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記事一覧

  • 伏黒甚爾

    20220228(月)05:11
    ▼雪花ふるふる


     雪の降るさまを、しんしんと降る、なんておとなしそうに言うが、斑雪が傘にぶつかる音と言ったら如何だ。まるで砂利をまぶされているようで、雨粒の方が余程風情を理解していると言えよう。糅てて加えて、歩く毎にビニール傘は白くなりゆき、視界は悪くなるわ傘は重くなるわ手は悴むわ。けれども、今日の雪空のもとに在っては、私はその最悪の全てとは無縁でいられた。
    「手、霜焼けになっていない?」
    「部屋に帰ったら温めてくれるんだろ。」
    「それも悪くはないけれども、直ぐにお風呂を沸かしましょう。そっちの方が余程温まるわよ。」
    「オマエは?」
     冷えていないか、と尋ね掛けられているのであろう。傘を大きく此方に傾けて、私が少しも雪を被る事がないようにして尚、気遣ってくれるとは。雪模様の為に早々に退社した私を駅迄迎えに来てくれた、それだけでも充分な程なのに何ともサービスが良い。宿主、やっているものだ。
    「可愛い可愛い甚爾くんのお陰で冷え知らずよ。」
    「冷え知らず、な。風邪でも引いてるからか?」
    「お生憎と平熱よ。色男に、可愛い、は不服だったかしら。」
     でも、だって、可愛いげがあるのだから仕方が無い。傘の庇から出た甚爾の、薄らと白くなっている肩を覗き込む。何時ぞやに買い与えた厚手のコートを羽織っていようとも、見るだに寒々しい。献身と映るそれも処世術の一つなのだと心得てはいても、一歩、傍に寄る。傘の傾きは僅かに水平を取り戻して彼の肩を少しばかり覆ったが、これ以上近付いてはお互いに歩き難かろう。
     ハア、と。甚爾の目の前に吐息の綿雲がぷかりと浮かんだ。降るは、呆れだ。
    「ヒモ相手に殊勝な気遣いするじゃねぇか。」
    「可愛いから、つい、ね。」
    「可愛いと得だな。」
     ビョウ! 突如として傘の中に吹き込んだ一陣の向かい風が、二人の身体に雪礫をぶつけて去ってゆく。寒い。素直にそう身震いと共に呟いたならば、きっとこの世渡り上手――女渡り上手か――の男は、着替えと一緒に冷え切った手で私を抱え上げては浴室に籠るのだろう。空も凍てつく日だ、それも良いか。
     吹雪に乱された黒髪の下の、端正な顔立ちを振り仰ぐ。その睫毛に飾られた雪の一粒の美しさたるや。誘い文句も忘れてしまった。まばたきによって薄氷の飾りを振り落として、甚爾の黒瞳が私のうつけ顔を射抜く。
    「何だよ。」
    「ううん。清少納言の気持ちがわかりそうだなあ、て。」
     誰だそれ、と怪訝そうな顔付きをして、甚爾は頭を振るってコートをはたいて、序でに私の前髪にしがみ付いていたらしい雪の欠片をそうっと撫でて落とした。

     
  • 学生夏油傑

    20220225(金)13:30
    ▼山中通りのクレープ屋さん


     学生服の上に着込んだ厚手のコートの前を開けて、両の前身頃を広げる。丹頂鶴の威嚇にも似たポーズだ。
    「さ。ずずい、と中に。」
     丹頂鶴の生息する北海道の地はこれよりも寒かろうが、都会生まれ都会育ちの人間には夜の山の寒さでさえ堪えるのだ。共に任務を命じられた夏油くんが頻りにまばたきを繰り返しているが、その訝りようは、開かれた唇から浮かんだ白い呼気にも滲んでいる。彼の目の高さを浮遊する薄霧、それが得心がいったと言うようなしみじみとした呟きによって深くなった。
    「私はそれほど寒くないよ。だから前を閉めないと、君の身体が冷えるだろう。」
    「私が、既に底冷えがしているんです。呪霊が出て来るまで懐炉になってください。」
    「ここに来る前に、背中にカイロを貼っていたように見えたんだが。」
    「前面の防備が手薄で参っているんですよねえ。」
    「手を繋ぐのでは駄目?」
    「そのように問答をしている間にも身体が冷えてゆくのですけれど。」
     カム。ヒア。ぱたぱたと身頃をはためかせる。動かす毎に風が巻き起こり、足もとからスカートの中に氷の塊を差し込まれるかのようで、寒い寒い。暗闇に巻かれていてもはっきりと見える程に躊躇っている夏油くんに、これは我慢比べになるかと思われたが、「お邪魔します。」と。覚悟していたよりもずっと早くに身を寄せて来てくれた。言っても聞かない私の身体を気遣っての事なのだろう、なんて、考える迄もない。夏油くんの大きな身体に抱きつく。其所で、私は誤算に気が付いた。コートでくるんであたためてあげたかったのに、体格が違い過ぎて上手に巻き込めない事に。
    「何だか、具が盛り盛りのクレープみたいな事になっていますね。」
    「自分でやっておいてそんなに笑う?」
    「夏油くんのクレープかあ。小豆、いや、チョコレート? 生クリームは増し増しでしょうねえ。」
    「随分と甘いイメージを持たれているんだね、私は。」
    「だって、夏油くんは甘いじゃあないですか。私には、特に。」
     背中に回った腕によって、よくおわかりで、と言わんばかりに身体を抱き寄せられる。厚ぼったい学生服の隔たりだって少しの時間で越えて来る、夏油くんのあたたかな体温が胸にじわりと染む。私もお返しがしたくてぎゅうぎゅうと抱き締めると、「苦しいよ。」、夏油くんは中身をシラップ漬けにされたかのような声で甘く甘く笑った。

