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記事一覧

  • 夏油傑(呪廻)

    20200710(金)18:15
    ▼刹那


     自分の死に方が決められるならば、揺るぎの無いその黒曜のまなこに射抜かれて死にたい。洗い晒しの白いシーツに横たわりながら、強く、願った。
     吐露したら、貴男の眼光は鈍るだろうか。「君を看取るつもりはないよ。」なんて可愛げの有る事を言うのだろうか。腹上死、なんてものも世の中には有るのだと教えたら笑ってくれるだろうか。
    「何を考えているの?」
     やわらかな慈雨が声の形を取って、私へと降る。思考を掠め取る目論見は無く、只いとけなく戯れるようにして額を合わせられた。その拍子に、さらりと落ちて来た黒絹が頬を滑らかに擽るが、振り払う気は更々無い。組み敷く男の両の肩へと手を添える。
    「私と傑との事しか考えていないよ。ずうっと。」
     髪も袈裟もほどいて世俗的な黒のスウェットを纏う彼は、教団の教祖から、大義を掲げる首魁から、一人の男に変わる。射干玉の帳の中でのみ見られる彼の顔は、きっと、私しか知るまい。
     肩に置いていた手を首筋に回して、触れてくれるよう急かす。言う事を聞かぬ我が子を相手取るように、やれやれ、とでも言いたげに眦を下げてはいるが、それだけだ。目は心の鏡とされている。睫毛の絡みそうな極至近距離でお互いを映し合う其所には、私が宿しているものと同じ色をした情欲の火が灯っていた。
     ふ、と呼吸を飲み込んだ唇が睦み合う。啄む毎に惜しくなって、より深くを求めた。
     嗚呼、この儘、世界が閉じてしまえば良いのに。

     
  • 五条悟(呪廻)

    20200607(日)11:57
    ▼左様然らば左様なら


     家入さんと夏油くん、夜蛾先生が揃って教室から出払った後のしじまを埋めたのは、普段の格好付けからは遠くかけ離れた如何にもな不貞腐れた声であった。
    「つまんねー。」
     頬杖を突いて態とらしく外方を向いている白髪頭の中身を読み取る事など、読心なんて大それた術を体得していなくとも容易い。彼は、我が一族の繁栄の為に身を捧げると言う私の選択に一つも納得していないのだ。
    「反骨精神が受肉したような人からすれば、そうかも知れませんね。」
    「いつまでも親の言いなりになって安心しているような精神的脛齧りの気持ちなんて、一生懸けても理解出来る気がしねー。」
    「言いなりになる事は自分で決めた事なので、言いなりではありませんよ。」
    「詭弁だろ。」
     言葉を一つ交わす都度に、彼のご機嫌が斜めに下降してゆくのがわかる。棘を纏って私を穿たんとする声の音は、今や、地を這うが如く低く剣呑なものとなっていた。
    「――そうですね。」と打ち込んだのは、相槌であり肯定だ。しかし、なにも、私に意思が無いと言う訳ではない。先日の帰省の際に我が一族から提示された総意は、考え得る限り最善手で、彼等の選択は尤もなもので、私の腑にもすんなりと落ちるものであった。だから全うしようと決める事が出来たのだ。
    「貴男は人を従わせるのが性に合っていて、私は人に従うのが性に合っていると言うだけの事です。お気になさらず。」
     家や血縁を愛する気持ちを持ち得ているがこその決断だったが、私の性質として、個よりも全を優先する気質でもまたあるのだ。個人プレイの極致みたいな五条くんに気持ちがわからなくても仕様が無い。
     向こうの平行線をゆく交わらない彼が、徐に此方に向き直る。臍は曲がった儘なのだとは、唇の角度がしみじみ教えてくれた。への字に結ばれたそれが、薄く開かれる。
    「じゃあ、俺と駆け落ちでもするか。」
     かけおち。単語をなぞる舌はぎこちなかった。
     茶化される事を期待して、一拍置いて、二拍置いたって、五条くんは何も言わない。サングラスの奥に据わる蒼い双眸に真意を問い掛けると、鋭さがいや増したように思われた。
    「本気ですか。きっと追われますよ。」
    「本気だよ。追って来たって誰もついて来られない。」
    「呪詛師にでも転向する気ですか。」
    「やり方はそればっかりじゃないだろ。」
    「家も、この世界も、丸ごと擲つ心算ですか。」
    「ビビってんの? 心配すんな。だから、俺にしとけ。」
     椅子を寄せて、膝の上に置いていた手が取られる。包み込むようにして握られた。その気になれば簡単に振り解けるだけの力だが、これは家族間で遣り取りされるお願いが全くちゃちなものになってしまうような、言うなれば王命だ。
     呪術界の御三家に数えられる五条家の嫡男。埒外の呪力と術式、それを御する六眼を納めた至宝。共に高専で時を過ごしたクラスメイトの顔を剥ぎ取って迄、求めてくれるのか。――だとしても。
    「お断りします。」
     私が望むらくは、そんな事も言っていた、と数年後に笑い合えるような平穏無事な未来だ。此所で五条くんの手を取ってしまえば、泡沫の夢となるばかりか、彼の人生をも打ち壊してしまう。
     優しい檻のような手に触れると、矢張り、然程力を込めずとも外れた。
     面罵と近似した反撃が飛んで来るものと、応戦する言葉を咽頭に装填していたが、身構えていても一向に発される気配が無い。居た堪れずに五条くんを振り仰ぐ。その表情は削ぎ落ちていて、心情が読み取れなかった。
    「……ごめんなさい。」
     不図、口を衝いて出たのは、常の威風堂々としたものではない顔付きが、何だか酷く深く傷付いているように見えてしまったからだ。
    「つまんねー。」
     五条くんがもう一度、静寂に罅を入れる。言葉は同じものでも、声色は丸きり同じではなかった。

