タナザグ
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ひとり歩いていた。
現実ではないかのようなふわふわした心地に包まれていたが、ここが夢ではないことも自覚していた。
目的地は思い出せない。暗い闇と時折差す明かりが瞬くように脳裏を過ぎる。ここはどこだろう?(彼)は何も思い出せなかった。
纏う衣服は身に馴染んでいた。片肌を露出した出で立ちから、自分が男であることは理解していた。しかし衣は汚れてところどころ裂け、自分の体だというのに動かすことに違和感があった。思い通りに動かそう、という気力が湧いてこないような、動かそうとしても手足に命令が届かないような。
また、(彼)は自分が誰であるか分からず分からないことに疑問がもてなかった。自然にそうある者と受け止めていた。ただひとりさまよい歩くものであるのだろうと。いつから?どのくらいの時間をこうしているのか?だがそれも大きな問題とは思わなかった。いま(彼)はそのようなものであるからだ。
土を踏む。足で踏みしめる。
旅をしていたような気がしたが、身に帯びているべき荷も武器もない。どこかで失ったのか、はじめから持っていなかったのか。ここは武器が必要な場所なのか?体は飲食を欲していないのか?どうして?そしてどこに向かおうとしていたのか?(彼)は生きている。それは確信している。脈があり、自らの形に自ら触れることができる。しかし目的がなかった。どこかに行きたいという願いがなかった。不思議とここは落ち着くような場所で、はじめからどこも目指していなかったのかもしれないとも思えた。
そんな霧がかった意識が、ふっと違和感を捉えた。
空気が震えた気がしたのだ。
さすがに気になって辺りを見回すと、見覚えのあるようなないような風景の中に、ひとつの黒い影が立っていた。それが黒い外套を纏った黒い肌の人影であることがすぐにわかるくらいには近くに。
まったくいつの間にこんな近くに忍び寄られたのか分からない。とどのつまり、人ではないのだろう。
巨大な鎌、帯剣、黄金の装飾や銀の髪の見事さも掻き消される陰鬱な気配。
知っている。あれは死神というものだ。
あたりに他に人影もなく、それは当然のように自分(彼)のもとに近寄ってくる。
─死神のやることとは?それはもちろん、命を刈り取ること。自分(彼)は死ぬのだろうか?それが予想できても、不思議と恐ろしくはなかった。まるで待っていたような、それを受け入れるのが当然のような気さえする。理由はまるで分からなかったが。
ただ、目の前で立ち止まった死神は、自分(彼)を迎えに来た訳ではないように思えた。
こればかりは予感とは少し違う。相手のほうが、僅かではあるがこちらを見て不思議そうに眉を顰めていたからだ。
見つめ返すと、人間と同じ顔をしている。その顔立ちか、はたまた全体の雰囲気にかはわからないが、きれいだな、と口に出さずに思う。
棒立ちのまま死神を眺めていると、フードの影に隠れていない口元が動いていることに気付いた。
何かを喋っている。
しかし、声が聞こえない。そのことにいま初めて気がついた。
死神が喋っていることにではなく、周りの音が何も聞こえないことにだ。まるで水の中で塞がれているように。
それを、申し訳ないなと思った。
死神が何かを語りかけているようなのに、自分(彼)には何も聞こえない。何を言っているか分からなかったから。
死神の眉間の皺が深くなり、造形の美しい唇が閉じた。
それはそうだ。何を問われても返答しないのだから気分を害されても仕方がない。
だが死神はひと呼吸置くと、懐の辺りから何かを取り出して自分(彼)に提示してきた。
それは生き物のようだった。死神の手に行儀よく支えられている、闇の毛並みをもった小さい生き物。その生き物について死神はまた何かを告げていた。
こちらに差し出すということは、これは自分の飼っている生き物だった?もしくは、死神からいま賜わろうとしている?
