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タナザグ

常に闇に沈む地底の奥底に、永遠に眠らない世界がある。
冥界の王子は、彼の居室で彼の伴侶と酒を酌み交わしながら、昼夜の別ない時間を過ごしていた。
眠らないといっても睡眠は存在する。ただし、存在の終わりを意味する永遠の眠りは訪れないのが、人間と神々との唯一の違いだ。
冥界を冥界たらしめる死というものが人格をもった存在──そんな表現をされることもあるそれが、ザグレウスの目の前にいるタナトスだった。


「さて…」
うーん、とまるで眠たいかのような伸びをして、ザグレウスは席を立つ。
「そろそろ仕事に行くとするかな」
人間が存在する限り終わらない仕事を抱えるタナトスを差し置いてザグレウスがそれを言うのは、どちらかといえば珍しい光景だった。
「…少し前に戻ったばかりではなかったか?」
「俺だってたまには勤勉になるさ。やる気があるうちにやっておかないとな」
鉄面皮にいかなる感想も浮かべたつもりはないが、言い訳のようにザグレウス自身が言葉を継ぐ。
彼の軽口は虚勢の現れであることが多い。タナトスは経験でそれを知っている。
どれほど偉業を成し遂げようとそれは変わらない癖のようだった。

自らも席を立ち、声が届きやすいよう少し歩を進めてザグレウスの横顔に告げる。

「おまえはよくやっている。あまり根を詰めるな」
「いやそれおまえが言うか?」
窘めるような響きを持ったタナトスの声に、ザグレウスの声も束の間彼らしい明るさを取り戻す。
だがすぐに、その瞳は焦点を失ったように澱んだ。
「…動かないと体が鈍るし。それに、動いてなきゃ…それこそ、死にそうだ」
完全に無意識なのだろう。やはりよくない兆候だとタナトスは思った。

メガイラ本人曰く、ザグレウスとは似ているようで違うという。彼女は自ら進んで死にに行ったりはしないと。
母ニュクスから聞いた─おそらくは意図的に教えてくれた─ペルセポネ王妃が母親として抱えている心情。
能天気を地で行く弟ですら、ザグレウスが館に帰るのを出迎えるのは嬉しいけど…と言葉を濁していた。
全てに同意できる。
結局のところ、思うことはみな同じなのだと。

「おまえの意志は分かった、ザグレウス。
 だが今日は俺に付き合ってもらう。」

ザグレウスが振り向くよりも、タナトスがその腕を捉えて引き寄せる方が早く、また迷いがなかった。




「……………!!!」
転移の感覚に思わず息を詰めていたザグレウスは、地を踏む感触で弾かれたように辺りを見渡した。
タナトスの身体を越えて目に映るのはみどりの景色。空気は穏やかで心地よく適度に涼しい。
さわさわと葉擦れの音に似るのは、突然現れた二柱の神に驚き、通りすがりのエリュシオンの亡霊が逃げていく音のようだった。
ひとまず見知った場所であることに警戒を緩めたザグレウスを、タナトスはそっと離してやる。
その意図が読めていないザグレウスは、少々喧嘩腰のまま口を開いた。

「…なんだよタナトス!俺を巻き込んでサボりか?!」
「休暇だ。俺に息抜きとは何かを教えたのは、おまえだっただろう」
「そうじゃなくて!いやそうだけど、今はそうじゃなくて!」
ザグレウスは苛立っているというより、どこか焦っている様子だった。
何かに急かされるように、常に急き立てられているようで、いつも余裕がなかった。そんな少し前までのザグレウスと似ている。
要するに強制的に休みを取らされたのだと理解すると、ふてくされたようにザグレウスは視線を逸らせた。

「………俺だって仕事をしないと。好きでやってるんだから、余計な気を回される筋合いはない」

「分かっているつもりだ。
 だが、自分がこれまでどんな顔をしていたかは、おまえ自身がまるで分かっていなかっただろう?」

タナトスの言葉に疑問を覚えたようだったが、問い返そうとした唇は金色の視線に捉えられ固まってしまう。
冷徹と言われる死の化身の目が驚くほどにやさしいことが、逆に居辛さを感じさせているようだった。
ザグレウスをこれ以上怯えさせないよう静かに、タナトスはそっと近づいて手に触れる。
まるで騎士が忠誠を誓う仕草のように、掬い上げた手を胸の高さで包み込むと、ようやくふたりの視線がかち合った。

