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記事一覧

  • 新門紅丸

    20220714(木)04:16
    ▼あなたじゃだめなの


     喉を塞ぐ空気の塊は余程の熱を持っているのか、ひりひりと焼いて掠れさせた。痛い。詰めた息を吐き出せば胸に溜まった感情が噴き出てしまう。然りとて呼吸なんて何時迄も堪えられるものではない。痛い。宛ら私の身体はいっこの腫れ物となっていて、恋仲の男に頬を張られた時に肌は破けていたのであろう。痛い。眦から、ぼろぼろと、熱い膿がこぼれてゆく。
     ――嗚呼、痛い。
     人前で臆面も無く泣き出すだなんて、ベーゴマ遊びに興じていた幼い頃の自分に取って変わられたようだ。在りし日には夕暮れ迄一緒になって町を駆け回っていた男の子は、紅は、この浅草の町の頭は、静かにしずかに頷く。転んで擦り剥き、血の滲んだ手が握られる。着の身着の儘飛び出して砂埃で汚れた着物の膝や、私の帰りを待つ恋人の顔や、その酒に溺れて振り翳された拳の形を、眼裏を見詰めていた意識があたたかさに気付けられる。顔を持ち上げられるだけの活力を宿した身体が次に為した事は、呼吸、だ。
    「――べに、たすけて。」
    「ああ。」
     応じるなり、力強く手が引かれる。頽れていた身体はいとも容易く立て直されて、よろけたところでふた度地面に倒れ込む事はない。紅の手がそうさせやしない。火消し装束の袖で、まるで綿紗でも当てるようにこわごわと涙が拭われる。腫れた頬に触れる時には殊更な事であった。
     何だか、溶けようとする飴細工の形をとどめるべく必死な子どもみたい。ふ、と。思わず吐息すると不思議と笑えた。
    「笑い事じゃねェぞ。」
    「だって、紅がいるんだもの。気も抜けるわよ。」
     肩を竦めてみせると、目の前の眉根には更に険が刻まれた。お前が笑おうが笑い事で済ませる気は更々無い、と怒ってくれていた。それも長らくは語られない。紅は私の頬に目を遣ると颯と身を翻してしまった。夜闇の覆う小路を、手を繋がれてゆく。つま先が第七特殊消防詰所に向かっている事にはっきりと安堵する。私を安全な場所で保護してから、きっと、酒に狂ったあの人に話を付けに行ってくれる心算なのだろう。
    「ごめん。」
    「お前ェが謝る筋がどこにある。」
    「ありがとう。」
    「――俺だったらお前に手を上げる事ァしねェ。」
    「知っている。紅は強いもの。」
    「馬鹿言え。何もわかってねェ、お前は昔っからな。」
     私の知っている感情の中では、苛立ち、が最も当て嵌まる焦燥の声音。振りほどかれるかと思った手は、けれども一層強く握られて金輪際離されやしないのではないかと思う程だ。
     頬の火照りは夜気に冷やされる事なく、じくじくと疼きを増す。紅、と呼び掛けた。何だ、と問うそれは言わんとする事を心得ているのだろう。
    「あの人の事、酷く殴ってやらないでね。弱い人なのよ。」
     応えは無かった。知らぬ存ぜぬと無言で夜を突き進む紅の背中は、何故だか子どもの時と然して変わらずに見えた。

     
  • 伏黒恵

    20220705(火)02:13
    ▼ひと夏の過ち


    「染めちゃった。暑かったから。」
     殊更に明るい調子の少女は、彩度も高い。数時間前に見掛けた時には炎天の熱を蓄えていた黒髪は今や見る影もない。首を傾げた少女のその肩口にひと房こぼれた髪は、毛の先の先迄奇麗な金に染まっていた。
     遠目では見知らぬ呪術師かと思った。近付いて来るに連れて見知ったシルエットだと思った。目の前に立たれた今、伏黒は、少女の思い切りの良さに驚いて声が出ずにいた。
    「矢っ張り、似合わないかな。」
     身体は固まり目を見張って口をぽかんと開けと、唖然としている伏黒の鼻先で、華奢な指先に摘ままれたこんじきの毛先が戯れるように揺らされる。夏の日射しを反射して強く気を引くが、それよりも力無げに笑う頬にこそ心が掴まれた。
    「いや――」と。まばたきを一つして、伏黒は鮮やかとなった視界に少女を映す。眼下に御座すこうべは円く、きらきらと輝いて目を灼く。真っ直ぐには見詰めていられない程であった。けれども逸らせる筈も無い。
    「なんか、オマエっぽいな。ここから見るとお日様みたいだ。」
    「なあに、それ。深遠な感想だなあ。」
     摘まんでいた髪を払い、少女が笑う。困ったように眉は八の字に、しかしこそばゆそうな笑い声は、頭上から燦々と光の矢を射掛けて来る太陽をも返り討ちにするまばゆさであった。伏黒が、釣られ、笑う。

