アル・サウラの狼煙【執筆中】
序幕
学者たちの申請書の束を集めて教令官のパナーは沈黙の殿の扉を開ける。ギィ…と少しばかり古めかしい音を立てて開いた扉の向こうから、古書の匂いとインクの匂いが鼻腔を掠める。静けさを好む部屋の主人に怒られぬよう、パナーは極めて静かに中央のデスクへと向かった。
「書記官様、こちら新しく申請されたものたちです。お忙しいと存じますが、またお目通しを…」
そう言いながらパナーがデスクの上に書類を置く。そこでふと、きらりと光るものが目に入ったのだ。それに何気なく目を向けた時、パナーの言葉が不自然に止まる。その間に「ああ」と返事をした書記官の声を無視し、じっくり三秒ほどそれを凝視して、やっと理解に至った。
「書記官様が指輪!?」
それも薬指に!? パナーの声は常に静けさと威厳に満ちた沈黙の殿の書物たちに吸い取られ、反響こそしなかったものの清閑を愛する主人には相当な騒音だったようで、ぎろりと下から睨めつけるように見られた。
「騒ぐような事じゃないだろう。静かにしてくれ」
「す、すみません、その、びっくりしたものですから…」
パナーは申し訳なさそうにしながらも興味は書記官の指輪にあるのか、ちらちらと忙しなく目を動かしている。
「えと、おめでとうございます書記官。いつ、ご結婚なされたので?」
「……」
書記官はじっとパナーを見つめる。彼がこのような世間話を業務時間にすることを好まないことは重々承知していたが、自分の上司が突然結婚していたのだから正直好奇心が畏れよりも増したのだ。
ごく、と固唾を飲む。するとふいに書記官が飽きたように視線を書類へと戻し、口を開いた。
「二日前に貰ったんだ。悪くないから着けている」
「もらった…?」
パナーはその言葉に首を傾げた。正確に決まった規則などがある訳では無いが、この知恵の国スメールにおいては一般的に結婚指輪を贈るのは男性の方からである。そして婚約中は女性のみが左の薬指に指輪を嵌め、結婚した後に夫婦共に指輪を嵌めるものであるのだが─。
「はいこれ。この申請書たちには不備がある。出した者たちに再度提出をするよう伝えてくれ」
「あ、はい。わかりました」
パナーは言われた書類を受け取ると沈黙の殿を後にする為踵を返す。きっとさっきの書記官様の発言は何かを言い間違えたのだろうと思いながら、書記官様もやはり人間なのだなと勝手に納得したのだった。
꧁——————————꧂
ゆっくりと瞼を開き、先日パナーとそん会話をしたことをアルハイゼンはふと思い出す。何故そんなことを今思い出すのだろうか。男に担がれてぶらぶらと揺れている自身の腕の左薬指に、そのキラキラと光るプラチナが見えるからだろうか。
「兄貴、こいつ絶対そこらの学者より身分高そうですぜ?本当に大丈夫ですかぃ?」
「心配ねぇさ。ここに誰かいたとしてもこの砂塵で良く見えやしねぇだろうし、こいつの元素の痕跡?ってやつも、この装置が散らしてくれるらしいからよ」
「本当に便利ッスよねこれ。まさか神の目の使い手もこんな形で捕獲出来ちまうんですから」
へへっと笑いながら下っ端のような男が、手元にある鉄の塊のような機械を弄ぶ。アルハイゼンは朦朧とする意識の中でそれを視界に捕らえ、あれが己の体内に巡る元素エネルギーを狂わせている装置か、と睨みを効かせた。
しかし身体は力が入らず思うように動かない。ぐるぐると目眩がし、元素を集めて啄光鏡を生み出そうにも、あの装置が作動しているからか、一向に元素力が集まらない。おかげで先程から草元素の緑の光がふらふらと集まり損ねては四散していくのを繰り返している。
「兄貴、こいつ起きてますぜ」
「何?なんかさっきからキラキラしてるなと思ったらこいつか。周りの元素でも集めようとしてんのか。ハッ、諦めの悪いやつだな」
仕方ねぇな、ターリブさんから貰ったこれでも打っとくか。
アルハイゼンを担いでいた大男はそう言うと、洞窟の近場の壁にアルハイゼンを降ろして座らせる。抵抗しようとして元素を集めたことが災いとなったのか、先程よりも目眩は激しくなり、吐き気すら伴うほどとなっていた。そして男はアルハイゼンの首元を晒させるように彼の顔をやや横に倒させると、何の前置きもなく小さな注射器をアルハイゼンの首へと突き刺した。
「う、ぁっ…!」
「痛かったか?悪ぃな」
痛みで顔を顰めるアルハイゼンに男は淡々と返す。そして注射器の中身が全て注入されたことを確認すると、それを抜き取り、血を拭って懐へと仕舞った。
「…何を打った?」
目眩と吐き気で最悪な顔色のアルハイゼンが、大男に向かって低く唸る。それでも男は怯んだ様子もなく、仏頂面でアルハイゼンを観察する。
