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  • 五条悟

    20211210(金)04:59
    ▼君を守る御手ならここに


    「お手をどうぞ、お姫サマ。」
     書庫への道行きのさなかに、ぬうっと突き出て来た手。それは一瞥を受けると言葉の通りに手の平を返して、台詞に相応しい恭しさを放棄した馴れ馴れしさでひらひらと振られた。「悟さん。」「や。」。大きく見上げる。深く覗き込む。相手と確りと目の合わせられる首の角度は、お互いに身体に刻み込まれている。けれども、今日は少しだけ誤差が生まれていた。
    「あれ? ヒール、高くした?」
    「ええ。今度のヒールは七センチです。」
    「前は五センチだっけ。背伸びが上手になっていくなぁ。」
     頭の天辺に手が置かれる。本来の身長を意識させられ、仮初めの身長を意識させられ、幾ら背伸びをしようとも遠い悟さんのかんばせを意識させられる。数年の先、大人となった私であれば、彼に意識させられるのだろうか。
     見果てぬ夢は、成長の糧に。今はこの成果を上々のものとしよう。昨日、相対した時よりも、悟さんの背筋は伸ばされている。彼の背中や腰回りの筋肉の負担は和らげられているのだ。
    「いつまでも子ども扱いをしていますけれどね。私、貴男を守る術の一つくらい、知っているんですからね。」

     
  • 新門紅丸

    20211124(水)04:32
    ▼黄昏に哭く


     視界が濃紺に染まっている。うらさびしい夜の御出座しかと思えば、胸いっぱいに広がりゆくものが安堵であったから、夜色の帳の正体は直ぐに知れた。――べにまる。此方に背を向けて座す彼の名を呼ぼうとして、喉の乾きを覚えて声は嗄れてしまった。それは反って良かったのやも知れない。寝起きの五感に掛けられていた紗がほどけてゆくと、砥石と金物が擦れる音が入り込んで来た。大工道具の手入れをしているのであろう。其所で漸く、私は紅丸の部屋に居て、彼の布団に寝かされているのだと気が付いた。迂闊に話し掛けて手に怪我を負われてはかなわない。研ぎ終わる迄は寝ていると思わせようと、息を潜めて紅丸の背中を見上げる。火消しらしい頼もしい背中だと、思う。まじまじと見る機会はこれ迄に無かったが、この背中に私達は守られているのだと感じ入ると、如何にも泣きたくなって来る心地がした。穏やかなだけの時間がずうっと続いてゆけば良いとは、一体、誰に願えば良いのだろう。布団の中で胸の痞えに手を遣る。衣擦れの音が、紅丸の意識を引き付けてしまったらしい 。ともすると、寝返りを打つ毎に布団を掛け直してくれていたのだろうか。紅丸は手拭いで手を清めてから振り返るなり、颯と私の身体を包む掛け布団へと手を伸ばして――はたと視線をひと所へととめた。目が合って、暫し。
    「声も掛けずに盗み見たァ、お前ェも人が悪いな。」
     肩迄上げられた掛け布団の上から、ぽん、と一つ叩かれる。
    「ここまで運んでくれたの?」
    「縁側で猫みてェに丸まってたからな。女が身体冷やすもんじゃねェだろ。」
    「ヒカゲとヒナタは?」
    「遊びに出たまま、まだ帰って来てねェな。」
     私の分迄お菓子を貰って来る、と言って出て行った二人だけれども、この分では何某かの可笑しなものごとを見付けて後回しにされたに違いない。
     それじゃあお邪魔しました、と折角掛けて貰った布団を跳ね上げようとする。――と。枕に預けた顔の横に手が突かれた。ゆっくりと影が覆い被さるのを、私は一つも動けずに見守っていた。そう、と。紅丸のもう片方の手が、掛け布団を握った儘で固まる私の手に重なる。爪の一枚一枚をさするようにして撫で、緊張を奪ってゆく。手の甲が四指で包まれ、開かれた手の平を親指が這う。手指が熱で燃え立っている、そんな錯覚がした。
    「あつい。能力者だから体温もそれなりに高いの?」
    「考えた事もねェな。だが、惚れた女に触れてたら熱くもなるだろ。それとも何か? 冷たい男の方が好みか。」
    「紅丸は冷たくなりようがないでしょう。だったら、熱いのだって悪くはないわ。」
     告げるなり、ふ、と相好を崩すものだから、手のみならず頬迄もが熱くてあつくて堪らない。見下ろす眼差しが慈しみ深い色に彩られている為に、恥ずかしい事を言ってしまったのではないかと俄に羞恥に駆られて縮こまる。思わず指に力を入れて、紅丸の親指を握り込んだ。
    「ねえ。手、溶けていない?」
    「どれ。ああ、溶けてねェ。奇麗なもんだ。」
     掬い上げた私の手を態々見詰めてくれる紅色が柔らかくて、世界が終わってしまうならば、今この時を以て最期を迎えて欲しかった。

     
  • ジョーカー

    20211123(火)02:35
    ▼朝焼けは望めない


     夜から影へ、闇から闇へと滑り込んだ男が息を詰める。
     本来であればひと息つける場所である、国からも放棄されたアパルトマンの一室。廃墟らしいおどろおどろしい身なりを恐れずに踏み込んだ先に在るその部屋の飾り気と言えば、蝋燭の燭台一つきり。他の家具と言えば、腰掛ければがたつく机と椅子と寝返りで軋む襤褸の寝台が、肩身狭そうに隅に寄せられているだけ。巷の少女が親から買い与えられたドール・ハウスに住まう人形の方が、余程文化的な生活を送っている有りさまであった。
     外を吹き荒ぶ夜嵐が立て付けの悪い窓を乱暴に殴り付ける。騒がしい夜がやけに静謐に感ぜられるのは呼吸を止めている所為だと、男に気付かせる。唇に挟んでいた煙草をひと息に吸い切って、吸い殻を机上に用意された携帯灰皿へと仕舞う。吐いて、吸って、肺の換気を行っても埃で喉を痛める事がないのは、部屋の清掃が行き届いているからこそだ。寝台で寝入る者の手によって。
     寝台の傍らに置かれた椅子を跨いで座り、背凭れに身体を預けると、その寝息がよく聞こえた。まるで断続的に見えざる手に縊られているかのように、か細く息をしたりしなかったりとしている。吐息の合間には喘ぐ声が小さく小さく漏れ聞こえた。魘されている、とは遠目にも理解した事であった。男が寝台の上の身体へと手を伸ばす。肩へ、頭へ、肩へ。彼方へ遣り此方へ遣りと落ち着きの無いさまは迷い子同然で、迷った場合の鉄則である、その場を動かない、に落ち着いたところもそっくりだ。
     苦し気に呻く声に、髪の撫で方一つ知らないのだと思い知らされる。
     その内に、ハ、とひと際大きく息を吐き出して、寝台の上の身体から強張りが解けた。規則的に上下するシーツの盛り上がりを眺めていると全身から力が抜ける感覚を得て、何時しか自らも緊張していたのだと男が自覚する。
     掛け布団から抜け出た手が、今でも助けを求めているように見えた。男が指先を、そう、とたなごころへと置く。血の気の失せて冷え冷えとした身体に火を灯せる気がしたのだ。机の上で夜闇を払う、蝋燭のともしびのように。
    「ヒーローは遅れてやって来ると言うが、ダークヒーローは手遅れでやって来るか。」
     男の自嘲は鋭い風の音に切り刻まれて、寝台に乗る事なく床へと落とされた。
     夜這いに来た、と。目を覚ました時にそう揶揄ってやれば、明晩は寝ずの番でもするだろうか。眠りさえしなければ悪夢に怯えずとも済むだろう。乞われるならば、共に夜明けを迎える事だって――。
     耳をそばだてていのちの音を聞く。男は夢想に浸りながら、やわく握り込まれる指先を見詰めていた。

     
  • 五条悟(※失恋夢※)