     
  • 夏油傑(呪廻)

    20200605(金)02:10
    ▼春よ遠くにゆけ


     我等は生者なのだから、春になったら冬の衣を仕舞って新たな装いをするように、そうやって生きてゆかなければなるまいよ。
     斯様な事を笑って言ってのけた祖父が死んだ。家長が死んだ、家の当主が死んだ、術式を身に宿した先達が死んだのだ。それは詰まり、我が呪術一家の術式を受け継げなかった父母に成り代わり、私が大それたお役目を頂かなければならないと言う事だ。何時か訪れる日に向けて覚悟をしていた心算であったが、時は己で選べるものと勘違いしていたらしい。高専を卒業する迄、当主の仕事の引き継ぎやら何やらは待ってくれるとの話だが、既に気が重たくて仕方が無い。いっそ、限界値迄留年してしまいたい。
     あれ程に敬愛していた祖父の死だと言うのに、喪失の痛みよりも保身ばかりが脳味噌をちらつく。薄情なものだ。
    「先の事を考えている証拠だろう。お祖父さんも浮かばれるよ。」
    「そうかな。」
    「そうだよ。」
     葬儀を執り行った後の片付けもひと段落したので、私は数日振りに高専に戻って来られた。父母から骨身に染み込ませるように聞かされたこれからの話を誰かに聞いて欲しくて、堪らなくて、廊下で出会した傑くんに泣き付いた。そうでなくても会いにゆきたかったから、都合が良かった。
     彼は快く自室に招いてくれたし、落ち着くようにと自販機で温かい飲み物も買って来てくれた。話す側から相槌を打ってくれる、穏やかな微笑と声音を使って肯定的な言葉を掛けてくれる。だからこそ、自分がより嫌になるのも事実であった。居た堪れずに机に突っ伏す。
    「傑くんが死んでもこうかも知れないよ。かなしがる事もなくて、如何やったら思うさま生きてゆけるだろうか、なんて事ばかりを考えるんだ。」
    「私無しでは生きられないだなんて、随分な口説き文句を言ってくれるね。」
    「そうだよ、その通りだ。傑くんが居なかったらうまく生きられやしない。」
     だからしなないで。懇願はデパートの玩具売り場で駄々を捏ねる子どもみたいな懸命な涙声で出て来た。身近であった筈の人の死が、身近な場所に影を落としたからだろう。幾ら精神的な鍛練を積んだ呪術師でも、親しいひと、愛しいひとを失うと斯うも容易く人間に戻されてしまうのか。
     ややあって、机上に散らかる髪のひと房が掬い取られる感覚が地肌に伝わって来た。言わんとしている所はわかっていたが、未だ顔は上げられない。今度は後頭部に手が置かれた。撫でられる毎に少しずつ、体温が伝わる。
     生きて、熱を持っている。
    「うまくなくて良いから、それでも私は、君に生きていて欲しい。」
     このひとはきっと、祖父の言うように軽やかには生きてゆけないひとなのだろう。
     泣いてしまいたくなるくらいに真摯な声にそう過ったからこそ、「傑くんは私が死んだら如何する?」なんて事を尋ねるのは、何よりもひどく残酷な事のように思われた。

     
  • 吉田ヒロフミ(鎖鋸男)

    20200526(火)03:17
    ▼吊り橋の君
    (『吉田ヒロフミ』でリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


