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daitai 1500moji ika no yume okiba.
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新門紅丸
20220105(水)03:30▼あまじょっぱキッス!
あ、まずい。
顔を過ぎて後ろ頭に回った手は、逃げ道を塞ぎ、強引にも私に受容を求めている。只でさえあたたかな真紅の瞳は熱を帯びて、爛として射て来るではないか。私が影を縫い止められたかのような思いでいると、新門さんはついと顔を寄せて、唇を重ねるべく息を潜める気配を見せた。
嗚呼、まずい! 咄嗟に新門さんの唇を手の平で覆う。ぺちり、と。軽くしっぺをした時のそれにも似た遠慮勝ちな音が縁側に小さく弾けて暫くののち、「……は、」と、困惑の声とも取れる吐息が指の間から抜け出た。
「あの、ごめんなさい。」
「――構わねェよ。俺の方こそ、がっつき過ぎた。」
「いいえ、その、お気持ちは嬉しいんです、けれども、」
新門さんは不意の口枷となった私の手を外して、それでも目と目で接吻を為しているかのような近しいところからは退いてくれなかった。こつりと、額が擦り合わされる。「嬉しいんだったら拒む事ァねェだろ。」。不可解さを露にした声音と併せて、足りないものを私の中から探ろうとしているみたいであった。
何時迄も唇を引き結んでいては、思いは伝わらずに誤解を招くばかりだ。意を決して、塩気のある米の香りを含んだ呼気をほどく。
「私、お煎餅を食べたばかりなので、塩っぱい、じゃあないですか。唇が。」
マジで何を言っているのかわからない、と、沈黙が如実に語っている。
此所迄私から僅かも逸らされる事のなかった新門さんの視線が、ちらと、今は空となった菓子器に遣られた。紺炉さんが御茶請けにと用意してくれたそれには煎餅が盛られていたのだが、殆どを私が食べてしまった。お陰で口の中は塩でいっぱい、渇いて止まないのだ。
「接吻って、甘いものでないとロマンチックじゃあないでしょう。」
「知るか。俺としちゃァ甘ェよりかは塩っ辛い方が都合良いな。」
「知るか、って――新門さん、ちょっと、マジですか、力が強い!」
新門さんに両の肩を掴まれて、詰め寄られる。私は彼の唇を又もや覆って、顔を背けて逃げる。
ロマンチックさの欠片もないぎゃあぎゃあと騒がしい攻防の末に、新門さんはすっくと立ち上がると、お婆さんからの差し入れであるお大福を幾つか持って戻って来た。要は口が甘くなれば接吻しても良いのだろう、との考えから導き出された彼なりの最適解なのだろう。しかしながら、それに素直に手を付け口を付けるのは、自ら接吻をねだっているかのようで気恥ずかしいものだ。自ら接吻をねだっているかのようで気恥ずかしいもの、だが――新門さんは、潔くも黙々とお大福を食べてゆくのであった。
「どれだけ接吻したがっているんですか。それ、もう、自棄じゃあないですか。」
「……うるせェ。」
伏黒甚爾(※失恋夢※)
20220102(日)05:10▼匿
「職業・家事手伝いの人ー。」
お返事が無い。ソファからにょっきりとはみ出ている二本の足は、辺りにご機嫌を知らしめる猫科の獣の尻尾のよう。ゆうらゆうらと揺れている。猫のそれに当て嵌める迄もない。厄介事を頼まれるのを警戒して、起きるのを億劫がっている仕草だ。
「職業・無職の人ー。お仕事、斡旋しますよ。」
「仕事ならしてるだろ。毎日オマエを癒やしてる。違ったか?」
「はいはい、職業・ヒモの甚爾くん。ちょっと来て頂戴。」
バサリ。天井に広げていた競馬新聞を畳むと、職業・ヒモの甚爾くんはのっそりと上体を起こして、寝転がっていたソファから立ち上がった。傷の跨ぐ口端が歪んだのは、生欠伸によるものか、面倒臭さを露骨に表しての事か。何にせよ、呼び掛けに応じてくれたからには観念したのであろう。対面キッチンの内側に入って来た黒いスウェット姿に、早速、小さなざるにこんもりと盛ったスナップえんどうを差し出す。
「筋取り係に任命します。よろしくね。」
「その儘でもいける。」
「いけない。よろしく。」
「……だりぃな。」
お手本のような渋り具合ではあったが、斯くしてスナップえんどうは彼の手に渡った。
下拵えが為されている間に湯を沸かしておこうかと、片手鍋を取り出して水を張る。ざあざあと蛇口から水が流れ込むのに合わせて思考が押し流されて来る。そもそもこの男はスナップえんどうの筋の取り方を心得ているのだろうか。「甚爾、」と隣で黙して突っ立つ彼を振り返る。
丁度、一本目の蔕を折って引っ張り、太い筋を取り除いたところであった。
「何だよ。やっぱりオマエがやるか?」
「やらない。けれども、」
「けれども?」と言葉を引き取りながら、反対に付いている細い筋に爪を立てて剥いている。手慣れている。それはそうなのだろう。この男と言ったら、剣呑さすら感ずる程に妖艶な美貌を持っているのだ。その上、絶滅危惧種のような、と言えば当て嵌まるのだろうか――何所か放って置き難い、孤独ないきもの特有の危うさを持ち合わせるのだから堪らない。おまけに、此方の事情に不用意に踏み込んで来ない如才の無さだ。転がり込んだ部屋は数知れず、抱いた女だって数多いるとは、磨かれた手練手管からだって察せられる。ならば――。
一向に接がれぬ答えに、眉と眉の間に怪訝な思いを宿して顔が上がる。甚爾の眉間がほぐれるよう、私は努めて朗らかに、なるたけ居心地良く、明日にでもこの男が離れてゆかぬようにと自然体を装うのだ。
「顔が良い男って、スナップえんどうの筋取りでも格好が付くのね。」
「見惚れるのは結構だが、水、溢れてるぞ。」
ざあざあ、じゃばじゃば、鍋から溢れた水が排水口に流れてゆく。
――ならば、幾らでも替えの利く凡百の女から何時か教わった事だと、そう、思い込むだけだった。