    20211121(日)04:15
    ▼仕合わせになれない


     荒唐無稽だと、神様だった男が笑う。
     世界じゅうの本は一生涯に亘っても読み切れず、このひとの心のなかもそうなのだと当て込んでいた。けれども、只人には触れ得ぬ叡智と霊妙を秘めた大きな身体。それの為す事が偉大なだけではなかったから、良くも悪くもあったから、人間みたいであったから、気付いた時にはこの男のひとは神様ではなくなっていた。
     だから、恋することは容易かった。
    「それは何も出来ないのと同じ事だよ。」
     何が出来る訳でもないが何も出来ない訳でもない。貴男と共に死ぬ覚悟が私にはあります。
     そのように胸のうちを奏上すると、悟さんは笑ったのだ。見慣れている筈なのにまるで初めて目にするかのような笑みであるのは、形だけだからであると、身体から血の気が引いてゆく音を聞くなり理解した。
    「思考を止めるなよ。そんなところで止まって、何が手に入る?」
     遮光性の高いサングラスのレンズが底知れぬ深淵のように置かれている為に、私と悟さんの視線は結ばれない。違う。私が彼から目を逸らしつつあるのだ。
     何時しか食い縛っていた奥歯が、叶わなかった恋心の破かれる痛み毎、呼吸をも噛み潰す。早鐘を打つ鼓動が生命の危機を報せて来るが、煩わしい。死んで、しまいたかった。嗚呼、それであるから駄目なのだ、私は。
     失望に足もとが揺らぐ。言い返す事も出来ずに、本当に無力にも項垂れるしかない私に、悟さんはしかし、落胆を染み込ませた溜息を浴びせ掛けるなどとはしなかった。
    「――それに、手を繋いで地獄に行く相手は募集していないんだ。暫く死ぬ予定なんて無いしね。」
     私の後頭部に、ぽん、と。何度だってこの心を掻き乱して来た手が、これ迄みたいに無遠慮に置かれる。くしゃり、と髪を撫でられると、優しくて情けなくてあたたかくて苦しくて涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。
    「意外な事に、この五条先生、告白されるなんて初めての経験なんだよね。いやー、どきどきするもんだね。ホント、勇気あるよ、君。」
     まさか眩暈する私に気を遣った訳ではないだろうが、悟さんはあっけらかんとしたさまで言うと、頭を撫でていた手を肩へと置いて顔を上げるように促して来た。
     ――私が先に進んだ暁には、貴男の隣に立てますか。
     精も根も尽きるどころか、生も魂も尽き果てるくらいに追っては求めてしまうのだ。
     希望を込めてふた度、想いを告げ直すべく口を開く。開こうとして見上げた悟さんの相貌には、形ばかりの冷ややかな笑顔はなかった。只、善も悪もない神様、みたいな無邪気さのみが唇に宿っている。
    「まあ、零に幾らかけても解は零にしかならないんだけど。あ、これ、返事ね。」
     かけるものは、願い、と言ったところだろうか。軽うく肩を叩いてから、「じゃあ、君も授業に遅れないようにね。」と片手が上げられる。はあ、だか、はい、だかのうつろな応えを聞き終えるや否や、悟さんはその長い長い脚であっさりと退去してしまった。
     正しく天衣無縫のひとだから罵倒したところで引き攣れは創れないだろう。ならば腹癒せに、と幾つもの罵倒をその影に吐き掛けようとして、端から言葉が枯れてゆく。私が好きになったひとは、神様ではないのだから。

     
  • (新門紅丸+)相模屋紺炉

    20211118(木)05:15
    ▼走れ、壮年少女!


     嗚呼、七曜表の写真かあ。
     カメラを片手に銭湯の在る方角へと向かう紺炉さんの背中には、言い難いがコソ泥のような卑怯さから来る慎重さがあった。これから盗撮に及ぶのだから相応ではあるか。
    「昨日の今日だ。若も警戒しているだろうし、やりづれェな。」
    「盗撮をしなければ良いだけなのでは。」
    「風呂くらいでしか裸になんてならねェだろ。酔ったら脱ぐ癖があったなら話は早かったんだがな。」
     紺炉さんは残念そうにカメラを撫でているが、残念がる事だろうか。私は酔ったら所構わず脱ぎ出す紅丸なんて御免なのだけれど。
    「紅丸に頼んで着替えを撮らせて貰うのでは駄目なの?」
    「それくらいで勝てる喧嘩じゃねェ。皇国の奴等に負ける訳にはいかねェんだ。」
     盗撮で勝利したとして果たして誇れるのか、と口を挟むのは憚られる程の熱意であった。
     閉口しながら、如何にすれば紅丸を盗撮から守れるか、如何にすれば紺炉さんに罪を重ねさせずに済むかを考える。レンズが、チカ、と日の光を反射して目を焼いた。「それ。」と私の指さすのに、紺炉さんはカメラを軽く持ち上げる事で応じる。
     ええと、と視線が泳いだのは、これからしようとする提案が現実的なものか怪しかったからだ。
    「紅丸の写真が必要ならば、私が、撮って来ようか。」
     紅丸は女に恥をかかせようとはしないだろう。一所懸命に頼み込めば半裸くらいにはなってくれる、やも知れない。それでも頑なに嫌がる時は、今度は紺炉さんに諦めるよう説得する心算だ。
     何方にせよ容易な事ではない。目蓋を固く閉じて腹を決める。その間じゅうも、紺炉さんは押し黙っていた。流石に沈黙が長過ぎるので、矢張り駄目だろうか、と彼を振り仰いで顔色を窺う。
    「いや……そう言う生々しいのは……。」
     返答のしづらい質問を繰り出して来た幼子を相手にするような、困り果てた渋い顔で言葉が濁される。
     そう言う、とは――いや、はっきり言われずとも理解出来る――何を勘繰っているのか――詰まりはそう言う時の――。
    「違う! 違うから!」
     否定の声は思ったよりも大きく飛び出て、家いえの壁にぶつかり響いて谺する。余韻の消え去った頃になって紺炉さんは、「そうか。」と気不味げな表情と声音で自らの早合点を謝ってくれた。
    「すまねェな。下衆の勘繰りなんかしてよ。」
    「私こそ、大きな声を出してごめんなさい。」
     気にするな、と悄気る私の頭を一つ二つと撫でると、立派な体躯の生み出す影が颯爽と離れてゆく。丸で、時間を気に掛けるかのように足早に。地面から顔を上げた時にはもう、紺炉さんの背中は小さくなりつつあった。その邁進の先には、銭湯。紅丸が湯を楽しんでいる真っ最中であろう銭湯が在る。「紺炉さん!」。声での制止など無意味と知って、急ぎ私も駆け出す。