     ビルヂングとビルヂングの隙間に押し込まれた時には何事かと目を剥いたが、然り気無く角の先を確かめる彼の視線が理解を強いた。何者かに尾行けられているのだ。彼は私の肩を抱いて路地の奥へ奥へと進む。表の喧騒が遠ざかってゆく毎に不安が増幅してゆく。
    「ねえ。如何するの?」
    「殺す。」
    「ころす。」
    「俺、君のお父さんに君の護衛として雇われたから。じゃ、どっかその辺に隠れてて。」
     大丈夫だとか心配は要らないだとかの気遣わしいその場凌ぎを期待した私は大いに混乱した。人道に悖ると叱るべきか、死体処理は如何するのかと更に問うべきか、然して特別な行為でも無いと口にした彼を畏怖するべきか。浮かんだどれもが、危機に追われる緊張を紛れさせてくれやしない。
     私がやるべき事は、歯を食い締めて、冷や汗塗れとなった頭を只々縦に振る事だけ。初めからそれしか無かったのだ。肩が押されるのを合図に、縺れそうな脚で路地を駆ける。奥まった場所に行き着くと、急いで目ぼしい室外機の影に避難する。
     ――暴力が振るわれる音を、初めて聞いた。
     耳を塞げども骨に響いて来る、不快で不安になる異音。苛まれる頭を抱えて喘ぐと、からからに乾いた咽頭を通って、不衛生な臭気が鼻腔を突き刺した。それが何が揮発したものかなんて、知らずともわかる。視線を下ろすと、お気に入りのスカートが土埃に汚れているのが見えた。先程ポリバケツに打ち付けた太腿が痛み始める。
     嗚呼、今日はデパートの屋上でアイスクリームを食べる筈だったのになあ。
    「お嬢さん、見ィつけた。」
     護衛の彼がしゃがみ込んで私を覗き込んでいた。
     ヒ、と喉が引き攣る。切り揃えられた髪から覗くリングピアスが犇めく耳は厳つくてこわいし、人を害した後だと言うのにチェシャ猫みたいににんまりとしている唇の形も却ってこわいし、路地裏の影よりもどんよりとして見える黒瞳は出会って三日が経った今でもこわい。護衛の契約は父母が旅行に行っている十日の間だけとの事だが、十日どころか仮令一年経とうと彼と言う存在に慣れる気がしなかった。
    「隠れるの上手いね。終わったからもう行こうぜ。アイス、食べに行くんだろ。」
     立ち上がると首を傾いで、私が重たく抜けそうな腰を上げるのを待っていた。アイスクリームを楽しみにしているのだとわかるやや浮いた調子。同じ年格好の人間なのだと、漸く安堵出来る気がした。

     
  • 虎杖悠仁(呪廻)

    20200524(日)22:26
    ▼落ちるはお手のもの
    (『虎杖悠仁の片想いもの』とのリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


     瓦葺きの屋根から足を滑らせた原因は胸の高鳴りにあり、崩れた体勢から何とか着地が叶ったのは、好きな女の子に無様な姿は見せたくないとの男子の意気地のお陰であった。
    「大丈夫!?」
     血相を変えて素っ飛んで来た少女が、悲鳴じみた声で安否を問う。当の虎杖も肝を冷やしたが、彼を高所に押し上げる事となった彼女も相当だろう。不安を払ってやるべく、脚全体に伝わる痺れを堪えて早急に立ち上がると、虎杖は片手を挙げて応じた。「ダイジョブ、ダイジョブ。」。人よりも頑健な肉体で良かった。これで足の骨など折ろうものならば格好が付かないし、何より、自分の不手際で少女が自責に駆られて苦しむなんて耐え難かった。
    「――と。はい、コレ。破れてたりしてないかな。」
     落下の最中でも握り込まぬよう、しかし決して離さぬように掴んでいた紙片を少女へと差し出す。何やら物言いたげな様子であったが、少女は紙片――大切な護符なのだと肌身離さずにしていた一体の札を受け取って、素直に表を裏をと神妙な顔で検分し始めた。
     しかし、古びた木の梯子を持ち出してふらふらしている少女を見掛けた時は仰天したものだ。突風が護符を屋根の上に攫ってしまったのだと、彼女は泣き出しそうに右往左往していたのだ。其所に通り掛かったのは実に運が良かったと、虎杖は思う。
     彼女では、屋根なり梯子なりから落ちてしまったら只事では済まない。
     そう案じたからこそ、彼は自分が代わりにゆくと申し出たのであった。その結果、年季の入った大きな蔵のような建物をのぼり、瓦に載っかっていた札を掲げた瞬間に見えた花の笑顔に気を取られて、見事に滑落したのだが。いとしの少女を危険から遠ざけられたのだと考えれば、此所は良しとするべきだろう。
    「うん。何ともないみたい。」
     固唾を呑んで見守っていた虎杖の眼下で、小振りなこうべがちんまりと頷いた。芯からの安堵の息をつく。
    「大事なものだって言ってたもんな。無事で良かった。」
    「私は虎杖くんの事も大事に想っているよ。」
     親が子に言い含めるような響きをした少女の言葉が、真っ直ぐな眼差しと共に向けられる。彼女のまなこに宿っている感情の名は、恋愛に結び付かないものだ。わかり切っていても、虎杖には充分に甘やかであった。
    「有り難うね。虎杖くんにも怪我が無くて良かった。」
     札の無事を確かめても顔が強張っていたのはその為か。漸くほぐれた少女の頬がとろりと笑むと、充足感をたっぷりと含んだ血潮が、虎杖の身体の隅々迄を熱くめぐった。
     晴れやかな心地に浮かされた口角が、自然と上がる。
    「どういたしまして。」


