「……そう、合ってるよ。できるじゃないか!」
19世紀末のイギリス。
どこかの名もない貧民街に、寂れた木造の小屋があった。
薄暗く汚れた路地とは似つかず、中は歳も様々な子供たちの声でひしめきあい、みな一様に笑顔だった。
「すっげぇ!先生、おれ、文字がかけたんだ!ありがとう!」
「わたしのなまえ、読めるよ!ありがとう先生!」
「これで兄貴たちに馬鹿にされなくて済むよ、先生!」
口々にお礼を言い、子供たちは小屋から一人、また一人と帰っていく。それをぎこちない、それでいて優しい笑顔で見送る青年がいた。
彼の名前は志位島
コウ。日本とイギリス人のハーフで、子供や人に、物事を教えるのが好きだった。
父親が自分に日本語を教えてくれたのは、母と別れて少し経った、七つの時。日本語や古語なんかでつづられた、キレイな俳句、漢字、和歌、川柳……そういったものに、
コウはひどく感銘を受けたものだった。
『とうさん、ぼく、せんせいになりたい……こんなすてきなものを、教える人になりたいや!』
父の膝の上で、日本製の絵本をめくりながら言えば、父は日本人らしい穏やかな笑みを浮かべてくれた。
「相変わらず金もとらずに自己満足で教えているのかい……?先生」
「ブランドーくん……もう読み終わったの?」
子どもたちを見送った背後の柱に、自分とは比べ物にならないほどきれいな金髪で、顔の整った少年が立っていた。
手には先週貸したばかりの、黄ばんでふやけた俳句集。文字が小さくて読みにくいが、内容はルビのふられていない、昔の漢字が使われていたものだったはずだ。
「いや?すこしわからないところがありました…教わろうと思って」
「なんだ、それだったらもっと早く来たらよかったのに……もう六時を回るじゃないか」
子どもたちが帰る頃の街は、夕やみにそまりかけてほの暗い。足元が多少おぼつかなくて、酒を飲んだ浮浪者にもとっつかまりやすい。危ない時間帯だった。そんな時間に子供たちを返すのは、教師としては気が引けるが、生まれた時から経験しているあの子たちなら、
コウよりずっとたくましく帰れるだろう。
フン、と鼻を鳴らして、ブランドーくん、と呼ばれた少年は少しむすっとした表情になった。
「あんな小汚いガキと一緒にしないでください。俺は先生に手習いをしてもらってるんであって、ガキどもと戯れたいんじゃあ断じてない。」
「また、きみはそうやって人を見下してばかりで……あの子たちだって、望んで汚れているワケじゃないでしょう?それに、ブランドー君、前にも進言したけど、自分が常に上だと思ってばかりいては、いつか足元を……」
「先生」
気づいたときには、少年の矯正な顔が目の前にあった。
はっと息を呑んで、のど元まで出ていた言葉を飲み込んでしまう。ニヤリ、と少年の口元が歪み、スッと顔は離れていった。
「さっきも言いましたよ、先生……俺は手習いに来たんです。早く教えてくれないと、外はどんどん暗くなるし、あのクズに怒鳴られる。」
「あ、あぁ、そうだね、そうだ、そうだった。……すまない、また僕は余計なことを」
「いいんですよ。心配してくれてるんだってコトは、しっかりわかってますから。」
彼が帰っていったのは二時間後、八時を過ぎたあたりだった。
コウは、小屋にある数少ない椅子に体をゆだねて、少し深いため息をついてしまった。
苦手なわけではない。あの子も、可愛い教え子の一人だ……そう自分に言い聞かせても、言動や、行動に、いつも息をのんで驚いてしまう。今日だってそうだ。
「……彼は、自分の使い方をよくわかっているんだろうな。」
そう独り言ちた。
ベッドへ向かう気も起きなかったので、机に突っ伏して、まどろみの中に意識を沈めていく。
あのとき言いかけた言葉が、頭の中でぐるぐると回り続けていた。
自分が常に上だと思ってばかりいては、いつか足元を掬われて……
掬われて、不安と恐怖と後悔の渦に巻き込まれてしまうかもしれない……自分がかかわった人が、そんなふうに落ちて行ったり、消えてしまうのが、心配なんだよ……と。