蛇口レバーを押し下げて水を止める。傍らで慣れた手付きでスナップえんどうの筋を取る男が如何にも見知らぬ他人に思えて、二度と家事の手伝いなどさせやしないと、私の執着に固く誓わせた。ヒモは、養われていてこそだ。
新門紅丸
20211227(月)05:50▼泣かないでメンチカツ
揚がったばかりのメンチカツが、手の中で肉汁の涙をほろほろとこぼす。何と無体な事だろう。奇麗な半円の形で大きく失われたミンチ肉と玉葱は、直ぐ目の前でもごもごと動く口の中にある。嗚呼、今、喉に移り、胃腑に移った。喉仏の上下するのを、私は呆然と見ている事しか出来なかった。
新門さんが唇に厚く塗られた油分を舌で拭い、メンチカツを大事に、それはもう大事に包んでいた私の手を離す。
「ご馳走さん。」
「食べものの恨みはおそろしいですよ、新門さん。」
「お前の口から、一口分けてやる、って聞いた気がするんだがな。」
「そうですけれど! 半分も持って行かれるとは思わなかったんです!」
「腹ァ空かせた男に差し出したんだ。半分で済んで良かったじゃねェか。」
悪びれずに言ってのける口の端に取り付く衣は、あわれなメンチカツの亡霊か。嘸や私に食べられたかったろうに。じいっと恨みがましく見詰める視線に気が付いて、颯と口もとを親指で払ってみせる新門さん。この手もとに残ったメンチカツも深く悼んでいるのだろう。熱い肉汁を新たに流して、衣を濡らしている。
「この恨み、一生、言い続けてやりますからね。」
メンチカツ如きで何を言っている、付き合い切れない、と心底から呆れられると踏んでいたのだ。だと言うのに、新門さんは悠々としたり顔で笑っているではないか。
「腹も膨れてお前も一生そばに居てくれるってんなら、こっちは願ったり叶ったりだ。」
新門紅丸(幼)+相模屋紺炉(若)
20211226(日)07:25▼健やかに健やかに
吊り上がった眉の所以が機嫌の良し悪しに無い事に直ぐに気が付けたのは、真っ赤っ赤に染め上げられた両の頬と、とんがらせた唇から出て来た台詞とが、あからさまに語っていたからだ。
曰く、恋をしている、と。
「女が贈られて喜ぶもの、か。」
たった今、打っ切ら棒な態度を取り繕った紅丸から寄越された問い掛け。それは復唱すると胸がつんと痛く感じる程に甘酸っぱくて、紺炉はひと口、湯呑みの中の茶を啜った。縁側から望める空も、浮わつく春の桃色に霞んでいるように見える。
帰って来るなり紺炉の隣に座り込んだ紅丸は、視線でも真っ直ぐに尋ね掛けてはいるが、一つだけ有耶無耶にしたがっていた。照れ隠しなのだろう。承知していながらも、紺炉の唇がむず痒くて堪らずに笑い出す。
「女が、じゃなくて、あの娘が、だろ。」
「……紺炉だったらわかるんだろ。新平太が、そう言う事だったら紺炉に聞くのが一番だ、って言ってたぞ。」
「別に俺も一から十まで女心がわかってる訳じゃねェよ。」
「けど、町の女衆だってよく言ってるじゃねェか。紺炉にだったら抱かれたい、って。女の喜ぶ事がよくわかってるから、あれだけ好かれてんだろ?」
言葉の意味を真に理解しているのか図りかねる、至って真剣な紅の眼差しが紺炉を射つ。――ガキに何を聞かせているんだ、うちの女衆は。居た堪れずに目蓋を伏せて、黙り。序でに啜ったもうひと口は、紺炉の口の中に蟠った苦々しい思いを飲み込んで、甘味のある筈の茶をいやに渋くさせた。
苦味を堪えて口を結んでいると、「紺炉。」と。威勢良くも焦燥に急き立てられているかのような、何所か苦しげで実に参っている声に掴み掛かられる。――世話が焼ける。紺炉はそれ以上、沈黙を保てやしなかった。
「紅丸。例えば俺が、簪の一つでも贈ってやれ、って言ったら、お前はその通りにするか?」
「かんざし?」と、ぽかんと要領を得ないと言う顔をしていた紅丸が、暫くののちにゆっくりと首を横に振る。それは贈る相手である少女の趣味や事情を鑑みての結論だろうと、そう感じられる熟慮であった。首肯の代わりに、未だ薄い肩に手を置く。
「贈りたいのは、女に、じゃねェだろ。――俺よりも紅の方があの娘の事をよく知っていて、よく考えてんだ。だったら、俺がお前にしてやれる事は話を聞いてやる事くらいだな。精々、悩みな。惚れた女の笑った顔が見てェんだろ。」
「……考えんのは苦手だ。」
「あの紅丸がそこまで強く想ってんだ。その内、良い考えが浮かぶに決まってる。ま、頑張れや。若ェの。」
眉と眉をぎゅうと寄せて難しい顔を作る紅丸の肩を叩くと、紺炉はけらけらと笑いながら、庭の片隅を見ていた。少し前にはこの庭でよく喧嘩をしていた二人だと言うのに。盆栽近くで繰り広げられたものは、町で聞き齧っただけの悪態を紅丸が吐いて、耳聡い少女を泣かしたものであったか。
あの日、ぎょっとして立ち竦む紅丸の頭に拳骨を落とした手で、熱くなりゆく目頭を覆う。今は小さな太陽の成長してゆくのが、何より嬉しかった。
「あれだけどうしようもねェ事を言ってもそばにいてくれるんだから、お前の馬鹿に付き合えるよっぽど辛抱強い女だよ。絶対に離すんじゃねェぞ。」
「紺炉、お前ェ、泣いてんのか?」
新門紅丸(※悲恋夢※)
20211223(木)03:05▼恋と盲目
目蓋を閉じて、開ける。視界の右半分は、暗い。
「右目は、未だ見えねェか。」
暮れ泥む空を長らく見上げていた所為で首の筋肉は凝り固まっていた。紅丸が問い掛けの投げ掛けられた暗がりへとこうべをめぐらす。紺炉の表情は声とそっくりに、強張り、痛ましく沈んでいた。胸の奥底迄を暴き立てる鏡を覗き込んだような忌避感に見舞われて、紅丸はそれ以上は見ていられなかった。家路を急ぐ烏の、一羽切りのさびしげな鳴き声に誘われた風を装って、ふた度、橙に燃える空を眺める。未だ夜の手は伸ばされていないのに、半分が深い闇に覆われていた。
そうっと、紅丸が右の目蓋に触れる。忌々しく思う余地の無い、心底からの慈しみに満ち満ちた指先の仕草であった。
