アル・サウラの狼煙【執筆中】
Ⅱ ハタヴを焚べる
ファラウラとの対話を終えたセノ、カーヴェ、ハフィズ、イムランの四人は、キャラバン宿駅にある出店で昼食を摂っていた。キャラバン宿駅唯一の宿である『金砂の旅』にも様々な人が集まるが、出店にはそれ以上に多様な人物が現れる。何せ買い物を目的とするだけなら、出に出店に立ち寄るだけでいいのだし、それに様々な客を相手にする店主たちにこそ情報というものは集まるものだ。
セノたち四人はそこで昼食を口にしながら、周りに集まる雑輩たちから聞き込みを行っていた。ある店主の話では、最近砂漠から来るエルマイと旅団の者たちが皆険しい表情を良くしているらしい。すると口々に皆こう言うのだ。
――俺たちの仲間を知らないか? と。
もちろん店主は彼らの仲間を見た覚えはなく、特徴を述べられても該当する人物はここ最近では訪れなかったとの旨を伝えた。するとそのエルマイト旅団の者たちは他の人間たちにも聞き周り、やがてここにはいないと諦めたのか砂漠に帰って行ったという。
また一行揃ってピタを食していたところに、エルマイト旅団の青年たちがある噂をしているのを耳にした。聞き耳を立てれば、ここ最近妙な機械を操る旅団員がいるらしいとの内容だった。その噂の内容が気になった四人は、早々にピタを平らげ、その青年らに声を掛けた。
「その話、詳しく聞かせてくれないか?」
セノが率先してそう声を掛ける。知らない人間から突然声を掛けられたことに旅団員の青年たちはやや驚きを見せるが、セノの後ろにいるイムランとハフィズの学者服を見て何かを察したようだった。
「大した内容でもないと思うぜ。俺達もただ噂で聞いただけだからこの目で本当に見たわけじゃないんだが、どうにもその変な機械でキノコンたち? をこう…捕まえてたのか何してたのか知らないが…とにかく元素の流れを変えちまう装置を持ってる奴らがいるみたいなんだ」
そんなものどこで手に入れたんだろうな。いやいやどうせただの噂だよ、と青年たちは噂を信じきっていない様子で笑いの種として済ませた。セノは青年たちに感謝を述べるとその場を去り、人気のいない場所――キャラバン宿駅の外まで三人とともに移動し、それぞれ得た情報からの推測を論じ合う機会を儲けた。
「カーヴェ。お前から見て、青年たちが言っていたことはどう思う?」
セノはまずカーヴェからの見解を聞こうと彼に話題を振った。どうも青年たちの噂話を聞いてから、カーヴェは何か思い詰めるような表情をしていることに気付いていたからだ。
カーヴェは唸るように腕を組むと、眉間に皺を寄せながら口を開いた。
「元素の流れを操る機械に関して言えば、正直妙論派でもよく議題に上がるほど、今までも造られてきてはいる。それは君たちもよく知っている事だと思う。特に素論派であるセノなら、必ず耳にしたことがあるだろう?」
「ああ。過去の産物も学生時代だった頃もよく耳にしていた。ただ、やはり元素を操ることは難しいのか成功した例はあまり見かけないし、しても用途の難しいものばかりだった記憶がある」
「そうなんだ。元素を扱う研究はそもそもの難易度が高く設定されがちだ。何せ扱いが難しい上に、用途も限られてくる。実験をしようにも大体の場合は危険が伴うことがほとんどだからね」
カーヴェはまるで自分の過去を話すように言葉を述べていった。実際に過去、教令院にいた時代にその類の研究を行ったことがあったのだろう。
そんなカーヴェだったが、そこまで語った後、まるで罪を告白するように瞼を伏せ、一息吐いて続きを語った。
「それで、これは僕の自論なんだが…。元素を扱う機械の研究が一般的に難しいとされるのは、神の目を持つ人間が限られているからではないかと、僕は思うんだ」
そう言ったカーヴェのセリフに、同じく神の目を所持しているセノは、その聡明な頭脳で、その先に彼が語ろうとしている事実を予測して息を飲んだ。イムランとハフィズは、それでつまり? と言った表情でカーヴェの話の続きを促す表情をしている。それにカーヴェは応えるように話した。
「僕はこの神の目を手に入れた後、それまでの悔しさの全てを注ぎ込むように、元素の流れについて研究した。そして元素を四散することが出来れば、例え神の目を持たない人たちでも、より元素生物の魔物たちを相手に有利に立ち向かえるんじゃないかと思って、一つの機械を造ったんだ」
でも…とカーヴェは続ける。
「それを作った後、気付いたんだ。たとえ元素の流れを四散出来たとしても、使い道は限られてくる。それに僕やセノのように神の目を持つもの、錬金術で元素武器を作って闘う者達がその場にいるなら、ただの邪魔にしかならないと」
だから僕はその機械を破棄した、と、カーヴェはそう言った。しかし話はここでは終わらないらしい。カーヴェは己の過去を悔いるように片手で顔を覆い、さらに語り続けた。
「だけど僕は…その機械の設計図を捨てることは出来なかったんだ。本当によく出来た作品だった。だからこそ、いつかこの機械が活躍する日が来るかもしれないと思って、教令院に申請だけを出して設計図の所有権利だけは得ていたんだ」
「それってつまり、さっきの噂で聞いた機械というのは、カーヴェさんが設計した物かもしれないということですか!?」
ハフィズが思わず驚いた表情で尋ねる。カーヴェはその問い掛けに何か勘違いをされているのではないかと思い、慌てて弁論の意を唱えた。
