刻まれた過去

 ――出陣したとある時代は、辺りに家屋等はなく、見渡す限り草原が広がっていた。
 そんな大地を、薬研藤四郎が一振りで歩く。散り散りになった時間遡行軍を追いかけてきたが、どうやら嵌められたようだ。薬研は足を止め、唇を噛む。
 時間遡行軍は薬研達―刀剣男士を見つけるや否や、逃げるように散っていった。逃がすまいと、刀剣男士達は各々一振りに狙いを定め、脇目も振らず追いかけてきたら、この様だ。時間遡行軍の思惑通りであろう、まんまと部隊から引き離された。
「……やられた」
 薬研の周囲に仲間の刀剣男士達はおらず、もしこの状況で時間遡行軍六振に襲撃されたら……。
 思わず最悪な事を考え、薬研は目を閉じ、頭を振る。今こんな事を考えていても仕方がないし、生き残る為、最善を尽くすのみ。
「…………来たか」
 薬研は静かに瞼を開け、そっと柄に手を掛けた。背後から、微かに気配を感じる。確実に後ろに立っている。
(斬られる前に、斬る……!)
 息を呑み、一瞬で刃を抜くと、即座に振り返る。幸いにも、時間遡行軍は一振りしか見当たらない。大きな刃が頭上から降ってくる。薬研の前に現れたのは、大太刀だ。間合いに入るのは大変だが、倒せない相手ではない。
 薬研は、振り下ろされた大太刀の刃を素早く避け、次に来る刃筋を見極める。
(右、か!)
 読み通り、刃が右から降ってくる。その刃を難なく避けると、柄空きになった懐へ飛び込む。
「ずえりゃあああ!!」
 叫びを上げながら、思い切り短刀の刃を大太刀の胸へ突き立てる。刃が深々と刺さった事を確認すると、左足で大太刀の胸を蹴り飛ばし、刃を抜いた。薬研は着地し見上げると、大太刀の刃が目の前に迫っていた。避ける暇はない。
 咄嗟に短刀で受け止めたが、受け切れなかった大太刀の刃が、薬研の左手の甲を斬り裂いた。
「っ……!」
 力任せに刃を押し返し、間合いを取る。
「はぁはぁ、くっ……」
 薬研は歯を噛み締め、眉間に皺を寄せる。斬り裂かれた左手が脈打つように痛む。どれだけ深手を負ったのかは分からないが、血液が溢れ、流れ落ちるくらいだ。ほんの擦り傷ではない事は確かだ。
(くそ……っ! 一発で仕留められなかったか)
 大太刀の胸元に刃を突き立てたが、致命傷には至らなかったようだ。薬研は、目の前に立ちはだかる大太刀を見上げる。
(脳天か、首か……)
 そのどちらかを貫けば、今度こそ破壊出来る筈だ。
 再び振り降ろされた大太刀をかわしながら地を蹴り、薬研は先程よりも高く跳ぶ。大太刀の鎖骨辺りを、全体重をかけて蹴り飛ばすと、巨体は派手な音を立て、真後ろに倒れた。
 その巨体の上に着地すると、薬研は両手で短刀の柄を握り締め、大太刀の首へと刃を突き立てる。前傾姿勢になり、全体重をかけ、先程と同様に刃を深々と押し込んでいく。
「く、ぅ……っ」
 薬研は思わず呻き声を上げる。力を込める度に左手の甲からは血が溢れ出し、自分の刃を伝っていく。脈打つ痛みも更に増す。それでもこの手を緩める事は出来ない。この大太刀を確実に破壊する為……。

     *     *     *

 ――凄く静かだ。自分の荒い呼吸だけが響いている。
 薬研は大太刀に目を向ける。瞳からは光が消え、息の根が止まった事教えていた。
 それを確認すると、薬研は漸く手の力を緩めた。自分の左手を見ると、甲の傷からは今もなお、血が流れ続けていて、力も入らない。
(あー、くっそ……)
 身体が物凄く重い。左足で大太刀の身体を踏み締め、右手だけで深く刺さった刃を抜く。その拍子によろけ、ふらふらと一、二歩後退する。流石に血を流しすぎたのかもしれない。少し頭がボーッとする。
 薬研はふらつく足で大太刀の身体の上から降り、短刀を鞘へと納める。
「はぁ……。戻るか」
 仲間の部隊の皆が今何処にいて、どうしているのか、全く分からない。時間遡行軍は殲滅出来たのか、破壊されてしまった者はいないか。
