このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

月下の夜想曲後 リヒアル


「ただいま。戻ったぞ」
未開ではないが、人の住処からは離れた森の奥。僅かに切り開かれた先に、建物が一つだけ存在している。造りは立派な館だが、殆どの箇所は廃墟か遺跡と言って差し支えないほど風雨に曝された佇まいだった。しかし、ある箇所のみ人が出入りしている気配があり、住むための手入れがされていることが伺われる。
人里と断絶こそしていないが、遭難や野生の獣に襲われることを考えれば誰もあえて立ち入ろうとは思わない僻地にも関わらず、そこで暮らす者がいた。
「…」
帰宅を告げる声に答えはないが、代わりに室内からは無言の視線が向けられる。
それを受ける青年、リヒターは、アルカードの反応を意にも介さず抱えた荷物を目の前のテーブルへ置いた。
「冬が近いからな。まとまった量を買ってきた。肉はいいが、調味料や小麦類はもう少し買い足しておきたいところだ」
言いながら、皮袋から黒パンを取り出して囓る。空いた手はアルカードの方に差し出され、それには干し肉が一切れ乗っていた。
「食べるか?」
「…いつも言っているが、俺には頻繁な食事は必要ない。おまえが食べろ。ただし…」
「『毒見ならしてやる』だろ?」
リヒターに先に言われ、アルカードはむっと眉を吊り上げる。
毒キノコを口にしても死にはしない程度、アルカードの耐性や回復力は人間より高い。定期的な飲食も殆ど必要としないが、経口で食事を摂れないわけではない。身体の損傷や血の不足で大きく体力を失えば、回復のためになんだって口にする。
だがリヒターが促すのは生活習慣としての食事だ。大抵は断るが、たまに「毒見」のため食卓を共にすることもある。
必要ないと言っているのにしきりと食事を勧めてくるリヒターに、最初はそういう意図があるのかと本気で考えて口にしたところ、以後は定番のやりとりになってしまったのだ。
食料がいつでも潤沢にあるわけではない以上、アルカードが遠慮しているだけであることはリヒターにも自然と察せられた。

受け取られなかった食料は早々に仕舞うと、入れ替わりにリヒターはアルカードの細い頤部に指を滑らせた。自分の方へ軽く持ち上げると、触れ合わせるだけの軽い口付けをする。
リヒターが外から戻った時、アルカードはおかえりとは言わない。その代わりにリヒターの『挨拶』を受け入れる。これも繰り返される生活の中で、なんとなくそうなった。

「動揺しなくなったな」
「…慣れた」
「そうか」
アルカードの静かな返答と瞳を覗き込みながら、リヒターは笑い返す。ひとまずキスは拒まれないくらいにはなった。人を避けようとするアルカードの元に無理矢理身を寄せ、繰り返し口説き続けた甲斐があったというところか。
「それはいいことだ。お陰で流血沙汰もなくなったな?」
リヒターの揶揄いに、二人の脳裏にはおそらく同じ状況が浮かぶ。暮し始めた頃、不意の口付けにアルカードが身動いで抵抗したところ、牙で傷付いたリヒターの口元から血が溢れた。あの時のアルカードの動揺ぶりにはさすがに罪悪感が勝ち、リヒターもしばらくは行動を控えたくらいだ。
それもこうして時が経つと軽口の材料になってしまい、アルカードはまたしても不満気に眉を顰める。
自分の牙で自分を傷つけることはないが、他人にそれを触れさせた経験などないのだ。不意に口内に染み渡った血の味は嗜好品のワインのように舌に馴染み、アルカードの精神には受け入れがたいことだった。拒んだのはリヒターの口付けではなく、自分を闇の眷属たらしめる血の味だ。
以来、飢えるならいつでも血をやる、と言うリヒターに意地でも頼るまいと、活力の補給と休養のバランスにはかなり気を遣うようになった。怪我の功名とはこういう事かもしれない。
こちらを見てニヤニヤと笑みを浮かべるリヒターの横っ面を張り倒したい気分には変わらないが。

「どうかしたか、アルカード?」

僅かに不快気だった表情もすぐに元の静謐を取り戻し、しかし、一見陶器めいた顔は逸らされることなくリヒターを見つめていた。
アルカードは観察している。
出会った時は背まで伸びていた落栗色の髪は、顔に掛かる部分はさっぱりと切られており全体的に短く整えられた跡があった。
数年が経つ。一度切った髪が伸びて再び結えるようになるくらいの間。
不思議だった。
目を閉じて起きた時に誰かがいることが当たり前になり、言葉を交わし、時に相手の体調を気遣うようなことをする。「生活」を共にすることが、存在が当たり前になった。
それは一体いつからだったのだろう。