「いや、違うぞ! 僕が実際に使った実物はきちんと分解して破棄したんだ。そのあとその部品の一部をメラックを作るのに利用したり、他の物を造るの再利用した。そこら辺に捨てたわけじゃ断じてないぞ!」
そう捲したてるカーヴェに、ならどうしてこの話を? と言った表情でハフィズは返す。重要なのはここからなんだ、とカーヴェは添えて言った。
「今から四年くらい前か、ある男が僕の元に訪ねてきたんだ。一体誰から聞いたのか、元素を四散させる機械があることを聞きつけて僕の元に訪れたらしかった。男からは『砂漠で活動したいが魔物に襲われると堪らないから、良ければ設計図を売ってほしい』と言われた。それで僕は…」
カーヴェは一息吐いて、自嘲するように笑った。
「やっと誰かの役に立つ日が来たのかと嬉しくなって、その男に機会の設計図を渡した。男の名前はええと確か……。そう、『ターリブ』。因論派の学者だった」
依頼連絡は取ってないが…と言葉を続けるカーヴェどったが、セノはカーヴェの口から出た『ターリブ』という名前を聞いて驚いた。それこそ彼の言う四年前――セノがマハマトラ就任した頃に、突然声を掛けられ接触してきた男であったからだ。
「ターリブという男なら俺も以前に…カーヴェと同じく四年ほど前にあったことがある」
セノのその発言に、一同はセノを振り返り彼の話を聞く。
「大した接触はしてないぞ。ただ…」
あまりいい印象は抱いていないな、とセノは言った。
セノがターリブと出会った頃、セノはまハマトラに就任したばかりであった。マハマトラに就任する際に、現在イムランやハフィズたちが着ている学者服を脱ぎ、今の装束へと変え、自身の覚悟と決意を胸に刻んだ折に彼は現れた。
緑を基調とした学者服に、ラピスラズリの色を携えた髪を後ろで束ね、両耳に金のピアスをつけた男。彼はセノの装いを人目見た時、熱い眼差しをセノに向けた。視線に敏感なセノがそれに気づかない訳もなく彼のことを睨み付けると、彼はまるで興奮を抑えられないとでも言うようにセノに近づいた。そしてこう尋ねたのだ。
『君は砂漠出身だと聞いたが、本当か?』
セノはその質問に何か身の毛のよだつ気味の悪さを感じたをのを覚えている。そしてセノはこう返した。『そうだとして、俺に何かようでもあるのか』と。
それにターリブは『いいや』と返す。ただその事実を確認したかっただけだと。そして何も言わずに何やらブツブツと口ずさみながら、その場を離れていった。
学者なぞ大抵は何かしらに狂った変な生き物であることが多い。だからこそあの男のような理解不能な行動など、この数年でもう見飽きるほどに見てきたのだが。
セノは若干の薄気味悪さを覚えながら近くに居た者に、彼が何者であるかを尋ねた。そこでセノは初めてその者が『因論派のターリブ』という男だということを知ったのだ。
そこまでセノは三人に語り、ターリブという人間の怪しさに思考を巡らせた。
彼が因論派であるならば、かつてキングデシェレトの国であった砂漠に学術的興味を示すことは何も不思議なことでは無い。むしろ因論派――ヴァフマナ学院は、キングデシェレトの残した理論に対する否定と反省、そしてその中から様々な社会学科を生む学院である。故にスメールの歴史学、社会学などを重点的に学ぶ学院もである。
しかしそれらを学ぶために例え砂漠に行くとしても、実物の文字や建物、引いては元素を研究している訳でもない因論派の人間が、わざわざ砂漠に行く理由とはなんだろうか。今は廃れたかつての病院だった場所、あるいはアアル村……。どちらにせよ、元素を四散させる装置など、因論派である学者が必要とするのは一体どういった場面での用途を指すのだろうか。
一行は『ターリブ』という不可解な言動をする男についても詳しく調べる必要があると見て、カリールを探すついでにかれのことも調べようと、再びスメールシティへと向けて歩き出したのだった。
꧁——————————꧂
蒼々と生い茂る森の中をまた戻り、セノたち一行は神のいる街へと帰還する。四人がまっすぐ向かったのはもちろん、この国の中枢としての役割を果たす、かつては草神の牢獄であった教令院。そして教令院の豪奢な扉を潜り抜け、噴水の広場を通り過ぎ、ヴァフマナ学院の門を開いて、現賢者の執務室まで迷いなく向かって行った。
現因論派の賢者はかつてアザールが画策していた創神計画に、生論派の賢者であるナフィスと共に反対したために一時期はナフィスと共に幽閉されていたが、かの事件が旅人やアルハイゼンの協力の元解決されてからは解放され、今は以前と同じく因論派の賢者としてヴァフマナ学院を支えている。
そんな彼は今、賢者の執務室で机に向かい書類と向かい合っていたが、扉をノックする音で顔を上げ、「どうぞ」とセノたちが中に入ることを許した。
扉を開け入ってきたのがまさか大マハマトラのセノであるとは思わず、賢者は驚いて席を立つ。
「セノ様! どうしてこちらへ? 何事かありましたか?」
彼は慌ててそう尋ねる。セノやセノに続けて入室したカーヴェやマハマトラの二人に何事かあったのだとすぐにでも察した。そんな彼の問い掛けにセノは、時間は有限とばかりに担当直球に聞きたいことを尋ねた。
「突然押しかけて済まない。因論派の学者の中に『ターリブ』という男がいると思うのだが、彼が今どこにいるか知らないか?」
「ターリブ、ですか?」
賢者はやや戸惑いの表情を見せる。その様子にセノは眉をやや顰めるも、彼からの言葉の続きを待った。