 取り敢えず今は、元来た道を戻るしかない。覚束ない足取りで歩き出した薬研の後ろに、点々と紅い滴が続いていく。一歩、歩を進める度に左手から音もなく、血液が滴り落ちる。

     *     *     *
 茫然としながら歩いていると、微かに声が聞こえてきた。凄く聞き慣れた声だ。
 薬研は足を止め、力なく顔を上げると、前方に目を凝らす。
「――げん……やげーん!」
 自分を呼びながら、五振りが此方に駆けてくる。部隊長の加州清光、堀川国広、燭台切光忠、宗三左文字……そして、へし切長谷部だ。そんな彼らの姿を見て、薬研はホッと安堵する。
(無事、だったか……)
 薬研は軽く息を吐くと、張り詰めた糸が切れたかのように崩れ落ちる。だが、地面へとぶつかる寸前で、誰かに抱き留められた気がした。
 虚ろな目で少し見上げると、何処かホッとしたような、何かを咎めるような複雑な顔で、自分を抱く長谷部が見えた。
「……はせ、べ」
 そう力なく呼べば、長谷部は目を細め、睨みつけてくる。分かっている。彼がどうしてこんな目を、自分に向けてくるのか。
「薬研! 大丈夫ですか!?」
 息を切らして近づいてきた宗三は、心配そうに薬研の前にしゃがみ込む。痛々しい左手の甲の傷を見つけると、そっと手を伸ばしてくる。
「酷い怪我を……! 今すぐ手入れをした方が……」
「っ……!」
 薬研は、左手の手袋へと伸ばされた宗三の手を、思わず払っていた。驚いたように薬研の顔を見た宗三と、目を合わせる事が出来ずに、フッと逸らした。この手袋を取られたくないが為に、乱暴な事をしてしまった。
 重苦しい雰囲気を感じ、チラリと周囲を見渡す。いつの間にか周囲に来ていた男士達も、宗三と同じように驚いたような、腑に落ちないような表情を浮かべていた。
(あんまり心配かけちゃあ、いけねぇな)
 自分を抱いている長谷部の腕を解き、覚束ない足で立ち上がる。相変わらず身体は重く、頭もボーッとするが、無理にでも笑ってみせた。
「……帰るか」
 そう口にした瞬間、唐突に胸倉を掴まれた。薬研が目を見開いて仰ぐと、本気で怒った顔をした長谷部が見えた。
「自分のした事が分かっているのか貴様ぁぁぁ!!」
 長谷部の怒号が響き渡る。近くにいた宗三は、慌てて長谷部の手を引き離そうとするが、薬研の胸倉を掴む力はかなりのもので、そう簡単には外れない。
「長谷部……!」
 宗三は名を叫び、止めようとするが、長谷部は宗三に見向きもせず、薬研を睨みつける。
「何も相談もなしに! 勝手に突っ走り! 皆に心配をかけ! こんな怪我まで負って! 挙句の果てに手入れを拒むだと!? 貴様、何様のつもりだぁぁぁ!!」
「…………」
 言い返す言葉がない。薬研は黙り込んだ。本当に長谷部の言う通りで、正論しかない。
「は、長谷部! 俺が……部隊長の俺が、指示でも出してれば……ごめん」
 部隊長である加州は責任を感じているようで、自身の胸を掻くように服を掴む。
「お前が謝る事ではない、加州清光」
 長谷部は薬研に視線を向けたまま、先程とは違い、穏やかで……それでいて、しっかりとした口調で加州に言う。加州以外の刀剣男士達も責任を感じているのだろう。皆俯き、唇を噛んでいる。
薬研はそんな皆を目の端で見やり、申し訳ない気持ちになる。謝らなければいけないのは、此方の方だ。
 声を出そうと口を開くが、胸倉を強く掴まれているせいで声が出せない。苦しさで眉間に皺を寄せ、目を閉じると、宗三の声が聞こえてきた。
「長谷部、いい加減にしてください! 薬研は酷い傷を負っているのですよ!」
 そう長谷部に言い寄り、宗三は心配そうに地面に目をやる。地面には、薬研の左手から血液が滴り落ちて出来た、小さな血溜まりがあった。長谷部もそれをチラリと見やり、薬研を突き飛ばすように漸く解放すると、背を向け、歩き出してしまう。
 宗三が、力なく地面に倒れた薬研を抱き起こすと、他の刀剣男士達も心配そうに集まってきた。
「僕が薬研君を背負うよ」
 そう声をかけてきた燭台切に、宗三は目を向ける。
