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タナザグ


❀ ❀ ❀


「──ッッしゃ!!」

公式任務の一環となって久しいザグレウスとの勝負。その結果、勝利者が珍しく拳を引き絞り声をあげた。
なぜそんなに自分に勝ったことが嬉しいのかと首を傾げる間に、興奮冷めやらぬ様子でザグレウスはタナトスのもとに駆け寄ってきた。
何にせよ自分のやることは変わらない。
愛しき伴侶の、この先の道行きに生存の可能性を少しでももたらせるようせめてもの贈り物を。
死の化身として矛盾していると言われればそのとおりだが、ザグレウスの無事を祈ることのほうがタナトスにははるかに重要だ。
「見事だ、ザグ」
「嬉しいが、今日はいいんだ。タナトス」
だが、当人から辞退の申し出をされタナトスは再度首を傾げることになる。
「その代わり、俺のいうことをひとつ聞いてくれ」
「…今回は妙に気合が入っていると思ったら、そういうことか。望みはなんだ?」

さすが、今日勝ったら頼もうと決めていたんだ、と悪戯っぽく笑うザグレウスに思わずつられそうになる。

後出しの交換条件は本来なら聞くに値しないが、伴侶の頼みを無下に断る気もタナトスにはない。それと同じくらい無茶を言い出す王子への警戒心も持ち合わせているからだ。
「それはまた後で。その時になったら言うよ」
ザグレウスが何かを企んでいるのは明白だったが、珍しくないことと流していた。
無茶を言い出す王子への警戒心は持ち合わせていた。はずだったのに。

承知したと頷き、別れ際に笑ったザグレウスに何ら変わったところはなく。
何をいまさらとタナトスも苦笑するだけだった。

「聞いてほしいんだ、俺の我儘を」



❀ ❀ ❀



地上には数多の土地があり、場所によっては二つないし四つの季節があるという。
タナトスやザグレウスが足を踏み入れた土地はそこまで気候の変化はないが、植物の移り変わりがきちんと時季を知らせていた。
目まぐるしく騒々しい地上にタナトスはいまだ馴染めないが、ザグレウスにはまだ陽の光も地上の様子もすべて珍しく、連れて行くと喜ぶため、幾度となく共に地上を歩くようになっている。
今日は、花が見たいのだと言っていた。
冥界の名を冠する白い花。
地上に枯れない花はないはずだがと思いつつ、これまで気にも留めなかったそれらも、ザグレウスと共に見るなら良いかと思う。
ザグレウスが喜ぶのならと。
我ながらなんとも現金な変わりようだ。

「本当にきれいだな」
草原のそこかしこに顔を出す背の高い無数の花。
確かにこういう色合いの風景は冥界では見かけない。一抹の不安はあったものの、遠出をした甲斐はあったか。
風が通り抜け、草木がざわめき、柔らかな日差しを反射して白い花弁がより白く輝く。
タナトスがいつもそうするようにその光に顔をしかめると、ザグレウスも似たような表情を浮かべ溜息を吐いた。
そのあと幾度も同じように息を吐いては大きく吸う。俯き加減の口元から漏れる吐息は、それでも徐々に早く浅いものへ変わってきていた。

…限界か。
ザグレウスは口にしないが、タナトスも確認などせず、自分の黒衣を手繰り寄せ相手の肩を優しく包む。

「ザグ…そろそろ」
同伴者を連れての瞬間移動が可能なタナトスとはいえ、冥界への帰路を考えると、そろそろここを発った方がいい。
もう少しとごねられたらまた来ればよいと言おうと思っていたが、ザグレウスは黙ってその場に膝をつく。
思ったより消耗していたのかと思ったら、足元の花を触りたかっただけらしい。あるいは燃える足で踏まないように避けただけか。
そんなに気に入ったのならまた連れてきてやろう。
その瞬間まで確かにそう思っていた。うっとりと花を見つめながら告げられた、ザグレウスの次の言葉を耳にするまで。