     
  • 新門紅丸

    20211114(日)05:03
    ▼火遊びはほどほどに


     だって、その浮わつきようが可笑しいったらないんだもの。
    「もう終わるか。」
    「後少しかしら。」
     数えて三度目の問い掛けに、同じく三度目の返答を遣る。む、と黙る紅丸はこれも又三度見る姿ではあったけれども、胡座をかいた膝の上に置かれた手が開いては閉じと落ち着きの無さを見せ始めたのに気が付かない訳もない。手もとを照らす行灯から顔を背けたのは、むずむずと弛もうとする口もとを明らかにしない為だ。
    「……お前ェ、態とやってんだろ。」
    「さて、何の話かさっぱりね。」
    「『待て』の芸でも仕込もうってか。生憎と俺ァそこまで利口じゃねェんだ。」
     心底から面白くなさそうに言うものの、それだけだ。針仕事の最中の私に詰め寄って万が一にでも怪我をさせては、と気を遣っているに違いない。痺れを切らして強引に手を出す事はせずに、紅丸はジッと私の横顔を見据えて大人しくしていた。
    「それで、もう終わるか。」
     これで四度目だ。いい加減に懲りるべきだと思うが、それはお互い様か。
     殊更ゆっくり縫うのもそろそろ潮時だろう。後少し、と。今度ばかりはその言葉を真実にしようとして紅丸を向くと、膝の近く迄影が伸びて来ていた。纒を振るって出来た胼胝の固い、男らしい手の平が此方に差し出されている。
    「お手でもしろ、と?」
    「それ、寄越せ。」
     それ、とは、この手の中にある彼の法被の事を指しているのだろう。ほつれを見付けて繕うと言い出したのは私であるが、目に余る進み具合に遂に短気を起こしたか。大工仕事はお手のものだとしても、針仕事迄出来ると言う訳ではないだろうに。
     摘まんだ針と共に法被を身体へと引き寄せて、守りを固める。
    「針仕事は私がやります。アンタは浅草の花形なんだから、みっともない格好はさせられないわよ。」
    「そいつは結構な事だが、こっちに寄越さねェんだったら今は横に置いとけ。」
    「後少しで繕い終えると言うのに、」
     如何してそんな真似をしなくちゃあならないの、との反論は喉の奥に引っ込んでしまった。繕いかけの法被を目指していた紅丸の手が持ち上がる。つ、と片頬を撫でられた。遊びが過ぎたな、とは、行灯の明かりを受けずとも赤々と燃え立つ、紅色の瞳を覗いて省した事だ。
     四度。彼にしては我慢をした方とも言える。

     
  • 新門紅丸

    20211112(金)09:34
    ▼花に呑み酒に臥す


     甘いものは好きではない。だが、惚れた女の甘えたと言うものは男心には格別の美味だった。
     紅丸は上々の気分でひと息に杯を干した。脚の間におさまって凭れ掛かっている女の頭を一つ撫でる。円い輪郭を滑り落ちて髪を梳くと、頭皮を甘く掻いた指先がお気に召したのか、肩口に埋められた額が細かく震えた。紅丸の手が続けざまにもう一度、同じ道程を辿る。
    「擽ったい。」
     今度はあからさまにころころと笑った女が身を捩る。その儘身体を起こして距離を空けようとするが、そのような事は興が乗った手が許しやしない。
    「固ェこと言うな。もう少しいいだろ。」
     毛先に至った紅丸の手指は頭に取って返す事をせずに、逃れたそうにする肩を抱き込み、女の身柄を胸へと引き戻した。もう片手で酒瓶から猪口に酒を注ぐ。身動ぎの度に首筋に戯れ付く女の前髪はこそばゆくはあったが、それすらも心地好い高揚を誘う。飲み慣れた酒をより極上の甘露に昇華させてしまう女の、大人しくなった肩を撫でさする。
    「その恵比寿顔は相も変わらず可愛いのにね。」
    「あ? 馬鹿にしてんのか。」
    「あの可愛かった紅丸が随分と男前になったものだなあ、てしみじみとしていたのよ。女一人、こうして難無く支えてしまうんだもの。」
     俺は可愛いと思われていたのか、と。矜持に付いた傷は酒のひと舐めで清めた。紅丸と女、二人寄り添う縁側に静寂が招かれたのは、そのほんのひと時の間だけであった。依然ご機嫌に綻ぶ口もとが、酒気を帯びれども決して酔わぬ真心をぽつんとこぼす。
    「惚れた女一人、いくらでも支えてやるよ。」
    「あら、頼もしいこと。」
     笑い声を包んだ吐息で紅丸の鎖骨を擽った女が、ふた度、心身をすっかり彼に任す。首に擦り寄って甘える女に、酩酊。然しもの最強の男も惚れた女には如何にも弱かった。

     
  • (五条悟+)七海建人

    20211022(金)04:45
    ▼恋敵になれない


     木枯らしに苛まれた小さな身体が、苦鳴を押し殺して震えている。身を縮こまらせ、筋肉と言う筋肉を強張らせて隙を作るまいとしているが、寒気は隙間からでも忍び込むものだ。露な踝から駆け上がった空風に心の臓をひやりと撫で上げられたが故か、転び出た女の悲鳴は引き攣って裏返っていた。
    「さむーい!」
    「薄着で来るからですよ。」
    「クール!」
    「それを言うならコールドでしょう。」
    「七海くんの態度が冷たい、はクールでしょう!」
     クール!、クール!、と人けの無い廃ビルディングにわんわんと谺する英単語。これがまた新たな呪霊の発生に起因しなければ良いのだが。
     七海が嘆息する。眼前に小さな靄の広がるのを目にすると、彼はそれが霧消するよりも早くに羽織っていたロングコートを脱いでいた。「これを、」ひと先ずは着込むようにと差し出そうとして、片腕に掛かる生地の重みを意識した。裾が地面に擦れようとも構わない。だが、彼女の肩にこのコートは重たくはないだろうか、自由な動きの妨げとなりはしないだろうか、と気に懸かると奇妙な間を生む事となってしまった。
     大声で繰り返し寒さを訴える身体は、次第に息を上げて、少しずつあたたまろうとしていると見える。だが、末端に血の気が呼び込まれるのは未だ随分と掛かりそうだ。胸の前で痛々しく擦り合わせている寒そうな指先。この場に居合わせたのが五条であったならば、躊躇いなど一つたりとも持ち合わせずに手を取った事だろう。そして彼女は、そのような男を好きでいる。
     七海は腕に掛けたコートを広げ、包み込むようにして女に羽織らせた。
    「着てください。多少重くとも、体調を崩すよりはマシと言うものです。」
    「七海くんだって寒いでしょうに。そんなに着込んで来たのだから。」
    「私はそれ程でも。コートは念の為に着て来ただけに過ぎませんから。」
    「そうなの? それじゃあ、有り難く頂戴しましょう。」
     通した袖口から小さく覗いた指先が、早速、暖を求めてポケットに潜り込む。少しの強引さを見せれば、きっと、あの冷たく悴んだ手は容易く掠め取れた。そう確信を得られる程の体格差が、コートの一着によって浮き彫りにされていた。七海の胸を焦がす憧憬など露程も知らぬげに、女は出口へと歩き出すなりくるりと一回転。コートの裾をはためかせて、ドレス宛らの華やかなシルエットと上機嫌な足取りとを披露する。「七海くん、大きくなったねえ。」と。感慨深げにしみじみと呟く女の微笑み方は学生時代から変わらない。先輩と後輩と言う、明確な平行線が其所には引かれていた。
     きいん、と。耳鳴りがするのは酷く凍える夜だからだ。呼吸する毎に女の姿が紗が掛かったように朧気になる。抱いている感情のすべてを誤魔化してしまえると、七海に思わせた。
    「次からは天気予報を見てから外に出てください。その内、風邪、引きますよ。」
    「七海くん、お父さんみたい。きっと良いお父さんになるだろうなあ。七海くんの子どもに生まれたかったなあ。」
    「そうなったら五条さんなんて許していませんよ。」