「ありがとうございます」
 宗三が礼を言うと、燭台切は背を向けてしゃがんだ。その燭台切の背中に、宗三は薬研をそっと背負わせる。気を失っているのか、疲れ果ててしまっているのか、薬研は固く瞼を閉じたままだ。
「長谷部さん、あんまりだよね」
 既に遠くを歩いている長谷部を見ながら、堀川は呟く。先程の長谷部の怒号は誰が見ても、かなり酷いものだった。宗三は困ったような顔で、堀川の言葉を肯定するように軽く頷くと、立ち上がり、長谷部の背を見つめた。
「あれが、彼なりの優しさなんですよ。あれでも凄く心配しているんです」
 長谷部の不器用さを知っている宗三は、薬研を心底心配しているからこその言動なのだと理解している。しかし、それでもやはり少しやりすぎのように感じる。
「ははっ……本当に不器用だよね、長谷部君は」
 薬研をその背に背負い、徐に立ち上がった燭台切も、同意する。軽く息を吐き、遠くを歩く長谷部の背を見つめた。
「さーて。長谷部がまた怒らないうちに追いつきますか」
 加州がそう言うと、何処からともなく怒号が飛んできた。
「置いていくぞ!」
 どうやら遅かったようだ。いつの間にか歩みを止め、此方に向かって叫んでいる長谷部が見える。
「あー、長谷部がお怒りのようですね」
 宗三はぽつりと呟く。長谷部の表情は見えなくとも、声で気持ちがよく分かる。
「さぁ、行こうか。皆走れる?」
 薬研をしっかりと背負い直すと、燭台切は皆を見渡す。加州は困った顔をしつつも頷く。
「うん、まぁ……大丈夫。堀川ー、ついてこれるー?」
「う、ん……頑張る!」
 堀川も頷き、それを確認した燭台切は薬研をおぶったまま走り出す。再び歩き出した長谷部に追いつくように、皆も走るしかなかった。

     *     *     *

 本丸の縁側を歩いていた大和守安定は足を止め、ふと庭に目をやる。そこには出陣していた加州の部隊が帰ってきていた。
「ただいまー。疲れたー」
 加州はドサッと縁側に腰かけて、ブーツを脱ぐ。そんな加州の姿を見ながら、大和守は労いの言葉を口にする。
「おかえりー……って、ん? 一振いない?」
 帰還した部隊を見渡したが、やはり一振いないように思える。疑問に思い、首を傾げる大和守に、ブーツを脱いで縁側に上がった加州は燭台切を指差して言う。
「あそこ、あそこ」
 大和守が燭台切を見やると、身体の脇から誰かの足が見えた。もう一度、帰ってきた部隊を見渡す。加州もいる、堀川もいる、長谷部もいる、宗三もいる。勿論、燭台切も。いないのは……。
「燭台切がおんぶしてるのって、薬研?」
 姿が見えないのは薬研しかいない。燭台切はチラリと背負った薬研を見やりながら、頷く。
「うん。手に酷い傷を負っててね。血の流しすぎで気を失ってるんだと思うんだけど。手入れ部屋は空いてる?」
 訊かれた大和守は申し訳なさそうに眉を下げる。
「まだ……前に帰還した部隊が……」
 二つしかない手入れ部屋は、現在埋まっている。
「どのくらいかかるかな」
 そう問われ、大和守は更に困ったように眉を下げた。
「太刀が二振りとも重傷で帰ってきて……。まだ、かなりかかると思う」
「そっか。どうしようか……」
 それを聞いた燭台切も困ったように、溜息を吐いた。一刻も早く、薬研を手入れしてあげたいというのに……。
「……燭台切?」
 突如、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえ、燭台切は振り返る。
「薬研君? 目が覚めたかい?」
「お、下ろして……いい。もう大丈夫だ。迷惑をかけた」
 おぶわれている事が、体裁悪いのだろう。薬研は小さな声で言う。
「え、でも……」
 下ろせ、と言われても、傷ついた彼を下ろすというのは、何だか気が引ける。躊躇する燭台切の背を、薬研は右手で軽く叩いた。早く下ろせと言うように……。
「本当に大丈夫かい?」
「ああ」