窓から差す光が雲に隠され、再び室内に差し込む間もずっとアルカードの顔が逸らされないことにリヒターも首を傾げる。
そして、やがて訪れた変化には百戦錬磨の元狩人も度肝を抜かれた。

アルカードの白磁の頬に、スウ、と涙が伝う。

見間違いようもなく象牙色の睫毛から溢れたそれに、リヒターは驚きで言葉を失った。




「おまえを失ったら…俺はどうすればいい?」




至近距離の静寂を破ったのは、アルカードのやはり静かな一言だ。
「…おまえは騒がしくて、触れると温かい。その熱に慣れて…それが当然になって、いずれは消えるのだと思うと…こうなる」

そう告げて涙を拭うアルカードの所作は全てが美しく思え、一種の芸術だとさえ思った。
言葉の意味に理解が追いつくに連れて、信じられない、という思いと感激にリヒターの胸は締め付けられる。

アルカードのかつての仲間はとうにいない。母と呼び、今は亡き人もいたのだろう。人とは違う命を生きる彼は、出会えば必ず失わねばならない。そして再び、いずれまた、失うことになる。
それが辛いと言っているのだ。
次々と溢れ始めた涙を拭ってやる気遣いも忘れ、リヒターは茫然とした。

──その痛みは知っている。だからきっと、俺もここにいる。
知っているというのに。


リヒターは、椅子に腰掛けたアルカードと視線を合わせるようにその足元に跪く。
「……俺も、かつて大事な者を失くした。胸が引き裂かれるようだった。もう二度とこんな思いはしたくないと…」
アルカードはリヒターの過去を知らないだろうし、知る必要もないと告げてはこなかった。リヒター自身、必要もないのに痛みを思い出すことはしたくなかった。
事実、その言葉を聞いてもアルカードの表情は少しも揺らいで見えず、ただ少年のように、涙を流すに任せているだけだ。
アルカードの心情を何よりも雄弁に語る涙。
リヒターは震えそうな手で、伏せられたアルカードの手を取る。

「…アルカード、俺が、おまえにとって、そういう存在だと…?」

「…俺の内に踏み込んできたのはおまえだろう。おまえのせいだ」

非難までが詩のような美しい響きをしている。そう感じられるほど、リヒターの心は後悔と歓喜で狂わんばかりだ。
「…すまなかった」
立ち上がり、正面からアルカードを抱き締める。
心からの謝罪だ。
リヒターにとってアルカードは想い人だが恩人でもあり、話に聞いた彼の過去を考えても、共に生きたいという己の願いが厚かましいものであることはわかっていた。だが、それでも自分の欲求を優先した。
つまりは、アルカードの都合などどうでも良かったのだ。
それが彼を更に傷付けることになるなどと想像もせずに。
そのことを、己が行動の罪深さをやっと今、理解した。

「…おまえなら失わずに済む、俺を見送ってくれる、などと甘えていたのかもしれん。だが俺は、俺に許された時を精一杯、おまえと生きたいと思ったからここにいるんだ。それを忘れないでほしい」
この上まだ自分に都合の良いことを並べてしまう。が、もはやアルカードから離れて生きることは考えられなかった。
この涙を見た以上は尚更、己の存在を全て捧げたいと痛切に思う。

「アルカード、俺がおまえにしてやれることは何でもしよう。俺の想いの証として」

何ができるかなどなんの当てもない。ただ死ぬまで傍らで生きる誓いを、その許しを請うしかできない。
腕の中でアルカードは身じろぎ一つしないが、涙が止まったことは触れる服の湿り具合から察せられた。



「──リヒター」

ひたすら長く感じられた沈黙が、またもアルカードから破られる。

「…おまえが死んだら、俺は再び眠りにつこう。覚めない眠りに」

アルカードのそれは、今度はまるで睦言だ。
死ぬことはできない身と知っていながら、それでも、おまえとともにあれるようにと。
そういう響きを持った、愛情の言葉だった。


「……最高の、証だな」


リヒターの声は、弾かれた弦のように──泣いているかのように震えていた。
2/2ページ
スキ