「動き回るのに支障はねェよ。博打だってやれる。」
「医者には診て貰ったんだろ。何だって?」
「“焔ビト”の――あいつの灰が入った事で一時的に失明している。泣きさえすれば一緒に灰が排出されてその内にでも回復する、ってよ。」
そうか、と短く呟いたきり、巌で塞がれでもしたかのように紺炉の口は重々しく閉ざされた。固く結ばれた口の中では様々な慰めや悼み偲ぶ気持ちが飛び交っているのだろう。
恋仲ではなかったにせよ、言葉にはしなかったにせよ、確かに好き合っていた。その女を手に掛けるのに躊躇いは無かった。逡巡するだけ業火に身を焼かれる地獄は続く。ならば、ひと思いに、苦しみも痛みもないように。――手刀で貫いた胸から、ひとひら、はぐれた灰が右目に触れた。その時から紅丸の片目からは光が失われていた。
彼女の灰が呪いとして降り掛かったものだとは思わなかった。最期の告白だと、最後の独り占めにしたい我儘だと、そう思うと紅丸の唇にはいとおしさが込み上げて来るばかりであった。
「最後の最後で素直になるなんて、仕様のねェ女だよ。お前は。」
光明潰えた瞳の中に彼女がいる。今際の際迄、泣いてやるものか。
新門紅丸
20211218(土)03:35▼はじめましての狼さん
第七特殊消防隊詰所で女中の真似事をしていると時間を忘れてしまう。そのようなうっかりした日には、その時に手の空いている火消しの何方かが家迄送ってくれる事となっていた。女一人に夜道は歩かせられない、と言う気遣いは有り難く、月明かりの無い日などは大変に心強く思うものだ。今宵は新門さんが隣を歩いてくれているのだからそれはひと入、なのだが。私はと言えば少しだけ緊張していた。
「二人きりになったからって取って食いやしねェよ。幾らなんでもそこまで我慢が利かないって事はねェ。」
「その、あんな事があった後なので、つい。」
「あれは――、あそこまでは我慢が利かなかった。」
誤魔化す事も申し訳無くする事もなくしれっと言って、新門さんは迷いなく道をゆく。人びとの営みがともす明かりが幾らか落ちたところで、浅草はこのひとの町だ。きっと目を瞑っても歩けるだろう。それ程に不自由の無い足取りが遅々としているのは、偏に私に歩幅を合わせてくれているからに違いなかった。
ひっそりとした夜に、二人分の足音だけがよく響く。軈て私の帰るべき家が見えて来ると、胸もとを締め付けていた緊張の糸は少しずつほどけていった。後は玄関戸を開ければ糸は足もとに落ちて、風に吹かれて、いずこかへと散ってくれる筈だ。筈だった。「では――」ありがとうございました、と接がれるべき言葉が飲み込まれてしまう。誰に、なんて疑問を抱ける程は愚かではない。そのぬくもりを肌に受けるのは、この日、二度目なのだから。
新門さんは私の後ろ頭に手を回して、今度こそ逃げられないようにと入念であった。息継ぎの為に、僅かな時、僅かな距離だけ顔が離れて、ふた度唇が重なる。合わせるのみで深くを探ろうとしないのは不慣れだからか、と。そう思考すると、ほどけかけていた緊張の糸の端っこに胸を擽られた。
「これは駄賃だ。これくらいは文句言ってくれるなよ。」
「――足ります、か。」
「ツケておく。」
夜陰に巻かれていても唇の形がわかる。足りないと欲張って見せる新門さんは、けれどもとても満足そうに笑っていた。
すい、と身体が離れてゆく。冷えた夜気の素早く纏わり付いて来るのを見越して、当座の灯火となるかのようなあたたかな声音が私のもとに渡される。
「今夜は冷える。とっとと家に入りな。」
「はい。送ってくださってありがとうございます。おやすみなさい。」
「応。また明日な。」
頭を一つ下げる。夜の帳に隠されてゆく藍色の背中を見送る事はせずに、玄関戸を開いてそそくさと家の中に駆け込んだ。確りと戸締まりをした扉に背を預けるなり、緊張の糸はふつりと切れて、へなへなとその場にしゃがみ込む身体。
「ちょっと、可愛いと、思ってしまった。」
いとけない口付けの擽ったさを唇が覚えている間は、未だ初々しい狼さんとの二人きりも良いものやも知れない。
新門紅丸
20211213(月)15:48▼勧請
一か八かの賭けに出た賭場での大一番でも、心の臓がこれだけ突き鳴らされる事はなかった。行灯の火も徒に揺らめかぬ、まこと静謐な夜だ。この緊張に喘ぐ臓器の苦鳴が部屋じゅうに響いてしまっていやしないかと、紅丸は懸念した頭をめぐらして、目の前に座する女に御伺いを立てる。見る間に花唇はきゅうと引き結ばれた。鼓動の早鐘は夜のしじまを伝い、彼女の胸をも震わしているのだと一目で知れる仕草であった。同じだけの高鳴りを覚えているならば嘸や苦しく痛く切なかろうと、紅丸としては一刻も早く緊張を解いて楽にしてやりたかったが、心臓の跳ねるのに邪魔をされて胸が塞がり肝心要の言葉が詰まる。「破壊王」形無しだと後ろ頭を掻く紅丸の姿に呆れを示したのは、粛然とした二人を守護奉っていた灯火だ。ヂリ、と小さく上げられた焦れた声に、急かしてくれるな、と紅丸が心のうちで応じる。深く、呼吸する。夜半のしんとした空気を取り込むと、熱で痺れていた頭の真芯が、一度たりとも冷めやらぬ儘に冴えを取り戻した。心臓の野次は未だ五月蝿いが、一世一代の告白なのだから祭りのように騒々しくあるべきだ、と開き直るしかないだろう。胡座から正座に座り直す。居住まいを正す紅丸に倣って、向かい合った女も合わせて背筋を伸ばした。紅丸が、そうっと、呼ぶ。女の名を呼ぶ。これ迄に数え切れぬ程に音にして、これからも数え切らぬ程に音にする、いとおしい音だ。はい、と。か細い吐息の呼応が密やかに夜に染む。橙の光が遍く照らし出す小さな世界の中で、女の瞳は既に潤み、瑞々しく光っていた。生まれ出でたばかりの朝日のようなその真ん中を真っ直ぐに、真っ直ぐに見据えて、紅丸はゆっくりと頭を垂れた。「俺と夫婦になってくれ。」
五条悟
20211211(土)01:07▼ランナーズ・ハイ!