     
  • 五条悟(呪廻)

    20200524(日)03:47
    ▼何もない朝。
    (『何もない朝。』をテーマにした話とのリクエストを頂きました。有り難う御座います。)



    「神様ってやつは、世界を作って七日目に裸足で逃げ出したんだってさ。」
     朝陽をふさぐカーテンの内側の、二人分の体温でぬくもる寝台の上で、ちかちかと光るような男は億劫そうに語り出した。
     そんな教えだったろうかと思案に視線を外した隙を狙ったかのようにして、大きな口がぽっかりと欠伸をする。
    「僕達は神様がいない八日目を生きている訳だ。末広がりで縁起が良いと思わない?」
     何を言いたいのかが察せないのでは、ハア、と気の無い相槌を打つしかない。退屈な態度は彼にとって良い子守唄となったのであろう。伸びやかな欠伸が繰り返された。それは次第に私にも伝播して来て、とろとろとした蜜のような眠気が頭の奥から追い縋る。
    「君は?」
     道連れにするべく、安らかに閉じてしまえと念じながら、ぽんやりと霞んでいる蒼のまなこに手を翳そうとする。彼の手の動く方が早かった。血のよく通ったあたたかな指が頬に触れる。
    「君は僕がいなくなっても生きられる?」
     まるで神様気取りな物言いではないか。
     貴男がいなくては生きてゆけない、なんてメロドラマみたいな台詞を言える程、私の足の力は弱くない。そんな事を言う暇が無いくらいに、貴男のいない世界は混乱と波乱に満ちるであろう事も容易く予想がかなう。だが、その日はきっと遠い。永遠にも似た距離の先を想像するなんて事、一足す一の計算がやっとの思考力ではむつかしい。
     宙ぶらりんだった手を引っ込めて、そうっと彼の胸に添える。心臓の打つ、とくりとした振動がする。十を数える前に自然と目蓋が落ちていた。囁くような笑い声を伴って、固い指先が耳朶を擽って来る。
    「おやすみ。ブランチにはホットケーキをよろしく。」
     脳裏に閃光がしばたいた。冷蔵庫の中がすっからかんである事を、今、思い出した。ア、と発された音もお構い無し。リクエストを押し付けるなり、彼は安らかなるもうひと眠りの為に私を抱き締め直して、たちまちにすうすうと規則的な寝息を立て始めた。
     起きたら材料を買いにゆけば良いだろう。二人で食べにゆくのも良いやも知れない。私も彼に続こうと、最後の力を振り絞って、腹迄ずり下がっていた掛け布団を引き上げる。棺桶の中に敷き詰められた布団と同じ色だ、と何とは無しに思ったものだから、今日は新しい布団カバーとシーツを買い揃えようと決めた。

     
  • 五条悟(呪廻)

    20200523(土)00:34
    ▼角砂糖
    (『角砂糖』で縦読みのリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


     角を額にくっつけたかの白馬は純潔の乙女に思慕を寄せるが、騙られたと知るや否や、その角でひと突きにして殺してしまうらしい。そんな伝説が頭を駆け巡ったのは、走馬灯にも似た現象に違いない。背中を冷や汗でしとどに湿らせながら、私は努めて平静に悟さんの隣を歩く。任務を終えた今こそが絶好の機会なのだ。これを逃す手はあるまい――と言うのは建前で、本心としては逃したくて堪らないったらない。ちらり、と背高のっぽのご機嫌を窺う。
     砂金とも比べられるような希有なる瞳は、陽光を受けて澄んだ蒼色を湛えているものの、任務明けの為かやや濁って見えた。精密な呪力操作が必要とされる無下限術式、それをばかすかと放って力押しのお手本を見せてくれた彼だ。
    「糖分が足りねぇ。」ほら、来た。内心でひいひい悲鳴を上げながら、然り気無いさまで右の拳を差し出す。「どうぞ。」「何?」「糖分です。」ぎこちなく開いた手の平には、個包装されたブラウンシュガーの角砂糖――と言うのは、嘘、だ。正体はクルトンだった。硝子さんとのゲームに負けたわたしは、「五条に何か悪戯して来て。」との悪魔じみた罰ゲームを遂行中なのであった。傑さんなんかも、「君がチョコレートだと言ってカレールゥを差し出しても口まで運ぶと思うよ。」と朗らかに笑って見送ってくれたものだ。流石にそのレベルは気が引けたので、こうして食べられるものにした訳だが。ごくり、と生唾を呑む。左のポケットには、保険としてスティックパックのチョコレートを忍ばせてある。蹴りの一つくらい受ける覚悟はしてあるが、果たして、引っ掛かってくれるだろうか。