     
  • 新門紅丸

    20220208(火)03:19
    ▼ヌーカレから決めていました


    「紺炉には随分と気ィ許してんだな。」
     平坦と言うべきか、平淡と言うべきか。不機嫌ではなさそうだが今一感情の読み難い声に振り返ると、其所には声音と同じ表情でいる、新門大隊長の姿が在った。じい、と。熾火の色をした瞳に見詰められると、火を忌避する獣のように自然と足が後ろへと下がる。
    「その、相模屋中隊長は、親戚のお兄さんのようで、親しみ易くて――」
    「俺は破壊神様だからおっかねェかい?」
     鼻で笑い飛ばしたのは、私の怖じ気ではなく、大それた渾名の方なのだろう。だとしても、片方だけ吊り上げられた唇の皮肉気な形にも腰が引けてしまうのだ。
    「……そんなに恐がらなくても取って食いやしねェよ。第8とは盃を交わした仲だ、悪いようにはしねェ。」
    「いえ、あの、違うんです。」
    「違う?」
     何がだ、と新門大隊長は袖の中に手を仕舞って腕を組み、小首を傾げて私の正答を待っている。些細な仕草の一つにも、心を象った心臓が大きく揺さぶられる。遂に私は手で顔を覆ってしまった。指と指の隙間から溢れてゆくは、いっぱいいっぱいで絶え絶えとなった吐息だ。
    「新門大隊長、かっこうよすぎて、ちかよるのがおそれおおいんです……。」
     手の平で顔に熾った熱を受け止めている、と。ト。足音がする。気分を害して踵を返した、遠退いてゆく足取りが立てるものではない。間近にお出でなさった新門大隊長が、小さく笑う。
    「お前ェが近寄って来ねェから、こっちから来たが。さァて、鬼ごっこと洒落込んでみるか?」
     かんべんしてください、推しの意地悪はご褒美なんです。

     
  • 相模屋紺炉

    20220207(月)17:53
    ▼お変わりあそばして


    「酒は足りているか?」紺炉さん! 俺達がやりますから座っていてくだせェ!「若い奴等こそ座ってな。食うモン、ヒカヒナに掠め取られちまうぞ。」あいつら、韋駄天みてェに素速いからなァ! 食いっぱぐれて夜中にベソかくぞォ、若いの!「そう言うこった。こっちは気にせずにやってな。」いえ、いえ、俺は紺炉さんに憧れて火消しになったんだ。あんたがあくせく働いて回っている横で、デカい顔で飯が食える筈がねェ。酒だけでも運ばせてくだせェ!「お前ェも律儀だな。まあ、人手は多いに越した事はねェから助かるが。それじゃあ、また足りなくなった頃に頼むとするか。」はい! 喜んで! 紺さん、こっち座んなよ、働き回ってるのは確かなんだから、少し休憩して行ったらどうだい。「うちの嫁さんの方が余っ程働いてくれてんだ。旦那がぐうたらしてたら、それこそ愛想尽かされちまうだろ。」夫婦揃って働き者だなァ、ここン家は!「――ああ。若いの。手伝ってくれるんだろ。行くぞ。」はい! ……あれ、紺炉さん、身長、縮みました?「馬鹿言え、お前がデカくなったんだよ。」紺さんは何年も昔っから、タッパ、変わらねェよなァ。「そう言や体重も変わってねェな。」飯の食い過ぎはしねェし、紅さんみてェに大酒飲みでもねェもんな、それだけ節制出来てりゃァ腹出る心配はねェな!「これまでだって特別気を付けている訳でもなかったんだが……それでも、若い嫁さん迎えたからには見栄張っててェもんだな。」ハハッ! 然しもの紺さんも、惚気だけは節制出来ねェってか!

     
  • 新門紅丸

    20220203(木)05:06
    ▼当たるも八卦、当てるも八卦


     金魚屋のおじさんが新しく始めた商売は、金魚占いなるものであった。金魚を掬った時のポイの破れ方で運勢を占うんだそうな。これが中々に好評で、今日も今日とて、未来を示す金魚様が泳ぐ水槽の前には悩める女の子が集っている。
    「占いに凝るな、女子供は。」
    「新門さんは嗜まれませんか。」
    「そもそも俺ァ信心がねェからな。ああ、験担ぎくらいはするか。」
    「もしかして、この間、カツ丼を食べていたのは博打を打つ前だったからですか。む、」
     無益な、と続けてしまわぬように口を噤む。くだんの日を反芻して噛み締めているらしき苦あい顰めっ面を見る迄もなく、結果はわかり切っている。このひとの比類なき強さは賭け事相手にはまるで形無しなのだ。カツ丼の一杯では覆りようもない程に。この際、占いにでも頼ってみたら良ろしいのに。それは無粋か、と思い至ったところで、女の子のキャアと言う黄色い声が場を沸かせた。何かとても喜ばしい兆しが現れたのだろう。女の子は勇気付けられ、おじさんも懐がほくほく。良いご商売だ。
    「熱心に見ているが、占い、お前ェもやってみてェのか。」
    「私は事足りています。テレビで観た今朝の占いで一位だったので。」
    「そいつはめでてェな。で、何だって?」
    「恋愛運が特に良好で、好きなひととお昼ご飯をご一緒出来るかも、だそうです。」
     へェ、と打たれた相槌は、そんな事で喜んでくれるのか、と言っているようで。そうだ。このひとは、願いを叶える側に立つひとなのだ。一度、天を仰いで太陽の位置を確かめた赤い瞳が、行く道を映す。馴染みの定食屋に続く道だ。
    「腹、減ったな。飯でも食いに行くか。」
    「はい。喜んで。」


