ラルアル
整然と積まれた紙と本。四方の壁を埋め尽くす本棚。知らぬ者が訪れればこれそのものが迷宮として闖入者を取り込むだろう。
ここは悪魔城の叡智の保管庫だ。
生ける絵画や本に擬態した悪魔などが時折徘徊するだけの、物静かな場所。
アルカードはこの城で生まれ育った。
人と吸血鬼の混血──人の世で人間である母と生きるには種族的特徴が体に出すぎており、城で生きる選択しかなかった。だが、太陽が平気であることなど人の特性は悪魔からも奇異に扱われた。父はそのような目をアルカードに向けることはなかったが、城を継ぐようなこともアルカードに求めない。
そもそも父は存命で今も城主として城の秩序を保っている。母が人として生を終えた後は、人の世に自ら関わることすらやめた筈だ。アルカードもそれに倣って過ごしている。
今がいつで、外がどうなっているか。それらへの興味は眠りについたかのようで、本に囲まれたこの場所で時間の殆どを過ごすことが常だ。
薄暗い照明の下で積まれた本を数冊手に取り、席を立つ。
本棚に埋め込まれた特殊な結晶に手をかざすと魔力に呼応して棚が迫り出してくる。そこに手づから本を戻していく。戻すべきはほとんどアルカード自身が読み終えた本なので場所は分かっている。それが済んだらカウンターに戻り、次の本を読むことの繰り返し。
そもそもここへ本を借りに来る者はほとんどいないのだ。
悪魔の跋扈する城に人間が立ち入れば命の保証はないが、それでも自らの知り得ない知識を求めて一部の人間は自らの、あるいは他者の命を捧げてまで城を求める。
悪魔精錬師と呼ばれた者たちは父に認められ城で共に暮らしたこともあるが、錬金術師を名乗る者たちはただ人の世でいたずらに悪魔を呼び出し騒ぎを起こしただけだったようだ。
だがそんなことはどうでもいい。
アルカードは司書だ。ここに本を借りに来る者がいれば望むものを貸し出すのが務め。
ページをめくる音の合間、カツ、という硬い物が床に当たる音が近付いてくる。
図書館付近によくいる浮遊する悪魔は発しない音。それが一定のリズムで繰り返されるということは…そう、これは、人の足音だ。
アルカードは無感動に顔を上げ、扉が開くのを待つ。
入ってきたのは人間の姿をした男。
長髪、青年、武器らしい鞭を手にしているが臨戦態勢はとらず、油断なくアルカードに視線を定めている。
悪魔狩人。
その存在は知っていたが、実物を見たのは初めてだ。
「この気配………吸血鬼、か?」
男が口を開くが、言葉尻に疑問が含まれているのは経験豊富な証拠だろう。人型でも魔力を読み取るだけの力、そして、アルカードの魔力が同種のそれよりは弱いことへの違和感。
「俺は確かに人間ではないが、人でなければ無抵抗な者も、お前は殺すのか?」
アルカードの問い返しに、男は言葉に詰まる。
問答無用と襲い掛かられるようであれば別だが、そうでなければこちらが戦う理由は特にない。
人と仮定して話し掛けてみたが、反応を見る限り正解だったようだ。
「俺の名はアルカード。この図書館の司書を務めている者だ。」
本を借りに来たとは思えなかったが、職務上は一応名乗る。
「……戦う必要はなさそうだな」
「ここは図書館だ。人の世の本も、人が読むことのできぬ本も、お前の人生では読み尽くせぬほどある」
武器を収め、ぐるりと辺りを見回す男にアルカードは語り掛ける。正直、男の用件はどうでもいいのだ。本を借りるなら貸すし借りないのなら放っておく。取るべき対応はそれだけだ。
「それで。何か借りていくのか?必ず返してもらわねばならないが」
アルカードの説明に男は肩を竦めてみせる。
「本を読む暇があるなら借りてもいいがな。今はそれどころじゃない。この城から悪魔が溢れ出している…お前は何か知っているのか?」
「何?」
男の言葉に今度はアルカードの片眉が上がる。
城から悪魔が外に出るということは、父の命令があったということだろうか。人の世とは関わりを断っているはずがなぜそのようなことに?
