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ディオザグ

冥府の底で、ザグレウスはひとり悶々としていた。
王子の私室はあけっぴろげだが基本的に誰も訪れず、また持ち主がゆっくり私室で過ごすことも稀なため、ベッドでクッションを抱えながら壁を向いて座り込むレアな様子に頓着する者もまたいない。
拗ねるような姿でザグレウスは考え事をしていた。

実父に「おまえの家族は死と私のみ」と言われて育ったザグレウスだが、最近それが真っ赤な嘘であることを知った。
地上には実母と、親類と呼べる存在がいたのだ。特にその中の、自分の「従兄弟」にあたる者のひとり。
浅黒い肌に癖のある鮮やかな髪をひとまとめに流し、酒の神らしくいつでも陽気に酔っ払って面識がないうちから既に馴れ馴れしく、たまに機嫌を損ねると殺されかける。
親戚とはこんな厄介なものなのかとはじめはザグレウスも面食らったが、存在の近さでもあるのか、すぐに強い親しみを覚えるようになった。
そんなディオニュソスとは、彼らが暮らすオリュンポス山に行くことは叶わないものの、地上への到達に成功すると直接顔を合わせることができるようにもなった。することといえば当たり前のように酒盛り。どうしていつでも酒と杯は持ち歩いているのかと疑問を呈すると、毎日宴をしているからだという。そういう仕事もあるのか、と真面目に返すと、大笑いされたのを覚えている。ささやかにふたりで飲む酒はうまかったし、楽しかった。
そんな何度目かの会合で、…流れとしか言いようがないが、ディオニュソスと…そういうことをした。
そういうこととは、あれだ。つまりは性行為だ。
だが未遂と言った方がいいかもしれない。了承のうえ体を触りあって、互いに興奮したのは確かだが、ザグレウスは性的に達することはできなかった。
それに、ぶっちゃけ入らなかった。
結果で言えば双方が中途なまま終わってしまったわけだ。
「何の準備もなくなだれ込んで、いきなり最後までできるとは思ってない」と、それがセックスの全てではないと、ディオニュソスは笑っていたが。いくら男性相手が初めてとはいえ、緊張なのか酔いなのか原因はわからないが、体も心もまるでついていかなかった。情けないし、申し訳ない気持ちになってしまう。

「酒や水では無理だし、油…とか、…媚薬…みたいなものってないのか?」
もしくは手や口で、あとは太股に挟んで擦る方法が主流だと聞いたような聞かないような…。
猪突猛進の傾向があるザグレウスだが、一度失敗を経験した後だとさすがに慎重に…いや、らしくなく臆病になってしまう。
それに、後悔ともいうべき思考に飲まれてすぐに思い至らなかったが、「次」があることは何一つ保証されてはいない。
意図してこちらからディオニュソスに会う方法はないのだ。接触する唯一の方法である功徳を通しても、あちらが一方的に喋るだけでこちらの姿も声も届かない。
気まぐれに。そう、ただの偶然で、ザグレウスが地上に出て生存している限られた時間、ディオニュソスがそこに来ていなければ、自分たちは会うことすら叶わない程度の間柄。

「………」

ぐるぐるとしていた思考はついに柔らかなクッションと敷布に顔ごと沈む。
孤独感を抱えて育った王子には馴染み深いはずのそれを、今もまた持て余している。
寂しい、と思っている。

ディオニュソスに対して特別な情愛を抱いているとは思っていない。が、例えただの戯れ、発散のための手段だったとしても、わずかでも好意を抱いていない相手にそんなことをさせるほど訳の分からない子どもではない。
情けないところを見せた恥を雪ぎたいという意地なだけなのかもしれない。
いずれにせよ、気軽に会えないと意識した途端、ディオニュソスと会いたい、話をしたいと初めて明確に思う。

「…ヘルメスに頼むって手があるか」
ヘルメスにも直接声は届かないが、ネクタルやアンブロシアが届けられるなら手紙を渡すとかどうだ?いや供物じゃないとだめなのか?それか、タイミングはわからないがカロンからヘルメスに渡してもらって…

いくら臆病に駆られていても、思いついたら実行したくなる性分はなくならない。
手紙に会いたいと書けば、功徳を通して返事を貰える可能性はある。向こうが指定してくれれば俺がそこに辿り着くだけだ。
だがしかし、会ってからどうする?
何を言えばいい?もう一度チャンスが欲しい、と誘ってみるか?次は五体満足とも限らないのに。そもそも俺はディオニュソスと本当にそういう関係を望んでいるのか?そうでないのなら、わざわざ別離を告げて喧嘩を売りに行くだけになる。もうしばらくここで寝て、頭を冷やした方がよくないか?