     
  • 夏油傑(呪廻)

    20200522(金)04:10
    ▼バッカスにおねがい
    (『飲酒してぐずぐずな会話をしている男女の話』でリクエストを頂きました。有り難う御座います。)



    「私でしょう。」「主旨が見えないんだけど。」「私とさきいかが岸壁で助けを求めていたら、私を助けるでしょう。」「そりゃあねぇ。」「何、その言い方。さきいかではなくチー鱈だったら私を見捨てるって言うの?」「考える間も無く、勿論、って意味だよ。ああ、でも、笹かまだったら迷うかも。」「笹かまは助けを求めない!」「根拠は?」「あのぷりぷりした肌は他の男が放って置かない。傑が駆け寄るよりも早くに悟とかが食べる。」「醤油でも付けて?」「マヨネーズでも美味しい。」「君は?」「主旨が見えないんですけれど。」「何を付けたら美味しい?」「ええー、下着、とか?」「は。」「ひ。」「いや――え――もしかして――着けて――」「確かめてみる?」「……。」「残念、時間切れ。答え合わせの時間です。黒のスポブラにボクサーパンツでした。」「酔いが醒めた。」「折角教えてあげたのに。趣味ではなかったからって拗ねないでよ。」「確かに趣味ではないが……いや、私も悪酔いした。お開きにしよう。」「嫌。傑の穿いているパンツの色も教えてくれないと不公平でしょう。」「はしたないからやめなさい。ほら、ずり下ろさない。」

     無遠慮な力で手の甲が叩かれた。アルコールの海に耽溺する脳味噌が、此所は夢と地続きなのではないかと巫山戯た事を夢想する。まさか。「悟。」と、虚像に被さった実像の名を呼んで、淡い期待を破り捨てる。そうだ。私は深夜の食堂で一人、酒を煽っていたのだった。露骨に面倒臭そうに睥睨する蒼いまなこに問い掛ける。
    「悟はさ。私とさきいかが崖で助けを求めていたら、何方を助ける?」
    「僅差でさきいか。」
    「序でに、今、穿いているパンツの色は?」
    「黒。」
    「やったね。お揃い。」
    「嬉しくねー。」
     アハハ、と咽頭を引き絞って笑って、しがみついていた日本酒の一升瓶を煽った。

     
  • 獅子巳十蔵(悠久)

    20200521(木)15:40
    ▼おまたせ
    (『おまたせ』で縦読みのリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


    「お帰りくださいませ、お客様。」
     またぞろ遣って来た相手は、最強を謳われる剣士様だ。槍を持てど薙刀を持てどカラーボールを持てど、結果は同じであろう。ならば気迫のみを携えて、むん、と私は仁王立ちで立ち向かう。「この店は客を選り好みするのか。」「クレーマーの自覚が無いようですね。」「俺がいつクレームを入れた。」「甚兵衛さんに言い寄っているではありませんか。今も、その心算でしょう。少なくとも業務妨害ではあります。」「あいつが手合わせをすると言ったんだ。」「酒の席の事でしょう。あの人、覚えていませんよ。」十蔵さんは、クソ、と毒突いた。吐き出して尚も苦味が残っている表情だったが、意固地になって踏ん張る程の迷惑行為は働かないと窺えた。
     たなに視線を移す。問答も終えた所で、おにぎりの発注を掛けるべく、私は陳列棚と端末とを相手に睨めっこをする。おにぎりの列を一つ倒し、二つ倒せども、十蔵さんは店から出て行かなかった。「……甚兵衛さんは何時戻るか知れませんよ。」「知っている。」知っていて通路のど真ん中に佇むのか。読みが外れたかな、ともうひと悶着を覚悟で口を開こうとすると、十蔵さんは思っていたよりもずっと静かな所作で手を伸べた。「出入り禁止にされたらかなわないからな。」日に焼けた浅黒い手が、群れを成す三角形から一つを選び取る。梅干しのおにぎりだった。「ああは言いましたが、コンビニは不死身衆の方を出禁に出来るような店ではありませんよ。」「お前の気の強さではそれもわからないな。」
     せなかを向けた十蔵さんから、ふ、と可笑しそうにする気配がした。このひとでも笑う事が有るのか。お客様も他にはいらっしゃらない事だ。もう少し、今度は世間話でもしてみたい。顔を出した好奇心と手を繋ぎながらレジへと向かおうとする。と。気怠そうな人影が、無機質な気楽さを振り撒く入店音を潜った。「よぉ、お待たせ~。次、休憩どーぞ。」何も知らぬ甚兵衛さんのお出ましであった。

     
  • 五条悟(呪廻)

    20200517(日)19:58
    ▼舞い上がる
    (『舞い上がる』で縦読みのリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


