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ディオザグ



眠りは久しぶりな気がする。体は重く、目覚めはあまり心地よくないが、水面に浮かび上がるように意識が覚醒する。ザグレウスは朦朧としたまま目を開いた。
見知った昏い空間に、見慣れない色が見える。寝台に寝転がっている自分を見下ろしている者がいるのだ。その気配で目が覚めたのか、呼ばれたから起きたのか。
ゆっくり瞬きを繰り返すザグレウスに気付いたそれは、明るくて低い声と陰を落としてきた。
「やぁっと起きたか、ザグ」
「…ディオニュソス? なんで裸で…」
寝起きで掠れたザグレウスの第一声に、笑みの形だったディオニュソスの口元が軽く引き攣った。
「いや、いつもの皮衣脱いでるだけだろ?おまえ、オレがあれ以外は身に着けてないと思ってんだな?よーくわかったぜ」
寝台に腰掛けるディオニュソスの肩は長い髪の下で剥き出しになっているが、言われてみれば羽衣のような薄いキトンと葡萄の冠等の装飾はきちんと身に纏っていた。だがそれだけでは逞しい褐色の肉体にはいかにも不足に見え、裸という印象になったのだろう。寝ぼけたとはいえ、知己を全裸扱いしたことはしっかりと謝っておく。
「いや、つい。そういうつもりじゃ。悪かった」
重たい頭と体をふらふら持ち上げると、寝乱れていたザグレウス自身の着衣も肩から脱げ落ちて半裸の状態になる。ひとのことを言えた格好ではないが、葉冠は被っていることだしぎりぎり失礼にはあたるまい。

「えーと…ここ、冥界の俺の部屋だよな?何故?どうやってここに?」
ぐるりと見まわすと、自分で集めた調度品も、ニュクスが用意した鏡も定位置にある。壁にはディオニュソスの姿絵があって、その側に描かれた神が座っているのはやっぱり奇妙な光景だ。
問われた酒の神は、絵よりもどこか硬い笑顔を浮かべたままザグレウスの質問に答える。
「そうだなぁ。オレが降りてきたとき地上はちょうど夜って時間でな。分かるか?冥界では区別できないかもしれないけど」
「ああ、まあ」
「つまり、おまえのところの夜〈ニュクス〉も眠り〈ヒュプノス〉も仕事に行ってるわけだ。死〈タナトス〉は元々ろくに館にいないんだろ?まあ手薄で入りやすかったぜ」
軽い口調で物騒な話題が振られているが黙って聞く。
ディオニュソスの言葉は普段から一方的だが、今回はザグレウスの反応を伺っている気配がして、しかし正確なところは掴めない。この神の掴みどころのなさはヘルメス神の忙しなさとはまた違い、霞を掴むようだといつも思う。
「はあ」
ザグレウスの気の抜けたような返答に、ディオニュソスはわざとらしく酒精を含んだ溜息を零す。
「…危機感ねえなぁ。不法侵入だって言ってんのに」
「まあそうだが。大事なのはその目的だろ?散歩で来たと言っても驚かないが、理由は聞かせてほしい」
「正論だ!オレが何の用で来たか?そうさ、大事なのはそこだよな」
どうでもいいところではしゃいでいるように見えるが、ザグレウスにはディオニュソスがそこら辺の酔っ払いと同じであるとはどうにも感じられない。そもそも自分のように闇を纏う身ではないのに、常に冥界内を把握する父王の目を逃れている。それだけで恐るべき能力の筈なのだ。
それを証明するように、ザグレウスの頭は果実をもぎ取るような手付きで突然鷲掴みにされる。
「!」
動かせなくなった顔を正面から覗き込んできたディオニュソスの目は、室内の陰のせいではなく、陽気や微笑みの色はたたえていなかった。