「……だめだ。」

がしがしと頭を掻くと、落ち着きのない王子は勢いをつけてベッドから飛び降りた。
中庭で愛用の剣を手にし、骨の男へ挨拶代わりの試し切りを見舞って、中庭の窓から身を翻す。
じっとして妙案が浮かぶ質ではない。
気晴らしのためにも、いや、余計なことを考えないためにも体を動かしたくて、再びの脱出に挑む。今回だけは、差し伸べられる功徳に酒杯がないことを祈りながら。



◇  ◇  ◇



幸いというか、今回の脱出経路上でディオニュソスの功徳を拾うことはなかった。
だから、地上に到達した時、葡萄の房と蔦と豹の毛皮を纏った姿を目にしたときは、本気で幻を疑ったのだ。
冥界の出口付近、まだ雪が残る地上の景色に彼の纏う色はよく目立った。

「よーぅ、ザグ」

こちらに気づいてひらりと手を振った神に、ザグレウスは逡巡も忘れて駆け寄る。
「脱出成功おめでとう。元気そうだな?おまえの赤色は見つけやすくて助かるぜ」
「…いや!そっちの声は俺に届くんだから、ここにいるとひとこと言ってくれれば!」
「だってなぁ。おまえ、俺の功徳しばらく拾えてなかったみたいだし。第一、言ったら驚かせられないだろ?」
驚いたろ?と悪戯が成功したように笑うディオニュソスに掴みかかる勢いで、ザグレウスはその腕に触れる。
汗が冷えた自分より少なくとも体表は冷えていて、風邪をひくことはないのだろうが、それなりの時間をここで待っていただろうことは容易に察せられた。約束もなく、あてもなく。

「なんでだ…?」

まるで泣きそうに顔を歪めるザグレウスに、ディオニュソスも茶化す笑みを穏やかなそれに変えて正面から向き合う。

「ザグを捕まえたかったから。狩りってのはセンスが要るな。アルテミスに教わってみた方がいいかもな?」

相変わらずとぼけて答えるディオニュソスの胸倉を掴んで揺すぶりたかった。答えになってないとも、その意思を疑っているわけではないとも、自分で勝手に押し殺した期待が膨れ上がるのが怖いとも、正面きって伝えることから逃げようとしていた己への情けなさも。全部が膨れ上がるだけで外に出てこず喉を塞いでしまう。

「…、俺は、あなたに、………会いたかったんだ」

結局は気の利いた台詞など出ず直情的に絞り出した言葉が、瞬間、意外なほどディオニュソスの表情を乱した。余裕めいたそれから、少し不愉快そうに眉をひそめて。

「……先に言うなよ…」
「え?」
「なんでもない。時間もあんまりなさそうだしな。飲むか?」
またはぐらかして、肌身離さず持ち歩く杯をふたつ掲げてみせるディオニュソスに、ザグレウスは反射的に返事をした。

「一杯だけ。そうしたら……あなたを俺にくれ。」

その目があまりにも必死に、瞬きも厭うほど真剣に見据えてくるので、ディオニュソスもさすがに息を吞んだ。
冗談を読み間違えるほど浅い経験は積んでおらず、すい、と細められた瞳は、陽気な酒神ではなく復讐の狂気をも司る彼のいま一つの面を垣間見せたかのよう。

「……そういう意味で言ってんのか?ザグ」
「そう聞こえないか?品がないのは承知している。今回もうまくできないかもしれないが、俺はそうしたい。あんたに会いたかったってのは、そのことばかり考えてしまって」
「ストップ。わかった、わかったよ、ザグ」
言葉にし始めると止まらないのか、迸る自分の気持ちを整理するためか。縋るように話すザグレウスをディオニュソスは一旦落ち着けと促す。
冥府の色を映すような剝き出しの肩にふた回り大きな手が置かれ、果実色の髪が撫でるようにザグレウスの頬に触れた。

「俺から誘う手間が省けて何よりだ」

低くはっきりと、意図を伝えるため耳打ちされた言葉が背を走り抜け、ザグレウスの深奥にぞくりと火が灯る。
短い付き合いだが、ディオニュソスが気遣いや世辞で心にもないことを言う性格だとは思えない。彼もまた「次」を、この機会を求めていたということを知って──血が沸き立つような高揚を覚える。
むしろ、望んでいたのはこちらの方、自分を受け入れてもらうことだったのだと赤い血が教える。

「あと、うまくやろうとか考えなくていいからな。俺とおまえの仲だ。肩の力抜いて楽しもうぜ、な?」
分け合った杯に葡萄酒を注ぎながら、ディオニュソスは再び陽気な笑みをザグレウスに向けた。とても彼らしく、相変わらず馴れ馴れしく、これが培った貫録というものかと安堵して、ありがとうと自然と言葉が出る。
ぐい、と杯をあおると、喉を焼くような熱が腹から体を温める。酔いもすぐに回るだろう。
とはいえここは寒すぎるので雪がないところへは行きたい。
酒で濡れた唇を舌で舐めていると、ディオニュソスはにこりとした顔でふたたびザグレウスの耳元へ顔を寄せ、呟いた。

「とはいえ、だ。…うまくいったら、今日は入れるからな?」

考え事に気を取られていた脳がその言葉を処理する間に、ディオニュソスはザグレウスを背を押して歩きだしている。
そして酒の残滓と一緒に意味を飲み込んだザグレウスは、視線をディオニュソスの腰より下に落とせなくなっていた。
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