同人再録
・朱桜家に関する捏造の量が凄まじいです。
・夢ノ咲を地名と解釈しています。
・強姦描写があります。
・桃李に学校の性教育及びクラスメイトの下ネタトークから察せる程度の性知識があります。
・桃司以外のカプの相手の断定はしていませんが、相手がいるという描写はあります。
・Knightsの五人と桃李以外のバース性はとくに決めていません。
・朱桜司がLeaderとKnights以外の英単語をあまり発しません。「アルファ」「ベータ」「オメガ」「ヒート」はカタカナで統一しています。
・途中で朱桜司に弟ができます。
今回のオメガバース
・ヒート=オメガの発情期。
・男オメガには早期から子宮があるので早い段階でわからないこともない。
・発情期の周期は、女性の生理のように三ヶ月周期といっても人によって前後十日ほどの差がある。ストレスや栄養状態などでタイミングにもブレが生じる。
・つがいを解除しても死なない。
・バース性の発現は第二次性徴より遅れてくることが多い。
・つがいは発情期中に項を噛むことで成立。
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1
「今日のパーティーには朱桜のご子息さんもいらっしゃるそうですよ」
「朱桜……ああ、ずっと留学してたんだっけ、同い年の……」
「司さま」
弓弦が広げるシャツに腕を通しつつ。
朱桜司。昔ほどの勢いはないものの、夢ノ咲が夢ノ咲でなかった頃から続く、古い……もはやただ古い、というだけで立ち続けているのでは、という朱桜家、その一人息子である。
なんの由縁か家柄が正反対、自称するのもなんだけど、成金の姫宮家の長男が同級生ということで、産まれたときから今日に至るまでなにかと比べられ冷やかされ話題にされ続けてきた相手である。
お金持ちというのは刺激に飢えているのだ。巻き込まれる側の気持ちにもなってほしい。
今日まで何度留学の予定を訊かれたことか。だいたい、この歳で何を学びに行くの。英語? 音楽? 例の司も、いまいち具体的に何をしに行くのか自分でも把握しきれていない様子だったし。それに、ここまできたらボクが日本に居続けたほうが面白いんじゃないかなあ。
第二ボタンからひとつずつ、下に向かってボタンを留めて。
「……あいつ、大学までずっと向こうにいる予定とか言ってなかったっけ?」
弓弦が差し出すスラックスを受け取って。
「さあ、私が坊ちゃまに仕え始めたときにはすでに旅立っておられましたので」
かちゃり、と空いたハンガーをクローゼットにかける。
土着の信仰やらなにやらで成り立っている朱桜が、家の勢いがおちてきたこともありただ古いこと以外を強みにしよう、まだ“朱桜”に染まりきっていない子供を外に出してしまおう……みたいなことがだいたいの留学の理由だったはずだ。そのような感じだろう、と最後に会ったとき、当の朱桜司は言っていた気がする。外に出して、何をするのかは知らない、と。
ベルトを締めて。
「留学先の方面でおおきい事故とかあったっけ?」
弓弦が構えるジャケットに腕を通す。ネクタイを締めようとする弓弦を止めて、自分で締める。制服がネクタイなんだからこれくらいできるってば。
「いつでもなにかしらは起こっている気はしますけど……とくにこれ、というものは起こっていない気がしますね。……朱桜のネットワークを把握しきれているわけではないので断定はできませんが」
「ふうん、なんだろ。外の国でひとりは寂しくなっちゃったとかかなあ? 堪え性のない」
「ご両親が不在のときはいまだにぬいぐるみを抱いて寝ているような坊ちゃまには言われたくないでしょうね」
うっさい。
時代が時代ならあと一年で成人なのに桃李くんはまだまだお子ちゃまですね、とかあいつは言うんだろうなあ。
今日は一月十三日、ボクの十四歳の誕生日である。
2
年度を跨ぎ、春。
公園で放したキングを見守っていると、視界の隅に見覚えのある蘇芳色が映った。公園のベンチに鞄を抱えながら座って、何をするわけでも無くただぼうっと遊具の方に視線をやっている。見ている、ですらなかった。座って、目を閉じていないだけ。
その証拠に近づいても微動たりしない。目の前に手をやるとようやく気が付いたようで視線が動いた。
ぱちぱち、と長いまつげを何度か伏せ、やっと焦点があったのか。
「……ああ。姫宮の、」
「桃李」
「そう、桃李くん」
にこり、と先ほどまでが嘘だったかのように表情筋が動く。
「あんまり見かけない制服だけどどこの……?」
「隣の県にある学校で……たぶん、言ってもわからないかと。そこまでわかりやすい成績を残しているわけでもありませんし」
「親戚の誰かの出身校か何か? それとも朱桜の傘下の?」
「いえ、オメガが入れるなかで出来るだけ学力が高い学校を探した結果がそれでして」
「おめが」
誰が?
だれが、じゃない。今は司の学校の話をしているので、この文脈でのオメガは朱桜司以外にあり得なかった。
「……朱桜ってアルファの一族なんじゃないの」
え、と中途半端に口を開いて、司の動きが止まる。
「もしかして、私が帰ってきた理由などご存じない……」
「知らないよ。おまえ大学も向こうで出るつもりとか言ってなかった?」
「そのつもりだったのですよ、最初は。……ああもう、広まっているものだと勝手に思っていました。そうですよね、朱桜ですもの。保身に走りますよね……」
大体そのようなことをぶつぶつと言っている。ああ、なんか自分の世界に入りつつある気がする。相変わらず周りが見えていない、視野狭窄。朱桜家、育て方間違ってるんじゃないの。どんどん逸れていきそうなので続きを促す。
「つまり」
「向こうですこし、病気をしてしまって。そのときの検査でオメガだと判明しまして……オメガなんかにかける金はないとかそのような感じだったと思います。あと本当に私は朱桜の子なのか、だとか」
「えっ大丈夫なの? ……その髪色はどう頑張っても朱桜だと思うけど……まあ朱桜ってよりは蘇芳」
ここが周防でないのが残念ですね、と笑う。言葉で遊ぶ癖は変わっていないらしい。
「大丈夫ですよ、たぶん。……ええ、そう思います。母の髪色がこれではない以上、朱桜以外にあり得ないと思うのですけれど……男女でも染色体異常とかあるでしょう、そんな感じだと思うんですけど。……昔から障害児が生まれてくると早々に殺していたような家ですし前例がないのでしょうね」
「なにそれ朱桜ジョーク?」
「残念ながら」
なにかといろいろな、主にダークな方向の噂が尽きない朱桜家であるが、噂ではないのかもしれない。こんな街中にあるとは思えない家なのだ。まだ全方向を森に囲まれた旧世代の文化が未だに残っている村を仕切っている一家だとか言われた方が納得がいく。ほら、骨董品なので。
「たぶん、巷で囁かれているよりもっと酷いことをしていたのだと思いますよ」
それはさておき、と投げ出していた脚を動かし、革靴を鳴らす。足元の砂がざり、と鳴った。
さておき、で流せてしまうほど、司にとって当然の話なんだろうか。そりゃあ、今更文句を言っても生まれてくる家は選べないし、過去も変えられないけれど。
「……で。朱桜も本当ならお父さまやお祖父さまと同じ学校に行かせたかったんでしょうけど。ああいうところってアルファ至上主義でオメガなんて受け入れてないですし……まあ、下手にアルファが多い空間に行って血統もよく分らないアルファに噛まれるよりは数倍ましでしょう」
一応申し込みはしたんですけど落されました、と司は続けた。
オメガやアルファが昔より増えた今、女子校や男子校と同じく、高校大学にアルファのみの学校、オメガのみの学校が存在しないわけではない。でもそれは高校大学の話であって、義務教育はバース性で分類するのであれば共学の学校のみのはずである。
そもそも一斉検査が行われるのは中学二年のときなので、入学の段階だとまだ大抵の人間は己のバース性を知らないのである。
「信じられないって顔してますけど、珍しい話でもないですよ。学校側は点数が足りていなかったと言い張れば良いだけの話ですし……。上位の学校ってアルファが多いでしょう、強姦事件とか洒落にならないですもの」
いまだにオメガの強姦事件は誘ったオメガが悪い、本当に嫌なら死に物狂いで抵抗するのでは、合意の上だったのでは、などと言われがちである。アルファはとくに、そう思い込んでいる割合が高い、らしい。ボクはまだオメガのフェロモンが分らないので理解は出来ないけれど。
自分のクラスの三分の一はアルファだったような、と思い出す。そんな空間にオメガがいたら。
オメガの発情期は薬を使っても完全に押さえられるものではないと聞く。そんな場所で発情期に突入してしまったら。多くのオメガは十四~六歳でファーストヒートを迎えるため、中学校というのはもっとも事故が起こりやすい空間のひとつであると言っても過言ではない。そもそも、アルファというのはちやほやされて育てられるせいで思考にやや偏りのある人間が多いので、学校中のアルファに見下されるだとか、そういう可能性もある。女性蔑視が無くならないように、オメガ蔑視もなくならない。むしろオメガ蔑視のほうが激しいのであった。昔より、だいぶ緩和されたとはいえ。司が言う朱桜の話だって、昔なら珍しい話でもない。
「……そんなこと考えたことなかった。すごい、アルファが迷惑掛けて申し訳ありませんって感じ」
「桃李くんの口からそんな言葉が出てくるとは。オメガを見下してる側だと思っていました」
「は、あ?」
「そもそも発達障害者とオメガが一緒くたにされていた時代があるように、オメガって、こう、徐々に高みを目指すのが難しくなっていくようなんです。もちろん個体差はあるので全員ではないんですが……まあ一部のひとは最初からオメガに教育を与えるなとか言いやがるんですけど」
「姫宮は骨董品みたいな朱桜とは違うんだってば。うちはちゃんとオメガも雇ってるし各種社会保障も充実してるもん。これからはそういう時代でしょ」
「…………。ちゃんとというあたりがそもそも差別というか、見下しているが故なんですけどね……ええ、これからはそういう時代なのですよ。……そういうことを学ぶために、私は外に飛ばされたはずなのに」
とん、とつま先で地面を叩く。
「……実際何してきたの?」
「とくになにも。向こうの学校に通って、朱桜と取引している家に媚びに行って……それくらいですね。あとは私が勝手に興味のあることを調べて回ってたくらいで」
その興味のあることがバース性云々だったんだろうか。
……いや、こいつだってその検査で判明したときまで自分はアルファだと思い込んでいたはずだ。
「ちなみに向こうは?」
「男尊女卑というよりは人種差別が根強いですし、奴隷制度もあったでしょう。どちらかといえばそっちの差別ですね。日本の差別は女性差別の上位互換みたいなものですけど、向こうは黒人差別の亜種みたいな……労働力に使えないというよりかは最初から求めている労働力が違う、みたいな」
「ああ……」
「あと治安が悪いので」
「なるほど」
司を日本に戻したのは司の身を心配したのもあるんじゃないかなあ。
「桃李くんが考えてるようなお花畑な家だったらいいのですけれどね。……まあ。生かされているだけ、こうして普通にしていられるだけ、まだ可愛がられているのでしょうね、私」
ふ、と表情筋が緩む。
「……桃李くん、私がオメガだって知ったらここぞとばかりに罵倒してくるものとばかり思っていました。いつも骨董品だなんだって言ってくるでしょう」
「え、だってどうしようもないでしょ……いちばん触れちゃいけないことというか、ええと目の色が変って言っちゃ駄目なのと同じというか……」
「桃李くんはやさしいですね」
キングさんもそう思うでしょう、と司はいつの間にか戻ってきていたキングを撫でた。
司の表情は最初見たときよりはましだけど、それでもどこか寂しげなままだ。
すべてがアルファで構成された朱桜から生まれたオメガ。
たぶん、司は家に居場所がないんじゃないだろうか。昔はいろいろお稽古ごとをしていたと思うけれど、さっき言っていたように色々仕込んでも無駄だと判断されたのではないのだろうか。
ただでさえ居場所がないのに行動すら制限されて、それで帰りにくくって、こんなところでぼうっとしていたのでは?
