ラルアル
***ラルフ・C・ベルモンド
意識が芽生えたとき、体はすでにそこにあった。
それと同時に感覚が、記憶がはっきりとしてくる。まさに「蘇った」という実感。
自分は、俺だ。
夜を狩る一族として生きていた。闇と戦うために。
ラルフ。ベルモンドの中で、俺を示す名。
自らの手に目を落とすと濃い焦茶色の髪がさらりと顔に落ちかかる。
戦いの装いをしている。体には力が籠もり、胸元に大きく奔る傷跡が見えた。戦うための体だ。
無意識に鞭の柄を握り締めると、皮が擦れる硬い感触と音が、おまえはラルフだと告げている気がした。
そうだ、俺は、
「ラルフ・ベルモンド──さんですね?」
声のした方に視線を向けると、見たことのない女性が自分に問いかけている。
金の長い髪を結い上げ、目には透明で丸いガラス器具、魔術書と思われる道具を手に抱えていた。そういった装いはいわゆる魔女かと思ったが、敵意も戦闘の意志も、そしておそらく戦闘能力もないことを見て取り、鞭を握る力を緩める。魔物の化けた姿だとしたら一切油断はできないが。
「ここはどこだ」
第一声で質問を無視する形になるが、女は気を悪くするどころか興奮した様子で顔を赤くする。
「す、すみません……伝説のベルモンドであるあなたに会えた嬉しさで…!」
…演技ではなさそうなはしゃぎ方に、警戒しすぎの愚にも考えが及ぶ。まずは情報を得るべきかと考えた矢先、女がつらつらと説明を始めた。
彼女はルーシーと名乗った。
説明は分かりやすく要領を得ており、理解が深いうえ慣れているのがわかる。お陰ですんなりと状況が頭に入ってきた。話された内容がどれだけとんでもないものだとしても。
俺は、俺が生きた時代から随分と未来にいるらしい。また、生き返ったのではなく召喚されたのだという。
「召喚魔術には明るくないが…おまえが召喚者なのか」
「そうとは言えません。今のラルフさんは、魔術書の記述と、ヴァンパイアキラーに残された記憶により具現化されました。ですので詳細は省きますが、私が皆さんを使役することはできません」
皆さん、という言い方でもわかるが、ここには他にもドラキュラと戦った者たちが召喚されているという。
それを聞いて、真っ先に思った。
『あいつ』がいるかもしれない。
他の仲間たち──サイファやグラントがすでに亡いことは予想できたし、情報が足りないとの理由で俺と同じような召喚はできないらしい。それほど俺の生きた時代は過去だということだ。
だがあいつなら、はるかに遠い時代をもまだ生きているかもしれない。
そう期待してしまうのは悪いことではないはずだ。それをルーシーに尋ねると是の返答があり、久しぶりのように己の顔が緩むのを感じた。
あらかた状況を理解したところで、ルーシーに導かれ、知らない時代の知らない回廊を進む。やることがわかっているのなら、迷う必要はない。
城か広場のような大きな広間に至ると、ずらりと居並ぶ面子の前に立つ。
「ラルフ・C・ベルモンドだ。どうやら説明は必要なさそうだな」
自己紹介、といっても俺のことはすでに理解されているようで、名乗っただけで場が収まった。これはルーシーの采配によるらしい。面倒がなくて助かる。
見回せば当然だが知らない顔ばかりの中、知らないはずの男に視線が定まる。
黒髪に黒色の装い。
静かにこちらを見つめ返す瞳の中に淡い黄金の光を見て取る。
それだけで確信を持って理解できた。
あいつだ。
「なあ──アルカード」
人垣を射抜くようにして話を向けると、黒いアルカードは驚いたように息を呑んだ。
「……分かるのか。今のこの俺でも」
「姿が違ったところで本質は変わらんさ」
孤独だった俺が初めて仲間と呼べた存在だ。人にとって気が遠くなるほどの時を経ていることを考えれば、姿形が変わるくらい不思議ではない。
だが返答があったことで、おまえなんだな、と改めて感動がこみ上げる。
それはアルカードも同じであるらしく、記憶にある仏頂面とはうって変わり、苦笑のような表情が見て取れた──下手に感情を抑えようとするとそうなるものだ。
突然召喚などされて再びドラキュラと戦うことを余儀なくされ…それは望むところではあるが。未知の世界でかつての仲間と出会い再びともに戦えることがどれだけ心強いことか。
「今は、有角と名乗っている」
「そうか。おまえも大変だな…と言いたいところだが」
姿だけでなく名も変え、人の生をはるか超えてドラキュラと戦い続けている男。素直に労りたい反面、仲間の経験からしてひとつだけ言っておきたいことがあった。