     
  • アーサー・ボイル

    20211001(金)05:44
    ▼はぐれないで手を繋いで


     その声をホットミルクに溶かしたら酷い味がしそうに思えた。
     此所、第8特殊消防教会はコンクリートに埋め立てられてしまった。そんな怖気の走る想像が過るくらいに、この夜は静寂の支配下に在った。静かな夜は歓迎するが、人の耳では聞こえない金切り声が彼方此方から上がっているかのような、耳の痛くなる夜では如何にも眠れそうにない。少なくとも私は。
    「アーサー。こんな所で寝ていたら身体を痛めるよ。」
     彼の口から細く漏れる健やかな寝息は何よりものお返事だ。
     食堂のお誕生日席を腕を組んで陣取っているアーサーは、一寸やそっとでは目を覚まさぬ程にぐっすりと眠り込んでいた。大方、シンラやマキさん辺りが一度は起こそうと試みたのだろうが、敢えなくお手上げと相成ったのであろう。肩にブランケットのマントを羽織った騎士様の鎮座する一画を除いて、照明は落とされていた。眠れないのならばホットミルクでも、と思い立って来てみれば、まったく世話の焼ける事だ。
    「アーサー、起きて。アーサー。」
     力の抜けた肩を叩き、揺さぶってやろうと手を伸ばす。指先が骨の固さに触れたと同時に、つなぎの擦れる音を聞き取った。隙の無い動作で持ち上げられた腕が私の手を捕らえる。――起きたか、と。直ぐにはただせなかった。
     アーサー・ボイルと言う少年は表情に感情が乗っかる方ではない。微睡みから浮上したばかりのうつらうつらとした状態であれば尚の事で、目蓋の半分下ろされた瞳のうつろさと言ったらない。
    「どこか――」
     常は何をも見透す青のまなこは霞の掛かって不鮮明で、何どきも威風堂々としている声は寝息に掠れてか細い。
    「どこか、行くのか。」
     それなのに、この手を掴む力だけはやけに確りとしていた。
     嗚呼、彼は何時と現在の境界に立っているのだろう。暗がりを寄せ付けぬ蛍光灯のもとで、きっと、さみしいところに置き去りにされている。そればかりはわかるのだけれど。
    「アーサー。」と、もう一度、名前を呼ぶ。「起きて。」と、今一度、呼び掛ける。力いっぱいに手を握り返して、彼岸から彼を取り戻す。
    「どこにも行かないよ。」
     ぱちり、ぱちり。まばたきを繰り返す毎に澄みゆく青色の瞳は、覗き込んでいると直ぐさまに明瞭な意識を宿して輝きを放ち出した。
    「一体、何の話だ。」
    「私の方が聞きたいよ。」
    「意味がわからん。」
    「じゃあ、その話は一旦横に置いておいて。ひと先ず、ホットミルクを作りに厨房に行こう。思い返せば私の目的はそれだった。」
    「今、どこにも行かない、って言ったばかりだろ。」
    「だから、一緒に行こう。」
     表情は薄く瞳も凪いでいるのに、確かにほっとしているように見えたのは、強張っていた彼の手が弛んだからだ。掌中から抜け出した後で、改めて手を差し出す。アーサーは、す、と立ち上がるなり剣の鞘でも握るかのようにつかまえて来た。
    「良いだろう。護衛は騎士の役目だからな。」
     余り騎士らしくない手の取り方だけれど。
     幼さすら感じられる仕草に思わず苦笑がこぼれる。肩に引っ掛けたブランケットのマントを靡かせて、ずんずんと厨房に向けて行進を開始するアーサーの足取りに、痛いばかりの夜は蹴散らされてゆくかのようであった。

     
  • (禪院直哉)+禪院甚爾

    20210717(土)02:57
    ▼ドブ色吐息
    (※夢主の性格がよろしくないです。)


     涙なんぞでその胸をひと刺し出来たならば、一体どれだけ可愛げのあるおひとであったろうか。
     はだけた襟もとを正しながら想うのは、いつもあのひとの事だ。ひたと真っ直ぐに差し向けられる眼差しに籠った、妬み嫉み、憎しみに嫌悪。思い出すだに恍惚と、身震いがする。
    「例に漏れず、やっぱりオマエもここの人間だな。」
     一刻前に肌を重ねていた男が言う。今更浮かび上がって来る感情も特段ありはしないのか、火を熱いと、水を冷たいと、そのものをただ形容しているような平らかな口調であった。
    「良いのは見た目とカラダくらいのもんだ。」
    「私は女なのだから、それで充分でしょう。」
    「本命には相手にして貰えないのにか。」
     身支度を整えていた手を止めて、障子戸から離れたところで胡座をかいている男へと首をめぐらす。そうして影になっている場所で大人しくしていられると、暗がりに繋がれた鬼のようで不気味でならない。
    「だから、こうして、貴男と仲良くしているのでしょう。」
     床にぽつりと落ちている吾妻型でも見るかのように無機質な視線だけが寄越された。其所には憐憫も無ければ嘲弄も無い、関心が無い。私がこの男に遣る一切と同じく、無色なものだ。じいと見詰められても居心地の悪さを感じられないのは、噛み合ってしまっているからなのか。
    「最悪。」
    「正当な自己評価だな。」
     薄らと嘲ると、男はそれからむっつりとだんまりを決め込んだ。もとより睦ごとを交わす間柄ではないのだから、気に留める謂れはなく、無駄口にかまけていられるだけの時間は私には存在し得ない。これから、あのひと、の世話にゆくのだから。
     うなじが露になるよう、ほつれた髪を結い上げ直す。いとしの切れ長のまなこにこの獰猛な噛み痕を見せ付けてやる為に、だ。

     
  • 虎杖悠仁

    20210716(金)19:53
    ▼たすけにきたよ


     制服が真っ黒で良かった。染みる血の色を無かった事にしてくれるから。これが白色であったならば、背に庇った少女は忽ちにごめんなさいと繰り返し唱えるだろうし、小さな膝からは力が抜けてその場に頽れてしまっただろう。頼れるもののない絶望に頻りに涙を落としただろう。――それは、嫌だな。
     想像に気を滅入らせた隙をつき、呪霊がもう一撃を突き立てようとする。今一度少女に迫る血塗れの尖端を、血液が染み込んで重たい袖を翻して咄嗟に握り込んだ。肉の削げた腕が警告や悲鳴と言ったものを大声で上げている。黙殺する。動かせるのだから動くだろうと呪霊を力ずくで引き寄せる。力負けて蹈鞴を踏み、自ら飛び込んで来る本体のど真ん中に固めた拳を叩き込む。呪霊は勢い良く素ッ飛んで行き、コンクリートの壁に激突。見事な大穴が空いたろう事は、立ち上る土煙に隠されていようともビル全体を揺るがす轟音から明らかであった。
     呪霊の着地点へと弛まずに意識を差し向けながら、背中を顧みる。薄暗がりに浮かぶ少女の顔は血の気どころか生気すら感じられぬ蒼白で、世界の終わりを目の当たりにしているかのよう。ぱたり。繊維から飽和した血液のひとしずくは、きっと悲嘆の呼び水となる。彼女の目に触れない内に靴の裏で覆ってしまう。――こんなんじゃ何言っても格好付かねぇよな。苦く苦く笑い掛け、それから、歪な笑みを張り付けた片頬をピシャリと張った。禍々しい魂を造作もなく手玉に取って見せた、師の笑みを真似てみる。
    「大丈夫。絶対助けるから。」


     
  • 伏黒恵

    20210109(土)04:24
    ▼イエロゥ・メロゥ
    (『ミカンをむいてあげる誰かとそれを食べるだけの誰か』とのお題を頂きました。有り難う御座います。)