それで、昔から喧嘩してばっかのボクに弱みを晒すような真似をして。
表情だって、昔はもっと取り繕うのが上手じゃなかった?
今、どころじゃない。これからもだ。
司がオメガだという事実は変わらない。
たぶん、朱桜も変わらない。司が分岐点になる予定だったんだろうけど、たぶん朱桜はもう司を朱桜として扱うことはないだろう。周りの目があるから手放しはしないけど、たぶん既に一族のくくりには入れていないのだと思う。
「これから、……どうするの」
「どうなるんでしょう」
ふふ、とあくまで司は笑うのであった。
3
次に司に会ったのは例の公園の林の中だった。
いつもどおり散歩させていたキングがやけに吠えるので、何事かと思って見てみたら林の中で倒れていたのだ。
……いや、倒れていたどころではない。
制服のズボンを脱がされ、下着も身につけていない。内腿には赤と白の液体が伝っていた。どこからどう見ても強姦されそのまま捨てられた図である。
キングに吠えられても司はなかなか目を覚まさない。気絶しているのか、それとも薬か何かを盛られているのか。上半身の着衣に不自然な乱れは見当たらないけど、念のため項を確認する。
大丈夫、噛まれてない。さいあくの事態にはなってない。
よかった。はあ、と一息ついて、制服の上着を司の下半身にかける。さっきからちらちらと視界に入ってきてあまり気分がよろしくないので。それに、だれか他の人が来たら困る。
落ち着きかけたけど、噛まれてないから大丈夫ではないのだ。もっと深刻なことが残っている。
白いの、つまり精液が伝っていたということはあのままだと妊娠してしまうかもしれないってことだ。
発情期以外は妊娠の確率が低いって聞いたことがあるような気がしなくもないけど、そういう噂ってアルファに都合良く改変されているものだし、低いってことは絶対にないってことではない。
アフターピルなるものがあるんだっけ。司も持っているのだろうか。司の鞄、どこだろう。ぐるりと見回すとやや離れたところに落ちていた。ちょっと失礼して鞄を漁り、ピルケースを取り出す。
緊急避妊薬、一回一錠、行為から七十二時間以内。
一番包装が派手でおおがかりな薬がそれらしかった。薬の名前と一緒に簡単な注意書きが印字されている。
何もかもが生々しかった。なんで、中学生の鞄に、こんなものが。
色が派手なのは見つけやすくするため。一シートに一錠なのはそれだけの重みがある薬だから。注意書きが印字されているのは、本人以外が触る可能性があるから。
なんで、なんでと思ってしまうけど実際こうなってしまうからなのだろう。
鞄から飲みかけの水も発掘できたので、司の喉に無理矢理流し込んだ。
ふう、と一息ついてから、ピルケースに発情抑制剤の文字が見えて、発情期の存在を思い出す。そうだ、発情期。オメガの強姦被害の原因の九割は発情期である。ボクはまだ、オメガのフェロモンとやらがわからないので全く気にしていなかったけど、大丈夫なんだろうか。……・誰も寄ってこないってことは大丈夫なのかなあ。念のため飲ませた方がいいのだろうか。でも、症状が出ていないのに飲むのもたぶんよくないし。
ぐるぐる考えてると、急にポケットの携帯が震えだした。
こんなときに何を、と思いつつ画面を確認すると相手は弓弦だった。今日ってなんかあったっけ? 門限?
怒られそうであまり出たくないけど、出ないとたぶんもっとうるさいので仕方なく出る。
「……弓弦」
「坊ちゃま。……電話には出られるようですね、安心しました。ずっと動いていませんがどうされました? 記憶が正しければ、そこは林の中だと思うのですが」
「えっなに監視してんの、気持ち悪……」
「だって誘拐などされたらどうするのですか。坊ちゃまのことですからキングさまを褒められたりしたらほいほいついていってしまいそうで……」
「さ、さすがにそれくらいはわかるから……」
「まあ、さておき。本当にどうされたのですか」
「……えっと。その、ひとが」
「死体ですか?」
「勝手に殺さないでよ! ……倒れてたの。近づいてみたら司だったから、」
「成程。朱桜の方に連絡を入れましょうか」
「だ、だめ」
「坊ちゃま?」
さすがにこの状態の司を朱桜に渡すのはやばい気がする。ただでさえ、司がオメガだったことで荒れているようだし。一族のひとともうまくいっていないっぽいし。
「え、えと。……来たらなにがどうだめなのかわかると思うから弓弦が来て。さいあく、ちょっとだけうちで保護したほうがいいかも」
この言い方だとなんか家庭内暴力とかその類っぽいな。
まあいいや、弓弦だし。
電話が切れて十分くらいで弓弦が来た。
司の姿を見て大体のことは察してくれた。先に車に乗っててって言われたけどもういろいろ見ちゃったし手遅れなんじゃないかなあ。
しばらくたって弓弦が連れてきた司は、きちんとズボンを履かせられていた。
念のため使用人用の隔離室に寝かせて、使用人には近づかないよう言い聞かせる。
「……坊ちゃまはご存じだったのですか?」
「まえに一回あの公園で会って……そのときに」
「成程。最近、朱桜の方々の動きが妙だったのでなにかと思っていたのですが……。こういうことだったというわけですね……これまでよく黙っていられましたね、坊ちゃま」
「言って良いこと駄目なことくらいわかるってば……あの時点で周りの人間はみんな自分がオメガだって知ってるって思い込んでるくらいやられてる感じだったんだけど……。弓弦が知らなかったってことはまだ朱桜もいちおうはうまくやってるってことだよね」
「それだけ、内部でどう扱われているか分らないということでもありますけど」
「まあね……今回は〝朱桜〟目的だったってことかなあ」
「おそらく。項を噛んだ痕跡がないどころか、噛もうとした痕跡すらなかったということはそもそもそういう発想がなかったということでしょう……アルファの一般的な思考回路はよくわかっていませんが」
「それはボクもだけど。……まあいいや、ご飯もボクが持っていくから弓弦たちは近寄らないで」
「坊ちゃまが他人の世話を……? それも司さまの……」
うっ、と弓弦が手を目元に当て泣き真似をする。
「うるさいなあ!? 事情を知ってるのか知らないのかわからないひとに世話されるよりは気が楽でしょ」
坊ちゃまも気遣いができるのですね……と弓弦。
うるさいなあ。
二時間くらい経って、司がいる部屋で何かが落ちるような音がした、ときいたので、夕飯を持って向かう。
「つかさー? 起きた?」
がちゃり、と重い扉を開けると、司はベッドの下で蹲っていた。落ちるような音、というのは司がベッドから落ちる音だったのだろう。
司がゆっくりと顔をあげ、こちらを見る。
「……あれ、桃李くん……?」
状況を飲み込めていないのか、司はぱちぱち、と瞬きを繰り返した。
夕飯の載ったお盆をテーブルに置いて司に近づく。
「大丈夫……? 手貸そうか……?」
「いえ、大丈夫です、えっと。……ここ、」
よいしょ、とベッドによじ登るようにして座る。
「うちの隔離室。使用人用でちょっと狭くてごめんね」
「ああ、どおりで見覚えがないわけです……すみません、取り乱してしまって。あのまま誘拐かなにかされたのかと」「公園に捨てられてたよ。キングが見つけてくれて、さすがに放置するわけにもいかないから連れて帰ってきたの」
さ、と司の顔が青ざめる。
「あそこからここまで、桃李くんひとりで私を運べるとは思えないのですが」
「運んだのは弓弦。運転手はまた別だけど運転してただけだし、弓弦もたぶん強姦としか思ってない」
「……なら、いいのですけど」
はあ、と息を吐いて、司はそのまま後ろに倒れた。
「司!?」
「桃李くん、その、鞄、取ってくださいませんか」
「へ?」
テーブルの上に乗せていた鞄を司に渡す。
「すみません。先ほどのは取り乱したのもあったんですけど、鞄を取りに行こうとして失敗したのもあって」
寝っ転がったまま鞄を漁り、ピルケースを取り出す。それからさらにごそごそと……水を探しているんだろうか。
「もしかして水探してる? 避妊薬飲ませるのに使っちゃった」
ああ、と司は納得したようで、鞄を漁るのをやめた。ピルケースから薬を取り出して、口に含んでから、夕飯と一緒に持ってきた水を手渡す。空になったシートには抑制剤の文字。
そういえば確かに、体に力が入っていないような気が、しなくもない。
「ひーと、なってたの」
「いえ、あのときはまだ。なってたらたぶん噛まれていたでしょう……噛まれてませんよね?」
「噛まれてない。第一ボタンまでばっちり閉まってた」
「はあ。桃李くん、ぜんぜん何も反応しないんですもん。アルファのくせに」
「だからボクまだフェロモンとかわからないんだってば! バース性の成長は第二次性徴より遅いんだって、知ってるでしょ」
「桃李くんまだ小さいですもんね」
「うるっさいなあ、姫宮は成長が遅れがちな一族なの、仕様なの! うちのパパだってなんだかんだ百七十あるって言ってたからこれからなんだってば!」
「はは、どうだか……」
視線をボクから外して、司が黙り込む。
胸が大きく上下して、額には汗がにじみだしていた。
「え、と、薬そんなにすぐ効かないよね……? ボク一回出るね、ご飯このまま置いていくし大丈夫になったら呼んでくれれば……」
「桃李くん」
司は寝っ転がったまま、ベッドの下に垂らしていた脚をあげ、とん、とボクの太ももを突ついた。
「……、その。今週、体育がないんです」
視線をボクから外したまま続ける。
「ん?」
「まだ冬服ですし。……だから、たしょう傷が残っても問題がなくって、」
司?