いずれにせよ自分(彼)は取るべき行動を決めていた。
呆けていた唇を動かすと、声は出ているようだった。自分の声かどうかは分からなかったが、声の出し方は体が覚えていた。
「──死神様、自分が死んだら、この生き物の世話は誰が?自分はきっとすぐに死ぬ身です。どうかこの生き物に慈悲を…、俺ではなく、あなたの懐に抱いてやってください」
そういうことを言ったつもりだ。
自分(彼)が死んでから野たれ死ぬより、安らかに死に迎えられるべきだろうと思ったのだ。
だが、その言葉は想像以上に─想像することもできないほど、目の前の死神に衝撃を与えたようだった。
受領を命じたものを拒否されて憤慨したとか、そういう態度ではない。動揺を察した手の上の生き物─そうだ、鼠というんだった─が走り去ると同時に、自分(彼)の肩をすごい勢いで掴み、揺さぶりながら何事かを叫んできた。真剣な眼差しで自分(彼)を見据える様子がひどく必死に見えた。
掴まれる力が強く視界ががくがくと揺れたため、何もできないまま視界が急にぶつんと切れたのと同時に、(彼)の記憶もまた途切れた。
『……ザグレウス!!?』
聞こえなかったが、死神が最後に叫んだ言葉は、(彼)の名前だったのだ。
✾ ✾ ✾
泉から浮上したザグレウスは、見知った館の中を歩き始める。
ぼやけた意識は回復に伴いはっきりしていく。廊下の先からは眠りの神が明るく手を振っていたので、ザグレウスもいつもどおり挨拶を返した。
「今回の死因……脳挫傷(推定)とか書いてある。(推定)ってなんでだろうね??まあつまり、頭を打っちゃったってこと?」
「そうかもしれないが、なんだったかな…?」
本当に記憶がない。ザグレウスが頭を掻いていると、ヒュプノスは正しいか正しくないか分からない知識を伝えてくれる。
「頭は他の身体と比べて、ダメージ受けると死にやすいんだって!その場では平気に思えても、安静にしてないと後から死ぬこともあるって」
「遅効性の毒みたいなものかな?」
「さあ?きっと頭蓋骨の中身がぐちゃぐちゃになっちゃうんだよ!落っことしたケーキみたいに!」
「うぇ…なんだそれ、グロテスクすぎる…」
ちょっとやそっと頭を打ったくらいではそうならないとしても、極端な衝撃ではわからない。脳天に一撃死の衝撃を受けた記憶のある王子には笑い飛ばすこともできず、ヒュプノスに別れを告げて西館に足を向ける。
手持ち無沙汰で懐を探るが、連れて行ったはずの冥友はいない。これは珍しくないことだ。いつも死んだあと、気付けば中庭のコレクション兼飼育かごに戻っている。ザグレウスの肉体がステュクスに流されている間に自力で戻っているのだろうか?
西館で師匠とデューサと立ち話を交わしてから、今度は自分の部屋を目指して大広間を抜ける。今回はそう、モートを連れて行ったはずだ。きっと中庭に戻っている。
というか、今回はどうして死んだんだっけ?
それだけがザグレウスの記憶から抜け落ちていた。死の瞬間ではなく、もう少し前からの記憶が全て、抜け落ちるというか噛み合わずに、思い出せない夢のように脳裏をちらつく。何があったのだろう、覚えていないなと首を傾げるしかない。
そうして考え事をしながら自室に足を踏み入れると、思いがけず、西館の定位置にはいなかった姿に会うことができた。
「あ、タナトス」
ザグレウスの気配には気付いていたのだろうが、警戒するような態度に見えるのは気のせいだろうか?
「……ザグレウス?」
まるで確認するような返答だった。しかしそのことについてザグレウスは深く考えない。
「うん。久しぶりだよな、タナトス?」
ザグレウスの仕事中も館でも、実際に顔を会わせた記憶はいくつもの昼と夜を遡った前のことだ…確か。おそらく。
久しぶりだっけ?最後に会ったのはいつだっけ?
僅かに違和感だけはあったが、いまここで会えたことの方が重要だと思えばそれはすぐに消えてしまった。
「待っていてくれたのか?すまない、どれくらい待たせた?」
─目の前ではにかみながら謝罪するザグレウスの様子を見て、タナトスの胸にようやく僅かながらの安堵と、澱に石を投げ込んだような嫌な気分が再び蘇る。
急いで館に戻る前からのタナトスの記憶は終始鮮明だ。
ザグレウスの気配を探していたところ、エリュシオンで偶然、モートを見つけたのだ。
周囲を探したら、武器も持たずにふらふらと歩くザグレウスを見つけた。おそらくモートが逃げ出して探しているのだろうと思って声をかけたら──
その時のザグレウスは、見た目に表れない重傷を負っていた。体内の傷が命の巡りを阻害し、堰き止める寸前だった。虚ろな目とこちらの言葉に反応できない耳、意識すらはっきりしていなかったが、それもすべて後から思えばの話だった。タナトスに肉体の異常を判別するための医術の知識などない。
だから、異常とわかったのはザグレウスが口を開いた時が初めてだったのだ。
まるでこちらのことを忘れているような…実際、自分のことすら分からなくなっていたが、あの時は分かるはずがなく。
驚きのあまり掴みかかってしまったら、それがとどめになり消えかけのザグレウスの命を摘んでしまった。
もとより助かる見込みのない屍だったと割り切れたらどんなに楽だったか。
「悪い。ちょっと…なんか、記憶が曖昧で、調子が出ないんだ」
雑談の最中もチラチラよぎる違和感を拭えないのか、ザグレウスは額を掻きながら表情を歪める。
思い出さないでくれ。タナトスはついそう願う。
「すまない……俺は…何も」
何もできなかった、どころか、完全に余計なことをした。
「あ、いやいや。タンのせいじゃないだろ」
俺のせいだ。
それを言えばザグレウスにイチから状況を説明しなければならない。そのためには、ザグレウスに他神(たにん)扱いされた上に伴侶の命を自ら縮めたことを改めて自覚せねばならない。思い出すことすら嫌だと、胸の澱がさらに重たくタナトスを苛む。
おそらく話したところで、どうせ死んだんだろ?とザグレウスは笑うだろうことまで分かっていても、できればなかったことにしたいとの願いを優先してしまった。
「何だろう…夢を見ていたみたいな。だとしたら、ヘンな夢だったけどな」
「夢であってほしかった…」
タナトスの恐ろしくか細いつぶやきは、考え事に気を取られるザグレウスには届かなかった。
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