     食堂の一画に設置しておいた罠に引っ掛かったのは、なんと、伏黒恵くんであった。フハハ、掛かったな! 悪役じみた高笑いと共に物影から躍り掛かった私に、彼がして見せたリアクションと言えば、怪訝そうに眉を顰めてまじまじと見詰めて来るだけ。塩味も薄い対応だった。
    「もっと、こう、驚いて腰を抜かすとかさあ。」
    「いや、机の下に隠れてるの見えてたんで。」
    「それでもオーバーリアクションは大事だよ。ボケ殺しの儘ではトップ芸人への道程は厳しいものになるぞ、メグメグ。」
    「最初っから目指してません。」
     何だ、メグメグって。力無くぼやきながら、恵くんは開けた儘にしていた段ボール箱の中身を再度検めた。
    「これ、先輩が買って来たんですか。」
    「そう。冬と言えば矢っ張りお蜜柑でしょう。いっぱい食べさせてね。」
    「じゃあ、遠慮無く貰って行きます。ありがとうございま――は?」
     蜜柑を二、三個手に取った格好で、恵くんは動きを止めた。油の差されていない絡繰仕掛けみたいに、ぎいしぎいしとぎこちなく首を持ち上げる。その目の前で椅子を引いて、私は腰掛けた。にんまりと笑ってしまうのをとめられない。だから言ったのだ、罠だと。
    「三キロも早々には食べ切れないからね。勿論、持って行ってくれて良いよ。その代わりに、対価としてお蜜柑剥いて行ってね。」
     彼の手の中の蜜柑を指さし、段ボール箱の中の蜜柑を指さし。言葉を告げる毎に、恵くんの強張っていた面立ちに渋い色が滲んでゆく。表情のみならず声音も苦々しいのだから、これはもう何所に出しても恥じる事のない立派な渋面と言えるだろう。
    「自分で剥けば良いでしょう。」
    「嫌だよ。指が黄色くなっちゃう。」
     胡乱げに目蓋が半分降ろされた黒瞳の、じとりとした視線を片手で撥ねて、蜜柑箱を挟んだ向かい側の席を手の平で指し示す。ほらほら、さあさあ、早く早く。恵くんは暫し黙して突っ立っていたが、掴み取った蜜柑を一度見下ろすと、大人しく私の対面の椅子に座った。
    「先輩、偶に五条先生みたいなワガママ言いますよね。」
     意趣返しの心算か、そんな酷い文句を口にしながら。どれ程可愛く思っている年下の少年の言葉でも、それだけは聞き捨てならない。幾ら何でもあすこ迄傍若無人になった覚えはない。徹底抗戦の構えを取った口は、しかし、「手、出してください。」と言う一言で敢えなく噤まされてしまった。橙の外果皮を素早く剥いた手が、ぽてり、と。差し出した私の手の平に、本当に皮を剥いただけの蜜柑の果実を載せて来たのだ。その儘って。
    「ロマンチックじゃあなーい!」
    「蜜柑に何求めてるんですか。」
    「折角だから恵くんに求めているの。」
    「俺に何求めてるんですか。」
    「「あーん♡」なんて甘酸っぱいイベント。」
    「蜜柑でも食べてれば充分でしょう。」
    「せめて白い筋を取ってよ。」
    「ここに栄養があるんですよ。っつーか、嫌じゃあないんですか。他人がべたべた触った食べ物。」
    「まあ、相手が恵くんだしねえ。君の衛生観念を疑ってはいないし、何より、それだけ気を許しているって事だよ。」
     そうですか。そう締め括ると、恵くんは先程自らが選んで持って行こうとした蜜柑に手を伸ばして、皮を剥き始めた。気遣われていたのだと知って、私もこれ以上は詰め寄る事をせずに、掌中の蜜柑からごわごわとした白い筋を取り除いてゆく。次から渡される蜜柑には、ごわつきが少し減っていた。

     
  • ジョーカー

    20210109(土)04:23
    ▼黄金郷のはずれにて
    (『深夜に部屋を抜け出して街を見下ろしながら話をするふたり』とのお題を頂きました。有り難う御座います。)


     燦然と、ぎらぎらと。ヱレキのともしびは燃える。
    「人とはしぶといものですね。」
     街灯、家屋のポーチライト、ビルヂングの窓明かり、“天照”を取り囲む照空灯。冷え冷えとした夜闇を跳ね退ける地上の煌めきを、心底から賞賛している口振りであった。
    「弐佰伍拾年前には地上の全てが焼け落ちていただなんて、到底思えない復興ぶりではありませんか。」
     夜に沈んだ街が浮かす、金銀のあぶく。それは女の瞳に写り込んで、細かな金箔を散らしたように見せた。ちかりちかりと輝く彼女のまなこを一瞥すると、ジョーカーは指先に挟んだ煙草の灰を落とすのも一時忘れてしまった。自らの行いが磨き上げた二つの宝石に、自然と口角が上がる。夜風に長い髪を遊ばせながら、ジョーカーが女の肩を掴む。二人が立っているのは、柵も手摺も無い屋上のへりである。見入る余りに身体が前へと傾いでゆくさまが危なっかしくてならなかった。「ありがとうございます。」。肩を掴む力の強さから我が身の危険を察したと見える女は、しかし、命綱が在ると却って安心したらしい。光の氾濫する地上から双眸を一切逸らさぬ儘、礼だけを寄越した。ジョーカーも煙草の煙を吐き出す序でとばかりに短い返事で応じた。嫌な気はしない。女の熱心な様子には、斯様な夜更けにビルヂングの屋上に上がった甲斐があったとすら思う。夜景は残業に勤しむ人間によって作られているのだと、つい先程、その残業を終えて草臥れ果てていた女は言っていた。態々秘密基地迄降りて来て、「さらってください。」と腕を広げた時はおかしな事を言うものだと訝ったが、何の事はない。彼女は気分転換をご所望らしかった。「仰せのままに。」なんて恭しく言ってみてもにこりともしなかった頬は、この辺りで一等眺めの良いところに連れてゆくと、暫くもしない内に生気に満ちた。ご機嫌な唇が明るく弾んだ声を上げる。
    「私が神様であったならば、どこまで過酷な環境に耐え得るか、人類に耐久テストを行っていたと思います。」
    「その発想、悪の科学者かよ。」
    「学士のさがの範疇ですよ。」
     ふうん、と。眼下に広がる電飾の世界を燻すかのようにして、ジョーカーが紫煙を細く吹き掛ける。嫌煙家の街が抵抗を見せたものか、一陣の風が煙を押し返し、次いで仕返しとばかりに屋上を強く渡った。咄嗟に女の肩に添えた手に力を込める。薄着を見兼ねて貸してやったコートが大きくはためく音が鼓膜を打つ。ジョーカーは反対の肩に手を回して、女の華奢な身体が風に押し倒されてしまわないようにと腕の中に抱き込んだ。ごうごう。ばたばた。次第に騒ぎがおさまり、風が遠くに吹き去る。真夜中の静寂が戻ったのを感じ取ると、ジョーカーは、す、と女から身体を離した。途端に、女が可笑しそうにくすくすと笑い出す。
    「貴男はダークヒーローを自称していますけれども、ダークサイドには堕ちて来やしなさそうですね。」
    「お前もな。」
    「先程は悪の科学者が云々と言っていたではありませんか。」
    「高笑いの一つも出来ないようじゃ向かねェよ。」
    「勉強になります。」
     ものは試しにと高らかに笑ってみせる彼女の声はひどく裏返っていて、ジョーカーはその不格好なさまに盛大に吹き出した。


     
  • 五条悟(呪廻)