「……、つまり、ええと。噛んでくださいませんか」
く、と司が体を起こした。まだ体にうまく力が入らないのか、ぐらりと倒れそうになったので慌てて支える。
「つかさ~……? えっと何言ってるかわかってる? 頭回ってない?」
「大丈夫です、回っています。……だって、それくらいしか」
きゅ、と司がボクの服を掴む。
「噛んだらつがいになっちゃうよ。わかってるの? そんな簡単に、適当につくっていいものではないでしょ。……つがいになったら一生、」
「ええ。一生、誰にも変えられません。……逆に言えば、一度噛まれてしまえば、他のアルファに噛まれたとしても、その人のつがいになることはありません。……朱桜だって、いつまで私がオメガだということを隠し通せるかわかりません。寝ている最中になにか仕込まれてもわかりません。……安心が、ほしいんです。そんなことすら望んではいけないのでしょうか」
つがいができれば、発情期のフェロモンはつがいのみにしか効かなくなる。
薬でそれ以外の諸々を抑え、つがいの相手に会わなければ、ベータと同じような生活ができるようになる。
実際、そういうビジネスがないわけではない。普通に生活していれば絶対に会う事のないような場所に住んでいる、つがいらしい関係を望まないアルファとオメガを仲介してつがわせて、レイプ被害を避けるだとか、ベータ同様の生活を送れるようにするだとか、いいわけをつくるだとか。
「……だったら、もう二度と人生にかかわらない人間とかを」
「条件に合う、丁度いい人を見つけられるのはいつになりますか。まだ不安定だからいつ次の発情期がくるのかも分らないのに。ずっと怯えてなきゃいけないなんてそんなの嫌だ」
桃李くんにはわからないでしょうけど。再び、今度は脛を蹴られた。
「知らないひとに噛まれるのは嫌ですもの。こちらが〝朱桜〟だと知られてしまうと面倒ですし。たぶん、桃李くんとそこまで仲良くなることはないと思います。桃李くん、違う学校でしょう。会おうとしなければ会わないことも出来るでしょう。桃李くんみたいなちんちくりんにつがいができるかもあやしいですし」
「ひどいこと言ってない……? ほんとにいいの」
「……桃李くんとつがいなんて死ぬほど嫌ですけど、桃李くん以外のよくわからないアルファに噛まれるのなら、死んだほうがましです」
ぷち、ぷちとボタンを外す。ずるりとシャツを肩から落して、司は微笑んだ。
「それに、朱桜の血を誇りに思ってはいますけど。朱桜に負けたくないですもの」
それを聞いて、まあいいか、なんて思ってしまって。
ボクは司の項に歯を立ててしまったのだ。
4
「……ここまでがボクと司を語るうえでの前提条件ってわけ」
あのあと、しばらく司と顔を合わせることはなかった。あの公園を避けたというのもあったし、学校が遠いのもあったし、そもそも司がパーティーなんかに顔を出さないからというのもあった。一応受験生だったわけだし。
その間に、ボクは天祥院の英智さまのライブを見て。司はどこかでKnightsのライブを見て、アイドルになりたいと思い、夢ノ咲学院を受験し、今日に至る。
いや、本当に吃驚した。だって司がアイドルを目指すとか考えられる? 無理でしょ。
事前登校の日にあの蘇芳色を見つけてしまったときの驚きといったら。クラスもなんだかんだで一緒になってしまったし。こんな、毎日顔を合わせるような関係になるとは思ってなかった。
でも、アイドルを目指すと思えなかったこと以外は理解出来るのだ。
Knightsは鳴上先輩以外全員がオメガだ。抗争時代の、まだ名前がKnightsでなかったころから他と比べてオメガの多いユニットだったのだという。オメガであることで追い詰められていた司が、Knightsのライブを見て救われたんだろうなあ、憧れたんだろうなあということはわかるのだ。
それに、夢ノ咲学院は他の学校に比べると、アルファもオメガも多い珍しい学校だ。
思春期真っ盛りのアルファとオメガを同じ空間に入れるだなんてと世間には言われがちなのだけど、もともと夢ノ咲学院はアイドル育成が一番の目的の学校なのだ。アルファもオメガも顔面が整っている場合が多いので、アイドルに向いているのである。それを事故を防ぐため、なんてつまらない理由で片方を排除してしまうのはもったいない。というのが創設者の持論だったらしく、そんなこんなで夢ノ咲はアルファとオメガ(と当然ベータも)が平等に学べるよう様々な設備制度が整えられた数少ない学校として成り立っているのだ。
……まあつまり、朱桜からすると学校で性別を特定されない、好条件の学校なのである。
義務教育以上の上位校となるとオメガの受け入れ拒否を公言している学校も少なくない。なんだかんだで夢ノ咲学院への入学を朱桜が許したのもわかる。天祥院家の長男も(今思えば深海やら羽風やら神崎やらも)在籍しているので、不審に思われることはないと判断したのだろう。
「要はかさくんが桃くんを利用したって訳ね」
瀬名先輩がストローでグラスの中の氷をつつく。
放課後の、紅茶部不在のガーデンテラスはひとがまばらだ。今日は午前授業だったので尚更、帰るひとは帰ってしまっているし、残るひとはスタジオやら防音レッスン室やらにこもっている。そもそも卒業前なので、生徒自体が少ない。
ボクだって久しぶりの休みだったので帰る予定だったのだけど、瀬名先輩に引き留められたのだ。『桃くん、かさくんのつがいでしょ』なんて言われたら止まらないわけにもいかなかった。いや、瀬名先輩に話しかけられた時点でわりと自由はないけれど。
「ま、あ、そうだけど~。……そうでもしないといつ身投げしてもおかしくなかったというか……司そういう変な行動力だけはあるというか思い切りが無駄にいいから……」
「ああ、昔からそうなんだ……でも桃くんに何もメリットなくない? なんで噛んだの」
「その場の勢い」
「うわサイアク。桃くんはそういうタイプのアルファじゃないと思ってたのに」
「って言ってもさあ……ボクと司の仲なんてあのときと今でそんなに変わらないし、あのときは月一で会ったら良い方だったから下手したら今より仲悪……わる……? まあいいや、そんな状況であの司がボクに噛んでくれって頼むのなんて相当でしょ」
「俺は桃くんのメリットをきいてるんだけどねえ……今みたいにわあわあ言い合う仲なんでしょ、ずっと」
って言っても司を噛んだ理由なんて今でもわからないというか、言葉にできないというか。
しいていえば、
「……司に頼まれたからなんだよなあ」
「……そう」
瀬名先輩が、氷がとけてできた水を飲む。
「……っていうか、なんでわかったの」
すごく謎。ボクがつがいだって司が瀬名先輩に言うとは思えない。司のことだから学校側に正直に申告してるとも思えないし。
「ああ、だって桃くんこの前俺がヒートになってたの、全然気づいてなかったでしょ」
「えっ」
「そのことかさくんに話したら、そういえばこの前も気づいていませんでしたね、って言うから。なんでつがいがいるはずのかさくんのヒートに桃くんが気づくわけ。そういうことでしょ」
『二人のこと、ちゃんと心配してるんだよ』などと言い残して、この数週間後、瀬名先輩は学院を卒業した。
5
時は経ってボクは生徒会長になり、司は副会長になった。最初はそりゃあなんでボクの下に就かなきゃならないんだと猛反発されたけど、就かないんだったらKnightsを解散させるって脅したらおとなしくなった。
解散させるというか、今のKnightsは先輩二人が卒業してしまって司ひとりしかいないので、正確にはKnightsを名乗るなというかそんな感じだけど。だって、ソロユニットを許可するわけにはいけないのだ。英智さまの時代だって、三毛縞斑の扱いには苦労していた。
それに、生徒会の仕事に追われてれば少しは余計なことを考えなくて済むでしょ。
そんなこんなで今日も相変わらず生徒会は忙しい。一年生のときはなんであのくらいで忙しいだなんて思っていたのだろうってくらい忙しい。Trickstarが革命を成功させて、ライブにS3なる区分ができて。毎週どこかしらでライブが行われてるんじゃないかって感じ。つまりそれだけ色々諸々書類があるし、許可申請はその倍以上の数がくる。去年はまだワーカーホリックな衣更先輩といろいろ調整してくれる弓弦がいたからまだ楽だったけど、今年はボクがトップ、仕切る側。もちろん姫宮を継いだらこれどころじゃないんだろうなあ、ってことはパパとママを見てたらわかるんだけど、忙しいものは忙しい。
今日は珍しく、比較的雑務の少ない日だったので、司以外はもう早い段階で家に帰していた。そこからはもう、ひたすら読んで、読んで、サインして、読んで、判を押して、前例を探して、調節して、読んで、判を押して、以下略。
だいぶ同じことを繰り返した気がしていたのだけれど、机の上の書類の山は半分程度しか減っていなかった。
ひい、まだ半分。
一度ペンを置いて、ぐぐ、と腕を伸ばす。一度休憩を挟もうか。前だったら、弓弦が丁度良いタイミングでお茶を煎れてくれたのだけど。その弓弦はもういない。たまに創が来てくれるけど、創はRa*bitsのライブを今週末に控えているはずなので、たぶん今頃練習の真っ最中だろう。
ふわ、とどこからか甘い匂いが漂ってくる。
「……なんかいい匂いしない? 司なんかお菓子でも開けた?」
司も休憩を挟むなら丁度良い。今茶菓子は何があったっけ、と司の机を見ると、それらしきものは何もなかった。
判を押す司の手が止まり、顔がさっと青くなる。
かたり、と司の手から判子が落ちた。
「……司?」
じゃあこの匂いはなんだろう。誰かがお菓子でも作ってるのだろうか。
……じゃない、そうじゃない!