「…なあタナトス。今日はこのまま、ここで花を見ていたい」



「……?!」
返す言葉を失う。
ザグレウスが言いたいこと、それが意味するところを、タナトスは一分の誤りもなく汲み取ったために。
「…なにを…」
「…約束、したろ。我儘ひとつ、聞いてくれるって、」
「!!」
顔を上げたザグレウスの微笑みと目が合う。汗が一筋、どちらの頬にも流れる。
ザグレウスは膝をついたまま立ち上がろうとしない。
タナトスは急いでその傍らに寄り添い、ザグレウスの体を胸に抱き寄せる。
死神に生者の脈をとるという習慣はないが、こうして触れれば分かった。ザグレウスの生気がほとんど失われていることが。
ザグレウスは隠していたのだ。
今から冥界に戻ろうとしても手後れになる時まで。

「俺に……おまえを看取れと?」

抱き寄せた手にタナトスはより力を込める。知らず唇が戦慄いた。
なぜだ。なぜそこまでして。
すでに体に力が入らなくなっているザグレウスが、その腕に体を預けてきた。何一つ取りこぼさないよう必死に受け止めると、仰向けで上半身をタナトスに支えられる姿勢になる。
顔がよく見えて嬉しいだなんて、狼狽しているタナトスにはわかるはずがない。

「……最期までおまえと一緒にいられたら、どんな気分がするんだろう、と思って」

ザグレウスは弱々しくされど笑う。
「最悪だ」
タナトスの返答は、明瞭で哀しく力強い。
「最悪の気分だ……ザグ」
「ハハ……ごめんな。でも俺は、悪くない、気分…だよ」

ゆらりと持ち上がったザグの手がタナトスの頬に触れた。
その指は、確かにタナトスがこれまで無数に見てきた死にゆく者のそれ。それがザグレウスのものであるというだけで、これほどまでに胸が抉られる心地がするなどと。
痛みを伴う感情の奔流が絶え間なくタナトスを襲う。

ザグレウスの胸も感情で溢れそうだった。
冷徹な死の化身の、こんなにも怒りと悲しみを顕にした表情を向けられるなんて。俺のせいで。俺のために。
苦痛よりも申し訳なさよりも、嬉しさが勝ってしまった。
きっとそうだろうと思っていたけど。このことを思いついてから、その誘惑に自分を止められなかったのだから。
逃れられぬことを目前に、逃すまいと自分を包む腕に残された力で頬ずりをすると、より強い力で抱き締められた。
少し苦しい。そろそろ声も出ない。ごめん、ともう一度謝っておきたかった。
タナトスも唇を噛み締めて黙っている。何か言いたげで、何も言えない様子で。

足元に、周囲に咲く白い花弁を視界の端に捉えながら思う。
不死身を象徴する花に囲まれて死にゆく神など、滑稽もいいところじゃないか。


「…また、館で、会おうな」

霞んだ目にほとんどタナトスの姿は映らなかったが、耳だけは最期まで明瞭というのは本当なんだな。
返ってくる声は驚くほど震えていた。

「…馬鹿。俺はしばらく、帰れないぞ」

そうか、忙しいんだな。悪いことをした。

「──まって、る、か ら」


最期の息と共にザグレウスの瞳が閉じ、すべての力が抜けた。
なお縋るようにタナトスは体を抱き寄せる。
また会えるというのに。真の死ではないのに。待ってくれという願いを込めて抱きしめずにはいられなかった。