「………どういうことか説明しろ」
逆に説明を求めるアルカードに、男は白けた様子ながらもかいつまんで事情を話した。
人の世で悪魔を呼び出した者がおり、呼応して城が召喚された。その悪魔たちは城から溢れ、人を襲っている。自分はその討伐のためにここへ乗り込んだ、と。
だがやはりアルカードには納得がいかない。
「──悪魔らは城主の支配下にあるはずだ。父がそのようなことを命じる理由がない」
「父だと?お前は、城主の関係者ということか」
平静を装いながらも、図書館に籠もりきりで気付きもしなかったことを恥じるアルカードに、男は硬いブーツの底を鳴らして更に一歩近付いた。
「俺は悪魔を狩るのが仕事だ。眼前の脅威であるこの城をどうにかするために来た。悪魔を喚び出した者の対処は別の奴がするだろうからな」
カウンターに拳を置きながら、男は続ける。
「アルカードといったな。お前に敵対するつもりがなく、城のことにも詳しいなら…協力してほしい」
正面からかち合った瞳は、大海に聳える大地の色だ。あまりの力強さに思わず気圧されかけ、意図して表情を引き締める。
「………悪魔はもともと統率された存在とは言い難い。だが、父の命なく城を離れることもないはずだ。それが綻びているというなら………父が命じたか、もしくは……この城が父から切り離されて召喚されたとでも?」
後半はぶつぶつと独り言を呟くアルカードを待つ男は、状況ゆえか性格ゆえか、気の長い方ではないようだ。
「わからないなら自分の目で見てみろ」
カウンターを周り込み、男の手がアルカードの手を引いた。人にしては強い力に思わず引かれて立ち上がる。
今は夜だから大丈夫だなと言いながら足早に歩く男の手に引かれて城壁の上を渡る。別に日が昇っていても問題はないが、いつぶりに見たか忘れるほどの外の風景に気を取られていた。
それはまるで記憶にない姿に変貌している。
夜目がきくアルカードにはよく見えた……そこかしこの集落から火の手が上がり、燃え残った建物の残骸からは煙がくすぶり、屍肉を漁る動物や悪魔らしき影が映し出されている様子が。
人はこのような景色を、地獄と呼ぶのだろう。
「…………これを、望んだ人間がいるのか」
「人間かどうかは知らないがな。いずれにせよ被害を止めなきゃいけない。いい方法はあるか?」
男は言外に、悪魔を止める方法がなければこの城ごと潰すと言っている。
アルカードは動揺を隠せていない自分に気付いた。
城に、父であるドラキュラの存在が感じられないのだ──悪魔召喚ではドラキュラそのものは召喚できなかったのかもしれない。そのため、城ごと召喚された悪魔は抑止を失い暴走している──と考えるべきか。
だが頭に浮かぶのは事態の収拾方法などではなかった。このままでいいと思っていた長い停滞の日々が、こんな形で変わっていく衝撃。騒乱の原因として狩られる側にされる屈辱、意思とは関係なく巻き込まれてどうにもできない自分。
歯痒さや無念とはこういうことを言うのだろう。
「俺は…………ここ以外の場所は、知らない」
そんな場合ではないと知りつつも内心が口をついて出てしまうが、男は意外に耳を傾けている。
「人が人を狩る時代だってあった。どうしてそれで飽き足らないんだ。悪魔と人が共存できないことは分かっている……だから関わらない道を選んでも、こうなってしまうのか?」
「……お前はなんというか…吸血鬼らしくないな」
「…俺の半分は人間だ。完全な悪魔でも、完全な人でもない。ゆえにどちらにもなれない」
「…!」
男が息を呑んだ気配に、独白に気を取られているアルカードは気が付かなかった。ただの人間に、初めて会った名も知らぬ者にこんな話をしてしまうほど、胸中並みならぬものが渦巻いている。
しかしいつまでも子供のように打ちひしがれている訳にはいかない。
すぅ、と息を吸い、意を決して言葉とともに吐き出す。
「だが人である母は、人の世の平穏を願った。父もその望みを守ろうとしていたはずだ。それを無碍にする真似は…城や悪魔を道具として世を乱す真似は、許すことはできない」
アルカードは決意の瞳で男を見据える。
「俺に…お前の手伝いはできるか。城を鎮め、悪魔を止めたい」
それを聞き、次いでアルカードの物腰を見て、男は初めて笑う。ひどく獰猛な笑みに見えたが悪意は感じなかった。むしろ…喜びのような。
「戦えるなら是非とも頼みたい。お前の大事な本まで守ってやれるかはわからんが、城が失くなっちゃどうしようもないからな」
「大切なのは本ではない」
アルカードは自分でも不思議なほどきっぱりと否定した。
本から多くのことは学んだ。だが図書館を居場所に選んだのは、そこしかなかったからだ。それしかないと心を閉ざして引き籠もっていたからだ。
長く長く停滞していた時計の針が、盛大な軋みとともにようやく動き出したようだ。
「それじゃ…よろしく頼むぜ、アルカード」
「……ああ」
男を見つめ返しながら、アルカードは沈黙する。その態度に男はうっかりした顔を見せた。
「まだ名乗ってなかったな。俺はラルフだ。ベルモンド家のラルフ」
「………ラルフ。」
ラルフ・ベルモンドか。と口の中で復唱する。
それから相手の真似をして、よろしく、と声をかけると奇妙な感覚に襲われる。
思えば人との共闘もそのための挨拶も、生まれてはじめての経験だった。
事態が沈静化したあと。
消えずに残った悪魔城の図書館に通う者ができ、また終始そこにいたはずの司書がしばしば席を空けるようになるが、それは歴史には残らない瑣末事だろう──
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