呪霊は形を保てず霧散しはしたが、祓除の手応えは感じられなかった。私達が現着する以前に分裂していたのか。
「さて、本体は――」
「向こう、ですね。」
この任務を通して実力を見定められている事には気付いていたから、悟さんの空惚けた問い掛けが完成を見る前に、私は残穢を辿って補足した呪霊本体の潜む方角を指し示した。「よく出来ました~!」と、天へと伸ばされた両腕が巨大な丸印を描く。晴れやかなる声音に縁取られれば花丸も同然だ。暗澹とした“帳”の中にも関わらず気分はすうっとして、呪力以外の力が身体に漲ってゆく。
「それじゃあ、先に行っているから。あんまり遅いと僕が祓っちゃうよ。――はい、駆け足!」
急かすと同時に音も無く姿を消した悟さんは、呪霊のもと迄一足飛びに「トんだ」のであろう。躊躇わずに置いて行くのは、付いて来られる、と信頼してこそ為せるおこないだ。そうだと信じている。彼から信じられていると、私は信じている。術式に呪力を流し込む。
「直ぐに追い付いてみせます。」
――貴男に。何時か決めた心と手を取り合って、一生懸命の駆け足。
五条悟
20211210(金)04:59▼君を守る御手ならここに
「お手をどうぞ、お姫サマ。」
書庫への道行きのさなかに、ぬうっと突き出て来た手。それは一瞥を受けると言葉の通りに手の平を返して、台詞に相応しい恭しさを放棄した馴れ馴れしさでひらひらと振られた。「悟さん。」「や。」。大きく見上げる。深く覗き込む。相手と確りと目の合わせられる首の角度は、お互いに身体に刻み込まれている。けれども、今日は少しだけ誤差が生まれていた。
「あれ? ヒール、高くした?」
「ええ。今度のヒールは七センチです。」
「前は五センチだっけ。背伸びが上手になっていくなぁ。」
頭の天辺に手が置かれる。本来の身長を意識させられ、仮初めの身長を意識させられ、幾ら背伸びをしようとも遠い悟さんのかんばせを意識させられる。数年の先、大人となった私であれば、彼に意識させられるのだろうか。
見果てぬ夢は、成長の糧に。今はこの成果を上々のものとしよう。昨日、相対した時よりも、悟さんの背筋は伸ばされている。彼の背中や腰回りの筋肉の負担は和らげられているのだ。
「いつまでも子ども扱いをしていますけれどね。私、貴男を守る術の一つくらい、知っているんですからね。」
新門紅丸
20211124(水)04:32▼黄昏に哭く
視界が濃紺に染まっている。うらさびしい夜の御出座しかと思えば、胸いっぱいに広がりゆくものが安堵であったから、夜色の帳の正体は直ぐに知れた。――べにまる。此方に背を向けて座す彼の名を呼ぼうとして、喉の乾きを覚えて声は嗄れてしまった。それは反って良かったのやも知れない。寝起きの五感に掛けられていた紗がほどけてゆくと、砥石と金物が擦れる音が入り込んで来た。大工道具の手入れをしているのであろう。其所で漸く、私は紅丸の部屋に居て、彼の布団に寝かされているのだと気が付いた。迂闊に話し掛けて手に怪我を負われてはかなわない。研ぎ終わる迄は寝ていると思わせようと、息を潜めて紅丸の背中を見上げる。火消しらしい頼もしい背中だと、思う。まじまじと見る機会はこれ迄に無かったが、この背中に私達は守られているのだと感じ入ると、如何にも泣きたくなって来る心地がした。穏やかなだけの時間がずうっと続いてゆけば良いとは、一体、誰に願えば良いのだろう。布団の中で胸の痞えに手を遣る。衣擦れの音が、紅丸の意識を引き付けてしまったらしい 。ともすると、寝返りを打つ毎に布団を掛け直してくれていたのだろうか。紅丸は手拭いで手を清めてから振り返るなり、颯と私の身体を包む掛け布団へと手を伸ばして――はたと視線をひと所へととめた。目が合って、暫し。
「声も掛けずに盗み見たァ、お前ェも人が悪いな。」
肩迄上げられた掛け布団の上から、ぽん、と一つ叩かれる。
「ここまで運んでくれたの?」
「縁側で猫みてェに丸まってたからな。女が身体冷やすもんじゃねェだろ。」
「ヒカゲとヒナタは?」
「遊びに出たまま、まだ帰って来てねェな。」
私の分迄お菓子を貰って来る、と言って出て行った二人だけれども、この分では何某かの可笑しなものごとを見付けて後回しにされたに違いない。
それじゃあお邪魔しました、と折角掛けて貰った布団を跳ね上げようとする。――と。枕に預けた顔の横に手が突かれた。ゆっくりと影が覆い被さるのを、私は一つも動けずに見守っていた。そう、と。紅丸のもう片方の手が、掛け布団を握った儘で固まる私の手に重なる。爪の一枚一枚をさするようにして撫で、緊張を奪ってゆく。手の甲が四指で包まれ、開かれた手の平を親指が這う。手指が熱で燃え立っている、そんな錯覚がした。
「あつい。能力者だから体温もそれなりに高いの?」
「考えた事もねェな。だが、惚れた女に触れてたら熱くもなるだろ。それとも何か? 冷たい男の方が好みか。」
「紅丸は冷たくなりようがないでしょう。だったら、熱いのだって悪くはないわ。」
告げるなり、ふ、と相好を崩すものだから、手のみならず頬迄もが熱くてあつくて堪らない。見下ろす眼差しが慈しみ深い色に彩られている為に、恥ずかしい事を言ってしまったのではないかと俄に羞恥に駆られて縮こまる。思わず指に力を入れて、紅丸の親指を握り込んだ。
「ねえ。手、溶けていない?」
「どれ。ああ、溶けてねェ。奇麗なもんだ。」
掬い上げた私の手を態々見詰めてくれる紅色が柔らかくて、世界が終わってしまうならば、今この時を以て最期を迎えて欲しかった。
ジョーカー
20211123(火)02:35▼朝焼けは望めない
夜から影へ、闇から闇へと滑り込んだ男が息を詰める。