     
  • (新門紅丸)+相模屋紺炉

    20220203(木)03:18
    ▼お呼びでないの


     あー、ね。ハイハイ、それで、右に行って?あれ?左?もっかい!もっかい言ってくれたら覚えるから!ね!馬ッ鹿、お前、お姉さん困ってんだろ。いやぁ~、ゴメンね~。俺ら頭悪くてさぁ。で、あのさ、悪いんだけど一緒に来てくんね?俺ら浅草初めてだから道とか全ッ然わかんなくて!ネッ!お願い!
     ナンパかよ! 態とらしく頭を下げて両手を合わせる男も、その隣で此方の様子を具に窺っている初めに声を掛けて来た男も、目的は端から女漁りであったらしい。下卑たにたにたとした笑みが目に頬に唇にへばり付いている。人がこれだけ懇切丁寧に道案内をしていると言うのに巫山戯けた話である。
     此所、浅草の地が誰によって治められているのか。知らないのか、将又、知っていて舐め腐って掛かっているのか。何にせよ、このような場面が我等が破壊王様に見付かっては事だ。命知らずの観光客達には命ではなく金を落として貰わなければならないのだから、穏便にお引き取り願わなければなるまい。しかし、町に滞在している間に常習的にナンパを企てられるのも困りものなので、後の事は誰彼男の人に――灸を据える為にも出来れば強面の火消しの人に――任せようと算段して、道の先を指さす。
    「私ではご案内は難しいようです。そこの道を真っ直ぐにゆくと詰所が在りますので、」
     言葉が乱暴に打ち切られる。隙だらけの手首が掴まれた。強引に引っ張られる。体勢を崩して踏鞴を踏む。後ろから肩を押されて、男二人掛かりで連行される。振り払いたいが、獲物に噛み付いた手は力強くて、何の心得もない女では抵抗が叶わない。お姉さんが一緒に来てくれたら良いだけじゃん。そーそー、一緒にイこうよ。そうげらげらと嗤う声、が、立ち所に萎んでゆく。道に藍色の厚い壁が立ちはだかっていた。
    「テメェら、命が惜しかったら今すぐにそのひとから薄汚ェ手ェ離して貰おうか。」
     紺炉さん、と。唱えた名前は、厄除けの真言かのよう。私の身体を捕らえていた不埒な男達の魔手が大慌てで去り、靴底が地面を躙る音が逃げ腰を表している。地獄の底から響いて来たかと思うような凄味を利かせた怒り声が、それ以上何かを吼え立てる事はなかった。ぎろり、と鋭い青瞳がひと睨み。沈黙で以て恫喝する。この町の誰もが、かの破壊王ですら例外でなく縮み上がるのだから、異邦人がこの人の憤怒相を前にして何が出来よう。それでは、さようなら、観光客。区境へと踵を返して一目散に退散する二つの影のお見送りをする。
    「ありがとうございます。紺炉さん。」
    「団子屋のバァさんが慌てて呼びに来た時は何事かと思ったが――ふてェ奴もいるもんだ。姐さんに手ェ出そうなんてな。」
    「ねえ、紺炉さん。それ、本当に嫌なんですけれど。」
    「晴れて若と夫婦めおとになったんだ。そう呼ぶのが筋ってモンだろ。姐さん。」
    「絶対に面白がっていますよね。」
    「悪くねェ響きだと思うが。」
     宙へと視線を逃がした紺炉さんの表情は、不貞の輩を追い払った厳めしさから打って変わって、その瞳が映す青空を写し取ったような晴れ晴れとしたものだ。祝言で終始泣いていただけあって、私達が夫婦となった事が相当に嬉しいのであろう。気持ちは汲めども、姐さん、と彼から呼ばれるのはむず痒くて堪らないったらない。

     
  • 五条悟

    20220129(土)04:35
    ▼なんでもないよのおまじない(おまけ付き)


     五条悟大明神権現超先生! 私めにご利益をください!
     二級術師となって初めての単独任務だ。可視光を放ちそうな程の非常な武者震いをしていたし、全ての臓器は口から出そうであったし、緊張で気が如何にかなってしまいそうだった。
     見送りに来てくれた最強の術師様々こと五条悟大先生が、バッ!、と勢い良く長い腕を広げる。
    「おいでラスカル!」
     あらいぐまではない! けれども飛び込む! 溺れる者は藁をも掴むのだから、齎されたものが最強の男であるならば縋り付くのは道理だろう。
     ぶるぶると震えがやまない背中を撫で摩られる。頭を撫で梳かれる。「おー、よしよし。」と態とらしい憐れみの声を上げて、動物園のふれあいコーナーにいる小動物を揉みくちゃにするように撫でられる。
    「今から死にそうな顔をしなくても、君ならやれるさ。何せ、この僕のお墨付きがあるんだから。」
     だーいじょうぶ、と。底抜けにお気楽な声を聞いていたら、本当に、あらゆるものごとが恐るるに足りないものに思えて来たのだから不可思議だ。
     どれだけ丹念に緊張をほぐされたのか、摩擦熱であたたまって来た身体を動かす。五条先生の腕の中から巣立つ。何時迄も補助監督の方を待たせてもいられない。気張ってきっとした顔付きを作ると、五条先生は、言祝ぐような晴れ晴れとした笑みを見せた。
    「良い顔だ。それじゃあ、これはおまけ。頑張っておいで。」
     つ、と。一度、自らの唇に押し当てると、その人さし指と中指を私の額へと遣った。投げキッス、みたいなもの、なのだろうか。若しくは何等かのまじないか、望んだ通りの功徳か。何にせよ、五条先生は変わらずににこにことしている。彼にとっては何でもない事のようだった。
     額の中心に触れた二指のぬくもりが其所にとどまっている内に背を向ける。
    「いってきます!」
    「はい、いってらっしゃい。」
     覚悟を決めて送迎車に乗り込むと、硝子窓の向こうで五条先生がひらひらと手を振っている。応じるべく手を挙げて、私はすっかり震えが治まっている事に気が付いた。

     
  • 学生五条悟

    20220129(土)02:47
    ▼安心してください


     先日の任務以降、この身に刻まれた術式で出来る事が増えた。マスコットのお化けのようにぷかりぷかりと宙に浮き、五条くんの頭のまわりを漂う。かの六眼に九死に一生と共に得た成果を見せ付けていると、ふた回りもした頃になって顎が小さくしゃくられた。
    「もうちょい上。」
    「期待したところで穿いていないので見えませんよ。」
    「マジ?」
     大きな身体が素早くその場にしゃがみ込む。白髪に飾られたかんばせは嬉々としていて、女子生徒のスカート捲りに全精力を注ぐ、悪戯盛りの小憎たらしい小学生男子の面影があった。折角の美貌が号泣している。
    「お手本のような非モテ仕草ですね。」
    「本当だったら上着貸してやるつもりだったんだっつーの。紳士的に。」
    「そこは確かめずに差し出すのが一番スマートなのでは――」
     嗚呼、時間切れか。がくんと高度が落ち、身体が地面に転がる――それよりも早くに、す、と両の手が差し出された。立ち上がった五条くんの手だ。有り難く支えにすると、落下しつつあった身柄は無事に地面に根を下ろせた。頭の上で、にんまりと笑われる。
    「で、スマートさが何だって?」
    「そう言うのがモテないんですよ。」


