秋~october~


「私、ピスタチオが大好きだったんです」

 理紗は、静かに語り出した。

「おいしい」

 理紗は、口もとに手をやり、目を見開いた。中等部に入ったばかりの頃、友人に誘われたお茶の席のことだった。その視線は、目下の緑のケーキに注がれている。

「理紗さん、ピスタチオは初めて?」
「ええ。こんなに美味しいものなんですね」

 感動する理紗に、友人たちは朗らかな笑みを浮かべた。理紗は、大きな驚きと喜びが、胸に押し寄せるのを感じていた。こんなに美味しいものが、この世にあるなんて。それは、理紗の世界が広がった瞬間だった。

「小さな革命でした。私の家では、ピーナッツだけでなく、ナッツ類が全て禁止されていたから」

 江那がピーナッツアレルギーであるとわかってから、理紗と江那の両親は、ピーナッツ及びナッツの類を徹底的に排した。アレルギー反応が出たのはピーナッツと言っても、何が引き金になるのかわからない。それに関連するものは、全て除いた方が安全だと考えたのだ。
 それから食事や日々の生活に、神経をはりめぐらせ――外食先は厳選した。

「うれしい、ひさしぶりのお外の食事」
「よかったわね、江那」
「おうちも好きだけど、外は特別なの」

 はしゃぐ江那を見て、理紗は微笑む。妹にとって食事は我慢と恐怖の時だ。食べたいものを食べられず、いつも恐怖と隣り合わせである。
 せめて「大丈夫だ」と、安心して食べられる、そんな場所は本当に貴重だった。まして外では――妹のうれしそうな顔が、理紗を安堵させ、うれしくさせた。

「はやくデザートにならないかな?」
「江那ったら、気がはやいんだから」
「だって、わたし、ここのケーキ大好きなの。お姉さまは?」
「私? そうね、キッシュかしら」

 二人がこそこそと話し合っている最中、席を外していた父が、部屋に入ってきた。その顔は怒りに上気している。

「帰ろう」
「えっ?」
「新しく入った給仕の意識がなっていない。ここには二度とこない!」

 支配人が後を追いかけてきて、父を止める。それを突っぱねて、父は会計とコートを求めた。母は父に従い、娘たちを促した。

「どうして?」
「帰りましょう、江那」
「せっかく楽しみにしていたのに、食べられないの?」
「ごめんなさい、江那。でも、あなたの為なの」
「いや! お母様の意地悪!」

 江那は泣き出した。理紗は、江那の背を、やさしくさすってやる。江那は、理紗を見て、理紗に身を寄せた。

「おねえさま」
「お母様も、お父様も、江那のことが大切なのよ」
「でも、ひさしぶりに、皆でしょくじなのに」

 江那は悲しげにうつむく。江那だってわかっているのだ。それでも、心は簡単ではない。両親は多忙で、そろって食事をとること自体も珍しかった。家族そろっての外食――その特別が消えたことに、江那はいっそう悲しんでいるのだ。
 理紗は江那を抱きしめ、頭を撫でる。父も、母も、江那を気遣わしげに見守っていた。

「きっと、またおいしいケーキが食べられるわ」
「うん」
「だから、大丈夫よ」

 江那は、頷いた。それに両親も安堵し、江那の背に手をやった。

「辛い思いをさせてごめんね」
「また必ず、もっといいお店に連れて行ってあげるから」

 かたく励まして、店を後にした。
 皆で江那を守る。それが矢絣の家に通った、かたい絆だった。両親は、多忙の中、できうる限りの努力で、江那に心を砕いた。
 両親の目下の不安は学生生活だった。江那の学生生活を安心したものになるよう、理紗と同じ光芒こうぼう学園に入学させた。

「いいかい、理紗。江那のことをちゃんと見ていてあげておくれ」
「あの子の命を守れるのは、お前だけですからね」
「はい、お父様、お母様」

 理紗は、父と母の言うとおり――江那がアレルゲンにふれないよう、目を配り、守り、もし万が一のことがあったら、すぐ対処できるよう――注射の撃ち方、対応を何度も何度も、繰り返し唱えた。
 迎えの車の中――そこが、幼い時の理紗の、一番落ち着く時間だった。今日も江那が元気で、一緒に迎えの車に乗ることができた。そう自分を安堵させることができたから。
 理紗の誕生日はいつも、江那と合同で行われた。二人は誕生日が三日違いで、多忙な両親が予定をあけることが出来たのは、一日だけだった。二人の誕生日の中日に休みを取り、家族でお祝いするのが恒例だった。

「理紗、ケーキはお前が選びなさい」

 ケーキはいつも、理紗に選ばせてくれた。

「江那、どのケーキがいい?」

 だから理紗は、江那の好きなケーキを選んだ。権利をもらったのだから、選ぶことは江那にさせてあげたかった。両親は、そんな理紗を見て、笑った。「二人とも、やさしい子に育って嬉しいよ」と。

「あなたにとっては、かえって幸運だったかもしれないのね」

 母の口癖だった。

「江那には本当に苦労させてしまっているけれど、私たちは、江那から優しさを学んでいるのだわ。あの子は得難い子だわ」

 理紗は、その言葉を聞くと、いつも居心地が悪かった。そんな風にいわれては、江那がかわいそうだと思ったから。

 中等部にあがり、理紗は学生寮に入ることとなった。両親はたいそう渋ったし、江那も泣いたが、特例以外は入寮が定められていたので、いたし方なかった。

「一年の辛抱よ。そうしたら、一緒に通いましょう」
「同じ部屋がいい」
「そうしてもらいましょう」

 そう江那と約束し、理紗は初めて、家を出たのである。

「思えば、どうしてそこでピスタチオを食べようと思ったのか、わかりません」

 中等部で知り合った友人に誘われ、学園のカフェのテラス席で開いたメニュー表。そこにあった緑のケーキに、理紗はどうしようもなく心が惹かれたのだ。
 そうして、彼女は瞬く間にとりこになった。ピスタチオと名の付くものは、すべて食べたくなったし、気に入ったケーキのあるお店には、友人たちと足繁く通った。
 江那が食べられないものを食べている、後ろめたい気持ちはあった。けれど、どうしても止められなかった。

「理紗さん、本当にピスタチオが好きね」
「ええ。もうなんだか、夢中なの」
「わかるわ。食べているときの顔、輝いてらっしゃるもの」
「ふふ」

 友人たちと笑い合い、ケーキを食べる時間。その時、理紗はなんだか自分がとてつもなく軽やかでいることに気づいた。
 今、このときこうして、ピスタチオを食べ、友人と笑い会っている自分――それは江那の姉の理紗ではなく、ただの理紗だったのだ。

 友人だった相羽とつき合いだしたのも、秋だった。ピスタチオの美味しい季節で、毎日、うきうきと過ごしていた矢先のことだった。
 相羽の大らかで、何でも楽しくしてしまう性質が、理紗はとても好きだった。相羽が笑っていると、なんだか全て、大丈夫と思える。彼の隣にいると安心した。

「それから半年、相羽先輩とつき合ったわ。でも、彼は、江那と出会った」
 
 

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