     
  • 新門紅丸

    20220702(土)05:12
    ▼引力へ


     何時しか、足取りは鼓動と同じ速度となっていた。明かりと共に人けの絶えた夜道に、軽やかに、軽やかな、靴底が地を打つ音が響く。浅草を仕切る男としてどっしり構えていなければならないと言うのに、二十二の年若い男は言う事を聞きやしない。ガキみてェにはしゃいでやがる、と。浮かれた足音に自嘲した。鼻先には、今し方、大人しく家へと送り届けた女の纏う香が未だぬくもっている。呼吸する毎、心の臓は跳ねて跳ねて苦しくなる一方であった。矢継ぎ早に謳う胸の甘さを知らず、持て余す。
     紅丸は路傍に突っ立つ纏を引っ掴んだ。馬簾に火を点ける。衝動に突き動かされるが儘に空を駆ける。頬を張る風の冷たさが、火照った身体には心地好かった。忽ちに雲に届き、雲を突き抜け、月の程近くに至って星ぼしに紛れる。狂おしい程の情熱を燃料にすれば宇宙にだってその果てにだって飛んでゆけそうであったが、また明日、と交わした約束が紅丸を惑星に閉じ込めた。女が別れ際に見せた名残惜しそうなひっそりとした笑み、それはまなうらに焼き付いて、まばたきの都度に明日が恋しくなる。胸に詰まったものを、女への思いの丈のすべてを口にすれば、快哉を叫ぶ事と同じになるであろう。天空には月と星しかおらず、愛しい町は遥か遠くで眠りに就いている。ならば良いかと、紅丸は一つだけこぼした。
    「ああ、クソッ、好きだ……。」


     
  • 優一郎黒野

    20220627(月)19:15
    ▼煤対鉄

     在籍している経理部のみならず灰島重工全体で「鉄の女」と呼ばれている。
     それ程の鉄面皮であり、鋼鉄の意思を秘めた辣腕家。
     大黒部長と犬猿の仲。
     社員食堂を利用する為に列を成した優一郎黒野が、自身の背に不思議とぴたりと付いた女について知り得ている事と言えば、社内でも有名な三つの事柄しかなかった。
     興味を惹く事の無い強者、関心を払う気の無い猛者。部署も異なれば関係は極々希薄な儘、定年退職をするその時迄会話をする機会はない、と。そう考える事すらも無かった程に関わりは無かったのに、これは如何言った訳か。
    「黒野さんは、日替わり定食のAとB、どちらがお好みかしら。」
     薬膳粥が中心となった日替わり定食Aと、カツ丼が中心となった日替わり定食B。極端な二例のサンプルを行き来していた硬質の視線が、黒野に定まる。
    「自分が好きな方を選べば良いだろう。」
    「貴男の好みを知っておきたいの。」
    「何故。」
    「私、強い男のひとが好きなの。黒野さんのような。」
    「俺は弱者が好きだ。壊滅的に好みが合わないな。」
    「弱ければよろしいのね。それでは、日替わり定食Aを。顎の力を弱めましょう。」
    「……お引き取り願おうか。」
     この灰島重工で変わった人間を多く見て来たが、女は頗る付きであるらしかった。セクシャルハラスメントだと訴え難いぎりぎりの距離を攻めて近付いて来る、果敢なる女。振り返る事なく、黒野は列を詰めた。

     
  • 相模屋紺炉

    20220627(月)17:46
    ▼照レフォン


     ジリリン、ジリリン。電話機のベルの音を縫い縫い、勝手元から飛んできたる「おうい、こっちは手が離せねェんだ! 誰か出てくンなァ!」との料理番を務める火消しの声。丁度、電話機の近くを通り掛かっただけの私が取って良いものなのだろうか。辺りを見回せども、騒ぎに駆け付けてくれるような人影は見えない。
     差し入れにと持参したみたらし団子の包みを抱え直して、こほん。咳払いを一つして喉の調子を調える。
     ジリリン、ジリリン。受話器を取ると電話機は泣き止んだ。
    「お待たせいたしました。こちらは浅草、第七特殊消防詰所でございます。ご用件を承ります。」
     努めてはきはきと応対してみせたものの、一秒が経ち、二秒が経ち、三秒が経っても無言。声が届かなかったのだろうか。「恐れ入ります。」と仕切り直すべく口を「お」の形にした時に、受話器の向こうから漸く応えがあった。
    「――俺だ。紺炉だ。」
     何所か呆気に取られているかのような心此所に在らずの声音が、機械を通して伝わって来る。
    「掛け間違いでもしたかと思ったぜ。そんな風に上品に電話に出る奴ァ、うちにはいねェからな。」
    「どなたも手が空いていらっしゃらなかったようなので、思わず出てしまいました。偶々、差し入れをしにお邪魔していたものですから。相模屋さんは、もしかしてお出掛けされているのですか。」
    「第8にな。用は済んだからこれから帰る、って連絡を入れる為に電話を借りたんだが……第8の奴らに酷ェ面を晒しちまったもんだ。まさか、お前が出るとはな。度肝が抜かれた。」
    「ふふ。一本、取ってしまいましたか。皆さんには直ぐにお帰りになると申し伝えておきますね。」
    「頼む。ああ、いや、直ぐとはいかねェな。土産を買って帰らねェとヒカゲとヒナタが臍を曲げちまう。第8の嬢ちゃん達が気に入っている、ちょこれーとの店があるんだと。お前もそこの菓子で良いか?」
    「いいえ、そのお気持ちだけで充分です――」
    「――なんて、ツレねェこと言ってくれるなよ。美味いモン食わしてやりてェんだよ、お前には。理由はここでは聞いてくれるんじゃねェぞ。」
     聞くなと言っておいて、わかるだろと笑うのだから、このひとは。好きだとか愛しているだとかの秘密の符牒を送って寄越して来る、受話器を当てている耳がじわりと熱を孕む。「もう。」と。堪らずこぼれた吐息は、鼓膜から胸のうちがわから擽られて震えていた。
     相模屋さんの手にしているものは、第8特殊消防隊よりお借りしているお電話だ。何時迄も私的に用いていては業務にも差し障るであろう。それは相模屋さんも心得ているようであった。
    「晩飯には帰る。」
    「はい。お帰り、お待ちしておりますね。」
    「おう。それじゃあな。――夫婦のやり取りだな、こいつは。悪くねェ。」
     置かれようとする受話器はこそばゆそうな独白をも確りと拾い上げて確りと届けてくれた。相模屋さんの、知ってか知らずか心底からいとおしげに笑う喉の音が、受話器を離せども耳もとから離れない。抱えた風呂敷包みの中のみたらし団子が悪くなっていやしないか、心配を覚える程に身体が熱くなっていた。