    20201120(金)00:30
    ▼あまあま


     この男と言う奴は、猫撫で声を一つお出しすれば枯れ木に花が咲き、泣いている子どもは笑い出し、私は仰せの儘に動き出すとでも思っているのではなかろうか。
    「ココア作って♡」
     遥々私の部屋迄来てねだるような事か。背後の居住空間では、読みかけの文庫本が、ご褒美用のお高いチョコレートが、ふかふかとしたブランケットが、憩いの時間がお帰りは未だかと私を待っているのだ。この儘、彼の部屋なり食堂なりに連れ出されて堪るか。眉根をぎゅうっと寄せて、如何にもな渋面を作って見せ付けてやる。
    「何でも出来る貴男です。自分でやれば良いでしょう。」
    「だって君が作った方が美味しいし。」
    「ココアなんて誰が作ったところで同じです。ホームページを参考に、練ったココアパウダーをホットミルクに溶かす。それだけですから。」
    「それだけ、ね。」
    「それだけ、ですよ。」
     そうは言ったものの、実家に居た時は専らココアパウダーはお湯で溶いていた私だ。何が切っ掛けだったか。今日の日と同じく悟さんからココアを作ってくれるよう言われた際に、舌の肥えている彼に庶民流ココアを出すのは忍びなくて、初めて手間暇を掛けてミルクココアを作ったのであった。先に述べた通りに、幾つかのホームページで見た儘に作っただけで、我流のレシピやコツと呼べる程のものはない。だが、それが甚くお気に召したのか、以来、度々こうして頼まれるようになってしまったと言う訳だ。
     いっそ、扉を閉じてしまおうか。鍵を閉めてしまいさえすればこれ以上の無理強いをされる事もなかろう。回想を終えると同時に降って来た天啓に導かれて、ドアノブに手を伸ばす。触れると、パチン。乾いた音が一つしたが、静電気の立てるささやかなそれではない事は、痛みが無い事からも明らかだ。パン、パン。二度、三度と続く。目の前には、傾注とばかりに手を打ち合わせた格好の悟さんが、朗らかな笑みを浮かべていた。
    「じゃあ、コーヒーで妥協しよう。飛びきり甘いやつ。」
    「コーヒーならば、食堂のコーヒーメーカーから取ってくれば良いでしょう。」
    「君が淹れたコーヒーが飲みたいって言ってんの。」
    「私はバリスタでも何でもないんですけれど。そもそも、何故、そんなにも頑なに私にお茶汲みをさせたがるんですか。」
    「ホットケーキを焼いてくれても良いけど。」
    「ご勝手にどうぞ。」
    「まあまあ最後まで聞きなさいって。」
     利かん坊を宥め透かすかのような穏やかな声音が癪に触るが、一先ずは置いておいて、視線で先を促す。すると悟さんは、浮わついた調子から一転、鹿爪らしい顔付きで此方に向き直った。
    「僕はさ、君が作ってくれるものが好きなんだよね。」
    「はあ。」
    「丁寧な仕事を評価しているのもあるけど、作っている最中、君は僕のコトを考えている訳でしょ。いやぁ、男心が擽られるったらないね。」
    「はあ。」
     だから、何だと言うのだ。意図するところを掴みかねる。生返事ばかりを繰り返す私を暫し黙って見詰めると、悟さんは徐に顎に手を遣った。その何か思わしげなさまは、自分は手応えのない透明人間を相手取っているのでは、と不思議がっているようにも見える。
     何なんだろう、一体。訝っている間にも、踝を隙間風が掠めてゆく。廊下の寒気が随分と部屋に入り込んでしまった。この儘、居心地の良い室温が損なわれてゆくのは御免だった。「それで?」と、口火を切ったのは私の方だ。早く話を片付けたくて結論を求めたものだが、意地でも安息の時を守りたいのであれば、矢張り、無理にでもドアノブを引っ掴むのが正解だった。
    「つまり、健気で超可愛い、超好き、ってべた褒めしてるんだけど。」
     駄目? なんて。いとけない仕草で首を傾げられてしまうと、「駄目、じゃあ、ないですけれど。」と答えるしかないだろう。あおるのは上手なくせしておだてるのは下手なのか、と脱力してしまった所為もあるが。何にせよ、これで暫く部屋には戻れない。出しっ放しの文庫本達に留守を任せて、大袈裟に吐き出した溜息を悟さんの胸に押し付ける。
    「ココアで良いんですか。」
    「ついでにホットケーキも焼いちゃう?」
    「さっきから拘りますね。お腹が減っているんですか。」
     そうであるならば用意する事も吝かではないけれど。望むのであれば、蜂蜜だってメープルシロップだって、好きなだけ掛けてあげよう。結局、私も大概、彼に甘いのだ。

     
  • 五条悟(呪廻)

    20201109(月)00:03
    ▼いとしの中指


     カーンッ! と。姉妹校交流会の前に設けられた両校生徒の顔合わせの時間だと言うのに、私の耳には確かに、確かに戦いのゴングが高らかに鳴るのが聞こえた。この時間はいけない。場外乱闘も良いところだ。試合終了のそれに挿げ替えるべく、即座に隣の少年の脇腹を肘でつつく。
    「やめなさい。悟くん。」
     やめない。悟くんはやめない。舌を出して左手の中指を立てて、飽く迄も向こうの生徒を挑発している。五条家の人間が見たら具合を悪くする格好ではなかろうか。架空の人物の健康の為にも、「やめなさい。」と今一度、早口で窘める。言葉は無力だと結論付ける事となった。ならば。納められる事のない彼の中指を引っ掴む。手の甲側、詰まりはあらぬ方向にぐいぐいと曲げてゆく。「痛たたたッ!」と盛大に痛がった辺りで解放してやった。
     指の付け根を摩る彼を背に遣る形で一歩前に進み出て、京都校の面々に頭を下げる。最上級生の私の顔を立ててお開きとしてくれたのは有り難かった。だが、それしきの事で先程射掛けてくれた悪罵をチャラにしてやる気はない。後で確実に泣かす。あらゆる呪法を用いて泣かしてやる。
    「馬鹿にされてよく黙ってられるね。先輩、煽り耐性カンストしてんの?」
     悟くんは如何やら、黙って遣り過ごそうと努める私の代わりに怒ってくれたらしかった。私とて怒っていない筈はないが、自分よりも大きなリアクションを取る存在を見ると、却って冷静になるものらしい。サングラスを隔てた向こうに在る双眸は、痛みで涙ぐみながらも、赫怒のほむらのちらつくよう。そのぎらつきを目の当たりにして、何所かしらすっきりしてしまったのだ。まったく、良い後輩に恵まれたものだと思う。
     自覚すると自然と頬が弛んでゆく。それが見咎められる前に、咳払いを一つ。私は尤もらしく口を開いた。
    「だって、彼等に負け惜しみを言う時間はないでしょう。餞に少しでも華を持たせてあげようかと思ったの。」
    「成程ね。強者の余裕、ってやつ?」
    「その心算だったけれどね。あれだけ言われたら自分の甘さが際立って、今はただ腹立たしいばかりよ。」
     絶対に殴る。拳を握り込んで意を伝えると、悟くんは愉快痛快だと言わんばかりににんまりと笑った。
    「それじゃあ、俺もひと肌脱ぎますか。好きなだけ惚れ直してよ、先輩。」
    「ええ。期待しているからね。」
     私達の遣り取りを遠巻きに見守っていた傑くんが、頃合いを見計らって待機場所へ移動するように促しに来た。他の面子と共に、揃って指定された家屋へと歩き出す。快勝は確約されている。後は開始の合図を待つだけだった。

     
  • 七海龍水(dcst)

