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タナザグ

冥王の館。大広間に、獣のグルグルとした唸り声が断続的に響く。
鮮やかな赤毛をした三つ首の犬は、その巨体よりはるかに小さい王子の手に顎を擦りつけ、満足そうに首と声を震わせた。
向かって右の首は撫でられるのが好きだ、とは王子の談。
だが今日は、暇に空かせた王子により、三つ首と体と尻尾の先までも綺麗に毛づくろいがされていた。
ケルベロスもザグレウスも満足そうにしているが、定位置の周り─つまり冥王の玉座の真横─は獣の抜け毛が散乱しており、不在の冥王が帰り次第大目玉を食らうことは間違いがなかった。なお、片付けが王子の不得手の一つであることは周知の事実だ。
そのため、雑用頭のデューサにその辺の亡霊まで加わり、急いで後片付けが始まろうとしている所だった。

「…何をしているんだ」

呆れた声に振り返れば、死の化身が常と変わらず腕組みをしながらザグレウスの背後に立っている。
「っと、おかえり、タナトス!」
王子は一仕事終えた者特有のハイな声で伴侶の帰還を祝う。しかしその有様は、腕と言わず服と言わずケルベロスの毛がこびりついたひどいものだった。
「…手伝おう」
ザグレウスに任せておくと間違いなく後の禍根となる状況に、タナトスが長いヒマティオンの裾をたくし上げながら近づくのを見たデューサが大慌てで静止に入る。
「い、いいですいいです!タナトス様にそんなこと!こちらは大丈夫ですから…そうだ、あの!ではザグレウス様のお召し変えの方を手伝っていただけませんか?!」
「デューサ、俺は自分で着替えられるぞ?散らかしたのは俺だし、俺も片付けを…」
「分かった。悪いがここは任せる」
分担効率の面でしっかりと通じ合った幹部と雑用頭に無視される形で、ザグレウスはタナトスに引っ張られ自室に連れていかれる。
ケルベロスは礼を言うように一声吠えながらそれを見送った。



「髪は…そのままでは無理だな」
王子の自室。とりあえず毛だらけの着衣はすべて外させて、腰布一枚で風呂上がりのような恰好のザグレウスを椅子に座らせタナトスは背後に回る。
時々使われてはいる様子の櫛を手に取り、まずは棚の埃を払うようにザグレウスの髪に滑らせていく。
「くすぐったい」
「自分が蒔いた種だ。我慢しろ」
落ちる毛が肌に触れてむず痒いと訴えるザグレウスにぴしゃりと言い放ち、タナトスは黒く癖のある髪を梳いていく。
少しずつ櫛の歯を潜り込ませ、流れを調える。黄金の瞳は吸い寄せられるようにそれに集中している。
父親似の色、母親譲りの癖。
タナトスとは肌も髪もほとんど正反対で、身を近づけ合うと、反発しながらそれらが蕩けて混じりあうような錯覚を覚える。そんな色が好きで、死と生の対比をこんなところにまで見出して、タナトスは櫛を持たない方の掌でザグレウスの感触を味わうように撫でる。
絡まった髪に素直に櫛が通るようになった頃には、ザグレウスも髪を撫でられる感触を楽しんでいるようだった。
巨大な鏡越しにうっとりとした表情を盗み見て、タナトスは再びザグレウスの髪に視線を戻したが。

「…タナトスは、俺を甘やかすのがうまい」

唐突にそんなことを言い出すので、不本意ながら一拍遅れて返事をする。

「─おまえの髪の癖も、だいぶ分かってきたからな」
「そうだけど。そうじゃなくて」

ザグレウスは何か言いたいことがあるようだった。無言で続きを促すが、鏡越しに交差した視線がにこりと微笑んだあと、珍しく迂遠な言い方をしてきた。

「さっき、ケルベロスを撫でてやっていたんだ」
「知っている」
「俺が撫でてやると気持ちよさそうだから。ケルベロスは撫でられるのが好きなんだなと思って、暇がある時は撫でてやることにしていたんだ。でも、な?」
そこでザグレウスは黙る。
タナトスが再び無言で待ったが、それの続きはついぞ言葉にされなかった。
ただ、ザグレウスは目を閉じて、タナトスが自分の髪に触れる感触を、言葉の間も止まらないそれを存分に味わっていた。


──撫でられる方が嬉しいから、こっちが撫でてやるんだと思っていたんだ。
けど。
撫でる方も、撫でることで安心するから、触れることで愛おしさを感じるから、つい撫でてしまう。
そんな撫で方を、タナトスがするから。


「…ふふ」
「なんだ」
突然こらえきれないように笑うザグレウスに、タナトスは疑問を投げかけた。
嬉しくてたまらない甘えん坊のような声と表情に、からかいではないことを認める。
「俺は、おまえにこうして触られるのが好きなんだよ」
ザグレウスの返事はまたも抽象的だったが、指先で梳く黒髪の感触があまりにも心地よくて、タナトスからも笑みがこぼれる。

「…俺も、おまえに甘やかされているのか、ザグ?」
「さあ?」

鏡越しに伴侶の含み笑いを見て、ザグレウスは先ほどのケルベロスのように、タナトスの手に自分の頭を擦りつけた。
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