     
  • 新門紅丸

    20220625(土)04:41
    ▼高天にあなた


     地を滑る歪な鳥影が止まり木に選んだのは、私の影であった。
    「よう。」
     頭上から降って来た呼び掛けに応じるよりも早くに、するり、声の主は目の前にあらわれた。正確には、目の前にあらわれたのは声の主の防火靴だ。天を振り仰げば、其所には火の点いた纏に立ってふよふよと宙に浮きながら、静かに私を見下ろす新門さんがいる。
    「シンラの奴、見なかったか。炎の制御が利かずにすっ飛んで行っちまった。」
    「こちらではそれらしい人影は見ていませんけれど。」
    「そうか。もしかすると浅草の外に出たか……相当なスピードだったからな。」
     如何したものかと顰められた眉は、生来の垂れ勝ちな形も相俟って何ともお困りの様子に見えた。手で庇を作って無辺の青空を眺めては、稽古を付けてやっている少年を探し出そうとしている。
     本当に面倒見が良いひとだ。子ども達が、べにき、べにき、と慕う訳である。子どものみではない。浅草の町の誰もが新門さんを慕い、愛している。それだけの強さが宿っていて、それだけの慈愛を持ってくれている。二十二と年若い青年にしては立派なこのひとは、こうして仰ぎ見ると浅草の町を照らす太陽そのものだった。
    「新門さんは、高い所がお似合いになりますね。」
    「馬鹿と煙は何とやら、ってか。」
     そうではないのだけれど。訂正も野暮ったく感ぜられて相槌として曖昧に笑ってみせた。それから、私もお弟子さんの影や形を見付け出そうと試みる。軈て、「――いた。」。呟いた新門さんの見詰める方角に目を遣ると、瞬く間に点から人影へと輪郭を変える飛行人体が。森羅くんに相違無かった。発火限界を迎えかねない程の凄まじい速度を出して、余程焦っていると窺える。
    「さて、扱き直すとするか。世話になったな。」
    「森羅くんの事、余りいじめないであげてくださいね。」
    「あれは可愛がりってんだ。」
     目の高さに在った防火靴が頭の上に。ゆるやかに離れ、私に火の粉の掛からぬ高所に届くと一気に空に向かって飛んでゆく新門さん。その影が小さくなろうとも見失う事は出来なかった。燃ゆる馬簾が後光のよう。神様、今日も絶好調だ。

     
  • 新門紅丸

    20220624(金)22:22
    ▼江戸っ子は宵越しの銭は持たぬそうで


     夜と朝のあわいに、燧袋の中のなけなしの銭が落っこちた。
     最後の最後の本当の最後、一発逆転を懸けた大勝負にあっても勘を外した紅丸は、空となった燧袋を懐に仕舞い込んで賭場を出た。「紅も懲りねェなァ。」「紺さんに叱られる前に早く帰んな。」「あの娘さんの方がおっかねェやなァ、紅ちゃん。」「あの娘って、ああ、あの――」夜も明ける頃とあって気怠げであった空気が、他人の色恋一つで俄に活気付く。博徒達に聞こえるように大きな舌打ち一つ。鳴らしたのみで振り返る事はせずに、紅丸の足は真っ直ぐに第七特殊消防詰所へと向かっていた。閑散としている仲見世通りを抜け商店街を抜けた時には、背中を焼く朝から逃がれようとしているかのように、その歩調は早く、早く。――新門紅丸は最強の消防官である。なれども、博打は滅法弱かった。詰所の玄関に掛けられた暖簾の脇に、一対の影。それは浅草寺の山門は宝蔵門、其所で睨みを利かす仁王像の阿形像と吽形像の如く。
    「お早いお帰りですね、新門さん。」
    「随分と羽振りが良いじゃねェか。紅丸よォ。」
     足音を聞き付けた影が、最強の消防官をたじろがせる雌雄が、ほとほと呆れたと揃って溜息を吐いた。今は未だ宵と言い張れる時分なのだから二人共布団の中にいる。賭けはしたが、矢張り、勝てやしない。ばつが悪くて堪らず、紅丸は黒髪の頭をがしがしと掻いた。

     
  • 相模屋紺炉

    20220624(金)06:59
    ▼親しき仲にも


     所帯染みたと言えば熟年の夫婦のようだけれども、この御座形な態度が長続きの秘訣となり得る筈はない。
    「ああ。可愛い、可愛い。お前さんによく似合ってるな。」
     新調した簪の飾りどころか下ろし立ての着物の色を確かめたかもわからない。相模屋さんはちらと視線を投げ掛けただけで、私の脇を通り抜け、嗚呼忙しい忙しいとせわしなく廊下の先へゆこうとしている。時が悪かったか、改めて出直すか。考える迄もない事だ。かちんとぶつかって来た台詞が神経にさわったのだから。
    「新門さんの方が余程、女心を揺さぶってくれましたよ。私も照れずにはいられませんでした。」
     嘘ではない。三丁目のおしゃまな女の子の身形を、新門さんが褒めてやっているのを見た。然りとて、これしきの売り言葉を買ってくれるようなおやすいひとではない。そう理解、した気になっていただけだった。
     角を曲がり切れずに相模屋さんの足が止まる。新門さんが間男のように私を口説くとは思っていやしないだろう。私がおいそれと新門さんに靡くとも思っていない。それでも、振り向かずにはいられなかったらしい。颯と踵を返して、直ぐ目の前に立たれた。青瞳に頭の天辺からつま先迄を丹念に見詰められる。真剣の視線が、私のまなこの真ん真ん中に狙いを澄ます。と。――紺炉中隊長! 角の向こうから年若い火消しの呼ばう声が聞こえて来た。何を言おうとしていたものか知れぬ、開かれた口が閉ざされる。仕切り直して厳めしく「ここだ。」と応えた相模屋さんは、本当に忙しいひとだ。今更になって己の稚気を恥じるばかりの私の頭に、そうっと、固く大きな手の平が載せられる。
    「この通りだ。悪いが今は時間が取れねェ。艶姿は後でゆっくりと拝ませて貰おうか。」
     髪型が崩れてしまわない程度にやわらかにひと撫でふた撫ですると、相模屋さんは身を翻して声のする方へと歩み去って行った。
     ――そして、仰有る通りの後程に、私は癇癪なぞを起こして彼を挑発した事を反省するのであった。花に喩え、観音様に喩え、甘く優しく。やまぬ言葉攻めならぬ褒め言葉攻めにさいなまれ、震えながらに得心がいく。この飴と鞭の使い方こそが長続きの秘訣たり得るのだろうと。