「  見に来たんだよ。オレの祝福を蔑ろにしておっ死んだ、根性無しの顔をなぁ?」

地を這うような声と直接吹きかけられた酒精の濃さに、ザグレウスの記憶はようやくはっきりとする。神々の試しでディオニュソスを選ばなかったために攻撃され、霧にまかれて斃れたことを。
地上の神々に振り回されるのは慣れているが、殺された後でなお機嫌を損ねているような態度は初めてだ。凄んだ瞳で覗き込んでくるディオニュソスにザグレウスも双極の瞳を見開き、思考をまとめる間に唇を数回開閉させた。
「………ディオニュソス、その、それは」
固定された顔はびくとも動かず、捉えてくるアメジストの瞳からアレキサンドライトの瞳が逸らされる。逃がすまいとする手には、ザグレウスの頭がみしりと音を立てそうなほど力が込められている。ディオニュソスの力なら、冥界でもなおザグレウスを殺すことは可能なのだろう。
だが、ザグレウスが言い淀む理由は怯えや後ろめたさではなかった。

「…『神々の試しで俺がディオニュソスを選ばなかったから怒って攻撃したけど、俺がそれで死んだから見舞いに来た』ってことだよな?」

張っていた空気がその一言できっぱりと停止し、弛緩する。ザグレウスの視線は、ディオニュソスから逃げたというよりその斜め後方を示していた。
そこには脱がれた豹の皮衣と共に、やや多いと思われる量の酒と葡萄が置かれている。当然ザグレウスの持ち物ではなく、訪問理由が怒りであるならこんなものは持ってくるはずがない。見舞品兼詫びの品といったところなのだろう。
「………うるせぇな」
ザグレウスの指摘にディオニュソスはふてくされつつ同意を示し、手と視線を離した。照れ隠しだとは思うが、物騒だからやめてもらいたいとさすがのザグレウスも思う。
「おまえのおかげでまだ二日酔いなんだぞ。神々のどちらかを選ばないわけにはいかないんだから、いちいち怒らないでくれよ」
「面子を潰されたら怒るのは当たり前だろ。で、二日酔いの時こそ迎え酒だ。ほら」
堂々と苦言を呈するザグレウスだが、ディオニュソスはまるで改める気はなさそうに酒杯を勧めてくる。まあ言っても無駄だとは思っていたが。
神々の試しとは、気紛れのように見えてきっと地上の神の矜持を保つために必要なことなのだろう。なにより数々の助力には大いに感謝している。だがディオニュソスに付き合って酒浸りになるほどの耐久力は残念だがない。
「悪いがいらない…」
げんなりと辞退するザグレウスにディオニュソスも大して無理強いはしなかった。地上と地下、双方の目を盗んでわざわざ降りてきたのに、またザグレウスが死んだらつまらないと思っているのだろう。
ディオニュソスは何でもないように振舞っているが、そもそも地上のものが生きて冥界に降りることが簡単ではない。命を落とした定命の者との別れを嘆く神や人間の話は、アポロン神をはじめいくつも耳にする。
冥界神ザグレウスにとっては地上に至ることがそれと同じ困難だ。しかも今回の死は、復活を経ても残るほどの二日酔いのおまけつき。それを成して平然としているディオニュソスが少しうらやましくなるが、タナトスと同じで上下の行き来にさして制限のない神なのかもしれない。

「でさ、ザグ。おまえが寝込んでる間に聞いてたんだけど。これ」
物思いに耽りかけたザグレウスにディオニュソスが示したのは、闇の向こうから響いてくるリラの音と冥界楽士の歌声だ。
「これは…」
「ああ。さすがオルフェウス、いい曲作るよなぁ」
陰気な冥界の背景音楽に、ディオニュソスは頬杖を突きながら興味深そうに耳を傾けた。こうして静かに芸術を鑑賞する様子は、演劇も司る神らしく絵姿よりもはるかに見惚れるに値する。
曲のタイトルは【ザグレウス賛歌】。
歌われる物語には実はディオニュソスが一枚嚙んでおり、ザグレウスにとっては聞くたび頭が痛くなる曲だ。
「この歌、オルフェウスに歌わせた作り話だろ。オレがおまえの心臓から生まれたって、ハハッ!よく思いついたな!」
陽気な神の無邪気な感想が耳に痛い。ザグレウスは聞かれてもいない言い訳を挟まずにいられなかった。
「…オルフェウスは地上の神話も知ってるはずだから、これまでにない物語にしようと思ったんだ。でも荒唐無稽だろ?歌の材料にするだけならまだしも、まさか信じ込むなんて…」
「信じないと歌にしないだろ?事実じゃなかろうが、面白いもんは面白いんだからそれでいいさ」
上機嫌で無責任なディオニュソスの声と、ギッ、と寝台が沈み込む音は、思いのほか近くから聞こえた。己の軽はずみさに頭を抱えていたザグレウスはそれに反応するのが遅れ、顔をあげた勢いのまま再び天を仰いでいた。
寝台に沈めたザグレウスを、いつもの表情で笑うディオニュソスが見下ろしている。