司の顔は気が付いたら赤く染まっていた。はあ、とおおきく息を吐いて、机に体を預けながら抽斗を漁る。シートから一錠取り出したところで水がないことに気づいたようで手が止まった。
その間にもどんどん匂いは濃くなっていく。
ごくり、とつばを飲み込む。心臓がはやくなって、からだがあつくなって。中心に血が集まってるのがなんとなくわかる。
やばい、やばいって。
そりゃあオメガが悪いってアルファが言うはずだよ。だってオメガが誘ってくるんだもの。本能に襲えって命令してくるんだもの。
ここらへんから記憶がぶつ切りだ。
気が付いたら椅子に座っていたはずの司を生徒会室の床に押し倒していて、「やめて」だの「落ち着いて」だの聞こえたような、聞こえなかったような。
知らない。
司の中に出したい。
次に気が付いたときにはなかなかの惨状がひろがっていた。
司は意識を失っているようでぴくりともしない。挿れることしか考えていなかったのか、上はボタン一つ外されていなかった。何回分なのかあまり考えたくない白濁が、司の腹の上やらワイシャツの上やらに広がっていて、そして股の間にも。
甘い匂いはだいぶ薄まっていた。机の上の錠剤が消えていたから、口に含みはしたのだろうか。
それより、避妊薬。前回はヒート中じゃなかったけど今回はヒートど真ん中、何回出したかもわからない。
アフターピル、まだ持っているのだろうか。さっき司が漁っていた抽斗を開けてピルケースを見てみるも、それらしきものは見当たらない。念のためひとつひとつシートの文字を確認しても抑制剤しか見当たらなかった。
たぶん、油断していたのだろう。ヒートになっても、フェロモンを感じ取る人間はいなかったのだから。発情期になっている様さえ見せなければ、さいあくベータで通るように生活していたから、ヒート以外で襲われることも考えにくい。
ええ、まって、やばいんじゃないの。
いちおうアフターピルは七十二時間以内とは聞くけど、たぶん早いに越したことはないと思う。
そうだ、保健室。
アルファもオメガも多い学校なのだから、何か起こってしまうこともちゃんと考えているのでは?
そうであると思いたい。
最低限の処理だけ済ませて、念のため生徒会室に鍵をかけてから保健室へ。
あの怠慢教師が帰っていなければいいのだけれど。
ばん、と勢いよくドアを開けて。
「せんせーっ!」
「うおっ、……どうした姫宮。絆創膏か?」
「そうじゃなくって、」
ゆっくりと、面倒くさそうに書類から顔をあげた佐賀美先生はボクの様子を見て大体察したのか、書類を抽斗にしまって、棚からなにか取り出すと、「姫宮あとで面談な」とだけ発した。
「……ごめんなさい、いろいろ、気づけなくて」
「そういうのは起きてから朱桜に言え。抵抗もしてたろ」
いろいろ手当を終えて、司は保健室横の、オメガ用の隔離室に寝かせられた。たしかにその手当には、腕なんかに出来た擦過傷の手当なんかも含まれていた。
「つーかな、つがいがいるなら言えって入学のときに言われなかったか? それ以外でも、たぶん毎年春に言われてると思うんだけど。なんも担任に言えって言ってないだろ。保健室にだけ言いにこいって」
「かえすことばもございません」
「あのなあ。つがいの有無とか、いろいろこっちも把握してないと準備のしようがないわけ。……はあ。朱桜にきいてもあいつ、『知らない人にいつのまにか噛まれていました』としか言わないからさあ。相手が姫宮なら言ってくれよ、こっちでもいろいろ配慮とかさあ……」
佐賀美先生がかりかりと書類を書き換えていく。
「……おまえ、いままでフェロモンとか嗅いだことなかったの」
「アルファなのにやっとこの身長って時点で察して」
「成長の順番なんかは個人差があるからな? アルファが全員高身長ってわけでもないし、察しろとか無理なの。ちゃんと言って、申告して。どうしようもないから。……はあ、あとでちゃんと朱桜にも指導するけど、おまえらどっちも同じクラスだし生徒会だよな? これからまたこういうことがあったら困るから、ちゃんと朱桜と話し合ってタイミング計ってお互い抑制剤を飲むなりなんなり対策取ってくれ。アルファ用の抑制剤があることくらい知ってるよな? ちゃんと医者に行けば処方してもらえるから……あとこのことはちゃんと家に、」
「え」
「当たり前だろ。お前らだけの問題じゃないんだから」
「……ボクはいいけど、司は、朱桜は」
「もしかしてつがいって親御さんにも言ってない感じか? ちゃんとしろよ、そういうの。おまえらだけの問題じゃないんだから、本当に。……まあお前らの場合は単に恥ずかしいからとかじゃあないんだろうけど」
いくら保健の先生だとはいえ、言ってもいいんだろうか。……と思っているのが顔に出ていたのか、佐賀美先生が続ける。
「誰にも言わないから。この書類だって、お前らが卒業するときにシュレッダーにかけることになってるし、普段は鍵がかかってて俺以外見れないことになってる」
「……朱桜の家って、全員、お嫁さんも、使用人もアルファなんだけど。そのなかで、司だけオメガで。……朱桜の家はオメガをよく思ってないから、せめてベータに見えるようになろうって、……・当時は同じ学校になるなんて思ってなかったから。丁度良かったの」
「……つまり朱桜がオメガだってこと自体、家だと禁句っつーか……成程なあ……お前は親御さんに言ってるの」
「うっ……だってタイミングがなかったというか……言ったら朱桜のほうにも伝わっちゃいそうというか……だいたい今日本にいないし……」
「そう。……じゃまあ、いいか。なんかまた面倒くさいことになりそうだったら相談しに来いよ。……ああ、あとこの面談をもとに朱桜とも面談するから。お前が言ったことを全部朱桜に言うわけじゃないけど、言うかもしれないってことだけ覚えておいてな」
「……うん」
「じゃあ解散。今後はちゃんと気をつけるように」
「佐賀美先生がちゃんと保健の先生してる……」
「失敬な」
この前のことは司も想定外だったらしい。最初のヒートから、なんだかんだだいたい三ヶ月周期で来ていたものが、今回は一ヶ月だったそうで。四捨五入で九十日くらい周期のものが三十日だったそうなので、そりゃあ想定していないはずである。とりあえずボクもアルファ用の抑制剤を常に用意しておく方向で話はまとまった。
だいたいこのときから、司はデュエルをよく起こすようになった気がする。
「……このまえ、Ra*bitsの……友也くんに会ったんだけど」
「ん? ……ああ、そういえばこの前モデルみたいなことやってたような」
「多分それ。……で、かさくんの話聞いたんだけど……最近荒れてるんだって?」
からん、と氷が音を立てた。
瀬名先輩とはこうして、卒業してからもたまに会っている。
遊木先輩の様子をききにきたりだとか、Knightsの様子をききにきたりだとか。あとはボクが愚痴ったり、瀬名先輩も愚痴ったり。
「……うん。春頃はまだ私に勝てない人間をKnightsに入れるつもりはない~みたいな、まだ理由がわかる感じだったんだけど。最近はなんか、売られた喧嘩を全部買ってたら売る人間が増えて~みたいな……生徒会にもあまり顔出してくれなくなったし。さらに悪化するならなにか対策たてなきゃいけないと思うけど……あまりストレス発散の手段を封じたくないというか」
「ライブはストレス発散じゃないでしょ」
「そうだけどさあ……B1だし。身内しか見てないし……やっぱ一人で踊るのと相手が居るのって違うじゃん、わかるんだけどさあ……」
「……やだよ、昔の王さまみたいになるの。かさくん、似てるところあるからなぁ……。まあ、どうせ家のことなんでしょ?」
さくり、と瀬名先輩のフォークがレタスを刺す。
「……司、弟が産まれるらしいんだよね」
ミルクレープを切って。
「予定日が……順調にいけば来年の三月、だったかなあ。高齢出産になるから、もしかしたら早まったりするかもしれないけど……確実に次はアルファだし、産まれたら家に今以上に居場所が無くなるだろうってことぐらいわかりきってるだろうから、多分それでめちゃくちゃ荒れてる」
「……性別、もう分るんだ」
「一応羊水検査? で調べたみたい。倫理的にアウトだから普通はそんなことしないけど。朱桜はお抱えの医者とかいくらでもいるだろうし『朱桜』って昔から頭おかしいし」
あれでもいちおう元は武家なのだ。自分たちの目的のためなら手段を選ばないところがある。
オメガを飼って、孕む度に蹴り堕としていただなんて過去もあるみたいだけど。それを含め、あの家は昔からあたまがおかしい。
「……そっか。そりゃあ、生まれたときから決まってるもんね。……三月なら、卒業で一区切りだし、十八歳だし、丁度良いか」
「まあ、朱桜もすぐに捨てはしないだろうけど……それでもたぶん家の人の関心はその弟に全部向いてるだろうし、家の人に何言われてるかわからないし。……どうするのが正解なんだろ」
ぷすり、と今度はミニトマトを刺して。
「……桃くん、かさくんを襲ったらしいじゃん」
「え、は、どこから……」
「さあてどこでしょう。一回襲ったならもう二回襲っても同じだってば。家に持って帰って朱桜に帰さなきゃいいじゃん」
「簡単に言うなあ!? だいたい、確かにつがいだけどさあ、ボクと司は、」
「そうは言ってもねぇ。……べつに抱かなくても一緒に寝るだけでも体温とか匂いとかで落ちつ……待って今のナシ」
フォークを持っていなかった方の手で瀬名先輩が顔を覆う。
全然覆いきれてないけど。うわあ真っ赤。
「……つがいできたの?」
「っ、チョ〜うざぁい! 桃くんには関係ないでしょぉ?」
「ボクのは無理やり吐かせたくせに。この前会ったときは全然そんな候補がいそうな感じでもなかったよね? 瀬名先輩が? 噛ませたの? ていうか瀬名先輩がいいなんて相当の物好きじゃん」
「うるさいなぁ!! いいじゃん、今はかさくんの話をしてるの!」
「瀬名先輩は二十代後半になるまでつがい作らないと思ってた……」
「どういう意味かなぁ、桃くん。……まあいいや。桃くんがちゃんと把握してるなら大丈夫でしょ。桃くんも伏見の監視が外れたからって好きなものばかり食べるのやめなよね」
・夢ノ咲を地名と解釈しています。
・強姦描写があります。
・桃李に学校の性教育及びクラスメイトの下ネタトークから察せる程度の性知識があります。
・桃司以外のカプの相手の断定はしていませんが、相手がいるという描写はあります。
・Knightsの五人と桃李以外のバース性はとくに決めていません。
・朱桜司がLeaderとKnights以外の英単語をあまり発しません。「アルファ」「ベータ」「オメガ」「ヒート」はカタカナで統一しています。
・途中で朱桜司に弟ができます。
今回のオメガバース
・ヒート=オメガの発情期。
・男オメガには早期から子宮があるので早い段階でわからないこともない。
・発情期の周期は、女性の生理のように三ヶ月周期といっても人によって前後十日ほどの差がある。ストレスや栄養状態などでタイミングにもブレが生じる。
・つがいを解除しても死なない。
・バース性の発現は第二次性徴より遅れてくることが多い。
・つがいは発情期中に項を噛むことで成立。