本来であればひと息つける場所である、国からも放棄されたアパルトマンの一室。廃墟らしいおどろおどろしい身なりを恐れずに踏み込んだ先に在るその部屋の飾り気と言えば、蝋燭の燭台一つきり。他の家具と言えば、腰掛ければがたつく机と椅子と寝返りで軋む襤褸の寝台が、肩身狭そうに隅に寄せられているだけ。巷の少女が親から買い与えられたドール・ハウスに住まう人形の方が、余程文化的な生活を送っている有りさまであった。
外を吹き荒ぶ夜嵐が立て付けの悪い窓を乱暴に殴り付ける。騒がしい夜がやけに静謐に感ぜられるのは呼吸を止めている所為だと、男に気付かせる。唇に挟んでいた煙草をひと息に吸い切って、吸い殻を机上に用意された携帯灰皿へと仕舞う。吐いて、吸って、肺の換気を行っても埃で喉を痛める事がないのは、部屋の清掃が行き届いているからこそだ。寝台で寝入る者の手によって。
寝台の傍らに置かれた椅子を跨いで座り、背凭れに身体を預けると、その寝息がよく聞こえた。まるで断続的に見えざる手に縊られているかのように、か細く息をしたりしなかったりとしている。吐息の合間には喘ぐ声が小さく小さく漏れ聞こえた。魘されている、とは遠目にも理解した事であった。男が寝台の上の身体へと手を伸ばす。肩へ、頭へ、肩へ。彼方へ遣り此方へ遣りと落ち着きの無いさまは迷い子同然で、迷った場合の鉄則である、その場を動かない、に落ち着いたところもそっくりだ。
苦し気に呻く声に、髪の撫で方一つ知らないのだと思い知らされる。
その内に、ハ、とひと際大きく息を吐き出して、寝台の上の身体から強張りが解けた。規則的に上下するシーツの盛り上がりを眺めていると全身から力が抜ける感覚を得て、何時しか自らも緊張していたのだと男が自覚する。
掛け布団から抜け出た手が、今でも助けを求めているように見えた。男が指先を、そう、とたなごころへと置く。血の気の失せて冷え冷えとした身体に火を灯せる気がしたのだ。机の上で夜闇を払う、蝋燭のともしびのように。
「ヒーローは遅れてやって来ると言うが、ダークヒーローは手遅れでやって来るか。」
男の自嘲は鋭い風の音に切り刻まれて、寝台に乗る事なく床へと落とされた。
夜這いに来た、と。目を覚ました時にそう揶揄ってやれば、明晩は寝ずの番でもするだろうか。眠りさえしなければ悪夢に怯えずとも済むだろう。乞われるならば、共に夜明けを迎える事だって――。
耳をそばだてていのちの音を聞く。男は夢想に浸りながら、やわく握り込まれる指先を見詰めていた。
五条悟(※失恋夢※)
20211121(日)04:15▼仕合わせになれない
荒唐無稽だと、神様だった男が笑う。
世界じゅうの本は一生涯に亘っても読み切れず、このひとの心のなかもそうなのだと当て込んでいた。けれども、只人には触れ得ぬ叡智と霊妙を秘めた大きな身体。それの為す事が偉大なだけではなかったから、良くも悪くもあったから、人間みたいであったから、気付いた時にはこの男のひとは神様ではなくなっていた。
だから、恋することは容易かった。
「それは何も出来ないのと同じ事だよ。」
何が出来る訳でもないが何も出来ない訳でもない。貴男と共に死ぬ覚悟が私にはあります。
そのように胸のうちを奏上すると、悟さんは笑ったのだ。見慣れている筈なのにまるで初めて目にするかのような笑みであるのは、形だけだからであると、身体から血の気が引いてゆく音を聞くなり理解した。
「思考を止めるなよ。そんなところで止まって、何が手に入る?」
遮光性の高いサングラスのレンズが底知れぬ深淵のように置かれている為に、私と悟さんの視線は結ばれない。違う。私が彼から目を逸らしつつあるのだ。
何時しか食い縛っていた奥歯が、叶わなかった恋心の破かれる痛み毎、呼吸をも噛み潰す。早鐘を打つ鼓動が生命の危機を報せて来るが、煩わしい。死んで、しまいたかった。嗚呼、それであるから駄目なのだ、私は。
失望に足もとが揺らぐ。言い返す事も出来ずに、本当に無力にも項垂れるしかない私に、悟さんはしかし、落胆を染み込ませた溜息を浴びせ掛けるなどとはしなかった。
「――それに、手を繋いで地獄に行く相手は募集していないんだ。暫く死ぬ予定なんて無いしね。」
私の後頭部に、ぽん、と。何度だってこの心を掻き乱して来た手が、これ迄みたいに無遠慮に置かれる。くしゃり、と髪を撫でられると、優しくて情けなくてあたたかくて苦しくて涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。
「意外な事に、この五条先生、告白されるなんて初めての経験なんだよね。いやー、どきどきするもんだね。ホント、勇気あるよ、君。」
まさか眩暈する私に気を遣った訳ではないだろうが、悟さんはあっけらかんとしたさまで言うと、頭を撫でていた手を肩へと置いて顔を上げるように促して来た。
――私が先に進んだ暁には、貴男の隣に立てますか。
精も根も尽きるどころか、生も魂も尽き果てるくらいに追っては求めてしまうのだ。
希望を込めてふた度、想いを告げ直すべく口を開く。開こうとして見上げた悟さんの相貌には、形ばかりの冷ややかな笑顔はなかった。只、善も悪もない神様、みたいな無邪気さのみが唇に宿っている。
「まあ、零に幾らかけても解は零にしかならないんだけど。あ、これ、返事ね。」
かけるものは、願い、と言ったところだろうか。軽うく肩を叩いてから、「じゃあ、君も授業に遅れないようにね。」と片手が上げられる。はあ、だか、はい、だかのうつろな応えを聞き終えるや否や、悟さんはその長い長い脚であっさりと退去してしまった。
正しく天衣無縫のひとだから罵倒したところで引き攣れは創れないだろう。ならば腹癒せに、と幾つもの罵倒をその影に吐き掛けようとして、端から言葉が枯れてゆく。私が好きになったひとは、神様ではないのだから。
(新門紅丸+)相模屋紺炉
20211118(木)05:15▼走れ、壮年少女!