「  ディ、オニュソス?」
ひっくり返された衝撃でぐるん、と回った意識は川面の小舟と同じ。波でゆらゆらと戸惑う間にディオニュソスはザグレウスの上に覆いかぶさるような体勢になっていた。
今度は顔を固定されていないのに目が離せない。ディオニュソスの持つ雰囲気に圧倒されてしまう。
「  ここからオレが芽吹いて、だからオレはおまえで…てか。ハハハ」
酔って熱を帯びた指が、剝き出しのザグレウスの左胸をとんとんと叩く。上機嫌で、また、笑みの裏に何かがあるように勘繰られてならない。表面的な喜怒哀楽だけでは測れない神だが、少なくともこのままでは自分は捧げられた供物と同じだ。そうさせるわけにはいかないと、ザグレウスは腹を括る。
「…そうだな。俺の心臓、だ」
ザグレウスは話に乗りながら、自分の作り話を真面目に想像してみる。
八つ裂きにされ残った心臓─自分の命が凝縮された『実』から新たな神が生じる。それは目の前の完成された神になって地上で繫栄している。
そんなことをどうして自分が思いついたのか、今となっては逆に不思議だ。未熟な神ではなくなりたいという願望だったのだろうか?
完成された神とは、完璧な存在という意味ではない。傍目には支離滅裂に見えても、何か確固としたものに依って存在する  ザグレウスから見たディオニュソスはそんな神だ。行動が予想できないところ、自分勝手なところ、似た部分を多々持っているが故の、どんな障害に遭っても自分の望みを押し通す力への憧れなのかもしれないと思った。

「見てみてぇなぁ、オレを生み出した心臓を?」
ザグレウスの返答に応えてか、ディオニュソスは唐突に、いや自然に言い出した。本気でもなく冗談にもあまり聞こえない言葉を、ザグレウスは胸をなぞられながら聞いている。
「…心臓を?」
「八つ裂きならオレも慣れたもんだぜ。おまえの血は赤いだろ?なら心臓もさぞかし赤いんだろうな? ほら、ここの入口に実ってた…柘榴みたいにさ。弾けるくらい熟れて、甘いのかもしれないよな?」
空気そのものに酔ったようにディオニュソスは言葉を紡ぐ。
自らを象徴するのが葡萄の実であるように、柘榴を冥界神や命に例える感性は賞賛に値するとディオニュソスは思う。
人の命は赤い。それと似ているならザグレウスの命もきっと赤い。それを取り出したら、燃える宝石のように鮮やかかもしれない。
血肉そのものに美を見出す嗜好は特に持っていないが、己の信者の所業もあり忌避する感覚もディオニュソスにはなかった。ディオニュソス神にとっては、酒でも、演劇でも、自らの境界を越え狂気を抱かせる愉悦の方が大事なのだ。

(まあさすがにザグの八つ裂きはやらないけどな)
「……」
大人しくも険しい顔で黙り込んでいるザグレウスを見ながら、冗談が通じねえなあとディオニュソスは独り言ちる。まあ客観的に見れば、つい先ほど実際に殺された相手に言われたら誰だってそうなるだろう。
(いやいや、怒りは短時間の狂気ともいうし、ちょっと殺すくらいはご愛敬ってものだろ)
喜怒哀楽愛憎好悪、すべては自己の狂気。ザグレウスの都合は関係ない。だからこれも狂気のうちだ。