「彼ならもうこの学院には所属しておりません…。数年前に学者を辞めると突然辞表を突き出して、おそらくすメールシティからも移住していると思います」
その言葉に、一同は意表を突かれたように身を見開き驚きを顕わにした。そしてセノは続いて質問を投げかける。
「ターリブが辞表を出したのは何年くらい前か覚えてないか?」
「たしか…四年程前だったと思います」
四年前――カーヴェと接触していた時、既に辞表を出して学者を辞めていたのかは分からないが、少なくとも同じ年の出来事である事がわかった。
「シティからも移住していると言っていたが、どこに行ったか分からないか? だいたいでもいい」
セノは続けて尋ねる。それに賢者も顔を顰めて当時のことを思い出しながら、答えていった。
「あくまでもこれは私の推測ですよ。彼が住んでいた家はシティ内にあったのですが、たまたま以前私が前を通った時にはもう別の方が住んでいましたので、移住したのかと…。兼ねてより彼は、砂漠に対して他の人よりも熱心な感情を持っていましたし、恐らく砂漠の方へ行ったのではないでしょうか…」
彼から直接話を聞いたわけではないので何とも言えませんが…と賢者は自身の知りうる限りの情報をセノに伝えた。それにセノは頷く。賢者は、しかしどうして彼を探しているので? とセノに尋ねた。
「今朝から教令院の書記官が行方不明になっていてな。砂漠の方でも行方不明者が多発していて、そのこととターリブに何か関係があるんじゃないかと鑑みて現在捜索中なんだ」
今度は賢者が驚きを示す番だった。書記官と言えば、件の事件で自分やナフィスを救い出す計画を立て、そして実行してくれた方だ。まさかその彼が今行方不明だなんて、と因論派の賢者は顔を青く染めた。
「もし私に何か出来ることがあればご協力致します。無事に見つかることを願ってます」
賢者はそう言い、セノたちに積極的に協力の意を示した。日も暮れてきた頃、セノはその後賢者から以前のターリブの住所を聞き、明日の朝最初にそこを訪れようと一同は一度解散し、それぞれの家に帰宅することになった。
教令院から出てさほど遠くない坂道を下っていく。赤く人の高さほどある大きな壺が傍にある家まで歩いてきて、カーヴェはポケットに手を突っ込んだ。
アルハイゼンとは対になる金色の鍵を取り出して、鍵穴に差し込み、かチャリと音がするまで回す。そしてつき取り、もしかしたら何食わぬ顔で帰っているんじゃないか、なんて淡い期待を持ちながら玄関を開ける。がしかし、やはり玄関を開けた先は真っ暗で、物もカーヴェが出ていったきり動いてなどおらず、彼が帰ってきていないことは明白だった。
カーヴェは肩を落とす。誰もいない家に帰るなんて慣れたことであったはずなのに、アルハイゼンと住んでからというもの、ここが彼の家だということも相まってか、彼のいない家に帰るのはこれ程までに悲しさを生むものなのかと、カーヴェはその現実から逃げたいような心地になった。一瞬酒場へ行って時間を潰そうかとも考える。しかしもし、この後にアルハイゼンがひょっこりと帰ってきたら? そんなことを考えてしまうと、酒場になんて行けなかった。彼の家を――自分たちの家を守るようにカーヴェは玄関から中へと入り、そして内側から施錠した。
アルハイゼンのいない家のカウチに座り、項垂れる。膝に肘を付いて、自身の左手薬指にある彼とお揃いの指輪を、カーヴェは落ち着きなく右手で撫でた。この指輪はカーヴェが数日前にアルハイゼンにプロポーズをした時に渡したものである。彼とはもう出会ってから数えれば十年弱の仲になる。互いしかいないと思えるのような学生時代を過ごし、互いに大きな溝を生んでから数年は袂を分かっていたが、何の悪戯か、アルハイゼンが五年前に酒場でカーヴェを拾ってから紆余曲折を経て、カーヴェとアルハイゼンは恋人になり、そして婚約さえも結んだのだ。一等憎らしく愛おしい彼に自分のとっておきの指輪を贈ろうと、カーヴェ自身が自作した、正真正銘この世で一つしかない指輪だ。そんな指輪を嵌めてから、まだ一週間も経ってない。
「アルハイゼン……どこに行ったんだ……。なんで帰ってこないんだよ……」
家が何よりも大好きな君が帰ってこないなら、僕のいる意味なんてないのに。そんな穿った考えをついしてしまう。ついどころか、カーヴェは元来からこういった考え方なので何も珍しいことではない。だが健全ではないので、やはりこの一人の時間を乗り越えるための〝供〟というものは必要になってくるだろう。
カーヴェは「ダメだ」と心の隅で罪悪感を結局は伴いながらも腰を上げて、部屋の隅に置かれた霧氷花の花蕊が入れてある木箱へ近づき、蓋を開けた。開けた隙間から冷気が漏れてくる。中には二人で飲むために買っておいたワインがいくつか入っていた。
カーヴェはその中の開封されてあるものから手を出し、木箱の中から取り出した。そして蓋を閉めて再びカウチに戻ると、テーブルに広げてある食器を一つ掴んでひっくり返し、中にワインを注いだ。
匂いも味も、今はどうでもいい。胸の中に渦巻く不安と寂寞、それらさえ払拭出来て、この時間をただ生きて過ぎることさえ出来ればなんでもいいのだ。それが彼なりの世渡りであり、虚しい生き方であった。
散々にして思い知らされる。もうきっと自分はずっとずっと昔から、アルハイゼン無しには生きていけない身体になってしまったのだと。
「僕に酒をやめさせたければ早く帰ってこい、アルハイゼン…。さもなくば君の分まで飲み干してしまうぞ」
