「ー宇宙空間だと!?」
背中に生み出したジェットから噴き出る空気も、瞳も、爪も、肉も髪も血も肌もすべて凍り付いてゆく。
持ち前の高慢さも、今まで暗い地面の下で過ごした気の遠くなる年月も、すべて、全てが凍り付き、抵抗しようともがいたままの無様な塊へ変わり果ててゆく。
地球へは戻れない……もう戻ることはできないのだと、止まっていく思考の中で、カーズは確信した。
そして、ついぞ、ついぞやめようと……考えるのをやめようと……いつしか克服した太陽の方へ体が回転した頃……
凍り付いて止まったすべてを包むような温かさと、太陽そのもののような、優しいだいだい色がカーズの脳をゆるやかに活動へと促した。
『カ - ズ』
この宇宙空間では呼吸ができないのであろう。ぱくぱくと大げさに口を動かすと、カーズよりもずっと弱弱しい手のひらで頬に触れられた。確かな体温のぬくもりに思わず安心を抱いた。
まるで水の中を泳ぐかのように宇宙空間を移動すると、カーズの凍った冷たいからだを引き、大気圏もものともせずに、誰も知られないように、二人は静かに降り立った。
次に、カーズの喉に酸素や窒素なんかの、地球上の「空気」と呼ばれる気体が通ったのは、実に4年後のことだった。
その間、呑まず食わずにして、その者は隣にいた。
カーズの口から、二酸化炭素の次に出たのは、「
橙介」という、名前だった。
「カーズ」
優和な笑みを浮かべ、
橙介はカーズの強靭な体にゆるやかに身を預けた。いともたやすく受け止めたカーズは、感謝の言葉を言わずとも、今までのどの言葉よりずっと優しい声色で、また名前を呼んだ。
時はながれ、十数年。
カーズは、快適に空調の利いたマンションの一室で、昼間っから惰眠をむさぼっていた。
といっても意識はあるし、脳を休める必要も、それこそ睡眠の必要もカーズにはない。なぜここまでカーズが落ちぶれた……というと聞こえが悪いが、平和ボケしたのかは、
番と言っても差し支えのない、いつかカーズを溶かした青年のせい……おかげであろう。
「カーズ!寝てるなら洗濯物ほすの手伝ってくれ!午後から雨降るんだから今のうちに出しておかないと乾かないだろ!」
「断る……この帝王にそんな雑用を押し付けるな……」
「その帝王が畳の上で日光浴びながらゴロゴロしてるって知ったら崩れ落ちるだろうなぁワムウとか」
洗濯物かごを抱えて通行上にいるカーズを足で動かすと、
橙介はサンダルを履いててきぱきと洗濯物を干し始めた。
仕方なしに起き上がったカーズはかごから洗濯物をひとつかみすると、
橙介では届かない高い位置に干し始める。以前適当に干したら「皺になる!役立たず!いいよ僕やるから!」と怒られてしまったので、しっかり引っ張ってしわを伸ばす。十数年の生活で、力加減はお手の物だった。
「僕が届かないところに干すってことは、取り込むときも手伝ってくれるってこと?」
「夕餉にビール出せ。サントリーの。」
「えぇ?昨日自分で飲んでたでしょ、買いに行かないとないよ?」
「あー……」
忘れていた、という様に空を見上げてしまったカーズに、
橙介はぶはっと噴出した。こらえきれないというようにそのままうずくまって笑っている片割れに対して、カーズは不服そうに眉を寄せた。
ごめんごめん、と謝りつつまだ笑っている彼は、いつかの日を思い出して、またぶふっと噴きだした。
「カーズ……くく、ほんとにボケーッとしちゃって……日本ってそんなに平和?」
「現代の文化で暇をすることもない。あのジョジョやツェペリの子孫も追いかけてはこない……太陽も克服した。なら、恐れるものは、おまえに夕餉を抜かれるくらいだ」
「ぶはは!!??なにそれ!?ちょっと恥ずかしすぎ……面影なさすぎ!わははは!おっ、おなかいたい!」
「貴様、いくらなんでも笑いすぎだ。波紋流されたいのか」
「えええっちょっとそれは軽率にしすぎ」
脅すようにバチバチと波紋を手にまとわせ始めるカーズに、笑いながらベランダから逃げる
橙介。
またカーズがそれを追いかけて室内へ消えてゆき、いつしか陽が落ち、明かりがついて、明かりが消えて、また朝になる。
ゆるやかに迫る
橙介の死の恐怖が追い付くまで、きっと二人はすべてを置いてゆく。