     舞踏に誘っているように見えたのは、このひとが余りにも楽しそうな笑い顔をしているからだ。しかし、差し伸べられた手の平は地に向けて伏せられている。此所をダンス・ホールにする心算は無い事は直ぐに察せられたが、少し考え直す素振りの後に、自分の頭の上辺り迄持ち上げた行動の意図する所はわからない。
    「いい? 普段がこれくらいだとして。」
     上がる。上がる。悟さんが、天に向かって浮かび上がる。ポインテッド・トゥの爪先が私の目線の高さに来ても、未だ未だ上がる。只でさえ高い身長がにょきにょきと伸びゆくようで、「見越し入道、見越した!」なんて口を突きそうだ。
     がらすのエレベータにでも乗っているかのようにするすると上昇する。西の夕空に煌めく宵の明星と並ぶ大きさとなった人影は、手を広げているのだろうか。幾ら矯めつ眇めつしても肉眼では定かならぬが、浮かれた空気は此所迄伝播する程のものであった。
     るり色に染まりつつある舞台から、悟さんが颯爽と降りて来た。私とはっきりと目が合うなり高く上げられた快活な笑い声が、地面に突き立った踵の音に覆い被さる。「今はこれくらい好き。そりゃあもう惚れ直した。」


     
  • 出水公平(wt)

    20200517(日)17:57
    ▼分かり合えない
    (『分かり合えない』で縦読みのリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


     分水嶺は果たして何所だったのか、なんて改めて振り返るべくも無い。時に黒色、時に青色、時に黄色とバリエーション豊かに提示される価値観の違いはカラフルで、今日は人混みに紛れていてもひと目で見つけられる事請け合いの真っ赤に染まっていた。
     かれの胸元に自然と吸い寄せられる、我が目玉の恨めしいこと。人間には見たくないもの程よく感付いてしまう習性でも備わっているのであろう。堂々と中心に居並ぶ四つの漢字。それを構成する線を一度なぞり、二度なぞり、三度なぞって目も当てられなくなってしまった。せめてジャケットを羽織るなりしてくれれば少しはましに――と脳内でコーディネイトしてみるも、目に焼き付いた『千発百中』のフレーズは余りにも灰汁が強い。如何に飛び抜けたセンスを持つ一等地のアパレル店員とて、手を焼く事は明白であった。
     りかいが及ばない。その趣味だけは。『千発百中』を謳うティーシャツの君はきっと、私の百年の恋が覚めた事を知らない。実際の所は出会ってひと目で惚れて、その儘目を疑い、ふた目で覚めた実に浅いものだけれど。顔は良いのになあ。少し視線を上げて、少年と青年とのあわいにある頬の輪郭を堪能する。猫を思わせるまなこが擽ったそうに此方を向いた。「欲しいんだったらちゃんとお願いしてみろよ。」
     合わさった視線の先で、出水くんが唇の端を上げる。意地の悪そうな笑い方も様になっているなあ、物言いと言い少女漫画の登場人物でもおかしくはないのでは、などと感心しながら、問い掛けの意図を掴めずに首を捻る。何かを欲しがった覚えはないのだが。「何を?」「これ。」「どれ?」
     えりぐりを摘まんで見せる彼の仕草で、やっと悪夢を察した。
     ない。それは、ない。
    「いる? 喜べ。今なら漏れなくペアルックだ。」「いらない!」


     
  • 夢野幻太郎(hpmi)

    20200517(日)17:55
    ▼そういうこと
    (『そういうこと』で縦読みのリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


     そんな馬鹿な話があって堪るか。一日辺り約一億円もの金が騙し取られているこんなご時世なのだから、警戒はし過ぎると言う事は無い。しかし、末に服うた音の形で止まった男の唇の格好の、なんと間の抜けた事か。
     うそみたいな冗談の方が本音よりも滑らかに出て来る、ひん曲がりの口を売りとしている男の言う事だ。お愛想一つで受けずに流して、別の話題を持って来てやれば良い。それが出来ずにいるのは、二枚舌が収まるにしてはぼんやりとしている小さなうろの所為に違いない。
     いつ、其所からお得意の台詞が飛び出すか。待てど暮らせど、後ろの席で談笑していた先客が席を立ち、ウエイトレスが食器と卓上をさっぱり片付けてゆき、次の客を通しても、饒舌である筈の男はうんともすんとも言わずにいた。それこそが嘘のただ中に在る男のあらわす真実のように思えてしまった。
     うっとりと。口程にものを言うらしい目でも蕩かせてやれば良かったのだろうか。
     こう言う時の心得なんてものは、生憎と私も男も持ち合わせていなかったようだ。二人して、未だだだっ広いテーブルの上で暑がっているお冷やを見詰める。鏡でも見ている心地になった。
     ときの止まった一卓に亀裂を入れたのは、「お待たせいたしました。」と言うウエイトレスのほっそりとした手であった。紙製のコースターの上に、先刻注文したチョコレート・パフェがそうっと置かれる。チョコレートの細流がうねるソフトクリーム。その山の天辺に座ったマラスキーノ・チェリーが傾ぐさまで、返事が伝わってくれやしないものだろうか!