カーヴェは鼻をすすりながらカップに口を付けて、その赤い液体を身体の中へと流し込んでいく。そのうち勝手に酔いが回って寝るまで、彼はそれを続けた。こうでもしなければ、彼は一人の夜に押し潰されそうだった。
꧁——————————꧂
しかしてカーヴェは朝寝坊をすることもなく、ガンガンと痛む頭を押えながら、窓から差し込む朝日に目を眩ませながら、適当にシャワーを浴びて用意も程々に髪を乾かすと直ぐに家を出て行った。ガチャリとしっかり施錠を施す。今日こそアルハイゼンが見つかることを願って、カーヴェは昨日セノたちと待ち合わせることにしていた元ターリブの家であった場所の近くへと向かった。
「カーヴェさん、おはようございます」
「おはようございます」
「ああ、おはよう。君たちはさすが早いな」
昨日よりもラフな格好――正確には学者服ではない私服姿のハフィズとイムランが、待ち合わせ場所に一番最後に現れたカーヴェへと挨拶をした。
「おはようカーヴェ。少し顔色が悪いようだが平気か?」
さすがの洞察力でセノはカーヴェの――自業自得の―の不調を読み取り、カーヴェは苦笑しながら「大丈夫だ」と答えた。大マハマトラの彼は格好を改めるつもりはなかったのか、いつも通りのこだわった衣装を着てきている。
「ところで、君たちはどうして私服なんだ?」
カーヴェはそれとなく話題を逸らすようにハフィズ立ちに声をかける。
「学者の格好の者が――それこそマハマトラみたいなのがぞろぞろといたら、周りの人に威圧感を与えてしまうでしょう? なので今日は調査だけと思って動きやすい服で来ました」
「右に同じく」
ハフィズの回答にイムランも合わせる。本当に仲のいい二人だ。カーヴェは彼らのことを詳しく知らないが、昨日と今日とで二人の距離感は兄弟に近いような感じがしていた。二人はどういった仲で、今こうして同じマハマトラなんて職をやっているのだろうか。またこの件が終わった時にでも聞いてみようと、カーヴェは思った。
「揃ったならそろそろ行こう。ターリブが住んでた住所はここからすぐの場所だ。さほど時間は掛からないだろう」
セノを先頭にして四人は歩き出す。スメールの民家が立ち並ぶ街を過ぎて行き、ビスマリタンを越えた先の右手側。そこにポツンとある一軒家が、元ターリブの住所だった場所だという。
「ここだな。…だが…」
セノはその一軒家が見える程よい距離の場所で立ち止まり、家の庭先へと目を向ける。
快晴の空の下、鮮やかに彩られたブランケットやマットの数々を物干し竿へ干していく女性と男性。そして彼らの足元には幼い男児が元気よくパティサラの咲く庭を駆け回っていた。
「どう見てもこの夫婦の間にターリブがいるとは到底思えないな…」
カーヴェがそう言った。明らかに無関係である上に、ターリブのことを知っているとは到底思えない、幸せそうな家族だった。
僅かにでもターリブの事がわかる手掛かりはあるだろうかと淡い望みを抱いて、「ここは俺が少し聞いてみます」と人懐こそうな笑みを浮かべたハフィズはそう言うと、庭先の家族の方へと向かって行った。
二、三言、ハフィズは夫婦に前住人のことについて尋ねる。そして戻ってくると、やはり夫婦ターリブのことはあまりのよく知らないのか期待できる回答は得られなかったそうだ。ハフィズはこちらを振り返って軽く首を横に振りながら戻ってきた。
「やはり彼については何も知らないようでした。この家も、教令院の不動産関係の方から空き家を尋ねて見つけたものらしいです」
「そうか。ならやはり、砂漠に行くしか内容だな」
実は昨日お前たちと解散したあと、妙論派の賢者にも会ってきたんだが、とセノは続けて言う。
「音信不通になってるカリールは、どうやらファラウラの言う通りこの雨林地帯をメインに活動を行っていたらしい。それで『良い金額が集まったから、そろそろ砂漠に帰る』と言っていつものように帰って行ったそうだ」
それがちょうど二ヶ月くらい前のことだったとのことだ、とセノ言う。以前の妙論派の賢者は件の事件で失脚しており、今は新しい賢者が抜擢されているはずだが? とカーヴェは不思議そうな顔をした。それに目敏く気付いたのか、セノはカーヴェが口を開けるより先に彼の疑問に応えた。
「どうやら今の妙論派の賢者がカリールと学生時代から仲が良かったらしく、こちらに帰ってきたら頻頻に話をしに来てくれるんだそうだ」
なるほど、とカーヴェは納得した。
スメールには『年功序列』というような制度は存在しない。秀でたものは若いうちからその目を芽吹かせて、際限なく陽の光を浴び続けるし、いつまでもその日陰にいる者も少なくない。なので妙論派の星とも呼ばれるカーヴェが、次の妙論派の賢者として選ばれることは十分有り得た。実際、賢者を推薦するアンケートを取った際にはカーヴェの名前も多く票に入っており、忖度無しに次の妙論派の賢者はカーヴェじゃないか? と噂されていたほどだ。しかし、結局はカーヴェはその賢者の推薦を自ら辞退し、今もこうして個人でデザイナーの活動をしている。何故彼が賢者を辞退したか。それは一重に例の学院祭での出来事が大きく関わっていると言って過言ではないだろう。あの一連の出来事は、彼のこれまでの人生の価値観や考え方に新たな視点を齎したに違いない。
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2023/07/06 最終更新
