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タナザグ


ザグレウスは自室のベッドで目が覚めた。
珍しく深い眠りに身を委ね、十分な時間を経ての自然覚醒。気持ちの良い目覚めだ。
大きく伸びをしながら身を起こす。
しかし、頭はすっきりしたものの体は決して同様ではなかった。
放置した汗がべたべたとまとわりつく。埃、血などの汚れもあるかも知れない。地上から戻り、疲労感からそのままベッドに横になってしまったから。
忘れかけていた感覚だ。


通常、地上から帰還の際に王子はステュクス川でその身を洗われる。また、死を経て再生した体に疲労感は残らない。
今回それらが異なっているのは、地上から「死なずに」戻ってきたからだ。
この試みは王子自身の好奇心による。
地上に出れば何らかの不運または生命力の喪失により死を迎える定め。ならば、その前に引き返したら?カロンの舟に頼らずに自力で。
そう思い立って、死ぬ気で辿り着いた地上を死ぬ前に後にしてきたのだった。
引き返す時は父王もボーンヒュドラもエリニュス三姉妹も復活前で比較的スムーズに通れた。冥界はかくも入るは易し出るは難しかと今更感心したりして。
結果、何事も変わりなく生まれ育った地に戻れたのだ。
だとしても長い道のりに変わりはなく、行きの消耗も手伝って、探求心が満足したら二度はないなと眠りに引きずり込まれながら王子は思ったのだった。


ともあれ目を覚ましたザグレウスが最初に考えたのは体を清めることだ。腹も多少は減っているが。
生者のように代謝がある者の方が少ない冥界でも、沐浴用の施設はある。
着替えを一式。それから、ステュクス川から上がる死者のために用意されたタオルの山から拝借した一枚(俺が手配したんだからこのくらいいいよな、と軽く考える王子は在庫管理という概念が不足している)をひとまとめにする。葉冠と脚の具足は外して…おこうと思ったが、どうせ脱ぐのだと着けたままにしておく。
ぐっすり休んだあとの自分のベッドを振り返り、その表面の乱雑な波打ち方と砂が練り固まったような汚れに塗れた有り様から思わず目を逸らした。ベッドメイクを務めることになるだろうデューサにそっと謝っておこうと思いながら。




ザグレウスが部屋を出ると、見慣れた風景の先にタナトスの姿を見つける。眠る前は居なかったはずだ。
互いを伴侶と認めあった後も、相変わらず忙しい彼と出会えるとはタイミングが良い。
ザグレウスは上機嫌になり、手を振りながら近付く。
「タナトス!」
呼ばれた死の化身は音もなく振り向いた。距離があるうちは表情は伺えなかったが、近付くにつれ纏う雰囲気もザグレウスに伝わるようになる。

機嫌が悪い。

そう形容するのが相応しい。普段ならただの無表情だが、ザグレウスに向いた顔に刻まれているのは、一介の亡者なら縮み上がりそうな眼光と眉間の皺。いつもだと思われるかもしれないが、それに加えて発される不可視の闇のオーラとでも言おうか。
これで感情を表に出していないつもりなのだろうか。
冷血漢のように言われる彼の評判とは裏腹、感情があまり高揚しないためそれを扱う術には乏しいと知ったのは最近の話。
「どうしたタン?おまえにしては珍しい態度だな」
ザグレウスは怯えるでもなく問う。その不機嫌は自分が原因の可能性もなくはないが(そしてそれは大抵そのとおりだが)、直近で心当たりはないからだ。
それに、その視線はずっとザグレウスに向けられている。何か言いたいことがあるのは明白だ。
「……」
「黙るなよ。おまえの不機嫌はわかる」
荷物は脇に抱え直し、ザグレウスは呆れるような仕草をしてみせる。案の定タナトスは否定をしない。
「…俺の都合に過ぎん。気分を害したなら謝るが、理由は言いたくない」
「教えてくれないとわからない。気になるから教えてくれ」
言う言わないの綱引きを数回繰り返した後、着衣の裾をがっちり掴んで離さないザグレウスに根負けしたタナトスが、絞り出すように口を開いた。



「…臭い」



どこか言いづらそうに、そして嫌そうにザグレウスを見つめ返しながら、タナトスは言った。その一言で、これまで引け目など覚えなかったザグレウスの精神は揺らぐ。
他者に臭いを指摘されることはこんなにもショックなのか──そんなに汗臭かったか…?はたまた血の匂い?埃と黴?サテュロスの巣で飲んだ水?浴びた毒の臭い?何にせよそれを今から洗い流そうとしていたところで…と、冷や汗と思考と言い訳が次々に浮かんでくるが、タナトスの言葉が終わっていないことに気付きザグレウスはかろうじて黙った。

「──潮の香り、酒の香り、化粧のような甘い香り、血の香り…」

タナトスが羅列する事柄には、少し考えてすぐに思い至る。ポセイドン、ディオニュソス、アフロディテ、アレスの功徳のことだ。

「冥界において…いや、おまえから、それらの香りがすることに、いい気持ちがしない」


そう言われるまで、功徳のことはすっかり忘れていた。
ステュクスの水で洗い流されるのは身の汚れだけではなく、授かった神威もだ。今回はステュクスを経由しない帰還であったためまだ体に残っていたということか。
それをタナトスは香りと表現したが、気配のようなものなのだと思う。自分ではわからないが、薫物と一緒で、他者にはきっとよく感じられるのだろう。