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1
「今日のパーティーには朱桜のご子息さんもいらっしゃるそうですよ」
「朱桜……ああ、ずっと留学してたんだっけ、同い年の……」
「司さま」
弓弦が広げるシャツに腕を通しつつ。
朱桜司。昔ほどの勢いはないものの、夢ノ咲が夢ノ咲でなかった頃から続く、古い……もはやただ古い、というだけで立ち続けているのでは、という朱桜家、その一人息子である。
なんの由縁か家柄が正反対、自称するのもなんだけど、成金の姫宮家の長男が同級生ということで、産まれたときから今日に至るまでなにかと比べられ冷やかされ話題にされ続けてきた相手である。
お金持ちというのは刺激に飢えているのだ。巻き込まれる側の気持ちにもなってほしい。
今日まで何度留学の予定を訊かれたことか。だいたい、この歳で何を学びに行くの。英語? 音楽? 例の司も、いまいち具体的に何をしに行くのか自分でも把握しきれていない様子だったし。それに、ここまできたらボクが日本に居続けたほうが面白いんじゃないかなあ。
第二ボタンからひとつずつ、下に向かってボタンを留めて。
「……あいつ、大学までずっと向こうにいる予定とか言ってなかったっけ?」
弓弦が差し出すスラックスを受け取って。
「さあ、私が坊ちゃまに仕え始めたときにはすでに旅立っておられましたので」
かちゃり、と空いたハンガーをクローゼットにかける。
土着の信仰やらなにやらで成り立っている朱桜が、家の勢いがおちてきたこともありただ古いこと以外を強みにしよう、まだ“朱桜”に染まりきっていない子供を外に出してしまおう……みたいなことがだいたいの留学の理由だったはずだ。そのような感じだろう、と最後に会ったとき、当の朱桜司は言っていた気がする。外に出して、何をするのかは知らない、と。
ベルトを締めて。
「留学先の方面でおおきい事故とかあったっけ?」
弓弦が構えるジャケットに腕を通す。ネクタイを締めようとする弓弦を止めて、自分で締める。制服がネクタイなんだからこれくらいできるってば。
「いつでもなにかしらは起こっている気はしますけど……とくにこれ、というものは起こっていない気がしますね。……朱桜のネットワークを把握しきれているわけではないので断定はできませんが」
「ふうん、なんだろ。外の国でひとりは寂しくなっちゃったとかかなあ? 堪え性のない」
「ご両親が不在のときはいまだにぬいぐるみを抱いて寝ているような坊ちゃまには言われたくないでしょうね」
うっさい。
時代が時代ならあと一年で成人なのに桃李くんはまだまだお子ちゃまですね、とかあいつは言うんだろうなあ。
今日は一月十三日、ボクの十四歳の誕生日である。
2
年度を跨ぎ、春。
公園で放したキングを見守っていると、視界の隅に見覚えのある蘇芳色が映った。公園のベンチに鞄を抱えながら座って、何をするわけでも無くただぼうっと遊具の方に視線をやっている。見ている、ですらなかった。座って、目を閉じていないだけ。
その証拠に近づいても微動たりしない。目の前に手をやるとようやく気が付いたようで視線が動いた。
ぱちぱち、と長いまつげを何度か伏せ、やっと焦点があったのか。
「……ああ。姫宮の、」
「桃李」
「そう、桃李くん」
にこり、と先ほどまでが嘘だったかのように表情筋が動く。
「あんまり見かけない制服だけどどこの……?」
「隣の県にある学校で……たぶん、言ってもわからないかと。そこまでわかりやすい成績を残しているわけでもありませんし」
「親戚の誰かの出身校か何か? それとも朱桜の傘下の?」
「いえ、オメガが入れるなかで出来るだけ学力が高い学校を探した結果がそれでして」
「おめが」
誰が?
だれが、じゃない。今は司の学校の話をしているので、この文脈でのオメガは朱桜司以外にあり得なかった。
「……朱桜ってアルファの一族なんじゃないの」
え、と中途半端に口を開いて、司の動きが止まる。
「もしかして、私が帰ってきた理由などご存じない……」
「知らないよ。おまえ大学も向こうで出るつもりとか言ってなかった?」
「そのつもりだったのですよ、最初は。……ああもう、広まっているものだと勝手に思っていました。そうですよね、朱桜ですもの。保身に走りますよね……」
大体そのようなことをぶつぶつと言っている。ああ、なんか自分の世界に入りつつある気がする。相変わらず周りが見えていない、視野狭窄。朱桜家、育て方間違ってるんじゃないの。どんどん逸れていきそうなので続きを促す。
「つまり」
「向こうですこし、病気をしてしまって。そのときの検査でオメガだと判明しまして……オメガなんかにかける金はないとかそのような感じだったと思います。あと本当に私は朱桜の子なのか、だとか」
「えっ大丈夫なの? ……その髪色はどう頑張っても朱桜だと思うけど……まあ朱桜ってよりは蘇芳」
ここが周防でないのが残念ですね、と笑う。言葉で遊ぶ癖は変わっていないらしい。
「大丈夫ですよ、たぶん。……ええ、そう思います。母の髪色がこれではない以上、朱桜以外にあり得ないと思うのですけれど……男女でも染色体異常とかあるでしょう、そんな感じだと思うんですけど。……昔から障害児が生まれてくると早々に殺していたような家ですし前例がないのでしょうね」
「なにそれ朱桜ジョーク?」
「残念ながら」
なにかといろいろな、主にダークな方向の噂が尽きない朱桜家であるが、噂ではないのかもしれない。こんな街中にあるとは思えない家なのだ。まだ全方向を森に囲まれた旧世代の文化が未だに残っている村を仕切っている一家だとか言われた方が納得がいく。ほら、骨董品なので。
「たぶん、巷で囁かれているよりもっと酷いことをしていたのだと思いますよ」
それはさておき、と投げ出していた脚を動かし、革靴を鳴らす。足元の砂がざり、と鳴った。
さておき、で流せてしまうほど、司にとって当然の話なんだろうか。そりゃあ、今更文句を言っても生まれてくる家は選べないし、過去も変えられないけれど。
「……で。朱桜も本当ならお父さまやお祖父さまと同じ学校に行かせたかったんでしょうけど。ああいうところってアルファ至上主義でオメガなんて受け入れてないですし……まあ、下手にアルファが多い空間に行って血統もよく分らないアルファに噛まれるよりは数倍ましでしょう」
一応申し込みはしたんですけど落されました、と司は続けた。
オメガやアルファが昔より増えた今、女子校や男子校と同じく、高校大学にアルファのみの学校、オメガのみの学校が存在しないわけではない。でもそれは高校大学の話であって、義務教育はバース性で分類するのであれば共学の学校のみのはずである。
そもそも一斉検査が行われるのは中学二年のときなので、入学の段階だとまだ大抵の人間は己のバース性を知らないのである。
「信じられないって顔してますけど、珍しい話でもないですよ。学校側は点数が足りていなかったと言い張れば良いだけの話ですし……。上位の学校ってアルファが多いでしょう、強姦事件とか洒落にならないですもの」
いまだにオメガの強姦事件は誘ったオメガが悪い、本当に嫌なら死に物狂いで抵抗するのでは、合意の上だったのでは、などと言われがちである。アルファはとくに、そう思い込んでいる割合が高い、らしい。ボクはまだオメガのフェロモンが分らないので理解は出来ないけれど。
自分のクラスの三分の一はアルファだったような、と思い出す。そんな空間にオメガがいたら。
オメガの発情期は薬を使っても完全に押さえられるものではないと聞く。そんな場所で発情期に突入してしまったら。多くのオメガは十四~六歳でファーストヒートを迎えるため、中学校というのはもっとも事故が起こりやすい空間のひとつであると言っても過言ではない。そもそも、アルファというのはちやほやされて育てられるせいで思考にやや偏りのある人間が多いので、学校中のアルファに見下されるだとか、そういう可能性もある。女性蔑視が無くならないように、オメガ蔑視もなくならない。むしろオメガ蔑視のほうが激しいのであった。昔より、だいぶ緩和されたとはいえ。司が言う朱桜の話だって、昔なら珍しい話でもない。
「……そんなこと考えたことなかった。すごい、アルファが迷惑掛けて申し訳ありませんって感じ」
「桃李くんの口からそんな言葉が出てくるとは。オメガを見下してる側だと思っていました」
「は、あ?」
「そもそも発達障害者とオメガが一緒くたにされていた時代があるように、オメガって、こう、徐々に高みを目指すのが難しくなっていくようなんです。もちろん個体差はあるので全員ではないんですが……まあ一部のひとは最初からオメガに教育を与えるなとか言いやがるんですけど」
「姫宮は骨董品みたいな朱桜とは違うんだってば。うちはちゃんとオメガも雇ってるし各種社会保障も充実してるもん。これからはそういう時代でしょ」
「…………。ちゃんとというあたりがそもそも差別というか、見下しているが故なんですけどね……ええ、これからはそういう時代なのですよ。……そういうことを学ぶために、私は外に飛ばされたはずなのに」
とん、とつま先で地面を叩く。
「……実際何してきたの?」
「とくになにも。向こうの学校に通って、朱桜と取引している家に媚びに行って……それくらいですね。あとは私が勝手に興味のあることを調べて回ってたくらいで」
その興味のあることがバース性云々だったんだろうか。
……いや、こいつだってその検査で判明したときまで自分はアルファだと思い込んでいたはずだ。
「ちなみに向こうは?」
「男尊女卑というよりは人種差別が根強いですし、奴隷制度もあったでしょう。どちらかといえばそっちの差別ですね。日本の差別は女性差別の上位互換みたいなものですけど、向こうは黒人差別の亜種みたいな……労働力に使えないというよりかは最初から求めている労働力が違う、みたいな」
「ああ……」
「あと治安が悪いので」
「なるほど」
司を日本に戻したのは司の身を心配したのもあるんじゃないかなあ。
「桃李くんが考えてるようなお花畑な家だったらいいのですけれどね。……まあ。生かされているだけ、こうして普通にしていられるだけ、まだ可愛がられているのでしょうね、私」
ふ、と表情筋が緩む。
「……桃李くん、私がオメガだって知ったらここぞとばかりに罵倒してくるものとばかり思っていました。いつも骨董品だなんだって言ってくるでしょう」
「え、だってどうしようもないでしょ……いちばん触れちゃいけないことというか、ええと目の色が変って言っちゃ駄目なのと同じというか……」
「桃李くんはやさしいですね」
キングさんもそう思うでしょう、と司はいつの間にか戻ってきていたキングを撫でた。
司の表情は最初見たときよりはましだけど、それでもどこか寂しげなままだ。
すべてがアルファで構成された朱桜から生まれたオメガ。
たぶん、司は家に居場所がないんじゃないだろうか。昔はいろいろお稽古ごとをしていたと思うけれど、さっき言っていたように色々仕込んでも無駄だと判断されたのではないのだろうか。
ただでさえ居場所がないのに行動すら制限されて、それで帰りにくくって、こんなところでぼうっとしていたのでは?