嗚呼、七曜表の写真かあ。
カメラを片手に銭湯の在る方角へと向かう紺炉さんの背中には、言い難いがコソ泥のような卑怯さから来る慎重さがあった。これから盗撮に及ぶのだから相応ではあるか。
「昨日の今日だ。若も警戒しているだろうし、やりづれェな。」
「盗撮をしなければ良いだけなのでは。」
「風呂くらいでしか裸になんてならねェだろ。酔ったら脱ぐ癖があったなら話は早かったんだがな。」
紺炉さんは残念そうにカメラを撫でているが、残念がる事だろうか。私は酔ったら所構わず脱ぎ出す紅丸なんて御免なのだけれど。
「紅丸に頼んで着替えを撮らせて貰うのでは駄目なの?」
「それくらいで勝てる喧嘩じゃねェ。皇国の奴等に負ける訳にはいかねェんだ。」
盗撮で勝利したとして果たして誇れるのか、と口を挟むのは憚られる程の熱意であった。
閉口しながら、如何にすれば紅丸を盗撮から守れるか、如何にすれば紺炉さんに罪を重ねさせずに済むかを考える。レンズが、チカ、と日の光を反射して目を焼いた。「それ。」と私の指さすのに、紺炉さんはカメラを軽く持ち上げる事で応じる。
ええと、と視線が泳いだのは、これからしようとする提案が現実的なものか怪しかったからだ。
「紅丸の写真が必要ならば、私が、撮って来ようか。」
紅丸は女に恥をかかせようとはしないだろう。一所懸命に頼み込めば半裸くらいにはなってくれる、やも知れない。それでも頑なに嫌がる時は、今度は紺炉さんに諦めるよう説得する心算だ。
何方にせよ容易な事ではない。目蓋を固く閉じて腹を決める。その間じゅうも、紺炉さんは押し黙っていた。流石に沈黙が長過ぎるので、矢張り駄目だろうか、と彼を振り仰いで顔色を窺う。
「いや……そう言う生々しいのは……。」
返答のしづらい質問を繰り出して来た幼子を相手にするような、困り果てた渋い顔で言葉が濁される。
そう言う、とは――いや、はっきり言われずとも理解出来る――何を勘繰っているのか――詰まりはそう言う時の――。
「違う! 違うから!」
否定の声は思ったよりも大きく飛び出て、家いえの壁にぶつかり響いて谺する。余韻の消え去った頃になって紺炉さんは、「そうか。」と気不味げな表情と声音で自らの早合点を謝ってくれた。
「すまねェな。下衆の勘繰りなんかしてよ。」
「私こそ、大きな声を出してごめんなさい。」
気にするな、と悄気る私の頭を一つ二つと撫でると、立派な体躯の生み出す影が颯爽と離れてゆく。丸で、時間を気に掛けるかのように足早に。地面から顔を上げた時にはもう、紺炉さんの背中は小さくなりつつあった。その邁進の先には、銭湯。紅丸が湯を楽しんでいる真っ最中であろう銭湯が在る。「紺炉さん!」。声での制止など無意味と知って、急ぎ私も駆け出す。
新門紅丸
20211114(日)05:03▼火遊びはほどほどに
だって、その浮わつきようが可笑しいったらないんだもの。
「もう終わるか。」
「後少しかしら。」
数えて三度目の問い掛けに、同じく三度目の返答を遣る。む、と黙る紅丸はこれも又三度見る姿ではあったけれども、胡座をかいた膝の上に置かれた手が開いては閉じと落ち着きの無さを見せ始めたのに気が付かない訳もない。手もとを照らす行灯から顔を背けたのは、むずむずと弛もうとする口もとを明らかにしない為だ。
「……お前ェ、態とやってんだろ。」
「さて、何の話かさっぱりね。」
「『待て』の芸でも仕込もうってか。生憎と俺ァそこまで利口じゃねェんだ。」
心底から面白くなさそうに言うものの、それだけだ。針仕事の最中の私に詰め寄って万が一にでも怪我をさせては、と気を遣っているに違いない。痺れを切らして強引に手を出す事はせずに、紅丸はジッと私の横顔を見据えて大人しくしていた。
「それで、もう終わるか。」
これで四度目だ。いい加減に懲りるべきだと思うが、それはお互い様か。
殊更ゆっくり縫うのもそろそろ潮時だろう。後少し、と。今度ばかりはその言葉を真実にしようとして紅丸を向くと、膝の近く迄影が伸びて来ていた。纒を振るって出来た胼胝の固い、男らしい手の平が此方に差し出されている。
「お手でもしろ、と?」
「それ、寄越せ。」
それ、とは、この手の中にある彼の法被の事を指しているのだろう。ほつれを見付けて繕うと言い出したのは私であるが、目に余る進み具合に遂に短気を起こしたか。大工仕事はお手のものだとしても、針仕事迄出来ると言う訳ではないだろうに。
摘まんだ針と共に法被を身体へと引き寄せて、守りを固める。
「針仕事は私がやります。アンタは浅草の花形なんだから、みっともない格好はさせられないわよ。」
「そいつは結構な事だが、こっちに寄越さねェんだったら今は横に置いとけ。」
「後少しで繕い終えると言うのに、」
如何してそんな真似をしなくちゃあならないの、との反論は喉の奥に引っ込んでしまった。繕いかけの法被を目指していた紅丸の手が持ち上がる。つ、と片頬を撫でられた。遊びが過ぎたな、とは、行灯の明かりを受けずとも赤々と燃え立つ、紅色の瞳を覗いて省した事だ。
四度。彼にしては我慢をした方とも言える。
新門紅丸
20211112(金)09:34▼花に呑み酒に臥す
甘いものは好きではない。だが、惚れた女の甘えたと言うものは男心には格別の美味だった。
紅丸は上々の気分でひと息に杯を干した。脚の間におさまって凭れ掛かっている女の頭を一つ撫でる。円い輪郭を滑り落ちて髪を梳くと、頭皮を甘く掻いた指先がお気に召したのか、肩口に埋められた額が細かく震えた。紅丸の手が続けざまにもう一度、同じ道程を辿る。
「擽ったい。」
今度はあからさまにころころと笑った女が身を捩る。その儘身体を起こして距離を空けようとするが、そのような事は興が乗った手が許しやしない。
「固ェこと言うな。もう少しいいだろ。」
毛先に至った紅丸の手指は頭に取って返す事をせずに、逃れたそうにする肩を抱き込み、女の身柄を胸へと引き戻した。もう片手で酒瓶から猪口に酒を注ぐ。身動ぎの度に首筋に戯れ付く女の前髪はこそばゆくはあったが、それすらも心地好い高揚を誘う。飲み慣れた酒をより極上の甘露に昇華させてしまう女の、大人しくなった肩を撫でさする。
「その恵比寿顔は相も変わらず可愛いのにね。」
「あ? 馬鹿にしてんのか。」
「あの可愛かった紅丸が随分と男前になったものだなあ、てしみじみとしていたのよ。女一人、こうして難無く支えてしまうんだもの。」
俺は可愛いと思われていたのか、と。矜持に付いた傷は酒のひと舐めで清めた。紅丸と女、二人寄り添う縁側に静寂が招かれたのは、そのほんのひと時の間だけであった。依然ご機嫌に綻ぶ口もとが、酒気を帯びれども決して酔わぬ真心をぽつんとこぼす。
「惚れた女一人、いくらでも支えてやるよ。」
「あら、頼もしいこと。」