ファラウラとの対話を終えたセノ、カーヴェ、ハフィズ、イムランの四人は、キャラバン宿駅にある出店で昼食を摂っていた。キャラバン宿駅唯一の宿である『金砂の旅』にも様々な人が集まるが、出店にはそれ以上に多様な人物が現れる。何せ買い物を目的とするだけなら、出に出店に立ち寄るだけでいいのだし、それに様々な客を相手にする店主たちにこそ情報というものは集まるものだ。
セノたち四人はそこで昼食を口にしながら、周りに集まる雑輩たちから聞き込みを行っていた。ある店主の話では、最近砂漠から来るエルマイと旅団の者たちが皆険しい表情を良くしているらしい。すると口々に皆こう言うのだ。
――俺たちの仲間を知らないか? と。
もちろん店主は彼らの仲間を見た覚えはなく、特徴を述べられても該当する人物はここ最近では訪れなかったとの旨を伝えた。するとそのエルマイト旅団の者たちは他の人間たちにも聞き周り、やがてここにはいないと諦めたのか砂漠に帰って行ったという。
また一行揃ってピタを食していたところに、エルマイト旅団の青年たちがある噂をしているのを耳にした。聞き耳を立てれば、ここ最近妙な機械を操る旅団員がいるらしいとの内容だった。その噂の内容が気になった四人は、早々にピタを平らげ、その青年らに声を掛けた。
「その話、詳しく聞かせてくれないか?」
セノが率先してそう声を掛ける。知らない人間から突然声を掛けられたことに旅団員の青年たちはやや驚きを見せるが、セノの後ろにいるイムランとハフィズの学者服を見て何かを察したようだった。
「大した内容でもないと思うぜ。俺達もただ噂で聞いただけだからこの目で本当に見たわけじゃないんだが、どうにもその変な機械でキノコンたち? をこう…捕まえてたのか何してたのか知らないが…とにかく元素の流れを変えちまう装置を持ってる奴らがいるみたいなんだ」
そんなものどこで手に入れたんだろうな。いやいやどうせただの噂だよ、と青年たちは噂を信じきっていない様子で笑いの種として済ませた。セノは青年たちに感謝を述べるとその場を去り、人気のいない場所――キャラバン宿駅の外まで三人とともに移動し、それぞれ得た情報からの推測を論じ合う機会を儲けた。
「カーヴェ。お前から見て、青年たちが言っていたことはどう思う?」
セノはまずカーヴェからの見解を聞こうと彼に話題を振った。どうも青年たちの噂話を聞いてから、カーヴェは何か思い詰めるような表情をしていることに気付いていたからだ。
カーヴェは唸るように腕を組むと、眉間に皺を寄せながら口を開いた。
「元素の流れを操る機械に関して言えば、正直妙論派でもよく議題に上がるほど、今までも造られてきてはいる。それは君たちもよく知っている事だと思う。特に素論派であるセノなら、必ず耳にしたことがあるだろう?」
「ああ。過去の産物も学生時代だった頃もよく耳にしていた。ただ、やはり元素を操ることは難しいのか成功した例はあまり見かけないし、しても用途の難しいものばかりだった記憶がある」
「そうなんだ。元素を扱う研究はそもそもの難易度が高く設定されがちだ。何せ扱いが難しい上に、用途も限られてくる。実験をしようにも大体の場合は危険が伴うことがほとんどだからね」
カーヴェはまるで自分の過去を話すように言葉を述べていった。実際に過去、教令院にいた時代にその類の研究を行ったことがあったのだろう。
そんなカーヴェだったが、そこまで語った後、まるで罪を告白するように瞼を伏せ、一息吐いて続きを語った。
「それで、これは僕の自論なんだが…。元素を扱う機械の研究が一般的に難しいとされるのは、神の目を持つ人間が限られているからではないかと、僕は思うんだ」
そう言ったカーヴェのセリフに、同じく神の目を所持しているセノは、その聡明な頭脳で、その先に彼が語ろうとしている事実を予測して息を飲んだ。イムランとハフィズは、それでつまり? と言った表情でカーヴェの話の続きを促す表情をしている。それにカーヴェは応えるように話した。
「僕はこの神の目を手に入れた後、それまでの悔しさの全てを注ぎ込むように、元素の流れについて研究した。そして元素を四散することが出来れば、例え神の目を持たない人たちでも、より元素生物の魔物たちを相手に有利に立ち向かえるんじゃないかと思って、一つの機械を造ったんだ」
でも…とカーヴェは続ける。
「それを作った後、気付いたんだ。たとえ元素の流れを四散出来たとしても、使い道は限られてくる。それに僕やセノのように神の目を持つもの、錬金術で元素武器を作って闘う者達がその場にいるなら、ただの邪魔にしかならないと」
だから僕はその機械を破棄した、と、カーヴェはそう言った。しかし話はここでは終わらないらしい。カーヴェは己の過去を悔いるように片手で顔を覆い、さらに語り続けた。
「だけど僕は…その機械の設計図を捨てることは出来なかったんだ。本当によく出来た作品だった。だからこそ、いつかこの機械が活躍する日が来るかもしれないと思って、教令院に申請だけを出して設計図の所有権利だけは得ていたんだ」
「それってつまり、さっきの噂で聞いた機械というのは、カーヴェさんが設計した物かもしれないということですか!?」
ハフィズが思わず驚いた表情で尋ねる。カーヴェはその問い掛けに何か勘違いをされているのではないかと思い、慌てて弁論の意を唱えた。
「いや、違うぞ! 僕が実際に使った実物はきちんと分解して破棄したんだ。そのあとその部品の一部をメラックを作るのに利用したり、他の物を造るの再利用した。そこら辺に捨てたわけじゃ断じてないぞ!」