 薬研の返答を聞き、燭台切はゆっくりとしゃがむ。薬研は燭台切の背から離れ、そっと足を地につける。多少ふらつくが、先程より大分ましだ。
 軽く息を吐き、共に出陣した部隊を見る。沢山心配もかけたし、迷惑もかけた。自分勝手な行動をしてしまった事も事実だ。
 薬研は静かに口を開く。
「今回の出陣、色々と迷惑をかけた。本当に悪かった」
 薬研は深々と頭を下げる。こんな謝罪では足りないのかもしれない。だが、他にどんな事をしたらいいのか思いつかない。
 下げた頭をなかなか上げられずにいたら、不意に頭の上に何かが乗ってきた。
「悪かったと思うなら、その傷の手入れをさせろ」
 優しい声が聞こえる。長谷部の声だ。長谷部は薬研の頭に乗せた手を動かし、髪をわしわしと掻き乱す。
 『手入れをさせろ』という言葉に内心複雑な気分だ。手入れをするという事は、手袋を外すという事。この手袋を外すのは、どうしても躊躇われる。手袋を取った手を見られたくないし、見せたくもない。
 いつの間にか頭の上の感触が消え、少し寂しく思い、薬研は漸く頭を上げた。見ると、燭台切は堀川と食事当番があるようで、いそいそと去っていった。内番の畑当番が終わったばかりだったらしい大和守は、加州と湯浴みに行くようだ。
「では、僕は手入れ道具でも取って——」
 縁側に上がり、手入れ部屋へと行こうとする宗三を、薬研は引き留めるように声をかける。
「あ、宗三。手入れ道具は俺が持ってるのがある」
「そうですか?」
 宗三が何か手伝う事は……と考えていると、内番服に着替えた堀川がとことことやってきた。
「あ、あの、宗三さん」
 少し躊躇いがちに声をかけた堀川の方を見る。
「何でしょう?」
「食事当番なんだけど、燭台切と僕の二振りじゃあ、夕餉に間に合いそうになくて……」
 堀川の言いたい事が分かり、宗三は頷く。
「いいですよ。手伝いましょう」
「ありがとうございます」
 助かった、というように堀川は喜び、宗三は堀川と共に本丸の奥へと消えていった。
 取り残されてしまった長谷部と薬研の間に、重苦しい空気が流れる。長谷部が薬研を見やると、それに気づいて薬研は視線を逸らした。わざとらしい大きな溜息が聞こえたと同時に、薬研は左腕を掴まれた。
「……来い」
 拒否する訳にもいかず、引っ張られるままに歩を進める。縁側に腰を下ろした長谷部の隣に、仕方なく薬研も腰かける。
「手入れ道具は?」
「……」
 訊かれ、薬研は思わず黙り込んだ。
「持っているのなら出せ」
 更に言われ、いや……、とやんわり拒否する。
「……手入れは、俺が自分で―」
「宗三の時もそうだったが、何故手入れを拒む。その手袋を外せない訳でも?」
「……っ」
 核心をついてきた長谷部の質問に答えられない。黙り込んでしまった薬研に追い打ちをかけるように、更に畳みかける。
「そういえば、お前が手袋を外しているところ見た事ないな」
「そ、それは……っ」
 真実を言いたくないが為に、何とか言い訳を考えようとする。しかし、考えれば考える程頭は混乱し、何も考えは浮かばなくなる。
「とにかく……。その手袋の下を見せてみろ」
 薬研は焦った。あまり動かせない左手に伸ばされる長谷部の手から、咄嗟に右手で庇った。それでも伸ばされる手に左手は捕らえられ、引っ張られる。
「い……っ!? は、はせ……べ……い、いた……っ、く……っ!」
 深手を負った左手を思い切り掴まれた薬研は、歯を食い縛り、呻き声を上げる。傷の痛みで抵抗出来なくなったうちに、長谷部は静かに左手の手袋を引く。血は止まっているようだが、手袋に付着した凝固した血液が傷の深さを物語っている。しかも、傷と手袋の間で血液が凝固したせいで、傷口に手袋が張り付いているようだ。それを取るように引っ張れば、薬研はビクッと身体を震わせる。無理をして取れば、また出血してしまうかもしれない。
「長谷部……俺が、自分でや――っ」
 そう懇願するように言ってみたが、長谷部は手を離そうとしない。
「まぁ待て」