「あー、なんて名前だったかな…きんし…。まぁとりあえず筋肉をふにゃふにゃにする薬だ。俺たちは弱くはないとはいえ、神の目持ってるアンタみたいなのは俺らからすれば猛獣よりタチが悪いからな。念の為に打たせてもらった」
時期に眠くなるはずだ。男はそう言ってなお、一定の距離を保ってアルハイゼンの観察を続ける。アルハイゼンは確信した。彼らの後ろには、少なくともあの機械を操れる、もしくは作れる技術を持ち、薬の知識も持っている人間がいる。それは恐らく砂漠の者ではなく、ファデュイ…いや、学者である可能性が高い。しかも複数の者が関与している。そこでふと、元素を四散させる機械について随分前にどこかで聞いたことがあることを思い出す。薬がアルハイゼンの思考を塗りつぶして行く中、必死に記憶を辿る。そして約四年前――カーヴェが家に来てから一年が過ぎようとしていた頃に、アルハイゼンはカーヴェからその話を聞いたことを思い出した。
曰く、『特定の場所に元素が集中する現象を抑える装置を欲しいという変な奴がいたからいくつか売った』、と。
じとりと背中を嫌な汗が流れる。それが一体これから起きることへの予見から来るものなのか、それとも機械と薬によってもたらされる異常によるものなのか、アルハイゼンはもはや判別がつかなかった。
うつらうつらとして、座っているのもやっとのようなアルハイゼンの様子を見て、注射を打った男は再びアルハイゼンを俵を担ぐように肩へと乗せる。ぐわんと視界が揺れたことでさらに吐き気が酷くなり、アルハイゼンは数回嘔吐を思わせる嗚咽を漏らした。
「うえ…兄貴〜こいつ吐きそうっすよ」
「勘弁してくれよ兄ちゃん。いくらアンタの顔が綺麗でも汚物を被る趣味はないぞ」
そう言いながら男はずんずんと洞窟の先を進んでいく。アルハイゼンは落ちそうな意識の中で、なおも打開の策が無いかと周りを見る。そして洞窟の壁に刻まれた文字を見つけた。かすれて読みにくいが、古い雨林文字のようだった。アルハイゼンはそれを読む。
「神は…すべ、てを…赦して、くれる…」
果たして本当にそうだろうか。規則を破った者の罪を赦すほど、神は優しくはないと思うが。アルハイゼンはそう考えた。そしてそこで彼の意識はふつりと途絶えた。
学者たちの申請書の束を集めて教令官のパナーは沈黙の殿の扉を開ける。ギィ…と少しばかり古めかしい音を立てて開いた扉の向こうから、古書の匂いとインクの匂いが鼻腔を掠める。静けさを好む部屋の主人に怒られぬよう、パナーは極めて静かに中央のデスクへと向かった。
「書記官様、こちら新しく申請されたものたちです。お忙しいと存じますが、またお目通しを…」
そう言いながらパナーがデスクの上に書類を置く。そこでふと、きらりと光るものが目に入ったのだ。それに何気なく目を向けた時、パナーの言葉が不自然に止まる。その間に「ああ」と返事をした書記官の声を無視し、じっくり三秒ほどそれを凝視して、やっと理解に至った。
「書記官様が指輪!?」
それも薬指に!? パナーの声は常に静けさと威厳に満ちた沈黙の殿の書物たちに吸い取られ、反響こそしなかったものの清閑を愛する主人には相当な騒音だったようで、ぎろりと下から睨めつけるように見られた。
「騒ぐような事じゃないだろう。静かにしてくれ」
「す、すみません、その、びっくりしたものですから…」
パナーは申し訳なさそうにしながらも興味は書記官の指輪にあるのか、ちらちらと忙しなく目を動かしている。
「えと、おめでとうございます書記官。いつ、ご結婚なされたので?」
「……」
書記官はじっとパナーを見つめる。彼がこのような世間話を業務時間にすることを好まないことは重々承知していたが、自分の上司が突然結婚していたのだから正直好奇心が畏れよりも増したのだ。
ごく、と固唾を飲む。するとふいに書記官が飽きたように視線を書類へと戻し、口を開いた。
「二日前に貰ったんだ。悪くないから着けている」
「もらった…?」
パナーはその言葉に首を傾げた。正確に決まった規則などがある訳では無いが、この知恵の国スメールにおいては一般的に結婚指輪を贈るのは男性の方からである。そして婚約中は女性のみが左の薬指に指輪を嵌め、結婚した後に夫婦共に指輪を嵌めるものであるのだが─。
「はいこれ。この申請書たちには不備がある。出した者たちに再度提出をするよう伝えてくれ」
「あ、はい。わかりました」
パナーは言われた書類を受け取ると沈黙の殿を後にする為踵を返す。きっとさっきの書記官様の発言は何かを言い間違えたのだろうと思いながら、書記官様もやはり人間なのだなと勝手に納得したのだった。