     
  • ジョーカー

    20220119(水)06:33
    ▼共食い


     隣に在った黒影を、今は見上げている。押し退けようにも手の自由が利かない。ソファに組み敷かれたのだ。黒白に映える唯一の色彩である紫の色を覗く。僅かに、僅かに揺れた。それは動作に掛かった「僅か」であり、時間に掛かった「僅か」である。私がまばたきを一つした隙に衝動は見事に飼い慣らしたらしい。すいと顔が寄せられる。
    「男は狼でも女が羊とは限りませんよね。」
     は、と。疑問符を吐き出した唇は無防備で、格好の餌だった。首を伸ばして、がぶり。接吻代わりに下唇に熱烈に噛み付いてやる。
    「ッ……肉食系っつーか、そのまま肉食じゃねェか。」
     思わぬ私の行動にすっかり面食らった様子で、彼は痛々しげに顔を背けた。煙草臭い舌で出血を確かめて、一言。
    「いや、悪食か。」
    「おや。力が弛みましたね。狼さんは、羊の皮を被ったバケモノと食い合う覚悟はおありでない?」
    「上等だ。共食いといこうか。」
     手首を押さえ付ける手に、力が込め直される。ひと息に重ねられた唇で為す接吻は獣らしく、食らい合うように、貪欲に。

     
  • 新門紅丸

    20220119(水)04:59
    ▼(ごろごろぐるぐる)


    「於菟屋ンところの猫、見つかったんだってな。」
    「隅田川の川縁で寝ていましたよ。それはもう気持ちが良さそうに。」
     私の腕の中でニャゴニャゴと鼻唄交じりに軟らかく伸びたり縮んだりしているこのふかふかの毛玉こそは、朝も早くから店を飛び出して浅草探検にご精を出された自由なる三毛猫様である。
    「ババァがさんざ探し回ってたってェのに、気儘なもんだ。なァ。」
     柔らかな生きものを強張らせない柔らかな声音で語り掛けながら、猫の額を人さし指でちょいちょいと掻いてやる新門さん。そして、うっとりと目を瞑って喉を鳴らしている猫。麗らかな昼下がりに望む光景としては百点満点花丸付きとも言える和やかさで――「――良いですねえ。」。ご満悦にふくふくとしている三毛猫に注がれていた真紅の視線が、ついと上がる。
    「珍しい事もあるもんだ。お前から甘えられるなんざいつぶりだ? 明日は雨か、槍でも降るか。」
     勘違いをされたのだとは直ぐに気が付いた事だ。けれども。猫の頭から離れた手の甲に、優しく笑う声に、さらりと前髪を撫でられると何も言えなくなってしまった。私が猫であったならば、今、絶対に、喉が鳴っていた。

     
  • 相模屋紺炉

    20220115(土)04:57
    ▼神前にて


     二度、空気が震える。柏手が打たれた後のしんと静まり返った世界の中で、それすらも奉納すべき一つかのように、相模屋さんの佇まいは美しかった。
     神棚に深く一礼して今朝のお参りを終えると、床に置いておいた下げた神饌を手にしようとして、其所で私の存在に気が付いたらしい。厳かであった気配が、ふ、と和らぐのを感じ取って、胸の奥が甘くあまく締め付けられる。
    「毎朝の日課でな。素気無くして悪かった。」
    「気に――」なさらないでください。そう続けられる筈であった言葉はからからに嗄れていて、末迄はとても声にならなかった。昨晩の睦み合いであれだけあられもない媚態を演じたのだから当然の報いではある。羞恥が喉に詰まっているが為に俄に押し黙った私を見下ろして、相模屋さんは苦く、けれども少しだって悪びれずに笑った。
    「無理させたな。」
     首を横に振る。
    「あれだけやって未だ満足出来ねェとは恐れ入る。流石、若ェな。」
     呆れと揶揄とを半々に織り交ぜた声音が、頭から被さって来た。
    「相模屋さんだって随分とお若いではありませんか。」
     咳払いを繰り返して漸く羞恥を追い出せた喉が、甘やかに声を奪った張本人に向けて、か細い一矢を放つ。その時に唇は尖ったものだが、彼に親指の腹でひと撫でされただけで簡単に均されてしまったのだから、我ながら御し易い女であると残念に思う。
    「若い嫁さん貰うんだ。それなりにな。」
     世間話でもしているかのように何でもない口振りで、言う。相模屋さんの挙措は常と至って変わらず、堂々とした大きな歩みで私の横を抜けて、古くなった神饌を片付けにゆく。青のまなこには嘘も偽りも冗談も翳ってはいなかった。私をひたと見据える眼差しは、朝も、夜も、何時だって力強い。
     清めの朝日に射たれて尚、昨夜の反芻がよりやまない。この世で私だけがよこしまな気がしてならなかった。