    20201108(日)12:36
    ▼竜の餌


     黒い紙に白の絵の具をさんざ撒き散らしたような夜空は、地上に光が氾濫していた嘗ての世界では見られなかったものだ。
     今は夜半、場所は切り立つ崖近く。サスペンス映画であれば事件の一つでも起こり得そうなシチュエーションだが、抜かりなく安全に気を払うこの男の前では、滑落なんて危険は万が一にも及ばないであろう。共に星影を受ける傍らの男は、七海龍水は、黒々とした海を望んでいた。陽光で編まれたようなきらきらの髪が、彼の眼差しを覆っては露にして、隠しては見せ付ける。夜の海原を映していて尚、頭上の星ぼしの中でひときわ輝く一等星よりもまばゆい、龍水の瞳が好きだ。好き。私は、彼が好きだ。
     誰も彼もを大好きだと人間礼賛する、彼の言うところの「欲しい」は、きっと、愛ではあっても恋ではない。燃える愛であったとしても、盛る恋ではない。私と彼のこころは永久に寄り添えないだろう。二つに分かたれた北極星が各々填まっているかのような目もとを窺う。そうしていたら、唇からこぼれ落ちた。「貴男が、欲しい。」なんて本心が。ひと度流れ出すと、後は堰を切って溢れ出すばかりであった。「私以外を、求めないで欲しい。」と言う、これ迄腹の奥底に秘めて来た業深い願いをも己が手で暴いて晒してしまうのだから、まったく世話がない。
    「だが、欲しがる俺を貴様は欲しがるのだろう?」
     そうだ。自らの欲するものに素直に生き、自らの求めるものに素直に邁進する彼にこそ、私は恋をしたのだ。それこそ、星に手を伸ばすようにして。
     道理を説くように語られた言葉が、我先にと飛び出したがる様々な感情共を押しとどめて、飲み下させる。どろどろとしたものが腹の底に無理くり落ちた頃、漸く一つだけ頷けた。
     戯れる夜風と潮騒とが、ザアザアと騒ぎ立てている。私の激情が招き寄せたかのように、荒々しい突風が一陣、岸壁から迫り上がって来た。余りの凶暴さに足もとが崩される。踏ん張りが利かずに蹌踉めく身体。踏鞴を踏むよりも早くに颯と肩を抱かれて、彼の腕の中へと力強く引き寄せられた。まるで潮風に攫われようとするのを手もとに取り返すみたいで、神話で見た、宝ものをたくわえてはまもる竜の姿を思い出した。
     風が過ぎ去って辺りが凪いだ後でも、彼の手は私の肩を掴んで離さなかった。静寂に、龍水のもの思わしげな吐息が落ちる。
    「――フゥン。嫉妬する顔も美しいが、欲しいものを取りこぼすなど俺の沽券に関わるな。ならば受け取れ。」
     口振りから金でも握らされるのかと思ったが、予期せずして、龍水のもう片手は私の頬へと伸ばされた。普段の強引さはまったく鳴りを潜めた、そうっとした手付きで撫でられる。こそばゆさを感じる間も無かった。するりと滑り落ちた先の頤をやわらな力で持ち上げられ、顔を上向きにされる。星辰が和らげた夜陰の中、視線がはっきりと交わったのは一瞬の事だった。冷えた唇に、熱がともる。
    「この世界でのファーストキスだ。貴様にやろう。」
     悠然と居住まいを正した龍水の口もとに、真珠色の八重歯が覗く。傲然と、そして得意気に笑う彼の親指の腹が、私の唇に触れる。ひと撫で、ふた撫で。爪弾くように撫ぜられたものだから、意味を為さないながらも何か音を形作らなければいけない気分にさせられた。縺れる舌を回そうとする。それしか能がなくなってしまったみたいに、重ねられたばかりの唇を開けては閉じてとする事しか出来なかった。重いのか安いのかわからない、なんて減らず口、胸のなかでは幾らでも言えるのに。

     
  • 加茂憲紀(呪廻)

    20201108(日)12:36
    ▼お目覚めのお時間


    「私と、結婚を前提に付き合って欲しい。」
     加茂家次代当主であらせられる彼から面と向かってそう申し込まれるのは、一体全体幾度目の事になるだろうか。呪術高等専門学校に入学して一年と少しが経とうとするが、片手の指の数ではまるで利かない事だけははっきりとしている。耳には胼胝、舌にも胼胝だ。私の口はげんなりとへの字に曲がりながらも、お決まりとなったこの台詞を機械的に繰り出す。
    「私には好きなひとがいます。どうかお引き取りを。」
    「では、また日を改めて告白しよう。」
     懲りない人だ。一度目の告白は、私が入学して直ぐ、どの桜の木も未だ葉を茂らせていないような時分にされたのであったか。その時の彼の顔が思い出されるが、この度と寸分も違わない。細められた双眸は飛ぶ矢の如く真っ直ぐに見据えて来たし、表情や声の隅々に迄宿る真剣さは正に切り付けて来るようであった。それは二度目の告白でも変わらなかった。三度目も異なる事はなく、四度目、五度目、六度目も同じだった。最初こそ方便を使って断った事に罪悪感を抱きもしたが、繰り返される都度に徐々に嫌気へと取って代わり、一年に亘ってめげない姿勢を見せられた今となっては最早感心すらしている。だとしても絆されやしないが。
    「好きなひとがいる、と言っているのに。その行動、間男でなくて何だと言うのですか。」
    「嫡男だ。」
     それはそうね。
     堅物を通り越して天然と言えるさまに当てられた私は、咳払い一つで何とか気を取り直した。いい加減にこの連鎖を絶ち切るべく、新たな展開を用意しようと決めたのは、その『嫡男』と言う言葉を受けたからでもある。真面目腐った顔で此方を見詰めて来る加茂さんを、真っ向から見返す。
    「だったら、時を待てばお似合いのお見合い相手だって用意されるでしょうに。何故、私なのですか。」
     大方、私の術式が目当てであろう。彼の五条悟をして稀有と言わしめた程の逸品、それが私である。呪術界の御三家たる加茂の家の血脈に取り込みたいと執着するのは、其所に生まれついた嫡男として当然の思考やも知れない。だから、彼がその思惑を露呈した時、そんな相手は御免だと今度こそきっぱりと断ってやるのだ。
     だが、今か今かと時を待てども、加茂さんは眠ってしまったのかと疑う程に無反応で突っ立っていた。暫くののち、「そうか。」と一人で納得しているのだからまるで要領を得ない。痺れを切らして、あの、と声を掛けようと口を開く。開こうとして、開けなかった。
    「色々と理屈を捏ねたが、この一言に尽きる。――私は君に一目惚れをしたのだろう。」
     何時も見て来た加茂家嫡男らしからぬ、頬の様相。それは私の時をすっかり封じてしまった。

     
  • (五条悟)+七海建人(呪廻)

    20200911(金)05:05
    ▼(LOVE YOU)discussion!


    五条さんが嘘をつくか、ですか。まあ、つかないでしょうね。どこからどこまでを嘘だと線引きするか――建前や見栄を嘘に含めるかにもよりますが、先ず、嘘はつかないと思いますよ。良く言えば素直な、率直に言えば年甲斐もなく気儘な人ですから。それに、態々嘘と言う手段を用いなくても物事を動かせるだけの力がありますから。五条さんには。だからこそ、嘘をつくとしたら相応の理由があると思いますよ。――冗談を嘘に含めるとしたら、ですか。つきますね。断言出来ます。あの人が笑えない冗談が得意なのは、アナタも知っているでしょう。他者を傷つけるつもりがないのがたちの悪いところですが……考え難いですが、何か言われたならば気にしない事が一番の得策です。あの人の言葉の一つ一つに反応していたら、神経が幾らあっても足りない。そうもいかない? 一体、何を言われ――ああ、成程。そう言う事か。残念ですが、時間切れです。アドバイス料に頂いたコーヒーも飲み終えた事ですし、私の見解はここまで。見捨てる訳ではありません。アナタが答えを確かめるべき相手は私ではない、と言うだけの話です。――最後に、一つ。五条さんはそう言った類いの嘘や冗談を言えるような人ではないかと。アナタが相手であれば、尚更。それでは。

     空缶をごみ箱に入れると、七海さんは背を向けて行ってしまった。背広姿があっと言う間に見えなくなる。自動販売機周辺に私以外の人気が無いのを良い事に、へなへなとだらしなくしゃがみ込んだ。
    「うそでしょう。」
     嘘、ではないのだ。思わず口から漏れ出た感慨を、信頼出来る人間から得た助言が否定した。七海さん、眼鏡の奥で目を見張って驚いていたなあ。あの分だと、私が悟さんからなにを告げられたのか察したのだろう。只でさえ昨夜から熱の引かない頬が、痛いくらいに熱くなる。熱冷ましに冷え冷えとした缶飲料を含む。甘ったるいその味は、悟さんの言葉を思い出させるには充分であった。

     
  • 庵歌姫+五条悟(呪廻)