 慎重にゆっくりと手袋を引っ張ってみるが、余程痛いのか、薬研が右手で拳を作り、太腿を殴ってくる。
「痛い。止めろ、薬研」
「は……っ、そりゃこっちの台詞、だっ」
 そう言う薬研の息が荒くなり、辛そうなのが伝わってくる。どうするべきか、と考えた末、長谷部は口を開く。
「埒が明かんな。……一思いにするか」
 そんな恐怖の言葉に、薬研は青ざめる。
「え……おい待て、はせ……べ……っく、うぅ!?」
 止める間もなく、勢いよく手袋を引かれる。同時に、まるで皮を剥ぎ取られるような痛みが左手に走った。薬研は目を固く閉じ、思い切り歯を食い縛り、痛みに耐える。
「やはり、傷が深いな」
 血濡れた手袋を取り、長谷部は露になった傷口に目をやる。だが、その周囲の皮膚が荒れている事に気づく。
「ん? これは……」
 凝視して見てみると、今日ついた傷以外に左手の手首から下―手の甲と掌にかけて広がっている古傷。だが、刀傷ではない。その傷は皮膚が突っ張ったような感じだ。
「薬研、これは……火傷痕か? これ全部……」
「見るな……っ!!」
 右手で思い切り長谷部の肩を押し、その拍子に緩んだ長谷部の手から薬研の左手はするりと落ちる。薬研はその左手全体に広がった火傷痕を隠すように、右手で覆った。
 見られたくはなかったのに……。あの事件を思い出して欲しくはなかったのに……。そして何より、あの事件でついたこの火傷痕が、この身体に刻まれている事を知られたくはなかったのに……!
「…………あの時の、か……」
 隣で長谷部が静かに呟いた。どんな顔をして言っているのだろう。薬研はゆっくりと顔を上げ、長谷部の顔を見た。まるで昔を思い出すように、遠くを見ている。その表情は怒りでも悲しみでもない。もう、諦めているかのような……。
「あの炎は色んなものを燃やしてしまったな」
「…………」
「俺はあの場にはいなかったが、後に聞いた話で、短刀二振りが焼失したという事実を知った。全てはあの男が……」
 長谷部が言わんとしている事が、分かったような気がした。彼は、前の主―織田信長の事を快く思ってはいない。確かに、織田の事を快く思っていなかったのは長谷部以外にもいた事だろう。しかし、織田が本能寺に火を放たれた原因を作ったかまでは不明だ。時代が……歴史が……そういう方向へと向かう運命だったのかもしれない。
「長谷部。俺は確かに、この火傷痕が忌々しいよ」
 薬研は覆っていた右手をずらし、自分でもそうまじまじと見た事がなかった火傷痕を、改めて見つめた。これを見ると、あの時の事が鮮明に思い出される。

     *     *     *

 人の身体を得てなかったあの頃は、迫りくる炎から逃れる事も出来ず、ただ己の鞘が……刀身が……燃えていく熱さと痛みに、じっと耐える事しか出来なかった。
 視線の先で、織田の名前を何度も呼ぶ不動行光が見えた。薬研は薄れる意識の中で、同じく炎に飲まれている不動へと手を伸ばした。その手は届く事なく、焼き尽くされていく。
「ふ、ど……っ……不動……っ!」
 そう悲鳴にも似た叫びを上げると、その声が届いたのか、不動は薬研に目を向けた。その表情は『絶望』という言葉が似合っていた。
「ん、で……なん、で……こうなったん、だろう……な」
 今にも消えそうな声で、「何で、何で」と呟く。
「なぁ、薬研……俺、まだ……あの人に……何にも、返して……ない、のに……っ」
 そう言って、不動は一筋の涙を流す。薬研はもう一度燃える手を伸ばしたが、目の前を炎で遮られ、何も見えなくなる。
(不動……本当に何で……こんな事に、なったん……だろ……な……)
 フッと瞳を閉じれば、炎が何もかもを燃やしていく音だけが聴こえる。
 そこで薬研の記憶は途絶えていた。

     *     *     *

「――げん……やげん……薬研……!」
 自分を呼ぶ長谷部の声でハッと我に返った。長谷部に目をやると、大層心配そうに見つめられていた。
「あ、ああ……。悪い……」