それで、昔から喧嘩してばっかのボクに弱みを晒すような真似をして。
表情だって、昔はもっと取り繕うのが上手じゃなかった?
今、どころじゃない。これからもだ。
司がオメガだという事実は変わらない。
たぶん、朱桜も変わらない。司が分岐点になる予定だったんだろうけど、たぶん朱桜はもう司を朱桜として扱うことはないだろう。周りの目があるから手放しはしないけど、たぶん既に一族のくくりには入れていないのだと思う。
「これから、……どうするの」
「どうなるんでしょう」
ふふ、とあくまで司は笑うのであった。
3
次に司に会ったのは例の公園の林の中だった。
いつもどおり散歩させていたキングがやけに吠えるので、何事かと思って見てみたら林の中で倒れていたのだ。
……いや、倒れていたどころではない。
制服のズボンを脱がされ、下着も身につけていない。内腿には赤と白の液体が伝っていた。どこからどう見ても強姦されそのまま捨てられた図である。
キングに吠えられても司はなかなか目を覚まさない。気絶しているのか、それとも薬か何かを盛られているのか。上半身の着衣に不自然な乱れは見当たらないけど、念のため項を確認する。
大丈夫、噛まれてない。さいあくの事態にはなってない。
よかった。はあ、と一息ついて、制服の上着を司の下半身にかける。さっきからちらちらと視界に入ってきてあまり気分がよろしくないので。それに、だれか他の人が来たら困る。
落ち着きかけたけど、噛まれてないから大丈夫ではないのだ。もっと深刻なことが残っている。
白いの、つまり精液が伝っていたということはあのままだと妊娠してしまうかもしれないってことだ。
発情期以外は妊娠の確率が低いって聞いたことがあるような気がしなくもないけど、そういう噂ってアルファに都合良く改変されているものだし、低いってことは絶対にないってことではない。
アフターピルなるものがあるんだっけ。司も持っているのだろうか。司の鞄、どこだろう。ぐるりと見回すとやや離れたところに落ちていた。ちょっと失礼して鞄を漁り、ピルケースを取り出す。
緊急避妊薬、一回一錠、行為から七十二時間以内。
一番包装が派手でおおがかりな薬がそれらしかった。薬の名前と一緒に簡単な注意書きが印字されている。
何もかもが生々しかった。なんで、中学生の鞄に、こんなものが。
色が派手なのは見つけやすくするため。一シートに一錠なのはそれだけの重みがある薬だから。注意書きが印字されているのは、本人以外が触る可能性があるから。
なんで、なんでと思ってしまうけど実際こうなってしまうからなのだろう。
鞄から飲みかけの水も発掘できたので、司の喉に無理矢理流し込んだ。
ふう、と一息ついてから、ピルケースに発情抑制剤の文字が見えて、発情期の存在を思い出す。そうだ、発情期。オメガの強姦被害の原因の九割は発情期である。ボクはまだ、オメガのフェロモンとやらがわからないので全く気にしていなかったけど、大丈夫なんだろうか。……・誰も寄ってこないってことは大丈夫なのかなあ。念のため飲ませた方がいいのだろうか。でも、症状が出ていないのに飲むのもたぶんよくないし。
ぐるぐる考えてると、急にポケットの携帯が震えだした。
こんなときに何を、と思いつつ画面を確認すると相手は弓弦だった。今日ってなんかあったっけ? 門限?
怒られそうであまり出たくないけど、出ないとたぶんもっとうるさいので仕方なく出る。
「……弓弦」
「坊ちゃま。……電話には出られるようですね、安心しました。ずっと動いていませんがどうされました? 記憶が正しければ、そこは林の中だと思うのですが」
「えっなに監視してんの、気持ち悪……」
「だって誘拐などされたらどうするのですか。坊ちゃまのことですからキングさまを褒められたりしたらほいほいついていってしまいそうで……」
「さ、さすがにそれくらいはわかるから……」
「まあ、さておき。本当にどうされたのですか」
「……えっと。その、ひとが」
「死体ですか?」
「勝手に殺さないでよ! ……倒れてたの。近づいてみたら司だったから、」
「成程。朱桜の方に連絡を入れましょうか」
「だ、だめ」
「坊ちゃま?」
さすがにこの状態の司を朱桜に渡すのはやばい気がする。ただでさえ、司がオメガだったことで荒れているようだし。一族のひとともうまくいっていないっぽいし。
「え、えと。……来たらなにがどうだめなのかわかると思うから弓弦が来て。さいあく、ちょっとだけうちで保護したほうがいいかも」
この言い方だとなんか家庭内暴力とかその類っぽいな。
まあいいや、弓弦だし。
電話が切れて十分くらいで弓弦が来た。
司の姿を見て大体のことは察してくれた。先に車に乗っててって言われたけどもういろいろ見ちゃったし手遅れなんじゃないかなあ。
しばらくたって弓弦が連れてきた司は、きちんとズボンを履かせられていた。
念のため使用人用の隔離室に寝かせて、使用人には近づかないよう言い聞かせる。
「……坊ちゃまはご存じだったのですか?」
「まえに一回あの公園で会って……そのときに」
「成程。最近、朱桜の方々の動きが妙だったのでなにかと思っていたのですが……。こういうことだったというわけですね……これまでよく黙っていられましたね、坊ちゃま」
「言って良いこと駄目なことくらいわかるってば……あの時点で周りの人間はみんな自分がオメガだって知ってるって思い込んでるくらいやられてる感じだったんだけど……。弓弦が知らなかったってことはまだ朱桜もいちおうはうまくやってるってことだよね」
「それだけ、内部でどう扱われているか分らないということでもありますけど」
「まあね……今回は〝朱桜〟目的だったってことかなあ」
「おそらく。項を噛んだ痕跡がないどころか、噛もうとした痕跡すらなかったということはそもそもそういう発想がなかったということでしょう……アルファの一般的な思考回路はよくわかっていませんが」
「それはボクもだけど。……まあいいや、ご飯もボクが持っていくから弓弦たちは近寄らないで」
「坊ちゃまが他人の世話を……? それも司さまの……」
うっ、と弓弦が手を目元に当て泣き真似をする。
「うるさいなあ!? 事情を知ってるのか知らないのかわからないひとに世話されるよりは気が楽でしょ」
坊ちゃまも気遣いができるのですね……と弓弦。
うるさいなあ。
二時間くらい経って、司がいる部屋で何かが落ちるような音がした、ときいたので、夕飯を持って向かう。
「つかさー? 起きた?」
がちゃり、と重い扉を開けると、司はベッドの下で蹲っていた。落ちるような音、というのは司がベッドから落ちる音だったのだろう。
司がゆっくりと顔をあげ、こちらを見る。
「……あれ、桃李くん……?」
状況を飲み込めていないのか、司はぱちぱち、と瞬きを繰り返した。
夕飯の載ったお盆をテーブルに置いて司に近づく。
「大丈夫……? 手貸そうか……?」
「いえ、大丈夫です、えっと。……ここ、」
よいしょ、とベッドによじ登るようにして座る。
「うちの隔離室。使用人用でちょっと狭くてごめんね」
「ああ、どおりで見覚えがないわけです……すみません、取り乱してしまって。あのまま誘拐かなにかされたのかと」「公園に捨てられてたよ。キングが見つけてくれて、さすがに放置するわけにもいかないから連れて帰ってきたの」
さ、と司の顔が青ざめる。
「あそこからここまで、桃李くんひとりで私を運べるとは思えないのですが」
「運んだのは弓弦。運転手はまた別だけど運転してただけだし、弓弦もたぶん強姦としか思ってない」
「……なら、いいのですけど」
はあ、と息を吐いて、司はそのまま後ろに倒れた。
「司!?」
「桃李くん、その、鞄、取ってくださいませんか」
「へ?」
テーブルの上に乗せていた鞄を司に渡す。
「すみません。先ほどのは取り乱したのもあったんですけど、鞄を取りに行こうとして失敗したのもあって」
寝っ転がったまま鞄を漁り、ピルケースを取り出す。それからさらにごそごそと……水を探しているんだろうか。
「もしかして水探してる? 避妊薬飲ませるのに使っちゃった」
ああ、と司は納得したようで、鞄を漁るのをやめた。ピルケースから薬を取り出して、口に含んでから、夕飯と一緒に持ってきた水を手渡す。空になったシートには抑制剤の文字。
そういえば確かに、体に力が入っていないような気が、しなくもない。
「ひーと、なってたの」
「いえ、あのときはまだ。なってたらたぶん噛まれていたでしょう……噛まれてませんよね?」
「噛まれてない。第一ボタンまでばっちり閉まってた」
「はあ。桃李くん、ぜんぜん何も反応しないんですもん。アルファのくせに」
「だからボクまだフェロモンとかわからないんだってば! バース性の成長は第二次性徴より遅いんだって、知ってるでしょ」
「桃李くんまだ小さいですもんね」
「うるっさいなあ、姫宮は成長が遅れがちな一族なの、仕様なの! うちのパパだってなんだかんだ百七十あるって言ってたからこれからなんだってば!」
「はは、どうだか……」
視線をボクから外して、司が黙り込む。
胸が大きく上下して、額には汗がにじみだしていた。
「え、と、薬そんなにすぐ効かないよね……? ボク一回出るね、ご飯このまま置いていくし大丈夫になったら呼んでくれれば……」
「桃李くん」
司は寝っ転がったまま、ベッドの下に垂らしていた脚をあげ、とん、とボクの太ももを突ついた。
「……、その。今週、体育がないんです」
視線をボクから外したまま続ける。
「ん?」
「まだ冬服ですし。……だから、たしょう傷が残っても問題がなくって、」
司?