そう捲したてるカーヴェに、ならどうしてこの話を? と言った表情でハフィズは返す。重要なのはここからなんだ、とカーヴェは添えて言った。
「今から四年くらい前か、ある男が僕の元に訪ねてきたんだ。一体誰から聞いたのか、元素を四散させる機械があることを聞きつけて僕の元に訪れたらしかった。男からは『砂漠で活動したいが魔物に襲われると堪らないから、良ければ設計図を売ってほしい』と言われた。それで僕は…」
カーヴェは一息吐いて、自嘲するように笑った。
「やっと誰かの役に立つ日が来たのかと嬉しくなって、その男に機会の設計図を渡した。男の名前はええと確か……。そう、『ターリブ』。因論派の学者だった」
依頼連絡は取ってないが…と言葉を続けるカーヴェどったが、セノはカーヴェの口から出た『ターリブ』という名前を聞いて驚いた。それこそ彼の言う四年前――セノがマハマトラ就任した頃に、突然声を掛けられ接触してきた男であったからだ。
「ターリブという男なら俺も以前に…カーヴェと同じく四年ほど前にあったことがある」
セノのその発言に、一同はセノを振り返り彼の話を聞く。
「大した接触はしてないぞ。ただ…」
あまりいい印象は抱いていないな、とセノは言った。
セノがターリブと出会った頃、セノはまハマトラに就任したばかりであった。マハマトラに就任する際に、現在イムランやハフィズたちが着ている学者服を脱ぎ、今の装束へと変え、自身の覚悟と決意を胸に刻んだ折に彼は現れた。
緑を基調とした学者服に、ラピスラズリの色を携えた髪を後ろで束ね、両耳に金のピアスをつけた男。彼はセノの装いを人目見た時、熱い眼差しをセノに向けた。視線に敏感なセノがそれに気づかない訳もなく彼のことを睨み付けると、彼はまるで興奮を抑えられないとでも言うようにセノに近づいた。そしてこう尋ねたのだ。
『君は砂漠出身だと聞いたが、本当か?』
セノはその質問に何か身の毛のよだつ気味の悪さを感じたをのを覚えている。そしてセノはこう返した。『そうだとして、俺に何かようでもあるのか』と。
それにターリブは『いいや』と返す。ただその事実を確認したかっただけだと。そして何も言わずに何やらブツブツと口ずさみながら、その場を離れていった。
学者なぞ大抵は何かしらに狂った変な生き物であることが多い。だからこそあの男のような理解不能な行動など、この数年でもう見飽きるほどに見てきたのだが。
セノは若干の薄気味悪さを覚えながら近くに居た者に、彼が何者であるかを尋ねた。そこでセノは初めてその者が『因論派のターリブ』という男だということを知ったのだ。
そこまでセノは三人に語り、ターリブという人間の怪しさに思考を巡らせた。
彼が因論派であるならば、かつてキングデシェレトの国であった砂漠に学術的興味を示すことは何も不思議なことでは無い。むしろ因論派――ヴァフマナ学院は、キングデシェレトの残した理論に対する否定と反省、そしてその中から様々な社会学科を生む学院である。故にスメールの歴史学、社会学などを重点的に学ぶ学院もである。
しかしそれらを学ぶために例え砂漠に行くとしても、実物の文字や建物、引いては元素を研究している訳でもない因論派の人間が、わざわざ砂漠に行く理由とはなんだろうか。今は廃れたかつての病院だった場所、あるいはアアル村……。どちらにせよ、元素を四散させる装置など、因論派である学者が必要とするのは一体どういった場面での用途を指すのだろうか。
一行は『ターリブ』という不可解な言動をする男についても詳しく調べる必要があると見て、カリールを探すついでにかれのことも調べようと、再びスメールシティへと向けて歩き出したのだった。
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蒼々と生い茂る森の中をまた戻り、セノたち一行は神のいる街へと帰還する。四人がまっすぐ向かったのはもちろん、この国の中枢としての役割を果たす、かつては草神の牢獄であった教令院。そして教令院の豪奢な扉を潜り抜け、噴水の広場を通り過ぎ、ヴァフマナ学院の門を開いて、現賢者の執務室まで迷いなく向かって行った。
現因論派の賢者はかつてアザールが画策していた創神計画に、生論派の賢者であるナフィスと共に反対したために一時期はナフィスと共に幽閉されていたが、かの事件が旅人やアルハイゼンの協力の元解決されてからは解放され、今は以前と同じく因論派の賢者としてヴァフマナ学院を支えている。
そんな彼は今、賢者の執務室で机に向かい書類と向かい合っていたが、扉をノックする音で顔を上げ、「どうぞ」とセノたちが中に入ることを許した。
扉を開け入ってきたのがまさか大マハマトラのセノであるとは思わず、賢者は驚いて席を立つ。
「セノ様! どうしてこちらへ? 何事かありましたか?」
彼は慌ててそう尋ねる。セノやセノに続けて入室したカーヴェやマハマトラの二人に何事かあったのだとすぐにでも察した。そんな彼の問い掛けにセノは、時間は有限とばかりに担当直球に聞きたいことを尋ねた。
「突然押しかけて済まない。因論派の学者の中に『ターリブ』という男がいると思うのだが、彼が今どこにいるか知らないか?」
「ターリブ、ですか?」
賢者はやや戸惑いの表情を見せる。その様子にセノは眉をやや顰めるも、彼からの言葉の続きを待った。