     
  • 新門紅丸

    20220623(木)05:16
    ▼ひねもすひとりじめ


    「ここは新門さんだけの場所なんです。ごめんね。」と、アーサーくんの可愛いおねだりを断った時のこのひとと言ったら――
    「――随分と安心しきった顔をしてくれますよね。」
    「これだけ寝心地がいい枕に頭を預けながら気を張れって方が、土台無理な話だろ。」
    「昼間のようにまた不意打ちを食らうのでは。」
    「屁でもねェな。」
    「貴男はそうかも知れませんけれど。」
    「もう夜も更けた。今更、野暮な事する奴ァいねェよ。」
     新門さんの言葉が、第七特殊消防詰所をすっぽりと覆うしじまに溶ける。誰も彼もが寝息を立てて口に戸を立てている夜半。「紅丸ばかりずるいぞ。」と幼気に尖った彼の唇も、すやすやと穏やかにしているのだろう。
     何時もの通りに少し早くに詰所の暖簾を潜った森羅くんとアーサーくんに気付かずに、縁側で長閑やかに新門さんに膝を貸していた昼日中。気恥ずかしさから慌てふためく事も出来なかった。私達を見たアーサーくんが、次は俺の番だ、とばかりに詰め寄って来たからである。まるで実の姉かのように慕ってくれる年下の可愛らしい男の子の言う事だ。何くれとなく聞いてやりたかったが、此所ばかりは譲ってあげられなかった。渋々渋々と言った様子で引き下がってくれたアーサーくんと、がちがちに表情を強張らせて事の成り行きを見守っていた森羅くん。それから二人は、膝枕から身を起こした新門さんに稽古を付けて貰って、今は客間で床に就いている筈だ。
     つ、と。肉付きの薄い頬の輪郭をなぞる。新門さんの目蓋が擽ったさに震え、僅かに持ち上げられる。そしてゆっくりと下ろされた。自分だけの場所だと、この膝にすっかり頭を預けている。身も心もゆだねてくれている。
     月明かりをふたり占めにした縁側に、私の笑う声は大きく響いてしまっていやしないだろうか。
    「ねえ、新門さん。髪、撫でても良いですか。」
    「お前の膝の上なんだ。好きにしな。」
     好きにしろと言いながら、明け渡す心算なんて一つだって無いくせに。
     あの時に彼等に向けて、駄目だ、退いてやらない、と目で強く訴えていたの、知っているんですからね。

     
  • 新門紅丸

    20220616(木)04:56
    ▼王様より百カラット


    「子どもから駄菓子を巻き上げるだなんて。」
    「あいつらが突っ込んで来たんだよ。」
     如何にもうんざりだと言う声を漏らして口をへの字にひん曲げてはいるが、説得力は無い。ビッグカツの端を銜える新門さんは、懐からこぼれ落ちそうなふ菓子を仕舞い仕舞い、景品を総取りした為に膨れた腹回りを撫でた。がさがさと随分と景気の良い音がする。
    「賭けベーゴマとは、一体、誰に似たんですかねえ。」
     昔から大人達の目を盗んで密かに行われていた子ども達の賭け事。それは新門さんに憧れを抱く少年達の間で今、最も過熱された遊びとなっていた。態とらしい溜息を吐いてはみせたが、何も新門さんのご趣味であらせられる何時も裏目に出る一か八かの大勝負を真似て、と言う訳ではない。彼は幼い時分からベーゴマも滅法強かったのだ。其所から、ベーゴマの強い男はべにきみたいに強くなる、とのジンクスが広まったらしい。微笑ましい話ではないか。二十二歳の大の男が、子どもに混じってベーゴマに興じて、全勝して駄菓子を掻っ払う、のは苦笑いするしかない話だが。
    「紺炉には言ってくれるなよ。雷一つじゃ済まねェ。」
     ビッグカツをしがみながら、新門さんが懐に手を突っ込んではがさごそと何やら漁る。酢だこさん太郎が顔を出し、ミルクせんべいが飛び出し、モロッコヨーグルトが転び出て。漸く取り出した駄菓子の包装が開けられる。
    「こいつでお前も共犯だな。」
     す、と私の左手を取るなり、新門さんは薬指に輪を通した。大きな飴の宝石の飾られた指輪が、左の薬指でキラキラリ、甘い色で光り耀く。
    「――意味、わかってやっていますか。」
    「さてな。折角だ。このままもうひと勝負行って来るとするか。」
    「それこそ雷一つでは済まなくなりますよ。」
    「一つ二つ落ちたら三つも四つも変わりゃァしねェよ。」
     この流れをものにしようと賭場に向かう背中を、広場に突っ立って見送る。心なしか足早に去るように見えたのは、この指に確りと嵌められた幼気な婚約指輪の所為か。子どもみたいに照れる、かわいいひとめ。