「……、つまり、ええと。噛んでくださいませんか」
く、と司が体を起こした。まだ体にうまく力が入らないのか、ぐらりと倒れそうになったので慌てて支える。
「つかさ~……? えっと何言ってるかわかってる? 頭回ってない?」
「大丈夫です、回っています。……だって、それくらいしか」
きゅ、と司がボクの服を掴む。
「噛んだらつがいになっちゃうよ。わかってるの? そんな簡単に、適当につくっていいものではないでしょ。……つがいになったら一生、」
「ええ。一生、誰にも変えられません。……逆に言えば、一度噛まれてしまえば、他のアルファに噛まれたとしても、その人のつがいになることはありません。……朱桜だって、いつまで私がオメガだということを隠し通せるかわかりません。寝ている最中になにか仕込まれてもわかりません。……安心が、ほしいんです。そんなことすら望んではいけないのでしょうか」
つがいができれば、発情期のフェロモンはつがいのみにしか効かなくなる。
薬でそれ以外の諸々を抑え、つがいの相手に会わなければ、ベータと同じような生活ができるようになる。
実際、そういうビジネスがないわけではない。普通に生活していれば絶対に会う事のないような場所に住んでいる、つがいらしい関係を望まないアルファとオメガを仲介してつがわせて、レイプ被害を避けるだとか、ベータ同様の生活を送れるようにするだとか、いいわけをつくるだとか。
「……だったら、もう二度と人生にかかわらない人間とかを」
「条件に合う、丁度いい人を見つけられるのはいつになりますか。まだ不安定だからいつ次の発情期がくるのかも分らないのに。ずっと怯えてなきゃいけないなんてそんなの嫌だ」
桃李くんにはわからないでしょうけど。再び、今度は脛を蹴られた。
「知らないひとに噛まれるのは嫌ですもの。こちらが〝朱桜〟だと知られてしまうと面倒ですし。たぶん、桃李くんとそこまで仲良くなることはないと思います。桃李くん、違う学校でしょう。会おうとしなければ会わないことも出来るでしょう。桃李くんみたいなちんちくりんにつがいができるかもあやしいですし」
「ひどいこと言ってない……? ほんとにいいの」
「……桃李くんとつがいなんて死ぬほど嫌ですけど、桃李くん以外のよくわからないアルファに噛まれるのなら、死んだほうがましです」
ぷち、ぷちとボタンを外す。ずるりとシャツを肩から落して、司は微笑んだ。
「それに、朱桜の血を誇りに思ってはいますけど。朱桜に負けたくないですもの」
それを聞いて、まあいいか、なんて思ってしまって。
ボクは司の項に歯を立ててしまったのだ。
4
「……ここまでがボクと司を語るうえでの前提条件ってわけ」
あのあと、しばらく司と顔を合わせることはなかった。あの公園を避けたというのもあったし、学校が遠いのもあったし、そもそも司がパーティーなんかに顔を出さないからというのもあった。一応受験生だったわけだし。
その間に、ボクは天祥院の英智さまのライブを見て。司はどこかでKnightsのライブを見て、アイドルになりたいと思い、夢ノ咲学院を受験し、今日に至る。
いや、本当に吃驚した。だって司がアイドルを目指すとか考えられる? 無理でしょ。
事前登校の日にあの蘇芳色を見つけてしまったときの驚きといったら。クラスもなんだかんだで一緒になってしまったし。こんな、毎日顔を合わせるような関係になるとは思ってなかった。
でも、アイドルを目指すと思えなかったこと以外は理解出来るのだ。
Knightsは鳴上先輩以外全員がオメガだ。抗争時代の、まだ名前がKnightsでなかったころから他と比べてオメガの多いユニットだったのだという。オメガであることで追い詰められていた司が、Knightsのライブを見て救われたんだろうなあ、憧れたんだろうなあということはわかるのだ。
それに、夢ノ咲学院は他の学校に比べると、アルファもオメガも多い珍しい学校だ。
思春期真っ盛りのアルファとオメガを同じ空間に入れるだなんてと世間には言われがちなのだけど、もともと夢ノ咲学院はアイドル育成が一番の目的の学校なのだ。アルファもオメガも顔面が整っている場合が多いので、アイドルに向いているのである。それを事故を防ぐため、なんてつまらない理由で片方を排除してしまうのはもったいない。というのが創設者の持論だったらしく、そんなこんなで夢ノ咲はアルファとオメガ(と当然ベータも)が平等に学べるよう様々な設備制度が整えられた数少ない学校として成り立っているのだ。
……まあつまり、朱桜からすると学校で性別を特定されない、好条件の学校なのである。
義務教育以上の上位校となるとオメガの受け入れ拒否を公言している学校も少なくない。なんだかんだで夢ノ咲学院への入学を朱桜が許したのもわかる。天祥院家の長男も(今思えば深海やら羽風やら神崎やらも)在籍しているので、不審に思われることはないと判断したのだろう。
「要はかさくんが桃くんを利用したって訳ね」
瀬名先輩がストローでグラスの中の氷をつつく。
放課後の、紅茶部不在のガーデンテラスはひとがまばらだ。今日は午前授業だったので尚更、帰るひとは帰ってしまっているし、残るひとはスタジオやら防音レッスン室やらにこもっている。そもそも卒業前なので、生徒自体が少ない。
ボクだって久しぶりの休みだったので帰る予定だったのだけど、瀬名先輩に引き留められたのだ。『桃くん、かさくんのつがいでしょ』なんて言われたら止まらないわけにもいかなかった。いや、瀬名先輩に話しかけられた時点でわりと自由はないけれど。
「ま、あ、そうだけど~。……そうでもしないといつ身投げしてもおかしくなかったというか……司そういう変な行動力だけはあるというか思い切りが無駄にいいから……」
「ああ、昔からそうなんだ……でも桃くんに何もメリットなくない? なんで噛んだの」
「その場の勢い」
「うわサイアク。桃くんはそういうタイプのアルファじゃないと思ってたのに」
「って言ってもさあ……ボクと司の仲なんてあのときと今でそんなに変わらないし、あのときは月一で会ったら良い方だったから下手したら今より仲悪……わる……? まあいいや、そんな状況であの司がボクに噛んでくれって頼むのなんて相当でしょ」
「俺は桃くんのメリットをきいてるんだけどねえ……今みたいにわあわあ言い合う仲なんでしょ、ずっと」
って言っても司を噛んだ理由なんて今でもわからないというか、言葉にできないというか。
しいていえば、
「……司に頼まれたからなんだよなあ」
「……そう」
瀬名先輩が、氷がとけてできた水を飲む。
「……っていうか、なんでわかったの」
すごく謎。ボクがつがいだって司が瀬名先輩に言うとは思えない。司のことだから学校側に正直に申告してるとも思えないし。
「ああ、だって桃くんこの前俺がヒートになってたの、全然気づいてなかったでしょ」
「えっ」
「そのことかさくんに話したら、そういえばこの前も気づいていませんでしたね、って言うから。なんでつがいがいるはずのかさくんのヒートに桃くんが気づくわけ。そういうことでしょ」
『二人のこと、ちゃんと心配してるんだよ』などと言い残して、この数週間後、瀬名先輩は学院を卒業した。
5
時は経ってボクは生徒会長になり、司は副会長になった。最初はそりゃあなんでボクの下に就かなきゃならないんだと猛反発されたけど、就かないんだったらKnightsを解散させるって脅したらおとなしくなった。
解散させるというか、今のKnightsは先輩二人が卒業してしまって司ひとりしかいないので、正確にはKnightsを名乗るなというかそんな感じだけど。だって、ソロユニットを許可するわけにはいけないのだ。英智さまの時代だって、三毛縞斑の扱いには苦労していた。
それに、生徒会の仕事に追われてれば少しは余計なことを考えなくて済むでしょ。
そんなこんなで今日も相変わらず生徒会は忙しい。一年生のときはなんであのくらいで忙しいだなんて思っていたのだろうってくらい忙しい。Trickstarが革命を成功させて、ライブにS3なる区分ができて。毎週どこかしらでライブが行われてるんじゃないかって感じ。つまりそれだけ色々諸々書類があるし、許可申請はその倍以上の数がくる。去年はまだワーカーホリックな衣更先輩といろいろ調整してくれる弓弦がいたからまだ楽だったけど、今年はボクがトップ、仕切る側。もちろん姫宮を継いだらこれどころじゃないんだろうなあ、ってことはパパとママを見てたらわかるんだけど、忙しいものは忙しい。
今日は珍しく、比較的雑務の少ない日だったので、司以外はもう早い段階で家に帰していた。そこからはもう、ひたすら読んで、読んで、サインして、読んで、判を押して、前例を探して、調節して、読んで、判を押して、以下略。
だいぶ同じことを繰り返した気がしていたのだけれど、机の上の書類の山は半分程度しか減っていなかった。
ひい、まだ半分。
一度ペンを置いて、ぐぐ、と腕を伸ばす。一度休憩を挟もうか。前だったら、弓弦が丁度良いタイミングでお茶を煎れてくれたのだけど。その弓弦はもういない。たまに創が来てくれるけど、創はRa*bitsのライブを今週末に控えているはずなので、たぶん今頃練習の真っ最中だろう。
ふわ、とどこからか甘い匂いが漂ってくる。
「……なんかいい匂いしない? 司なんかお菓子でも開けた?」
司も休憩を挟むなら丁度良い。今茶菓子は何があったっけ、と司の机を見ると、それらしきものは何もなかった。
判を押す司の手が止まり、顔がさっと青くなる。
かたり、と司の手から判子が落ちた。
「……司?」
じゃあこの匂いはなんだろう。誰かがお菓子でも作ってるのだろうか。
……じゃない、そうじゃない!
