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タナザグ

神は人に神託を与えるほか、地上に顕現することもしばしばある。
信仰を持たない神ならなおさら力を及ぼすために姿を表す。良かれ悪しかれ、望むと望まざるとに関わらずだ。
それがやるべきことである限り時間と同じでいかなる存在にも止めることはできない。
時間は深更を過ぎていた。
地上で己の仕事を果たし、朝を待たずに冥界へ飛び立とうとしていた黒い死神は、何かに気付き動きを止めた。
彼にしか分からない気配があるのかただの勘か偶然か、いずれにせよ運命はそれを彼のもとにのみ導く。
夜の闇と星明りに紛れるように現れた一匹の蝶。
ひらひらと揺れながら、それは意思を持つかのように死神のもとに飛んできた。

「…ザグ、また……」

目深のフードの内側から、思わず、といった調子でタナトスは呟く。
死神の声の抑揚など聴き比べる人間はいない。それにしても、唯一に近いその独り言は感情の響きを多分に含んでいた。
まるでタナトスが使役するかのように周囲を飛び回る青や紫の蝶、の形をしたもの─死した人間の魂と一緒に、その赤い蝶も回収する必要がある。
珍しく、ふと益体もない考えが浮かぶ。
魂が蝶の形をとるのは、花陰に紛れ蜜を求めるように死に惹き寄せられるからなのか。
はたまた自ら炎に飛び込む蛾と同じなのか。

手を差し出すと、赤い蝶は静かに指先にとまる─音も感触もなく、指先に触れて動きを止める。
そんな筈はないのに熱さを感じた気がしたのは、おそらくタナトスの内から発するものだ。
持ち主の葉冠の炎にも似た羽根をぱたぱたと揺らし、光が火の粉のように飛び散るが如き幻影を見せる。
そんな僅かな反射も見逃さないほどタナトスはそれを注視する。せざるを得ない。目を離すことなどできなかった。

(…これで二匹目か。手こずっているようだな)

地上の魂は蝶の形をとる。蝶の形をした魂を集め冥府へ送り届けるのがタナトスの役割の一つ。
つまりこれで、「魂」を捧げたと「死神」は騙されたことになる。
よってザグレウスは今すぐ冥界に戻る必要はなく、またタナトスが迎えに行く必要もない。おかしな話だが、いくつもの同一の「魂」を形式的に回収しても、運命の三女神の定めは条文に従ってさえいれば許容するものらしい。
それを覆すことのできない身としてはその鷹揚さを感謝すべきなのかもしれないがな。
会ったこともなく特段の情も抱かない妹たちに比べ、我が伴侶へ抱くそれはタナトスの世界を一変させた。
ザグレウスの本物の「魂」は誰にも触れられない。
魂を導く自分でさえも。
それをたまらなく誇らしく感じる己に気付いたときはひとり驚いたものだった。騙されて嬉しい、などと認めたら、メガイラになんと言えばいいのやら。

王子の仮初の死を知ったタナトスは、思わず地に視線を落とし思いを馳せる。
いまは、エリュシオンの中腹あたりか?絶えず姿を変える冥界では近くにいてようやく察せられるだけで、こうも離れていては気配も探れない。
当てずっぽうで助力に行こうにも今日は仕事で手一杯。昨日もその前も、明日も明後日もこれからもずっとだ。

「………」

顔を上げて目を細め、指先で羽根を休める蝶に見入る。
命の代償、血で作られた偽りの魂の形。
それは呼吸するようにゆっくりと羽根を開閉させている。
─これは、ザグレウスがひどく傷付き苦しんでいる証だ。だというのに。
耐えてほしい。慈しみたいと願ってやまない思いの果てを見透かすようにそれは揺らめき輝く。

自らの生命力で偽の魂を造る能力は、冥府の鏡がザグレウスにもたらした力のひとつと聞いた。
当然、回数に制限があるとも。
いま出来るのは多くて三回までだとこともなげに言っていたのを、無表情の下で沸き立つ感情を抑えながら聞いていた。

どうしても死が避けられないのならば。
これが誰よりも愛おしい伴侶の命のひとつだと思うと、花占いの花弁が散り尽くす時を待つ乙女の心持ちはきっとこういうものなのだとすら感じる。


(ザグレウス、もうすぐ、館で会える──)


束の間、炎のように揺らぐ血の色の蝶にすべての意識を釘付けにされ、惚けるように緩んだ唇は満足げな弧を描いたように見えた。
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