     
  • オペラ(魔入間)

    20200314(土)05:12
    ▼あかしは獰猛にして甘美に


     うなじに押し当てられたのは若しや、牙、か。つぷり、と皮膚に食い込むそれの硬さに、身体が否応無しに強張る。真意尋ねたさに巌を動かすみたいにやっとこ首をめぐらせようとするも、後ろから喉頸を固定されていては徒労に終わるのみであった。
    「ン……ッ!」
     ぐ、と。補食行為の真似事でもあるかのように尖りを押し込まれると、掠れた声が鼻から抜けた。痛い。けれども出血を心配する程は痛くはない。甘噛みで済んでいる今の内に、打開策を求めて記憶を浚い、こんな事になった原因を精査する。
     今朝は起き抜けの時間から既に暑かったので、何時もよりも高い位置で髪を結い上げた。主を同じくするオペラさんは、「涼しげで良いですね。」と言ってくれた。本日のサリバン様と入間様の予定の確認も、雑事に関わる連絡事項の共有も終えたので、退出するべく席を立ち、扉を開けようとしたら、背後に気配を感じた。振り向く間も無く手首を扉に縫い止められて、喉を捕らえられ、斯うして首に噛み付かれた――のだが、つぶさに回顧しようとも現状に繋がらない。
     ぐるぐると目を回している間にも、かぷりかぷりとうなじが食まれている。痕がついているだろうな。血の集まってぼんやりとする頭が、噛み痕の隠れる髪型を幾つかピックアップしようとする。妨げたのは、慰撫するように吹き掛けられた吐息の擽ったさであった。口を引き結んで、身体の奥から漏れ出そうな甘い響きを塞き止める。
    「ッ、あの、オペラさん、もう、」
     絶え絶えで発した制止の言葉が完成するよりも前に、うなじが戯れから解放された。懇願が聞き入れられたのではなく、単にこのひとの潮時と重なっただけなのだろうと思われた。緊張から浅くなっていた息を整える。拘束は未だ解かれる様子が無い。振り返る事が適わないので、扉に映る、天頂にぴんと耳の立ったシルエットを代わりに睨み据える。
    「悪周期の前触れですか。」
    「正気でやっていますよ。」
     今の今迄ひとの首に無心で噛み付いていたとは思えない淡々とした返答に、見事に調子が崩されてしまった。「正気。」。「正気です。」。影が、こくり、と頷いて呼応した。正気ならば如何して、この手や頸に掛けられた枷を外してくれないのだろう。
     その答えは直ぐに知れる事となる。
     オペラさんの影がふた度、私に覆い被さった。所有を示すような痕のつけられたうなじに、今度は柔らかな質感が触れる。幾度も、幾度も。それこそ、逃げ出したくて堪らずにいる私の身体を懐柔する優しさを以て、幾度も。

     
  • 伏黒甚爾(呪廻)

    20200309(月)06:28
    ▼虚勢


     机に降り立つなり硬い声で挨拶をする小瓶は、退屈そうに眺める男の鋭いまなこを前に畏縮しているようだった。
     一つ、二つ、三つ。赤、ピンク、ベージュ。他にも様々な色彩が充填された小瓶を整列させてゆく。キャップの天辺を一つずつ爪先で叩きながら、目の前で生欠伸を漏らす彼に問う。
    「何色が好き?」
    「特にねぇな。」
    「じゃあ、私には何色が似合うと思う?」
    「赤。」
    「どっちの?」
    「その二つ、そんなに変わらねぇだろ。」
    「こっちの方は少しくすんでいるの。」
    「あっそ。だったらこっちの方がオマエらしい。」
     武骨な指先で軽く弾かれたのは、くすんでいないもう一方。ギラギラとして攻撃的な、鮮烈な赤色を誇るマニキュアであった。「らしい、ね。」。――知る気も無い癖に。
     毒吐く代わりにくるくるとキャップを回す。途端に溢れ出したシンナー臭は、やけに五感の発達している彼の嗅覚に余程深々と刺さったのだろう。見てみると、きつくきつく、その端正な顔立ちを顰めていた。良い気味だと北叟笑んで、引き上げた刷毛をふちにあて、マニキュア液を均す。始めに親指の爪に色を載せる。
     彼が臭気を厭うてベランダに出ようと腰を上げた。
    「私、そんなに強い女に見える?」
     赤いマニキュアには、ひと塗りで気丈な女になれる魔法が掛けられている筈ではないか。彼のつま先が玄関ではなくベランダに向いている事を確かめて尚、声は小さく震えて、魔法で誤魔化し切れない私の弱気を露わにした。一瞬の沈黙が、酷くおそろしかった。
    「少なくとも面倒な女には見えねぇな。」
    「それって牽制?」
    「その赤、よく似合ってる。」
     いやに優しい手付きで頭を撫でられる。ご機嫌取りとは殊勝な事だが、さっさとベランダに退避する彼の背中を見詰めていると、何だか全てを投げ出したくなった。手に握り込んだこの赤いマニキュアを、素知らぬ背中に叩き付けてやりたくて堪らない。
     だって、このひとが芯からいとおしく想っているひとは、きっと、こんな赤色なんて似合わないのだから。