司の顔は気が付いたら赤く染まっていた。はあ、とおおきく息を吐いて、机に体を預けながら抽斗を漁る。シートから一錠取り出したところで水がないことに気づいたようで手が止まった。
その間にもどんどん匂いは濃くなっていく。
ごくり、とつばを飲み込む。心臓がはやくなって、からだがあつくなって。中心に血が集まってるのがなんとなくわかる。
やばい、やばいって。
そりゃあオメガが悪いってアルファが言うはずだよ。だってオメガが誘ってくるんだもの。本能に襲えって命令してくるんだもの。
ここらへんから記憶がぶつ切りだ。
気が付いたら椅子に座っていたはずの司を生徒会室の床に押し倒していて、「やめて」だの「落ち着いて」だの聞こえたような、聞こえなかったような。
知らない。
司の中に出したい。
次に気が付いたときにはなかなかの惨状がひろがっていた。
司は意識を失っているようでぴくりともしない。挿れることしか考えていなかったのか、上はボタン一つ外されていなかった。何回分なのかあまり考えたくない白濁が、司の腹の上やらワイシャツの上やらに広がっていて、そして股の間にも。
甘い匂いはだいぶ薄まっていた。机の上の錠剤が消えていたから、口に含みはしたのだろうか。
それより、避妊薬。前回はヒート中じゃなかったけど今回はヒートど真ん中、何回出したかもわからない。
アフターピル、まだ持っているのだろうか。さっき司が漁っていた抽斗を開けてピルケースを見てみるも、それらしきものは見当たらない。念のためひとつひとつシートの文字を確認しても抑制剤しか見当たらなかった。
たぶん、油断していたのだろう。ヒートになっても、フェロモンを感じ取る人間はいなかったのだから。発情期になっている様さえ見せなければ、さいあくベータで通るように生活していたから、ヒート以外で襲われることも考えにくい。
ええ、まって、やばいんじゃないの。
いちおうアフターピルは七十二時間以内とは聞くけど、たぶん早いに越したことはないと思う。
そうだ、保健室。
アルファもオメガも多い学校なのだから、何か起こってしまうこともちゃんと考えているのでは?
そうであると思いたい。
最低限の処理だけ済ませて、念のため生徒会室に鍵をかけてから保健室へ。
あの怠慢教師が帰っていなければいいのだけれど。
ばん、と勢いよくドアを開けて。
「せんせーっ!」
「うおっ、……どうした姫宮。絆創膏か?」
「そうじゃなくって、」
ゆっくりと、面倒くさそうに書類から顔をあげた佐賀美先生はボクの様子を見て大体察したのか、書類を抽斗にしまって、棚からなにか取り出すと、「姫宮あとで面談な」とだけ発した。
「……ごめんなさい、いろいろ、気づけなくて」
「そういうのは起きてから朱桜に言え。抵抗もしてたろ」
いろいろ手当を終えて、司は保健室横の、オメガ用の隔離室に寝かせられた。たしかにその手当には、腕なんかに出来た擦過傷の手当なんかも含まれていた。
「つーかな、つがいがいるなら言えって入学のときに言われなかったか? それ以外でも、たぶん毎年春に言われてると思うんだけど。なんも担任に言えって言ってないだろ。保健室にだけ言いにこいって」
「かえすことばもございません」
「あのなあ。つがいの有無とか、いろいろこっちも把握してないと準備のしようがないわけ。……はあ。朱桜にきいてもあいつ、『知らない人にいつのまにか噛まれていました』としか言わないからさあ。相手が姫宮なら言ってくれよ、こっちでもいろいろ配慮とかさあ……」
佐賀美先生がかりかりと書類を書き換えていく。
「……おまえ、いままでフェロモンとか嗅いだことなかったの」
「アルファなのにやっとこの身長って時点で察して」
「成長の順番なんかは個人差があるからな? アルファが全員高身長ってわけでもないし、察しろとか無理なの。ちゃんと言って、申告して。どうしようもないから。……はあ、あとでちゃんと朱桜にも指導するけど、おまえらどっちも同じクラスだし生徒会だよな? これからまたこういうことがあったら困るから、ちゃんと朱桜と話し合ってタイミング計ってお互い抑制剤を飲むなりなんなり対策取ってくれ。アルファ用の抑制剤があることくらい知ってるよな? ちゃんと医者に行けば処方してもらえるから……あとこのことはちゃんと家に、」
「え」
「当たり前だろ。お前らだけの問題じゃないんだから」
「……ボクはいいけど、司は、朱桜は」
「もしかしてつがいって親御さんにも言ってない感じか? ちゃんとしろよ、そういうの。おまえらだけの問題じゃないんだから、本当に。……まあお前らの場合は単に恥ずかしいからとかじゃあないんだろうけど」
いくら保健の先生だとはいえ、言ってもいいんだろうか。……と思っているのが顔に出ていたのか、佐賀美先生が続ける。
「誰にも言わないから。この書類だって、お前らが卒業するときにシュレッダーにかけることになってるし、普段は鍵がかかってて俺以外見れないことになってる」
「……朱桜の家って、全員、お嫁さんも、使用人もアルファなんだけど。そのなかで、司だけオメガで。……朱桜の家はオメガをよく思ってないから、せめてベータに見えるようになろうって、……・当時は同じ学校になるなんて思ってなかったから。丁度良かったの」
「……つまり朱桜がオメガだってこと自体、家だと禁句っつーか……成程なあ……お前は親御さんに言ってるの」
「うっ……だってタイミングがなかったというか……言ったら朱桜のほうにも伝わっちゃいそうというか……だいたい今日本にいないし……」
「そう。……じゃまあ、いいか。なんかまた面倒くさいことになりそうだったら相談しに来いよ。……ああ、あとこの面談をもとに朱桜とも面談するから。お前が言ったことを全部朱桜に言うわけじゃないけど、言うかもしれないってことだけ覚えておいてな」
「……うん」
「じゃあ解散。今後はちゃんと気をつけるように」
「佐賀美先生がちゃんと保健の先生してる……」
「失敬な」
この前のことは司も想定外だったらしい。最初のヒートから、なんだかんだだいたい三ヶ月周期で来ていたものが、今回は一ヶ月だったそうで。四捨五入で九十日くらい周期のものが三十日だったそうなので、そりゃあ想定していないはずである。とりあえずボクもアルファ用の抑制剤を常に用意しておく方向で話はまとまった。
だいたいこのときから、司はデュエルをよく起こすようになった気がする。
「……このまえ、Ra*bitsの……友也くんに会ったんだけど」
「ん? ……ああ、そういえばこの前モデルみたいなことやってたような」
「多分それ。……で、かさくんの話聞いたんだけど……最近荒れてるんだって?」
からん、と氷が音を立てた。
瀬名先輩とはこうして、卒業してからもたまに会っている。
遊木先輩の様子をききにきたりだとか、Knightsの様子をききにきたりだとか。あとはボクが愚痴ったり、瀬名先輩も愚痴ったり。
「……うん。春頃はまだ私に勝てない人間をKnightsに入れるつもりはない~みたいな、まだ理由がわかる感じだったんだけど。最近はなんか、売られた喧嘩を全部買ってたら売る人間が増えて~みたいな……生徒会にもあまり顔出してくれなくなったし。さらに悪化するならなにか対策たてなきゃいけないと思うけど……あまりストレス発散の手段を封じたくないというか」
「ライブはストレス発散じゃないでしょ」
「そうだけどさあ……B1だし。身内しか見てないし……やっぱ一人で踊るのと相手が居るのって違うじゃん、わかるんだけどさあ……」
「……やだよ、昔の王さまみたいになるの。かさくん、似てるところあるからなぁ……。まあ、どうせ家のことなんでしょ?」
さくり、と瀬名先輩のフォークがレタスを刺す。
「……司、弟が産まれるらしいんだよね」
ミルクレープを切って。
「予定日が……順調にいけば来年の三月、だったかなあ。高齢出産になるから、もしかしたら早まったりするかもしれないけど……確実に次はアルファだし、産まれたら家に今以上に居場所が無くなるだろうってことぐらいわかりきってるだろうから、多分それでめちゃくちゃ荒れてる」
「……性別、もう分るんだ」
「一応羊水検査? で調べたみたい。倫理的にアウトだから普通はそんなことしないけど。朱桜はお抱えの医者とかいくらでもいるだろうし『朱桜』って昔から頭おかしいし」
あれでもいちおう元は武家なのだ。自分たちの目的のためなら手段を選ばないところがある。
オメガを飼って、孕む度に蹴り堕としていただなんて過去もあるみたいだけど。それを含め、あの家は昔からあたまがおかしい。
「……そっか。そりゃあ、生まれたときから決まってるもんね。……三月なら、卒業で一区切りだし、十八歳だし、丁度良いか」
「まあ、朱桜もすぐに捨てはしないだろうけど……それでもたぶん家の人の関心はその弟に全部向いてるだろうし、家の人に何言われてるかわからないし。……どうするのが正解なんだろ」
ぷすり、と今度はミニトマトを刺して。
「……桃くん、かさくんを襲ったらしいじゃん」
「え、は、どこから……」
「さあてどこでしょう。一回襲ったならもう二回襲っても同じだってば。家に持って帰って朱桜に帰さなきゃいいじゃん」
「簡単に言うなあ!? だいたい、確かにつがいだけどさあ、ボクと司は、」
「そうは言ってもねぇ。……べつに抱かなくても一緒に寝るだけでも体温とか匂いとかで落ちつ……待って今のナシ」
フォークを持っていなかった方の手で瀬名先輩が顔を覆う。
全然覆いきれてないけど。うわあ真っ赤。
「……つがいできたの?」
「っ、チョ〜うざぁい! 桃くんには関係ないでしょぉ?」
「ボクのは無理やり吐かせたくせに。この前会ったときは全然そんな候補がいそうな感じでもなかったよね? 瀬名先輩が? 噛ませたの? ていうか瀬名先輩がいいなんて相当の物好きじゃん」
「うるさいなぁ!! いいじゃん、今はかさくんの話をしてるの!」
「瀬名先輩は二十代後半になるまでつがい作らないと思ってた……」
「どういう意味かなぁ、桃くん。……まあいいや。桃くんがちゃんと把握してるなら大丈夫でしょ。桃くんも伏見の監視が外れたからって好きなものばかり食べるのやめなよね」
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