笑い声を包んだ吐息で紅丸の鎖骨を擽った女が、ふた度、心身をすっかり彼に任す。首に擦り寄って甘える女に、酩酊。然しもの最強の男も惚れた女には如何にも弱かった。
(五条悟+)七海建人
20211022(金)04:45▼恋敵になれない
木枯らしに苛まれた小さな身体が、苦鳴を押し殺して震えている。身を縮こまらせ、筋肉と言う筋肉を強張らせて隙を作るまいとしているが、寒気は隙間からでも忍び込むものだ。露な踝から駆け上がった空風に心の臓をひやりと撫で上げられたが故か、転び出た女の悲鳴は引き攣って裏返っていた。
「さむーい!」
「薄着で来るからですよ。」
「クール!」
「それを言うならコールドでしょう。」
「七海くんの態度が冷たい、はクールでしょう!」
クール!、クール!、と人けの無い廃ビルディングにわんわんと谺する英単語。これがまた新たな呪霊の発生に起因しなければ良いのだが。
七海が嘆息する。眼前に小さな靄の広がるのを目にすると、彼はそれが霧消するよりも早くに羽織っていたロングコートを脱いでいた。「これを、」ひと先ずは着込むようにと差し出そうとして、片腕に掛かる生地の重みを意識した。裾が地面に擦れようとも構わない。だが、彼女の肩にこのコートは重たくはないだろうか、自由な動きの妨げとなりはしないだろうか、と気に懸かると奇妙な間を生む事となってしまった。
大声で繰り返し寒さを訴える身体は、次第に息を上げて、少しずつあたたまろうとしていると見える。だが、末端に血の気が呼び込まれるのは未だ随分と掛かりそうだ。胸の前で痛々しく擦り合わせている寒そうな指先。この場に居合わせたのが五条であったならば、躊躇いなど一つたりとも持ち合わせずに手を取った事だろう。そして彼女は、そのような男を好きでいる。
七海は腕に掛けたコートを広げ、包み込むようにして女に羽織らせた。
「着てください。多少重くとも、体調を崩すよりはマシと言うものです。」
「七海くんだって寒いでしょうに。そんなに着込んで来たのだから。」
「私はそれ程でも。コートは念の為に着て来ただけに過ぎませんから。」
「そうなの? それじゃあ、有り難く頂戴しましょう。」
通した袖口から小さく覗いた指先が、早速、暖を求めてポケットに潜り込む。少しの強引さを見せれば、きっと、あの冷たく悴んだ手は容易く掠め取れた。そう確信を得られる程の体格差が、コートの一着によって浮き彫りにされていた。七海の胸を焦がす憧憬など露程も知らぬげに、女は出口へと歩き出すなりくるりと一回転。コートの裾をはためかせて、ドレス宛らの華やかなシルエットと上機嫌な足取りとを披露する。「七海くん、大きくなったねえ。」と。感慨深げにしみじみと呟く女の微笑み方は学生時代から変わらない。先輩と後輩と言う、明確な平行線が其所には引かれていた。
きいん、と。耳鳴りがするのは酷く凍える夜だからだ。呼吸する毎に女の姿が紗が掛かったように朧気になる。抱いている感情のすべてを誤魔化してしまえると、七海に思わせた。
「次からは天気予報を見てから外に出てください。その内、風邪、引きますよ。」
「七海くん、お父さんみたい。きっと良いお父さんになるだろうなあ。七海くんの子どもに生まれたかったなあ。」
「そうなったら五条さんなんて許していませんよ。」
アーサー・ボイル
20211001(金)05:44▼はぐれないで手を繋いで
その声をホットミルクに溶かしたら酷い味がしそうに思えた。
此所、第8特殊消防教会はコンクリートに埋め立てられてしまった。そんな怖気の走る想像が過るくらいに、この夜は静寂の支配下に在った。静かな夜は歓迎するが、人の耳では聞こえない金切り声が彼方此方から上がっているかのような、耳の痛くなる夜では如何にも眠れそうにない。少なくとも私は。
「アーサー。こんな所で寝ていたら身体を痛めるよ。」
彼の口から細く漏れる健やかな寝息は何よりものお返事だ。
食堂のお誕生日席を腕を組んで陣取っているアーサーは、一寸やそっとでは目を覚まさぬ程にぐっすりと眠り込んでいた。大方、シンラやマキさん辺りが一度は起こそうと試みたのだろうが、敢えなくお手上げと相成ったのであろう。肩にブランケットのマントを羽織った騎士様の鎮座する一画を除いて、照明は落とされていた。眠れないのならばホットミルクでも、と思い立って来てみれば、まったく世話の焼ける事だ。
「アーサー、起きて。アーサー。」
力の抜けた肩を叩き、揺さぶってやろうと手を伸ばす。指先が骨の固さに触れたと同時に、つなぎの擦れる音を聞き取った。隙の無い動作で持ち上げられた腕が私の手を捕らえる。――起きたか、と。直ぐにはただせなかった。
アーサー・ボイルと言う少年は表情に感情が乗っかる方ではない。微睡みから浮上したばかりのうつらうつらとした状態であれば尚の事で、目蓋の半分下ろされた瞳のうつろさと言ったらない。
「どこか――」
常は何をも見透す青のまなこは霞の掛かって不鮮明で、何どきも威風堂々としている声は寝息に掠れてか細い。
「どこか、行くのか。」
それなのに、この手を掴む力だけはやけに確りとしていた。
嗚呼、彼は何時と現在の境界に立っているのだろう。暗がりを寄せ付けぬ蛍光灯のもとで、きっと、さみしいところに置き去りにされている。そればかりはわかるのだけれど。
「アーサー。」と、もう一度、名前を呼ぶ。「起きて。」と、今一度、呼び掛ける。力いっぱいに手を握り返して、彼岸から彼を取り戻す。
「どこにも行かないよ。」
ぱちり、ぱちり。まばたきを繰り返す毎に澄みゆく青色の瞳は、覗き込んでいると直ぐさまに明瞭な意識を宿して輝きを放ち出した。
「一体、何の話だ。」
「私の方が聞きたいよ。」
「意味がわからん。」
「じゃあ、その話は一旦横に置いておいて。ひと先ず、ホットミルクを作りに厨房に行こう。思い返せば私の目的はそれだった。」
「今、どこにも行かない、って言ったばかりだろ。」
「だから、一緒に行こう。」
表情は薄く瞳も凪いでいるのに、確かにほっとしているように見えたのは、強張っていた彼の手が弛んだからだ。掌中から抜け出した後で、改めて手を差し出す。アーサーは、す、と立ち上がるなり剣の鞘でも握るかのようにつかまえて来た。
「良いだろう。護衛は騎士の役目だからな。」
余り騎士らしくない手の取り方だけれど。
幼さすら感じられる仕草に思わず苦笑がこぼれる。肩に引っ掛けたブランケットのマントを靡かせて、ずんずんと厨房に向けて行進を開始するアーサーの足取りに、痛いばかりの夜は蹴散らされてゆくかのようであった。
(禪院直哉)+禪院甚爾
20210717(土)02:57▼ドブ色吐息
(※夢主の性格がよろしくないです。)
涙なんぞでその胸をひと刺し出来たならば、一体どれだけ可愛げのあるおひとであったろうか。