     
  • 相模屋紺炉

    20220105(水)23:41
    ▼うねる


     新作のどら焼きを求める行列は遅々として進まなかった。
    「随分かかるな。」
    「相模屋さん、お時間の方はよろしいんですか。」
    「ああ。いつもの寄合だ、多少遅れたって構わねェよ。それよりか、手土産の一つも持って行かねェ方がどやされちまう。そっちは?」
    「私はお散歩の途中に、自分のおやつを買おうと立ち寄っただけですからね。火急の用事もありませんよ。とは言えども、この儘進まないのでは八つ時も過ぎてしまいますねえ。」
     女が憂い勝ちに視線を向けた、目当ての甘味屋。その入口は未だ遠く、然りとて諦めるには余りに惜しい距離に在った。紺炉も倣って店を見遣る。じりりと地を踏む音が先頭から順々と、行列に波のように広がってゆく。期待のさざなみは二人のもとにも遣っては来たが、実際に詰められたのは半歩だけであった。
    「暫く動かねェな、これは。」
    「退屈はいたしませんけれどね。相模屋さんとお話が出来るので、とても楽しい時間を過ごさせて頂いていますよ。」
    「相変わらず口がうまいな。おだてても何も出ねェぞ。」
    「ふふ、残念。これではどら焼きの一つも買って頂けそうにありませんね。」
     首を傾けて確りと目を合わせて、紺炉に愛想の良い微笑みを見せていた女が、不図、こうべを横へと倒した。紺炉の頭一つ分と少し下の辺りから発される女の声は、今や、彼の聴力を試すかのように声量が絞られている。
    「素朴な疑問なんですけれども、それだけ身長が大きくて、背の低い子の声は聞こえるものなのですか。ヒカゲちゃんやヒナタちゃんの声だとか。」
    「あいつらは無闇矢鱈と声がデケェからな……元気が良いと言やァ聞こえは良いがな。身長差はあっても、逆に聞こえ過ぎるくらいだ。」
    「では、私の声は?」
    「よく通って聞きやすい、良い声だが――それでなくとも聞き逃す事はしやしねェよ。惚れた女の声はな。」
    「相模屋さん、相変わらずお口がお上手ですねえ。おだてても何も出ませんよ。」
     可笑しげにころころと笑う女が、紺炉を直向きに仰いでいた顔を前へと向ける。足音が再び伝わって来る気配を感じ取ったのであろう。紺炉も前方に意識を遣ろうとして、叶わなかった。髪から覗く、女の耳の先の赤さが目を惹いて離してくれやしない。――可愛げしかねェな。口の端がむずむずとだらしがなく弛みそうになっているのを、紺炉は手で覆って隠すしかなかった。半歩、又、列が進んだ。
    「――。」。思わしそうにはたと顔を俯けて、女がぽそぽそりと何某かを呟いている。それに紺炉は気が付いてはいたが、寝ている赤子の障りにもならぬような潜め声が地面に向けられていては、流石に聞き取れない。
    「悪い。もう一度、言ってくれ。」
     紺炉が腰を屈めて、顔を寄せて耳をそばだてる。女はパッと面を上げたかと思うと、口もとに手を添えて、紺炉にそうっと耳打ちした。
    「好きです。」
     甘く甘い吐息を吹き込んで直ぐさまに身を引いた女は、したりとにっこり顔。
     愛していると言ってやろうにも、手を伸ばして抱き竦めてやろうにも、此所は衆人環視の行列の真ん真ん中。衝動が破りかけた情欲の戸を、自制心で糊する。紺炉が、深く、深く息を吐き出す。
    「この後、用が無いってンなら好都合だ。冗談にはしてやらねェからな。」
     行列が、今、大きく畝る。

     
  • 新門紅丸

    20220105(水)03:30
    ▼あまじょっぱキッス!


     あ、まずい。
     顔を過ぎて後ろ頭に回った手は、逃げ道を塞ぎ、強引にも私に受容を求めている。只でさえあたたかな真紅の瞳は熱を帯びて、爛として射て来るではないか。私が影を縫い止められたかのような思いでいると、新門さんはついと顔を寄せて、唇を重ねるべく息を潜める気配を見せた。
     嗚呼、まずい! 咄嗟に新門さんの唇を手の平で覆う。ぺちり、と。軽くしっぺをした時のそれにも似た遠慮勝ちな音が縁側に小さく弾けて暫くののち、「……は、」と、困惑の声とも取れる吐息が指の間から抜け出た。
    「あの、ごめんなさい。」
    「――構わねェよ。俺の方こそ、がっつき過ぎた。」
    「いいえ、その、お気持ちは嬉しいんです、けれども、」
     新門さんは不意の口枷となった私の手を外して、それでも目と目で接吻を為しているかのような近しいところからは退いてくれなかった。こつりと、額が擦り合わされる。「嬉しいんだったら拒む事ァねェだろ。」。不可解さを露にした声音と併せて、足りないものを私の中から探ろうとしているみたいであった。
     何時迄も唇を引き結んでいては、思いは伝わらずに誤解を招くばかりだ。意を決して、塩気のある米の香りを含んだ呼気をほどく。
    「私、お煎餅を食べたばかりなので、塩っぱい、じゃあないですか。唇が。」
     マジで何を言っているのかわからない、と、沈黙が如実に語っている。
     此所迄私から僅かも逸らされる事のなかった新門さんの視線が、ちらと、今は空となった菓子器に遣られた。紺炉さんが御茶請けにと用意してくれたそれには煎餅が盛られていたのだが、殆どを私が食べてしまった。お陰で口の中は塩でいっぱい、渇いて止まないのだ。
    「接吻って、甘いものでないとロマンチックじゃあないでしょう。」
    「知るか。俺としちゃァ甘ェよりかは塩っ辛い方が都合良いな。」
    「知るか、って――新門さん、ちょっと、マジですか、力が強い!」
     新門さんに両の肩を掴まれて、詰め寄られる。私は彼の唇を又もや覆って、顔を背けて逃げる。
     ロマンチックさの欠片もないぎゃあぎゃあと騒がしい攻防の末に、新門さんはすっくと立ち上がると、お婆さんからの差し入れであるお大福を幾つか持って戻って来た。要は口が甘くなれば接吻しても良いのだろう、との考えから導き出された彼なりの最適解なのだろう。しかしながら、それに素直に手を付け口を付けるのは、自ら接吻をねだっているかのようで気恥ずかしいものだ。自ら接吻をねだっているかのようで気恥ずかしいもの、だが――新門さんは、潔くも黙々とお大福を食べてゆくのであった。
    「どれだけ接吻したがっているんですか。それ、もう、自棄じゃあないですか。」
    「……うるせェ。」