     
  • 新門紅丸

    20220502(月)14:05
    ▼たねたいたりた


    「こいつはまた、でけェ狸が入り込んだな。」ぎし、ぎいし、と板張りの鳴る音が、声の主の体格の良さを物語っていた。「縁側、雑巾掛けしてェんですが。いつまで下手な芝居打つ気で?」水を張ったバケツを下ろす動作には遠慮と言ったものが無く、疾っとと起きた起きた、と急き立てていた。又も床から軋みが上がる。次いで、ざぶざぶと水音。バケツの傍らに膝を突いて、水に浸した雑巾を絞っているのだ。縁側にて頑なに規則正しくしている呼吸音の一つは、古布に取り付いていた最後の一滴によって遂に穿たれた。気不味さが重石となって開き難いらしい目蓋が、そろそろと持ち上げられる。視界を焼く真白い日の光にきつく眉根を寄せたが、二度三度とまばたきを繰り返して、赤い瞳を昼下がりの明るい世界に順応させている。崩した膝の上ですっかり力を抜いていた艶めく黒い頭が、ゆっくりと擡げられた。「女の膝ってのは極上の枕だ。いつまでも寝ていたい気持ちはわかるが、ここだと風が障る。もう部屋まで運んでやれ。」応、と。首肯すると、切り揃えられた黒髪の毛先がさらりと揺れる。ふうわり。聞き慣れた石鹸の香りが、寝息を装う合間に感じられた。
     ――新門さんと同様、私も狸寝入りをしていただなんて言い出し難い。寝ている赤子だって起きてしまわないような静かな静かなさまで抱き上げられて、静かに静かに連れてゆかれるは新門さんの部屋だ。布団でも敷かれて寝かされては、貴男の寝顔を楽しみにずうっと起きていました、なんていよいよ言い出せなくなる。けれども、私の知らないところにあるこの優しさが心地よくて。もう少しだけ、と目を瞑る。
    「足、痺れさせちまったか。」
    「――、」
    「ずっと起きてただろ。」
    「え、」
    「まァ、足が痺れたにしては幸せそうな、随分といい面で笑ってたが――そいつについ見惚れてな。寝るのも忘れちまった。」
    「え、」
     何時から、ではなく、はじめから、だったとは。狸がお好きだと狸の真似事も、狸の真似事を見抜くのもお上手なのか。苦笑で綻ぶ声音で語られたそれに思わずぱちりと目を見開いても、新門さんは私を下ろす素振りがない。
    「夕飯まで寝直すか。」
     生欠伸をしながら、新門さんは住み処の寝床へと帰る。お気に召したらしい枕を抱えて。

     
  • 新門紅丸

    20220429(金)08:06
    ▼地獄に仏、娑婆に彼女


     第七特殊消防詰所前を何時ものように掃き清めていた紺炉の片眉が上がる。人の顔を見るなり人の顔を見られなくなるとは、一体全体如何言う了見だろうか。態々問いたださずとも一目でわかるのだが。
     暖簾を潜って表に出て来た瞬間に、やっちまった、と大きく濃く書き出された紅丸の顔には見覚えがある。見覚えしかない。目も合わさずにそそくさと行ってしまおうとする、隠し事を抱えて少し丸まった背中を睨み据える。
    「若、どちらに?」
    「ば――……ババァに風呂敷返して来る。」
    「大福はまだ残ってますぜ。八つ時に出した俺が言うんだ、間違いねェ。」
    「……夕飯には戻る。」
    「すってんてんでか?」
    「今日は勝てる気がするんだよ。」
     矢張り、博打か。不貞腐れてへの字にひん曲がった唇が見え透くような声音に、紺炉の口もとも厳めしくならざるを得なかった。
     今日は、今日こそは、と期待を込めても負けが込んでゆく一方で、紅丸が賭け事に勝って帰って来た試しなぞ然程多いものではない。数日前にも、皇国から支給されたばかりの給与の大半を賭場に落っことして来た。お前ももう二十二なんだから金の使い方を少しは考えろ、と兄貴分として説教をしたと言うのに、如何やら甲斐無く右から左へと抜け出て行ってしまったらしい。幼い紅丸にしたように聞き分けのないその耳を引っ張って足を止めてやろうにも、大隊長と中隊長と言う序列が明確に決まった手前、手を出す事は憚られる。
    「――ったく。」と、辟易の溜息を見送りの言葉に代えようと決めた矢先。紅丸の動きがぴたりと止まった。直ぐ近くに、何時の間にか小柄な影が差していた。
    「こんにちは。お二人共、お元気で何よりです。」
     娘が一人、愛想良く微笑んでいた。紺炉にとっては顔馴染みの娘であり、紅丸にとっては懸想している女だ。両の手に提げている風呂敷包みを見るに、詰所に惣菜の差し入れに来たのであろう。
     紺炉が詰所の壁に竹箒を立て掛ける。女には重たかろう荷物を持ってやろうとして手を空けたのだが――その必要はなかった。
    「悪いな。いつも助かる。」
    「こちらこそ。皆さんにはいつも助けて頂いていますので、このくらいさせてください。」
     娘の姿を見付けると、紅丸は颯とそばに寄って、はち切れそうに膨らむ風呂敷包みへと手を伸ばした。受け取って、詰所の勝手元に運んでしまうなり紺炉に預けるなりしなければ賭場にも出向けないであろうに、何時迄も身体の正面を娘に向けて背を見せる素振りがない。
     完全に逆上せている。これだけ熱を上げていれば、当初の目的は蒸発している事だろう。紺炉はそう当たりを付けて、片付けるべく竹箒を手にし直した。
    「新門さんは、これからお出掛けですか。」
    「いや……。上がってくか?」
    「お邪魔でなければ、喜んで。」
     知らず、最強の男から敗北を一つ取り上げた娘が、言葉の通りに喜ばしそうに笑う。まばゆい光に触れたように目を細めて紅丸も笑った。穏やかさが二人を包み込み、紺炉をも取り込む。よくやってくれた娘に飛びきりの茶を淹れてやろうと、紺炉はひと足先に詰所に戻るのであった。