 そう言って、薬研は再び火傷痕に目をやる。何度見ても酷い痕だ。
「確かに、思うよ。何で俺にだけ、こんな痕が刻み込まれたのか……。何らかの戒めなのか、それとも……」
 歴史が、前の主――織田信長が、あの事件を忘れさせまいとしているのか……。どちらにしても、薬研の両手には消える事のない火傷痕となって刻み込まれたのだ。
「お前の弟達や兄はこの事……」
「言ってねぇよ。言えるかよ。俺は……ずっと隠し通すさ。だからあんたも……この火傷痕の事は忘れてくれ」
 そうして、薬研は一振りで……この忌々しい痕を抱えたまま生きていくのだろうか。知ってしまったのに、知らんぷりをしているというのは、性に合わない。
 長谷部はもう一度薬研の左手を手に取り、真剣な眼差しを向ける。同じ前の主を持った者として、一体何が出来るのだろう。
(俺は、あの本能寺で起きた悲劇を体験した訳でもないし、ましてや薬研の痛み等分かる筈もないのだが……)
 放っておけない。放っておく訳にはいかない。
「せめて宗三には言っておくか……」
 長谷部がそう呟くと、薬研は首を横に振る。
「やめろ。こんな事は知らない方がいい」
「……そうか」
 そうやってずっと、一振りで抱え込んできたのだろうか。誰にも話せず、あの悲劇を象徴するような火傷痕を手袋で隠しながら……。そして、これからも隠し続けるのだろう。
「抱え込む必要はないからな」
 その言葉に、薬研は長谷部を見る。火傷痕を食い入るように見つめ、一緒に苦しんでいるかのような表情を浮かべている。そんな長谷部を見て、薬研は呆れたように言った。
「あんた、馬鹿だな。俺が必死に隠そうとしてんのに、自ら背負うつもりか?」
「ああ。背負わせろ」
 きっぱりと言い切った長谷部に対し、静かに溜息を吐く。
「あんたのそういうとこ好きじゃないなぁ」
「奇遇だな。俺もお前のように痩せ我慢をする奴は好きじゃない」
「へぇ……」
 何だ、お互い様か……と、薬研が呆れたように笑みを浮かべると、長谷部は右手を差し出してきた。
「ん?」
「手入れ道具を貸せ」
「……」
 薬研はまた躊躇する。だが、ずっと隠していた火傷痕も見られてしまったし、もう拒否する理由はないのかもしれない。今更……という事もあって、薬研は体裁が悪そうにしぶしぶと道具を渡す。消毒液にピンセットにカット綿……。それらを受け取ると、長谷部は小さな箱に入ったカット綿をピンセットで摘み、それに消毒液をかけ、慎重に薬研の方に持ってくる。手先があまり器用ではないのだろう。ピンセットを持つ手は震えている。
 困った顔で見ていた薬研は、思わず口を開いた。
「なぁ。俺がやろうか……?」
 だが、長谷部は真剣な眼差しを、ピンセットで挟んだカット綿に向けたまま、「いや……」と呟く。薬研は大袈裟に溜息を吐いて、自ら左手を差し出した。乾いた血液が張りついた傷口に、長谷部はカット綿でチョンチョンと軽く叩く。
「い……っ!」
 小さな悲鳴に、長谷部は手を止め、ハッと顔を上げる。薬研の顔を見ると、片目を瞑り、少し呻いていた。
「わ、悪かった……!」
 長谷部が心配そうに、申し訳なさそうに謝ると、何故か薬研に笑われてしまった。そんな薬研の反応が理解出来ず見ていると、薬研は笑うのを止めた。その代わり目を細め、口角を上げる。何処か意地悪そうな笑みだ。その表情に、長谷部は思わず息を呑む。薬研のこういう顔に惹かれてしまうのだろう。僅かに熱を帯びてくる顔を冷ますように軽く左右に振ると、平静を保っているかのような口調で言う。
「さっき痛がっていたのは冗談か?」
「何で冗談だって思うんだ?」
「お前がそんな顔するからだ」
「そんな顔って?」
 そう言って薬研はまた目を細め、楽しそうにクックックッと笑う。ああ……何故こんなにも煽ってくるのだろう。
 長谷部は床にピンセットを置き、薬研の後頭部に右手を回す。そっと引き寄せると、薬研は楽しそうに笑みを強めた。
「何がそんなに楽しいんだ」
「あんたが余裕なさそうだから」