     
  • 伏黒甚爾(※失恋夢※)

    20220102(日)05:10
    ▼匿



    「職業・家事手伝いの人ー。」
     お返事が無い。ソファからにょっきりとはみ出ている二本の足は、辺りにご機嫌を知らしめる猫科の獣の尻尾のよう。ゆうらゆうらと揺れている。猫のそれに当て嵌める迄もない。厄介事を頼まれるのを警戒して、起きるのを億劫がっている仕草だ。
    「職業・無職の人ー。お仕事、斡旋しますよ。」
    「仕事ならしてるだろ。毎日オマエを癒やしてる。違ったか?」
    「はいはい、職業・ヒモの甚爾くん。ちょっと来て頂戴。」
     バサリ。天井に広げていた競馬新聞を畳むと、職業・ヒモの甚爾くんはのっそりと上体を起こして、寝転がっていたソファから立ち上がった。傷の跨ぐ口端が歪んだのは、生欠伸によるものか、面倒臭さを露骨に表しての事か。何にせよ、呼び掛けに応じてくれたからには観念したのであろう。対面キッチンの内側に入って来た黒いスウェット姿に、早速、小さなざるにこんもりと盛ったスナップえんどうを差し出す。
    「筋取り係に任命します。よろしくね。」
    「その儘でもいける。」
    「いけない。よろしく。」
    「……だりぃな。」
     お手本のような渋り具合ではあったが、斯くしてスナップえんどうは彼の手に渡った。
     下拵えが為されている間に湯を沸かしておこうかと、片手鍋を取り出して水を張る。ざあざあと蛇口から水が流れ込むのに合わせて思考が押し流されて来る。そもそもこの男はスナップえんどうの筋の取り方を心得ているのだろうか。「甚爾、」と隣で黙して突っ立つ彼を振り返る。
     丁度、一本目の蔕を折って引っ張り、太い筋を取り除いたところであった。
    「何だよ。やっぱりオマエがやるか?」
    「やらない。けれども、」
    「けれども?」と言葉を引き取りながら、反対に付いている細い筋に爪を立てて剥いている。手慣れている。それはそうなのだろう。この男と言ったら、剣呑さすら感ずる程に妖艶な美貌を持っているのだ。その上、絶滅危惧種のような、と言えば当て嵌まるのだろうか――何所か放って置き難い、孤独ないきもの特有の危うさを持ち合わせるのだから堪らない。おまけに、此方の事情に不用意に踏み込んで来ない如才の無さだ。転がり込んだ部屋は数知れず、抱いた女だって数多いるとは、磨かれた手練手管からだって察せられる。ならば――。
     一向に接がれぬ答えに、眉と眉の間に怪訝な思いを宿して顔が上がる。甚爾の眉間がほぐれるよう、私は努めて朗らかに、なるたけ居心地良く、明日にでもこの男が離れてゆかぬようにと自然体を装うのだ。
    「顔が良い男って、スナップえんどうの筋取りでも格好が付くのね。」
    「見惚れるのは結構だが、水、溢れてるぞ。」
     ざあざあ、じゃばじゃば、鍋から溢れた水が排水口に流れてゆく。
     ――ならば、幾らでも替えの利く凡百の女から何時か教わった事だと、そう、思い込むだけだった。
     蛇口レバーを押し下げて水を止める。傍らで慣れた手付きでスナップえんどうの筋を取る男が如何にも見知らぬ他人に思えて、二度と家事の手伝いなどさせやしないと、私の執着に固く誓わせた。ヒモは、養われていてこそだ。

     
  • 新門紅丸

    20211227(月)05:50
    ▼泣かないでメンチカツ

     揚がったばかりのメンチカツが、手の中で肉汁の涙をほろほろとこぼす。何と無体な事だろう。奇麗な半円の形で大きく失われたミンチ肉と玉葱は、直ぐ目の前でもごもごと動く口の中にある。嗚呼、今、喉に移り、胃腑に移った。喉仏の上下するのを、私は呆然と見ている事しか出来なかった。
     新門さんが唇に厚く塗られた油分を舌で拭い、メンチカツを大事に、それはもう大事に包んでいた私の手を離す。
    「ご馳走さん。」
    「食べものの恨みはおそろしいですよ、新門さん。」
    「お前の口から、一口分けてやる、って聞いた気がするんだがな。」
    「そうですけれど! 半分も持って行かれるとは思わなかったんです!」
    「腹ァ空かせた男に差し出したんだ。半分で済んで良かったじゃねェか。」
     悪びれずに言ってのける口の端に取り付く衣は、あわれなメンチカツの亡霊か。嘸や私に食べられたかったろうに。じいっと恨みがましく見詰める視線に気が付いて、颯と口もとを親指で払ってみせる新門さん。この手もとに残ったメンチカツも深く悼んでいるのだろう。熱い肉汁を新たに流して、衣を濡らしている。
    「この恨み、一生、言い続けてやりますからね。」
     メンチカツ如きで何を言っている、付き合い切れない、と心底から呆れられると踏んでいたのだ。だと言うのに、新門さんは悠々としたり顔で笑っているではないか。
    「腹も膨れてお前も一生そばに居てくれるってんなら、こっちは願ったり叶ったりだ。」


     
  • 新門紅丸(幼)+相模屋紺炉(若)