     
  • アーサー・ボイル

    20220427(水)05:45
    ▼リヒテンベルク図形


     そのひとの声はいかづちのようだった。
     父は燃えた。母は燃やされた。私も燃やされんとしていた。身体の焼ける痛苦に悶えて部屋じゅうを転げ回る父は、家族だけではなく家をも道連れにする心算らしい。母であった炭化した遺体の傍ら、彼方此方に火が点く。炎が盛り、煙が満ちる。いずこかから聞こえて来た祈りの言葉は、しかし、私の死に寄り添うものではなかったと知る。「ラートム。」直ぐ目の前に迫っていた“焔ビト”に突き立った、蒼い光。特殊消防隊の象徴たる発光体よりもまばゆく輝くそれは、静かに燃ゆる刃であり、父の墓標となった。鎮魂を担った年若い消防官は透かさず私を抱え上げて業火の中から落ち延びようとしたが、蹲って拒んだ。全てが灰に変じてゆく。全てが失われるならば、いっその事。火中にて心中を望む私を、無理矢理に肩に担ぎ上げられて尚下ろしてと喚いて殴って蹴ってとする重荷の私を、そのひとは落っことさずに地獄を突き進む。轟いた言葉が、火を伏せた。
     あれから数ヵ月が経った。火傷と共に負った喪失の傷は未だ生々しく、肉体よりも精神を苛んでやまない。けれども絶望の度、身体をいかづちが打つ。
     生きろ、と云う。

     
  • 新門紅丸+相模屋紺炉

    20220427(水)04:24
    ▼後ろの正面だあれ


    「怪我はしてねェな。」と。このあられもない光景を前にして発された第一声がそれであったものだから、私も、私を抱きとめてくれた紺炉さんも、意外や意外と形になろうとしていた弁解の言葉を失ってしまった。私室と言う閉ざされた空間で、日頃から好いていると――充たされずとも――言動で伝えている女が、背後から他所の男に抱き締められている、とあってはもう少し狼狽えても良さそうなものだが。
    「疚しい事があったのではないか、なんて思わないんですね。」
     真相をつまびらかにすると、紺炉さんの包帯を換え終わって立ち上がったところで足を縺れさせた私を紺炉さんが助けてくれたと、それだけなのだが。紅丸さんは私の片手を取って、己がもとに引き寄せながらに言う。
    「紺炉だからな。他人の女に手出しするなんて間男みてェな狡っ辛い真似、しねェよ。」
    「そうだな。他人の女だったらな。」
     ――ん? 疑問符が紅丸さんと私の頭に浮かぶ。紅丸さんを焚き付けているにしては迫真に過ぎる。私のもう片方の手を包んでみせた大きな手の、名残惜しそうに絡まる指先の所作の甘さたるや。紺炉さんの真意知りたさに首が振り向きたがる。そうせずとも、知れた。紅丸さんの眼窩に嵌まる真っ赤な鏡は真ん丸く見開かれて、初対面の人間を映しているようであったから。

     
  • 五条悟

    20220418(月)05:56
    ▼おそろい



    「下着が、上下不揃い、なので。」
    「そっか。じゃあ、どんなコーディネートして来たのかじっくり見せてよ。」
     如何な策も苦肉の策も最強を誇る男には通用しないのだ。悟さんの私室にでんと置かれたキングサイズベットの上は一国の領土かのように広々としているのに、逃げ場なんて何所にも無いと思わされる。ならば籠城の一手だ。アルマジロを参考に三角座りをして守備を固める。膝小僧の擦り傷と向き合う事になってしまった。これと同じような擦過傷は肘から腕にもある。打撲傷は背中と脇腹とにある。呪術師稼業の過酷さを考えると充分無事の範疇だ。硝子さんに治療を頼もうにも気が引ける程の極々軽い怪我だ。けれども、身体じゅう至る所に創られたそれ等に、この場にあっては肉よりも精神が大きく傷付くのだ。
     瑕疵一つ存在し得ない悟さんの肉体の美しさには、完璧の誉れが相応しい。其所に如何して襤褸を重ねられよう。
     身の程知らず、烏滸がましい。そんな悪罵の聞こえる泥濘に沈もうとする思考が、ピリリとしたささやかな痛みによって引き上げられる。赤黒い瘡蓋に覆われた膝頭が、短く切られた爪で飾られた指先に弄られている。骨張って固い人さし指を、それの持ち主のご尊顔をじろりと睨め付ける。ひん曲がりの視線の先で、悟さんは寛容であった。
    「本気で嫌がるなら無理強いはしないよ。」
    「嫌ではありません。恥ずかしいだけです。――身体、傷だらけだから。」
    「別に気にする事ないのに。」
     気にするでしょう、との反論正論はいとも容易く封じられてしまった。重なり合ったのに体温も移さぬ内に離れていった唇が、そうっと、掬い上げた私の爪先に口付けを施す。
    「今から君が、この手でお揃いにするんだからさ。」