꧁——————————꧂
ゆっくりと瞼を開き、先日パナーとそん会話をしたことをアルハイゼンはふと思い出す。何故そんなことを今思い出すのだろうか。男に担がれてぶらぶらと揺れている自身の腕の左薬指に、そのキラキラと光るプラチナが見えるからだろうか。
「兄貴、こいつ絶対そこらの学者より身分高そうですぜ?本当に大丈夫ですかぃ?」
「心配ねぇさ。ここに誰かいたとしてもこの砂塵で良く見えやしねぇだろうし、こいつの元素の痕跡?ってやつも、この装置が散らしてくれるらしいからよ」
「本当に便利ッスよねこれ。まさか神の目の使い手もこんな形で捕獲出来ちまうんですから」
へへっと笑いながら下っ端のような男が、手元にある鉄の塊のような機械を弄ぶ。アルハイゼンは朦朧とする意識の中でそれを視界に捕らえ、あれが己の体内に巡る元素エネルギーを狂わせている装置か、と睨みを効かせた。
しかし身体は力が入らず思うように動かない。ぐるぐると目眩がし、元素を集めて啄光鏡を生み出そうにも、あの装置が作動しているからか、一向に元素力が集まらない。おかげで先程から草元素の緑の光がふらふらと集まり損ねては四散していくのを繰り返している。
「兄貴、こいつ起きてますぜ」
「何?なんかさっきからキラキラしてるなと思ったらこいつか。周りの元素でも集めようとしてんのか。ハッ、諦めの悪いやつだな」
仕方ねぇな、ターリブさんから貰ったこれでも打っとくか。
アルハイゼンを担いでいた大男はそう言うと、洞窟の近場の壁にアルハイゼンを降ろして座らせる。抵抗しようとして元素を集めたことが災いとなったのか、先程よりも目眩は激しくなり、吐き気すら伴うほどとなっていた。そして男はアルハイゼンの首元を晒させるように彼の顔をやや横に倒させると、何の前置きもなく小さな注射器をアルハイゼンの首へと突き刺した。
「う、ぁっ…!」
「痛かったか?悪ぃな」
痛みで顔を顰めるアルハイゼンに男は淡々と返す。そして注射器の中身が全て注入されたことを確認すると、それを抜き取り、血を拭って懐へと仕舞った。
「…何を打った?」
目眩と吐き気で最悪な顔色のアルハイゼンが、大男に向かって低く唸る。それでも男は怯んだ様子もなく、仏頂面でアルハイゼンを観察する。
「あー、なんて名前だったかな…きんし…。まぁとりあえず筋肉をふにゃふにゃにする薬だ。俺たちは弱くはないとはいえ、神の目持ってるアンタみたいなのは俺らからすれば猛獣よりタチが悪いからな。念の為に打たせてもらった」
時期に眠くなるはずだ。男はそう言ってなお、一定の距離を保ってアルハイゼンの観察を続ける。アルハイゼンは確信した。彼らの後ろには、少なくともあの機械を操れる、もしくは作れる技術を持ち、薬の知識も持っている人間がいる。それは恐らく砂漠の者ではなく、ファデュイ…いや、学者である可能性が高い。しかも複数の者が関与している。そこでふと、元素を四散させる機械について随分前にどこかで聞いたことがあることを思い出す。薬がアルハイゼンの思考を塗りつぶして行く中、必死に記憶を辿る。そして約四年前――カーヴェが家に来てから一年が過ぎようとしていた頃に、アルハイゼンはカーヴェからその話を聞いたことを思い出した。
曰く、『特定の場所に元素が集中する現象を抑える装置を欲しいという変な奴がいたからいくつか売った』、と。
じとりと背中を嫌な汗が流れる。それが一体これから起きることへの予見から来るものなのか、それとも機械と薬によってもたらされる異常によるものなのか、アルハイゼンはもはや判別がつかなかった。
うつらうつらとして、座っているのもやっとのようなアルハイゼンの様子を見て、注射を打った男は再びアルハイゼンを俵を担ぐように肩へと乗せる。ぐわんと視界が揺れたことでさらに吐き気が酷くなり、アルハイゼンは数回嘔吐を思わせる嗚咽を漏らした。
「うえ…兄貴〜こいつ吐きそうっすよ」
「勘弁してくれよ兄ちゃん。いくらアンタの顔が綺麗でも汚物を被る趣味はないぞ」
そう言いながら男はずんずんと洞窟の先を進んでいく。アルハイゼンは落ちそうな意識の中で、なおも打開の策が無いかと周りを見る。そして洞窟の壁に刻まれた文字を見つけた。かすれて読みにくいが、古い雨林文字のようだった。アルハイゼンはそれを読む。
「神は…すべ、てを…赦して、くれる…」
果たして本当にそうだろうか。規則を破った者の罪を赦すほど、神は優しくはないと思うが。アルハイゼンはそう考えた。そしてそこで彼の意識はふつりと途絶えた。
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