「、ぁ、わっ!!」
ザグレウスの引き結んでいた口からつい悲鳴が漏れる。
屈み込んだディオニュソスが、ザグレウスの肌に歯を立てたからだ。左胸  心臓の上に。
皮膚を破ったわけではなく、痕すらほとんど残らない愛撫のような嚙みつき方。物真似のそれに恐怖を感じたわけではないが  ただザグレウスは、目の前で自分の胸から取り出した赤に食らいつくディオニュソスを想像した  
その赤は柘榴のような色をした宝石で、炎を内包したように燃え上がっていて…そんな命の実は、きっと美しい。
(…俺は…何を考えているんだ)
自分の想像に呆れているザグレウスをディオニュソスはどう捉えたか、知らぬふりをするように覗き込む。
「そう怯えんなよ?飲むんなら、おまえの珍しい赤い血より酒の方がよっぽどうまいぜ」
「っ」
たぶん彼なりのフォローなのだろうが、ザグレウスは言われて初めて身を固くする。それもまた恐怖からではなく、ディオニュソスが、ザグレウスの血を赤い赤いと連呼するからだ。
褒められているのかもしれないが嬉しくない。血の神として矜持を得る前の、赤い血を恥と信じてきた時間がまだザグレウスを自由にしないのだ。
それに負けまいと自分を鼓舞し、ザグレウスは相手をきつく見据える。
「…怯えてるわけじゃないし、おまえに食い破られるわけにもいかない」
多少の眩暈は無視し、ディオニュソスの体を押し返す。全く抵抗なく体が起こされると、ディオニュソスが浮かべる余裕の笑みを真似してザグレウスもにやりと笑って見せる。

「心臓はやれないが、これをやろうか」
ザグレウスが差し出した手のひらにさざめきが集まり、宙に深紅の結晶体が浮かび上がる。へぇ、と感心するような声がディオニュソスの口から洩れた。柘榴の実や燃える鉱石よりもシンプルで硬質だが、色の放つ印象は同じだ。
「これがおまえの能力ってやつか?」
「そうかもな。俺の血からできている」
ザグレウスの意思でそれはディオニュソスの手に渡る。浮いてくるくると回るそれが小さな灯りを反射し、映す紫の瞳に赤の光が混じって違う宝石のように輝いた。
血珠にディオニュソスの力を上乗せしたことは多々あるが、そのものを渡すのは初めてだ。
珍しそうに眺めながら、ディオニュソスはそれを己の指で撫でて握り込むと、大きな手の中にほとんど収まってしまった。
「ふっ、」
笑うような吐息が唇から洩れ、その手に瞬時力が籠ったかと思うと。
ばきん!と硬質な音が響いた。
膂力で砕き潰された血の破片は、ディオニュソスの手からぱらぱらと落ちていく。それは呆気にとられる創造主の中へ蒸発するように戻っていった。
「はは、ちっと脆いな。やっぱり心臓じゃなきゃダメみたいだぜ?」
「……」
やっぱり酔っ払いのジョークは笑えない、とザグレウスは正直に白い目をディオニュソスに向ける。