俺の切り返しにアルカー…有角は目の前で首を傾げる。
「俺たちを置いて勝手に眠りやがって。再会記念に、一発殴りたいところだぞ」
ドラキュラ討伐の後、眠りにつくと言ったアルカードを妨げる権利は本来俺たちにはなかった。だが、止める仲間を振り捨てていったアルカードへの憤りはしこりとなってラルフの感情に残っている。
ギン、と睨み付ける瞳と剣呑な言葉にルーシーが慌てたのがわかるが、有角は落ち着き払って笑みを浮かべる。勝手に恨まれても困る、という反応を予想していたから少し意外だ。
「悪いが、既に殴られた」
「何だと?」
「正確には、ヴァンパイアキラーから顕現したおまえの影に、だ」
そういえば、ルーシーの説明では『鞭の記憶』からラルフ・ベルモンドの情報を引き出したと。その記憶というのは今のラルフの姿をしており、戦ったのが有角だったという。
当然、この俺にその時の自我や記憶はない。
「それはドッペルゲンガーの類か?なんにせよ俺じゃないだろ」
「残念だが、『おまえ』に手酷くやられた事実がすでにある以上は殴られる理由がないな。諦めてもらおう」
周囲のほっとしたような笑いとともに取り付く島なく軽口を終えると、有角はふと真顔に戻ってこちらを見つめてくる。更に何かを言いたげなような、考え事に浸るような。
なんだ、と促すと、一瞬迷うように間をおいて口を開いた。
「…おまえは、敵に見せる顔と仲間への態度が違いすぎる、と思ってな」
「誰だって同じだろう?」
有角の言葉はわざわざ言うほどのことか?という気がする。敵と仲間、命を取り合う相手と預ける相手、同じ態度を取れるはずがない。
すると「おまえのは極端なんだ」と有角が言い返してくる。
そんな自覚はないが。
…だがそうか、俺の敵としての顔と仲間としての顔を唯一両方見たのがアルカードだ。だから、おまえならわかるだろうと確信を込めて言葉をかけた。
「敵として出会ったって、力を合わせて戦うことができる。そうだろう?」
有角は面食らったようにそうだなと答えて、また笑う。
(…しかし、よく笑うようになったな)
言葉にはせずそう思った。有角だからなのか、もしくは過去ではろくに笑顔も見られないまま別れただけか。
そう思うと一抹の寂しさは過ぎるが、傷付き疲れたかつての仲間が笑えるようになったなら喜ぶべきことだ。
つられて自分の笑みも増える。互いに、旧友に向ける笑みを遠慮なく。
「アルバス。今日の有角は…随分と笑いますね」
談笑する人垣の後方で、シャノアが片割れに静かに話し掛ける。
「そうだな。あの二人は既知だそうだから、そういう者に再び会えるのは嬉しいものだ」
アルバスが答えると、シャノアはその『兄』の横顔を見やる。
「嬉しい、ですか」
「そうだ」
「それはわかります──あなたに会えた時の私と同じですね」
『妹』の言葉にアルバスも顔を向けるが、向き合った表情は平素と変わらない無表情。ただし、端々からほのかな笑みのような気配を滲ませている。
「…そうだな。俺も嬉しかったよ」
会いたい者に会えることは、誰しもが望み、なにものにも代えがたい喜びだ。
誰しもがそれを分かっていて──時に許し合うからこその綻びも生じるとしても。
***有角幻也(アルカード)
「なにか言いたいことでもあるのか?」
その問い掛けに、自分がラルフの顔をじっと見つめてしまっていたことを知る。顔と、胸元が開いた衣装だからこそ目に入るそれがどうしても気になってしまうのだ。
「傷が…残ったのだなと」
それを聞き、ラルフは自らの左目と頬を撫でる。今気付いたような仕草は、その傷が痛みなどの支障を伴っていない証だ。
「そうだな」
特に説明は必要なかった。ワラキアでの決戦の際、ドラキュラから受けた傷だ。仲間が共にいたからこそ命があったと当時のラルフは言っていたが…強がりではなくとも、やはり浅い傷では済まなかったらしい。
仲間たちと、自分とともに片目で崩れ行く城を見送ったはずのラルフの姿は、残念ながらほとんど記憶に残っていない。
──すべて終わったのだと、終わりにしたいと、その時は思っていたから。
ふと、並ぶように寄りかかっていたテラスから身を離し、ラルフがこちらを見据えてきた。
「余計なことを考えているだろう」
「何?」
余計とは心外だ。傷のなかった頃のおまえ、そして俺が知る由もない、傷を帯びながら戦い続けた筈のおまえ──記憶にある姿との合致と齟齬は自然とそれらを想像させる。