     
  • オペラ(魔入間)

    20200211(火)02:23
    ▼セイシュンキョウソウキョク



    「私だってパンくらい買って来られます!」
     自棄っぱちな足取りで売店へと駆け出すカルエゴの背中を忌々しそうに振り返って、少女は威勢良く啖呵を切った。
     折り目正しくも天に向けてぴんと伸ばされた挙手を前にしたオペラが、細い頤に手を遣り、ふむと仰々しく熟考する素振りを見せる。
    「では、カルエゴくんと競争ですね。よーい、ドン。」
     言うが早いか、ぱちんと拍子を取る。背中を押されるようにして機敏に反転した少女が疾走を開始した。「カルエゴには絶対に負けませんからーッ!」と意気溢るる声の尾が引く。この分では先行したカルエゴにも直ぐに肉薄するだろう。あっと言う間に爪の先程となった直向きな少女の影に、オペラの唇の端が我知らず、微かに持ち上がる。
    「焚き付けますね。オペラ先輩。」
     これ迄静観していたバラムが、一歩、のっそりと進み出た。横から声を掛けれども、彼の視線もまた、売店に続く廊下の先に凝らされていた。
    「君も参加しますか。」
    「遠慮しておきます。」
     オペラは巨躯を横目で見上げたが、胸の前で丁重に構えられた両手の意思を受け止めると、「そうですか。」とあっさりと退いた。それから不図、少女の名前をぽつりと口にする。
    「可愛いですよね。一生懸命なところとか、特に。」
    「……いつもの、面白い、ではなく?」
     不意の出来事に言葉に詰まったバラムが一拍遅れで確認する。らしくない事を平然と口にするオペラの面差しは、その声音と同じく常と変わらぬ淡白なものに見えるが、付き合いの深いバラムの目は確かに差異をとらえた。何時だって好奇を好む赤暗色の眼差しが、柔らかな光を帯びているのを、とらえた。
    「可愛いと思います。」
     首を傾げた格好で固まる後輩に首肯を一つ返して、オペラはそう、はっきりと答える。
    「それは――」もしや、好意にほかならないのでは。続けられる筈だったバラムの問い掛けは、ぴくり。何かを受容したオペラの耳の動きによって、静かに遮られた。忙しない二人分の足音が、次第に廊下に反響し始める。
    「オペラ先輩ーッ! お待たせいたしましたーッ!」
    「叫ぶな、喧しい!」
     並走する影、二つ。遠くから聞こえて来る少女のにぎにぎしい声に合わせて、黒い毛並みの尻尾が揺れるのを、バラムは見逃さなかった。

     
  • バラム・シチロウ(魔入間)

    20200210(月)15:29
    ▼後頭部にだけ教えてあげる


     私の頬に戯れ付く髪の毛の先っぽだって好きだけれども、擽ったさを何時いつ迄も我慢出来るかと問われれば、答えは否だ。だから、「バラム先生。」と、「私に髪を結わせてください。」と彼の逞しい腕の中から声を上げたのだ。そうして私は今、バラム先生の長い髪に櫛を通していた。手入れには興味が無いのか、潤いが抜けたばさばさとした手触りであった。こうなると絡まり易いんだよなあ、と化粧っ気が無かった時分の記憶が思い出される。引っ掛けてしまわないように心を配って、ひと房ひと房と梳る。ふ、と息の漏れた気配が届いた。よもや、引っ張って痛くしてしまっただろうか。焦って回り損ねる口で尋ね掛けると、バラム先生は、「いや。何と言うか――」と言葉を探した。「撫でられるのも悪くないと思ったんだ。勿論、これは撫でている訳ではないとはわかっているけれど、それでも悪くないな。うん。はっきり言うと好ましい。」と肩を小さく震わせる。笑っているのだとは、忍び笑いのような控え目な吐息が知らせてくれた。そんな事を言われて意識しないでいられる恋する乙女が、果たしていようか。いや、いまい。櫛を握っていた手で、そうっと、髪を梳く。手櫛で梳く。撫でるように梳く。暫くの間、そうしていた。――好ましい。その言葉の魔術の強力さと言ったら、髪を結うと言う当初の目的を魔界の端っこへと素っ飛ばしてしまう程であった。