「彼ならもうこの学院には所属しておりません…。数年前に学者を辞めると突然辞表を突き出して、おそらくすメールシティからも移住していると思います」
その言葉に、一同は意表を突かれたように身を見開き驚きを顕わにした。そしてセノは続いて質問を投げかける。
「ターリブが辞表を出したのは何年くらい前か覚えてないか?」
「たしか…四年程前だったと思います」
四年前――カーヴェと接触していた時、既に辞表を出して学者を辞めていたのかは分からないが、少なくとも同じ年の出来事である事がわかった。
「シティからも移住していると言っていたが、どこに行ったか分からないか? だいたいでもいい」
セノは続けて尋ねる。それに賢者も顔を顰めて当時のことを思い出しながら、答えていった。
「あくまでもこれは私の推測ですよ。彼が住んでいた家はシティ内にあったのですが、たまたま以前私が前を通った時にはもう別の方が住んでいましたので、移住したのかと…。兼ねてより彼は、砂漠に対して他の人よりも熱心な感情を持っていましたし、恐らく砂漠の方へ行ったのではないでしょうか…」
彼から直接話を聞いたわけではないので何とも言えませんが…と賢者は自身の知りうる限りの情報をセノに伝えた。それにセノは頷く。賢者は、しかしどうして彼を探しているので? とセノに尋ねた。
「今朝から教令院の書記官が行方不明になっていてな。砂漠の方でも行方不明者が多発していて、そのこととターリブに何か関係があるんじゃないかと鑑みて現在捜索中なんだ」
今度は賢者が驚きを示す番だった。書記官と言えば、件の事件で自分やナフィスを救い出す計画を立て、そして実行してくれた方だ。まさかその彼が今行方不明だなんて、と因論派の賢者は顔を青く染めた。
「もし私に何か出来ることがあればご協力致します。無事に見つかることを願ってます」
賢者はそう言い、セノたちに積極的に協力の意を示した。日も暮れてきた頃、セノはその後賢者から以前のターリブの住所を聞き、明日の朝最初にそこを訪れようと一同は一度解散し、それぞれの家に帰宅することになった。
教令院から出てさほど遠くない坂道を下っていく。赤く人の高さほどある大きな壺が傍にある家まで歩いてきて、カーヴェはポケットに手を突っ込んだ。
アルハイゼンとは対になる金色の鍵を取り出して、鍵穴に差し込み、かチャリと音がするまで回す。そしてつき取り、もしかしたら何食わぬ顔で帰っているんじゃないか、なんて淡い期待を持ちながら玄関を開ける。がしかし、やはり玄関を開けた先は真っ暗で、物もカーヴェが出ていったきり動いてなどおらず、彼が帰ってきていないことは明白だった。
カーヴェは肩を落とす。誰もいない家に帰るなんて慣れたことであったはずなのに、アルハイゼンと住んでからというもの、ここが彼の家だということも相まってか、彼のいない家に帰るのはこれ程までに悲しさを生むものなのかと、カーヴェはその現実から逃げたいような心地になった。一瞬酒場へ行って時間を潰そうかとも考える。しかしもし、この後にアルハイゼンがひょっこりと帰ってきたら? そんなことを考えてしまうと、酒場になんて行けなかった。彼の家を――自分たちの家を守るようにカーヴェは玄関から中へと入り、そして内側から施錠した。
アルハイゼンのいない家のカウチに座り、項垂れる。膝に肘を付いて、自身の左手薬指にある彼とお揃いの指輪を、カーヴェは落ち着きなく右手で撫でた。この指輪はカーヴェが数日前にアルハイゼンにプロポーズをした時に渡したものである。彼とはもう出会ってから数えれば十年弱の仲になる。互いしかいないと思えるのような学生時代を過ごし、互いに大きな溝を生んでから数年は袂を分かっていたが、何の悪戯か、アルハイゼンが五年前に酒場でカーヴェを拾ってから紆余曲折を経て、カーヴェとアルハイゼンは恋人になり、そして婚約さえも結んだのだ。一等憎らしく愛おしい彼に自分のとっておきの指輪を贈ろうと、カーヴェ自身が自作した、正真正銘この世で一つしかない指輪だ。そんな指輪を嵌めてから、まだ一週間も経ってない。
「アルハイゼン……どこに行ったんだ……。なんで帰ってこないんだよ……」
家が何よりも大好きな君が帰ってこないなら、僕のいる意味なんてないのに。そんな穿った考えをついしてしまう。ついどころか、カーヴェは元来からこういった考え方なので何も珍しいことではない。だが健全ではないので、やはりこの一人の時間を乗り越えるための〝供〟というものは必要になってくるだろう。
カーヴェは「ダメだ」と心の隅で罪悪感を結局は伴いながらも腰を上げて、部屋の隅に置かれた霧氷花の花蕊が入れてある木箱へ近づき、蓋を開けた。開けた隙間から冷気が漏れてくる。中には二人で飲むために買っておいたワインがいくつか入っていた。
カーヴェはその中の開封されてあるものから手を出し、木箱の中から取り出した。そして蓋を閉めて再びカウチに戻ると、テーブルに広げてある食器を一つ掴んでひっくり返し、中にワインを注いだ。
匂いも味も、今はどうでもいい。胸の中に渦巻く不安と寂寞、それらさえ払拭出来て、この時間をただ生きて過ぎることさえ出来ればなんでもいいのだ。それが彼なりの世渡りであり、虚しい生き方であった。
散々にして思い知らされる。もうきっと自分はずっとずっと昔から、アルハイゼン無しには生きていけない身体になってしまったのだと。
「僕に酒をやめさせたければ早く帰ってこい、アルハイゼン…。さもなくば君の分まで飲み干してしまうぞ」