     
  • 相模屋紺炉

    20220418(月)03:43
    ▼まあきんぐ


     ――嗚呼、でも、如何しよう。肉厚の胸板に手を添えたところで気が付いて、身体は二進も三進も動かなくなってしまった。この儘知らん顔で抱き付いてしまえ。いやいやそのような厚かましい顔は出来ぬ。欲と理性との肉体の主導権をめぐる熾烈な鬩ぎ合いは、するり、硬直した腰に回された腕によって仲裁された。
    「焦らすのがうまいな、お前は。」
     くつくつと、相模屋さんは愉快気に喉で笑ってみせて、私の腰に纒わる手に力を込めた。ぐいと呆気無く引き寄せられる身体、を、無理矢理に捩る。彼の胸もとに、藍色の火消し装束に額が鼻先が頬が一つも当たらぬように一所懸命に顔を背ける。
    「なんだ。もう気が変わっちまったか。」
    「そうではなくて、」
     逃げる素振りを見せようともびくともせずに、腰から尾骨の辺りを手の平全部で撫でて来る。逃がす気が、ない。私だって逃げたくないのだけれども。
    「法被を汚してしまいます、から。白粉、付いてしまいますよ。」
    「それで躊躇ってたのか。白粉くらいだったら叩けば落ちるだろうが――」
     ふむ、と考える間は一拍だけ。相模屋さんは颯と肌脱ぎとなるなり、改めてこの腰と、背中とを確と捕まえた。これならば気兼ねもないだろうと、ぎゅうと力強く抱き締められる。法被に腹掛けが隠れるにしても、藍よりも黒の方が目立つだろうに。

     
  • 新門紅丸

    20220417(日)04:30
    ▼だいじだいじに


     人さし指の先にくるりと巻かれた絆創膏の、指の腹にあてられた綿紗に血は薄らとも滲んでいない。詰まりはそれくらいの切り傷だ。だと言うのに、紅丸さんは私の腕を掴んでは、急ぎ救急箱の在るところに連れて行って手当てを施してくれたのだった。指に絆創膏を巻き付ける手付きと言ったら、破壊王の豪胆さは浅草を出てしまったのか、と此方が心配になる程のまめまめしさであった。薄皮一枚をも大切にされるとなると、何よりも居心地の悪さが先立つらしい。これならば、唾でも付けて置けば治る、と突き放してくれた方が調子も狂わずに済んだろう。
    「紅丸さんも過保護ですよねえ。」
     私を傷ものにした書類の一枚を、紺炉さんに手渡す。お使いを頼んだ通りに第七特殊消防隊大隊長の署名が刻まれている事を颯と確かめると、彼は書類仕事で疲労の溜まった目頭を揉み解した。
    「過保護、か。俺にはどうにもそうは見えねェな。」
     深々と吐き出された長息は、文机の上に築かれた白紙の山の頂きの遠さに嫌気が差してのものに違いない。けれども、視線が絆創膏にとまると端々に彩りを散らすように抑揚がついて、それは込み上げる笑いを何とか堪えている風にも聞こえた。
    「あれは、愛妻家、って言うんだ。若はお前がよっぽど可愛くてならねェんだろうよ。ったく、熱くて参るな。」


     
  • アーサー・ボイル

    20220408(金)05:40
    ▼キャンディ・レイ

     カリム中隊長から仰せつかったお使いを済ませるべく、早速第8特殊消防教会の門戸を叩いた、その時だった。
    「レアキャラがいる。」
     ドアハンドルを掴もうとする手を止めて、声のした方向を振り向く。正面玄関口より横手。マッチボックスが格納されている方からひょっこりと覗いたその顔は、台詞と声音にも表れている通りにちょっぴり嬉しげであった。太陽神様の加護を一身に受けている、と言われても納得してしまえる程にまばゆく輝く金の髪と美貌を持つ男の子が、威風堂々たる歩みで以て此方に近付いて来る。アーサーくん。挨拶に代わって彼を呼ぶと、フッ、と己が名を誇るように笑った。掃き掃除の最中だったのだろうか。竹箒を手にしてはいるが、枯れ葉の一枚も巻き込んでいないそれを肩に担いでいる姿は、先迄チャンバラごっこに興じていたやんちゃな童子にも見える。元気で結構な事だ。
     世話焼きのお友達であるシンラくんの気苦労を他所に気楽に笑っている、と。アーサーくんの空いている方の手が持ち上げられた。ドアハンドルの前で宙ぶらりんとなっていた私の手が、握られる。握られ、小さく上下に振られる。
    「アイテムは落とさないのか。」
     あいてむ。RPGゲームに出て来るモンスターのように、と言う事か。そうなのだとしたらこの謎めいた動作は攻撃の心算なのだろうが、まるで痛みがない。
     いとけない手繋ぎとしか思えぬような事を平然と為す彼に渡すには、これは丁度良い代物やも知れない。ポケットを探って、後輩や出会った子どもに渡す為に持ち歩いている甘い甘い飴玉を一つ差し出す。
    「手持ちはこれくらいしかないけれども、良ければどうぞ。」
    「何でも良い。姫君から貰えるのならば、何であっても騎士には誉れだからな。」
    「レアリティが崩壊しているなあ。」
     と言うよりも、姫を倒してアイテムを掻っ払おうとしていたのか、この騎士王様は。苦笑いが漏れ出る私の顔をまじまじと見詰めると、アーサーくんは直ぐに「王。騎士王。」と訂正した。気にするところは其所なのか。苦味を可笑しさが淘汰するも、矜持を持って生きる彼がまぶしかった。
    「では、此度の戦果としてこちらをお納めくださいな。騎士王様。」
     私の手を握り締めていた手が、離れ、受け皿を作る。そうっと載せた飴玉は、騎士王様のたなごころで宝石のように振る舞っていた。
     ぎゅう、と。誰にも渡すまいと懸命に守護するように、アーサーくんは飴玉を握り込む。そんなにしたら溶けちゃうよ。上気している顔を見るにつけて、尚更、心配が募る。