返事は期待していないのか、ラルフはこちらが口を開く前に言葉を続けた。
「おまえがいてくれて俺は助かった。…昔も、今もだ」
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味だろ」
「そうだが……」
俺の方こそ、という気持ちもあるが、それよりも今それを言う意図の方が気になる。
首を傾げるこちらの様子に気付いたラルフは珍しく言葉を足した。それでも解答には足りない気がしたが。
「傷なんか気にしてどうする」
ラルフも自分も、口下手な方には変わりない。
会話が途切れ、何となく空を見上げた。
空気は澄み、館を取り巻く木々の梢から飛び立った鳥が視界を横切っていく。それを追うように微風が吹き抜けた。
つかの間、穏やかな光景だ。
──ラルフと景色を分け合うのは二度目なのか、とふと気付く。随分と状況は違うのに、やることは変わらないなとも。
「アルカード」
風がおさまる頃合いで、ラルフが再び口を開いた。あちらはあちらで考え事をしていたのだろう。
「…少し、昔話をしたい。覚えているか?」
「何をだ」
「おまえは最初、殺してみろと俺に言った」
昔話、なら15世紀の戦いのことだろうとの予想通り、そして全く予想外のラルフの言葉が、反射的に遠い記憶を探らせる。
「そんなことを言ったか」
「本当の本当に最初の話だ。ドラキュラ城の中で、腕試しと言っておまえが襲いかかってきた時だな」
ああ、と納得がいった。
何人もの討伐者が力及ばず斃れていくのを見届けながら、ようやく訪れた力持つ者。あの頃覚えたベルモンドの血の匂いは、その後数百年を経ても己の記憶に残ることとなった。今振り返れば、実に稀有な縁だ。
「次は、殺せと言った」
「…覚えている」
そうだ。ラルフの力を見定め、共闘を提案した時のこと。
俺がドラキュラと通じていると思うなら遠慮なく殺せと告げた。
殺し合った相手との共闘など、死地において他に選択肢がなかったからできたようなもの。そのくらい言わねば同行は叶わなかったろう。
こちらの回答に納得したらしいラルフが、軽く頷いてから最後の言葉を紡いだ。
「最後は…殺してくれと言った」
風が逃げるように吹き抜ける。
鳥の声は遠ざかり、瞬間、晴天に流れる雲まで動きを止めたように思えた。
「……覚えていない」
嘘だな、とラルフが唇で呟いたのがわかり、思わず顔を背けた。
……父を殺した自責に潰されかけ、錯乱してラルフに懇願した。
俺は吸血鬼だ、吸血鬼の息子だ。狩人の責務を果たせと…俺を、殺してくれと。
子供のように泣きわめいた記憶に無理やり蓋をしようとするが、ラルフは構わずこじ開けてくる。
「その時の答え、覚えていないならもう一度言ってやる」
「……」
「狩人は悪魔だから狩るわけじゃない。闇に落ちたものを狩るんだ。俺が殺すのは…おまえが闇に落ちたときだ」
忘れかけていたラルフの声が、静まり返った耳に飛び込んでくる。顔を向けずとも視線が痛いほど刺さる。
忘れかけていたのに。
「……史実にそんなことが書かれてでもいたか」
「そこまで俺の知ったことじゃないが、これは確かに『ラルフ』の記憶だ。つまり俺のな」
皮肉を真っ向から蹴散らして、ラルフは獲物を見るようにこちらを見る。
強い視線は、どこか優しく、まるで願うような光を帯びているように思えた。
「アルカード、俺がおまえを見抜けたのは、おまえの魂が変わっていなかったからだ。あれから何百年経ったのかは知らないが、おまえの芯は変わっていない。並大抵のことじゃないはずだろ」
だから、目を背けるなと言いたいのか。俺はそれしかできないだけだというのに……自ら死ぬことすらも。
「俺はそんなに高尚なものじゃない」
「っ、俺だってそうだ!」
存外に素早く、強い調子でラルフが言うものだから、思わず反らしていた顔をそちらに向ける。そして真正面から向き合い、逃げられなくなる。
気のせいではない。謙遜や軽口ではなく、ラルフは言葉を重ねるごとに憤りを増していった。
「ドラキュラ討伐は、確かに誰にでもできることじゃない。仲間がいたからできたこと、それは誰よりも俺が分かっている。なのに…世はまるで俺の手柄のように吹聴する。
俺はただ役目を果たしただけだ、崇められたかったわけじゃない。
今だってそうだろう?ドラキュラを倒したのが最初だったというだけで、俺が人類の希望?そんな大それたものだと思うか?人を救う、そのために、 俺が人を手に掛けたことがないとでも?」
なんのことだ?いつの話を言っている?
