秋~october~


「エナ! エナ!」

 相羽が、必死の形相で江那を抱きしめる。いつも自信にあふれたその顔は、むちゃくちゃにゆがんでいた。

「先輩、やめて! 動かさないで!」

 理紗が、相羽を強く制した。

「けど、エナが……!」
「動かしたら駄目なんです! 安静にしなくては!」

 理紗の言葉を援護するように、いつの間に飛び出していた赤城が、理紗に「手伝います」と申し出た。理紗はうなずく。赤城は呆然とする相羽から、江那をそっと引き取り、床に寝かせた。

「江那のハンドバッグを早く!」

 理紗が叫んだ。滝口が聞くが早いか駆けだした。

「足をあげるための台も! 急いで!」

 理紗の声音には、長年「こうするのだ」と教えられてきた手順を、必死にいま取り出している――そんな悲壮な固さがあった。
 理紗は赤城と共に、顔や呼吸を確かめる。江那はうつろな顔で、苦しげに息を吐き出している。顔は赤く腫れ、じんましんが浮き出していた。めくれあがった唇に、チョコレートがついているのが、生々しかった。

「アナフィラキシーだわ。早く注射を打たないと」

 理紗の顔は蒼白で、凍えるように冷たい声は、彼女のショックの深さを表していた。しかし、決して江那から目をそらさず、江那の手をそっと握った。

「大丈夫だから、江那。姉さまがついているからね」

 優しく声をかけると、「急いで!」と向こうに声を張り上げる。滝口がハンドバッグを持って走ってきた。次いで、少年たちが、椅子や花瓶おきなど、とにかく台になりそうなものをかかえてきた。
 理紗はバッグを受け取ると、注射器を取り出した。ふるえる手で、手早く準備をすませ、江那の手に握らせる。

「江那、注射よ。つらいだろうけど、頑張って」

 ドレスがめくりあげられるので、赤城が両手をひろげ立ち上がり、周囲の目から江那を庇った。意図を察した理紗の友人や少女たちが、同じようにして、江那を取り囲んだ。
 
「お願い、大丈夫だから。江那」

 周囲には、理紗の必死の懇願と、江那の苦しげな呼吸音だけが聞こえていた。皆、祈るような、あるいは呆然とした心地でその時を待った。
 一瞬間の緊張――それは、永遠の時に思われた。由岐治は自分の指先がびっしょりと濡れ、冷たくなっているのがわかった。もし、これが打てなかったら――

「江那! 頑張ったわ! えらいわ」

 理紗の声があがる。その言葉の意味を解し、皆、崩れ落ちるような安堵を覚えた。
 よかった、注射が打てたなら、きっと……最悪の予想を、由岐治を含め周囲の人間たちは、振り払った。
 赤城は花瓶おきを倒し頃合いの高さにすると、江那の足をおかせた。

「あとはとにかく、救急車を」
「ええ」

 理紗は、くずおれるように、その場にへたり込んだ。打てる手をすべて打ち、はりつめていたものが切れたのだろう。その瞳から涙がこぼれ落ちる。江那に刺激を与えないよう、体が勝手にそうなるのだろう――体を硬直させたまま、苦しそうに泣きだした。先まで手にしていた皿とフォークが、ぽつんと置かれたままになっている。ひとつ残ったケーキが、物寂しかった。理紗の友人が、理紗の背に手を添えた。

「大丈夫よ、理紗。きっと大丈夫」
「私のせいだわ。私が……」
「そんなことありえないわ!」
 
 固く否定する友人の目にも、涙があふれている。由岐治もまた、呆然としていた。何でこんなことに?

『江那ちゃんにはアレルギーがあるんだ。安全に美味しく食べれるように――』

 滝口の言葉がよみがえる。江那は、アレルギーの除去食を食べていたはずだ。どういうことだ――手違いで、入り込んでしまったのか? 周囲も同じことを考えていたのだろう。うろうろと視線を料理と江那たちの間でさまよわせた。理紗は首をたれ、泣き続けていた。

「理紗、落ち着け。あんなに対策してたろう」

 滝口が、理紗に力強く声をかける。理紗は、涙に濡れた目で、滝口を見上げ、それから「いいえ」と目を伏せた。滝口は、いたましげに頬を強張らせた。しかし、「絶対、大丈夫だよ」と、ほほえんだ。

「何かきっと他に――」

 そして、ふと江那の顔をのぞき込み、目を見開いた。

「まさか」

 滝口が、顔を険しくする。呆然と座り込む相羽を、固い表情でにらんだ。

「亮丞! お前……」

 相羽は、頭が動かないらしい。要領を得ない顔で、滝口を見た。打ち捨てられた犬のように、頼りない顔をしていた。

「さっき食べてたバーを見せろ!」

 滝口が強い声で言い、手を差し出した。相羽は言われるままに、ポケットに手を突っ込むと、チョコバーを渡した。滝口は、それを受け取ると、その包装を確認した。そして「やっぱり」と強くささやいた。

「これ、ピーナッツバーじゃないか!」

 叫び、食べかけのチョコバーを、相羽に見せた。理沙たちが、瞠目する。相羽は、そこで初めて、大きく表情を動かした。信じられないものを見る目で、滝口と――ピーナッツバーを眺めた。

「お前、江那ちゃんが、ピーナッツアレルギーなの知ってただろ!?」

 滝口の声は、無情なほどによく響いた。相羽は言葉が告げないようだった。唇が、小さく、「ちがう」と動いた。

「何が違うんだ! 江那ちゃんの唇に、チョコがついてる! お前がさっき食べたチョコじゃないか!」

 今日、料理でチョコなんて出てないんだから――そう続けられた言葉で、周囲に大きな動揺が走る。

「相羽先輩……」

 理紗が呆然と、相羽を見る。

「ピーナッツ、江那のために、やめたって……」

 聞いている方が、悲しくなる声だった。なにかすがるような、必死さがにじんでいた。あたりがまた、騒然となる。信じられない、それじゃあ――皆の目が、疑惑から確信になる。

「ち、違う!」

 相羽はそこで叫んだ。肉体と心の回路が、ようやくつながったみたいだった。首を振り、必死に否定する。

「俺は本当にやめたんだ!」
「じゃあ、これは何だよ!?」
「何かの手違いだ! 俺は本当に……」
「先輩、もうやめてください!」

 相羽と滝口の言い争う声に、理紗の声が入った。さみしいほど、温度のない声だった。

「江那の体にさわります。もうやめてください」
「リサ」
「ごめん……」

 滝口が、気まずげに黙り込んだ。目線をそらし、手の中のピーナッツバーを握りしめる。
 江那の呼吸音が、あたりに響く。江那の顔には、幾すじも涙の跡が流れていた。理紗は、江那に「ごめんね」とやわらかに囁いた。

「大丈夫よ」
「エナ……」
「相羽先輩」

 江那から目を離さないまま、理紗は言葉をつむいだ。

「手違いだなんて、そんな言葉、使わないでください」
「リサ……」
「江那に手違いなんて、あってはならないんです」

 相羽は、大きく目を見開く。そして、打ちのめされたように、うなだれた。周囲を裂くような沈黙が、あたりに取り巻いていた。
 救急車がきた。江那が、担架にのせられていく。理紗は江那につきそい、一緒に救急車に乗っていった。皆はその固い背を、ただ見送ったのだった――

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