    20211226(日)07:25
    ▼健やかに健やかに


     吊り上がった眉の所以が機嫌の良し悪しに無い事に直ぐに気が付けたのは、真っ赤っ赤に染め上げられた両の頬と、とんがらせた唇から出て来た台詞とが、あからさまに語っていたからだ。
     曰く、恋をしている、と。
    「女が贈られて喜ぶもの、か。」
     たった今、打っ切ら棒な態度を取り繕った紅丸から寄越された問い掛け。それは復唱すると胸がつんと痛く感じる程に甘酸っぱくて、紺炉はひと口、湯呑みの中の茶を啜った。縁側から望める空も、浮わつく春の桃色に霞んでいるように見える。
     帰って来るなり紺炉の隣に座り込んだ紅丸は、視線でも真っ直ぐに尋ね掛けてはいるが、一つだけ有耶無耶にしたがっていた。照れ隠しなのだろう。承知していながらも、紺炉の唇がむず痒くて堪らずに笑い出す。
    「女が、じゃなくて、あの娘が、だろ。」
    「……紺炉だったらわかるんだろ。新平太が、そう言う事だったら紺炉に聞くのが一番だ、って言ってたぞ。」
    「別に俺も一から十まで女心がわかってる訳じゃねェよ。」
    「けど、町の女衆だってよく言ってるじゃねェか。紺炉にだったら抱かれたい、って。女の喜ぶ事がよくわかってるから、あれだけ好かれてんだろ?」
     言葉の意味を真に理解しているのか図りかねる、至って真剣な紅の眼差しが紺炉を射つ。――ガキに何を聞かせているんだ、うちの女衆は。居た堪れずに目蓋を伏せて、黙り。序でに啜ったもうひと口は、紺炉の口の中に蟠った苦々しい思いを飲み込んで、甘味のある筈の茶をいやに渋くさせた。
     苦味を堪えて口を結んでいると、「紺炉。」と。威勢良くも焦燥に急き立てられているかのような、何所か苦しげで実に参っている声に掴み掛かられる。――世話が焼ける。紺炉はそれ以上、沈黙を保てやしなかった。
    「紅丸。例えば俺が、簪の一つでも贈ってやれ、って言ったら、お前はその通りにするか?」
    「かんざし?」と、ぽかんと要領を得ないと言う顔をしていた紅丸が、暫くののちにゆっくりと首を横に振る。それは贈る相手である少女の趣味や事情を鑑みての結論だろうと、そう感じられる熟慮であった。首肯の代わりに、未だ薄い肩に手を置く。
    「贈りたいのは、女に、じゃねェだろ。――俺よりも紅の方があの娘の事をよく知っていて、よく考えてんだ。だったら、俺がお前にしてやれる事は話を聞いてやる事くらいだな。精々、悩みな。惚れた女の笑った顔が見てェんだろ。」
    「……考えんのは苦手だ。」
    「あの紅丸がそこまで強く想ってんだ。その内、良い考えが浮かぶに決まってる。ま、頑張れや。若ェの。」
     眉と眉をぎゅうと寄せて難しい顔を作る紅丸の肩を叩くと、紺炉はけらけらと笑いながら、庭の片隅を見ていた。少し前にはこの庭でよく喧嘩をしていた二人だと言うのに。盆栽近くで繰り広げられたものは、町で聞き齧っただけの悪態を紅丸が吐いて、耳聡い少女を泣かしたものであったか。
     あの日、ぎょっとして立ち竦む紅丸の頭に拳骨を落とした手で、熱くなりゆく目頭を覆う。今は小さな太陽の成長してゆくのが、何より嬉しかった。
    「あれだけどうしようもねェ事を言ってもそばにいてくれるんだから、お前の馬鹿に付き合えるよっぽど辛抱強い女だよ。絶対に離すんじゃねェぞ。」
    「紺炉、お前ェ、泣いてんのか?」


     
  • 新門紅丸(※悲恋夢※)

    20211223(木)03:05
    ▼恋と盲目


     目蓋を閉じて、開ける。視界の右半分は、暗い。
    「右目は、未だ見えねェか。」
     暮れ泥む空を長らく見上げていた所為で首の筋肉は凝り固まっていた。紅丸が問い掛けの投げ掛けられた暗がりへとこうべをめぐらす。紺炉の表情は声とそっくりに、強張り、痛ましく沈んでいた。胸の奥底迄を暴き立てる鏡を覗き込んだような忌避感に見舞われて、紅丸はそれ以上は見ていられなかった。家路を急ぐ烏の、一羽切りのさびしげな鳴き声に誘われた風を装って、ふた度、橙に燃える空を眺める。未だ夜の手は伸ばされていないのに、半分が深い闇に覆われていた。
     そうっと、紅丸が右の目蓋に触れる。忌々しく思う余地の無い、心底からの慈しみに満ち満ちた指先の仕草であった。
    「動き回るのに支障はねェよ。博打だってやれる。」
    「医者には診て貰ったんだろ。何だって?」
    「“焔ビト”の――あいつの灰が入った事で一時的に失明している。泣きさえすれば一緒に灰が排出されてその内にでも回復する、ってよ。」
     そうか、と短く呟いたきり、巌で塞がれでもしたかのように紺炉の口は重々しく閉ざされた。固く結ばれた口の中では様々な慰めや悼み偲ぶ気持ちが飛び交っているのだろう。
     恋仲ではなかったにせよ、言葉にはしなかったにせよ、確かに好き合っていた。その女を手に掛けるのに躊躇いは無かった。逡巡するだけ業火に身を焼かれる地獄は続く。ならば、ひと思いに、苦しみも痛みもないように。――手刀で貫いた胸から、ひとひら、はぐれた灰が右目に触れた。その時から紅丸の片目からは光が失われていた。
     彼女の灰が呪いとして降り掛かったものだとは思わなかった。最期の告白だと、最後の独り占めにしたい我儘だと、そう思うと紅丸の唇にはいとおしさが込み上げて来るばかりであった。
    「最後の最後で素直になるなんて、仕様のねェ女だよ。お前は。」
     光明潰えた瞳の中に彼女がいる。今際の際迄、泣いてやるものか。

