大の大人が真剣に早食い競争する様子に苦笑をもらす。でもそんな二人がおかしくて、必死な姿をのんびりと眺めるのだった。
騒ぎながらも食べ終わり、ひと息ついたころ。土井先生と野村先生はそれぞれ報告書や授業があるとのことで入り口まで見送った。
「おばちゃん、先生たち何とか食べてくれました!」
「あらぁ、よかったじゃない!」
カウンターの奥で作業していたおばちゃんに報告するとにこにこ顔だ。それから雅之助さんのテーブルへ走りよる。
「大木先生、色々ありましたけど……食べてくれてありがとうございました!」
「名前の頼みとなると、食べざるを得ないからなあ」
雅之助さんも何だかんだ完食してくれて、豪快な笑顔に優しさがにじむ。困った人だな、なんて思いつつ嬉しくなってしまうのだ。
ふと、きのう学園長先生から余り物のようかんをいただいたことを思い出す。大切な客用のものだから、きっと美味しいはずだ。
「大木先生、まだお時間よろしいですか? 食べてくれたお礼に……甘いものはどうかなと思って」
「時間ならあるが」
今度はちゃんと美味しいですから!なんてるんるんで食堂の中へ入り、お茶とようかんをお盆にのせて運ぶ。
「はいっ。お待たせしました!」
熱いお茶をふたつとお菓子のお皿をひとつ。食べようと思って取っておいたけれどお口直しにして欲しかった。
「ん? 名前は食べないのか?」
「私はいいんですっ。先生食べてください」
「だが、ようかんなんて甘いものの塊なんだ。食べたいだろうに。……ほれ」
甘いものは好きだけど……。お皿をこちらに寄せられて困ってしまう。キョロキョロと周りに忍たまがいないことを確認する。
「じゃあ、大木先生。……あーん」
「……お前、またそんなことを言って」
「みんながいないうちにっ」
竹でできた和菓子切りでようかんを半分にすると、すーっと突きさす。そのまま雅之助さんの口元へ差し出した。ほほを赤くしながらも大人しく口を開く姿が可愛い。
「……甘いな」
「ふふ、そうですね」
私もひと口ほおばり笑みをこぼした。
*
そろそろ杭瀬村へ戻る時間だ。名前は来なくていいと言ったのに着いてきて、二人で門へと歩いていた。
「そうだ、先生。本の返却、遅くなったらダメですからね?」
「そうだったか? いやあ、悪かったなあ!」
「もう、忘れないでください。図書委員の子たち、困ってるんですから」
「すまんすまん」
「それに……。本を返しに学園に来てくれること、楽しみにしてるんですよ? だから、」
歩く足を止めて向かい合うと、名前ははにかみながらこちらを見上げている。
だから……なんだ?
ぽかんとしていると、言葉のかわりにぎゅっと着物の袖の端をつまんでくる。
「わかったわかった。……これでは忘れられないな」
いじらしく催促をされたら、返しにくるに決まってるじゃないか。すっかり術に嵌められたようで、くの一の素質があるんじゃないかと思ってしまう。
ぽんと頭を撫でて見つめると嬉しそうに顔をほころばせている。こちらも目線を合わせるように屈むと、ニカッと笑った。
このまま連れて帰ってしまいたくなる、そんな気持ちを閉じ込めて、じゃあなと家路を急ぐのだった。