    20200809(日)23:11
    ▼ゆらゆら



    「行くわよ。」「行くぞ。」
     全くの同時に開かれた二つの口は、全くの同時に噤まれた。言葉に代わって、敵視そのものの視線が丁々発止と切り結ぶ。
     片手に華。片手に華やか。可愛い先輩と美しい同級生の二人にそれぞれの手を取られて身動きの取れぬ少女が出来る事と言ったら、曖昧に笑う事くらいのものであった。
     二人共、際立って気の長い性質ではないが、膠着状態に痺れを切らしたのは庵の方がひと足早かった。少女の手を引くと、魔手から庇護するように自分のそばへと引き寄せる。
    「先約を取りつけたのはこっち。この子は今から私と女子会に行くの。」
    「はあ? 女子ぃ?」
    「いちいち五月蝿ぇ!」
     態とらしく胡乱気な声を上げる五条に律儀に噛み付く庵を、まあまあ、と少女が取り成す。その片手の自由が未だ五条の手中にあるのを確かめると、只でさえ店の予約時間が迫ってじりじりとしている庵の気は余計に荒立った。
     可愛がっている後輩と久し振りに時間を共にするのだからと、気合いを入れて人気のお洒落な個室居酒屋を予約したのだ。慣れぬ情報サイトを、眠い目を擦りながら夜遅く迄探って、だ。それを目の前に聳える邪魔者は、突然現れてふいにしようとしている。庵の眉や眦が、怒りにも酷似した闘志で更に吊り上がる。
    「アンタの用なんて碌でもないものに決まってるんだから、その手、とっとと離しなさい。」
    「失礼だな。こっちだって前々から話してたんだよ。新しく出来たパンケーキ屋に行こう、って。」
    「態々今日にぶつけて来る事はないでしょう。そんなに今日が良いんだったら、夏油とでも行ったら。そっちはそっちで仲良く男子会でもしていなさいよ。」
    「今は逆ナンされたい気分じゃないから却下。」
    「この子を女除けに使わないでくれる。」
     少女もしみじみと首肯した。無意識下での行動なのだろうが、庵の方に身体を傾けるさまは、彼女に心をすっかり預けているようでもあった。
     そのように深い精神的な結び付きを見せ付けられるなり、五条の瞳はすらりと冴えた光を帯びた。いっそ冷酷な迄に、面白くない、と如実に語っている双眸は、サングラスに秘されて彼女等に知られる事はない。女除けではない、少女の喜びに綻んだ顔が見たいだけだ、と本心を打ち明ける素直さを持ち合わせていない自分に、五条はほんの僅かに歯噛みする。本当に、ほんの僅かに、だ。まばたき一つすると意識は切り替わり、少女を連れ去る策を講ずる為に動き出す。
    「――バニラアイストッピング。」
     呪文が唱えられる。
    「――チョコレートソース追加。」
     呪文が唱えられる。
    「――ホイップクリーム鬼盛り。」
     呪文が、唱えられる。
     五条の唇から一つ放たれる都度に、少女は身体に括り付けられた糸を引かれるようにして、徐に今度は彼の側へと手繰り寄せられて行った。五条はしてやったりと北叟笑み、庵は何と言う事かと焦る。
    「朝、パンケーキが食べたいって喚いてただけあって身体は正直だな。」
    「誘惑すんな! アンタも、パンケーキくらい今度奢ってあげるから戻って来なさい!」
    「ほらほら、早く行かないと行列が出来るよ。歌姫、手ぇ離して。」
    「誰が離すか! しっかりしなさい、傷ものにされるわよ!」
    「歌姫の中の俺のイメージ、悪過ぎない?」


     
  • 伏黒甚爾(呪廻)

    20200720(月)02:31
    ▼フラワー・フライデー・フェスティバル


     リビングの扉を開け放って、ビニール袋を高々と掲げてみせる。居候の視線が釣れた手応えに、口の端っこが自然と持ち上がってにんまりとしてしまう。
    「シャトーブリアン様なるぞ。頭が高い、控えおろう。」
     有名な時代劇の中の印籠を見せ付ける家臣にでもなった気分で、朗々と謳う。
     テーブルに競馬新聞を広げていた彼が、怪訝そうに一拍置いた後、傷痕の刻まれた唇を肉食の獣みたいに吊り上げた。態とらしい拍手が打ち鳴らされる。
    「随分と奮発したな。」
     部屋の四方八方に散らばった乾いた音が壁に吸い込まれた頃を見計らって、私はしみじみと頷いた。
    「諭吉が蒸発したわ。焼くのに失敗しないと良いのだけれど。」
    「食いに行った方が良かったんじゃねぇの。」
    「今日は疲れたの。もう甚爾以外の人と話したくない。」
    「あっそ。そいつはお疲れさん。」
     さらりと放られたその労いの一言で、ストレスで凝っていた心に血が通い出す。心身を苛んでいた疲れが溶けて押し流されてゆくようであった。
     仕事勤めは何かとストレスが溜まる。今日は特に厄日であったので、残業をやり終えてから、堪らずに閉まりかけのデパートのその地下に店を構える高級精肉店に駆け込んだのだ。
    「ストレスが溜まった時は美味しいお肉を食べるに限る。」
     私の持論を展開すると、彼は組んでいた脚をほどいてのっそりと立ち上がり、興味深そうにビニール袋の中を覗きに来た。
     美人は三日で飽きると言うが、そんなのは嘘だ。間近で見るしっとりと濡れたような漆黒の睫毛の長さは、何時迄経っても見慣れる事がない。美は精神を救う。顔も声も肉体もうつくしいこの男を飼っていなかったら、今頃はストレスに気を狂わされていた事であろう。彼と出会えなかった世の人間には同情の念を抱く。本当に、御愁傷様な事だ。
     優越感に耽溺し、目を奪われている事にも気付けないくらいに端正な顔立ちに見惚れていると、睫毛以上に黒々とした瞳が視線をやり込めるようにして私を射抜いた。次いで浴びせられた喉でくつくつと笑うそれは、明らかな揶揄の音だった。
    「美味い肉なんて毎晩食ってるだろ。舌が肥えたか。」
    「だって貴男、筋張っているじゃない。私は柔らかいお肉が食べたい気分なの。」
     ――とは言えども、後何時間もしたら御馳走になる運びとなるのだろうけれど。
     高揚しようとする神経を落ち着かせるべく、そそくさとキッチンに踏み込んだ。御肉様の鮮度を守らんとする保冷剤を引き剥がして、常温に戻す為に調理台の上に暫し鎮座させる。
     スーツのジャケットを脱ぎながらキッチンから出るなり、「ん。」と逞しい腕が差し出された。「ん。」と子どもみたいな鸚鵡返しと共にジャケットを手渡し、その儘洗面所に向かう。ハンドソープの泡立つのと共にむくむくと大きくなりゆく、鼻歌でも歌いたくなるような愉快な心地。
     彼のそれは、普段はしない気遣いだった。ぐうたらで危険なにおいしかしない男だが、気紛れに小さくいたわってくれる。だからこそ、こうして深みに填って行ってしまうのだろう。
     手を濯ぎ、うがいを済ませ、化粧を落とす。さっぱりしたところで部屋着に着替えてリビングへと戻ると、先程迄私を締め付けていたスーツはきちんとハンガーに吊るされ、壁の長押に掛けられていた。その隣にパンツを掛けて、振り返る。帰宅した時と同じ格好が其所には在った。テーブルに頬杖を突いて、馬の名前と細かい文字と数字がびっしり敷き詰められた斬新なテーブルクロスに視線を注ぐ、少し丸められた背筋がなんともいとおしい。広い背中に抱き着いて、烏の羽のように艶やかな黒色をした髪を繰り返し撫でる。
    「良い子、良い子。」
    「良い子にご褒美は?」
    「ビールがあるわ。六缶パックを買って来た。」
    「荷物になるんだったら呼べよ。」
    「あら、珍しく優しい。」
    「いつも優しいだろ。」
     髪を梳いて指通りを楽しんでいた手が、不意に取られた。労るように手の平を親指の腹で撫でさすられる。黒色のスウェットを着込んだ肩口に顔を埋めてもっと触れて欲しいと甘えると、腕を回して後ろ頭をぽんぽんと撫でてくれる。
     手も頭も、胸の内側も、堪え切れない程にむずむずと擽ったい。仕事から解放される特別な夜である事も手伝って、浮かれた笑い声がとめどなくあふれ出す。
    「嗚呼、花金最高、て感じ!」