 あっさりと見破られてしまった事にムッとし、長谷部はゆっくりと瞳を閉じながら、薬研の唇にかぶりついた。
「ん……」
 唇を甘噛みされる感覚に浸りながら、薬研もそっと目を閉じる。刀だった頃には感じた事のない甘い痺れが、身体中を駆け巡る。
「あ、ふ……っ」
 薬研は何かに掴まりたいと、今しがた手入れしたばかりの左手を伸ばす。まだあまり力の入らない指で、長谷部の胸元を掴んだ。
「は、……はせ、べ……っ、はぁ」
 息継ぎの為に離した唇から、吐息が漏れる。薄っすらと目を開けてみると、長谷部も荒い呼吸を繰り返していた。薬研は徐に右手で自身の左胸を押さえる。鼓動がうるさい。まるで敵と闘っている時と同じだ。凄く興奮する。
「さっきまでの余裕はどうした」
 僅かに潤んだ目で長谷部を見ると、今度は長谷部が楽しそうに口角を上げている。
(あー……腹立つ、な……)
 少しだけ長谷部を睨んでみるが、嘲笑うかのように再び薬研の唇を奪う。
「ん、あ……あ、っ……!」
 舌で唇を割られ、ゆっくりと口内に侵入してくる。
(やばい、な……呑まれる、っ)
 朦朧とする中、薬研は無我夢中で自身の左の腰に手をやる。短刀の柄を掴むと、音もなく抜き、そっと刃を長谷部の首筋へと宛がった。その気配に気づいたのか、長谷部は徐に唇を離し、薬研を睨む。
「どういうつもりだ、これは」
「見たまんま、だな」
 そう言われ、長谷部は自身の首に添えられた刃に目をやる。そして、次に薬研へと視線を移す。薬研は、さぞ不機嫌そうに睨んでくる。先程までの楽しそうな表情はどうしたのだろう。
「良かった……のでは、ないのか?」
「いつ、誰が、そんな事言ったんだ?」
「く……くそがき、が」
 長谷部がそう悪態を吐けば、薬研は先程よりもきつく睨んできた。
「確かにこんな見た目だが、あんたより長く生きてるんだけど、文句あるのか?」
 その言葉に、長谷部はハッと思い出す。
(そ、そういえば……正論だ……っ!)
 いつの間にか青ざめて硬直してしまった長谷部を見て、睨むのを止め、わざとらしく溜息を吐く。反省したようだし、今日はこれくらいにしておこう。
「何をやっているのです?」
 ふと聞き慣れた声が聞こえ、薬研と長谷部はビクッと視線を向ける。声の主を確認するや、少し胸を撫で下ろす。
「宗三か……」
 長谷部はフーッと息を吐くと、首筋に冷たい感触がした。そういえば、まだ刃を当てられたままだった。
「喧嘩でもしたのですか?」
 短刀を突きつけている薬研と刃を当てられている長谷部を交互に見やり、心配そうに訊いてくる宗三に、長谷部は力なく笑い、そっと短刀を握る薬研の腕を押し退ける。
「まぁ、そんなとこだ」
「そうですか……。あ、傷の手入れは終わったのですか?」
 その問いに、薬研は咄嗟に左手を後ろへと回した。この忌々しい火傷痕を、宗三にまで見せるつもりはない。
「あ、ああ。長谷部にやってもらった」
 できるだけ平静を保って答えたつもりだが、やはり動揺はなかなか隠せない。もしかしたら、何か隠している事に勘づいてしまったのかもしれない。しかし、そんな素振りは一切なく、宗三は徐に床を指差す。
「その手袋はもう使い物になりそうにないですね」
 宗三が指差した床には、血塗れた片方の手袋が落ちていた。手袋に近い長谷部がそれを拾い、薬研に見せる。
「薬研。これは捨ててもいいだろう?」
「ああ。手袋はまだ予備がある」
「それは良かったです。誰かに見られたくなければ、早めに着用した方がいいですよ」
「え……!?」
 薬研と長谷部は思わず声を大にして叫んでしまった。まるで、もう知っているような意味深な宗三の発言に、二振りはビクッと身体を震わせた。
「あ、もう夕餉が出来たので来てくださいね。皆さん待ってますから」
 そう言って静かに去っていく宗三の背を、二振は呆然と見つめる。
「案外、気づいているのかもしれないな。あいつは妙に勘が鋭いところがある」
 必死になって隠していた事が、裏目に出てしまったのだろうか。