ザグレウスはもう成長した。生半可な存在など及ぶべくもない立派な神となった。
だがいかなる全知全能だとしても完全無欠な存在などない。助けがいるのだ。どんなものにも。
俺たちは死なないだけの肉体と、情も過ちも持ち合わせた精神を抱えた不完全な存在なのだから。


「…ザグ、俺に願う資格があるのなら、言わせてほしい」


周りの音すら消え入るような静かな懇願に、ザグレウスは息を忘れるほどに見入る。


「頼むから…、死ななければ自分の価値がないなどと、思わないでくれ」


包んでいた手に己の額を擦り付け、死の化身は死を厭う言葉を口にした。
ひどく矛盾しているがおかしいとは思わない。タナトスの願いは、今までもこれからも何一つ変わっていないのだから。
ザグレウスに死んでほしいなどと思っていない。
そう願うのは自分だけではないことも知っている。知らないのは、当のザグレウスただ一人なのだ。

王子に任されたのは、冥界の脱出を阻む仕掛けの点検。それすなわち過酷な試練の連続だ。
たとえ全てを突破しても、彼に定められた運命ゆえにいずれも待つのは死。
どれだけ死を繰り返し、どれだけ慣れたとしても、死に至る道は苦痛でありその耐性を完全に得ることはできない。
繰り返せば繰り返すほどに摩耗し、いずれは失う。
ザグレウスの進む道はそういうものだ。止められはしないが、傍観することなどできるはずもなかった。

傷つきながら、身と心を削りながら、己の存在を守ろうと足掻く者を。
それしか方法がないと思い詰めてしまっている愛しい存在を。


「………タナトス」

少しだけ憑き物が落ちたような顔で、ザグレウスはタナトスを見つめている。
生憎まだ話は終わっていない。一番伝えたいことは告げたが、まだ大事なことが残っている。
すっと顔を上げたとき、タナトスの表情はすでに平時のそれに戻っていた。口調までいつもどおりで、ザグレウスも思わずつられてしまうほど。

「話を少し戻すが、サボりとは心外だ。俺はきっちり許可を取った上でおまえを連れ出している」
「…ぅん?隠れて俺の手助けをしていたおまえの、その言い分を信用しろと?」
真顔のタナトスに軽口というか皮肉で返すザグレウス。そして嫌味を平然と受け流すタナトス。いつもどおりだ。
「俺はおまえと違い、手続きは重視する方でな」
言いながらタナトスが懐から取り出した一枚の羊皮紙をザグレウスは目で追う。
視線を誘導しながら、スルリと開かれた紙面をザグレウスに向け、内容を一言で説明してやる。

「俺の判断でザグレウス王子の職務を一時中断させて良いものとする…との旨を記した盟約の書、冥王陛下の署名入りだ」

ザグレウスは明らかに言葉に詰まった。
タナトスの説明を疑うわけでも理解できないわけでもない。ただ一点、すぐには信じられず言葉にできないそれを、タナトスが代わりに形にしてやる。

「ハデス陛下が、お認めになったんだ、ザグ。」

噛んで含めるような言い方だった。そうでないと、ザグレウスの心からあふれてしまうだろう。

「おまえが不要なまでに死を繰り返す必要はないと。」

「………………」

すなわちそれは、冥王としての立場に父としての心をもって、王子の置かれた立場に息子の苦痛を慮って。
死ぬことでしか役に立てないなどということはないと。
厳格で短絡的で強情な父親の、周りにお膳立てされてようやく示すことのできた、細やかすぎる愛情なのだろう。
だがきっとそれが、ある意味最もザグレウスに必要な精神のピースだった。


放心してしまったザグレウスの目の前で、件の羊皮紙をするすると巻きながらタナトスは口を開く。

「盟約の書は存在する限り効力を発揮する。おまえの手元に置いておいても構わないぞ?」
「…………いらないよ」

怒っているわけでもすねたわけでもないような、戸惑いを隠しきれない子どもの返事だった。


ああ今日ばかりは、折角の機会とはいえ逢瀬とは呼ぶまい。
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