カーヴェは鼻をすすりながらカップに口を付けて、その赤い液体を身体の中へと流し込んでいく。そのうち勝手に酔いが回って寝るまで、彼はそれを続けた。こうでもしなければ、彼は一人の夜に押し潰されそうだった。
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しかしてカーヴェは朝寝坊をすることもなく、ガンガンと痛む頭を押えながら、窓から差し込む朝日に目を眩ませながら、適当にシャワーを浴びて用意も程々に髪を乾かすと直ぐに家を出て行った。ガチャリとしっかり施錠を施す。今日こそアルハイゼンが見つかることを願って、カーヴェは昨日セノたちと待ち合わせることにしていた元ターリブの家であった場所の近くへと向かった。
「カーヴェさん、おはようございます」
「おはようございます」
「ああ、おはよう。君たちはさすが早いな」
昨日よりもラフな格好――正確には学者服ではない私服姿のハフィズとイムランが、待ち合わせ場所に一番最後に現れたカーヴェへと挨拶をした。
「おはようカーヴェ。少し顔色が悪いようだが平気か?」
さすがの洞察力でセノはカーヴェの――自業自得の―の不調を読み取り、カーヴェは苦笑しながら「大丈夫だ」と答えた。大マハマトラの彼は格好を改めるつもりはなかったのか、いつも通りのこだわった衣装を着てきている。
「ところで、君たちはどうして私服なんだ?」
カーヴェはそれとなく話題を逸らすようにハフィズ立ちに声をかける。
「学者の格好の者が――それこそマハマトラみたいなのがぞろぞろといたら、周りの人に威圧感を与えてしまうでしょう? なので今日は調査だけと思って動きやすい服で来ました」
「右に同じく」
ハフィズの回答にイムランも合わせる。本当に仲のいい二人だ。カーヴェは彼らのことを詳しく知らないが、昨日と今日とで二人の距離感は兄弟に近いような感じがしていた。二人はどういった仲で、今こうして同じマハマトラなんて職をやっているのだろうか。またこの件が終わった時にでも聞いてみようと、カーヴェは思った。
「揃ったならそろそろ行こう。ターリブが住んでた住所はここからすぐの場所だ。さほど時間は掛からないだろう」
セノを先頭にして四人は歩き出す。スメールの民家が立ち並ぶ街を過ぎて行き、ビスマリタンを越えた先の右手側。そこにポツンとある一軒家が、元ターリブの住所だった場所だという。
「ここだな。…だが…」
セノはその一軒家が見える程よい距離の場所で立ち止まり、家の庭先へと目を向ける。
快晴の空の下、鮮やかに彩られたブランケットやマットの数々を物干し竿へ干していく女性と男性。そして彼らの足元には幼い男児が元気よくパティサラの咲く庭を駆け回っていた。
「どう見てもこの夫婦の間にターリブがいるとは到底思えないな…」
カーヴェがそう言った。明らかに無関係である上に、ターリブのことを知っているとは到底思えない、幸せそうな家族だった。
僅かにでもターリブの事がわかる手掛かりはあるだろうかと淡い望みを抱いて、「ここは俺が少し聞いてみます」と人懐こそうな笑みを浮かべたハフィズはそう言うと、庭先の家族の方へと向かって行った。
二、三言、ハフィズは夫婦に前住人のことについて尋ねる。そして戻ってくると、やはり夫婦ターリブのことはあまりのよく知らないのか期待できる回答は得られなかったそうだ。ハフィズはこちらを振り返って軽く首を横に振りながら戻ってきた。
「やはり彼については何も知らないようでした。この家も、教令院の不動産関係の方から空き家を尋ねて見つけたものらしいです」
「そうか。ならやはり、砂漠に行くしか内容だな」
実は昨日お前たちと解散したあと、妙論派の賢者にも会ってきたんだが、とセノは続けて言う。
「音信不通になってるカリールは、どうやらファラウラの言う通りこの雨林地帯をメインに活動を行っていたらしい。それで『良い金額が集まったから、そろそろ砂漠に帰る』と言っていつものように帰って行ったそうだ」
それがちょうど二ヶ月くらい前のことだったとのことだ、とセノ言う。以前の妙論派の賢者は件の事件で失脚しており、今は新しい賢者が抜擢されているはずだが? とカーヴェは不思議そうな顔をした。それに目敏く気付いたのか、セノはカーヴェが口を開けるより先に彼の疑問に応えた。
「どうやら今の妙論派の賢者がカリールと学生時代から仲が良かったらしく、こちらに帰ってきたら頻頻に話をしに来てくれるんだそうだ」
なるほど、とカーヴェは納得した。
スメールには『年功序列』というような制度は存在しない。秀でたものは若いうちからその目を芽吹かせて、際限なく陽の光を浴び続けるし、いつまでもその日陰にいる者も少なくない。なので妙論派の星とも呼ばれるカーヴェが、次の妙論派の賢者として選ばれることは十分有り得た。実際、賢者を推薦するアンケートを取った際にはカーヴェの名前も多く票に入っており、忖度無しに次の妙論派の賢者はカーヴェじゃないか? と噂されていたほどだ。しかし、結局はカーヴェはその賢者の推薦を自ら辞退し、今もこうして個人でデザイナーの活動をしている。何故彼が賢者を辞退したか。それは一重に例の学院祭での出来事が大きく関わっていると言って過言ではないだろう。あの一連の出来事は、彼のこれまでの人生の価値観や考え方に新たな視点を齎したに違いない。
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2023/07/06 最終更新