 薬研は後ろに回していた左手を前に回し、手を広げ、もう一度まじまじと見る。掌全体にも広がっている火傷痕が、あの時の悲惨な状況を表している。思い出したくもない記憶だ。だが、決して消える事のない記憶でもある。
「俺が……俺だけが背負うつもりだったのになぁ」
 ハハッと力なく笑ってみると、長谷部は静かに薬研の肩に手を回す。ゆっくりと引き寄せると、そっと耳元で囁いた。
「それがお前の悪いところだ」
「あんたに言われたくないね。あんたも頼まれたら断れなくて、ぜーんぶ背負っちまう質だろ?」
「……耳が痛いな」
 痛いところを突かれ、長谷部は大袈裟に項垂れる。だが、こうして見ると、意外と似たもの同士なのかもしれない。
「そろそろ行かねばな。皆を待たせてるんだったな」
 長谷部は立ち上がり、靴を脱いで、縁側へと上がる。それを見た薬研も急いで縁側へと上がり、歩き出す。
「俺、着替えてくる」
「あ、ああ……そうだな、俺も――」
 長谷部も私室へ行こうと歩き出した時だ。縁側に抜き身の短刀が置いてあるのに気がついた。
「薬研!」
 そう声をかけると、薬研は立ち止まり振り向いた。それを確認すると、長谷部は短刀を手に取り、投げ渡す。しっかりと受け取った薬研はニッと笑い、静かに鞘に納めた。
「ありがとな」
 そう笑顔で言うと、背を向け、再び歩き出す。そんな薬研の後ろ姿を見ながら、辛そうに唇を噛み締める。
「…………痛々しいな」
 敢えて気丈に振る舞っているのか、過去を忘れようとしているのか……。
 長谷部がいくらあの悲惨な事件を想像しようにも、薬研が感じた痛みは感じる事が出来ない。あの本能寺での出来事は全て、体験した者でないと真の痛みは分からないのだ。
(だが、支えてやる事くらいはできる……)
 愚痴でも弱音でも全部聞いて……。それを薬研がしてくれればの話だが。
 いつの間にか薬研の姿が見えなくなった事に気づき、長谷部は漸くその場を離れた。

     *     *     *

 薬研と長谷部の元を去った宗三は、二振りが見えなくなる曲がり角を曲がったところで立ち止まった。
(あの時手入れを拒んだのは、やはり……)
 左手の甲に刀傷を負った薬研の手入れをする為、手袋に手をかけた時だ。勢いよく振り払われた事を思い出す。そして先程、見てしまった。左手全体に広がっていた酷い火傷痕を……。
(あの火傷は……火傷痕は……っ)
 宗三は思わず両手を広げ、掌を見やる。何の傷跡もない綺麗な手だ。しかし頭に張り付いて消えないあの光景。
 炎が建物を焼き、自身へと迫りくる熱。何処にも逃げる事も出来ず、ただ熱さと痛みに耐える事しか出来なかった。じりじりと鞘を焼かれ、柄を焼かれ、そして刀身も焼かれ……。本能寺の何処かにいたであろう薬研と不動の元へも行けず……。
「何故……何故……あの時負った火傷が薬研にだけ……」
 自分や不動にも火傷痕が残っていても良かったのではないか。何故、薬研にだけ辛い痕を背負わせるのだろうか。そして何故、薬研は一振りだけで背負おうとするのだろうか。宗三は寂しそうにフッと息を吐いた。
「そういえば、甘えるのが下手でしたね。長谷部と同じく」
 それならば、少しでも辛さを取り除いてやりたい。どんな事をすれば、薬研の為になるのか……。色々考え、結局浮かんだのは飲み会をする事くらいだ。だが、それで話に花を咲かす事ができたら……。少しでも辛い過去の記憶を和らげる事ができたら……。
「何か面白い話のネタでも考えておかなくてはいけませんね」
 そう呟きながら、宗三はふんわりと頬を緩ませた。
(どうせなら長谷部も誘って)
 薬研と長谷部との三振りで酒を酌み交わすのは、意外にも久しぶりかもしれない。楽しい席になる事を祈りながら、宗三は夕餉の席へと向かうのであった。



2017.03.27
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