ぱしゃん

死者を運ぶ赤い水が指の間から流れ落ちる。
二柱だった神は、一柱が去り、一柱が残される。それ以外に地上に何も変わりはない。



「───二度と、おまえの我儘は聞かん」



憤りを込めた独白を聞くのも、辺りに咲く花のみだ。





❀ ❀ ❀





──はい、ええ。わかってます、匿名でね、お願いしますよ。はい…はい。私もね、この館に仕えて少しは長いので。
ええ、先日のことですよね。例のごとく箝口令は敷かれていますけど、まあ冥界内では周知の事実というかね。
ザグレウス王子とタナトス様ですよね。はい。一騒動ありましたよ。ありましたというか、今も影響は続いてるといいますか。
おふたりとも何度も館を出入りされていたように思いますが、しばらく顔を合わせていらっしゃらなかったんですかね?いつもなら西館の方で王子の帰りをお待ちになっているタナトス様がですね、王子がお帰りになったと見るや、ステュクスの泉にもう飛び込むような勢いで入られまして。
こう、王子は館へお帰りのときに、泉から上がってこられるじゃないですか。そこにタナトス様が水を蹴立てながら分け入られて、王子も大層驚いていらっしゃって。
それで、思わず逃げようとなさる王子を捕まえて。たまたま見ていた我々も思いましたよね、まさか拳をあげられるのか?って。反逆なのか?と。あまりの勢いに誰も静止できませんでね。
でもまあ御存知の通り杞憂だったんですよね。
タナトス様は、そのまま王子を掻き抱かれて。それはもう絶対に離さない、って風情で。
泉の中のせいか、生き返られたばかりで体が動かないのかな、それは存じませんが、王子もなんとか引き剥がそうとはなさっていたんですが…、ああ、単純にタナトス様の力に敵わなかったんですかね?
それでそのままこう、辺りの亡霊の目も憚らずですよ?あのタナトス様が?そりゃ我々だって思いました。我が目を疑いましたよ。
そのまま王子を抱き上げられまして。
いや、おふたりが恋仲でいらっしゃる噂は耳にしていましたが、あれはその…恋人になさるというより、子供を抱えるに近いような。ああ、不敬でしたね。しかしそうとしか見えなかったですよ。王子は始終焦っていらっしゃいましたが、タナトス様の表情までは私からは見えませんでしたから。
それでそのまま、タナトス様が王子を抱えられたままです。泉を上がってこられまして。
側を通られる時にようやくお声が少し聞こえたわけです。決して盗み聞きしたわけではなくね、ええ、聞こえてしまったんですよ。不可抗力で。
「本当に悪かった」「降ろしてくれ」「今度からちゃんと話す」と仰る王子と、「離すと思うか」「あんな風にひとの気持ちを蔑ろにする奴だとは思わなかった」「おまえの言うことは聞かん」と繰り返されるタナトス様、まあ真っ向から言い争っていらっしゃる感じでした。察するに、王子がまた何かしでかされたのでしょうね。王子はまあ、悪気なくああいうお方ですからねぇ。いやまたしても失言でした。
でも言葉ほど怒っていらっしゃる様子でもなかったというか、タナトス様はとにかく王子を大事に大事に抱えて行かれた様子でした。
冥王陛下がご不在なのもあったのでしょうが…。そのまま東館を通って、まあ王子の部屋まで行かれたのではないですかね?自分が見聞きしたのはそこまでです。普段の厳かな館内からすれば大事件でしたよ。あの時見ていた亡霊たちに聞けば、皆口を揃えてそう言うはずです。
………あ、いや、もうひとつありましたかね。いや事件ではなくてですね。たぶんこれに関係することだと思いますでね。
これもたまたま、たまたまですよ。酒場の隅で馳走に預かりました時、メガイラ様とあの、ゴルゴンの頭のお嬢様がいらっしゃった近くの席におりまして。
メガイラ様が大変お楽しそうにね、話していらっしゃったんですよ。「タナトス(様)の情緒不安定を宥めるのもザグ(レウス)王子の公務のひとつになったわけだ」というようなことを。「自分で撒いた種だから当然だ。手を貸す気はない」というようなこともね。
私にはなんのことだかさっぱりでございますが、まあメガイラ様は幾ばくか事情をご存知なのでしょうねぇ。
笑っていらしたのも悪意あってには思われませんでした。
まあ口さがない者の中には、王子が皆の前で恥をかかれたと、いい気味だと言っている者もいるようで。王子が署名された規約によって時間外労働を課せられた腹いせと聞いておりますで。単なる憂さ晴らしですな。仕事の一環なのだから文句を言う筋合いではないでしょうに。いや、私は違いますよ。そう言っているのは外勤の方で、私は内勤でして…ああ、いやいや。本当にもうここまでで…はい。
…まあ正直にね、館内でああいったものを見られるのは、楽しくもありました。神々のお姿を見るだけでも我々には楽しみといえますから。
大っぴらには口にしないだけで、お二人の睦まじさはもうしばらくどこかでどなたかの酒の肴になっていることでしょうねえ。
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