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タナザグ

酒場の卓を挟み、二つの影は酒を交し合っていた。
死の神タナトスと復讐の女神メガイラ。
互いに認める仕事上の良きパートナー、そして、それ以上に通じるところを持つ二柱だ。
こうして共に飲み、仕事以外の会話に興じるのは誰の命令でもない。
とはいえそれを目にする機会は滅多にないが。

「それにしても、おまえがな」
メガイラの滅多に綻ばない表情が、いくらか揶揄いめいてタナトスを見据える。
何のことかは心当たりがあった。
メガイラの次の言葉を待てず、つい口を挟む。
「ザグレウスのことか」
「それ以外にあるの?あの奔放な『若君』と、よくそんな気になったものだ」
「……」
不快ではなく、肯定の沈黙だ。
かつては同じくザグレウスと良い仲であったメガイラに言われると、さしものタナトスも何と返したものか迷う。
「知っていたとはな」
結局、誤魔化すような返答になる。
「おまえが、血相を変えてあれを追っていったと聞いた時から予感はあった。あれには手を焼かされるぞ。覚悟しておけ」
「忠告痛み入る」
どうして、とメガイラは聞かなかった。
きっと彼女には分かっているのだろう。
どうしてザグレウスに惹かれたか、タナトスにはいまだ確たる答えが出ていない。
だがそれを必要としないほどこの結縁には満足している。
手元の酒を口に運ぶと、ザグレウスから贈られたアンブロシアの味が思い起こされてひどく甘美な気持ちになる。
メガイラはさらに見透かすように苦笑した。
「私はおまえほど忍耐がないが、不満話なら付き合おう」
「おまえが評価するほど俺も辛抱強くはない。今回のことで思い知った」
生者や死者に恐れられる神同士の会話に聞き耳を立てようとする者はいない。
その後の話もほとんどがザグレウスに関するもの、はっきり言うと愚痴だ。
ひとしきり文句が済んでからでないと本心に近いところを口にできないのは、双方性格ゆえだった。

「…しかし、この館で、あれほど他の者のことを考えている者はいないだろうな」

メガイラが、ほろりとザグレウスへの評価を口にした。
今日の会話で唯一の誉め言葉に、タナトスは目で同意する。
それはあの王子の美徳と誰もが認めるだろう。
彼によって結ばれた縁、繋がれた絆で冥王の館は満ちつつある。
もちろんその一つがタナトス自身だ。
ザグレウスは――

ふと、メガイラの一言が遠い記憶の片隅を突付いた。

赤い川から魂を拾い上げるように(きっとそれはカロンの役割だが)、タナトスは浮かび上がる情景を手繰り寄せる。
どれほど前のことだったか、正確には思い出せなかった。



◇  ◇  ◇



「吸血鬼、というものがいるらしいんだ」

色の異なる双眸でタナトスを見上げ、幼い王子が懸命に喋りかけてくる。
自分の半分程度の身長しかない彼を、タナトスは黙って見つめ返している。
「師匠にも聞いたんだ。でも、師匠もよく知らないし会った事はないって。もしかしたら、地上にはいないのかも。父上の館にならいるのかな?それか、冥界のどこかかな?」
賢明にまくし立てる様を見ると、どうやら彼は、タナトスはそれを知っているのかと聞きたいようだ。

王子の普段の遊び相手筆頭はケルベロスだ。
アキレウスは稽古の師匠であって遊び相手ではない。ヒュプノスには仕事と睡眠以外の時間がほぼ皆無で、タナトスもまた多忙だった。
たまたま出会えた自分と遊びたいのだろうか。
幸い次の仕事までには少し時間がある。
特に邪険にする理由もなく、タナトスは王子の言葉を丁寧に拾い上げてやる。
「吸血鬼…とは、俺も聞いたことはある。生者より死者に近い存在とか」
「本当か?!どんな奴なんだ?」
「確か、生者の血を啜る異形だと。蝙蝠に身を変えたり、日の射す地上では長く過ごすことができないとも」
「それは、冥界の者ってことじゃないか…?すごいな!そんな奴がいるんだな!!」
タナトスの話に、王子はわくわくと目を輝かせる。
何がそんなに楽しいのか理解できないタナトスの目の前で、王子は突然表情を曇らせた。

「……冥界の者なら、会ってみたい。父上の館にいないなら、どこにいるんだろう?」

「……」
吸血鬼など実在するかもわからない、少なくともこの館にはいない。そう続けようとした言葉は飲み込んだ。
首を落とし、独り言のように床へ呟く王子の前に膝をつく。
臣下の礼ではなく、そうしないと顔が覗き込めないからだ。
「若君…どうしました」
「………」
王子は返事をしない。父譲りの眉が情けなくハの字を描き、小さい唇はきゅっと引き結ばれたまま。
その理由がタナトスにはわからなかった。

多忙を極める実父に追い払われ、いつも館をあてもなく彷徨う子ども。
王子であるがゆえ、赤い血を流す体ゆえ、成長に伴って彼に備わる異質さが浮き彫りになっていく。
それは孤独だろう。
だがタナトスにはまだわからなかった。
彼自身は生じてから父というものを知らず、尊敬する母がいれば満足で。冥界は己の確たる居場所であり、何かを嘆くような暇もなく、務めを果たすことに疑問を抱かなかった。
だからわからなかった。



ザグレウスは、 ――  のだと。



◇   ◇   ◇



「……ザグは、寂しい、のだろうな」

掬い出した言葉を唇に乗せると、メガイラの耳には届いたようだ。
母を求めるのも、全ての『友人』たちに気安く接するのも、抱いた情を臆面もなく示すことも。
迷惑も厭わず他者を求めるのは、彼が幼少から抱き続ける空白ゆえなのかもしれないと。
「――そうかもしれないな。だから最初は私が選ばれた。そして、次はおまえということか」
メガイラの言葉は自嘲を帯びていたが、彼女はすぐさまそれを恥じて訂正する。
その潔癖さをタナトスは信頼している。
「いや、私が言うのも不敬だが、ザグレウスは随分成長した。以前はともかく、今はもう違う」

寂しさを埋めようとして相手を振り回すだけの子どもとは違う。
メガイラが言いたいのはそんなことだろう。
タナトスは首肯した。

「繰り返すがタナトス、覚悟しておけ。子どもじみた我儘が抜けたところで、これからもあいつは何をしでかすかわからないからな」

手に持ったグラスを空にすると、タナトスは笑って心から応えた。


「楽しみだ」


不死の存在に終わりはないが、過去に戻ることもできない。
ザグレウスを知らなかった頃の自分に戻ることは、もうできないのだから。
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