ラルフの剣幕に、やたらに動かない表情の下で感情が混乱し始める。いいやおまえは分かってない、そう思う一方で、そのとおりだと胸を抉られるような思いも過ぎる。
(…そうだ、俺はラルフの人生を何も知らない。眠るまで…生きろと言われるまで、知ろうともしなかった。)
ラルフがこんなことを言うとは。こんなことは言いたくないと臍を噛みながら、悔しげに内面を吐露する姿なんて想像したことがなかった。
頭の片隅に、魔につけこまれた己の咎を悔いていたリヒターの姿が浮かぶ。
人は誰しも闇を抱えている。飲み込まれていないだけなのだ。飲み込まれぬよう必死に抗い続け、落ちることは罪なのだ。
だからそれを表に出すことはできない。
闇に飲まれないために希望が必要だから。
ラルフはそれが自分の役割だとよく分かっている。希望となるべく喚ばれたことを知っているから。
だから、苦しみを吐き出したかったのだ──俺にだけは。
「──……」
今の今まで気付けなかった。人は光で己は闇と決めつけて、推し量ろうとしなかった。
おまえは闇ではないと訴え続ける──俺にそうあってほしいと願う、ラルフの心を。
ふう、と自分をなだめるように息を吐いて、ラルフの方から視線を外した。誰かに聞き咎められるような声量ではなかったが、捲し立てたことを恥じているようだった。
「悪いな…おまえまで、俺をそう見てるようで……ついかっとなった」
──的はずれな謝罪の言葉がこれほど耳に痛かった経験はない。
彼が自分をそれほど内側に入れていると知って。
そうではないと答えざるを得なくて。
ここでその場しのぎの嘘を言っても、きっとラルフには通じない。
「否定は…しない」
自分の言葉が、空気をぴしりと凍らせた。
否定などできない。世に名高い英雄ラルフが例え偶像でも、共に戦った自分にとっておまえは紛れもない救いなのだ。
「…………」
おまえもなのか、とラルフが落胆する気配が、毒のように身を苛む。
言ってしまいたかった。
ただ最初だっただけではない。
おまえが俺を闇から掬い上げたのはどうしてだ。それこそがおまえが、俺たちが成し遂げたことの意味じゃないか。
おまえ一人の力ではなくても、おまえがいなければ俺たちは力を合わせることなど叶わなかった。おまえでなければいけなかった。巡り合わせがおまえであったことは、おまえ自身が考えるよりはるかに大きい意味がある。
──それをおまえ自身が厭うなら、俺はどうしたらいい?
「……ラルフ、……おまえのお陰で!俺は父を止められたんだ!」
それしか言葉にできなかった。
「……そうかよ」
目に見えてラルフの頑なさが増す。
「ラルフ…」
言葉が途切れる。自分の顔が酷く歪んでいることは自覚していた。
…おまえは、俺が俺を貶めることを止めたろう。
俺も同じだ。おまえがおまえを否定するところなど見たくない。
英雄でなくていい、ラルフのままであってほしい。
けれど、ラルフのその後を知らない俺にそんなことを言う資格があるはずがない。
「喋りすぎたな」
ラルフは怒らない。もはや話は無用だというように、俺の視線を振り払うように体を背け、声だけを置いていく。
「安心しろ…役割は果たすさ。それに、お前が落ちたらきちんと俺が殺してやる。約束通りにな」
去っていく背を見送りながら、頭はまだ必死に掛ける言葉を探していた。それが簡単に見つかればこんな思いはしないで済むというのに。
(約束…と、おまえは言うのか)
殺してほしい。かつては確かに望んだ。
だが今は、そうしてほしいとは言えなかった。ラルフがそれを望んでいるようには見えなかったから。
こうして何度も、俺に生きろとお前は言うのだ。
そのたび感じる胸の痛みをなんと言えばいいのだろう?
死にたくない、死ねない、違う。
「俺は、生きたい……んだ」
お前のそばで。
お前とともに。
微風と小鳥の声に掻き消されるほどの呟きは、去った男に当然届くことはない。
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