「なあ、見ろよザグ」

砕かれた血珠の破片は、鋭い切片でディオニュソスの手や指を切り裂いていた。蝋燭の炎に揺らめいて、その傷から透明な液体がザグレウスの前でつうっと流れていく。
「これじゃ、オレの心臓なんかただの肉の色でしかないだろ。取り出したって面白くもなんともない」
俺のだって別に面白くはないだろうとの反論より、ザグレウスはディオニュソスから流れ出る色に気を取られていた。
透明な血。神のイコル。
神の各々の特性を映して赤や青に見えることもある。ディオニュソスのそれは、髪の色を反射してか時折葡萄の果実酒のように光って見える気がする。
ザグレウスの昔の記憶がまた首をもたげる。
どうして自分の血はこうではなかったのか、と羨んだ過去が、体を衝動的に動かした。
「!」
ディオニュソスの血を口に含もうと身を乗り出したザグレウスに気付き、掴んだ腕が寸前で逃げた。一瞬だが本気の動揺を滲ませたディオニュソスには頓着せず、ザグレウスの視線は名残惜しそうに流される神の血を追う。
「ザグ…」
「いや、うまそうに見えたから」
「そいつはイっちまってる。二日酔いってのは本当みたいだな」
「それもこれも、原因はおまえだろ?」
軽口が交差したあと、くだらなさが妙に面白くて声も出さず互いに笑う。ザグレウスからすればなんとなく口に入れてみたかったという興味本位だったのが、ディオニュソスが意外と嫌がるのが楽しくなってきてしまう。
「なあ、飲ませてくれよ」
「嫌だね。酒にしとけ」
「酒は遠慮するって言っただろう」
「ならこっちも遠慮してもらわねえとな」
未だ血が滲んでいるらしい己の手のひらに、ディオニュソスはザグレウスの目の前で舌を這わせる。
「ずるいじゃないか」
「オレの血だろ、狡いって何だよ。…おい、ザ…」
舐め取られた血を追って、ザグレウスの舌はとうとうディオニュソスの口元に触れた。暖かく濡れた感触が口内を探ろうと唇をつついてくる。
そこまでされてはあとには引けない。
ディオニュソスは唇を薄く開けてザグレウスの舌を口内へ導く。滑り込んできたそれを味わう間、ほんのりと灯った熱ごと抱え込むように後頭部へ手を回す。
隙間がすっかり塞がったところで、唐突に強く吸い上げた。
「!! ぅ、むっ!!」
呼吸困難になったザグレウスがディオニュソスの腕をバシバシと叩き降参の意を伝えてきた。仕方がないので、数秒待たせた後に解放してやる。
「………っぶぁ!! っはー…ふー…」
「ったく、雰囲気出ねぇなぁ」
色気なく肩で息をするザグレウスにディオニュソスは呆れて笑う。ザグレウスの態度に内心戸惑ってしまったなどと言うつもりは絶対にない。
「…慣れていなくて悪いな。興醒めしたか?」
だがザグレウスは、口元を拭いながらなおも挑発的な視線をディオニュソスに向けてくる。引き続き酔ってしまいたい誘惑にかられるが、笑って肩を竦めてみせた。
「残念ながら、今回はそのつもりはなかったからなぁ。あったらとっくに寝込みを襲ってるぜ」
「それは…残念だ。おまえとなら構わないと思ったんだが?」
ザグレウスの挑発が続き、ディオニュソスは素知らぬ振りでやり過ごす。
冗談と本気の駆け引き、ザグレウスの体調などの問題はあるが、まず状況が許さないことはふたりとも承知していた。地上の神の突然で未許可の訪問を冥界は歓迎しない。
その気になっても手が出せないことを分かっているからザグレウスも大胆になれると言えるが、互いに本当に本気になればそれすら構わないことだろう。そして、おそらくその時はそう遠くはない。
「…言ったことは取り消せないぜ。覚悟しとけよ、ザグ?」
「取り消すなんていつ言ったんだ?おまえになら何を見せてもいいと思ってるよ、ディオニュソス」
本気を滲ませる紫の視線を捉えながら、ザグレウスは自分の左胸を示して言った。

「だって、おまえは俺だろう?」

作り話も真面目に演じれば喜劇。ザグレウスの最後の挑発に、ディオニュソスは腹を抱えて笑った。これだからこいつが気に入ってると言いたげに。

「じゃあそうしてみるか?オレはおまえか、ザグ」
「ああ。だからもう殺すなよ?自分だろ?」
「オレならオレにしかるべき敬意を払うもんだろ」
「ナルキッソスの話を思い出すな…俺は自分に惚れて死ぬ気はないぞ」
束の間、状況を忘れて二柱は言葉遊びに興じる。そもそも神格や立場を最低限しか尊重しないふたりだ。
アフロディテに言えば怒るだろうが、愛だの恋だのより、それも含めて悪巧みをして喧嘩をしてと騒いでいるのが性に合っている。

ザグレウス神とディオニュソス神は同一神。
地上と地下に伝わる物語にはそう歌われている。
だがそうではない。そうではない方がいい。当たり前のことだった。

心臓は、ふたつある方がいい。

俺がおまえでは、
オレがおまえでは、
『一緒に』楽しめないのだから。

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