はだけた襟もとを正しながら想うのは、いつもあのひとの事だ。ひたと真っ直ぐに差し向けられる眼差しに籠った、妬み嫉み、憎しみに嫌悪。思い出すだに恍惚と、身震いがする。
「例に漏れず、やっぱりオマエもここの人間だな。」
一刻前に肌を重ねていた男が言う。今更浮かび上がって来る感情も特段ありはしないのか、火を熱いと、水を冷たいと、そのものをただ形容しているような平らかな口調であった。
「良いのは見た目とカラダくらいのもんだ。」
「私は女なのだから、それで充分でしょう。」
「本命には相手にして貰えないのにか。」
身支度を整えていた手を止めて、障子戸から離れたところで胡座をかいている男へと首をめぐらす。そうして影になっている場所で大人しくしていられると、暗がりに繋がれた鬼のようで不気味でならない。
「だから、こうして、貴男と仲良くしているのでしょう。」
床にぽつりと落ちている吾妻型でも見るかのように無機質な視線だけが寄越された。其所には憐憫も無ければ嘲弄も無い、関心が無い。私がこの男に遣る一切と同じく、無色なものだ。じいと見詰められても居心地の悪さを感じられないのは、噛み合ってしまっているからなのか。
「最悪。」
「正当な自己評価だな。」
薄らと嘲ると、男はそれからむっつりとだんまりを決め込んだ。もとより睦ごとを交わす間柄ではないのだから、気に留める謂れはなく、無駄口にかまけていられるだけの時間は私には存在し得ない。これから、あのひと、の世話にゆくのだから。
うなじが露になるよう、ほつれた髪を結い上げ直す。いとしの切れ長のまなこにこの獰猛な噛み痕を見せ付けてやる為に、だ。
虎杖悠仁
20210716(金)19:53▼たすけにきたよ
制服が真っ黒で良かった。染みる血の色を無かった事にしてくれるから。これが白色であったならば、背に庇った少女は忽ちにごめんなさいと繰り返し唱えるだろうし、小さな膝からは力が抜けてその場に頽れてしまっただろう。頼れるもののない絶望に頻りに涙を落としただろう。――それは、嫌だな。
想像に気を滅入らせた隙をつき、呪霊がもう一撃を突き立てようとする。今一度少女に迫る血塗れの尖端を、血液が染み込んで重たい袖を翻して咄嗟に握り込んだ。肉の削げた腕が警告や悲鳴と言ったものを大声で上げている。黙殺する。動かせるのだから動くだろうと呪霊を力ずくで引き寄せる。力負けて蹈鞴を踏み、自ら飛び込んで来る本体のど真ん中に固めた拳を叩き込む。呪霊は勢い良く素ッ飛んで行き、コンクリートの壁に激突。見事な大穴が空いたろう事は、立ち上る土煙に隠されていようともビル全体を揺るがす轟音から明らかであった。
呪霊の着地点へと弛まずに意識を差し向けながら、背中を顧みる。薄暗がりに浮かぶ少女の顔は血の気どころか生気すら感じられぬ蒼白で、世界の終わりを目の当たりにしているかのよう。ぱたり。繊維から飽和した血液のひとしずくは、きっと悲嘆の呼び水となる。彼女の目に触れない内に靴の裏で覆ってしまう。――こんなんじゃ何言っても格好付かねぇよな。苦く苦く笑い掛け、それから、歪な笑みを張り付けた片頬をピシャリと張った。禍々しい魂を造作もなく手玉に取って見せた、師の笑みを真似てみる。
「大丈夫。絶対助けるから。」
伏黒恵
20210109(土)04:24▼イエロゥ・メロゥ
(『ミカンをむいてあげる誰かとそれを食べるだけの誰か』とのお題を頂きました。有り難う御座います。)
食堂の一画に設置しておいた罠に引っ掛かったのは、なんと、伏黒恵くんであった。フハハ、掛かったな! 悪役じみた高笑いと共に物影から躍り掛かった私に、彼がして見せたリアクションと言えば、怪訝そうに眉を顰めてまじまじと見詰めて来るだけ。塩味も薄い対応だった。
「もっと、こう、驚いて腰を抜かすとかさあ。」
「いや、机の下に隠れてるの見えてたんで。」
「それでもオーバーリアクションは大事だよ。ボケ殺しの儘ではトップ芸人への道程は厳しいものになるぞ、メグメグ。」
「最初っから目指してません。」
何だ、メグメグって。力無くぼやきながら、恵くんは開けた儘にしていた段ボール箱の中身を再度検めた。
「これ、先輩が買って来たんですか。」
「そう。冬と言えば矢っ張りお蜜柑でしょう。いっぱい食べさせてね。」
「じゃあ、遠慮無く貰って行きます。ありがとうございま――は?」
蜜柑を二、三個手に取った格好で、恵くんは動きを止めた。油の差されていない絡繰仕掛けみたいに、ぎいしぎいしとぎこちなく首を持ち上げる。その目の前で椅子を引いて、私は腰掛けた。にんまりと笑ってしまうのをとめられない。だから言ったのだ、罠だと。
「三キロも早々には食べ切れないからね。勿論、持って行ってくれて良いよ。その代わりに、対価としてお蜜柑剥いて行ってね。」
彼の手の中の蜜柑を指さし、段ボール箱の中の蜜柑を指さし。言葉を告げる毎に、恵くんの強張っていた面立ちに渋い色が滲んでゆく。表情のみならず声音も苦々しいのだから、これはもう何所に出しても恥じる事のない立派な渋面と言えるだろう。
「自分で剥けば良いでしょう。」
「嫌だよ。指が黄色くなっちゃう。」
胡乱げに目蓋が半分降ろされた黒瞳の、じとりとした視線を片手で撥ねて、蜜柑箱を挟んだ向かい側の席を手の平で指し示す。ほらほら、さあさあ、早く早く。恵くんは暫し黙して突っ立っていたが、掴み取った蜜柑を一度見下ろすと、大人しく私の対面の椅子に座った。
「先輩、偶に五条先生みたいなワガママ言いますよね。」
意趣返しの心算か、そんな酷い文句を口にしながら。どれ程可愛く思っている年下の少年の言葉でも、それだけは聞き捨てならない。幾ら何でもあすこ迄傍若無人になった覚えはない。徹底抗戦の構えを取った口は、しかし、「手、出してください。」と言う一言で敢えなく噤まされてしまった。橙の外果皮を素早く剥いた手が、ぽてり、と。差し出した私の手の平に、本当に皮を剥いただけの蜜柑の果実を載せて来たのだ。その儘って。
「ロマンチックじゃあなーい!」
「蜜柑に何求めてるんですか。」
「折角だから恵くんに求めているの。」
「俺に何求めてるんですか。」
「「あーん♡」なんて甘酸っぱいイベント。」
「蜜柑でも食べてれば充分でしょう。」
「せめて白い筋を取ってよ。」
「ここに栄養があるんですよ。っつーか、嫌じゃあないんですか。他人がべたべた触った食べ物。」
「まあ、相手が恵くんだしねえ。君の衛生観念を疑ってはいないし、何より、それだけ気を許しているって事だよ。」
そうですか。そう締め括ると、恵くんは先程自らが選んで持って行こうとした蜜柑に手を伸ばして、皮を剥き始めた。気遣われていたのだと知って、私もこれ以上は詰め寄る事をせずに、掌中の蜜柑からごわごわとした白い筋を取り除いてゆく。次から渡される蜜柑には、ごわつきが少し減っていた。