     
  • 新門紅丸

    20220313(日)04:32
    ▼ご近所の最強のお兄さん


     第七特殊消防詰所の前で、腰に手を当てて仁王立ち。その男の人は右に行こうか左に行こうかと一寸だけ考えているらしく、私からすれば無防備な姿ったらなかった。その腕と脇腹が形作る三角形の空間が失われない内に、狙いを定めて頭を突っ込む。すっぽり。
    「大将! やってる?」
    「うちは蕎麦屋じゃねェって何度言やァわかンだ。」
     頭の斜め上から降って来る紅ちゃんの台詞と言ったら、耳に胼胝ならぬ口に胼胝と言う風情すら感じられる。幾ら呆れた声を出されたとて、楽しいのだからやめられない。目一杯の笑顔に気持ちを託して紅ちゃんを仰ぐ、と。暖簾に見立てた藍色の袂がするりと持ち上がって、かと思えば目の前に被さって来るではないか。捲り上げる間も無く、こつり。頭の天辺に肘を突かれて小休憩の場とされた。
    「紅ちゃん、重いー!」
     きゃらきゃらと笑ってばかりで文句が文句と成っていないのはご愛嬌。重い、とは戯れに言ってみただけで、体重なんて碌すっぽ掛けられていないのだから。紅ちゃんも戯れているだけなのだ。浅草の皆んなが束になっても敵わない凄い強い人なのに、子どもの私ともこうして同じ目線で遊んでくれる。紅ちゃんが大好きだ。頭の天辺に掛かる少しの重たさににこにことしてしまう。紅ちゃんは腕の置く位置で私の身長でも測っているかのようにじいっと動きを止めて――それは、かのように、ではなかったらしい。
    「お前、背丈変わらねェな。ちゃんと飯食ってんのか?」
    「紅ちゃんがそうやって押さえるからですう。」
    「自分から首突っ込んで来て言うじゃねェか。」
     ぐいぐいと旋毛が押さえ付けられた。それが存外と愉しそうな様子であったから、「わあ! 重い、重い!」だなんて、まるで胸の内側の一等弱いところを直に擽られたかのように大きな笑い声を上げる。それも長くは続かないのだけれど。中腰で騒ぎ立てるなんて、直ぐに疲れてしまう。撓う背中と腰に痺れにも似た辛い感覚が広がり始める頃、す、と。紅ちゃんは載せていた腕を退けてくれる。そうして、この真紅の瞳には皮膚の下どころか心の中だって丸見えなんじゃあないのか、などと馬鹿気た事を思ってしまう私の頭をくしゃくしゃと撫で回すのであった。何時もの、るうちんわあく、と言うやつだ。ひと頻り撫でてくれた手を袖の中に仕舞ってしまうと、紅ちゃんは顎を小さくしゃくった。
    「俺ァ行くからな。お前ェも手習いがあンだろ。早く行きな。」
    「はあい。」
     良いお返事をして、手習いのお教室の在る方向につま先を向ける。一歩、踏み出す前に。
    「紅ちゃあん! またね!」
    「わかった、わかった。遅れるとまた叱られるぞ。」
     そうだった。この間、少しだけ、の心算で紅ちゃんの後に付いて行ったら案の定少しでは利かずに、それはもう大層な遅刻をして大きな大きな雷が落とされたのだった。紅ちゃんはその時も、手習いは良いのか、と気に掛けてくれたのに。次に同じ真似をしたら、紅ちゃんと遊ぶ事だって禁止されるやも知れない。ぶるり、身震いも治まらぬ内に駆け出す。角を曲がる一瞬にちらりと振り返ると、紅ちゃんは私の影が見えなくなる迄見送ってくれていた。転ぶなよ、と。笑っているような唇に、嗚呼、大好きだなあ。

     
  • 相模屋紺炉

    20220301(火)04:33
    ▼邪魔立てご無用


     橋袂にぼうっと佇む年老いた柳の木の枝が、ひゅうどろどろと吹いた夜風魔風に揺れる。手提灯のみを頼りとする明かりの乏しい夜道にざわめく葉擦れ、それは無念のうちに死した女の鬼哭啾々たる啜り泣きにも聞こえるが。
    「紺炉さんは怖くないんですか。」
    「なんだ、怖いのか。丁度良く片手が空いているが、入り用か?」
     提灯を提げていない方の手が、ほれ、と差し出された。血の気が引いても、震えてもいない。怖がっていない。折角のご厚意に甘えながら確認すると、先頃から胸に抱いていた疑問は俄に大きく膨れ上がった。
    「御存知でない筈はないでしょう。この時間のこの辺りには幽霊が出る、て噂。」
     ぴくり。骨太の指の僅かに跳ねるのを繋いだ手が感じ取ったが、振り仰いだ横顔は毅然と前を向いた儘だ。
    「――怖くないんですか。」
    「だとしても、お前にみっともねェ格好は見せられねェよ。」
     私の手を引いて、紺炉さんは矢面に立つようにして一歩先をゆく。出ると噂の柳の植わっている所に近付く毎に、汗ばむ大きな手の平、力の籠る指先。怖いのに怖いものから守ろうとしてくれる、このひとにはまったく恐れ入るばかりだ。くすくすとした笑い声を何とか喉に秘めつつ、柳の木のそばを通り過ぎ去る、その時にひと睨み。邪魔立てご無用だと、口の形で告げると風は止んだ。