     
  • 新門紅丸

    20211218(土)03:35
    ▼はじめましての狼さん


     第七特殊消防隊詰所で女中の真似事をしていると時間を忘れてしまう。そのようなうっかりした日には、その時に手の空いている火消しの何方かが家迄送ってくれる事となっていた。女一人に夜道は歩かせられない、と言う気遣いは有り難く、月明かりの無い日などは大変に心強く思うものだ。今宵は新門さんが隣を歩いてくれているのだからそれはひと入、なのだが。私はと言えば少しだけ緊張していた。
    「二人きりになったからって取って食いやしねェよ。幾らなんでもそこまで我慢が利かないって事はねェ。」
    「その、あんな事があった後なので、つい。」
    「あれは――、あそこまでは我慢が利かなかった。」
     誤魔化す事も申し訳無くする事もなくしれっと言って、新門さんは迷いなく道をゆく。人びとの営みがともす明かりが幾らか落ちたところで、浅草はこのひとの町だ。きっと目を瞑っても歩けるだろう。それ程に不自由の無い足取りが遅々としているのは、偏に私に歩幅を合わせてくれているからに違いなかった。
     ひっそりとした夜に、二人分の足音だけがよく響く。軈て私の帰るべき家が見えて来ると、胸もとを締め付けていた緊張の糸は少しずつほどけていった。後は玄関戸を開ければ糸は足もとに落ちて、風に吹かれて、いずこかへと散ってくれる筈だ。筈だった。「では――」ありがとうございました、と接がれるべき言葉が飲み込まれてしまう。誰に、なんて疑問を抱ける程は愚かではない。そのぬくもりを肌に受けるのは、この日、二度目なのだから。
     新門さんは私の後ろ頭に手を回して、今度こそ逃げられないようにと入念であった。息継ぎの為に、僅かな時、僅かな距離だけ顔が離れて、ふた度唇が重なる。合わせるのみで深くを探ろうとしないのは不慣れだからか、と。そう思考すると、ほどけかけていた緊張の糸の端っこに胸を擽られた。
    「これは駄賃だ。これくらいは文句言ってくれるなよ。」
    「――足ります、か。」
    「ツケておく。」
     夜陰に巻かれていても唇の形がわかる。足りないと欲張って見せる新門さんは、けれどもとても満足そうに笑っていた。
     すい、と身体が離れてゆく。冷えた夜気の素早く纏わり付いて来るのを見越して、当座の灯火となるかのようなあたたかな声音が私のもとに渡される。
    「今夜は冷える。とっとと家に入りな。」
    「はい。送ってくださってありがとうございます。おやすみなさい。」
    「応。また明日な。」
     頭を一つ下げる。夜の帳に隠されてゆく藍色の背中を見送る事はせずに、玄関戸を開いてそそくさと家の中に駆け込んだ。確りと戸締まりをした扉に背を預けるなり、緊張の糸はふつりと切れて、へなへなとその場にしゃがみ込む身体。
    「ちょっと、可愛いと、思ってしまった。」
     いとけない口付けの擽ったさを唇が覚えている間は、未だ初々しい狼さんとの二人きりも良いものやも知れない。

     
  • 新門紅丸

    20211213(月)15:48
    ▼勧請


     一か八かの賭けに出た賭場での大一番でも、心の臓がこれだけ突き鳴らされる事はなかった。行灯の火も徒に揺らめかぬ、まこと静謐な夜だ。この緊張に喘ぐ臓器の苦鳴が部屋じゅうに響いてしまっていやしないかと、紅丸は懸念した頭をめぐらして、目の前に座する女に御伺いを立てる。見る間に花唇はきゅうと引き結ばれた。鼓動の早鐘は夜のしじまを伝い、彼女の胸をも震わしているのだと一目で知れる仕草であった。同じだけの高鳴りを覚えているならば嘸や苦しく痛く切なかろうと、紅丸としては一刻も早く緊張を解いて楽にしてやりたかったが、心臓の跳ねるのに邪魔をされて胸が塞がり肝心要の言葉が詰まる。「破壊王」形無しだと後ろ頭を掻く紅丸の姿に呆れを示したのは、粛然とした二人を守護奉っていた灯火だ。ヂリ、と小さく上げられた焦れた声に、急かしてくれるな、と紅丸が心のうちで応じる。深く、呼吸する。夜半のしんとした空気を取り込むと、熱で痺れていた頭の真芯が、一度たりとも冷めやらぬ儘に冴えを取り戻した。心臓の野次は未だ五月蝿いが、一世一代の告白なのだから祭りのように騒々しくあるべきだ、と開き直るしかないだろう。胡座から正座に座り直す。居住まいを正す紅丸に倣って、向かい合った女も合わせて背筋を伸ばした。紅丸が、そうっと、呼ぶ。女の名を呼ぶ。これ迄に数え切れぬ程に音にして、これからも数え切らぬ程に音にする、いとおしい音だ。はい、と。か細い吐息の呼応が密やかに夜に染む。橙の光が遍く照らし出す小さな世界の中で、女の瞳は既に潤み、瑞々しく光っていた。生まれ出でたばかりの朝日のようなその真ん中を真っ直ぐに、真っ直ぐに見据えて、紅丸はゆっくりと頭を垂れた。「俺と夫婦になってくれ。」

     
  • 五条悟

    20211211(土)01:07
    ▼ランナーズ・ハイ!


     呪霊は形を保てず霧散しはしたが、祓除の手応えは感じられなかった。私達が現着する以前に分裂していたのか。
    「さて、本体は――」
    「向こう、ですね。」
     この任務を通して実力を見定められている事には気付いていたから、悟さんの空惚けた問い掛けが完成を見る前に、私は残穢を辿って補足した呪霊本体の潜む方角を指し示した。「よく出来ました~!」と、天へと伸ばされた両腕が巨大な丸印を描く。晴れやかなる声音に縁取られれば花丸も同然だ。暗澹とした“帳”の中にも関わらず気分はすうっとして、呪力以外の力が身体に漲ってゆく。
    「それじゃあ、先に行っているから。あんまり遅いと僕が祓っちゃうよ。――はい、駆け足!」
     急かすと同時に音も無く姿を消した悟さんは、呪霊のもと迄一足飛びに「トんだ」のであろう。躊躇わずに置いて行くのは、付いて来られる、と信頼してこそ為せるおこないだ。そうだと信じている。彼から信じられていると、私は信じている。術式に呪力を流し込む。
    「直ぐに追い付いてみせます。」
     ――貴男に。何時か決めた心と手を取り合って、一生懸命の駆け足。