「なんだ、そんなことか」
疑問が腑に落ちて明るい雰囲気を取り戻すザグレウスに対し、タナトスは口調も態度も重々しいまま俯く。
「…そんなこと、か…」
タナトスが館へ帰還後に聞いたのは、王子が『生きたまま』地上から戻って来たという眉唾に近い噂だった。状況はわからないが、本当なら女王とともに帰還したとき以来の珍事だと考えていた矢先。
ザグレウスを包む神威を、神々からの寵愛を受けた姿を目の当たりにしたタナトスは、誤魔化しようがなく黒い感情を抱いた。
ザグレウスは、冥界の外にも己の世界がある。
断絶を突きつけられたようで、勝手に抱いてしまう苦悩を当のザグレウスに一蹴され、ますます苛立ちが募る。持て余した感情よりも、それをザグレウスが汲んでくれないことが寂しいと。
身勝手は承知でも、恋心とはどこまでも分別のない子どものようだ。

「タン、こっちへ」

内に籠ろうとしたタナトスを急に引き上げ、ザグレウスは駆け出した。館を横断し、どこへ、と問う間もなく目指す場所に到着する。

「……ザ…!!」

欄干を乗り越え、空を蹴り、盛大な水柱を立てながら二柱は血色の川へダイブした。タナトスの動揺の言葉も水音に掻き消される。
予想外過ぎて、駆ける勢いのまま身を宙に放り出した伴侶を抱き止め、浮遊や転移をすることはできなかった。引きずられて転ぶように水に落下した死の化身など、さぞかし面白い観物だったろう。

「ぶはっ…ザグ!!」
「はは!気持ちいい!」

館内で王子と幹部が水遊びなど、冥界史上おそらく前代未聞だ。周囲に覗こうとする度胸のある死者がいないのが救いか。
飛び込んだのが多少深さのある場所だったため頭を打ったりはしなかったが、当然に全身が浸かり、着衣は体にまとわりつく。
浅瀬に移動し、脱力を堪えながら腰掛ける。同じく濡れ鼠のザグレウスが側に座り、笑顔でタナトスを見つめてきた。

「ほら、功徳の香り、するか?」

一瞬のためらいの後、ザグレウスが差し出した腕に顔を近づけると、神の寵愛の残り香が消え去るところだった。
ザグレウスは得意そうに言葉を続ける。
「ステュクスの水で洗い流すと、功徳は消えるんだ。金貨と引き換えにできたりもするんだけど、今回の分は流れてカロンのところに行ったかな?」

「…俺に気を遣って折角の加護を手放すのか?」

もはや後の祭りだが、タナトスは問わずにいられない。自分が難色を示したためにザグレウスはこういう行動に出たのだという後悔の念。タナトスがもっと冷静だったら、ザグレウスが沐浴の荷物を抱えていたことに意識が行ったのだろうが。

「俺も、もしタンから別の香りがしたら嫌だと思ったから」

ザグレウスの答えは明瞭で、容易に本心を曝け出す。それがタナトスには何よりも眩しい…いや美しく煌めく闇の宝石だった。

「タナトス、生身の俺は弱い。他の神の力を借りなければ、地上にはとても辿り着けない。だけど、おまえといる時にそれは必要ないだろ。だから手放すことに何の問題もない」

──何かから逃れ、何かを得るための"力"を切望していたのは誰よりもザグレウス自身だったことをタナトスは知っている。
けれど、それ以上の強さを彼は手に入れたのだろう。冥界に根ざすことと引き換えに闇からもたらされる力だけではない。制約とは関わりなく、真に彼を強くしたものを。
「……ふっ」
タナトスの思案も後悔もこの奔放な伴侶にかかっては跡形もない。かなわない、と密やかに微笑むと、ザグレウスは同じように笑い返してくれる。
そして、不意に辺り憚らず抱きついてくる。
「ザグ?」
「おまえが匂いがどうとか言うから、俺も気になってきた」
体の隙間がなくなるほど身を寄せ、冥府の王子は死の化身の耳元へ囁く。

「…俺に、今度はおまえの香りを付けてくれよ」

愛おしげな瞳で、歌うような言葉で、舌舐めずりをするような声色で。先程の朗らかさとはうって変わっての色香を纏うザグレウスに、タナトスは動揺を隠しきれない。
「…こら」
嗜めるような口調に、ザグレウスは抱き着いたままクスクスと笑う。見透かされているようだ。
「香りがしてもしなくても怒るのか?俺はどうしたらいいんだ?」
分かっていて困って見せるザグレウスに、先ほどとは正逆、よろこびでタナトスの胸は満ちる。
なんの遠慮もなく受け入れられる幸福感。
求められる充実感。
相手の態度に一喜一憂することは職務よりよほど忙しないと思うも、悪くないと心から思えた。


ザグレウスを抱き締め返し、すぐさまタナトスは転移する。目を開けた時は王子の居室だ。
こんな短距離にも瞬間移動の力を使ったのは、ザグレウスを1秒たりとも他者の目に触れさせたくない気分になってしまったから。
抱擁しあって立つ二柱の足元に、ぼたぼたと赤い水が溜まっていく。当然ながら瞬間移動だけでは服は乾かない。
「服は?」
「その辺に脱いで捨てればいい。片付けは俺がするよ」
どうするかと問えばザグレウスはそう言うが、デューサの仕事が増えるのだろうな…と思いつつも口には出さず、タナトスは従った。
すぐにでも脱ぎ捨てたいと思うほど、濡れた着衣はもどかしかったから。
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